◎ジェイド・タブレット-05-33
◎青春期の水平の道-32
一休は大悟の後、大酒を食らっては、男色、女色に耽るという悪業を繰り返したので、来世では馬に転生するなどという詩を書いている。
『(訓読)
大燈国師の尊像
酬恩庵常住
古今の仏祖師 草鞋の埃
遊戯三昧は南岳と天台。
昼夜の清宴 爛酔して盃多く、
女色勇巴 馬腹驢腮
児孫の純老 大笑咍々(かいかい)たり。
確
三尺の竹箆掌握の内
臨済 徳山 命乞いに来る』
(大意)
古今の仏教の祖師は、草鞋が埃(ほこり)にまみれて、真摯に修行して
南岳や天台山で自由自在の境地を得た。
それにひきかえ、私は、昼も夜も宴会で杯を重ねて酔っ払い、
女色も男色も楽しんだ結果、遂には来世は馬に転生する。
大燈国師の法孫の一休は、アハハと大笑い、
ウン
大燈国師が三尺の竹箆を握って来れば
臨済や徳山ですらも命乞いに来るだろう。
(原文)
大燈国師尊像
酬恩庵常住
古今仏祖師草鞋挨
遊戯三味南岳天台
昼夜清宴爛酔多盃
女色勇巴馬腹驢腮
児孫純老大笑咍々
確
三尺竹箆掌握内
臨済徳山乞命来
一休を風狂と称するのはたやすい。しかしそれでは何も分かったことにならない。
光明を得た者の生きざまは、すべからく諸悪莫作・衆善奉行のはずだが、一休は、逆に男色女色酒食を重ね、一見悪業三昧。
普化という臨済の同僚は、檀家の用意した折角の御馳走のテーブルを躊躇なく蹴り倒した。聖性というものを徹底すればするほど、日常の不徹底な部分はより捨象されていく、普化からは臨済ですらも不徹底のそしりを受けたほどである。
一休は要するに、この詩では、普化と同じ側に立って、みせたのだ。
それにしても、世間から見れば、覚醒した者が、なぜ悪事を働かなければならないのか、そこに関心が集まりがちなものだ。
覚者は大悟しても肉体が残る。肉体が残るゆえに働いたり、飯を食ったりしなければならない。肉体が残るが故に、外形だけ見れば何らかの悪事を敢えて犯すような側面が残る。そこに、そもそも人間として生まれてくる意味が潜んでいるように思う。
悟った後、別天地は、逆転した世界だが、その後も肉体を持って生きるからには、肉体に由来するいろいろなことがある。飯を食う、風呂に入る、身だしなみを整える、ねぐらを求める、服を手に入れる、金を稼ぐなどなど。悟ればその人にとって何の問題もないはずだが、どうしてその後も生きなければならないのか。そのことは、ときどき課題として出て来ることがある。
道元は、気に入らない弟子を追い出して、それに飽き足らずその弟子のいた庭の土を掘って捨てさせた。正受は、弟子の白隠を半殺しにするほど殴りつけた。クリシュナムルティは、禿を隠したかった。
なぜ悟後の大燈国師は鴨川の河原で20年も乞食をしなければならなかったのか。その20年の乞食生活こそ、一休にとっては、男色女色酒食の生活なのだとする。その点も「世界が変わる」という視点では逃せない視点である。
それに目をそむけずに、一つ一つ直面していける、受け入れていける。それが真人間の生き方というものなのだろうと思う。それが別天地での日常なのだろうと思う。