上の娘が高校3年のある日
「 おとん モーツァルトのレクイエム持っとる? 」 と聞いてきた
持ってなかったので
「 持っとらんぞ 」 と言った
「 そんならええわ・・・・ 」 と部屋に帰っていった
2・3日たって
テレビでレクイエムをやっていたので
娘をよんで一緒に見ていた
そのとき
小林秀雄氏のモオツァルトの話をした
「 ふーん 」 と興味なさそうに聞いていたので
娘にはまだ難しいかなと思っていた
しばらくたってから また唐突に
「 おとん 小林秀雄のモオツァルト持っとる? 」 と聞いてきた
持っていなかったので
「 ないよ 」 と言った
今度は
「 ふーん 」 と言って 少し残念そうに帰っていった
そのとき
むかし持っていた文庫本の 「 モオツァルト 」 のことを思い出した
どういう訳か表紙が破れてしまい
ぼろぼろになった本を5年くらい
持ち歩いて読んでいた
裏表紙に W・A・Mozart と大きく鉛筆で書いたのを覚えている
中学校の3年だったと思うが
国語の教科書に小林秀雄氏の 「 無常という事 」 が書かれていた
最初に読んだとき
こんな難しい文章もあるんだ
と思ったが
その文章の深さにおどろいた
言うまでもないが
小林秀雄氏の文章はむつかしい
すべて やまとことば 書かれていて
ひとつひとつの言葉に明確な深い意味がある
これをすっとばして読もうものなら
文章全体がわからなくなり
読み終わったとき
何を書いていたのか解らなくなる
僕は
その深い言葉がつづられた文章に惹きつけられ
一行一行をじっくりと解るまで何度も読んでいくという
とんでもない読書の虜になってしまった
娘と本屋に行ったときに
「 モオツァルト 」 を買って娘に渡した
「 ありがとう 」 と言ったが
あまり うれしそうではなかった
「 もういらないのかな?」 と思った
それからしばらくベットの上に
その本が置いてあった
見るごとに 本の位置が変わっていたから
きっと 読んでいるのだろう
その後
娘は何も変わらないように見えるが
たまに娘から沈黙というものを感じる
表現しようとしているものを飲みこみ
自分の中でその言葉を醸造しているように思える
こんなふうに思うのは
親の欲目だろうか・・・・
美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが
この事を徹底して考えている人は 意外に少ないものである
「モオツァルト」 小林秀雄 より
2006.9.10 記
Lacrimosa Requiem k.626