アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ジェイド・タブレットの3つのハードル-3

2024-07-27 03:42:49 | ジェイド・タブレット

◎『2.天国にあまりひっかからないこと』

 

原始仏典では、彼岸とはニルヴァーナのこと。天国は『天』などとして登場。地獄の住人は多いが天国の住人は少ないなどとは出てくるが、天国そのものが問題だという表現は出てこない。

 

以下は『ブッダのことば』からの引用だが、『快美な事物に対する欲望』とは、天国のことである。人間は快いものをまず求めるようにできているが、釈迦は、それすらも除き去ることが求められると踏み込んでいる。

 

『九、 学生ヘーマカの質問

 

1085 聖者さまあなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」

1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り超えているのである」と。

ブッダのことば/ 中村 元訳/ 岩波文庫P229から引用』

 

人間は、善いことをして悪いことをせず、いわば天国的な生き方を通じて求道の修行を積むが、ニルヴァーナ到達以後の生き方も善いことをして、悪いことをしないという天国的な生き方である。

そこでニルヴァーナに入る前段で、天国にすらも執着しないことが求められるという、まったく無理無茶なクリアすべき条件が提示される。

つまり『2.天国にあまりひっかからないこと』とは、ニルヴァーナに入る前段以降に発生するハードルと言えるが、一貫した論理では割り切れない事象のため、事前に承知しておく事柄なのだろうと思う。善のベクトルは常に、自分を自分をなくしていくという方向性である。

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ジェイド・タブレットの3つのハードル-2

2024-07-25 06:16:23 | ジェイド・タブレット

◎1.霊がかりをやめること

 

20世紀前半までは、悟りはごく一部の精神的エリートのものであった。そういった状況下では、神がかり・霊がかり・シャーマニズムにより主神の意向を知るというのは、意義あることだったと思う。つまり、自意識が十分に発達していない人が大半である社会において、上意下達のスタイルで宗教組織全体を進歩向上させていこうとするためにシャーマニズム・霊がかりを用いることで、成果は上がっていたものだと思う。

 

ところが20世紀後半以降、自意識の充分な発達により、個々人が自分の悟りの実現を意識的に無意識的に課題とする社会となったところで、霊がかり・神がかりは、事実上その役割を終えたかに見える。すなわち万人に主神を霊がかりさせるのはほとんど不可能なのであることが大正時代の終わりにははっきりしたのである。

 

神がかり・霊がかりの舞台はアストラル体。アストラル体こそ神がかり・霊がかりの本丸であって、21世紀人類の進化に際しては、あくまでゴールではなく通過点に過ぎないものと位置づけなければならないものである。

 

ところが、チャネリング・シャーマニズム・霊がかり・神がかりに問題があることとは思っていない人が大半である。意外なことかも知れないが、『霊がかりを排す』ことこそ、20世紀初めに出現したアヴァターラ(覚者)達の主要テーマの一つだったように思われる。

 

超能力、霊能力、高級神霊については、夢、願望、祈りなど身近な浅い深層心理から発する場合もあるので誰にとっても身近であり、ともすれば理不尽な目に遭ってみじめで情けない自分にとって、最後の助けであることもままある。

このように、超能力、霊能力、高級神霊は、人によっては非常に切実なものではあるが、それで最終的な人間の救済に行きつけるかどうかは別の問題である。

また超能力、霊能力、高級神霊は、五感、潜在意識、微細身(エーテル体、アストラル体、メンタル体など)が複雑に入り組んでいるので、単純な一本道の説明はできない。

 

21世紀初頭のスピリチュアルの大きな問題の一つは、こうした霊がかり・神がかり系への世間一般の関心の高さを、相変わらず完全には払拭できていないという点である。

というのは、霊がかり・神がかり系への世間一般の関心の高さというのは、一般にはホラ-・オカルト映画や漫画の隆盛に反映されているが、その関心は主として漫才・お笑いに対する関心と同レベルの好奇心や一時的な感情の癒しであって、その関心が純粋な求道に転向していく例はほとんどないだろうからである

 

霊がかりとは、二元対立を出にくいものであり、二元対立を卒業しなければ、真の悟り、神人合一までには至らない。霊がかりは、中間段階であって、最終目標のニルヴァーナは遥かに先にある。

 

よって「みんなが霊能力をつけチャネラーになりましょうという」方向は全く誤ったものではある。というのは、現代人の不安定な心理状態のままで、霊能力をつけチャネラーになろうと努力したところで、その感受性の増進により、日々の生活に必要な生存競争に必要な闘争心が減退して、生活ができにくくなるだけで、一利はあるかもしれないが百害があるように思う。

 

あらゆる意味での二元対立は根が深い。

いわゆるオカルティズムにあっては、たとえば地獄的勢力があってそれが世の中全体を悪化せしめているから、それを弱体化、撲滅していくことが世を改善することだなどと説明する。それは天国と地獄があるとか、天界や神界や地獄もあるという霊的な構造で説明しているわけだが、ところがそういう世界観は無数にある世界観の一つにすぎない。

一方真正な世界観とは、覚者の側からすれば、天国も地獄も天界も神界も地獄もなく、今ここだけである。

 

戦後の古神道系新興宗教は、出口王仁三郎の大本教を源流とするものが多いのだが、大本教の教説自体が霊をメインとする教義であったがゆえに、そうした新興宗教は霊がかりな教義を持っているものが多い。

 

【ご参考1】

人間には正守護神というのが、一生涯ついてまわっているが、他に高級神霊というのもある。

 

【ご参考2】

霊がかりをやめること』については、前身のブログ【アヴァンギャルド精神世界】で、〈霊がかりを排す〉特集をして、力を入れて書いてきた。

【アヴァンギャルド精神世界の〈霊がかりを排す〉特集19本】

1 霊がかりを排すことの重要性

2 霊がかり・神がかり系スピリチュアルの弊害

3 中間的なものがなぜダメなのか

4 宗教史から見た脱霊がかり

5 日本宗教の奔流と霊がかり

6 道教ではもともと神像がなかったこと

7 チャネリングの限界

8 脱霊がかりの地ならしとしての出口王仁三郎

9 縁がない人たち

10 わかってる人は他人の悪霊払いはしない

11 釈迦の今、ここ

12 善と悪、光と闇、神と悪魔の対立

13 見ている自分を残す

14 本当に悟った人なら

15 アストラル人間には救いはない

16 一無位の真人

17 またの転生に及ばず

18 神智学とクリシュナムルティ

19 神がかりにだまされる者は、神の綱が切れる

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ジェイド・タブレットの3つのハードル-1

2024-07-24 03:06:53 | ジェイド・タブレット

◎誰もが薄々感じているが言葉にしにくいこと

 

現代人が神に成るには、現代人に特徴的な3つのハードルがある。

『1.霊がかりをやめること

『2.天国にあまりひっかからないこと

『3.中味のわからない神仏を求めて進まなければならないこと

 

これを越えて、ジャンプアウトという個人が世界全体、宇宙全体になるという大逆転、倒立が起こる。

 

『1.霊がかりをやめること』については、昔から何度もいろいろな形で述べて来た。チャネリング、シャーマニズム、神下ろしで発生するのが霊がかりだが、いわゆる浅い霊感もそれに属する場合がある。

 

『2.天国にあまりひっかからないこと』については、求道者たるもの、一般にどんな宗派でも善を行い悪を行わないという戒律を守りながら修行しているものであって、修行のあり方そのものが天国的である。これの真逆である、『2.天国にあまりひっかからないこと』とは、修行がある程度進んだ段階などで地獄的なものに出くわしたり、天国の境地が通用しない不条理、理不尽に出会うことがあるためである。最終的に天国は超越すべきものだからである。

だがこれは、世間的には言いにくい。教団内部の敬虔な信者の前であっても言い方には相当に配慮が必要。

 

『3.中味のわからない神仏を求めて進まなければならないこと』。これは、ニルヴァーナが言葉で表現できないものであり、属性のないものだが、最終段階ではそれを求めて一歩進まねばならないことを言う。途中の修行段階の人間に向かって、『あなたは、中味のわからないものを求めて修行している』などと言い放っても、言われた方はよい気はしない。古神道なら幽の幽、あるいは効果を求めない冥想修行などとネイミングはあるが、それでもって納得して修行を進められるのかといえば、必ずしもそうではないだろう。

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コア オブ ジェイド・タブレット 

2024-07-01 03:14:23 | ジェイド・タブレット

1.人間には、各々霊線があって、これを根源までさかのぼると、自分がすべてのすべてである神仏であることに気がつくことができる。


2.すべての他人が、神仏である自分の一部であることがわかれば、もはや他人を傷つけることはできない。そこには愛だけがある。

3.時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。
これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。

 

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

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エッセンス オブ ジェイド・タブレット(裏)

2024-06-30 03:22:03 | ジェイド・タブレット

《1.出生と乳児》 
 意識することなく、神(仏)と人間の結節点(結び)を生きている。
  
《2.三歳》 
 一旦神を喪失し、再び神を生きることを目指す探求の旅が始まった。
  
《3.思春期の水平の道》 
 心身のアンバランスをてこに、自分自身に向き合い、物質、時間、空間という固定観念を打破する。
  
《4.思春期の垂直の道》 
 霊能力や超能力にこだわらず、トランスに入り、脱身して神人合一を真似ぶ。
  
《5.青春期以降の水平の道》 
 大悟覚醒し、その馥郁たる香気を持ちながら仕事も家事も行う。
  
《6.青春期以降の垂直の道》 
 あらゆるマインド・コントロールを払拭し、一段一段、脱身から神人合一を目指す。
 
 《7.天国まで》 
 ひたすら天国的に生きて行けば、神も悪魔も超える試練があるが、それが自分自身に直面するということ。

《8.地獄も超えて》 
 天国を乞い願う気持がピークになると、なぜか悪魔が登場するが、そこで神に復(か)えるのだ。
  
《9.コーザル体・完全人・両性具有》 
 見る自分が残っていると悟りを開けないが、見る自分が最後の人間であって、逆転の直前である。
  
《10.垂直上昇への仕掛け》 
 個別の自分である一直線の光り輝くエネルギーが、中心太陽に突入する不可思議。 
 
《11.アートマン》 
 君という神と僕という神とのドラマが終わったところに神のドラマが始まる。
  
《12.ニルヴァーナ》 
 時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。
  
《13.冥想自在》 
 冥想自在とは出入自在のことで、 あらゆる宇宙を自由自在に出入する。

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

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エッセンス オブ ジェイド・タブレット(表)

2024-06-29 03:10:23 | ジェイド・タブレット

《1.出生と乳児》      

乳児は幼き帝王だが、生まれながらにして覚醒しておらず、無意識にいる。

      

《2.三歳》   

人は三歳で、全能感を感じ、初めて神を喪失する。

      

《3.思春期の水平の道》  

神を感じやすい時期で、自分の希望を持ち、生への希望を持って生きる。

      

《4.思春期の垂直の道》  

しみじみとした心で、目覚めた神秘のエネルギーにより究極を目指す。

      

《5.青春期以降の水平の道》  

大悟徹底を目指し、中間段階はなく、身心脱落した後は、日常生活がそのまま真理あるいは仏法として生きる。

      

《6.青春期以降の垂直の道》  

まず見神見仏を目指し、中間の段階をステップアップしつつ、最終的に神人合一する。

      

《7.天国まで》  

人はまず天国的なものを希求するが、肝心の神仏は、天国にはなく、天国の先にあるけれど、天国の側を窮めることだけが神仏への道。

             

《8.地獄も超えて》  

その生は地獄のようであって恐ろしく悲惨だが、真に幸福に生きるための神秘の段階を履む隠された道がある。

      

《9.コーザル体・完全人・両性具有》 

個たる人間の最後の姿は、あらゆる正反対のものを包含して完全人であり、ミクロコスモスのようなものである。

      

《10.垂直上昇への仕掛け》   

どこから歩いても同じ一つの終着点に至るような、人間共通の神に至る道が垂直上昇。

      

《11.アートマン》    

個人間は、すべてのすべてである神であったことに気づく。

             

《12.ニルヴァーナ》

もはや体験とはいえない体験を経て、なにもかもなし。

      

《13.冥想自在》

神である自分を生きることと人間である自分を生きること。

 

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

     

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ジェイド・タブレットのストラクチャー

2024-06-18 14:07:40 | ジェイド・タブレット

【ジェイド・タブレット】

《0.自序》
ジェイド・タブレットについて(自序)

 

《1.出生と乳児》
 出生と乳児の時期 

 

《2.三歳》

 三歳
 黒人掃除婦の三歳になる息子
 芭蕉、三歳の捨て子に会う
 郭巨が三歳の子を捨てに行く
 三歳の全能感と神の喪失の始まり

 

《3.思春期の水平の道》

 思春期の水平の道
 冥想フリーク盤珪
 正受慧端
 トレヤ・キラム・ウィルバー
 思春期の見性

 

《4.思春期の垂直の道》
 垂直の道のエッセンス
 垂直の道の世界観
 脱身の各種
 トランス-微細身への通路

 想念の隙間とその深度
 ダンテス・ダイジの脱身
 柳華陽の脱身
 出口王仁三郎の脱身

 

《5.青春期以降の水平の道》
 青春というもの


 塩沼亮潤大阿闍梨-1-九百九十九日、人生生涯小僧の心
 塩沼亮潤大阿闍梨-2-四無行、断食、断水、不眠、不臥
 塩沼亮潤大阿闍梨-3-悟りと人格の陶冶は別物、人間関係に悩む
 塩沼亮潤大阿闍梨-4-見仏だが神秘体験にこだわらない
 塩沼亮潤大阿闍梨-5-一歩一歩無事に歩けること


 クリシュナムルティ-1-冥想を教えなかったこと
 クリシュナムルティ-2-クリシュナムーティの死
 クリシュナムルティ-3-クリシュナムルティの冥想遍歴
 クリシュナムルティ-4-クリシュナムルティの只管打坐の勧め
 クリシュナムルティ-5-otherness他性

 道元-1-只管打坐で悟ったモデル
 道元-2-只管打坐は何も得るころはないけれど
 道元-3-寝る間を惜しんで坐る
 道元-4-身心脱落の前兆
 道元-5-悟って後、俗世を生きる

 松尾芭蕉-1-求道
 松尾芭蕉-2-今ここ
 松尾芭蕉-3-わび
 松尾芭蕉-3-さび
 松尾芭蕉-3-あわれ
 松尾芭蕉-4-孤独
 松尾芭蕉-5-捨て子
 松尾芭蕉-5-一生の終わりも幻住なるべし
 松尾芭蕉-5-パッションすらも忘れて
 松尾芭蕉-5-芭蕉の臨終

 一休-1-先師と求道-1-阿育王寺から
 一休-1-先師と求道-2-謙翁
 一休-1-先師と求道-3-華叟
 一休-1-先師と求道-4-一休の名の由来
 一休-2-悟境-1-足元に世界樹あり
 一休-2-悟境-2-本来もなきいにしえの我
 一休-3-生きる姿-1-男色女色酒食
 一休-3-生きる姿-2-地獄太夫
 一休-3-生きる姿-3-ダライ・ラマ6世との類似
 一休-3-生きる姿-4-普化和尚
 一休-3-生きる姿-5-一休骸骨
 一休-4-最期-1-念仏門に改宗

 

《6.青春期以降の垂直の道》

〈無意識と死の側〉
 1-水平の道と垂直の道の違い(無意識と死の側)
 2-無意識を操作する(死の世界(無意識)が日常生活に与えている影響)
 3-マインド・コントロール(耽溺から思考停止へ)

{4-地球人口削減のための諸施策}
 1-概説(生も死も神の許し給うところ)
 2-歴史(イエス出現の成果はキリスト教に限定されない)
 3-予言-1-聖徳太子の未来記と猿(猴(みこう)の如き者、天下を掠むること三十余年、大凶変じて一元に帰す)
 3-予言-2-聖徳太子未来記と出口王仁三郎-1(国を挙げて大祓)
 3-予言-3-聖徳太子未来記と出口王仁三郎-2(世界統一)
 3-予言-4-マッソンが終わりの世に疫病をもたらす(午頭天王とはマッソン)

 

〈超常現象・オカルト〉
 超能力、霊能力、高級神霊(無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-1-概説-1-超能力、霊能力、高級神霊)
 超常現象・オカルトにこだわらない(無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-1-概説-2-超常現象・オカルトにこだわらない)
 超常現象、オカルトは冥想修行の邪魔(無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-1-概説-3-超常現象、オカルトは冥想修行の邪魔)
 覚者や超能力者、霊能力者の時間認識(無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-1-概説-4-覚者や超能力者、霊能力者の時間認識)


 イエス・キリスト-1-イエスと垂直の道
 イエス・キリスト-2-悪魔(荒野で悪魔に試される)
 イエス・キリスト-3-磔刑(イエスの遺偈(エリ、エリ、レマ、サバクタニ))
 イエス・キリスト-4-超能力で木を枯らす(いちじくの木を超能力で枯死させる)
 イエス・キリスト-5-単独なる者、選ばれた者(父母がまだ生まれていない以前の自分)

 役行者-1-役行者の意義(神代文字)
 役行者-2-みろくの時代の御宝(全国の金鉱の地図)
 役行者-3-蔵王権現の謎(人工的イメージの匂い)
 役行者-4-役行者が伊豆大島へ島流し(超能力者は邪険にされる)
 役行者-5-役行者が己の骸骨に出会う(トラウマを超えて)
 

 空海-1-即身成仏と業績(悟りのプロセスと活躍)
 空海-2-十住心論(意識レベルと存在レベル)
 空海-3-山岳修験(山岳修験の深く旧いルーツ)
 空海-4-うつ病(出家前の厭世観)
 空海-5-この身このままで仏となる(秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す)


 OSHOバグワン-1-三つの前世からコミューンへ(OSHOバグワンの手がかり)
 OSHOバグワン-2-アトランティスの前世(冥想コミューン設立の約束)
 OSHOバグワン-3-荘子としての前世-1(坐忘で窮め、逍遥遊する)
 OSHOバグワン-3-荘子としての前世-2(無用の用)
 OSHOバグワン-3-荘子としての前世-3(荘子の7つのチャクラ)
 OSHOバグワン-4-チベット密教高僧としての前世(暗殺された高僧)
 OSHOバグワン-5-今生-1-七つの身体論(七つの身体についての具体的な説明の数々)
 OSHOバグワン-5-今生-2-幼少期(祖父の死のプロセス)
 OSHOバグワン-5-今生-3-肉体からメンタル体まで(七つの身体はそれぞれ別次元にある)
 OSHOバグワン-5-今生-4-コーザル体(第五身体と両性具有)
 OSHOバグワン-5-今生-5-自我の結晶化(願望実現と謙虚さ)
 OSHOバグワン-5-今生-6-善人だけが神になれる(デヴァとプレータ)
 OSHOバグワン-5-今生-7-OSHOのアートマン(アートマンとブラフマン)
 OSHOバグワン-5-今生-8-ニルヴァーナ(もはや何も起こらない)


 釈迦-1-クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も(只管打坐系の悟りもクンダリーニ・ヨーガ系の悟りも)
 釈迦-2-七チャクラ(七覚支と七チャクラ)
 釈迦-3-未公開の垂直の悟り(冥想十字マップのもう一つの交点)
 釈迦-4-ニルヴァーナまでの軌道-1-欲界と色界(欲界と色界と無色界)
 釈迦-4-ニルヴァーナまでの軌道-2-四禅までの解説(四禅の段階)
 釈迦-4-ニルヴァーナまでの軌道-3-無色界の禅定(非想非非想処定まで)
 釈迦-4-ニルヴァーナまでの軌道-4-滅想定(滅想定という有相三昧)
 釈迦-4-ニルヴァーナまでの軌道-5-ニルヴァーナ(釈迦の入滅シーン)
 釈迦-5-最初のニルヴァーナと臨終時のそれの違い-1-見ることと飛び込むこと(大涅槃、マハパリニルヴァーナ)
 釈迦-5-最初のニルヴァーナと臨終時のそれの違い-2-最後の死を教える者(限りなき静寂、永遠の沈黙)
 釈迦-6-体験とは言えない体験(最後の身体を持つ者)

 

《7.天国まで》
 天国と神や仏はどういう関係(天国志向の結末)
 天国を志向する人(世界の逆転まで)
 悪との出会い(準備ができているかどうか)
 天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ないとどうなるか(アポロン型文明の終わり)
 禅堂の生活と修道院の生活(天国志向と積善)
 ドン・ボスコの生活を変える7か条(地上天国、千年王国の入り口)
 功過格(毎日の行動を善悪に分けて採点する)(袁了凡)
 ダンテス・ダイジ、悪魔からの超越を語る(大悟直前の悪魔の妨害)
 エクソシスト稲生平太郎(稲生物怪録)
 世界の終極に達しなければ(世界の止滅にみちびく道)
 最初の隠修士パウロス(人に知られない)
 婆子焼庵(ばすしょうあん)(悪魔と対峙する準備なし)
 アビラのテレサの霊魂の城(悪魔との対峙は第二の住まいで)

 

《8.地獄も超えて》

 天国と地獄両方を超えた悟りに追い込まれる(焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も神に復ればこころ涼しき)
 ヨブ記の読み方(太古の科学作業)
 聖アントニウスの誘惑(翼で天に昇ろうとする者たち)
 天国も地獄も吹き飛ぶイベント(隙間イベントが起きると天国的な癒しは通用しない)
 求道の真剣味(言語を絶する不幸には滑稽が伴う)
 命知らずだが、永遠の命を求める(興味を持っている人たちは揺るがない)
 ヘルメース讃歌に見るヘルメース(天国と地獄での同伴者でもあり)

 

《9.コーザル体・完全人・両性具有》
 反対物の一致という平面から(個たる人間の最後の姿)
 ケン・ウィルバーのコーザル体(意識のスペクトル)
 ミルチャ・エリアーデのコーザル体(神秘と逆説、そして絶対的自由)
 禅のコーザル体(十牛図 第六騎牛帰家)
 出口王仁三郎のコーザル体-1-伊都能売と両性具有(伊都能売と両性具有)
 出口王仁三郎のコーザル体-2-伊都能売神(いづのめ)の誕生(伊都能売神(いづのめ)の誕生)
 出口王仁三郎のコーザル体-3-直霊、神直日、大直日(直霊、神直日、大直日)
 出口王仁三郎のコーザル体-4-伊都能売の機能(伊都能売の機能)
 出口王仁三郎のコーザル体-5-両性具有=完全無欠の神人(両性具有=完全無欠の神人)
 OSHOのコーザル体(夢と現実は一つで、至福だけがある)
 ダンテス・ダイジのコーザル体(クンダリーニ上昇)

 

《10.垂直上昇への仕掛け

 古事記の屋根を突き破るという布石(導師が頭頂の封印を切る)
 父系三位一体と近代西欧文明の宿命-1(冥想による無意識の意識化)
 父系三位一体と近代西欧文明の宿命-2(錬金術師マリア・プロフェティサの公理)
 インドとはどういうものか(精神的なものに価値があるとして揺るがない)
 二重の現実感、それは確実に世界を変容させる(意識のぎりぎりの限界状況を突破した先)
 どこから歩いても同じ一つの終着点に至るような人間共通の宗教モデル(一つの排他的な新たな道や宗教は通用しない)

〔1.死のプロセスと成道と中有行きの分岐〕
 死のプロセスと成道と中有行きの分岐-1(すべてを失う自我の死)
 死のプロセスと成道と中有行きの分岐-2(四元素の溶解と五感の停止)
 死のプロセスと成道と中有行きの分岐-3(内なる溶解)
 死のプロセスと成道と中有行きの分岐-4(成道と中有行きの分岐点)

〔2.輪廻転生の実態〕
 輪廻転生の実態-1(輪廻転生の主体など)
 輪廻転生についてのOSHOの説明-1(あなたは誰かの記憶・カルマを引き継いだ)
 輪廻転生についてのOSHOの説明-2(マーヤなる記憶の解体と再構成)
 釈迦の輪廻の見方(人間の帰趨は行為である)
 ダンテス・ダイジの死と転生-1(霊が存続するメカニズム)
 ダンテス・ダイジの死と転生-2(死と転生のメカニズム)

〔3.精神の成熟〕
 爛熟から成熟へ(退屈、倦怠、憂鬱という心のエネルギーのたゆたい)
 世界の成熟(自意識の発展と知性の発達(霊がかりと天国希求の限界))
 成熟のバロメーター(正師に出会う)

メンタル体での脱身と究極への突入(呼吸停止、脈拍停止)
しっくりくる(生きること自体何かスッキリしない)

〔4.大逆転と倒立〕

自分と神仏が大逆転(本当の愛や本当の善や本当の安らぎに出会う)
出口王仁三郎の逆転-1(世界、宇宙そのものが自分である)
出口王仁三郎の逆転-2(富士鳴門の仕組み)
出口王仁三郎の逆転-3(無我の聲(こえ)こゑなき聲(こえ)をききながら)
ソーマに酩酊した者の逆転(人はソーマに飲まれ、ソーマになる)
ソーマ・パイロットの逆転(私はソーマを飲んだのか?)
ドン・ファン・マトゥスと世界の見方(人間存在の本質、エネルギーの本質)
メキシコの中心太陽に飛び込む(無限は信じられんほど魅惑的なのだ)
ホセイン・マンスール・ハッラージ-1(私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある)
ホセイン・マンスール・ハッラージ-2(真の人間は我が身の属性を一顧だにしない)
ホセイン・マンスール・ハッラージ-3(大聖者は、丁重に扱われるべき)


〔5.成道の瞬間のスローモーション解析〕

何のためにニルヴァーナに向かおうとするのか(人間には結局苦悩と絶望からの救いはないから・・・)
ニルヴァーナ覚醒プロセス(モクシャ(実在、意識、至福)から肉体への帰還まで)

 

〔6.無上の垂直道〕

救いの一直線の光り輝くエネルギー(クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための)

 

〔7.モクシャ〕

モクシャ{実在、意識、至福}(独存、無我、自由)

 

〔8.そこからの帰還〕

ニルヴァーナからの生還(君は、初めて、真に生きる)

 

 

《11.アートマン

アートマン、本来の自己、真我(空、本来の自分、聖杯、月、鏡、不死、不壊、永遠)
冥想の効用と二種類の死(概説)
ニーバーナ、アーメン、カミという無用の用(正体不明の側の方が重要)
第六から第七へは、究極の死(語り得ることは何もない)
ニルヴァーナ直前のサマーディ(各ボディ間サマーディ)
第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-1(あらゆるものが始原の源に帰還)
第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-2(万象の種子がある世界からそれすらもない世界へ)
第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-3(夢の中で意識的になって、はじめて現実を知ることができる)
ゾイゼの第六身体、第七身体(自己放下、神への沈潜と一者)
種の世界と変動する現実世界(第六身体とアカシック・レコード)
時間が流れない現実認識(一つながりのもの、一気、アートマンでの逆転)
バガヴァッド・ギータのブラフマンとアートマン(肉体を離れようとする最後の瞬間に考えることは、すべてがいつかは実現する)
その時、空が起こる(真我、空、本尊、アートマン、一気)
夢窓疎石のアートマン(アストラルでの支那トリップなど)
熟睡中に眠らなければ夢も見ない(信心銘でアートマンの後と先)


《12.ニルヴァーナ》

ニルヴァーナ、なにもかもなし(月もなく、太陽もなく、カイバリヤ)
ニルヴァーナ、人間と神の双全(リアリティーとは、対立の統合ではない)
ニルヴァーナ、語るべからざるを語る(石、岩、遠景、黄金、愚者)
ヘルメス文書の「一者」の源である者(知性が神を知解する)
石ころの心(人間の側に立っていないこと)
天地不仁(すぐに燃やしたり捨てたりされる藁の犬)
悟りが夢であるように(神よ、「何もかもなし」それ自身よ、私自身よ)
キリスト教のクンダリーニとニルヴァーナ(七つの中枢を通って人の子は神に向かって上昇)
古神道のクンダリーニとニルヴァーナ(世界の構造は四段構え)
クンダリーニ・ヨーガのクンダリーニとニルヴァーナ(故意に文献での精確な定義を避けてきたインド)
名状しがたい光明の体験(リアリティーとは、永遠の対立であり久遠の統合である)
タオ(秋の虫たちが鳴いているよ・・・)
まるで一輪の野の花のように(何もかもが時間でない今を楽しんでいる)
万人の召命(イエスのことを三度しらばっくれたペトロは二度召命)

《13.冥想自在

すべてを棄てるのは容易ではない(冥想自在のスタート地点)
百億の誕生と死と再生を見る(あらゆる実感を経るということ)
メリットを求めない冥想へ(無用の用への動機)
菩薩と見仏・見神・見性(君子、神の子、神の生き宮、菩薩)
女性的自我の充足-1(最もあなたにふさわしい夫は与えられている)
女性的自我の充足-2(女性的自我なる鉢かづき姫)
人間のどうしようもなさ(醒めていて同時にもの狂おしい)
的確に学ぶ(冥想は的確に学ばないと一生を誤りかねない)
愛、不思議に静かな夜だった(救いなどない絶望の極みから愛が開ける)
冥想が冥想を冥想し続ける(過去25年のモラトリアムの意義)

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冥想が冥想を冥想し続ける

2024-06-17 03:58:23 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-10

◎冥想自在-10

◎冥想自在の構造-10

◎過去25年のモラトリアムの意義

 

1970年代から、冥想に本格的に打ち込んだ人たちの生活の面倒を見ることは、冥想修行者にとって重要なテーマの一つだった。だが、それがとても困難だったことは、1970年代も今も変わらないし、今は状況はさらに悪化している。

そもそもノストラダムスは、1999年7月を指し、ダンテス・ダイジも20世紀末の大変動を指摘していた。20世紀末にそれは発生することなく、なぜか2024年までモラトリアムは延びている。これは、20世紀末に発生した場合、人類の成熟が不十分で生き残る人数が少なすぎるので、延期して更なる成熟を図ろうという、神様の大慈悲によるものだったのだろうと思う。

 

ところが、状況は1999年から改善したかと言えば、決してそうではなく、むしろ第三次世界大戦や中国の周辺国への軍事進攻などが懸念される事態であり、人類滅亡の確率は悪化しているように思われる。

 

というのは、その国にいかに多数の神仏を知る人間を抱えているかどうかが、そのような事態が起きにくい国と言えるからである。それは、旧約聖書のソドムにおいてロトが正しい人を10人も発見できなかったので、ソドムが壊滅した先例と同じ。

 

冥想自在とは、そうした時代的バックグラウンドと無縁ではない。

ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経てまだ生きている場合、人は二重の世界観を生きる。個人としての天命と全知全能の神としての天意という二重の世界観を生きるのだ。

 

冥想自在とは、達者な霊能力者のように死者の世界である霊の世界と現界を往来自在であるという意味ではない。みじめで情けない人間としての自分と、そうではない過去現在未来を含む主宰神としての自分がいることがわかりつつ生きるということ。

 

冥想自在とは、そのような状態で冥想を戯れることだが、みじめで情けないだけの人間が冥想をすることではない。

 

次の詩に、はからずもその理想社会が描かれている。

 

『【冥想の戯れ】

 

すずめが鳴いて すずめとなり

石ころが笑って 石ころを生きている

クリシュナは牧女達とヤムナーの流れに遊び

冥想が冥想を冥想し続ける

ブラフマンもニルヴァーナも忘れ果てたところに

人間も文明も もとより無い

今 ここに 冥想は戯れ

かつて誰も見知らぬ

まったく新しい 人間と文明とを産んだ』

(超宗派的冥想/雨宮第慈 巻頭言から引用)

 

これは、新時代の人間全員が神を知っていることを示し、『誰も見知らぬ』で、そこに生きる人間が透徹した孤独感を抱えて生きていることを示している。これが覚者の二重の世界観であって、万人がそうなるのだろう。

 

そうなるには、まず自分が日々冥想をして大悟覚醒せねばならない。

 

なおいわゆる世紀末の地殻大変動は、人類の大悟覚醒した人数の多寡にかかわらず起きるかもしれない。だがそこで生き残る全員が大悟覚醒した人であるわけでもないのだろう。

自分が生き残るか死ぬか、そんなことは覚醒した自分の知ったことではないのだ。

 

ジェイド・タブレットでは、ライフ・ステージ別の窮極に至る道と天国希求以降のポイントを軸に説明した。次の時代に人類が存続するためには、生成AIのような横の拡張ではなく、自分と次元を飛び越える垂直ジャンプをせねばならない。

そのためには、人知れず個室での冥想修行に打ち込む場合が多いのだろうが、それは時代の然らしむるところであり、社会全体が無用の用に理解を示す時代になるまで、しばし逼塞せざるをえないところだろうと思う。

また出口王仁三郎は、天皇陛下が世界トップとして尊崇される時代が来ることを予言しているが、それも世界全体が無用の用を広く理解するようになって以後のこととしか考えられない。

 

自分のことはさしおいて、他人のために行う風は、日本の美風である。そんな美風が残っているうちに、冥想について理解してもらいたくてジェイド・タブレットを書いた。

 

最後にアヴァターラとダンテス・ダイジの特殊性について触れる。
アヴァターラと言えば、最近はモバイルゲームなどのキャラクターのことだと思う人が多いが、原義は神人のことである。
神人と言っても、元来が肉体人間であるケースと神が人間として降臨したケースの二種あって、ダンテス・ダイジは後者だろうと思う。彼は、出口王仁三郎が、顕の幽に分類した神。すなわち、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。一旦人の肉体を保って霊界に入り給いし神であって、単に人間として何度も輪廻転生を繰り返す身魂(顕の顕)とは異なる。霊界物語では野立彦神として登場。

その述懐をしている断簡は、以下。
『今、私にふと何か欠けているといった思いが浮かんできた。もとより神自身なる身に何の欠けたるところはない。
では私に欠けているのは何か?
それは私の人生であった。私には私の人生というものがない。私には、ただあらゆる情景の転変があるばかりだ。
それは何一つ確定したものを許さぬ。
なぜなら、それが私の戯れかただから---』
(戯れに冥想を/ダンテス・ダイジから引用)

『ダンティスはそのニルバーナの究極的解放において全体性の観照者でありえた事はもちろんであるが、彼は、そこにとどまる者としてではなく、むしろ、ニルバーナの化身であり、全体性の至上の天国と極悪の地獄を自由自在に戯れるものとして生きた。』
(上掲書から引用)

ダンテス・ダイジの前身は、クリシュナにして、ヘルメスにして、道教にあっては如意第慈。いずれも大物覚者。
そして近代西欧数百年の運命を霊眼でスキャンしたノストラダムスが目にしたのは、ヘルメスがダンテス・ダイジとして日本に転生した黄金のきらめきだった。

また最近の古神道系の大物オカルティストの系譜は、本田親徳、出口王仁三郎、ダンテス・ダイジだが、ダンテス・ダイジは、本田親徳については、あまり研究する必要はないというニュアンスの素振りであった。

ダンテス・ダイジは、大本教の研修で、古神道の鎮魂帰神の実習を出口王仁三郎の霊体から直接受けたと述べている。

ジェイド・タブレットを見て、冥想修行を進める人達に向けて、参考になりそうなダンテス・ダイジの言葉。
『メシアン・ハンドブックの序言

アメンティーに近づけば近づくほど、あなたにとっての現象宇宙は、深い闇に包まれていく。
あなたが存在すると妄信している現象宇宙は、仮象にすぎないからである。
あなたの見ている現象宇宙が希薄になればなるほど、絶対そのものなるアメンティーの光明が、あなたを包む。
そのアメンティーの光明の中に、すべての答えならぬ答えが実在している。
私の言葉は、あなたの知的理解を求めてはいない。どのような崇高な教説も、結局はあなた自身の全生命をかけた霊的な解説によるものだ。』
(上掲書から引用)
※アメンティー:アトランティス密教の最奥殿

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愛、不思議に静かな夜だった

2024-06-16 06:50:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-9

◎冥想自在-9

◎冥想自在の構造-9

◎救いなどない絶望の極みから愛が開ける

 

愛とは、慈悲のこと。大慈大悲のこと。愛とは、とてもとても悲しいということ、悲しみの極み。

 

好きだ嫌いだの愛情と、愛とは違う。愛が悲しみであるということはダンテス・ダイジの胸のアナハタ・チャクラの説明に出てくる。

『ステップ4.

 

すべてが自己である愛・慈悲

大いなるすべてのものに対するいとおしさ

すべてが一体であるという感謝

底知れぬ生命の絶望と悲しみ』

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)

 

愛が極まる超能力とは、他心通なのだろう。

 

人間には七つのチャクラに配当される属性があるが、なぜ愛だけが推されるのだろうか。

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』の只管打坐の章は、二段に分かれている。最初の段は、高校不登校で毎日真っ暗闇だったダンテス・ダイジが、古代ローマの殉教映画クオバディスか何かを見ている際に、愛という言葉が胸に響くと同時に、人間もあらゆる万物も絶対的に救われないという悲しみがやってきた。気が狂ったように泣いた。涙はとめどなく溢れてきた。

万物の決定的絶望の極みの中で、その時万物万象を含む愛が開かれた。

この時自然に坐り、これが只管打坐の姿勢となった

 

只管打坐の章なのにニルヴァーナである身心脱落を説かないのは、変だと思った人は多いと思う。二段目に身心脱落を説いてはいる。

 

愛を開く、人間も万物も救われない悲しみを感得するというのは、現代人として、この地獄的文明生活を越えて一歩出るということ。

 

オカルティストは、地球の課題は、マニピュラ・チャクラである欲望満足・自己実現からアナハタの愛に進むことだと説明するのだが、人類滅亡を回避するためには、力、自由、安心など下位三チャクラに力点を置くことはやめて、アナハタ以上の三チャクラ主体で進まねばならない。

 

出世競争や武道などで丹田強化(スワジスターナ・チャクラ)が言われるが、この時代の丹田強化は、争闘強化と人類滅亡を促進する面が強い。よって、「愛」をことさらに言わねばならなかった。

 

また身心脱落では、クンダリーニ・ヨーガの窮極と同様に七つの身体を上昇するが、急速に起こるために、本人が「愛」などを通過した自覚がない場合があるという。身心脱落では七チャクラそれぞれの属性に対応する悟りが起こっているはずであって、「愛」だけ起こっているはずはないということ。

 

イエスは、十字架上で大悟する以前は、未悟だったが、ひたすら愛を説いた。ユダに銀貨30枚で売られ、愛弟子ペトロに知らんぷりされるという裏切りに遇っても、ひたすら愛、自分がまだ神人合一していなくてもひたすら愛。

こうした義の教師の生きた姿を深く感じた古代ローマ人と西欧人はまことに見る目があった。

こうしてイエスは、愛への時代2千年を支配した。今は各人が自分で愛を知る時代。

 

以下にダンテス・ダイジの箴言4つを挙げる。

 

『【オカルティックに】

 

この中有界タイプの世界文明は、

20世紀末に終わる。

現代文明とは、マニピュラ・チャクラとアナハタ・チャクラとのバルドのことである。

欲望満足と『愛』との上下運動のことである。

 

文明の終末なぞ、別にどうということはない。

この世のあらゆるものは産まれ生き死ぬ。

呼吸は、出息で死に入息へと再生する、

入息は終り出息が始まる。

そのように、あなたは死ぬのだ!

 

おお、限りなく愛しいマーヤよ!

六道のつじよ!  

さようなら・・・・

すべては、あなたのためにあるのではない。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

※バルド:中有

※マーヤ:迷い、無明

 

『現実として、一切万象の中に単独として存在しているものはない。

重要なのは、 万象の一体性が、絶対愛だということにある。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP 137から引用)

 

『本当のこの世との一切の別れは、 

本当にこの世のすべてを理解するのは、 

あなたが、あなたの肉体の頭部の光の智恵に導かれて、 

限りない道の広がりへ出てゆく時である。 

つまり、あなたは、 

唯一の限りない出会いと一瞬一瞬に 

別れを告げているということなのだ。 

それが愛の始まりであり、 

それが愛の終わりなき終わりなのだ。 』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP56から引用)

 

『真実の愛は、 

絶体絶命なる虚無性を、 極め尽くさねばならない。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP 110から引用)

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的確に学ぶ

2024-06-15 03:19:09 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-8

◎冥想自在-8

◎冥想自在の構造-8

◎冥想は的確に学ばないと一生を誤りかねない

 

何もわかっていなかった頃、ダンテス・ダイジの話の中に『的確に学ぶ』という言葉がでてきた。

20代前半のことで、禅とクンダリーニ・ヨーガ(密教系)は違うということは、漠然とはわかっていたが、個人として禅に行き詰まればクンダリーニ・ヨーガに移るくらいのことは、よくあることと認識していたので、その区別さえいい加減に考えていた。

 

その後、いろいろな場面で冥想は的確に学ばないと一生を誤りかねないということを身に染みて知ったので、『的確に学ぶ』ということで記事を挙げる。

 

20代前半の頃、地下鉄サリンの某カルトや昨今世間を騒がせている某カルトの勧誘が非常に盛んだったが、幸運にも私はそういう場面に出くわすことはなかった。そういうめぐり合わせすら、ある意味で『的確に学ぶ』姿勢の結果だったのかもしれないと今なら思う。

 

『的確に学ぶ』ということは、してはならない戒律のようなものと、行っていくべき生活全般の行動指針のようなものに分かれる。わたしは出家したわけでもなく、フルタイムで働いて余暇を冥想に当てる生活なのだが、その時分は、仕事の勉強の他に、プライベートも相当に忙しかったので、勢い睡眠を削って冥想に充てる日々だった。それゆえに禁忌のようなもの対応も、やるべきメニュー(柔軟体操、呼吸法、冥想など)の履行も自ずと緩くなりがちなものだった。勤労と冥想修行の両立はいつの時代も大変だ。

 

だが、冥想修行でのやってはいけないことというのは、様々な意味で人生を誤りかねないチート技だから禁止されているのである。霊や魔は相手にしてはいけないこと、霊能力や超能力が出てきても行使せずほっておくこと、自分のメリットを図らないこと、悪事、悪行を行わないこと、こうしたものが代表的な禁忌だが、破ったとたんにからめとられ、一生を台無しにすることはよくあるものだ。

気がついた頃には遅いということはあるが、人は気がつく以前に行動を変えるものではない。

 

最初の頃、『的確に学ぶ』と言っても何をどのように学ぶのかは、見当もつかないものだ。おまけに、メリットを求めて冥想するのは誤りだなどと指摘され、ますます混乱したものだ。

 

冥想は、ただ漠然と、あるポスチャーで坐れば良いというものではなく、冥想以外の日常のそれぞれの動作・挙措の中に複雑で精妙な守るべき多くのルールがある。覚者を身近に見れば、彼らは意外にもそうした細かいルールに沿って生きていることに気がつくことがあるのではないか。

 

1.何を学ぶか

・神仏とは何か。

・神人合一とは何か。

・七つの身体とはどういうものか。

 

本筋から逸れないために、メリットを求めない冥想とは、自己をなくしていく方向の冥想であることを念頭に置いていけばよいと思う。

 

メリットを求めない冥想とは、無用の用のこと。だが、世間の人に無用の用はわかりづらい。

 

2.学びの方向性

人は頭で納得しないと坐り始めない。理解できないと冥想を始めないものだ。しかし、だからといって、それをやれば金がもうかるとか、健康になるとかいう具体的目的があって冥想を行えば決して山頂にはたどりつかない。これは冥想修行のモチベーションのジレンマ。

 

だが、まず知的理解をせねば始まらないというのも現代人。そのためにジェイド・タブレットはおすすめである。

 

【知的理解の骨子】

人間には、霊線があって、これを根源までさかのぼると全知全能の神にたどりつき、自分がすべてのすべてである神であることに気がつくことができる。

他人がすべて、神である自分の一部であることがわかれば、もはや他人を傷つけることはできない。そこには愛だけがある。

 

3.どのように学ぶか

(1)肉体の調整

肉体は何もしなければ、老廃ガスが体内にたまり、肉体の不調の原因にもなるし、魔境や妙な心境の原因にもなる。よって肉体のガス抜きや凝り解消のため、柔軟体操(ハタ・ヨーガなど)や呼吸法は必須なものである。そして内分泌腺の活発化のために適度な作業(作務、労働)も欠かせない。

(2)エーテル体の調整

気功・導引、八段錦等

(3)呼吸法

片鼻呼吸法、完全呼吸法

(4)読書

・ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ

・アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ

・老子狂言/ダンテス・ダイジ

・奇跡の探求Ⅰ/OSHOバグワン

・奇跡の探求Ⅱ/OSHOバグワン

・自己変革の方法/クリシュナムルティ

 

※冥想については、【Overview of the meditation 冥想の全体像】参照。

 

4.どのように食べていくか

よく、禅なら働きながら修行ができるとか、クンダリーニ・ヨーガでは、自分は働けなくなるので、生活の面倒をみてくれる女性を見つけるなどせねばならないなどと語られることがある。

ところが、禅でもノイローゼになってしまうこともあるので、必ずしも禅なら働きながら冥想修行ができるというわけでもない。

職業選びで言えば、本来神が許し給わぬ生業(本来神のものであるものを売買するなど)というものもあるわけだが、神が許し給う生業の中にも悪行を求める仕組みが含まれていたりして、なかなか一筋縄にはいかない。

ダンテス・ダイジは、冥想の深まりに対応して、冥想を継続できる環境も整っていくというニュアンスのことを言っていたこともある。一人一人が神であるからには、どんなに厳しい環境であっても冥想を続けていくことが、自ずと環境を整えるのだろう。

 

想像を現実化する能力を手に入れればさぞ面白いだろうが、ダンテス・ダイジは、「そういうことが面白いということに留まっていれば、この世に生まれては来ない」という意味深なことを言っている。

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人間のどうしようもなさ

2024-06-14 03:40:23 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-7

◎冥想自在-7

◎冥想自在の構造-7

◎醒めていて同時にもの狂おしい

 

仲村八鬼の温泉宿という詩に、人間のどうしようもなさを見る。

 

『温泉宿

             仲村八鬼

 

真珠の粉をまき散らす

深夜の雨が

廂や木の葉をたたいて

秋の霊魂をひしひしと浄めはじめた

 

主観を客観におきかえて精緻に抽出した

明快な村野四郎の現代名詩鑑賞に

時を忘れていた

 

誰にも書けない煮えたぎる

ぼくだけの詩を書きに来たのだが、

書けないから寝られないのだ

 

食事の時からまつわりついていた

大きな蛾は.

襟首にまで飛び込んだので放置できない

 

妊婦のような動作なのだが

手におえない素早さもある

これはどうしても寝る前に殺さねばならぬ

 

手洗いに立つと

赤い絨毯を踏んで階段を下りてくる

男女に出会った

 

よろける肩を組んで浴場の方向に消えた

女の顔には見覚えがあった

夕刻、フロントで偶然会った芸者の一人だ

四人いた中で一番美しいひとだった

 

部屋に帰るとこんどは真剣に蛾を追いつめた

襖にとまったところを叩き落として殺した

蛾は仰むけになり、僅かに足を痙攣させ

繊毛のある白い腹をむきだして終息した

こぼれた鱗粉が死骸のまわりで鈍く光った

 

客をよそおって泊った芸者は

男とともに風呂からあがった時刻だ

 

芸者はいい匂いがするのをぼくは知っている

汚れて錆臭い処があることも知っている

そこを洗って、

素性の知れない団体客の一人に

またどう汚されるのであろうか

 

そしてさっきぼくが殺した蛾のように

しどけなく夜の泥土にねむるのであろう 』

(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

 

この詩に寄せて、ダンテス・ダイジは、人間のどうしようもなさが、ニルヴァーナに至る道程を一直線に見せている。

『私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、

夢幻虚仮でないものは一つもなく、

あらゆる生々転変する夢幻虚仮が.

無数の人間ドラマを織りなす。』

(上掲書から引用)

 

さらに、

『前出の詩人、仲村八鬼には、

人間である限り、味わわねばならぬ人間のどうしようも なさへの詩がある。

彼の『温泉宿』には人間の人生が歌われていて

一人の芸者の姿を通じて、男というものと女というものとの

醒めていて同時にもの狂おしい思いが漂っている

 

人間にはどのような確かなものも与えられていない。

人間はこの世の旅人にすぎない。

異性の肢体への欲情は常に虚無に裏打ちされている。

欲情が一場の夢にすぎぬことを、

人は誰でも知っている。

知っていながら欲情・執着は時にし烈に、時に密かに 人々の内部に頭をもたげる。

 

だが、人間のありのままの姿は、すいも甘いもかみわけた わけ知り顔の冷徹な人間理解のみにあるのではない。

人間には欲望が欲望を見切ってしまう瞬間がある。

確かに欲望が人間と世界のすべてを仮作した。

しかしその仮作・根本無明をそれ自体として あらしめている根源は、宇宙意識であり、人間は だから、絶対なる愛そのものでもある。

虚無は欲望の結論であり、人間を越えた

人間への出発点である』

(上掲書から引用)

※宇宙意識:ニルヴァーナのこと。

 

ここで、なぜニルヴァーナが絶対なる愛かということは、論理的にはわからない。

 

いくら願っても実現しないのがわかるのが不条理、それが虚無。そして虚無だとわかっていても欲情が吹き上がるのが人間のどうしようもなさ。

虚無は、この現実という世界認識や価値観が崩されかけたところに現れる。どうしようもない寄る辺ない自分を深刻に自覚せられた時に、そこに得体のしれぬ恐怖がわき起こる。

恐怖に堪え切れずあくまで崩れかけた世界に頼り続けるか、恐怖と向き合って新たな自由への突破口を求めるか。ニルヴァーナは後者の道である。

 

さて、ネットのエロ画像氾濫が当たり前になったこの時代。中学生以上ならややもすれば頭の中のかなりの部分が劣情で占められている、恐るべきマインド・コントロール社会。これは、端的な愛欲地獄、エロ地獄である。

想念は霊界(無意識)であり、人間が想念で思ったことはまず霊界において実現し、やがて現実として現れる。想念で事物を実現したりコントロールするということは、現実をもコントロールできるということである。

つまりこの世が地獄的であるというのは、地獄的な想念を持った人間が多数棲息しているということであり、一方地上天国が実現するということは、天国的な想念をもつ人間が多数活動しているということである。愛欲地獄やエロ地獄など地獄的想念人間が優勢であるかぎり、アセンション(空中携挙)もない。地獄的想念人間とは、社会常識をわきまえた自分のことではないと思っている人がほとんどだが、厳しい意味では悟っていない人すべてが地獄的想念をまき散らしていることに間違いはない。すなわち自分が悟らなければ地獄が終わらないという状況に変わりはない。

善行をしない引き寄せの法則とは、地獄の法則なのだろう。

 

さる信者が教派神道の教祖出口王仁三郎に地獄の様子を訊いた。

『F:地獄のほうは、そんな職業はないのでしょうか。

出口王仁三郎:それはない。生産的のことはない。争議団を興して他人のものを分配して食おうというようなことを考えてばかりいるのだ。』 

(出口王仁三郎全集二/あいぜん出版から引用)

 

でも思い出してほしい。ついこの間までの戦争と飢餓の時代には自我防衛の戦いと肉体維持が優先で、セックスはほとんど食欲と同列に扱われていたことを。

今、平和と安定した食料供給の下、皮肉にもセックスはいつの間にか脳内で最大最優先を占めるようになってしまった人が多い。そしてその劣情はほとんど実現を見ないので虚無に変貌する。いまや、成就しない性的欲望は、痴漢や盗撮の頻発にとどまらず、蓄積して巨大化した不満を他国侵略戦争にまで誘導するのは歴史上の常套手段である。

肥大化した性欲は、集合的無意識レベルで見れば、核兵器と同様に充分に地球人類全体を破滅させるに足る規模に達し得る。これが黙示録21-4の『悲しみも、叫びも、痛みも』である。

その破裂寸前のエネルギーをガス抜きするには、いまや日々の冥想しかなくなった。

 

虚無に正面から取り組んで、大悟覚醒後に醒めていて同時にもの狂おしいのも冥想自在である。

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女性的自我の充足-2

2024-06-13 03:29:05 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-6

◎冥想自在-6

◎冥想自在の構造-6

◎女性的自我なる鉢かづき姫

 

美人でしとやかな若い女性が、なぜ鉢をかぶって世を生きなければならないのだろう。これが、童話鉢かづき姫を知った幼児における最初のインプレッションである。鉢は女性的自我で、最愛の夫との結婚でハッピーエンドを迎える。

 

おとぎ草子では、姫が13歳のみぎり、母が病気となって、死を予感する。そこで母は、一人残される姫のことを案じて、なぜか鉢を姫の頭にかぶせる。これが鉢かづき姫の始まり。

 

母の死後、父は再婚するが、継母によって鉢かづき姫は追放され、大きな川に身を投げる。ところが鉢が浮き袋となって沈まず、親切な漁師に引き上げてもらう。

 

九死に一生を得た鉢かづき姫だが、村人は頭に鉢のある奇妙な姿をみて嘲り笑う。

 

ここにリッチマン山蔭の中将が現れて、鉢かづき姫に自宅の湯殿で働くことを命じる。なぜか湯殿。やがて山蔭の中将の四男が鉢かづき姫に一目惚れし、湯殿で出会って、やがて一夜の契りを結ぶ(関係ができちゃうこと)。

 

さて鉢かづきのような嫁ができるのは一族の恥と、鉢かづきを追い出そうとして企画された嫁比べイベントの直前になった。四男は、嫁比べで恥をかくよりは、家を出奔しようと鉢かづき姫と一緒に戸に手をかけた瞬間、鉢がポロリとはずれた。

 

すると中から金塊、金盃、銀のバッグ、砂金の橘などなど数々の宝物がでてきて、パッピーエンドとなった。

 

ここには、2つの重要なモチーフがある。一つは錬金術での窮極。湯殿で汗をかいて、人間的限界を超えるのは、錬金術における浄化であり、ニルヴァーナ到達直前の頻出イベントである。

 

精神分析のC.G.ユングによれば、浄化は、錬金術においては、哲学者の薔薇園のように天からしたたる滴、シャワーと表現されることもあれば、湯殿で汗をかくという表現として出てくることもある。

 

男性と女性が湯殿で出会って汗をかいて合体するのは、王と女王が合体して汗をかく構図そのものである。

 

もう一つのモチーフは、女性的自我が、最愛の男性つまり魂の伴侶と結ばれることによって充足するシンボルが鉢であること。

 

グリム童話にも灰かぶり姫が母と死別してから、台所のかまどのすみで、ぼろを着て、常に灰にまみれていたが、後王子に見初められ、女性として幸福になるというシンデレラという物語がある。

 

こちらのモチーフは更に起源が古く、古い錬金術書「ホルスからイシスへ」に登場してくる魔神的な天使アムナエルが容器を頭にかぶっており、その容器の中にはイシスが探し求める秘密の物質が入っている。

 

ユングの弟子のマリー・ルイズ・フォン・フランツによると、この頭の上に載った容器は、女性の秘儀であるという。つまり、女性が精神的変容(つまり覚醒、神との合一)に至るためには、頭の上に載った容器を叩き壊すことがまず必要となる。

(参考:ユングコレクション4:アイオーンP328/人文書院)

 

すなわち頭の上に載った容器とは、最愛の男性と結ばれることによって充足するという女性的自我の本源的な傾向のシンボルなのである。

 

女性は、窮極を目指す時に、龍や蛇の頭として現れる女性的自我のシンボルを踏みつぶしていくというモチーフもあるが、そのバリエーションのひとつが鉢が落ちる鉢かづき姫であると考えることができる。

 

いづれにしても、女性の霊的元型として頭の上に載った容器が世界的歴史的に認められているということは、女性的自我は、男性と“結ばれること”で結実するということ。

 

ダンテス・ダイジは、そこを厳しく見ている。

『一般的に、

女性のエゴは、

失神にまで至る無数の性的オルガズムと、

男性への愛着から愛情への成長か、

最愛の男性の子供を出産し養育することにより、ほとんど完結する。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP160-161から引用)

 

ダンテス・ダイジは、

1.オルガズム+愛着から愛情への成長

2.オルガズム+最愛の男性の子供の出産養育

 

のいずれかが、女性的自我の完結と見ている。

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女性的自我の充足-1

2024-06-12 07:09:27 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-5

◎冥想自在-5

◎冥想自在の構造-5

◎最もあなたにふさわしい夫は与えられている

 

あまりにも常識過ぎてかえって知られていないものの一つが、本当の自分に直面し、最後は自分が大死一番を敢行し、自分と世界を棄て、絶対無(神)となる冥想修行は、男性のチャレンジであって、女性のチャレンジではないということ。

 

女性は、最愛の男性に巡り合い、恋愛の果てに、その男性の子を出産することが女性的自我の充足である。

 

このストーリーは、LGBT公認で、孤独生活者4割の時代に、とても時代遅れなことを言っていると思われるかもしれないが、人間の元型には男女の別があり、そこから導きだされる根本原則とでもいうべきものだと思う。

 

ダンテス・ダイジは、10代の頃、女性をとっかえひっかえ交際、同棲などしてセックスの何たるかを極めようとした時期があったが、それがピークとなる頃、あろうことか性的機能障害に苦しむことになった。並行して禅に取り組んでいたそんな時期、彼はインドラ神の出てくる霊夢を見た。それは、インドラ神自身がセックスをしてみせて、ダンテス・ダイジにセックスの奥義を伝授してくれるという霊夢だった。

 

その霊夢以後、彼は乱倫をやめた。性的機能障害、情感欠如も解消した。そして過去世において、中国での仙道房中術の修行、インドでの左道タントラ修行をしてきたことを思い出し、人は性愛によっても深いトランス状態に入り得ることを知った。

 

そして次のような見解を示している。

『男女の霊的因縁をふまえることのないセックスの行法は必ず邪道に堕落する。

なぜなら、男性原理と女性原理との霊的合一こそが、霊的共同体としての家庭・社会・世界・宇宙の中にその本来的位置を与えられたものだからであり、

それこそが、人間すべての根本願望である不動の大安心、霊的愛、宇宙意識との神秘体験への高みへ人類を導くものだからだ。

 

霊的因縁の自覚は霊界の中で、本来一体である者同志の出会いを成就する。

あなたには、すでにもっともあなたにふさわしい妻、あるいは夫が与えられているのだ。』

(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

 

D.H.ロレンス、ジョルジュ・バタイユ、三島由紀夫、房中術、カーマ・スートラからインド左道密教、立川邪教までありとあらゆる性愛哲学・行法を研究し尽くした後、彼はインドラ神にその奥義を開示してもらった。

 

その彼が、性愛冥想のパートナーは不倫であってはいけないと説くのは、魂の伴侶と行うべきことだと間接的に言っている。

 

そして魂の伴侶との結婚が人生の王道であり、最愛のパートナーの子を出産することが女性的自我の充足であって、女性は必ずしも、世界全体を獲りに行かなくてもよいというニュアンスのことも言っている。

 

ただし、人生において魂の伴侶に出会うチャンスはそう何回もあるわけではないようだ。

 

冥想自在を考える上で、男女の別は結構決定的ではあると思う。

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菩薩と見仏・見神・見性

2024-06-11 03:19:26 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-4

◎冥想自在-4

◎冥想自在の構造-4

◎君子、神の子、神の生き宮、菩薩

 

菩薩は、元々は、釈迦成道以前の釈迦を指して、悟りが確定した人という意味だった。

釈迦の成道は明星望見なので、正確には見仏であるように思う。

つまり成道以前の釈迦は、未見仏であるにもかかわらず、悟りが確定していたと考えられていたわけである。これが菩薩の原義。

 

ところが、成熟バロメーターには見仏見神を入れていない。その理由は、見仏見神後において、悪の側に戻るケースがあるからである

よって釈迦は未見仏であるにもかかわらず、悟りが確定していたというのは、ジャータカなどの過去の無数の前生の釈迦の事績を考えれば当然と言えば当然だが、一般的とはいえない。

普通の人は、見仏見神してももとに戻るのに、いわんや未見仏で究極に対して不退転になるなどとはとても言えない。釈迦は特殊な例なのだと思う。

 

また人は、神、仏、ニルヴァーナ、宇宙意識に対して、そこから発した個としてのポジショニングがある。その本来あるべき個としての姿を、君子や、神の子、神の生き宮、菩薩と呼んで、宗派を問わず、とても大切な基本概念としてきた。

君子や、神の子、神の生き宮、菩薩は、完全人、アダムカドモンという人間の極みというニュアンスではなく、完成途中の仕掛りの人間のニュアンスである。すなわち冥想修行者である。

こうした人間について中間的位置づけがある原因は、宗教の基底には、一般に神あっての人間、人間あっての神という発想があるせいだろうと思う。

 

成熟のバロメーターには、見仏見神見性を入れてはいないが、かなりの宗派で、見仏見神見性を修行の一里塚として評価していることは無視しないほうが良いだろう。かなりの宗派で見仏見神見性した者を一人前の冥想修行者として扱っているからである。

 

一人前の冥想修行者と師に認められれば、師の指導はそれ以前のものと質が異なって来る。

華厳経に出てくる菩薩の52段階などは、いかに修行レベルとしての菩薩が重視されていたかという証左である。

 

翻って、見仏見神見性を未悟の者にとってのメルクマールと考え、別途敷衍したい。

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メリットを求めない冥想へ

2024-06-10 03:19:45 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-3

◎冥想自在-3

◎冥想自在の構造-3

◎無用の用への動機

 

どうすればあらゆる実感を経ることができるか。あらゆる実感を得るためには、冥想しなければならない。

 

さて冥想には、メリットを求める冥想とメリットを求めない冥想があるが、あらゆる実感を得るための冥想は、メリットを求めない冥想である。メリットを求めない冥想とは、無用の用である。        

             

無用の用には二つの次元がある。最初の次元は有の世界の中のこと。         

最初の無用の用は、物質的なことより、精神的なことに価値があるということ。つまり金や権力や地位やセックスなどより、神、仏、聖なるものの方に価値があるということ。あるいは、自分のことより他人のことに価値があるということ。

 

OSHOバグワンは、無用の用のことを、『逆のものどうしが助け合いバランスをもたらし、抑揚を生み背景を創り出すプロセス』としている。           

すなわち物質的価値と精神的価値は相互に補完し合う、そして自分のメリットになることと他人のメリットになることは相互に補完し合うということ。        

これは、利己と我欲優先の生活感覚では理解しずらいかもしれないが、死がなければ生に意味がなく、逆に生がなければ、死に意味はない。        

また自分がなければ、他人や世界に意味はなく、他人や世界がなければ自分に意味がないということでわかる人がいるのではないだろうか。

これが最初の次元の無用の用の説明。       

             

最後の次元の無用の用の説明を、OSHOバグワンは、これを時間進行の尺度において、説明している。

時間は、瞬間瞬間の想念の無数の連続だが、瞬間瞬間の間に隙間が都度発生している。        

これを前提に、OSHOバグワン(Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から)は、        

ヨーガ・スートラの著者であるパタンジャリは、「世界は映画、投影にほかならない」と言う。それは、現象という動画が無数の静止画と隙間によってできているということに気づいたから。パタンジャリは、世界の現象を形成する三種のグナが何も動かないで停止しているのを見た。その時、パタンジャリは、すべての現実というドラマが幻影で作られていることに気がついた。

 

隙間が無(ニルヴァーナ)であって、静止画が有(アートマン)ということになるが、OSHOバグワンは、隙間の方だけが真実だとはせず、        

一つのものの表と裏であって、どちらも真実だという立場をとる。            

というのは神である自分には、主観しかない。その主観には、無も有もあるからである。

これが第二の次元の無用の用の説明。       

自分という人間は、自分が思い込んでいる自分と、神である本来の自分がある。            

自分が思い込んでいる自分は、有の相の極く一面であって、神である本来の自分は有全体である。そして神には無の面もある。                      

すべては無から出て有を経由して無に消える。現象であるアートマン(有)がニルヴァーナ(無)に晋(すす)む。             

つまり時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、        

それを超スローモーションで見たパタンジャリが、現象である〈有〉の停止に気づき、実は世界はリアルな現実ではなくデジタル動画であることを発見したのだ。             

また現象である有(アートマン)と無(ニルヴァーナ)を並べると、一見無が無用に思えるが、有あっての無であり、無あっての有だから、これも無用の用である。             

             

人はこのように理解してメリットを求めない冥想修行に邁進していく。     

 

『あらゆる出来事も存在も、 
すべて一回限りのものであり、 
連続性とは、観念的虚構にすぎない。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP162から引用)
  

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