アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

中国の運命、日本の運命-2

2024-09-02 03:45:07 | 道教neo

◎人は神々を得て働き、神々は人を得て動く

(2021-04-09)

 

中国の経済、軍事、ITにわたる影響力は、まさに八岐大蛇の如くであり、自由主義陣営と共産主義陣営のまた裂きとなりバルカン国家化しているのは、日本だけでなく、米国や欧州もそうなってしまっている。

ネット上の噂では、中国は日本のみならず世界各国の戸籍データやマイナンバーを集めているとか、着々と世界制覇への布石を打っているだろうと想像され、そら恐ろしいことである。

『「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』の予言では、一つのシナリオとして、中国で大規模な飢餓が発生し、それをきっかけに中国が世界戦争に打って出るということが書いてあるが、これはやや書き過ぎかもしれないと思う。

笹目秀和の予言集的なものとしては、「ストップ・ザ・富士大爆発」を読んだが、そこまで具体的には書いてはいない。

 

赤化の刧というのは、共産主義のことだが、「第二次大戦に勝者なし/ウェデマイヤー」では、第二次世界大戦で結果的に最も利益を得たのはソ連だったとか、近衛上奏文では、日本の敗戦におけるソ連の浸透ぶりが慨嘆されている。さらに「ヴェノナ/ジョン・アール・ヘインズ」では、アメリカすらも第二次世界大戦では、ソ連の意向に沿って動かされていたらしいことが描かれている。

かくして中ロ揃って赤化の刧なのだが、バック・グラウンドとしての欧州猶太も無視することはできない。西洋錬金術という冥想体系をこの2千年地下に潜らせたままにしてきた根源の力が、唯物論だからである。

その結果、このままではIT、軍事はじめ多くのテクノロジーが失われ、人口大激減を見ることになるという見解については、各国の神話、古伝承は一致した見通しを出しているとして差し支えないのではないか。

その結果を見て、ダンテス・ダイジが、「ホワイト・フォックス。俺はお前についてどんな判断もしやしない。」などと、ある意味投げやりな言葉を出している。

 

笹目秀和とダンテス・ダイジのリンクは大本教。笹目秀和は、「人は神々を得て働き、神々は人を得て動く」とモンゴルから西北中国、崑崙にかけてシャーマニズムを再興する使命であった彼らしい言葉を残している。その「人」が大神に立ち帰らないと、大難を小難になどと祈れはすまい。

 

※2024年9月2日追記:

『中国で大規模な飢餓が発生し、それをきっかけに中国が世界戦争に打って出るということが書いてあるが、これはやや書き過ぎかもしれないと思う。』と書いたが、これは中国の経済破綻が現実のものになったことで、穀物生産、食料生産が不振となれば、現実の可能性として浮上してくる。状況は変わった。

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中国の運命、日本の運命-1

2024-09-01 04:53:27 | 道教neo

◎『「笹目秀和」と二人の神仙』

(2021-04-08)

 

笹目秀和は、モンゴル神仙邂逅記が出された頃は、奥多摩の御岳山に行けばいつでも会えるが如く思っていたのだが、もう亡くなって20年以上経つ。

ダンテス・ダイジが著作の巻末に自分の電話を載せていつでも会えるようにしていたが、それも数年のことだったのに似ている。

『「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』は、前半が大著『神仙の寵児』のダイジェスト。ただ、設定がサーヤ内親王と従者2名が笹目秀和と対話することになっているのは面白い。

『神仙の寵児』は読んだことがあるので、前半は読まず、いきなり最終章から読んだのだが、昭和10年に中国南寧の紅卍会(大本教の提携先宗教)の道院でフーチを行ったところ、当時5億人だった中国の人口が○人に激減するという結果が出たという話が出て来た。この数字は、出口王仁三郎予言の日本人生存率より全然厳しい。

 

なんでも世界に共産主義旋風(赤化の刧)が吹き荒れるのは2度あって、一回目は収まるが、2回目の共産主義旋風の時に人類を一掃するような掃滅の刧が地球を襲うという。

一回目の共産主義旋風は、1990年代の初めにソ連が崩壊したことで、一度収まった。そしていまロシア中国が協力して世界制覇しようと勢いを盛り返したので、2回目の共産主義旋風の真っただ中にある。

そこで金を出してどこか戦乱や核戦争、世界的大変動に巻き込まれないような国や土地に移住しようと思う人も多いかもしれない。

だがこの本にも書いてあるように、人間一個が今ここにあるということは今生だけの結果ではなく、三千年も前からの結果でもあるということ。

そのような大変動のエリアから免れようと思って免れるものではないということ。高校生、大学生のみならず、社会人でもやれ、政治が悪い、経済が悪い、医療体制が悪い、などと外的要因を真っ先に考える癖がついているものだが、まず全身で感じ取ってみるというのは大切かも知れない。

自分がどういう運命なのかを。

どうやって生まれて、どうやって育って、生きて暮らして、死んで行くのだろうかを。

そして、日本がどういう運命なのかを。

そして弾き金を引くであろう中国がどういう運命なのかを。

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張良と仙人

2024-07-23 04:07:00 | 道教neo

◎仙人出現を招く

(2007-04-07)

 

始皇帝の秦を倒して漢を開いた劉邦の軍師が張良である。張良はもともと病弱であり、漢の統一成った後、一年以上外出せず、穀類を食べず、導引を行って養生に努めていた時期がある。

 

張良は、秦に滅ぼされた韓の五代の王に仕えた宰相の家の生まれであり、私財を投げ打って始皇帝を暗殺しようと、大力の士を雇い重さ120斤の鉄槌を作り、その機会を窺っていた。

 

始皇帝が東に行幸している時、河南省博浪沙で、張良と大力の士は襲撃を敢行した。ところが失敗して、鉄槌を始皇帝の属官の車に当てただけに終り、以後始皇帝により全国指名手配されることになった。

 

そうした中で張良は、名前を変え、江蘇省下邳に逃亡、潜伏していた。ある日下邳の町をぶらぶらしていると、粗末な身なりの老人が張良の前でわざと靴を橋の下に落とし、「小僧、おりていって、靴をとって来い」と命じた。

 

張良は、びっくりして、とんでもないことを言うじじいだ、ぶん殴ってやろうと思ったが、年寄りのことだしと、ぐっと我慢して橋の下まで靴を取りにいって老人のところに持ってきた。

 

老人は、「その靴を履かせろ」というので、ここまで我慢してやったから我慢ついでに履かせてやろうと思い、履かせてやった。

 

すると老人は笑って立ち去った。張良は意外な展開でちょっと当惑したけど、目礼で見送った。老人は400メートルくらい行ってから戻って来て、「小僧、いいことを教えてやろう。五日後の早朝にわしとここで会え」

 

五日後の早朝に張良が橋にやってきてみると、老人は既に来ており、「老人と約束して遅れるとは何事だ。出直して来い。また五日後の早朝に会おう」

 

また五日後に張良は夜中に出かけた。しばらくすると老人もやってきて、「こうこなくてはいけない」と喜んで、懐中から一篇の書を取り出して、「これを読めば、王者の軍師になることができるだろう。十年たって興隆し、十三年にお前はわしに会うだろう。わしは、山東省の穀城山の麓にある黄石だ」とだけ言い残して立ち去った。この書は太公望呂尚の兵法書であった。

 

この話は、仙人の方が張良に、わざわざ義理を作ってあげて、太公望の兵法書を与えることで借りができないような配慮をしてくれていることがうかがえる。逆にこの仙人を呼び出すことになった深い願望が張良にあったとも見ることができる。

 

また太公望の兵法書は、三略であるとも言われ、出版されているが、これを読んでも誰でも帝王の師となるわけではない。

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黄初平

2024-01-31 06:25:17 | 道教neo

◎石を羊に変容させる

(2010-10-15)

 

黄初平は、神仙伝に出てくる仙人。15歳の時に羊飼いとなった。ある道士がその実直なのを見込んで浙江省の金華山に連れて行き、その石室で40年以上修行に入った。

その兄の初起が山で何年も初平を捜したが出会うことはなかった。後に市中で初平を知る道士に出会い、その道士の案内で、山にいた初平に出会うことができた。

初起が初平に、40年前の羊をどこへやったと問うと、山の東にいるという。初起が山の東を見たが、一頭の羊もいなかった。すると初平は、「いや、いますよ。お兄さんには見えなかっただけですよ。」と答え、「羊よ、立て。」と叱ると、山中の数万の白い石は、ことごとく羊に変じた。

 

この逸話では、現実は思うがままに変ずることができるものだと思わせるが、その我が思いこそが曲者として、その修行の前途に立ちはだかる。その我が思いは、引き寄せの法則とか、安直な願望実現プログラムをいくらやったとしても、清浄になるわけではない。

我が思いの純粋なところがどこにあるかは、確かに何回もの人生の繰り返しの後に直観できるものだろうが、それは迂遠でもある。日々それを持って生きるのには、日々の冥想という習慣は要るのではないか。

画像は、黄初平のその様子で、雪舟が、南宋時代の画家梁楷の作を模写したもの。

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荘子の覚醒までのステップ

2024-01-27 04:47:20 | 道教neo

◎独存、不死不生

(2021-04-18)

 

荘子大宗師篇から。

聖人になる素質のある人間を聖人に育ててみたいがどうすればよいかと、女偊(じょく(亻禹))に対し南伯子葵が問うたところ。

『そうなる希望が持てないにしろ、聖人の道を聖人の素質のある人間に説くのは楽だ。私は改めてその修行を行って彼に教えてやった。

 

わたしは修行三日目にこの世(天下)を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること七日目に物質を超越することができるようになった。

更にその修行を続けること九日目に生を超越することができるようになった。既に生を超越したので、光明を得た(朝徹:朝日がぱっと照るように大悟する。)

光明を得て後に独存となった。

独存となれば、古今はなくなり(今ここだけとなる)、古今がなくなってその次に不死不生という死も区別がない世界に入る。』

 

この次に攖寧(えいねい)の話が続く。

七つの身体論、特に第六身体から第七身体への展開や十牛図を知らないと、天下を超えるとか、不死不生が死の側から窮めるということであるなどは想像もつかないのではないか。

『原文:吾猶守而告之,參日而後能外天下;已外天下矣,吾又守之,七日而後能外物;已外物矣,吾又守之,九日而後能外生;已外生矣,而後能朝徹;朝徹,而後能見獨;見獨,而後能無古今;無古今,而後能入於不死不生。』

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機心

2024-01-26 04:50:59 | 道教neo

◎便利は危険

(2016-08-12)

 

機心は、荘子外篇の天地第十二に出てくる。

機械を使うと必ず機械に頼る仕事が増える。そうすると機会の便利さに慣れ、人間は注意を常に外に向け、本質ではない利害得失、メリット・デメリットばかり追うようになる。これが機心。

こうしてエネルギーと時間は節約され、本来でいえば、冥想によりそれを人間の内側に向けるべきものだが、逆にもっとエネルギーと時間を使わずに努力をせずに効果を得ることばかり考えがちになるものである。

現代人の日常生活では、機械ばかり使っているから、機心なき人はまずいないが、そこで人為的に冥想タイムを作り、心の純白を感得せねばならない。荘子では、更に、機心あれば、精神が定まらず、道はないとする。

 

『機械有るものは必ず機事あり。機事有るものは必ず機心あり。機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。純白備わらざれば、則ち神生定まらず。神生定まらざる者は、道の載せざるところなり。』

 

昨今世の中に狂人が多いのも、機心だらけのライフ・スタイルのせいか。

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社会的成功ほど失敗する

2024-01-25 04:52:28 | 道教neo

◎人生の安物買い

(2016-07-21)

 

この貧富の差が大きく、子供の貧困6割、非正規就業4割の下層が半数を占める時代に無用こそ真の用であることを理解させるのはなかなかむずかしい。千利休らが茶道具の値をつり上げて高く見せたのは、畢竟失敗だった。天下人秀吉に侘び数寄の無用の用を見せたのは、大成功だったが、後継者たちは軒並み茶道具の値の高さに目を奪われたきらいがある。

 

久松真一が茶道の徳を格調高く説明してみせたが、そんなに綺麗に説明できるものなら、世の中の茶の湯者はもっと増えていよう。

 

前世に荘子だったOSHOバグワンが荘子を語る。

 

『まわりを見まわしてごらん

成功した人々を見てみるがいい

政治家やら財産家、大実業家たちを

彼らにはどんなことが起こっているね?

彼らの所有している物を見るんじゃない

彼らそのものを直接見なさい

 

なぜなら物を見てしまったら欺かれる

物は胃カイヨウにならないし

車は心ぞう発作にもおそわれない

邸宅は入院することもない

 

だから物を見てはならない

見たらだまされる

人を見なさい

 

あらゆる所有物を取り除いたあとの

その人そのものを直接見るがいい

そうしたらあなたはそこに貧しさを感じるだろう

そうなったら乞食でさえ金持に見える

そうなったら、〈生〉に関するかぎり

貧乏人でさえずっと豊かであるかもしれない

 

成功は失敗する

成功ほど失敗するものはほかにない

なぜなら成功する人は〈生〉をつかまえそこなうからだ

あらゆるものをつかまえそこなうからだ

 

成功する人は実際安物買いをする

ニセ物のために本物を投げ捨て

浜辺にころがる色のついた小石のために

内なるダイヤモンドを捨ててしまう

小石を集めてダイヤモンドを失うのだ

金持とは失う人、成功者とは失敗者のことだ

 

だが、あなたがたは野心の眼で見るから

所有している物のほうを見る

政治家を見ないでその地位を見る

その大臣職を、その権力を見る

 

あなたはそこに坐っているまったく無力な

すべてを取り逃がしたその人をけっして見ない

歓びが一瞬とて垣間見ることすらないその人を・・・・

彼は権力を買った

が、その買物のなかで自分を失った

そしてそれはすべて安物買いなのだ』

(虚空の舟(下)/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマール社 P68-69から引用)

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黄帝が広成子のアドバイスを受ける

2024-01-24 04:49:31 | 道教neo

◎至道の精、窈窈冥冥たり

(2015-09-08)

 

荘子の在宥篇から。

帝王である黄帝が引退し、師匠の広成子に会ってアドバイスを受けるために、個室を作り白茅を敷き、そこで3か月間精進潔斎した。そこで、再度広成子に質問をした。「どうすれば、長久たり得るでしょうか」と。

 

すると広成子は、以下のようにアドバイスした。

 

「至道の精、窈窈冥冥たり

至道の極、昏昏黙黙たり

視ること無く 聴くこと無く

神を抱きて以て静ならば、形将(まさ)に自ら正しからんとす」

 

至道の精は、奥深くぼんやりしている

至道の極は、ひっそりとして暗く静かである

見るでもなく、聞くでもなく

神を抱いて、静ならば、その肉体は、自ずから正しく矯正していくものだ。

 

静であって清であって、自分の肉体を労することなく、自分の精神を動揺させることがなければ、長生できよう。

 

目に見るところなく、耳に聞くところなく、心に知るところなければ、自分の精神は肉体を守ろうとするだろう。そこで肉体は長生するのだ。

 

上記の「目に見るところなく、耳に聞くところなく、心に知るところがない」とは感覚刺激を超えてはいるし、想念も停止している。想念停止とは、時間のない世界であるから、ここで云う長生とは、老人になって長生きすることを指すのではない。永遠に生きることを言っているように思う。

 

肉体の話にしないと、とっかかりがないからね。

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至人は己れなく、神人は功なく、聖人は名なし

2024-01-23 04:46:41 | 道教neo

◎荘子とOSHOバグワン

(2017-09-09)

 

荘子の逍遥遊篇から。

 

『若し夫(そ)れ天地の正に乗じて六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼且(は)た悪(いずく)にか待たんとするや。

 

 故に曰わく、「至人は己れなく、神人は功(いさおし)なく、聖人は名なし」と。』

 

※六気:天地間に存在する六つの気。陰・陽・風・雨・晦(かい)・明。または、寒・暑・燥・湿・風・火。

 

大意:

『もし天意を体して、六気により世界をコントロールし、無窮に遊ぶ者は、もはや何を頼みとすることがあろうか。

 

至人は、ニルヴァーナを承知しつつ生きるので己れなく、神人は天意神意を生きるので功(いさおし)なく、聖人はなにもかもないところに生きるので名がない。』

 

荘子はクンダリーニ・ヨーガの奥義体得者であるので、世界の気によるコントロールなどという表現がある。

 

OSHOバグワンは、自らの前世は、古代のチベット僧などととぼけているが、ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンの前世は、荘子であるとみている。

 

荘子は、全般に弟子たちの面倒を親身にみてやろうという姿勢が薄く、自らあちこち逍遥して遊びまくってはいるが憂き世の俗人の苦悩の解決にはあまり真剣とはいえないところがある。

 

こうしたところは、OSHOバグワンがプーナとオレゴンにコミューンを作りながら、あまりその経営に熱心とは言えなかった風であるところに共通点を感じさせられる。

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孔元方

2023-04-13 06:32:35 | 道教neo

◎道を伝授する相手を何十年も待つ

(2020-11-05)

 

孔元方は許昌の人。百歳になっていたが、茯苓などを服用していたため40代くらいにしか見えなかった。ある時大勢で酒を飲む機会があったが、彼は杖を立てて片手で杖を握って、身を翻して宙に逆立ちをしたまま反対の手で杯をとって酒を飲んで周囲の人を大いに驚かせた。

 

また、孔元方は寡欲であって、妻子もあったが、金品を貯蓄することもなく、彼の失火で自宅が火事になった時も、消火もせず、家財を持ち出す手助けもせず、垣の下にうずくまって見ていただけだった。

 

彼は、ある河のほとりに土窟を掘って、そこで3か月ほど断食を続け、その後自宅に帰っていった。土窟の前には柏の木が生えていた上に、雑草が茂って入り口を隠していたので、世間の人は土窟の存在を知らなかった。彼の弟子でも彼を捜しに行っても土窟を見つけられず空しく帰っていったそうだ。

 

さてここに仙道好きの憑遇少年がいて、何とかして孔元方に会ってみたいものだと思い、一生懸命に探したところ、かの土窟を見つけることができた。孔元方は、ここを見つけるだけでもよくよくの仙縁があることだと高く評価し、道の秘訣が書いてある素書二巻を授け、心して読むようにと語った。

 

さらに、この40年後になったら他人に道を授けてもよい。ただし、40年たったからといって誰にでも道を授けてもよいわけではない。その時に道を授けるのにふさわしい人物に遇わなければ、授けてはならない。その場合、80年目に二人の人物に同時に出会うことがあるだろう。

 

一体、授けるべき仙縁のある者にあっても惜しんで授けない場合、これを天道を閉じるといい、一方授けるべきでない人間に妄りに授けるのを天道を泄らすといって、その罪は子々孫々まで及ぶ。これをわきまえて決して誤るようなことをするな。自分のお役目はこれで済んだから、これから仙界に帰ると言って西岳に登っていった。

 

覚者は、その得た道を後継者に引き継がない限りは、生き続けなければならないの法則は、禅などとも同じ。伝授する相手は、金を見返りにするのでもなく、入門して何年たったからでもなく、義理のある筋から頼まれたからでもない。準備ができた者、それを受けるにふさわしく成熟した者だけが相手となる。

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先祖供養の実相

2023-02-08 21:21:57 | 道教neo

◎救霊の至難事

(2012-10-09)

 

釈迦前生譚には、釈迦自身が前世で鹿であったり、猿であったり、およそ昨今の四民平等な人間感覚からは遠いことが延々と述べられている。人間は死ぬと人間に生まれ変わる保証はないのだと。自分の都合だけ考えて地獄的に生きれば地獄で苦しむし、若い身そらで日がなエロばかり考えれば、エロに対応した動物となって転生するだろう。

 

チベット密教のチベット死者の書では、人は死ぬと中有に入り、後に転生のための子宮を自ら選びとるシーンが克明に描かれているが、それが人間の子宮に限るなんてギャランティーは出していない。秋の夜寒に鳴くこおろぎかもしれず、波間の岩に密集するフナムシとして転生することすらあるのだ。

 

霊能力などない人が先祖供養とか、天国とか地獄を考える際に、この70億人の人間は、死んだら人間に転生するのだろうかということである。

 

よく前世記憶の話が出るが不思議に人間の転生ばかり語るものであって、地獄だったり、天人だったり、虫だったり、犬だったり、猪だった転生のことは語られないものである。そうした前世記憶って信用できるものなのだろうか。要するに人間の転生を何回も繰り返す前世記憶って、世界人口が70億に膨らんだ現在の魂の過去と行く末を考えてみても極めてレアケースであって一般的なものではないのではないかと思うのである。

 

この辺に詳しい道者笹目秀和が「救霊の至難事」という一節で語っているのだが、水に溺れ火に焼かれて死する者は、死後完全に精霊をもって霊界に移り住むことはできないと説明している。なんと砕霊といって、アストラル体かなんかなんだろうがそれがばらばらにされて一片は蚊となり一片は蠅・虻・蜂、一片は砂虫か蟹のようなものになるという。

 

彼も言うのだが、このように虻蜂のようになってしまった者に対して百万遍の読経を試みても何の功徳なしという。他宗派では、砕霊を再生する手法はないが、道教では、砕霊を集めて元の一個の精霊に再生する手法があるというが、なまなかにできる供養ではない。

 

しかし本気で先祖供養するとすれば、そこまでやるのが徹底した供養というものだろうと思う。昨今の新興宗教の先祖供養でそんなことまでやっているのはないのではないか。

 

砕霊というのは、生きる者の日常感覚からすればとても残酷なものだが、笹目秀和氏は、冷たいようだが、これは天の法則を語ったに過ぎないとする。

 

まずは日々の積善と冥想を。

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朱橘

2023-01-24 20:30:58 | 道教neo

◎屍解

(2020-12-03)

 

朱橘は、淮南の人で翠陽と号す。彼の母が孕む時に大きさが斗ほどの一つの星が天上から飛んで口に入ると夢を見た。妊娠末期、なかなか生まれなかったところ、門前に一人の道士が来て、橘の実を与え、これを食べれば腹の中の子が直ちに産まれるであろうと告げ、母が食べると果たして直ちに生まれた。

 

朱橘はひたすら仙道修行にいそしみ、世の名利を厭い、風清き夕暮れなども一人池水の畔にたたずんで、葆光抱一の道の玄妙にして、服気飡霞が長寿を得る手段であることを悟った。

 

ある日一道人がやってきて、手に橘の実を持って、次のように歌った。

橘々識(し)る人無し 惟だ朱を姓とする人がある

まさにこの端的を知る

 

この道人の様子がいかにも気狂いじみていたので、人々は皆彼を指してあざ笑い、誰一人この歌に注意を払わなかったが、朱橘だけは、これが自分のことだと知って大いに喜んで、彼の後について行った。村はずれの野原に出たところで、朱橘は道人に『貴殿は鞠君子という名の真人ではないか』と尋ねると、道人は、その通りだと答え、皖公山に行って仙道を修行するようにと勧めるとそのまま雲に乗って昇天していった。

 

朱橘は、言いつけどおり皖公山(安徽省懐寧県。隋代、禅の三祖僧さんもここに棲んだ)で修行を重ねた。一日に一回小ぎれいな一人の小童が出て来て朱橘の門前にある池水で手を洗っていたが、その動作が極めて軽快で、ひらりひらりと往来する姿が丁度何か物の影が揺らめく様であった。

 

近所の人がこれを訝しんで密かに小童の後をつけると、彼は朱橘の家の中へ入って行ったので、室の中を覗いてみると、室の真ん中に朱橘が端然と坐っていただけだった。件の小童は、朱橘の出神だったのだと悟り、近所の人は彼を尊敬するようになった。

 

宋の理宗皇帝の淳祐二年、朱橘は、郷人の陳六に対し、自分は県庁の官舎の前で仙化するので、その際身体を清い土で上から覆ってくれと頼んだ。

やがてその日になって、朱橘の遺骸を陳六が泥で覆った。するとそこに酔っ払った警官がやってきて、その遺骸を見て大いに笑い、杖でもってこれを突き崩し、ぐしゃぐしゃにした。すると泥土は四方へ散ったが、朱橘の遺骸は見当たらず消え失せていた。

 

これは、全然長寿ではない。小童と見える出神はいかにも大きい。今生の修行だけで出来たものだろうか。

 

屍解を公表、公開するというのは、そのような狙いのあるもの。見聞した人は、いつかの来世でチャレンジするようなこともあるのだろう。

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孫不二の屍解

2023-01-24 20:25:46 | 道教neo

◎あるスーパー女性道士

(2017-11-22)

 

孫不二は、金代の女性道士。全真教の開祖王重陽には、七真と呼ばれる七大弟子がいるが、孫不二はその中で唯一の女性。七大弟子の一人馬丹陽の第二夫人だったので、『二』の字があるという。

 

彼女は、洛陽のそばの鳳仙姑洞という洞窟に住み、髪はぼうぼうで、時に気ちがいじみた行動をとったが、既に内丹を極め、すべての竅(チャクラ)を開放し、弟子もいた。

 

1182年12月29日彼女は、自らの死期を悟り、斎戒沐浴し、遺偈を歌った後、蓮華座に座り、太陽が天頂に達したことを確認して後、屍解したという。

 

弟子にしてかくの如し。

 

屍解したのに棺があったのは、禅僧普化と同じ。日本では、火定はあるが、屍解は聞かないが、それは日本人の民族性の問題なのか、風土の問題なのか、いずれにしても理由のあることと思う。

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人体に関する多次元モデル

2023-01-10 17:04:27 | 道教neo

◎七つの身体モデルへ

 

道教の内経図は、道教関連文書を漁れば、見たことがあるに違いない。wikipedia

 

内系図で、エーテル体相当は、水の部分で、アストラル体相当は、火の部分。

その伝でいけば、肉体は土(地)であるべきだが、土を牛を引いて耕している部分もあるものの、最下部には、坎水(川・海)が置いてある。坎水は個的ボディの表現ではあるまい。

 

最上部に泥丸(サハスラーラ・チャクラ)が置いてあって、これはボディでなくて、チャクラ。他に任脈、督脈も書き込まれていて、何でもてんこ盛りの図であって、そのまま想像をめぐらすと、とんでもない世界観になりそうな図である。

 

ただし、鍼灸関係の本では、必ず経絡図が置いてあって、ほとんど神経と重なるので、肉体レベルのことだと信じてそれから先へは想像が進まないことが多いのかもしれないが、経絡こそエーテル体の形状に近い。

 

エーテル体は気のレベル。冥想での様々な座法は、気のレベルでのエネルギー流出と発散をコントロールすることは、OSHOバグワンもちらりちらりと指摘する。

 

曰く、半眼では気の流出は止まる、閉眼・開眼は気が流出する。結跏趺坐、パドマ・アーサナは気の流出を防ぐポスチャー、云々。

 

これだけ各駅前にヨーガ・スタジオのある時代なのだから、肉体+エーテル+アストラル体の個的ボディ・モデルをエネルギー(心的、気、アストラル)の流路も含めて誰か描いて見せてほしいものだ。それには必ずニルヴァーナも描かないと。

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気の充実と狙い

2023-01-10 17:00:27 | 道教neo

◎年齢に応じた冥想の準備

 

道教の霊枢経本神篇第八では、「肝気が虚になると恐れ、実になると怒る。心気が虚になると悲しみ、実になると笑ってやまない」という。

 

※道教では五臓(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)にそれぞれ、怒、喜、思、憂、恐が配当される。

 

それぞれのシンボリックな臓器には気が充実している時と不足している時があるので、「肝気が虚になると恐れ、実になると怒る。心気が虚になると悲しみ、実になると笑ってやまない」と言われてみると思い当たることもある。

 

そこで、道教冥想修行者は、閉気でもって気を外に濫費しないことで気の充実を図り、充実させたその気を行気、導引などで肉体の健康を回復するようなこともでき、また体外への出神もする。

 

その結果の一例として彭祖の長命も実現したのだが、サンジェルマンやババジや崑崙山の仙人のように何か目的があって長命を狙うのは特殊なことであって、通例聖者たちには、寿命の短いことを嘆く人はいないので、気の充実の本来の目的は、長命ではなく羽化昇仙の方である。

 

それにしても中高年になると肉体の衰えは気の衰えに直結するので、柔軟体操やジョギング、ウォーキングなどだけでなく、閉気や呼吸法など気を充実させる技を平素から積極的にやらないとvividには生きられないと思う。そこは若い頃とは違うし、おのずとルーティーンは増えてしまう。

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