唐茄子はカボチャ

映画と音楽と・・・

フランケンシュタイン

2010年08月24日 | 映画 は行
フランケンシュタイン Hi-Bit Edition [DVD]

ポニーキャニオン

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最初にどうでもいい話から。
演技や演出がが激しい!ものすごい勢いでバンバンみせる感じは何でしょうか。ちょっと激しすぎるきも。もしかしたら、舞台的な演出なのかもしれません。
でも、その雰囲気が映画全体を包んでいるんだから、どうでもいいということではないですね。
激しいテンポのおかげで、2時間を一気に見せてくれるのかもしれません。自分自身はあれが西洋的会話なのかと、ちょっと戸惑ってしまいましたが・・・

怪物の誕生シーンも、はい、はい、はい、はい、はい!って感じで一気に作業工程を見せてくれます。ふつうなら、じわじわと、ほら・・・ほら・・・怪物が誕生しますよ・・・という感じで、盛り上げていくと思うのですが、そうしていません。怪物の話ではなくて、あくまで人間の話であるというこだわりのあらわれなのかもしれません。

本題に入ります。

この話は、まず、(何が「まず」なのかわからないけれど)子育ての話だと思いました。
怪物が「感情もあるが、その扱い方を知らない」といっていました。
フランケンシュタインは、命を誕生させながら、その行為自体が恐ろしくなって、そのあたらしく生まれた命を放棄してしまうのです。
先のことを考えず、できちゃったからと子どもをひっておきながら、責任が取れず、放置してしまう・・現代社会でいろんな事件がありますが、それと重なってきます。
よく、夜中のラーメン屋や飲み屋で、子どもずれの家族がいたりしますが、それも、ほんと、恐ろしく感じます。自分の時間のほうが子どもの時間よりも大事という感覚が理解できません。

そして、当然、命の問題。命をどう扱うかの問題もあります。
医療の発展は、死そのものを遠ざけています。脳死の状態でも、本人の意思とは関係なく、延命させることができます。それは、同時に、人の死を、受け入れがたくするということにもなるのではないかと思うのです。
この前の映画「禅」では、身内の死を受け入れることを諭すシーンがありますが、人間の生への欲望から、さまざまな延命させる技術を生み、その結果、死を受け入れがたくさせるということにつながっているのではないかと。天皇の最後は、体はもう、死にたがっている野に、無理やりロボットのように命を永らえさせたけれども、あんな無様な死はないでしょうね。死ぬことさえ、自分の自由にならなかった。天皇に対して、ろくな感情はもっていないけれども、そこのところに関しては、かわいそうな人と思いました。

死人を生き返らせるということは、その人にとって幸福かどうか。自分の命でさえ他人の意向で決められてしまうというのは、とても不幸なことだと思います。
理不尽に殺されるのと同じぐらい、理不尽に生かされることも不幸な気がしました。
フランケンシュタインが死んだ自分の妻をよみがえらせてしまいます。そのことを感じ取ったときの奥さんの表情がなんともいえなかったですね。愛が深ければ深いほど、その行為は、その愛を傷つけることになるような気がしました。
そして、彼女は自ら命を絶ちます。

それと、差別の問題。
これは、このての映画にありがちなテーマではありますが、フランケンシュタインは、そのさきがけなのかもしれませんね。
怪物というレッテルは、まず、その見た目で判断されます。
心の中がどうであろうと、その判断が、排除につながっていく。肌の色や目の色で俺の何がわかるのかという歌がありましたが、まさにそれも重要なテーマですね。
そこで不思議だったのが、最後の船長さんが、その怪物に対して、とても同情的だったところでです。まあ、あんな話を聞かされれば、誰でもそうなるかもしれないけれど、船に乗せようとするところは、あるいみ、自分が一番「えっ!?」と思ったところだし、変な感動がありました。その些細なところがすごく気になったところでした。

そんなこんなで、とてもいろいろ考えさえられる映画だったと思います。