Que ma vie est belle!

私とは、美しいもの、美味しいもの、楽しいものの集合体。

ジュリア・フィッシャー、バッハ無伴奏ソナタ@ウィグモアホール、ロンドン

2010-02-14 00:30:00 | コンサート

ジュリア・フィッシャーによるバッハ無伴奏ソナタとパルティータ全曲演奏会、第一夜はソナタ3曲。

本当に才能のある人なのだろう。丁寧に、乱れることなく、淡々と演奏してゆく。左手の動きは決して滑らかに見えないのだが(前日に見たウィーンフィルのコンマスの左指の優雅さとはちょっと対照的な気すらした)、音程のコントロールは完璧。和音の響きも美しい。弓による表情(音色の変え方)も豊かだ。

バッハの無伴奏ソナタ、ロマン派やそれ以降の曲のようにハイポジションや超絶技巧の嵐とは違うが、それだけに本当のヴァイオリンの音の美しさを味わうことができる。フィッシャーのE線の第3ポジションあたりの音は伸びやかで素晴らしく美しい。弦向きといわれるウィグモアホールでその美しさが更に際立つ。

Wikiによればフィッシャーが今使っている楽器はガダニーニ、とのこと。日曜日のパルティータの演奏会が終わったら、今回何を使ったのか尋ねてみようと思うが、確かに、ストラドの端正さとガルネリの煌びやかさの両方をバランスよく備えているように聴こえた。この出過ぎない感じが、バッハ向きなのかもしれない。

前半(ソナタ第1番、第2番)が終わったところで休憩。常連の会話がちょっと耳に入ったが、やはり皆昨年のギル・シャハムの演奏と比べている。確かにその気持ちわかる。そのくらい出来が良い、といってよいと思われた。

ただ、ソナタの2番になって、少し疲れが出てきたのか、弓が他の弦を擦ったり、多少弓のコントロールに欠けてきたように思われた。1曲ごとに短めの休憩、というのは難しいのだろうか?さらにソナタの3番のフーガは66小節目からのパートに入った後ちょっと迷宮に寄り道したように思われるが・・・私の聴き違いだろうか。

バッハの無伴奏ソナタ3曲の後だというのに、アンコール。なんと

「シャコンヌ」

とのたまう。ただ発音が「Ciaccona」で皆一瞬「?」

「冗談」

といわれて、理解。ちょっと笑いが漏れる。

すごい、こういうところで冗談が言える26歳(!!)。恐ろしい。


マゼール指揮、ウィーンフィル@フィルハーモニア、ベルリン

2010-02-12 23:00:00 | コンサート

ついに、待ちに待った日がやってきた。ベルリンのフィルハーモニアで、ウィーンフィルを聴くのだ!フィルハーモニアに行くたびに、ここのホールが良いのかベルリンフィルが良いのか悩んできた。ここでウィーンフィルを聴けば、比較ができる、と思っていた。

ベートーベンの交響曲第6番、ドビュッシーの海、ラヴェルのダフニスとクロエ第2組曲。

ベートーベン-弦の美しい響きに思わず震えて、涙が出そうになった。フィルハーモニアホールはとりわけ残響が美しいのだけれど、ウィーンフィルは、残響を待たずとも、とにかく弦の音が美しい、と私は思う。木管も上手いが-ザルツブルクでのフルート、今日のクラリネットとフルート-、私に一番響くのはウィーンフィルの弦の音だ。

もし世界の街々が、その街のオーケストラが奏でる音と同じ美しさを持っているとしたら、私にとっては、間違いなくウィーンが一番美しい。この音を毎日聴くことができるだけで、人生は美しいのではないか?この音が日常にある生活とは、一体どんな生活なのだろう?この音と共にない人生を、どうして選択できる?ウィーンで私を雇ってくれる会社はないか?ドイツ語はできないけれど。。。?

そういえば朝日新聞のインターネット版でウィーン少年合唱団が入団希望者激減、レベル低下の危機に瀕している、という記事を読んだばかりだった。なんだか信じられない。こんな美しい音楽がある街で、音楽以外何をするというのだ(相変わらず暴論)?ウィーンフィルはどうなのだろう?

ベートーベンの毒気に当てられて、それ以降は少々集中力が落ちてしまった。ダフニスは、最後の「全員の踊り」に入る、ちょうどそのテンポが変わるところで、誰かが何かを落して、その音が、見事に音楽を断絶してしまった。客席だったのか(コーラス席が客席として開放されていた)、パーカッションあるいは金管なのかは不明だが-とにかく残念であった。ただ、最後はものすごい音量で皆圧倒されて終わった。

アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第1番。これも弦の美しさがたまらない。このテヌートをかけたような演奏がウィーンフィル独特なのだろうか。まさに琴線に触れる音、演奏である。高いお金をかけて、ロンドンからわざわざ来たのは決して無駄ではなかった。今度は是非ウィーンで聴きたいものである(あー、危険度さらに上昇)。


インバル指揮、マーラー交響曲第2番@ロイヤルフェスティバルホール、ロンドン

2010-02-12 00:30:00 | コンサート

インバル指揮、フィルハーモニア・オーケストラでマーラー交響曲第2番を聴いた。インバルと言えばマーラー、という刷り込みがあったので、行ってみた。

昨年最後の演奏会が、バービカンでのヤンソンス指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウでのマラ2であったので、ついつい比較してしまう。

まずは会場(って、二人の比較ではないが)。ロイヤルフェスティバルホールは、コーラス席がきちんとあること、備え付けのパイプオルガンがあることから、マラ2をやる場所としては、こちらが正解、と思われる。広さのためか、今回の方がコーラスの人数も多く、最後の盛り上がりが良かった。が、一方、歌手の位置がコーラス最前列中央、というのはどうなのだろう。歌手にはオケの深さの分音量的に辛いのではないかと思われた。

演奏は、勿論、ウィーンフィルやベルリンフィルを抑えて世界一との呼び声もあるロイヤル・コンセルトヘボウと比較するのは少々気の毒かもしれないが、それでも、なかなか健闘していて、全体的には悪くないように思えた。若々しい、「復活」の感じは良く出ていたと思う。

前回と同様、第1楽章と第2楽章の間で遅れてきた客を入れるが、5分はとらなかった(歌手が既に入っていたからか)。また、第2楽章のヴァイオリンピチカートは、通常の構えのまま(マンドリン構えをせず)ずっとピチカート。結構辛そう?楽章最後のハープの分散和音は、前回ほどには天に昇らず残念。

今日の演奏会でのお気に入りは、女性のトロンボーン奏者。とても美しい音で、またテクニックも十分。女性のトロンボーン奏者って、ちょっと格好いい!

歌手はメゾソプラノの声質が気に入った。もともと、メゾの声が好きなのかもしれないが。ピアノであれだけ会場全体に響くのに、フォルテになっても比例して声が通らないのは不思議でちょっと残念だったが。ソプラノは、ちょっとコーラスに埋もれてしまった印象があった。

インバルの指揮はとても打点がわかりやすく、演奏しやすそう(素人的には?)。まあ、外様の指揮者の場合は、前回のヤンソンス&コンセルトヘボウのような「阿吽の呼吸」を要求することは難しいだろう。

インバルおじいちゃん、演奏の後はにこにこして演奏者をたたえていた。こういう風に幸せに歳をとりたいものである。


裸の王様@ロンドン

2010-02-08 17:00:00 | 生活

悲しい日曜日だった。友人に

「I will never see you again, Adieu.」

と言わねばならなかったのだから。

「Is it forgivable?」と尋ねる友人に、

「No」

としか答えられなかった。

胸が苦しい、という喩えがあるが、本当に苦しいのだ。

そんなときに救ってくれたのは、周囲の暖かい言葉。

「いつでも応援してるからね」とか

「You did a right thing. Do not take any decision based on this」というアドヴァイス。

別の友人に「votre ange a perdu ses ailes」とmailを送ったら

「Bel Ange, Ne vous inquietez pas je vous volerai de nouvelles ailes toutes blanches」

これは-特にtoutes blanchesという言葉に-ちょっと泣けた。窓の外は雪-少しずつ胸の痛みが薄れてゆく気がする。

翌朝目覚めると、体が軽い。まるで本当に真新しくて真っ白の大きな翼が背中についたようだ。

あら、私の背中についているこの立派な新しい翼、みんな見えていないのかしら?-殆ど裸の王様だ。

でも、背中に翼があると思うと、思わず背筋が伸びるし、意外と悪くないぞ、裸の王様。


ニューヨークフィルハーモニー@バービカン、ロンドン

2010-02-04 00:30:00 | コンサート

アラン・ギルバートの指揮でニューヨークフィルを聴いた。演目はリンドバーグのEXPO、プロコフィエフのピアノ協奏曲第二番、シベリウスの交響曲第二番。

流石ニューヨークというかアメリカというか、金管の音は素晴らしいと思った。一方で弦に限界があるのだろうか。弦と金管とのバランス、という意味では如何なものか、と思う部分も多かった。

オケ-これだけ人数が居るとどうしても手抜きをして弾く人が出るのだろうか(勿論、弦)。本当にこれは目立つのだ。自分も気をつけなくては-私の場合は手抜きではなく、弾けていないだけだが。それでも、昨日のリハーサルで指揮者から「弓全体を使うように」「もっとソステヌートをかけて」などと言われたところは自分だけ守らないととても目立つ、ということが判った。他人の振り見て我が振り直せ、である。

プロコはブロンフマンのピアノ。どうやったらこれだけの音符の数を間違えなく覚えられるのか、不思議になる。この方もまるで風船のような体型なのだが、指だけはとても美しい。このホールの特性か、高音はとても美しかったが、低音に金属的な濁りが感じられた。尤もこれはピアノだけではなく金管も同じだったのでホールの特性なのだろう。

シベリウスは、最初から正直がっかりモード。最初の弦はもうちょっと「引っ張って」欲しいのに。また、第四楽章の有名な美しいテーマも、なんとなく物足りない。これがニューヨーク的な「クール」な演奏なのだろうか。シベリウスをクールに演奏してどうする?自分の中のシベリウスと相容れなかったからか、なぜ彼らがこの曲を選曲したのか、とても不思議に思えた。「私ならこう弾きたい!」の多い奇妙な演奏会であった。