アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

死の領域を超える

2024-04-01 06:24:18 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎日常感覚の延長にはない

(2010-02-13)

 

釈迦とスブラフマンの会話。

『傍らに立って<神の子なる>スブラフマンは尊師に対して詩をもって話しかけた。

「この心は常にあわてふためいている。

この心は常におびえている。-----未だ起こらない未来の事柄についても、またすでに起こった事柄についても。

もしもおびえないでおられるのなら、-----お尋ねいたします。

それを私に説いてください。」と。

 

[尊師いわく、---]

「さとりに至る実践の修養のほかに、感官を制御することのほかに、一切を捨て去ることのほかに、生けるものどもの平安を、われは認めない。」

かれは、その場で姿を消した。』

(ブッダ 神々との対話 岩波文庫p125-126から引用)

 

そうか。さとらないと、本当の平安、癒し、ヒール、ピースフルはないのだな。

 

釈迦が最後のボディを保つ真人について語るには、

[尊師いわく、---]

『慢心を捨て去った人にはもはや結ぶ束縛は存在しない。彼には慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。

聡明な叡智ある人は、死の領域を超えてしまったので、

『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が[これこれは]<わがもの>であると語っている』と言ってもよいであろう。

 

真に力量ある人は、世間における名称を知って、

言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。』

(ブッダ 神々との対話 岩波文庫p41から引用)

 

最後のボディの真人とは、さとった人=慢心を捨て去った人。彼は死の領域を超える。死の領域を超える技法はクンダリーニ・ヨーガである。

「ブッダ 神々との対話」には、嘘をつくな、悪事を行うな、善事を行えという類のことが内容の大半であるが、まれにこのようなエッセンスが出てくる。この本には、善行を積めば来世で良い報いがあるなどとも書いてあるが、来世の果報をも問題にしないのが「死の領域を超える」ということ。

「死の領域を超える」というのは、日常の生活感覚にはない。さとりとは自分の特殊な心理状態であるなどということは釈迦は一言も言っていない。それは悟らぬ者にとっては想像もつかないものだろうということしかわからない。

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クンダリーニ上昇から悟りまで

2023-07-17 06:20:56 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎不動明王のポジション

(2017-06-21)

 

本山博は、体外離脱から悟りまでを端的に説明している。

『1.スシュムナーを通ってクンダリーニが目覚めても、初めは霊体と肉体ははっきり分離していない。

2.下腹部で水蒸気、炎が動き身体が非常に熱くなる。クンダリーニがサハスラーラを抜ける。

3.神気と合一したクンダリーニのエネルギーが身体の外に出て、霊体も身体の外に出る。この時アストラル・プロジェクションやカラーナ・プロジェクション(メンタル体離脱が起こる)この段階で、生命の危険をともなう事態が起こることもある。

先祖の因縁はカラーナの世界までいかないとわからない。

4.さらに進むと、悟りの世界に入る前に身心霊のすべてが、クンダリーニ+神力で焼き尽くされる。不動明王の境地。

このままの状態で終わったらインドのグルでも焼け死んでしまうこともある。

5.不動明王の境地を超えないと悟りにはならない。

6.霊能者は霊的な自分を持っているが、悟った人は自分がなくなる。』

(スピリチュアリティの真実 本山 博/著 PHP研究所P50-58を抜粋』

 

こうしたクンダリーニ・ヨーガの簡易な説明は非常に珍しく、ダンテス・ダイジもここまでかみ砕いた説明はしていない。

誰かのクンダリーニ・ヨーガにおける各ボディとステップについてズバリの説明はないものかと思っていたが、ここまできっぱりと書いているとは・・・・。

不動明王は、密教系において重要なポイントに位置しているが、ここまで特徴と位置を平易に説明してくれているとは、驚きである。

人類の進化で、そういう時期になったということなのだろう。

ただこのステップを現代科学で証明する術はない。将来、万人の感受性が普通に霊体を感知するようになれば、万人にとって肉体以上のものは、当たり前になるのだろう。

 

 

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本山博のクンダリーニ覚醒ステップ

2023-07-17 06:18:58 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎不動明王段階

(2012-10-03)

 

本山博のスピリチュアリティの真実という本にクンダリーニ覚醒ステップが書いてある。彼の窮極は、第7段階であって、プルシャ(悟りの世界)に入ることであり、ダンテス・ダイジや柳華陽のあらゆる宇宙、あらゆる次元を超えるというモクシャの世界とは、違うように思う。

本山氏自身がそこに至ったかどうかは書いていないのだが、霊能者は霊的な自分があるが、悟った人は自分がなくなるとは書いている。霊能者の本源的問題点の自覚は意識されているのである。

 

本山氏はクンダリーニのエネルギー・コードをクンダリーニと神気の合一と見ているようだ。特徴的なのは第6段階であり、身心霊のすべてがクンダリーニ+神力によって焼き尽くされる不動明王の境地であるとしている。この書きぶりだとここまでは体験されたからここまでリアルな描写となっているのかもしれない。

ただチベット密教では、不動明王をここまで特別なものとして重視しているわけではない。

そうは言っても、熟達したクンダリーニ・ヨーギはしばしば火定を見せることから、不動明王については、素人にはわからない何かがあるのかもしれない。

いずれにしても長寿のクンダリーニ・ヨーギがその体験を忌憚なく(全部書いているとは思いませんが)書いているということで、類書が少ない中で、それなりに貴重な書であると思う。

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最初の4つの身体と統合失調症

2023-03-10 16:54:09 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎私たちも軽度の統合失調症

(2013-03-29)

 

OSHOバグワンは、最初の4つのボディに対応する冥想技法を当てている。曰く、

肉体からスタートするのは、ハタ・ヨーガ

エーテル体からスタートするのは、マントラ・ヨーガ

アストラル体からスタートするのは、バクティ・ヨーガ

メンタル体からスタートするのは、ラージャ・ヨーガ。

 

(※ボディの違いを問題にするのは、クンダリーニ・ヨーガであり、只管打坐ではない。)

 

これら4ボディは、OSHOバグワンに言わせると水平的であり、第五身体のコーザル体に至るところが垂直移動となる。つまり最初の4つのボディ内での移動は、水平移動だから横超であり、古代ギリシアの壺絵では、トビウオ(水平にしか飛べない)として揶揄される動きにすぎない。

 

さらにOSHOバグワンは、第一身体から第四身体では、心は下方を向いており、上方を向かない。この状態で、心身のバランスが保たれている。ところが、第四身体(メンタル体)から先を目指す(第四身体からの跳躍)時、はじめて上方を見る(アジナー・チャクラを見る)。

 

OSHOバグワンは、初めの4身体を超える前に上方を目指してはいけない。というのは、他のボディは下方に向いているのに一部のボディが上方を向いているということになると、統合失調症を起こしやすいからだとする。

 

そういう人には中心がない。そこでOSHOバグワンはダメを押す。私たちもそんなものだ。統合失調症と私たちの差は社会に適応しているかいないかの差があるだけだ、と。

(参考:秘教の心理学/和尚/学研P158-164)

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ソクラテスの死生観-2

2023-02-20 12:20:49 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎12片の皮を縫い合わせたボール

(2012-11-23)

 

パイドンの続き。

 

まず、魂は不死にして不滅でハデス=死の世界においても存在を続ける。基本線はこうだが、ハデスでは地獄に落ちて輪廻転生サイクルに戻ってこない者がいるのも認めているので、事実上砕霊のようなものがあるのも認めているようにも読める。

 

パイドンは、ソクラテスの死の直前の説教なのだが、人間の魂は死の世界にあっても永劫不滅なのだから、積善陰徳が肝心ということで、その場の聴衆に合わせた話を開陳しているように思う。いわゆる高弟向けの秘儀ではない。

 

ソクラテスは、その話の延長として、我々の世界の上方にある世界としての真の大地=地球ロゴスを描写する。霊界上層の大地ということなのだと思うが、真の大地を上方から見れば12片の皮を縫い合わせたボールのようだという。サッカーボールは切頂20面体だが、正12面体なら正五角形12枚である。ここで五行、五大が発想され、物質の原理として登場するのだろう。

 

この大地に特徴的なのは、その美しさである。あらゆるものがこの世のものならぬ美しさで、大地全体が鮮明で純粋な色彩を持ち、目を見張るばかりな紺碧、黄金色、雪よりも白い白亜など、様々な色であり、その上にある花々、果実も華やかな色彩を持つ。そして石ころは皆宝石である。紅玉、緑玉、碧玉などの宝石でない石はなく、金銀なども地をおおっている。

 

そして大地の上には穴もあり、穴のひとつには地獄タルタロスもある。

 

法華経の見宝塔品にも、釈迦が、清浄な世界を見せてくれたら、そこは地面が瑠璃で、木が宝石で、黄金の縄で道を区切っていたなどと、ゴージャス霊界の描写があるが、それと同様である。

 

なぜこんな贅沢セレブの国訪問みたいな話を聞かされなければならないのか、それは単なる夢物語ではないのか、と大悟する前の日蓮みたいな感想を持たれる人もいるのではないか。

 

この話の基本は上層部霊界の話であって、ソクラテスは、霊魂は不滅だから因縁を浄化するために善行を行い悪事を行わないようにすべきだという、カルマ・ヨーガ推進のネタの一つとして使っている。

 

ソクラテスもこのゴージャス世界の住人の寿命は長いが永遠ではないとしているので、明らかにこれは霊界のことであって、第六身体の不壊の世界のことではない。

 

つまり、ソクラテスの美麗霊界の描写は、覚醒や大悟そのものが万人の問題となっている現代に比べれば、のんびりした時代だった聴衆向けの説法だったように思えるのである。

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ソクラテスの死生観-1

2023-02-20 12:15:42 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎パイドン

(2012-11-22)

 

ソクラテスが毒杯をあおって身体が次第に冷えていく状況を自ら実況中継したシーンのあるのが、パイドン。

 

パイドンにある彼の臨終観は、このようなものだ。

まず、悪人が死ねば、悪人が積んできた悪徳もご破算になると思っているが、魂は不死にして不滅であるがゆえに積んできた悪徳の報いから死後も逃れることはできない、と戒める。

 

人が死ぬとダイモーン(神霊)がその人を待っている。そのダイモーンは彼が存命中に彼を見守ってきたダイモーンだ。

このダイモーンが彼を案内して中有に連れて行く。

中有で裁きの庭に立つ。

 

裁かれた後、ダイモーンと一緒にハデス=死者の国に旅立つ。

死者の国でしかるべき期間過ごした後、ふたたび別のダイモーンに連れられてこの世に転生してくる。

こうした輪廻転生を何度も繰り返す。

 

このような死生観は、チベット密教をはじめとする仏教のそれと同じで、おなじみのものである。

 

パイドンでは、死後の世界では、至る所で分かれ道が多数あるので道に迷いやすいから、ダイモーンが道案内をしなければならないと、うがった説明をしているので、ソクラテスは自分でそれを見たことがあるのだろうと思う。

 

只管打坐で行く人は死後の世界がどうこうという話はあまり問題にしないものであるから、ソクラテスはクンダリーニ・ヨーギであったことがうかがえる。

ソクラテスは、こういう死生サイクルを見たのだろう。

 

更にソクラテスは、法華経ばりの「まことの大地」を見た感動の経験をも語っているのだ。(続く)

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ゾーハルでの万物のスタート地点

2023-02-01 18:05:45 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎一条の黒ずんだ焔

(2012-02-26)

 

古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。モーセス・デ・レオンは13世紀スペインのカバリスト(ユダヤ教の学者)で、ゾーハルの著者に擬せられる。文中の王とは神たり。

 

『ゾーハルの数多くの箇所では、モーセス・デ・レオンのへブライ語の著作と同様に、無カら存在への発現が原点の象徴によって描かれている。「隠れた原因」から流出する発端を数学上の点―――その運動によって更に線と面が生ずるもの―――になぞらえることは、すでにゲロナ学派のカバリストが試みているが、モーセス・デ・レオンのばあいにはこれに加えて、円の中心としての点の象徴が登場する。

 

無の中から輝き出る原点は、神々の誕生や宇宙創造の諸々の出来事が集中している神秘的中心なのである。それ自体は無次元的に、無と存在のあいだにあるこの点はこうして「存在の根源」、ハトハラース・ハ=イェシュース、つまり聖書の最初の言葉が語っているあの「初め」を描出するのに用いられている。天地創造の物語を解釈するゾーハルの冒頭の文章がすでに、この原点の輝き出るさまをなかなか見事に書き出している。

 

その輝きはもちろんここでは無の領域からでなく神のエーテル状のアウラから出ている。次に掲げる数行は、ゾーハルの神秘的な象徴世界を示す例として、ここにふさわしいものであろう。

 

「はじめに、王のみこころがはたらき始めたとき、王は身辺に輝く天上のアウラのなかへ符牒を埋められた。

 

一条の黒ずんだ焔が、隠れた深奥の無限なるもの、エン・ソーフの秘密のなかからもやもやと湧き出る雲霧のごとく立ち昇り、かのアウラの輸に囲繞された。

 

それはまだ白くもなく黒くもなく、赤くもなく青くもなく、およそいかなる色もおびていなかった。しかるにこの焔が容積と広がりを具え始めると、それは燦然と輝く色を現した。

 

つまり、焔の深奥にひとつの泉が、エン・ソーフの神秘的な秘密に包み隠されて湧出し、そこから色が下方のいっさいのものに注がれたのであった。この泉は溢れ出たが、それを囲繞するエーテル状のアウラを完全に突き破ることはなかった。

 

この泉は、その溢れ出る勢いのためにあの隠れた最高の点が輝き出すまでは、まったく認識できなかった。およそこの点を越え出ては何ひとつ認識しえず、それゆえこの点はレーシース、始まり、つまり万物の創造の最初の言葉と呼ばれるのである。」

(ユダヤ神秘主義/ゲルショム/ショーレム/法政大学出版局P287-288から引用)

 

無の中から輝き出る原点とは、古神道の言霊では「ス」にあたるのだろう。また神の身辺に輝く天上のアウラを、パラケルススは万物の故郷たるマトリックスと呼んだ。

 

このレーシース=万物の最初の言葉のポジションは霊がかりな感覚(アストラル)では決して不可知なものだと思う。またこれは、フィリス・アトウォーターの見たのとは見え方が違う。違うものを見ていたのか、あるいは同じもの(万物のスタート地点)を見ていたが、違ったもののように見えたか、あるいはそのどちらでもないのかについては、ここでは明確にすることはできない。アストラル体では見えないのではないか。

 

神はもとより言葉にならないが、ここが言葉になる最初の地点ということだろうと思う。

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出口王仁三郎の生き返り

2023-01-25 17:04:32 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎クンダリーニ・ヨーギは六度死ぬ

(2007-03-01)

 

このブログの基本的主張のひとつとして、クンダリーニ・ヨーガの道を選んだ人ならば、死の世界を極めれば、人は絶対に悪いことをしなくなるというものがある。

 

明治から昭和にかけての偉大な古神道家(クンダリーニ・ヨーギ)、出口王仁三郎は、五、六度死の世界に入っていると告白している。そして、生きているうちに死後の世界がわかると何が善で何が悪かわかる(五倫五常)とも言っているので、その主張しているところは同じである。

 

生きながら死の世界に入るという意識の極限状態を経ないと、本当の愛、本当の善などわかるものではないのである。だから宗教教義の教育習得だけで、愛と善に生きることなど決して出来はしないとも言うことができる。

 

『私は五六度死んだことがあるが、生きかへつてから後も二週間くらゐはひどく疲労れたものである。元来生の執着は神様より与へられたものであつて、結構なことである。三十才の生命を神様より与へられてをる人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は迷うてゐるのである。

 

しかのみならず霊界へ行けば総てが決まつてしまふから、人は現界にある内に十分働かして貰はねばならぬ。人生の目的は地上に天国をひらくためであるから、魂を汚さんやうにすることが一番大切なことである。刀身がゆがむと元のさやに納まらないごとく、魂が汚れゆがむと元の天国にはをさまらぬ。

 

人間に取つて一番大切なことは何といつても生きてゐるうちに死後の存在を確かめておくことである。死後の世界が分かると五倫五常が自然に行へる。倫常を破るといふことは自分の損になることがハツキリ分かるからである。

 

人間は死後の世界を研究してから仕事をするがよい。私は人生問題になやんであるときは爆弾を抱いて死んでやろうかとさへ思つたことがある。神様の御恵みによつて何もかも知らして頂いて歓喜に満ちた生活に入ることが出来たのであるが、当時の悩み悶へ、苦しみ、幾度か死を考へたことほどそれが痛切であつたのである。』

(水鏡/難き現界/出口王仁三郎から引用)

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OSHOの中有

2023-01-15 10:18:50 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎中有と夢

(2007-06-09)

 

前世と今生の間に中有(バルド)がある。前の肉体を失って、次の肉体をまだ得ていないという肉体のない状態を中有(バルド)と呼ぶ。そうした肉体の感覚がない中で、いろいろ体験するのだから、中有は夢に似ている。

 

中有の人と生きている人のコンタクトがとれて証言がとれないと、死後の世界の科学は進展しないので、中有の研究は、キュブラー・ロス以後の死の研究における大きなテーマである。

 

というわけで、OSHOの中有の見方。

まず中有の現実は、生の現実よりもありありと現実的であること。

『夢を見ているとき、私たちはそれが現実であることを疑わない。これは非常に面白いことだ。いくらか時間が経った後では、私たちはその現実性を疑うようになるが、夢を見ている間は決してそれを疑わない。夢は現実のように見える。

 

時には、現実であるものが、目に見えるものが、本物であるかどうかについて疑わしくなることがある。だが夢の中ではそのような疑いは決して起こらない。どうしてだろう。?それは夢がほんの少しの疑いも許さないからだ。さもなければ夢はたちまち破れてしまう。』

(神秘の次元/OSHO/日本ヴォーグ社P213-214から引用)

 

そして中有は夢のようなものであること。肉体そのものがないのに体験していることだから、再び肉体を得た時の中有体験の現実感はそれを肉体の感覚で感じられるかどうかにかかっている。だから肉体の感覚に感じられないから夢のようなものなのである。

 

OSHOは、誕生直後の6カ月と死の直前の6カ月は非常に暗示にかかりやすい時期であると指摘する。今は一つの文明の最後の6カ月に間違いなく居るから、この時代の人々は間違いなく暗示にかかりやすいと言える。それを利用してテレビを中心に役に立たない暗示を送り続ける人もいれば、その滅びゆく文明の危機感をばねにして正しいやり方で冥想する人もいる。

 

ここで正しいやり方で冥想をすることができれば、次の中有の準備を的確にすませて、次の誕生に備えることができる。

 

ただしこのように次の誕生に価値があるとする考え方はクンダリーニ・ヨーガであり、只管打坐にはそのような漸進的な発想の余地はない。「いまここ」しかないからである。

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言霊の妙用

2022-12-27 16:38:54 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎精妙なる感覚

クンダリーニ・ヨーギは、世界を変成する代表的な手法として言霊を用いる。

『神は万物の言霊にして、言霊なり、道(ことば)なり。宇宙に充ち満つるを以てミチ(道)とも謂ふ。

人は天地経綸の主宰者として生を享けたるものなり。

故に言霊の妙用を解してこれを実地に応用する時は、天地万物を自在に動かすことを得べく、地震、風雨、雷電を駆使する如きは実に易々たる業なり。』
(雑誌神霊界/出口王仁三郎から引用)

として、アオウエイ以下75声の解説を行っている。日本語の声は正音であるからこれを駆使し得るが、外国語は正音でないから、外国人は言霊の妙用はできないとしている。はたして、西洋錬金術師や中国錬金術には、言霊の妙用に類似したのは、とりあえず見かけはないようではあるが、ないはずがない。

『はじめに言葉ありき』で言葉=言霊は、旧約聖書でも同じ。精妙な技術であればあるほど、その舞台となる存在レベルは門外漢の想像できるレベルではない。

龍樹は、隠身(身体が見えなくなる)の青薬を師匠からもらって、その香気を嗅ぎわけることによって70種の成分から成ることを指摘したが、そうしたレベルの繊細さについて来れるくらいでないと、ものにはなりはすまいということだと思う。
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クンダリーニ・ヨーガの聖と俗

2022-12-27 16:36:14 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎粗雑なバイブレーションと現実操作

世間のクンダリーニ・ヨーガを見る目からは、「修験や真言、天台、古神道などのクンダリーニ・ヨーガ系は、現実を自分の思うがままに変えてしまえる手段である」という見方が圧倒的である。

ところが、空海の著述を見ても、そのような世俗を意識したところは微塵もないし、修験三十三通記を見ても、出口王仁三郎の天消地滅を見ても、そのような世俗に堕したところはない。というのは、いずれも大日如来や大神つまり絶対の側から書かれたものであり、そのポジションからは、もはや自分勝手な思いからの自分の思うがままの現実操作はあり得ないからである。

秘教、秘儀などというクンダリーニ・ヨーガの話題になると、個人的な野望実現のために神霊を駆使したとか、霊界の強大な力を利用して歴史を曲げたなどの興味本意の見方が多いことは、本来のクンダリーニ・ヨーガのあり方からすれば、枝葉だけを見た見解に過ぎない。

クンダリーニ・ヨーガは、そうしたことに留まるものではなく、人間であることのあらゆる苦悩、不条理を超えて、窮極に飛び込み、窮極の側から立ち戻り、この世に大日如来・天照太神から流れだすあらゆるビジョンを具現しようとするものなのだろうと思う。

イエスの時代は、イエスだけが道を説いても何世紀もかけて道を世界に伝播することができた。今は逆に世界のあらゆる下らないニュースさえ瞬時に世界に伝播する時代。

そしてニッポン・チャチャチャの国民を挙げた言霊が、女子バレーボールや、ワールド・カップ・サッカーで通用しなかったように、言霊による現実操作というクンダリーニ・ヨーガの十八番が通用しないほど、現実は言霊で操作できるほどのデリカシーを失い粗雑なところに変質している。

このように昔ながらの言霊が通用しない時代だからこそ、最強の言霊発信機である個々人が冥想によりそのバイブレーションをノーマルなものに日々チューニングしなければ、毎日多くの家庭や職場や学校や街角で起きている混乱は止むことはあるまい。

後醍醐天皇は、現職の天皇でありながら、自ら法服をつけて、船上山の皇居に仏壇を設け、幕府呪詛の金輪の修法(真言密教の祈祷)を行い、7日目に日・月・金星が輝いて、壇上に並んだので、これは御願いが直ちに成就するしるしであると頼もしく思し召されたという記事を読んで、このように感じた。

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原初の光を見る

2022-12-07 10:37:46 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎悟りを開いた人が悟りを開いた意識のままで

実際にクンダリーニ・ヨーガ修行で仮死になっている本山博氏が、死後直後の原初の光を見るということについて語る。

チベット死者の書では、人間が肉体死のプロセスが進行していく中で、どのタイミングでどのような大悟のチャンスがあるかを懇切丁寧に分析的に語っている。

死のプロセスにおける悟りのチャンスは、最初のチカイ・バルドーで最大のチャンスがやってきて、それを捕り逃がしても次のチャンスはやってくるけれど、最初のチャンスほどの大物ではない。

本山博氏は、やはり冥想修行を積んでいない者が、死んでいきなり登場する空からくるところの原初の光を見るのは困難であることを述べている。

よく言われることだが、準備もなしにその時を迎えて、神の名を呼んでも急には応えてくれるまいということがある。平素の冥想修行があってのいざという時である。

大人数の人が大量死を迎えるような究極のピンチに陥ったとして、何人が悟ることができるかという観点では、そのチャンスは生前にもあるし、死後まもない時期(チカイ・バルドー)にもあるが、どちらも冥想修行していないタダの人がチャンスを生かすのは難しいかもしれないということ。

さて人は死を迎えると、まもなくチカイ・バルドーと呼ばれる中有にまず入る。
『そういうふうなすべての存在のもとになっているものは、一切の存在が消えてしまうようなところであり、それが一切の存在を成り立たせている。そのように、本当の心の状態、心の原初の状態は空である。
その空の状態が、物を創造する、あるいは存在を創造するという時に、初めに光を発する。それをチベットの「死者の書」では原初の光と称するわけです。

そして、チカイ・バルドーの状態、心臓の中に微細身を持ったアートマンが入り込んでいった状態の時には、普通の人間の場合にはそういう光は長い間の行をしないと体験しにくいのだが、チカイ・バルドーの状態になった時には、原初の空の状態から発する光を体験する事ができる。

だからそのものすごい光を自覚できて、その中に融合できたら、いわゆるダルマ・カーヤという次元で悟りが開ける、と言うわけです。

ところが、私が実際に霊界の霊をみていると、自分の家族の事とか、家の事とか、痛かった肺癌の事とか、殺された時の恐怖とか、死の直前の思いにとらわれていて、自分の今の状態も、まわりの状態もわからないでいる霊がたくさんあります。

この世の人でも、ノイローゼになった人や、自閉症の人をみていると、自分の思いの中に閉じこもってしまって、周囲の事は一切わからない。ある想念とか感情、例えば愛情のようなものとか、反対に人に対する非常に強い憎しみとか恐怖とかというものにおち込んで、まわりの事は一切わからない。

死んだ場合にはそれがもっと極端になって、
自分の小さな薄暗い穴のようなものを自分で作り出して、その中にじっとちぢこまって潜んでいるような状態が多いのです、一つの執着を持って死んだような人は。

そういう人が、ここで言っているような心の本源である原初の状態というか、心の空性の状態から発する光がわかるわけはないと思うのです。この光がチカイ・バルドーの状態でわかる人というのは、結局は悟りを開いた人が悟りを開いた意識のままでチカイ・バルドーの状態になったら、多分、わかると思うのです。そうでないと、それはなかなかみられないと思います。

もし普通の霊の世界の霊、さっき言った、エジプトの「死者の書」に出てくる凶霊の世界でない霊が、もう一段上の霊の世界の光をみた時には、それは目がつぶれるほどまぶしくてみられないくらいなのです。

だから、もし今ここで言うような原初の光がみえたら、太陽が何万個も一ぺんに光ったような光で、原子爆弾が落ちたぐらいの光ではなくて、その何千倍も何万倍も明るい光で、とうていみられないし、怖いと思うのです。それで皆逃げちゃうのですね、もしみられたとしても。

そこが非常に問題なのですが、怖がらないで、これこそ本当の一切の存在を成り立たせる元から出ている光だと思って、その中に飛び込んでいけたら、解脱が一瞬のうちにできると(『バルド・ソドル』では)言うのだけれども、そういう人は覚者でないとむずかしいみたいですね。』
(カルマと再生/本山博/宗教心理出版P199-P201から引用)
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ラージァ・ヨーガとヨーニ・ムドラー-2

2022-11-21 10:28:11 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎サハスラーラ蓮華の内にある神秘の月

さらに
『五・一六一
口蓋の根もとに古くからある蓮華はサハスラーラである。この蓮華のカンダ(花心)に下向きのヨーニ(座)がある。』(続 ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社/P274から引用)

さらに
『五・一八六
前に説いたサハスラーラ蓮華のなかのヨーニ(台座)の下に月がまします。賢者はこれに対して思念をかけるべし。』
(上掲書P281から引用)

この神秘の月には16弁があり、それは甘露に輝き、実際にそれを目撃しただけで、過去の罪障は滅し、未来も見えるという説明が続く。

サハスラーラ蓮華、つまりブラフマランドラはいつ開くか。

ババジの弟子のスワミ・ラーマは、ブラフマランドラは、アートマンとの合一の時にのみ開くとし、それはサマディー(三昧)を通じて起こると言う(聖なる旅 -目的をもって生き恩寵を受けて逝く/スワミ・ラーマP177)

この三昧は、個が残っていない三昧。体験とは言えない体験のこと。

出口王仁三郎は、月宮殿(ヨーニ)を造営し、中に宝座(ブラフマランドラ)をしつらえたのは、目撃者だからできることだったのだろう。ヨーニ月宮殿の土台の上にブラフマランドラ=サハスラーラ。

残念ながら昭和11年第二次大本事件で、月宮殿はダイナマイトなどで徹底的に破壊されたので、いまのような無神論的な日本社会になってしまったところはある。

この件は、日本人は自分自身の中で、神秘の月の台座の上に蓮華を開くことを課題として課せられたというご神業。
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ラージァ・ヨーガとヨーニ・ムドラー-1

2022-11-21 10:23:13 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎謎また謎のクンダリーニ・ヨーガの秘奥

本の中には、何十年を経て取りつけるものがある。読み進めても何のことか想像も働かないのであれば、散漫に字を追うしかない。

続ヨーガ根本経典もそうした本の一つだった。ラージャ・ヨーガの全容が、ハタ・ヨーガの肉体調整に始まって、クンダリーニ・ヨーガに進み、最後は、ニルヴァーナに進むという全容のイメージがあれば、読み進められようというもの。

この本を購入したのは、1970年代の終わり頃だと思うが、書いていることの見当がつき始めたのは最近のこと。それ以前はせいぜい自分のわかるテクニカル・タームからの連想で読み進めるしかなかった。それでも連続して読めるのは3ページ程度せいぜいだった。

結局、七つの身体論がOSHOバグワンなどある程度詳述されるものが出て来なければ、まともに読み進められる人はほとんどいなかったのではないかと思う。

ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックは、それを実地体験して全体の概要の概要を呈示してくれたものである。ところが『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』だけで、何のことかわかるというような人は相当に機根の優れた人で修行も相当にできていた人なのだろうと思う。

現代人は、知性人であって、知性で納得しなければ行動を起こしにくいものであるから、クンダリーニ・ヨーガも知性で理解できる全体像が呈示されなければならない。ところが、ゲーランダー・サンヒターや、シヴァ・サンヒターですらメディテーションの部分はぼかされている。
一歩誤れば、廃人や自殺の道もあるからである。

シヴァ・サンヒターのラージャ・ヨーガから、ヨーニ・ムドラーを説明している部分。
『(五)ラージァ・ヨーガ
五・三九-四〇
親指で両方の耳孔を閉じ、人差し指で両眼を、両鼻孔を中指で、残りの四本の指で口をしっかりと閉じて(三九)、空気の出入をきびしく止めるならば、光体として現われた真我が見える(四〇)

五・四一
この光明をたとえ刹那たりとも見た人は、あらゆる罪から解放され、至高な境地に達する。

五・四二
ヨーギーにして、上記の行法を不断に修習した結果その罪汚れを離れたならば、肉体等のすべてを忘れて、かの真我と一体になる。』
(続 ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社/P246から引用)

真我は、第六身体アートマンにして、本来の自己、「有」の側。
ヨーニ・ムドラーで呼吸停止し、第六身体アートマンを一瞥しさえすればあらゆる罪から解放され、至高な境地に達するとキャッチーな言葉を出している。

そしてその境地が進めば一瞥ではなく、神人一如、真我との合体が起こるとする。

古神道の目無堅間の船とは、ヨーニ・ムドラー状態の人かと想像する。
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スーフィの窮極

2022-11-21 10:12:04 | クンダリーニ・ヨーガneo
◎バハーウッディーン・ナクシュバンドの魂の旅

イスラム教のスーフィでも肉体死から神人合一の例がある。

『バハーウッディィーン・ナクシュバンドの魂の旅

ある日(ウズベキスタンのブハーラーに近い)ズユルトゥン村の庭で弟子たちにかこまれて坐っていたとき,私は神に引き寄せられていること(ジャズバ)を感じた。

どうしてもそれに逆らうことができず,私は、非常に強い力で引き離された。それで視線をメッカのほうヘ向けると,気を失った。

肉体の重さから解放され,私は「神のなかへの消滅(ファナー・フィーアッラー)」状態になった。天の領域の境界を飛び越えた場所で,私の魂は星の形になり,光の海に沈んで消えた。

同じころ,私の肉体からは生命の痕跡が完全になくなったので,弟子や近親者など私をかこんでいたものたちは,泣きさけび, 悲しんでいた。しかしすぐに,私の魂は肉体に反り,私は人間として生きかえった。 約6時間の出来事だった。
『リサーレ・イェ・バハーイーヤ』
イスタンブール(1889年)』
(スーフィ イスラームの神秘主義者たち/ティエリー・ザルコンヌ/創元社P119-120から引用)

宇宙を越え、中心太陽に突入し、帰還するという体験とは言えない体験の主要な要素が散りばめられている、とても貴重な記述である。その間肉体は死の状態にあり、かつ彼は蘇生し、それを語った。ダンテス・ダイジも語ったとおりである。

その時間は6時間というのは長いのか短いのか。よくぞ蘇生できたというべきか。

改めて窮極については宗派など全く関係ないと思う。
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