アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

張先生

2024-10-14 03:38:48 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ある草で鉄を煮ると銀に変わる

 

張先生は、貴池の人である。幼少の時に一人の異人に逢って仙術を授けられ、斉の国の山中に草廬を構えてそこに住んでいた。

 

彼は平生極めて無口な男で、終日ただ室の中に端座して神を煉ることに努めていたが、頭髪は黒く光沢があって漆のごとく、肌理は艶々していて玉を並べたようであった。

そうして宋の政治年間に屍解仙化してしまった。

 

めん陽というところに蕭行美という者がいて、90歳になったが孜々として道教修行をやめず継続していた。

ある日対融山に遊んで一人の老人に逢った。その時件の老人は自ら張先生と名乗り、傍らの路側に生えていた草を指して、「もしこの草を持ち帰って、これで鉄を煮るならば、化して銀にすることができる」と告げ、最後に「ただこの事を決して他人に悟られないように注意せよ。」と戒めた。

そこで彼は教えられたとおり、件の草を持ち帰って自分の庭に植え、その葉を刈り取って鉄を煮ると果たして、すべて銀に変化してしまった。

 

ところがこのことは、誰言うとなく広く世間に広まってしまった。しばらくすると、ある晩にわかに風雨が起こって、いつの間にか庭に植えておいた件の草をいずこへか押し流してしまった。

そこで彼は、再びかの対融山に登って件の草を捜し求めたけれど、どうしたわけかそこにはかほど多かった草が今は一本も見当たらず、空しく山を下りてきたそうだ。

 

張先生は、一日のほとんどを坐っていたのだろうから、すでに相当の境涯の人。生涯求道に熱心だった蕭行美は、晩年に大量の銀を与えられたのだろうが、神様のお気に召さない使い方をしたのだろうか、鉄を銀に変ずる草のことはそれとなく漏れたのだろう。

 

蕭行美は、悟境を試されたのだろうが、金銀への執着を残しており、すべてを捨てる準備はできていなかった。銀のために一生を冥想修行に打ち込んできたわけでもあるまいに。

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ダライ・ラマの託宣僧ネーチュン―3

2024-10-11 03:53:25 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ネーチュンという未来予知システムの功罪と限界

 

『やがて彼は助手に助けられ、わたしの前に設けられた小さなスツールに坐り、トランス状態に入ってゆく。一回目の祈りが終り、二回目が始まるにつれ彼の恍惚は深まる。この時点で巨大な冠が乗せられる。冠の重さは約一四キロだが、かつては三六キロ以上もあったのだ。

 

さて、“クテン"の顔が変ってくる。荒々しい顔付きになり、やがて目が飛び出し頬が膨らみ、ぷーっ、ぷーっと荒い息を吐きはじめるとまったく違った形相を帯びてくる。息が短くなり、しゅっ、しゅっと激しい音を発しだす。と、一瞬彼の呼吸が止まる。この時点でもし本当に真実何かが起こらなければそのまま窒息してしまうにちがいないと思われるほど、冠が物凄くきつく締め直される。憑依は今まさに完成し、彼の肉体的限界が明らかに乗り超えられてゆくのがわかる。

 

彼は突如〝跳ね上がり、助手が差し出す儀式用佩刀をがっしりと握り、ゆっくりと威厳をもって、だがどこか威嚇的足取りで踊りはじめる。そしてわたしの前に来、全身伏拝し、巨大な冠が床に着くまで深々とお辞儀したかと思うや、一四キロを越す冠、三〇キロ以上の全装身具の重量もものかは、ぱっと飛び退る。あたかも体がゴムでできており、強力なぜんまいバネで動いているかのような柔らかで軽々とした動作をする。”クテン“の、あのひ弱な体内のどこにこんな爆発的神霊エネルギーが潜んでいるのだろうか。

 

それからネチュンとわたしの交感が始まり、ネチュンは儀礼的供物をわたしに捧げる。ついでわたしの質問があり、彼が答え、それが終るとスツールに戻り、閣僚たちの質問に耳を傾ける。それに答える前、彼は剣を頭上に振りかざし、ふたたび踊りはじめる。その姿は堂々とし、古の恐るべきティベット武将を彷彿させる。

ドルジェ・ダクデンが語り終えるやいなやクテンは最後の供物を捧げ、みるみる崩れ落ち硬直した生命なき姿を象り、憑依の去ったことを告げる。と同時に助手が大急ぎで駆け寄り、固く結びつけられている冠のひもを解き、儀式が続行しているかたわら、彼を蘇生させるため別室に運び去る。

 

そういうと驚くだろうが、お告げ師の答えが曖昧なことはめったにない。ラサ脱出の場合でもそうだが、彼は非常に明快であった。』

(ダライ・ラマ自伝/ダライ・ラマ/文芸春秋p262-263から引用)

 

この段は、トランスに入ると重い装束・冠をつけていても踊れるということに眼目があるわけではない。

 

天下国家について神託を受ける場合は、よりましの身魂が極めて清浄であることを要する。出口王仁三郎に言わせれば、ほとんど神様のような水晶身魂のような霊魂を有する人に大神(主神)が憑依してきて、天下国家の一大事を警告するものであるという。

※『大神の憑依さるる場合は天下国家の一大事を人界に警告さるる場合に、有徳の人、殆んど神様のやうな水晶の如うな霊魂を有する神人に依りて、神憑の手続を採らるるのである。』(大本史料集成2第1部明治・大正期の運動-第1章 出口王仁三郎関係文書 随筆『神霊界』大正8年8月1日号掲載から引用)

 

チベットへの中国侵攻とチベット密教の伽藍、信者、信仰の破壊は、ネーチュンに予告されていたが、結局避けることはできなかった。

平和、平和と言っているうちに亡国となったチベット。日本は他山の石とすべきだが、国家全体が弛緩しきっているといわれても仕方のないところがある。

日本は、まともなネガティブ予言は秘してあまり広めないところがある。なぜなら、当たるネガティブ予言が公表されれば、国民はやる気を失ったり、パニックになったり、一儲けしようと思ったり、外国に逃げようと思ったり、あまりためにならない結果が見えているからである。

 

また気がついてからは遅いということもある。

 

チベットはネーチュンという立派な未来予知システムを持っていたが、結局チベット高原を追われることになったという現実は重い。

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ダライ・ラマの託宣僧ネーチュン―2

2024-10-10 03:50:25 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ネーチュンは非常に控えめで峻厳

 

ネーチュンの予言の実際。

 

ダライ・ラマとネーチュンは、親密であった。

『こうした親愛さはあっても、ネチュンはわたしに対する敬意をつねに示していた。摂政時代の最後の数年間のように、政府との関係が悪くなったときでも、彼はわたしに関する質問にはどんなときでも心から反応してくれた。だが政府の政策に対する彼の反応は無残なものであった。ときには辛辣な高笑いだけのこともあった。わたしが十四歳のとき起こった出来事をよく覚えている。中国のことについてネチュンが問われたときのことだ。直接答える代りに、“クテン(霊媒)"は東方を向き、激しく前に体を曲げはじめた。見ていて恐ろしいほどだった。というのは彼の被っている巨大な冠の重さで首の骨が折れるおそれがあったからである。彼はその動作を少なくとも十五回は繰り返し、危険がどの方向に迫っているか疑う余地もなく人びとに告げ知らせたのである。

 

ネチュンを扱うのは決して容易いことではない。彼が口を開くまでいつも時間と忍耐を要した。非常に控えめで峻厳であり、まるで古の大長老を思わせた。彼は些細なことは無視し、関心はもっぱら大きな問題に向けられた。だから質問もそれに合わせて考える必要がある。彼はまた好き嫌いがはっきりしており、しかもおいそれとは表に出さないのである。

ネチュンは自分の寺をダラムサラにもっているが、ふだんは自分から出向いてくる。公式の場では凝った七重の衣をまとい、いちばん上は、赤、青、緑、黄色の古代模様で飾られた、豪華絢爛な金の錦織のローブで着飾る。胸にはトルコ石とアメジストの束で囲まれた大きな鉄の円鏡を下げ、ドルジェ・ダクデンを表わすサンスクリット・マントラ文字が、磨き上げられた鉄鏡にきらきら輝いている。儀式が始まる前に彼は四本の幢幟(のぼり)と三本の勝利の幟を支える一種の背負い皮のようなものを身につける。すべての装身具の重さは総計三二キロを越え、トランス状態にないときはほとんど歩けないほどだ。』

(ダライ・ラマ自伝/ダライ・ラマ/文芸春秋p260-261から引用)

 

この引用文では言及がないが、ネーチュンは、観想法を多用しトランスに入るようである。

 

浄土真宗東本願寺の “ヘッドバンキング“坂東曲(ばんどうぶし)は、トランス誘発を想定したものである。ただし総重量30キロに及ぶかぶりものなどはつけない。

 

またトランスに入りさえすれば、首の骨折などの怪我がないなどとは言えない。

 

スーフィの円舞もトランス誘発を想定。

 

トランスと言っても低級霊憑依、高級神霊憑依などいろいろなバリエーションがあって、究極に入るかどうかは、このトランスでは問題になっておらず、ただ歴代ダライ・ラマの個人的守護者であるドルジェ・ダクデンが登場してくるかどうかだけが問題である。

 

そして大きな鉄の円鏡。これは、タロットでも自分が鏡になることを要求されるホドロフスキーの心得と同じ。自分が鏡になって、未来をありありと写し出して見せるのだ。

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ドルネウスの脱身の次第-2

2024-09-24 03:21:14 | 浅い霊感から神人合一まで

◎霊魂と肉体の人為的分離

 

ドルネウスの続き。

『正しく理解されねばならないが故に、今、分離から始めよう。弁えておられるように、人はある期間にのみ生き、その後、おのずと、霊、魂、肉体へと分解する。肉体は、死に際し、分解し、腐敗する。そうして、肉体の自然の火、肉体の温もりはやみ、肉体の根本湿気の流れはやむ。

 

そのとき、霊と魂は肉体を去り、肉体は大地に埋められる。そこで、腐敗過程を経て、基本要素へと風化し、要素それぞれは、四大へと帰還する。すなわち、大地は肉体の大地的部分を呑みこみ、水は液状部分を呑みこむ、というように。しかしながら、霊と魂はその源泉へと戻るが、永遠にその肉体から分離されたままであるべきではないがゆえに、後には、神の巧妙な計画により、以後は分離されることなきように、よりよき構成で肉体と再結合される。

 

結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となるという事実にある。』

(M‐L.フォン・フランツ/人文書院p166-167から引用)

 

キリスト教では、死後肉体が以前のように復活(栄光の体(glorified body))すると信じられている。

 

ところが人間が大悟覚醒(神人合一)する場合、元の肉体に戻れるのは、クンダリーニ・ヨーガや只管打坐であって、その場合の肉体への帰還はできるが、確率はさほど高いものではない。

またインドでは、大悟覚醒(神人合一)後の肉体への帰還はそもそも想定しておらず、人間のゴールは大悟覚醒(神人合一)と考えている。

只管打坐では、道元は身心脱落して生還したので、肉体への帰還はできるのだろう。

引用文の『霊と魂はその源泉へと戻る』とは、チベット密教でいう原初の光(母の光明)であって、神に一旦は帰っている。

引用文の『結合の最高の価値は、諸部分すべてが分かち難く融合して、一となる』は、神人合一して後、そのまま肉体に生還してくるケースを言っているのだろう。

前段でドルネウスは、肉体と霊魂の分離には三種類あるとし、自然の分離は死であって、自発的分離は霊と生命の息を用い肉体に生還可能、人為的分離は火を用い肉体が破壊されるから肉体への生還不可能。

 

以下は、思いつきだが、後世の人はよく調べていただきたいと思う。

これからすると、

自発的分離は霊と生命の息を用い肉体に生還可能。よって、自発的分離とは第一義的にはクンダリーニ・ヨーガか只管打坐(禅)。

人為的分離は火を用いるのでクンダリーニ・ヨーガ系だが、肉体に帰還不可ということなので、肉体の外に何か霊魂の宿る場所を作っているのだろうと思う。これは、チベット密教でいう虹の身体か道教でいう出神のようなものではないかと思う。虹の身体は、境涯が逆戻りすることなく修行できるというようなニュアンスの説明を読んだことがあり、いわば壊れにくいカプセルのような印象を受けた。

 

西洋錬金術書太陽の輝き(splendor solis)には、フラスコ入りの寓意図が何枚かあって、最後は若い王でフラスコ図は終わっている。王だがまだ修行は残っているということか。

フラスコが、“壊れにくいカプセル”の可能性があって、西洋錬金術では、フラスコという体外ボディでの冥想修行もありだと見ているのかもしれない。

また古事記に無目堅間の神船の記載があるが、龍宮に至る道をこの船で渡ったものだが、ひょっとすると無目堅間の神船も身体外の修行用ボディの可能性がある。

 

これらは、仮説だが人間が神に至る道は多数あるが、結構知られていないし、その道を通る人も少ないとは、もっともなことだと思う。

splendor solis young king

 

splendor solis peacock

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ドルネウスの脱身の次第-1

2024-09-23 03:00:40 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ニルヴァーナ突入後に肉体に生還する機序周辺

 

心理学者C.G.ユングの弟子の本は浩瀚な錬金術書の知識がほとばしり、人格統合などという言葉がなければ、土くれから黄金を作りたいのか、精神病を治療したいのかわからなくなるほどである。

そこで16世紀の錬金術ドルネウスを読んでみる。

 

『読者が、混乱してしまい、事態全体に疑いを抱きはじめないように、ここで、ある種の区別を施すように注意を促さねばならない。私が魂なきものという場合、植物界、鉱物界のことを指している。つまり、草木や石や金属等の大地世界である。しかし、それらのものにも植物や鉱物の魂が存在する。それが故に、私の話題が生命なき物体(コルプス)であるとしても、自然界のすべてのものに、霊魂(スピーリトウス)、肉体(コルプス)が備わると信じる錬金術師達に反対する意図はないと考えていただきたい。』

(ユング思想と錬金術 錬金術における能動的想像 M‐L.フォン・フランツ/人文書院P162から引用)

 

『前に、私が説明した事を理解しなければならない。つまり、理性の二様の分離(a double rational separation)が存在する。一つは、先に説明した自発的分離であり、もう一つは自然の分離である。後者は、錬金術とは関わりがない。』

(上掲書M‐L.フォン・フランツ/人文書院P163-164から引用)

※「自然の分離」:自然に存在する死のこと。

※「自発的分離」:霊と肉の自発的分離。大悟覚醒のことか。

※自発的分離では、火を用いるとあるが、火とはクンダリーニのことだろう。P157

 

『死においても、同様の事態が生じるが、これは錬金術には属さない。単なる出来事であるが故にである。しかし、知覚する魂といわゆる生命なきコルプスとの分離もまた二様である。この場合も、同様に、自然的と人為的があり、後者のみが錬金術に属するからである。自発的分離は、あらゆる部分が保存されている状態で生じる。これは、自然の分離では起こらない。死において、肉体(コルプス)は破壊される。されど、ここで、錬金術というこの方法で行っているように、私が死の経験を前もって考慮するならば、肉体は保存される。肉体は、分離され、取っておかれ、保存され、後に再び取り上げることが可能となる。しかし、同様の分離が肉体を通じて生じるならば、私は二度と肉体を取り上げることはできず、肉体は破壊される。

(中略)

自発的分離の器具は霊と生命の息である。自然に生じる分離の器具は死である。人為的分離の器 具は火である。されど、 rationalia の錬金術を、作用する感覚と、さらにいわゆる生命なきコルプスと一つとなすならば、私は異を唱えない。』

(上掲書P164から引用)

 

自発的分離は、霊と生命の息により(クンダリーニ・ヨーガの極み)、肉体への生還可能であるということか。

また人為的分離は、火によるが、肉体が破壊されるから肉体への生還不可能ということか。

人為的分離は、尸解で肉体破壊後チベット密教でいう虹の身体とか道教でいう出神という体外での微細身でもって生存し冥想修行を続けるというようなことを言っているのだろうか。

人為的分離とは、錬金術書でいうフラスコ内実験のことか。

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ジム・デコーンの見神体験

2024-09-19 03:14:17 | 浅い霊感から神人合一まで

サマディは日常意識の近くにあるが、到達、維持は難しい

 

サンフランシスコ州立大学の学生ジム・デコーンは、27歳で最初のLSDトリップで見神したようだ。

残念ながら、彼はそれ以上の体験とはいえない体験を求めて、以後20回以上のLSDトリップを行ったが、最初の体験に匹敵するものはなかった。具体的には、地獄体験、アストラル・トリップ、共時性体験、前世体験(18世紀の誕生から老年を経て死まで)、物体の念力移動、他次元の戦士の世界への旅、「おまえが責任をとるのか?」という声(ハイアーセルフの声?)などの、悟りとは言えない体験に止まった。

 

以下引用文は、最初のLSDトリップでの見神時と思われる体験の記述。

『その頃私は、東洋宗教に強い関心を持っていた。そのためか意識の上にドラッグの効果が現れると、サマディ(深瞑想)としか形容しようのない体験が始まった。サマディとは「ヨーガの修行の最終ステージ で、そこでは個性が放棄され、瞑想の対象に同化する」ことである。初めて、そして残念ながら生涯でただ一度、私は完全なる調和と統合という、言葉では表せないほどの至福を体験することを「許された」。主観と客観が一体となる――なんら問題はない。なぜなら、存在するものはすべてそれ自体が素朴な「答 え」であり、継ぎ目のない統一体の中にあるほかのすべてのものと完璧な関連性を保っているからである。善も悪もない、正も邪もない。あるのはただ、本質的で自然な極致だけだ。

 

この体験のもっとも驚くべき部分の一つとして、意識の状態が非常に単純ではっきりしているということが挙げられる。このような真理を一度体験してしまうと、人生をほかの方法で見るなどということがどうしてできようか? 神はこのようにして物事を見ているに違いない。このときのトリップではそんなふうに感じられ、天にも昇る心地を体験した。実際にはそれ以上のものなのだが、この体験は言語に絶するもので、とても言葉では言い表せない。今日に至るまで私は、そのような意識の状態が通常の意識のこれほど近くにありながら、到達や維持がこれほどむずかしいということがどうしてありえるのだろうと不思 議な気がしている。』

(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P22-23から引用)

 

サマディは、世間的にはいろいろ定義があるが、本来は見ている自分がないのをサマディ(三昧)と呼び、見ている自分があるのは定。

それにしても、『善も悪もない、正も邪もない。あるのはただ、本質的で自然な極致だけだ。』という状態は、見神かもしれないが、トレヤ・キラム・ウィルバーは(薬物を使用せず)、似たような至高体験以後は、境地が深まる方向に行ったが、ジム・デコーンは、深められなかった。トレヤ・キラム・ウィルバーは、冥想修行したが、ジム・デコーンはドラッグに頼るばかりで冥想修行がなかったということなのだろうか。

 

同じソーマ・ヨーガ界隈では、カルロス・カスタネダは、正師ドン・ファンを得て究極の悟りに至ったが、ジム・デコーンは、正師を求めるほどの情熱がなかったということなのだろうか。

容易に薬物で霊界をのぞくことはできても、意図せず霊道を開くのは危険なものであり、ただでは済まない。ソーマ・ヨーガは、インド・アーリア時代からの伝統があり、20世紀以降様々な向精神性薬物が開発されたが、それだけで、窮極の悟りを得るのは独力では如何ともしがたいところがあるのではないか。

薬物乱用カルトも珍しくない時代になって久しい。

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笹目秀和のクンダリーニ

2024-09-07 03:19:01 | 浅い霊感から神人合一まで

◎頭頂から尾骶骨までクンダリーニがつきささった

 

笹目秀和は、長白山の天池のそばで年齢200歳のリョ神仙に出会うのだが、その直前に天池のほとりでクンダリーニ現象があったことを記録している。

 

『私は極天(北極星の位置)に向かって九拝すると、なにか、ズシーンと頭頂から尾骶骨まで、金色の延べ棒がつきささった。それから発散する光波が無限の細胞に作用したかと思うと、やがてそれらの光波が丹田に集結して、爆発したような音が感じられたのでわれに返った。まさに瞬間的神秘な事象であった。

さらに“無事天池に浴する機会を賜りましたことを感謝する”と哮(さけ)びを発して、無形の存在である天に向かって礼拝したのだった。』

(神仙の寵児2 神秘篇(上)P108から引用)

 

この段階で、まだ笹目秀和は悟ってはいない。神人合一に至るクンダリーニ覚醒プロセスは、上方に上がるが、本件の金の延べ棒は下降である。宇宙のエネルギーが、ムラダーラに一旦入り、後丹田に集結したのだろう。

 

笹目秀和は、以後30年、シベリア抑留など筆舌に尽くせぬ辛酸をなめるが、それに堪え得る宇宙のエネルギーを与えてもらったのだろうか。サハスラーラではなく、下方三チャクラの一つである丹田スワジスターナでの爆発ということで、笹目氏本人のニルヴァーナへの道程ということではなく、日本のカルマを実生活で消化していくための実際的エネルギーを賦与してもらったのだから、丹田での爆発だったのだろう。

 

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-5

2024-09-06 03:21:58 | 浅い霊感から神人合一まで

◎高貴なチンキという賢者の石

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

 

『やがて夜が明ける。そのとき宝物の山を目にするであろう。中でも最高にして完全であるのは高貴なチンキである。このチンキによって世界は、(神の役に立ち、このような贈物に適わしいかぎり)金色に輝き出し、最も純粋な金へと変容するのである。」

 「『指導霊』が教える通り、このチンキを使えば、たとえ貴兄が老いていても、たちまち若返り、体のどこにも病気を認めることがなくなるだろう。またこのチンキにより想像を絶する素晴らしい真珠の輝きを目のあたりにするであろう。しかし、自分が身につけた能力を自慢して何もかも自分の手柄だといい気になってはいけない。『指導霊』が伝えるもので満足すべきである。

 この神の贈物に対し神を絶えず讃えよ。そして世俗的なうぬぼれのために利用するのではなく、逆に俗事には関わらぬ仕事に使用するよう特に気を使わなければならない。持っていないときと同じようなつもりで正しく使い十分楽しむがよい。

 束の間のはかない人生を生き、僅かでも罪を犯さぬよう用心せよ。さもなければ『指導霊』は貴兄を見捨て、貴兄の幸福を剥奪するであろう。このことはくれぐれも承知しておくこと、これはまったく真実である。チンキを乱用し、人前にあって、模範的に、純粋に、敬虔に生きなければ誰でも、この恩恵を失い、後で取り戻す望みはほとんどなくなるのだ。」』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院P69-70から引用)

 

このチンキ(液剤)により世界は黄金に変わるので、チンキとは、賢者の石のこと。チンキを得てそれを振りかけるから世界は黄金になるように考えると、チンキと世界は別物のように思われるかもしれないが、チンキと世界は最初から同一なのではないか。

 だからこのチンキを得ても、模範的に、純粋に、敬虔に生きなければ、黄金を失うという戒めがある。さらにわずかでも罪を犯せば、その特権ははく奪されるという。チンキをゲットできてもその幸運に浮つくことなく、善いことだけをして悪いことをしないという行動原則は変えてはならないのだ。

 すぐに黄金が得られるとか、楽して黄金が手に入るとか、そういうことは一切言っていないところが要注意。

 チンキを用いるに神を讃えよ。そして、金儲けや相場やギャンブルや恋愛など自分勝手な欲望を満たすために用いてはならない。

要するにチンキを手に入れた人間とその世界は不可分に連動しているのであって、チンキなる賢者の石は万能だが、人間が自分勝手に使えるような代物ではないのだ。

 

真珠の輝きとは、中心太陽か。

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-4

2024-09-04 06:11:08 | 浅い霊感から神人合一まで

◎大いなる静けさに、明けの明星がのぼるのを見る

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

 

『「地震が去ると次いで火事が起こる。地上のがらくたをすべて燃やし尽した後、はじめて宝物が姿を現わす。

しかしまだ貴兄には見えないだろう。

これら一連の現象の後、明け方近く、大いなる静けさがやってくる。貴兄は明けの明星がのぼるのを見よう。』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院P68-69から引用)

 

『地震の次に火事が起こり、地上のがらくたをすべて燃やし尽くす』というのは、あらゆるこの世的なものに別れを告げるということ。

風、土、火というエレメントを問題にするならば、次は水だろうと予想する。

 

そこで初めて宝物が姿を現す。

『明け方近く、大いなる静けさがやってくる。貴兄は明けの明星がのぼるのを見よう。』

この光景は釈迦も、空海も、クリシュナムルティもそうだった。中心太陽に突入するのではなく、明けの明星を望見するのだ。

 

これは、書きぶりは見神だが、単なる見神とは評価できず、個から全なる第六身体へと進んだと見るのだろう。

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-3

2024-09-01 03:43:50 | 浅い霊感から神人合一まで

◎如何なる災難もふりかからない

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

 

『「山を発見して最初に起こると思われる驚異的現象はこうである。烈風が山を揺るがし、岩を粉々に打ち砕く。貴兄は獅子や龍、その他の恐ろしい獣に遭遇することとなろう。しかし決して恐れてはならぬ。断固たれ。そして不退転の決意を固めよ。貴兄を山へ連れてきた『指導霊』が如何なる災難もふりかからせはしないだろう。宝物はまだ発見されていないが、すぐ間近にある。烈風の後、地震が起こり、風が残していったものすべてを壊し、地に倒すであろう。だが決して倒れて死ぬようなことはないと確信するのだ。」』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院P68から引用)

 

山を発見するのが、見神に当たる。如何なる災難もふりかからせはしないとは、自分を本当に傷つけることなどできないということ。

烈風が起こり地震が起こり、すべてを壊し地に倒すが自分は倒れないことは、確信というような思い込みでするのではなく、最初から自分は倒れないことを知ること。

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-2

2024-08-31 03:30:45 | 浅い霊感から神人合一まで

◎一切が静かで闇に隠れる真夜中

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

『「この山へは、最も長く暗い日の夜がきたときに)行くがよい。まず祈りにより覚悟を固めよ。そしてひたすら山へ通じる道を求めること。

 

しかしその道がどこにあるのか誰にも尋ねてはならぬ。『指導霊』にのみ従うのだ。彼は自ら案内を申し出、途中で貴兄を出迎えるであろう。だが彼と懇意にしてはならぬ。この『指導霊』が汝を山へ連れてくるのは、一切が静かで闇に隠れる真夜中である。そこで起こるできごとに恐れをなしてしりごみすることのないよう、決然たる勇気をもって身を固めることが必要である。剣など入用でない。その他の武具もしかりである。ただ精魂込めて神にすがれ。」

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院p68から引用)

 

霊界の魔法の山と言っているが、霊界ではないことは、ジェイド・タブレットの読者なら知っている。この段階は、禅の十牛図で言えば、霊的探求は始めたが、牛のしっぽもまだ見つけられない初心の段階。十牛図第二見跡以前の段階。

 ひたすら山へ通じる道を捜し回れば、いつか『最も長く暗い日の夜』がやってきて、山道への第一歩を進めることができる。

 『指導霊』、これは正師のこと。正師は肉体を持っている人間であることもあるが、肉体のない霊的存在であることもままある。実例としては、呂洞賓の師の鍾離権、ダンテス・ダイジのクンダリーニ・ヨーガの師のババジなど。そういうことは垂直の道ではままある。

なお、人間には正守護神または守護天使というのが、一生涯ついてまわっているが、『指導霊』のことではない。

『指導霊』がいつ、どのように見つけられるかには、言及はない。

 

『指導霊』があなたを山へ連れてくるのは、あなたに見どころがあるからであって、驕らず虚心坦懐に冥想修行を進めて行けば『一切が静かで闇に隠れる真夜中』のタイミングがあり、山に進めるが、そこでは、驚くべきこと、恐るべきことなどが起こるが、びびりながら『精魂込めて神にすが』るしかあるまい。

『一切が静かで闇に隠れる真夜中』とは、言い得て妙な表現である。想念や思考の止まる隙間。

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-1

2024-08-30 06:47:30 | 浅い霊感から神人合一まで

◎世界の中心にある山には莫大な宝が隠されている

 

17世紀に薔薇十字団のトップであったらしいエウゲニス・フィラレテス宛に薔薇十字団から来たらしい宝捜しメモ。

薔薇十字団は、西洋錬金術の奥義を復興したと目されるグループだが、それはクンダリーニ・ヨーガ系であって、垂直の道である。

よって言葉で奥義が明かされることはないが、その真理の属性は遠回しで隔靴掻痒の感のある言い回しに終始する。

薔薇十字団は、キリスト教の影に隠れて延命していくが、その伝統は、アレイスター・クロウリーやブラヴァツキー夫人、現代のフリーメーソンなどに継承されている。

 

さて薔薇十字団では、霊界の魔法の山には、宝が秘蔵されているという。

 

『「地球の中央あるいは世界の中心に位置するひとつの山がある。それは小さくて大きい。柔かくて、同時に石のように堅い。遠くにあって身近にあるが、『神』の計らいにより目には見えない。この山には莫大な宝物が秘蔵されており、その価値をこの世の人間が値踏みすることはできない。絶えず神の栄光と人類の幸福を妨げる悪魔の嫉妬から、この山には非常に獰猛な獣や飢えた猛鳥が徘徊しており、このためそこへ至る道はきわめて困難かつ危険である。これまではまだその時期ではなかったので、その道を探求することも発見することも不可能であった。しかし今こそ発見するにふさわしき者はその道を発見しなければならない。だがそれはひとりひとりの労苦と努力によって探求されなければならない。」 』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院p67-68から引用)

 

ここは宝物の価値はこの世のものでないことをまず示し、二律背反な性質を持つことも示す。すべてのすべてを含み、個人も勿論含まれるので二律背反。霊界と言っているが、天国も地獄も越えるものだからこのような言い回しになる。 

困難かつ危険で、ひとりひとりの労苦と努力によって探求するとは、自分自身に出会うことは困難かつ危険であることを言っている。

 この文は、冥想とか、神になるという言葉を使えば、たちまち異端として裁かれる時代の文書なのだ。

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訓練によって見えるようになった神はにせもの

2024-08-11 03:36:41 | 浅い霊感から神人合一まで

◎心理上の投影を神と思い込む

 

昔、OSHOバグワンのところに、 いたる所に神を見る男がやってきた。この30年間、彼は、花や木や岩などあらゆる物の中に神を見て来たという。

OSHOバグワンは、男に直接確認したところ、彼は修練(サダーナ)によって万物のうちに神を見るようになったと答えた。彼は、万物のうちに神を見ることを想像したり、強く願ったりしたという。その修練を30年前に開始し、やがてあらゆるところに神を見ることができるようになったという。

OSHOバグワンは、彼に三日間ここでOSHOバグワンと一緒にいてその間、「あらゆるところに神を見ること」をやめるように申し入れたところ、彼は応諾した。

図らずも男は、その修練をやめてわずか12時間後、岩を岩として見、山を山として見始めてしまったので、もう神を見れなくなったと、OSHOバグワンに苦情を言ってきた。

OSHOバグワンは、たった12時間修練(行)をやめただけで消えてしまうようなものは神ではない。それは、想像でこしらえた作りごと、すなわち単なる心的投影であると喝破した。彼の神は、彼のオリジナルな幻想にすぎなかったのだ。

OSHOバグワンは、あらゆるものは神だが、神を見ることは、見ようとする修練の結果によるものではないとする。ただし、木、岩、山を神と見る体験とは言えない体験はあり得るが、その場合、木、岩、山だけが神でなく、人は神以外に何も見なくなる。神が岩の中にあるとは感じはしない由。この辺でOSHOバグワンは、男が偽物であることを知ったようだ。

またかの男は、見神をテーマにしているが、なぜかOSHOバグワンは、神人合一における神の見え方を語っている。(参照:死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/講談社P107-109))

 

またところが、一つの行に専心すれば、それで神を見ることがあり得るのが、不思議なところであると、一行専心を否定しないのがダンテス・ダイジ。

 同じ状態の人でも、相手によって、TPOによって、違う意見を言うことはあり得るものだと思う。

 世の中の神様詐欺、宗教詐欺にこうした手合いは多いのではないか。本人も取り巻きも疑わないのだろう。

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天国体験から見神体験へ

2024-07-29 03:48:38 | 浅い霊感から神人合一まで

◎エベン・アレグザンダー

 

エベン・アレグザンダーは、ハーヴァード・メディカルスクールで脳神経外科医だったが、急性髄膜炎により7日間の深い昏睡状態にあって、天国を見た。

 

最初は、彼がミミズの目の世界と呼ぶまるで土の中に埋もれているような感覚を味わったが、そこから抜け出す時が来た。

『やがて、上方からゆっくりと、光の存在が降りてきた。それはあとで“回転する光のメロディ“と名づけた美しい調べを響かせながら、金や銀にきらめく閃光を放つ、まぶしい球状の光だった。私のいた砂をかむような世界に降りてきたきらめく光は、中に裂け目をつくり、私はポー タルともいうべきその穴をくぐると、目がくらむばかりに美しい谷あいの世界に抜け出していた。

青々と緑が広がり、澄みわたる水に滝がしぶきを散らしていた。私は認識の一点と言えるような意識体になって蝶の羽根に乗り、周りには何万という蝶が波のようにうねりを描いて群れ飛んでいた。深い藍色をしたビロード様の空には、金色にきらめく光の球が無数に飛び交っているのが見えた。むくむくした色鮮やかな雲をバックにくっきりと長い光の尾を残す光たちは、詠歌か聖歌のような音楽を奏でており、私はのちにそれを天使の合唱と呼ぶことにした。光が奏でる音色は、地上のどんな音楽及ばないほど美しかった。向こう側の世界には、積み重なるようにして果てしなくつづく無数の広大な宇宙世界が開けていることも、知ることができた。

〝上方の領域〟と名づけることにしたそうした場所は、さらなる学びをうながしてもらえる場所でもあった。天使の合唱は、いっそう高次の世界へとポータルを開いてくれた。

私はなおも上昇し、広大 無辺の漆黒の闇、聖域中の聖域である深奥の〝コアの世界〟に導かれた。それはことばにならない崇高な無私の愛が、溢れんばかりに満ちている場所だった。そこでは限りなく力強い全知全能の大いなる存在に出会った。こちらの世界に戻ってからその存在を"オーム"と呼ぶことにしたのは、そこにはオームの音が鳴り響いていたからである。コアの世界では、私の力ではとうてい 表現することのできないような、深くすばらしいことがらを教えられた。そのコアの世界にいたのは、永遠の聖なる存在、輝く光の球、そして純粋な意識体の三者であることを、そのあいだは強く感じつづけていたのだった。

 

向こう側ではつねに案内者がついてくれていた。それは認識の一点として蝶の羽根に乗り、最 初にゲートウェイの世界に入ったときからずっとそばにいたとても美しい女性だった。初めて会った知らない人だったが、その人のおかげで心の傷が癒され、以前であれば想像もできなかった完全な自分を取り戻すことができた。自分がとてつもなく愛され、慈しまれていること、この宇 宙は夢にも考えられないほどの広大なすばらしいところであることを、ことばを使わずにわからせてもらえたのだ。自分は(そして人はだれもが)全体の欠かせない一部であることがわかり、それまでの不安や悲しみはその大切な事実を忘れていたせいで抱いていた感情だったことに、気づかせてもらえたのである。』

(マップ・オブ・ヘヴン/エベン・アレグザンダー/早川書房P27-28から引用)

 

全知全能の大いなる存在とは、神なのだろう。そこで響きわたるオームの音。ただし、見ている自分はずっとあるので、天国を越えて見神の体験であったと言えるのではないか。

紹介してくれた女性は、高級神霊だろう。

蝶の羽に乗り、多数の蝶を見る。荘周胡蝶の夢胡蝶は、誰でも見たりなったりするものなのだろうか。

さらに言えば、彼は天国を通過し見神したが、世界全体が幻影であるという認識までは行っていない。

インテリの描写する臨死体験として、わかりやすいものに仕上がっているが、大悟ではない。

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ある天国的体験

2024-07-28 05:50:10 | 浅い霊感から神人合一まで

◎自分が残っている定という体験

 

以下は、ふとした拍子に意識レベルが低下し、自分が残っている定に入り、愛と歓喜に満ちた深い体験をしたもの。

ヨーガ・スートラで言えば有尋定。原始仏教の分類でいえば、初禅あるいは二禅

この体験は天国的ではある。

さらに言えば、この後50年を経て、この深い愛と歓喜と光の体験は、戻ってしまって、思い出になっている。

 

天国を求めるということに関して、考える材料として取り上げてみた。

 

なお、この本の著者のエベン・アレグザンダーも天国体験者だが、全然見ている自分が残っている。

 

『それは数秒のことだったろう。船室に光が満ち溢れた。眩しさに目がくらんでなにも見えなくなったので、そうとしか表現しようがない。愛に満ちた、力強く輝かしい何者かの意図に包み込まれた感覚を覚えた。あのときほど謙虚な気持ちにさせられたことはない。また、 あのときほど心が舞い上がって感じられたこともなかった。じつに奇妙な、圧倒されるような感覚に打たれ、全身に歓喜が溢れて、人類は安泰なのだという思いに満たされた。それにしても、ことばのなんと貧しいことか。安泰などというのは、哀れなほどに貧しいではないか。人間は一人残らず栄えある輝かしい存在であって、最終的には至福の中へと帰っていく のだ。美と、音楽と、喜びと、無尽蔵の愛と、言語に絶する栄光、それらを受け継いでいる存在なのだ。全員がそれらの継承者なのだ。

それを体験して五〇年以上が過ぎたいまでも、頭上のガス灯がうす暗い光を投げていた、 薄汚れた三等船室の片隅にいた自分がありありと目に浮かぶ・・・・・・荘厳なそのひとときはしばらくして消え去り、えも言われぬ感覚だけがあとに残された。 いまとなっては馬鹿げた響きに、こうして書いていながら赤面を禁じ得ないが、そのときの私は同室の全員に愛を感じ、だれであれ、その人のために命を投げ出しても惜しくない気持ちでいたに違いない。

*アリスター・ハーディ著、 The Spiritual Nature of Man53ページ 宗教経験研究センター (Religious Experience Research Centre) 事例番号000385*』
(マップ・オブ・ヘヴン/エベン・アレグザンダー/早川書房P33から引用)

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