アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

水平と垂直(冥想十字マップ)

2023-09-30 03:50:11 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-01

 

水平の道と垂直の道は、ダンテス・ダイジの冥想十字マップで全容が示されてはいるが、その違いは、垂直の道はわかりやすいが水平の道はわかりにくいという点から始まる。

垂直の道は、七つの身体、七つの次元の力能を下位から上位に示したものであり、七チャクラの意味を知る神秘家にとっては見慣れたものである。ただしチャクラは下位四身体にしか存在しないので、世界全体を示すには、七身体の照応を見る必要がある。

垂直の道は、死の世界からクリアしていき最終的に生の世界も知る道。冥想手法としては、日本密教、チベット密教、古神道、クンダリーニ・ヨーガ、道教内丹、西洋錬金術、ユダヤ教等々ということになる。

垂直の道の求道者の基本姿勢は、超能力、霊能力を用いて人間の生活をサポートしていくというものだが、それは世間や周囲から大いに誤解を招いたり、迫害されたりする場合が少なくないものである。だから密教、秘教なのだが、この道では些細なテクニックでも公開されると悪影響があるものが多いのも特徴。

水平の道は、生の側から極めることで、死の側もクリアする。ライフスタイルとしては、在家で日常生活をこなしながらも冥想を継続する或いは悟りを持ち続けることが暗に想定されている。

水平の道の求道者の基本姿勢は、ひたすらに涅槃ニルヴァーナに至ることを専一に求めること。水平の道には、公案やマントラ禅や只管打坐、事上磨錬(仕事を精密に一生懸命やる)などの冥想手法はあるが、最終的に万事休した坐姿勢になり、それが只管打坐であることが念頭にあるのではないかという感触がある。

水平の道は、冥想十字マップでは、

1.有想定

2.無想定

3.愛

4.有相三昧

5.無相三昧

と示され、これら用語は密教から借用されたものに似ているので、垂直の道かと誤解されがち。ポイントは、1~2までは、自分が冥想しているのに対し、4~5は自分はないところ。

ただし説明は、ヨーガ・スートラと釈迦の涅槃は四禅から入ったというプロセスをベースにしている。事情をわかりにくくしているのは、一般に水平の道とはおおまかには禅のことだが、禅では、ニルヴァーナかそうでないか、或いは悟っているか悟っていないかの2段階説を採るものであるのにもかかわらず、5段階説でかつ各段階の用語を密教に似せているところである。

そこで、禅の悟り例えば只管打坐にあっても七段階の特質があるものだということをダンテス・ダイジは、『只管打坐の七ステップ』で殊更に示しているように思われる。

十牛図は、十段階の禅のステップとして有名だが、どこまでが、自分が坐っていて、どこから自分がないのかが、冥想十字マップの水平5区分を考えるポイントとなる。

 

この他に、神下ろしと「垂直でも水平でもない道」について言及せねばならない。

神下ろしは、主神・神仏を我に引き入れて主神・神仏の声を審神者に聞いてもらうというものであって、自分は降りてきた主神・神仏が何を語っているかは知らないというタイプの降霊降神のこと。神仏とコンタクトできるが、霊媒(よりまし)は、何が起こったのかわからないという特徴がある。

また垂直でも水平でもない道とは、ソーマ・ヨーガ、カーマ・ヨーガが代表的だが、芸道、武道すなわち、書道、茶道、華道、香道、歌道、柔道、剣道、合気道、舞踊、ダンス、ある種の肉体労働、ハタ・ヨーガなどでも神仏に至り得るものである。これは、『プロセスもテクニックなぞもないことを体現しているあらゆるあなた達』(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジの巻頭言)と言われる根拠である。

 

冥想十字マップ-1(定とサマーディ(三昧)の違い)

冥想十字マップ-2(チャクラと七つの身体への対応)

十牛図

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三歳の全能感と神の喪失の始まり

2023-09-29 03:26:02 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-02-05 

◎三歳の全能感と神の喪失の始まり

 

さて、3歳は、自分で歩けるようになり、社会性が芽吹き意識も発達し始める頃。育てた親にとっては、最もかわいい時期だが、その頃死なせるとインパクトも大きい。黒人掃除婦はこれによって大悟した。

以上3話は、三歳児が早世するか、彼自身がネガティブな人生をスタートするという話であって、プロットとしては一律ではないものの無慈悲な運命という点では変わりない。肝心な点は、三歳を生き延びた場合、苛酷な環境だろうがそうでなかろうが、その年齢付近で神を喪失したということ。

3歳とは、神を生きていた実感を残していた頃だが、そこから一旦神を喪失し、再び神を生きることを目指す探求の旅が始まる。

有名覚者の場合、三歳かどうかは別にして、両親早逝の厳しい環境で育った例が多いのは、彼ら自身が早期に理不尽、不条理を人生の早い段階から自覚するルートを選んできたということは否定できない。

 

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郭巨が三歳の子を捨てに行く

2023-09-28 03:22:06 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-02-04 

◎郭巨が三歳の子を捨てに行く

 

儒教の説話二十四孝子から。

郭巨は、河内と云う地方の人。郭巨の家は貧しかったが、母を養っていた。妻との間に一子を得て、三歳になった。郭巨の老母がその孫を可愛がって、自分の食事を分けて与えていた。

ある時、郭巨は妻に「家が貧しいので、ただでさえ母の食事も不足がちであると思っていたのに、それをさらに分けて孫に与えているので、食べ物はきっと足りないだろう。

これは、間違いなく私の子供がいるせいだ。所詮、お前と夫婦であれば、また子供は授かるだろうけれど、母は二度有るわけではない。とにかくこの子供を殺して、母をちゃんと養いたいと思う」と郭巨は言った。

 

妻もさすがに悲しいことだと思ったけれど、夫の命令に逆らわず、その三歳の子供を引き連れて、埋め殺しに行った。

 

郭巨は、涙をこらえながら、少し掘ったところ、黄金の釜を掘出した。その釜に不思議な文字が彫ってある。

その文字は、天賜孝子郭巨 不得奪民不得取と書いてある。その意味は、

天道より郭巨に給わったものなので、余人は取るべからず。またその釜を手に入れて喜んで、子供をも埋めず、ともに帰って、母にますます孝行を尽したそうだ。  

 

母の食べる量を増やすために、子供を殺そうとする話である。またこの話が、時の政府の認める飢餓時のおすすめ行為パターンとして、中国の飢饉の時は、子供を殺すことが広く行われてきた可能性もある。

 

ここでは、黄金の釜を掘りあててハッピーエンドにしてあるが、黄金の釜が出ない場合がほとんどなので、そこでどのようにするかの方が問題であり現実的である。

まず子供を殺すという選択肢はないので、一般的には、これまでどおり、老親が孫に食べ物を分け与える善意に感謝することしかできないと見るのだろう。

 

イエス・キリストの他に禅者も、「明日のことは、明日が思いわずらう」として、明日の食べ物は神が心配してくれるというのが、神を知るものにとっては当たり前の感覚である。そこで自分が飢え死にしようがしまいが、それは自分にとってどうでもよいことである、というあり方である。しかしこれは、一人ぼっちで修行する立場ではそう言えるのであるが、一家を食わせる家長の立場にあっては、そう単純ではない。

 

それでも見る目のある求道者は、黄金の釜があることを確信している。

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芭蕉、三歳の捨て子に会う

2023-09-27 03:08:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-02-03 

◎芭蕉、三歳の捨て子に会う

 

芭蕉の野ざらし紀行から。

 

野ざらしを心に風のしむ身かな。

:野に捨てられたされこうべである「のざらし」になると決意して旅に出たものの、やはり秋風は身にしみるわい。

 

猿をきく人すて子にあきのかぜいかに

:芭蕉が富士川のあたりを通っていると三歳くらいの捨て子を見かけた。その鳴き声を聞けば誰しも何とかしてやりたいとは思うものだ。このままほっておけば、飢えて死を迎えるのは必定。

ところが芭蕉は、「父がお前を憎んでそうしたわけでもなく、母がお前をうとんでそうしたわけでもなく、ただ天命がそうするのであって、自分の運命(性)のつたないことを泣きなさい。」と、この世に生まれ落ちる以前から、自分でそういう環境を選びとってきたことを思い出せ、と言わんばかりの、まるで一人前の大人に対するような言葉を残してその場を逃げ去ってしまう。

 

和歌や漢詩で猿の声を風流と聞くような、鋭敏な感性を持つ人は、この捨て子の泣く声を何ときくのだろうか。

現実の無慈悲さは変わらないが、本当は無慈悲ではないことを知っている自分があることを見極められるか。

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黒人掃除婦の三歳になる息子

2023-09-26 03:07:25 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-02-02 

◎黒人掃除婦の三歳になる息子

 

医師キュブラー・ロスの体験談。

『シカゴのサウスサイドのスラムに生れた女(黒人掃除婦)は、貧困と悲惨の中で育った。

アパートには電気もガスも水道もなく、子供たちは栄養失調で病気がちだった。貧しい人たちがたいがいそうであるように、女も病気や飢えを防ぐ特別な手段を持たなかった。子供たちは粗悪なオートミールで飢えをしのぎ、医者にかかることは特別な贅沢だった。

ある時、彼女の三歳になる息子が肺炎で重体になった。地元の病院につれて行ったが、10ドルの借りがあったために診てもらえなかった。女はあきらめずにクック郡立病院まで歩いて行った。そこなら貧窮者でも診てもらえるはずだった。

不幸なことに、待合室は女と同じような深刻な問題をかかえた人たちであふれ返っていた。

待つように指示された。三時間じっと待ちながら、女は小さな子が喘鳴し、あえぐのを見ていた。息子は女があやす腕の中で息絶えた。

嘆くなといってもとうてい不可能なその経験を淡々と語る女の態度に私は胸を打たれた。

深い悲しみをうちに秘めながらも、女は否定的な言葉を吐かず、人を責めず、皮肉も怒りもあらわさなかった。

その態度があまりにも人並みはずれていたので、まだ未熟だったわたし(キュブラー・ロス)は、思わず「なぜそんな話をするの?それと瀕死の患者とがどういう関係があるというの?」と口走りそうになった。女はやさしく思いやりのある黒い瞳で、じっと私を見つめ、まるで私の心を読んだようにこう答えた。「いいですか、死は私にとって、なじみ深いものなんです。古い古いつきあいですからね。」

私は師を見上げる生徒になっていた。「私はもう死ぬことが怖くありません。」女は静かだが、はっきりとした口調で続けた。「死にそうな患者さんの部屋に入っていくと、患者さんが石のように固くなっていることがあります。しゃべる人が誰もいないんです。だからそばに行くんです。時には手を握って、「心配することはない、死はそんなに怖いものじゃないって、言ってあげるんです。」そういうと女は口を閉ざした。』

(人生は廻る輪のように/キュブラー・ロス/角川書店P179-180 から引用)

この黒人掃除婦は、禅の表現で言えば、大死一番をしてしまったのである。

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三歳

2023-09-25 03:05:33 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-02-01 

◎三歳

 

三歳の子供には全能感があふれている。ところが、三歳の頃、人は神の喪失を感じるのではないかと思わせる印象がある。自分の実感として、確かに3歳の頃は、神と一体であるみたいな、全一性のような、全く問題のない状態にあったように思う。ところが5、6歳になって、何か得体の知れぬ喪失感を、常に全人的に感ずることになって、明らかにあったはずのあの充実感、全能感が、どこをどう探してみても見つからないという虚脱を毎度おぼえた。

このような神の喪失感を、フロイトの弟子にして、ニーチェから求婚されたルー・アンドレアス・ザロメは、『私たちの初めての体験は、特筆すべきことに、神の喪失なのである。』(ルー・ザロメ回想録 自伝文庫/ルー・アンドレーアス・ザロメ/ミネルヴァ書房P1から引用)と語る。

 

3歳を過ぎて万人ほぼ一斉に神を喪失するが、それからの神への再アプローチは各人に任されている。神への喪失に直面するということは自分自身に出会うということであり、堅氷を見つめ打ち破って行くことに取り組むということである。

また3歳以前の子供が、自分の前世はこれこれで私が誰それの生まれ変わりなどと語ることもあるが、それは神の喪失という決定的な事件に比べれば、前世記憶の披歴という超能力ではあるが、些細なものだと思う。

(出口王仁三郎の随筆集の玉鏡の再生に以下の故事がある。

『王仁三郎の長男六合大(くにひろ)の葬儀に当り王仁は遺骸に向つて「大本は男の子は育たぬのであるから、今度は女の子に生れてお出で」と言った。

すると、満一年後尚江が生れ、彼女が三歳の時、背負って六合大を祭つてあるところにつれて行くと、突如背中から

「ここには私を祭ってあるのだ、私は六合大さんの生れ替りじゃ」と叫び出したので、王仁もゾツとした。』)

 

『森の中をさまよう三歳の童子』という言葉が、ダンテス・ダイジの著作中に漠然と脈絡もなく出てくる。これは、説明がないだけに三歳の全能感と神の喪失の始まりという決定的なスタートを宿しているように感じられるのだ。

三歳は、自分では流暢な表白の能力はないが、『三歳』にからんで、以下の3つの逸話を挙げてみる。

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出生と乳児の時期

2023-09-24 03:33:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-01 

◎出生と乳児の時期

 

人は死んだ直後に神を見るチャンスが与えられている。その後何度かよりよい転生先を選ぶチャンスがあり、最終的には転生先をより絞った形で出生する子宮を選択し出生してくる(チベット死者の書)。そうは言っても転生する子宮を選択できるフリーハンドを持っているのは、相当に発達した人物のみであり、大方は過去のカルマに応じて選択の余地なく生まれてくるようだ。この説では受胎シーンと出生シーンが分かれているが、受胎シーンまで説明しているスピリチュアリストはパラケルススなど少ない。

まさに生まれようとする時、赤い火の玉である精霊が入って来る由(玉鏡/人魂/出口王仁三郎)。

 

こうして出生した乳児は幼き帝王である。泣きさえすれば、世界は何でも欲求を充足してくれる。

帝王と言っても全知全能の覚者というわけではない。釈迦もイエスもOSHOバグワンも長じてから悟りを開いたのであって、生まれながらにして覚醒していたのではない。仮に覚醒していたとしてもそれは、無意識であって、意識的ではない。

だから、覚醒のことを老いたる赤子、白髪の子などと呼んで単なる赤ん坊と区別する。

ただし人間というものは、貴重なものであって、神あっての人だが、人あっての神という部分がある。それは三身論などでその理屈を見ることができる。

また釈迦は、誕生後すぐに七歩歩いて天上天下唯我独尊と言ったと伝えられるが、それは、宇宙には自分以外に何物も存在せず、かつすべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した観念の遊戯であることを象徴している。

インドの聖者ユクテスワによると、

『このようにして聖霊と一体になった人は、ついに不生不滅の永遠の父そのものと一つになって、サティヤ・ローカにはいる。そこで彼は、すべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した単なる観念の遊戯にすぎず、また、宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る。この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。』

(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P70から引用)

※サティヤ・ローカ:第七身体

ユクテスワは世界を遊戯と見ているが、この七歩とは七つの次元、七つの身体のことである。

 

この見方からすれば、出生した乳児というのは、誠に世界の帝王と呼んで差し支えないのだと思う。

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アートマンから中心太陽(ブラフマン)へ

2023-09-23 18:51:30 | 真剣から無駄へ-世界の戯れneo

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-5

(2022-06-26)

 

第七身体について、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の散文で『私は終わって、ありとあらゆる戯れそれ自身だ。』(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P73から引用)と述べているが、これは、ダンテス・ダイジのオリジナルではなく、ユクテスワの見方でもある。

『このようにして聖霊と一体になった人は、ついに不生不滅の永遠の父そのものと一つになって、サティヤ・ローカにはいる。そこで彼は、すべての創造物が、本質的には、自分の“属性”をもって映し出した単なる観念の遊戯にすぎず、また、宇宙には自分以外に何物も存在しないことを悟る。この一体化の状態をカイヴァリヤ (唯我独存)という。』

(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P70から引用)

※サティヤ・ローカ:第七身体

ユクテスワも世界を遊戯と見ているのだ。踊るシヴァ神。踊り念仏者たち。

さて、この七つの身体に屹立するカイヴァリヤ。これが、「釈迦が生まれてすぐ七歩歩いて、天上天下唯我独尊と唱えたことだ」と気がつく人は少なくないだろう。七歩とは七つの次元、七つの身体のこと。ダンテス・ダイジやユクテスワのレベルにおいて初めて意味がとれる“天上天下唯我独尊”を仏教全宗派の信者に、黙ってしゃべらせるというのは、なかなかの趣向である。

ダンテス・ダイジは、上掲書の図版でクンダリニーたる一直線の光輝くエネルギーが中心太陽ブラフマンに突入するシーンを図示している。

すなわち、個人であったメンタル体が全体たるアートマンに化し(個人たるコーザル体がアートマンの光線であったことに目覚める(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ」P101参照)、そのアートマンの光線がブラフマンなる中心太陽と合一する。この段階の次に唯我独存のカイヴァリヤ図が置かれ、最後にモクシャ(実在・意識・至福)が置かれている。

 

これにて第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性は、さらに明らかになった。

 

この後、ダンテス・ダイジは、自分の肉体に帰還するという、宇宙飛行士も腰を抜かすような“死からの再生”まで図示している。

覚醒、悟り、神人合一などと、ともすれば観念的にとらえられがちな体験は、実は体験とはいえない体験であることを示したのだ。

 

OSHOバグワンは、どの部分をサマーディと言っているのだろうか。

◎冥想の効用のない部分、ある部分-7

◎冥想の効用のない部分-6

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七つの身体-ケン・ウィルバーの俯瞰

2023-09-23 06:43:37 | チャクラと七つの身体neo

◎悟りと迷いの混在

(2021-10-19)

 

ケン・ウィルバーは、著書アートマンプロジェクトで、自分の「近似的な自己感覚10段階」を、ヴェーダンタや、カバラの十球や、スイスの心理学者ジャン・ピアジェの発達段階説、フロムやリースマンの自我のタイプ説、仏教唯識説などと並行に比較した表を作っている。スタニスラフ・グロフは、LSDを用いたセラピーで知られる。これは後に非合法化され貴重な実験となった。図はその一部に七つの身体軸を加えてみたもの。

これをみると、ピアジェなどの説には、アートマンとブラフマンの窮極の段階がない。窮極の段階がない体系は、それが心理体系だろうが存在体系だろうが不完全なものだが、それを排斥せず、堂々と載せているところにケン・ウィルバーの懐の深さを感じさせる。

ケン・ウィルバーは懐が深かったゆえに、その説のインパクトは薄れ、今逆にあまり評価する人が少ないのだろう。また窮極の段階を持たない学説は、宗教的には不完全なものだが、心理学者は、別に問題だとも思っていないのだろう。

覚者の側からすれば、窮極を悟った人も、それに至らず迷いにある人も差はない。だが、世の人々の大半である迷いにいる人が、道元の言う修証一如(修行も悟りも同じ)と嘯くのは、間違いである。

ケン・ウィルバーは、覚者として、迷いの学説と悟りに至っている説を並置したのだ。迷いの学説をも評価したのだ。だが、学会や世間にそのような「悟りや迷い」という視点は乏しい。

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ジェイド・タブレットについて

2023-09-23 06:14:40 | ジェイド・タブレット

◎自序

 

ジェイド・タブレットでは、ライフ・ステージ別の窮極に至る道と天国希求以降のポイントを説いてみる。

古来、神仏に至る冥想のステージは様々な段階として説かれ、冥想の深浅高低は、多くの宗派で説き尽くされてきた。いずれも、迷い(マーヤ、無明)から悟り(神仏・ニルヴァーナ)に至る段階を説いているのだが、アメリカの覚者ケン・ウィルバーのように悟り段階を持っていないステップ説まで披歴するようになっては、訳の分かっていない人はますます困惑することとなり、世の混乱は極まれりと言うべきだろう。

そこで、瞑想とか宗教にほとんど知識がない青少年や大人を念頭に、日々の冥想が世界平和と真の幸福をもたらすものだという流れを、簡単に書いてみるものである。

その中でキーポイントは、である。愛は永遠の価値があるが、かそけく簡単に壊れやすいもので、自分から主張する強引さとは無縁である。

冥想の深浅高低-1(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-1)
冥想の深浅高低-2(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-2)
冥想の深浅高低-3(ヨーガ・スートラに見る定と三昧-3)
冥想の深浅高低-4(原始仏教の分類1)
冥想の深浅高低-5(原始仏教の分類2)
冥想の深浅高低-6(原始仏教の分類3)
冥想の深浅高低-7(原始仏教の分類4)
冥想の深浅高低-8(原始仏教の分類5)
冥想の深浅高低-9(原始仏教の分類6)
冥想の深浅高低-10(冥想の縦軸と横軸)

冥想十字マップ-1(定とサマーディ(三昧)の違い)

冥想十字マップ-2(チャクラと七つの身体への対応)

 

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-4

2023-09-22 03:43:26 | ダンテス・ダイジの風光

◎純粋冥想のみが人類の全面的平和と全面的幸福を明示できる

 

『純粋冥想には、初めも終りもない。

純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。

 

そして純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できるのである。

 

あたりまえに考えると、この人類は奇妙な文明と称する何ものかを生きている。

 

生とは何か?

死とは何か?

私とは何か?

存在とは何か?

真の幸福とは何か?

 

これらは、それぞれに分割できぬ全体をなしているのだが、人類史上、ごく少数の人々を除いて、これらが解明され実現されたことはなかった。

この余りにも、あたりまえな前提を抜きにして、人類は、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求して、文明と称する何かを作り出している。

そして、今や、人類全体をたやすく滅亡させることのできる巨大兵器を持て遊んでいる。

 

余りにも、あたりまえな基本抜きでは、単なる欲望追求の複雑化は、自滅に至って終るだけだというのに。

こころみに問う。

欲望とは何か?

人間とは何か?

これは、哲学的あるいは宗教的あるいは、どのような一定の立場の命題にもなり得ない。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅶ~ⅷから引用)

 

純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。ところが、純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できる、とくれば、全面的平和と全面的幸福は、人間の側に属していないであろう純粋冥想の彼岸に望むものなのだろうと思う。

ダンテス・ダイジの文明評価は、平たく言えば何人覚者を出したかということ。文明の成果とは覚者であって、神の香気。この近代西欧文明は、神を隠してしまおうという傾向が恐ろしく強く、ともすれば本物の覚者が出れば、イエスのように迫害して殺すし、OSHOバグワンのように域外に放逐し排斥するものである。

今や人間を至上とする民主主義と新旧の共産主義の皮を仮りた独裁国家が世界で角逐しているが、どちらにしても神の居場所はない世界となり果て、真の覚者はいたとしても息をひそめている。まるで、神への信仰を持つことが社会にとって危険であるというような言論思想圧殺の時代が、まもなく来ることをありありと予感しているが如くだ。

 

こんな時代に覚者が何人出ようが、神のかぐわしい香気が、人々の行住坐臥や街並みや野や山や海にどの程度残っているかどうかを気にする人はとても少ない。

このような姿をダンテス・ダイジは、『奇妙な文明と称する何ものか』と謂う。

 

まず、純粋冥想により、

生とは何か?

死とは何か?

私とは何か?

存在とは何か?

真の幸福とは何か?

を解明し、その悟りを持って生きる。

これらが『それぞれに分割できぬ全体』であるとは、今ここのことだが、それは人間性には属していない。

悟りのないままに、人類が、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求しても、その果てしない強欲は、核兵器による人類滅亡を人質に脅迫をお互いに繰り返すこの80年間を経て、その緊迫感は近年露骨で、さらに全面核戦争の危険度が高まりつつある。

大方の人類には、全く信じられないことかもしれないが、世界平和と世界人類の幸福を実現する手段は、軍事的優勢でも、経済的圧倒でも、巧緻な外交でも、インテリジェンスの勝利でもなく、各人が純粋冥想に取り組むことなのだ。

仮に今ここに世界平和が実現したとしても、万人が悟っていない以上は、早晩次の戦争が繰り返されるだけである。

 

たしかに、これまでの人類の歴史上大悟覚醒した人は稀である。覚醒する確率は低いけれど、それでも今ウクライナで戦争が行われている中、人類滅亡の戦慄に慄きながらも平和と幸福を実現する手段は、純粋冥想だけなのである。各人が純粋冥想により、悟りという意識の限界状況を通過していくことだけなのである。

悟りには、見神と神人合一の2段階あるが、神人合一により世界と合一し、世界に何の問題もないことを確認し、真の幸福と世界平和を生きるのだ。また真の幸福と世界平和は、上部から下部へと移りながら実現するものであり、霊的な言い方ならば、時間のない世界に実現し、神界に実現し、霊界に実現し、最後に現界に実現する。

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アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-3

2023-09-21 03:58:07 | ダンテス・ダイジの風光

◎成熟し切った自我とは何であるか

 

『真正の覚者についての、いかなる規定も説明も無意味である。

彼には、いかなる特定の立場も質もない。彼は、究極的覚醒そのものであるが、覚醒の何たるかを一度も垣間見たことのないあなたにとって、覚醒を見わける方法も手段も、その眼力もない。 したがって、苦悩するあなたにとって、真正の覚者は、決してわからないのである。

真正の覚者なしでは、純粋冥想はあり得ない。あなたは、覚者の行為しているその形式を実践することはできる。だが、あなたの覚者とその行為形式とは、まったくの欺瞞である。それは、最悪の狂信的イデオロギーになる可能性を持っているという点で、単なる社会的欺瞞よりも、たちが悪い。

 

ここで、あなたは、成熟し切った自我とは何であるかを理解しなければならない。 成熟し切った自我とは、いつでも死ぬ準備のできている自我である。成熟とは、世界とか社会とかに順応して、いわゆる円満な人格になった自我ではない。順応とか適応とかは、一つの妥協であり自己欺瞞にすぎない。

成熟し切った自我は、単に生きのびるために、決して自我の渇望や情熱を妥協させ摩滅させはしない。成熟し切った自我は、私達一切の苦悩と混乱との諸問題 からの全面的開放のために、額面通り命がけである。

そして、自我は、自我という欲望が、問題を作り出していて、それが、解決不可能であることを全面的に知っている。つまり成熟し切った自我は、いつでも死ぬ準備ができている。

この時、あなたは、真正の覚者と出会うに必要な直観を得る可能性を持つ。 真実の覚者が何であるかわかるに必要な空白を持つ可能性がある。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅴ~ⅶから引用)

 

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を実現するには、真正の覚者に出会わねばならない。

しかしながら、この部分では、あなた自身が悟っていなければ、真正の覚者に出会っていたとしても、真正の覚者を見分けることができないとしている。

ところが例外的に、あなたの自我が成熟しきっていれば、真実の覚者と出会った時にそれが真実の覚者であるという直観を得る可能性を持つことができるとする。

自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。

教義と坐法と金と生活の面倒を見てくれる誰かがいれば、純粋冥想という悟りが成るわけではない。真正の覚者と出会わなければ、ノーチャンスなのだ。

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ルクレティアの自殺

2023-09-20 03:39:56 | 冥想いろいろ

◎貞節と一夫一婦

6世紀、古代ローマの貴族セクストゥスは、ローマ軍のアルデア攻囲戦での宴会で、いとこのコッラティヌスに妻の比べ合いの余興を持ちかけた。セクストゥスの妻らはローマで宴会を開いて遊んでいたが、コッラティヌスの妻ルクレティアは召使いたちと夜遅くまで糸紡ぎをしていた。ルクレティアの貞淑さに瞋(いか)ったセクストゥスは、数日後、剣で脅しながらルクレティアを強姦。
傷心のルクレティアは、夫と父にこの経緯を伝え、短剣で胸を突いて自刃した。

キリスト教では、貞潔が求められる一方で自殺は禁止されている。人生場裡には、そういう理不尽な事件はままあるものだ。
後にシェークスピアは、この事件を題材に『ルークリース凌辱』(The Rape of Lucrece)を書いた。

事情はやや異なるが、明智光秀の娘細川ガラシャの自殺、明治維新の大田垣蓮月の貞節など、こうした事件には見るべきものはある。

魂の伴侶、一夫一婦のビジョン、イスラムの一夫四妻のビジョン、サンヴァラ(交合図)など、一夫一婦の正統性について考慮すべきファクターは多いが、歴史的に不倫乱倫は一律に悪とされてきたのには、それなりの理由があるのだろうと思う。

(ルクレティア/クラナッハ・ザ・エルダー/ドイツ,バンベルク,バンベルク図書館蔵)

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細川ガラシャの十字架

2023-09-19 15:59:14 | キリスト者の秘蹟neo

◎散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

(2020-11-29)

 

大阪の南蛮文化館に細川ガラシャが肌身離さず持っていたとされる十字架が展示されている。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/22572/20161115/nanban-bunka-kan-osaka.htm

表には明智家の家紋である桔梗と秋草とトンボが彫られ、裏面には竹と鶴が象嵌され、純銅製の象嵌に一部金彩と小さいが細工は綿密豪華なものである。

 

細川ガラシャは、明智光秀の三女「たま」として生まれ、15歳で、当時その武将としての器量を織田信長に認められていた細川忠興に嫁ぎ、二子に恵まれた。ところが19歳の時本能寺の変が起こり、細川忠興は光秀から加勢の出兵を求められたが出さなかった。たまは、一朝にして謀反人の娘となったが、忠興の愛情もだしがたく、これを殺さず、丹後の国の味土野(京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。幽閉中男子一名が生まれ、豊臣秀吉の許しもあって、幽閉期間2年で大阪に転居した。

 

夫忠興が九州に赴任中に、カトリックに傾倒。これに反発したのか、忠興は「五人の側室を持つ」など辛く当たったため、神父に離婚の相談をするなど夫婦仲は冷えていた。

 

1587年伴天連追放令が出される中、彼女は洗礼を受け、ガラシャ(gratia、恩寵、恵)の洗礼名を受けた。

 

1600年7月、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は、「妻の名誉に危険が生じたならば、妻を殺し、全員切腹するように」と言いおいていたが、敵方の石田三成が大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしてきた。

 

石田三成の手勢が屋敷を囲んだところで、侍女や他の女たちを逃がした後、ガラシャは、家老小笠原秀清に介錯させた。ガラシャの死後、小笠原秀清も屋敷に爆薬を仕掛け、ガラシャの遺体を残さないようにして自刃。

 

ガラシャの辞世。

「散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 

明智光秀の居城は亀山城で、大本教の本部。出口王仁三郎の霊眼では、明智光秀は、秀吉と結託して織田信長を謀殺、中国大返しの後は、天王山が決戦となることが最初からわかっており、信長を殺害後はわざとぐずぐずして、秀吉に討ち取られたことにした。光秀は、日本の風土では、主殺しの汚名を着た者の天下は長続きしないことはわかっていたからである。

 

その後、光秀は千利休になりすまし、秀吉の参謀として長年にわたり秀吉に献策し続け、朝鮮征伐もその一つだとする。彼によれば、何でも光秀=千利休説は千家長男の一子相伝の秘密だとか。

また利休切腹の原因は、娘を秀吉の側室に出すのがいやだったからなどと取りざたされてもいるが、誠に二人の英雄の心中を誰が知ろう。(随筆集水鏡/出口王仁三郎)

 

ガラシャも戦国一の美貌であったからこそ狙われたという側面はあろうし、だからこそ忠興も手放そうとはしなかったのだろう。

 

出口王仁三郎は、「生まれつきというものは、過去のカルマで決まっているものだから、美人は美人として、醜女は醜女としての本分を守るのが天地惟神の大道である。このように上下の万民が一致して、美醜などその差はあるがその本分を守る状況となれば、神示にいうところの万民が平等の、運不運のない五六七(みろく)の世が現出するのである。」とする(霊界物語第四六巻第一七章「惟神の道」)。この考え方は、何でも平等の現今の考え方とは違うが、現代のようにスーパーリッチを許す一方で表面の平等に神経質であれば、やがて相互の争闘は止むことなく世界戦争に発展していく仕掛けである。

 

ガラシャの本分を守るというのが、「散りぬべく 時知りてこそ」。

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只管打坐の7ステップ-4

2023-09-19 07:01:31 | 只管打坐neo

◎絶対に買えない最高の逸品

(2007-10-27)

             

ダンテス・ダイジは、身心脱落のことを「宇宙と一体という経験のみにとどまらない、全くの何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道」と説明している。

 

いきなりこういう説明を受けても、とっつきにくく、全くの何のことやら想像を絶してしまう。大体こんな説明をするから、折角門前まで来て中を見ようとする物見高いお客さんをみすみす帰してしまうようなものだとつくづく思う。

 

そこで、クリシュナムルティの生き方や著作を見ると、それがどんなものなのか、段々見当がついて来るのではないだろうか。そうは言っても、クリシュナムルティのやり方だって、「この品物はどんなに頑張っても買えませんが、こんなに素晴らしい品物でーす」みたいな宣伝をしているようなところはあるけれど。

 

ダンテス・ダイジの只管打坐の7ステップは、これだ。

『ステップ1.

固定静寂

エネルギー

パワー

 

ステップ2.

あたりまえな生命の暖かさ

意識する必要のない大安心

完全にあたりまえに生きていること

 

ステップ3.

至福

Every thing is ok の情熱と平安

実用的な霊的ビジョンと鋭敏な感受性

 

ステップ4.

すべてが自己である愛・慈悲

大いなるすべてのものに対するいとおしさ

すべてが一体であるという感謝

底知れぬ生命の絶望と悲しみ

 

ステップ5.

カオス・全面的な真っ暗闇

パーフェクトにデリケートなあらゆるもののクリエーション

美と調和のバイブレーション

 

ステップ6.

あらゆるレベルでの智恵・インスピレーション

直感・個生命としての完全な納得

個我を残した時点での限界的英知

Everything is Everything

 

ステップ7.

エクスタシー・すべてのすべて

身心脱落・脱落身心

究極の根底・ニルヴァーナ

唯一の私自身・私自身がない私自身

すべてのものとなって現れている私自身

 

(注1)どの時点でどのステップが出てくるかわからない。

(注2)人により、第一番目から六神通を持つ場合もあり得る。

ただし、それにとらわれてしまえば只管打坐の進行は自動的に止まってしまう。

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)

 

最初にこのステップを見た時にはこのプロファイルの根底にある原理原則など想像もつかなかったが、今見てみると七つのステップとは、七つのチャクラに照応した区分になっていることがわかる。

 

ダンテス・ダイジは、只管打坐のステップなどというものは、はなから問題にしていないが、ステップなどというものがあるとすればという条件つきでこのステップの説明を始めている。

 

我々が只管打坐を知的にイマジネーションするに当たっては、こうしたステップを相手にしないものこそが只管打坐であるという彼の説明全体に横溢する自由奔放な気分を、忘れてはならないだろう。

 

イメージが掴めても掴めなくても、さあ坐ってみよう。

 

きちんとした理由を示すことなどできないが、自分が気に入っている身の回りの道具や持ち物や、この劣悪だが素晴らしい文明の息吹は、それによっていくらでも残ることになるのではないだろうか。

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