◎日常感覚の延長にはない
(2010-02-13)
釈迦とスブラフマンの会話。
『傍らに立って<神の子なる>スブラフマンは尊師に対して詩をもって話しかけた。
「この心は常にあわてふためいている。
この心は常におびえている。-----未だ起こらない未来の事柄についても、またすでに起こった事柄についても。
もしもおびえないでおられるのなら、-----お尋ねいたします。
それを私に説いてください。」と。
[尊師いわく、---]
「さとりに至る実践の修養のほかに、感官を制御することのほかに、一切を捨て去ることのほかに、生けるものどもの平安を、われは認めない。」
かれは、その場で姿を消した。』
(ブッダ 神々との対話 岩波文庫p125-126から引用)
そうか。さとらないと、本当の平安、癒し、ヒール、ピースフルはないのだな。
釈迦が最後のボディを保つ真人について語るには、
[尊師いわく、---]
『慢心を捨て去った人にはもはや結ぶ束縛は存在しない。彼には慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。
聡明な叡智ある人は、死の領域を超えてしまったので、
『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が[これこれは]<わがもの>であると語っている』と言ってもよいであろう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、
言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。』
(ブッダ 神々との対話 岩波文庫p41から引用)
最後のボディの真人とは、さとった人=慢心を捨て去った人。彼は死の領域を超える。死の領域を超える技法はクンダリーニ・ヨーガである。
「ブッダ 神々との対話」には、嘘をつくな、悪事を行うな、善事を行えという類のことが内容の大半であるが、まれにこのようなエッセンスが出てくる。この本には、善行を積めば来世で良い報いがあるなどとも書いてあるが、来世の果報をも問題にしないのが「死の領域を超える」ということ。
「死の領域を超える」というのは、日常の生活感覚にはない。さとりとは自分の特殊な心理状態であるなどということは釈迦は一言も言っていない。それは悟らぬ者にとっては想像もつかないものだろうということしかわからない。