アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

キリスト教の神殿の眠り

2024-12-21 03:26:43 | イエスと救世主たち

◎救いと癒し

 

キリスト教の神殿の眠り (神殿の御籠り)というのは、病人や助けを求める者が教会に泊まり込んで、夢の中で聖人に出会い、願いを叶えてもらおうとすること。

 

初期キリスト教は、当初この神殿の御籠りの風習に激しく抵抗したものの、すでに四、五世紀には、夢の中で聖人からじかに 指示を受けたり、また聖人と直接的に触れ合うことにより癒しを得ようと、多くの人々が殉教者の墓 や巡礼地を訪ねるようになった。

神殿では、現れた神に心配事や悩みをすべて打ち明け、そして癒しのために必要な指示を受け取る。聖人は心の聖なる領域を示し、魂の隠れた次元への入口を開く。

癒しの夢の話では、大天使ミカエルおよびコンスタンティノープルの殉教者コスマスとダミアヌスに奉献された教会に由来するものが多い。これらの巡礼地の評判を聞きつけ、キリスト教徒でない者も救いと癒しを求めてそこに詣でた。

 

ところが、異端審問の影響からか、幻視や神秘的体験はただそれだけで即座に悪魔的なものとされ、死をもって罰せられた。

よって神殿の眠りは、中世末期以来もはや行われてはいない。教会がこれを魔術的儀礼として断罪した結果、多くの地で夜教会に入ることすら禁じられるようになったのである。

 

神殿の眠りとは、高級神霊とのコンタクトを求めるものだが、救いと癒しを求める心の中にいささかも私があってはならない。

高級神霊とのコンタクトを求めても、降臨するのは多くは下級霊であろう。

出口王仁三郎が数千人規模で降霊実験をやったが、ほとんど下級霊だった実例もある。

 

その点で、教会が神殿の眠りを魔術的儀礼として禁止したのは英断だった。もっともカトリックの聖者認定基準では、若干の奇跡の実行が含められているのは、変な感じである。

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目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れなかったこと

2024-09-16 06:25:33 | イエスと救世主たち

◎言葉で語れないニルヴァーナ、白髪の子

 

トマス福音書から、

『一七

 イエスが言った、「私はあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い 浮かびもしなかったことを与えるであろう』

(ナグ・ハマディ文書 2 福音書/荒井献/〔ほか〕訳/岩波書店P24から引用)

 

これは、言葉で語れないニルヴァーナのことであり、出口王仁三郎の次の歌と同じ。

 

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず

 

耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳

(出口王仁三郎)

 

『一一

 イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上(の天)も過ぎ去るであろう。

そして、死人たちは生きないであろう。そして、生ける者たちは死なないであろう。あなたがたが死せるものを喰う日に、 あなたがたはそれを生かすであろう。

 

あなたがたが光にあるとき、あなたがたは何をするであろうか。あなたがたが一つであった日に、あなたがたは二つになっている。しかし、あなたがたが二つになっているときに、あなたがたは何をするであろうか」。』

(上掲書P21から引用)

 

『天は過ぎ去る』とは、現象の転変が止まらない様。

生も死も一緒くたになった第六身体アートマンにある日が『死せるものを喰う日』であり、死人たちは生きず、生ける者たちは死なない。

 

一つの自分個人が一つの宇宙全体となる時、合計二つとなっている。その時誰の意思で何をするのだろうか。天意のみあり、恣意はない。

 

『二二

イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「乳を与えられているこの小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るの でしょうか」。イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがた は、[王国に]入るであろう」。』

 (上掲書P26から引用)

 

『二つのものを一つにし』とは、一つの自分個人が死んで一つの宇宙全体となって再生すること。

 

『男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にする』は、両性具有、完全人であって、第五身体で成る。LGBTQではない。

個たる人間の最後の姿は、あらゆる正反対のものを包含して完全人であり、ミクロコスモスのようなものである。

 

『一つの目の代わりに目をつくり云々』は、人は誰でも転生の最初に全能の神に出会っているが、人生航路上で再度自分を死んで神に出会わなければ、真に神に出会うとは言えない。

だからチベット密教では、死の直後には神である母の光明に出会ってもこれを悟りとは見ず、後天的な冥想修行の努力において神に出会うことを子の光明として区別する。母の光明が最初の「目」であって、その代わりに作った「目」が子の光明。

 

老いたる子白髪の子としても表現される。

 

ここまでわかるイエス・キリストが磔にあうまで大悟しなかったのは、まことに不思議なところではある。

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死ぬものが死なないものを着る

2024-09-15 03:19:10 | イエスと救世主たち

◎終りのラッパの響きとともに、またたく間に、一瞬にして変えられる

 

神の国を継ぐとは、大悟覚醒のことであって、天国的なものを超えるということ。

朽ちるものとは、天国的な幸福。朽ちないものとは、天国も地獄も越えた幸福

終りのラッパの響きとは、家族、恋人、金、地位、名誉など自分と自分に属するあらゆる宇宙と別れを告げること。その時に起こるのが、人は朽ちない者によみがえらされるということ。

一瞬にしてそれが起こるということは、徐々に起きるイベントではない。個人が宇宙全体として逆転するのだ。

 

これは、有の方の悟りだが、なかなかこの説明は理解しにくかっただろうが、一方これを書いた使徒パウロはわかっていた人だった。

 

以下新約聖書コリント人への第一の手紙15:50~54。

『兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きとともに、またたく間に、一瞬にして変えられる。

 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。』

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天には平和、いと高きところには栄光あれ

2024-08-07 05:28:28 | イエスと救世主たち

◎石ころも叫ぶ

 

イエスがオリブ山の下りの道をろばに乗って進んで行くと、イエスの弟子たちと群衆が言った。

『「天には平和、

いと高きところには栄光あれ。」

ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「師よ、あなたの弟子たちを黙らせなさい。」

答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。』

(ルカによる福音書19/38-40)

 

天には平和、これは天国のポジティブ面をことほぐ。

いと高きところには栄光あれ、これは神そのものを賛美しているのであって、天国と地獄を超えている。

パリサイ人は、神の子あるいは王を自称するイエスのことを不遜であると思って、黙らせよと要求したが、天意、神威は、そのような抑圧で抑えられるものでなく、人間の最奥から噴出する強烈な情動として叫ばれたものだった。

 

最近は、ややもすれば朝から寝るまでスマホで頭をやられ、常に地獄的な世界観に向きあい、時には天国的なもので癒しを受けるが、最深部には、天国も地獄も凌駕する神の栄光がある。

 

このように人間の生きる環境が厳しければ厳しいほど、人間はかえって神の正義、神の栄光を希求するものである。イエスとの道行きにそれが噴出したのだ。石ころも叫ぶとして。

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youtubeでの聖地巡礼:ヴィア・ドロローサ~聖墳墓教会

2023-08-25 06:39:33 | イエスと救世主たち

◎virtual walkingでイエスの最後のルートを辿る

 

キリスト教徒でもないので、イエス・キリストが、鞭打たれながら十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘まで歩いたヴィア・ドロローサ=苦難の道を、今生で見ることはないと思っていた。酷暑の室内散歩のついでに、ヴィア・ドロローサをyoutube検索してみるとあるわあるわ。https://www.youtube.com/watch?v=UhCBB_hCIeY&t=4s

ヴィア・ドロローサは山を登り山を下りる道であって、ゴルゴタの丘は、今は建物がびっしり建っている区画にあるんですね。本の挿絵やTVで編集されて断片的に見るのと違い、ヴィア・ドロローサのどこを曲がると聖墳墓教会(ゴルゴタの丘)に着くのかがわかる。途中にはイエスに倣って巡礼者が担ぐ大型の木製十字架まで何本か置かれている。

パックツアーなどでリアルでここを観光すれば、ひったくりと物売りに注意しながら、また聖墳墓教会の昇天した祭壇の前では立ち止まれないだろうから、落ち着いて見れやしない。よってyoutubeの聖地巡礼の効用は大。このyoutubeでもイエスが昇天した祭壇の部分が一番再生されているなどとコメントが出る。

 

出口王仁三郎は、アストラル・トリップで、エルサレムに行き、嘆きの壁を見たりしているのだが、それは、現界のエルサレムでなく、霊界のエルサレムであることを自ら明かしている。その点でもvirtual 動画による聖地巡礼では現界を見れて、画期的でありがたいことだと思う。

 

敬虔なキリスト教信者は、イエスの一生を順々に観想していくが、その最後のクライマックス直前のシーンがヴィア・ドロローサ~聖墳墓教会。ヴィア・ドロローサでイエスは十字架の重さで三度止まる。

イエスの後に大勢の悲しみ嘆いてやまない女たちの群れがついて行ったが、イエスは彼女らに『エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。』。』と世紀末的世界観を披露している(ルカ-23)。彼はこの段階でも明日にも終末が来ると思っていたのだろう。

 

また“聖者を殺してしまわない雰囲気”は、そこにはなかったのだ。

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ユダヤ教エッセネ派

2023-06-07 06:29:59 | イエスと救世主たち

◎エッセネ派は富を悪とする

 

イエスの時代、ユダヤ教は、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派の三派があり、イエスは、エッセネ派出身だと言われる。

 

イエスの超能力の行使ぶりを見ると、エッセネ派は、超能力志向集団かと思いきや、そうではないようだ。

 

数少ないエッセネ派に関する描写がユダヤ戦記Ⅱにあるが、教団内の資産や物は信者による共有。快楽を悪とし、自制することと情欲に溺れないことを徳とする。

現代人には信じられないかもしれないが、エッセネ派は富を悪とする。

これにより、教団全体に貧困による屈辱はない代わりに傑出した富者もいない。

 

注目すべきは、子供を親から引き離し教団で育てていること。イエスは前半生が謎だが、そのように幼いうちから教団に育てられた一人がイエスであって、特に優秀な人物だったのではないか。

 

エッセネ派では、死後も霊魂を不死と見るが、転生してくるかどうかは定かでないが、死後天国も地獄もある。

 

ユダヤ戦記では、物やしきたりの話が多く、教義や冥想修行の話は少ないが、エッセネ派から出て来たイエスが、超能力を駆使し得たことを見れば、ユダヤ教正統の伝統の承継者の一人だったのだろうと思う。

 

ユクテスワやパラマンサ・ヨガナンダは、洗礼のヨハネ、イエス、パウロが、一定水準を越えたクンダリーニ・ヨーギだったと見ている。同一の時代に覚者を連続して出せるノウハウと組織と師を備えていたのがエッセネ派だったのだろうと思う。

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救われるリッチな者は誰か

2023-05-20 06:50:28 | イエスと救世主たち

◎アレクサンドリアのクレメンス

 

スーパーリッチであることが、尊敬や賞賛を呼ぶ微妙な時代。政府にとっては、スーパーリッチな者は必ずしも多額納税者ではないので、昔と違ってスーパーリッチだから歓迎するということはない。

 

しかし、不思議なことにキリスト教の支配する西洋世界では過去二千年、リッチな者は天国に入りにくいと言われてきた。

 

アレクサンドリアのクレメンスは、2世紀の教父の一人。彼もリッチな者は天国に入りにくいとする。

 

ただし、彼の言う悟りとは、永遠の生命を得ること。イエスが持ち物をすべて売り払えと言っているのは、外形的な財産をすべて放棄せよといっているのではなく、霊魂が情念から解放されることを言っている。リッチになると倨傲、虚偽、虚栄、他の人を軽蔑することに陥りやすいのだ。

 

また以下のマルコによる福音書は、リッチな者は天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しいと言っている有名な部分だが、字義どおりなら、人間の求める究極はあの世で天国に入ることだが、アレクサンドリアのクレメンスは、そうではなく、神を知り、永遠の生命をこの世で得ること。つまり悟ることが究極とする。

 

マルコによる福音書10-17-31による「富める若者の物語」

『(4)「イエスが旅に出ようとすると、

ある人が走り寄って、跪いて尋ねた。〈善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか〉。

イエスは言った。〈なぜ私を「善い」というのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ〉。

 

(6)すると彼は〈先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました〉と言った。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。 〈あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい〉。

 

(7)その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである。

 

(8)イエスは弟子たちを見回して言われた。 〈財産のある者が神の国に入るのは、なんとむずかしいことか〉。

 

(9)弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスはさらに言葉を続けられた。〈子たちよ、神の国に入るのは、なんとむずかしいことか。金持ちが神の国に入るよりも、駱駝が針の穴を通るほうがまだやさしい〉。

 

弟子たちはますます驚いて、〈それでは、誰が救われるのだろうか〉と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。〈人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。

 

(10)ペトロがイエスに、〈この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました〉と言い始めた。

イエスは言われた。〈はっきり言っておく。私のためまた福音のために、家、両親、兄弟、財産を捨てた者は誰でも、それを百倍受けることであろう。今この世で迫害を受けながら、畑、財産、家、兄弟を有したところで何になろうか。来たるべき世での生命は永遠のものである。しかし先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるであろう〉」〔マコ一〇:一七:三一〕。』

(中世思想原典集成  1  上智大学中世思想研究所/編訳・監修/平凡社P424-425から引用)

 

山上の垂訓で、「幸いなるかな心の貧しき者、天国は彼らの者である。」の心の貧しき者とは、「霊魂が情念から解放された人」のことであって、OSHOバグワンの言い方では、マインド(頭)がない人、ノーマインドの人のことである。

 

誠に21世紀になっても、心の貧しいということは、人間の生き方の重要なテーマではある。

 

なおイエスのグループには、アリマタヤのヨセフというリッチな支援者もいたことも忘れられない。

 

また富、財産は、それ自体白でも黒でもないが、白として扱うことが極大化したゆえの反作用はある。

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初代ローマ教皇ペトロの最期

2023-04-20 06:47:27 | イエスと救世主たち

◎逆さはりつけの密意

 

初代ローマ教皇ペトロは、エルサレムでイエスが十字架にかけられる際に、大祭司の家の庭で、女中がペトロを見て「この人もイエスと一緒に居ました。」と証言したのに、ペトロは、「わたしはあの人を知らない。」ととぼけた。

イエスは振り向いてペトロを見つめた。

 

その朝ペトロは、外に出て激しく泣いた(ルカ伝22章)

 

そんなみじめで情けないペトロは、以後イエスの第一の高弟として、病気治癒などの超能力を使いまくるなど、それなりの実力を備えていった。

 

さてローマの有力者の美人妻クサンチッペが夫と同衾しなくなった。その原因がペトロの宣教にあることで、使徒ペトロは、ローマ官憲による捕縛が近づいているという情報を得て、ローマから脱出すべくアッピア街道を急いでいた。

 

『ペトロが市の門まで来た時、主がローマに入って来られるのを見ました。

主の姿を見て、ペトロは尋ねました。「主よ, ここからどこへ行かれるのですか」。

主はペトロに答えました。「わたしは十字架につけられるためにローマに行く」。

そこでペトロは主に尋ねました。「主よ, 再び十字架につけられるおつもりなのですか」。

主は彼に答えられました。「そうだ、ペトロ, わたしは再び十字架につけられるのだ」。

 

それを聞いた時、ペトロはわれに返って、主が天に昇っていかれるのを見ました。そして大喜びで主を賛美しながら、ローマに戻っていきました。なぜなら、主が言われた「わたしは十字架につけられる」ということは、ペトロの身に起こるはずのことだったからです。

 

ペトロ行伝 第35章』

(ローマ教皇歴代誌 P.G.マックスウェル‐スチュアート/著 創元社P12から引用)

 

当時の人々は、今のような情報氾濫の時代とは異なり、情報が少ないので、見たことや聞いたことがすんなり心に入ってきやすい心性にして、いまのような細かい道徳規範を守らない荒くれた行動パターンの人々だった。

 

そこに自らを捨ててまで、神に殉ずる伝説を二度までも作りに行ったわけだが、ペトロも、十字架にかかる覚悟ができるまでは時間がかかり、イエスの磔刑以後30年以上を要した。

 

ペトロは、逆さ磔けとなったが、タロットカードの吊るされた男のように上下逆転せねば大悟覚醒しないと十字架上で述べたとされる(ペトロ行伝 第38章)。

(カラッチ/Quo vadis, Domine)

 

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