アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

体験ではない体験

2025-01-28 14:58:08 | 現代冥想の到達点neo

◎体験ではない体験それ自身を再体験

(2021-10-20)

 

このブログでは、人間から見た究極の体験を「体験とはいえない体験」と呼んで多用している。

そのoriginが、ダンテス・ダイジの未公刊の詩集「老子狂言」のメシアン・ハンドブックという詩にある。

 

『メシアン・ハンドブック

 

救世主は知っている 

いかなる人であっても 

自分を神の子だと考えるのは 

もっともなことだと

 

健康と病気 

豊富と貧困 

解放と束縛 

これらを受け入れるかどうか 

決めるのは君達だ

 

パッと手を離したらいい 

あとのことは 

流れがやってくれている

 

君達に命ずる 

これからずっと幸福でいなさい

思い出してごらん 

すでに君は

死んだことがあるんだよ

 

立派な救世主は 

自由に行きたい道を行く

 

できないことは

できない

 

救世主でいるくらいなら 

手品師か催眠術師のほうがましだ

 

君は

つねに神でいることはできない 

だが、

素直でいようとすることはできる

 

知るべし 

君は何もできはしない 

春夏秋冬があるように

 

あたりまえでいる・・・ 

これが救世主の極意だ

 

よう君 

いい役 

演じてるじゃねえか!

決して

情熱をやめないこと 

情熱なんぞどうでもいいなぞと

カタイことは言わないでくれたまえ

何ものかへの情熱こそ 

世界を世界にしているのだから

 

君は 

あらゆるものとともに死ぬ 

君も世界も 

もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている

 

いうなれば 

君達は

体験ではない体験

それ自身を 

再体験しようとしている』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

これを見ると「体験とはいえない体験」ではなくて「体験ではない体験」だったようだ。しかしながら「体験ではない体験」では、唐突であり他の文脈で使うには使いづらいかも。

 

人は自我の死に際し、あらゆるものとともに死ぬのだが、そこで自分も世界ももともとありもしないここにあらゆるものが戯れていることに気づく。

 

そこで人は、体験する者と体験それ自体が合一して「体験ではない体験」となったそれ自身を再体験しようとしているのだ。

 

※2025年1月28日追記:

上掲『君達に命ずる 

これからずっと幸福でいなさい

思い出してごらん 

すでに君は

死んだことがあるんだよ』の死とは、タオでありニルヴァーナである。隙間理論でいえば、現象と現象の間の隙間がタオであり、呼吸の合間がニルヴァーナである。

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自意識の頂点では英雄の夢は破れる

2025-01-27 19:14:01 | 現代冥想の到達点neo

◎戦争の代わりにオルガズムを

(2021-07-20)

 

ダンテス・ダイジの老子狂言から、若い頃から気に入っている詩。

 

『大志をもて!

 

かつて男にも

大志があった。

地位・名声・権力———

それらは、一種のオルガズムであり得た。

あるいは、知的探求・芸術的創作———

少なくとも幾ばくかの陶酔を与えてくれた。

 

男の性的悦楽なぞ淡いものだ。

だから男は

いつの日か英雄になることを夢見た。

だが、自意識の頂点では、

英雄の夢は破れる———

それは生物学的必然なのだ。

 

破れた夢は、一つの暴力と化す。

戦争はすぐまじかにある。

 

人間を大自然に憩わしめるのは、

オルガズム以外にはない。

 

悟りとは、究極的なオルガズムなのだ。

 

今や文明は終わった。

究極的オルガズムに帰る最適の時だ。

 

女はと言うと、

女は女でなくなった。

現代女性は、男のように自意識的に快楽を求めつつある。

だが、自意識のあるところに全身全霊的オルガズムのあったためしはない。

 

独立した女は、もう奴隷になることができない。

奴隷になれなければ、本当の性的悦楽などありっこない。

慢性的欲求不満の女達は、自分の産んだ子供を愛することもできない。

 

おお、宇宙よ!

女には性的オルガズムを、

男には宇宙的オルガズムを与えたまえ!』

 

先の第二次世界大戦における敗戦は、軍部が悪いとか、フリーメーソンの陰謀だとか、日本の貴族層が策動したとか、国家神道による国民洗脳のせいだとかいろいろのことが言われる。最後は、日本の主要都市は空襲で焼け野原になり、核を落とされて敗戦となった。

 

この詩を読むと、戦争はまさしく、僕たち私たち自身が原因となって起こしている。その発想法、世界的に均質化されたライフスタイル、それを基盤として、70億人をマインド・コントロールしつつ、すべての個人のありとあらゆる欲望を満足させることを是として、地球ロゴスの巨大想念が形成される。

 

万人の全欲望をすべて満足させるなどあり得ないから、『戦争はすぐまじかにあり、戦争を回避するには、万人が冥想によりオルガズムに憩う』しかない。

文明は、一定の年数が経つと、石器時代から核戦争ができるほどに技術が発達し、核戦争を起して元の原始時代に戻り、のサイクルを繰り返すようだ。そのことは、プラトンやマハー・バーラタの核戦争の記述などでも察しがつくものだ。

物証がないというが、現代においてすら、エコの名のもとに土に帰る素材、水に溶ける素材がベターとされ、技術が進化するほど元の原始時代に戻った時には物証は残りにくい方向に発展するものではないだろうか。

そうした物質文明的な巨大な流れは、もう誰も止められやしない。ただ自分のことだけを自分が何とかできる。

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ダンテス・ダイジのホワイト・フォックス

2025-01-27 18:40:03 | 現代冥想の到達点neo

◎だが、おまえもおれなのだ。

(2015-09-19)

 

今日も外国人観光客の人気ナンバーワンの観光スポットは、ホワイト・フォックスの伏見稲荷でござる。

 

そこで、ダンテス・ダイジのホワイト・フォックスの詩。

 

愛も愛情も不安な灰色と化したこの現代に、まだ大金を儲けようという考えから抜け出せない人は、ダンテス・ダイジの歓迎する客ではない。しかしそんな我利我利亡者も彼の一部である。そうした見方は彼のやさしさではあるが、ろくでもない影響を時代に与え続けているという一側面もある・・・・・ダンテスの悪影響。

 

『ホワイト・フォックス

 

ホワイト・フォックス。

おれは、長いこと、

おまえを嫌っていたらしい。

 

女の汚れの中の女。

何一つ見ることのないホワイト・フォックス。

 

おまえの頭は打算だけだ。

フォックス———

だが、

おまえもおれなのだ。

 

666の

黒光りしたクンダリニーとともに

今、

おれはホワイト・フォックスをも飲む・・・

 

白狐。

所詮、おまえの神通力も、

愛の代用品に過ぎない。

 

そして、

いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、

ホワイト・フォックス 

おまえに一体、

何ができよう。

 

快適で豊富なる暮らしの神。

聖なるマンモン。

白狐。

 

もう、

おれは、

おまえについて、

どんな判断もしやしない!』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言からの引用。)

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心の底から満足できない

2025-01-27 13:05:49 | 現代冥想の到達点neo

◎決定的根拠

(2007-07-22)

 

エスニックなグルメ、ジャパネスクなグルメ、アヴァンギャルドでキュートなファッション、魅惑的な異性との出会いとメイク・ラブ、異国の旅先で感じるほのかなエキゾチズムなど人の心を惹きつけるものは、この情報あふれる時代で、価値観の多様化した今でも数多いものだ。

 

何があっても心の底から満足しえないことを知っている21世紀初頭の日本人にとって、本当の満足へのメソッドとはこのようなものか。

 

『決定的根拠

 

いかなる根拠もないということが、

これそのものなのだ。

 

理屈と保証がないからこそ

これは久遠の安楽なのだ。

 

喜びもなく苦しみもないからこそ、

あなたは永遠の平安を生きて死ぬ。

 

そして、

あなたは喜びを求めて飛び続ける。

 

ニルヴァーナという妄想

エクスタシーというマーヤ-

それを欲すること-----

これが人間という戯れの正体だ!

 

何もかもなし!

ただただ、これの戯れでない戯れ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは人間にとって最後に求めるものが涅槃、タオ、アセンションであることを無意識の前提であることを暴いて見せている。そして、それには何の理屈も保証もない。

ただ最後は坐って、クンダリーニ・ヨーガ型か只管打坐型の冥想を行うことで、この詩を書いた同じ世界(実感ではない)にいることができるはず。

けれどもこの詩の外見は、錬金術文献のような、とりつくしまのない二律背反が並べてある姿。

何の理屈も何の保証もないとは、冥想しさえすれば、だれでも窮極のエクスタシーたる実在(ニルヴァーナ)に出会えたり、実在であることを体感したりすることは保証されないし、そうであることの理論的裏付けなどありはしないということ。

それでも日々冥想を!

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長く読めなかった老子狂言-2

2025-01-27 06:46:42 | 現代冥想の到達点neo

◎何も知らないうちが花なのだ

(2022-01-18)

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その二。

 

『すべてを知り尽くす

 

この世とあの世―――

存在と絶対無―――

生と死の秘密を、

すべて知り尽くすことほど、

大きなわざわいはない。

 

何も知らないうちが花なのだ。

それでも、

花はかれ果て、

実になろうと欲する。

 

余りの苦痛にもかかわらず

花は散って、

実を結ぼうとする。

 

私は、なぜそうなっていくのか知らない。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

大悟した後に彼の人生で出会うすべての人物の顔を事前に見たダンテス・ダイジほどの人物が、

『すべて知り尽くすことほど、大きなわざわいはない。』と言ってみせる。

 

人間や社会や世界の最も醜悪な部分をも知ることほど気が滅入るものはないから、ロマンも叙情もへったくれもなくなる。

 

至福を知るあるいは窮極を知る智慧(般若波羅蜜多)とは、そのような不愉快、面白からざることを知ることという反面がある。そういう実もふたもないことは、冥想修行者のやる気を削ぐのであまり言わないのだが、そういうことなのだろう。

 

リアリズムとは時に露悪だが、自分自身なる神を知るということはそういう面もなければ、悪魔の誘惑を退けられまい。

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長く読めなかった老子狂言-1

2025-01-27 06:35:40 | 現代冥想の到達点neo

◎悟りとは至福のことではなかったのか?

(2022-01-17)

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その一。

 

『果てしない旅

 

幸福は、外的な状態に依存してあるのではない。

 

あらゆる方法や修錬によって、

至福を知るのだ。

内面のただ一人だけの充実に向かって、

苦難の果てしのない道を

やみくもに走り続けるのだ。

 

君が君にオーケーと宣言した時が

君の情熱の消える時だ。

そして君は、

灰色の穴ぐらの中に自己満足と

あきらめの日々を暮して死んでいく。

 

ただ量り知れぬ秘められた情熱だけが、

幸福や至福の彼方へ甦える。

 

何と果てしない旅だろう!』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

大悟覚醒して、至福の何たるかを知った後も一個の人間として『灰色の穴ぐらの中に自己満足とあきらめの日々を暮して死んでいく。』

のだとは、ね。

 

なるほど。読めないわけだ。

 

※2025年1月27日追記:いわゆる覚者の二重性の視点を持って読まないと間違える。

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三種のグナの終わり

2025-01-23 06:14:53 | 現代冥想の到達点neo

◎無力と悲惨の終わり

(2017-10-20)

 

パタンジャリのヨーガ・スートラの最後から3番目の4.32から。

 

『三種のグナは、その目的を達成し、その変化のプロセスは終わる。』

 

三種のグナは、サットヴァ(照明)、ラジャス(不安)、タマス(暗痴)で、この世の三元素であり、心の三元素。

これが真理かといえば、そうしゃちほこばることもなくて、仏教圏は、地水火風空の5元だし、中東から欧州は、地水火風の四元だし、中国へ行くと五行だしと、世界の元素は、お国ぶりみたいなものと考えてよいと思う。

さて、三種のグナが終われば、世界が止まり、現象の転変も終わる。現象は見られるものであり、現象の転変は見る者のために存在する。

人は、神によって世界に投げ込まれ、3種のグナで演じられる人の子の無力と悲惨は、現象全体、世界全体を見渡すところで止む。

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人のからくり

2025-01-18 20:11:22 | 現代冥想の到達点neo

◎神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである

(2021-12-23)

 

今年も臘月八日の後は、ダンテス・ダイジ忌だった。ダンテス・ダイジ自身も存命ならば70代。彼に面識のある者もその年代周辺であって、社会的にはOBとなり、あまり影響力はなくなったと見られる。

 

ダンテス・ダイジの教えで特徴的なのは、真理の社会性を相対的なものと見、いわばおひとり様宗教もありだと示したこと。覚者が必ずしも人格者や好々爺ではないことを示したこと。覚者の非社会性をことさらに強調して見せたこと。

 

こうした真理自体の許容度を広げて見せた結果、一生を棒に振ったり、社会に迷惑をかける邪教がはびこったりというのは「ダンテスの悪影響」と称される。ダンテス・ダイジという覚者と直接の面識がなくとも、七つの身体論という人間像の相対化、あらゆる世界観の相対化、ひいては近代西欧文明の崩壊とその後の姿のビジョン、さらに出口王仁三郎の云う「奥の奥には奥がある」という勢力をもイメージさせるには十分だったのではないか。

 

ダンテス・ダイジ未公刊の詩集老子狂言から、下の「人のからくり」を引用。この詩が本当だからといって、その人間像にこだわっているわけではないが、どの立ち位置で語っているかを見るべきだろう。

 

『人のからくり

 

肉体——→エーテル体

エクトプラズムは、エーテル体の流出のことであり、肉体とエーテル体は、死とともに崩壊する。

エーテル体は、漢方医学の無数の経絡に相当する。

 

アストラル体

7つ、あるいは10個の光輝くチャクラからなりたつ死後にも一定期間存続する本人と相似している光明体である。

 

霊体(メンタル体)

人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。

各人各様の形象をとっていて、一定の型を持っていない。原型イデアである。

キリスト・ブッダ・クリシュナ等の霊体は絶対無・絶対光・変幻自在である。

 

善人においては、そのイデア相応の最高の美的形象をとった人間的な形を持っている。

悪人においても、その裏返しとしての最高の形を持っている。

サタン・ルシファー・悪魔などの霊体は絶対無それ自身で完結している絶対の暗黒・そして変幻自在の形象を取り得る。そのイデアは鉱物に近いといってよいだろう。

 

神の化身としてのアヴァタラと、悪魔の化身としてのサタンの実相身は、そのイデアの面から見れば、他のあらゆる人々との霊体と同様に絶対的な原型であることに違いはないが、

神の化身は、悪魔をも包むことができるが、悪魔の化身は、神以外のすべてに変容することができても、神・絶対全体にだけは成ることができない。

 

もっとも神も凡人も悪魔も、たいした差のありようはずもない。

神・すべてのすべて

そういうわけで、

神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。』

 

※2024年1月18日追記:

霊体(メンタル体)として説明している部分は、『人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。』ならば、コーザル体のことではないのだろうか。

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神人合一の実感を語る-7

2025-01-12 06:23:13 | 現代冥想の到達点neo

◎一瞬間を梅毒病みの娼婦として生き

(2021-11-29)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『私は一瞬間を聖クリシュナとして生き

一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた

梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり

性愛の享楽が聖者の清らかな解脱である

そしてすべては去ることもなく去り

また来ることもなく

新しい生涯が来る

 

止まることのない生々流転よ

私は生々流転のあったためしのないここで

ゴーヴィンダ・クリシュナの

美しい横笛の音を奏でる

 

今でない今、ここでないここで

私はクリシュナとして生き

クリシュナとして死んだ』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120-121から引用)

※ゴーヴィンダ・クリシュナ:牛飼いのクリシュナ

 

この詩の劈頭は、クリシュナとして生き、クリシュナとして死にたいから始まっているので、それを受けた形。クリシュナと言っても日本ではあまりなじみがない。聖者には、組織宗教のトップ型の聖者と単独での遊戯者タイプの聖者が存在するが、クリシュナは、遊戯者タイプの代表格。ダンテス・ダイジは、釈迦を遊戯者タイプと分類しているが、王子として生まれ、妻をもらい子までなしながら一切を棄てて出家遊行したのは、遊戯者なのだろう。たとえその後の釈迦教が、東洋全体を席巻したにせよ。

 

インドでのクリシュナは、村の既婚女性も未婚女性も一箇所に集めてその魅力で説法遊戯したことが知られるが、聖人は存在するだけでポジティブな影響を与えるが、社会性という点では、その社会に物議を醸しだしがちである。

 

『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節には違和感を抱かれるかもしれない。彼の韻文には、別に釈迦の後世の一つが新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。

 

また彼の地球上の最初の前世は、高級娼婦ナツノだったということもある。

 

性病から苦痛が起こり、セックスから解脱が発する如く、『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』新たな人生を繰り返す。

 

解脱とは、一般に輪廻転生の責め苦から脱出することだと思われているのだが、真相はそうではなく、迷いも不条理も理不尽も含めて『すべては去ることもなく去り、また来ることもなく』転生が無際限に行われることを示す。

 

そこで改めて、クリシュナは、生々流転を否定する。

『止まることのない生々流転よ

私は生々流転のあったためしのないここで

ゴーヴィンダ・クリシュナの

美しい横笛の音を奏でる』

 

そして『今でない今、ここでないここで

私はクリシュナとして生き

クリシュナとして死んだ』

と時間も空間もない世界の表現を繰り返す。

 

神人合一とは、このようなダブルの世界を同時に生きることであって、手近には、その実感は知的に想像し、感情的に共感することしかできないが、同じ体験とはいえない体験をすることによってまさに実感できよう。

 

そのためには、意識の絶対的な極限状態を通過せねばならないと、彼は言う。

(完)

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神人合一の実感を語る-6

2025-01-12 06:07:56 | 現代冥想の到達点neo

◎私は私自身の中を旅し続けている

(2021-11-28)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『精神の広大さも

物質宇宙の戯曲も

私には何のかかわりもない

 

私は私の冥想の旅を続ける

旅は方向をもって続けられるが

その旅は私に理由のない確信を与えても

決してどこかに行き着くことはない

 

私は私自身の中を旅し続けている』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120から引用)

 

未知の虚空にもともとありもしない手と足とを放ち去ったので、精神の広大さも物質宇宙の精妙にも全く関わりなく生きている。

 

生と死をフル・コートとした冥想の旅は、『今でない今、ここでないここ』であるが故に、いつまでも終わることはない。その全体を確信してはいるが、今でない今、ここでないここであるから、終着駅にたどり着くことはない。

 

今でない今、ここでないここは、太乙金華宗旨の逍遥訣の第八句

どこにもない場所こそ真の家である。

無何有郷は是れ真宅なり)

に通ずる。

 

単純に個生命であれば、個の死を以って終着点と見そうなものだが、チベット死者の書で示唆されるような、生のある瞬間に、神なる全体、今ここ、或いは『今でない今、ここでないここ』なる死の側の故郷に戻って、その後再び個として別の人生を歩むというようなサイクルを想像する。

 

『私自身の中を旅している』という時、その私は神なる全体であり、みじめで情けない個人でもある二重性、二重のリアリティ。

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神人合一の実感を語る-5

2025-01-11 07:02:45 | 現代冥想の到達点neo

◎死:もともとありもしない手と足とを未知の虚空に放ち去ろう

(2021-11-27)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『私達はこの世では狐独であり続ける

私達の眼は

私達の故郷を見知らぬものとして眺め

私達の家族を初めて見る

これは私達の眼がかすんだゆえではない

私達の眼がより透明になったせいだ

 

何もかもが常に未知なものとしてあり

何もかもが常に新しい

 

何もかもが未知な新しさであれば

私達の脳髄は

尽虚空中に砕破する

 

死は何と私達の身近かにあったことだろう

最も身近かな死だけが

人類の唯一最大の教師だ

 

手足を放ち去ろう未知の虚空に

もともとありもしない手と足とを』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP119から引用)

※尽虚空:顕れない宇宙全体。

 

神人合一の実感を人間の側から語るとこのようになるだろうという叙述。

 

ここで言う死は、勿論肉体死のことでなく自我の死の方。だから自殺礼賛のことではない。最近世の中には、非二元、ノンデュアリティ体験者を広言する人もいるらしいが、彼らは、自分の家族や社会や故郷の街ですら、常に未知であり、見慣れぬという実感に生きている人物なのだろうか。

 

もしその実感を得ているならば、何もかもが未知の新しさであり、その場合、脳髄が隠された宇宙全体に砕破するとは、転じて天意のみに生きるということだと思う。ディヤン・スートラでoshoバグワンが最後には思考が死ぬことを言っているが、その辺の消息を指しているのではないか。達磨も同様のことを言っている

 

そして社会的人間として、これら実感の他に、『善いことをする、悪いことはしない。(諸悪莫作、衆善奉行)』という行動スタイルも、 未悟の者が覚者を見分けるクリテリアとしてはずせない。たとえ、未悟の者は絶対にその人物が本当の大悟者かどうか見分けられぬという法則はあるにしても。

 

極悪カルトの教祖の行動が、信者にとって大聖人に見えても、実は悪人のそれそのものだったということは、最近でも古来でも枚挙に暇はない。それを見分ける目を一隻眼とも言うが(アジナー・チャクラ)、人はそうやって目を凝らすしかないのだ。

この詩に顕れた基準は基準だが、それだけのものではあるまい。見る側の透明さが問われる。

 

上掲『手足を放ち去ろう未知の虚空に もともとありもしない手と足とを』では、大燈国師の逸話が思い起こされる。行方不明の大燈国師を捜そうと鴨川の河原で役人がまくわ瓜を乞食に無料配布した。その際、役人が「手を出さずに受け取れ」と言ったので、皆困惑していたところ、そこで何年も乞食をやっていた大燈国師が「それでは、手を使わずに渡してくれ」と言ったので大燈国師であることが身バレした。

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神人合一の実感を語る-4

2025-01-11 06:47:09 | 現代冥想の到達点neo

◎一刹那を神の御意のままに生き死ぬ、神人合一

(2021-11-26)

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『一刹那の生涯でよい

神の御意のままに生き

神の御意のままに死にたい

 

一刹那の神の御意は

すべての生命達の生涯と

すべての生命達のそれぞれの宇宙であった

 

神のみが終対無の中に

久遠の安住を続け

あくび一つも神には無縁だ

 

私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない

 

この悲しみが

人間に理解できるだろうか』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP118から引用)

 

『一刹那の神の御意』こそが神人合一の瞬間。この時、神には久遠の安住なる至福、実在・智慧・歓喜(サット・チット・アーナンダ)

の充溢だけがあり、あくびのような個なる弛緩はない。

 

だが、ここに我が身に還えれば、

『私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない』

と透徹した孤独感がある。これが、無常、不条理、もののあはれの行きつく先。

 

この悲しみは、神のものなのか。

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神人合一の実感を語る-3

2025-01-10 18:44:13 | 現代冥想の到達点neo

◎快楽は苦痛の種となり、老衰と病のない健康もない

(2021-11-25)

  

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『ソロモン王の英知が

ソロモンの栄華と幸福を実現し

そして又ソロモンの英知が

その英知ゆえに

愚迷のうちに滅亡したように

 

死のないどのような生もあり得ない

愚かさを持たぬどのような智慧もなく

安心のある所に不安があり

愛のある所に憎悪が

勇気のある所に恐怖が

 

幸福のある所に不幸があり

快楽は苦痛の種となる

老衰と病のない

どのような健康もあり得ぬように

 

善は悪とともにいつもあり

宿善の功徳は

天人の天国を実現するが

その天人にも

五つの衰亡を避ける手だてはない』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP117-118から引用)

 

夢の宇宙はあのように戯れ続け、人は人である以上、この世を天国的に生きようと希求し努力もする。地上天国、天人の天国は、時にこの世にあるいはあの世に実現もしたりするが、栄耀栄華の時代は衰亡を免れることはできず、折角積み上げた善行の果報も王侯を一代やったりすることで使い果たしたりもする。

 

戯れには人をとろかす夢幻の魅力もあるが、寝覚めぬ人の目を覚ます幻滅の顔もある。

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神人合一の実感を語る-2

2025-01-10 13:10:01 | 現代冥想の到達点neo

◎夢の宇宙はあのようにも戯れる

(2021-11-18 )

 

ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。

 

『無限の中には

時間も空間も因果律も存在していない

無限の中に

宇宙の果ては

私の小指の長さにあり

 

千億光年の天体生命の光茫が

私の肉体の心臓の一鼓動とともに

生まれ来たり滅び去る

 

熟したリンゴの樹の果実が

地面から枝へと昇る

 

神の絶対無の中に

夢見続ける宇宙

 

夢の宇宙はこのように戯れ

夢の宇宙はあのようにも戯れる』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP116から引用)

 

無限という言葉は日常感覚で問題にする人は少ない。その実感が『時間も空間も因果律も存在していない』であって、それを敷衍したのが、宇宙の果ての長さが小指だったり、遠距離の辰星が鼓動とともに生滅するということ。

世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。林檎の実が熟していく姿は、根源から生へと進み、やがて根源なる死の世界へと帰って行く様。この辺は集合的無意識におけるビジョンなのだろう。

絶対無という言葉は、哲学者西田幾多郎が多用した。元は無であって、ニルヴァーナ。そこで有は夢であり、夢の夢なる戯れを繰り返す宇宙。

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神人合一の実感を語る-1

2025-01-10 13:05:39 | 現代冥想の到達点neo

◎ダンテス・ダイジ-今でない今、ここでないここで

(2021-11-17)

 

神人合一した人物がその境地を語ることは、時に沈黙だったり、片言隻句だったり、短歌だったりするのだが、ダンテス・ダイジは、韻文で残してくれている。

 

『今でない今、ここでないここで

 

一刹那 の 生 涯 で も よ い

クリシュナと し て 生き

クリシュナ と し て 死に た い

 

あらゆる演戯を越えた―つの戯れ

根本無明の演戯がなければ

神は神自体を観照することができぬ

 

根本無明のこの移し世が

神自身の唯一の演戯道場

神は人間の作り出した

どんな思想の中にも

宗教の中にもいない

 

人間自体の死の虚無性が

人間からすべてを奪い

人間をも奪う』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP115-116から引用)

 

ダンテス・ダイジの前世の一つはインドの神人クリシュナとして知られるが、戯れる者、マーヤの演技者としてクリシュナを出して来ている。

 

光明、善、真理などはポジティブであって、人はそのように生きねばならないので、ニルヴァーナに居さえすればよいなどと考えがちなのだが、さに非ず。

根本無明、マーヤ、迷いがなければ、神は神を観照できない。つまり迷いがあって初めて悟りであると、世間の先入観とは逆の真実を表明している。

 

この世は霊界が時至って現実化する移し世なのだが、あらゆる人間の作り出したものを捜し回ったとて、どこにも永遠不壊なる神は見つかるものでない。人間の作り出した思想にも宗教にも神はない。死がそれをことごとく奪い去るからである。

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