アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

笹目秀和の見る日中外交

2024-08-31 05:45:43 | 時代のおわりneo

◎日中関係予言

(2015-06-19)

 

笹目秀和の栄枯盛衰観は、独特に見えるが、四書五経の易経に見える栄枯盛衰観であり、独特とは言えず、中国の正統的なものごとの栄枯盛衰観と言える。

この本は1983年の著作であり、日中国交正常化まもない頃であるが、既に人災である中国の共産主義支配の反作用(赤化刧の悪影響)が終わらないのに文明や人口を衰亡させる大災害(掃滅の刧)がやがて起き、これに続く文章では中国人口の三分の二が減ずるなどということまで書いている。

日中関係も相互に外国を巻き込んで世界大戦までいかないと終わらないと見ている。尖閣とか中国人ハッカーとか中国移民とか話題に上らない日はないが、本当の日中雪解けの気運はそこまでいかないと具体化しないのかもしれない。

 

※刧とは三種あり、いずれも人災のことである。

※小混沌とは、超長周期の時代の見方で、混沌が収まる時代と荒れる時代が繰り返す周期の中で、荒れる時期のこと。

(文中の本国とは中国のこと)

 

『その乱の極まるところは即ち小混沌である。赤化刧がいまだ終らないのに掃滅の刧が起きてくる。

この刧は本国一国だけでなく、外国も兼ねあわしている。此れは彼は服さず、彼を殲滅しなければならず、彼は是れに服さず、是れを掃滅しなければならず、彼我の勢力を以てしては対抗できないので、彼は外国を誘い、是もまた外国を誘い、お互いに外国と結託して、中外の戦を出現させている。

 

中日外交の如きは、即ち是れが現象である。しかも亦行程は始まったばかりでまだその極に至っていない。

いま協定すということがあっても、その患(わざわい)は止み難く、政府は抵抗する意志なきも、人民は故意に極力争っている。権力のないものが、あくまで極力争うことを欲し、権力のあるものは、あくまで無抵抗を欲し、両者合せず、即ち是れ数と運の関するところであり、この刧がひとたび始まると、数年にして平静になるというものではなく、必ずや世界大戦にまで発展し、小混沌の極点にまで達する、それで是れを掃滅の却というのである』

(ストップ・ザ・富士大爆発/笹目秀和P154-155から引用)

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-2

2024-08-31 03:30:45 | 浅い霊感から神人合一まで

◎一切が静かで闇に隠れる真夜中

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

『「この山へは、最も長く暗い日の夜がきたときに)行くがよい。まず祈りにより覚悟を固めよ。そしてひたすら山へ通じる道を求めること。

 

しかしその道がどこにあるのか誰にも尋ねてはならぬ。『指導霊』にのみ従うのだ。彼は自ら案内を申し出、途中で貴兄を出迎えるであろう。だが彼と懇意にしてはならぬ。この『指導霊』が汝を山へ連れてくるのは、一切が静かで闇に隠れる真夜中である。そこで起こるできごとに恐れをなしてしりごみすることのないよう、決然たる勇気をもって身を固めることが必要である。剣など入用でない。その他の武具もしかりである。ただ精魂込めて神にすがれ。」

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院p68から引用)

 

霊界の魔法の山と言っているが、霊界ではないことは、ジェイド・タブレットの読者なら知っている。この段階は、禅の十牛図で言えば、霊的探求は始めたが、牛のしっぽもまだ見つけられない初心の段階。十牛図第二見跡以前の段階。

 ひたすら山へ通じる道を捜し回れば、いつか『最も長く暗い日の夜』がやってきて、山道への第一歩を進めることができる。

 『指導霊』、これは正師のこと。正師は肉体を持っている人間であることもあるが、肉体のない霊的存在であることもままある。実例としては、呂洞賓の師の鍾離権、ダンテス・ダイジのクンダリーニ・ヨーガの師のババジなど。そういうことは垂直の道ではままある。

なお、人間には正守護神または守護天使というのが、一生涯ついてまわっているが、『指導霊』のことではない。

『指導霊』がいつ、どのように見つけられるかには、言及はない。

 

『指導霊』があなたを山へ連れてくるのは、あなたに見どころがあるからであって、驕らず虚心坦懐に冥想修行を進めて行けば『一切が静かで闇に隠れる真夜中』のタイミングがあり、山に進めるが、そこでは、驚くべきこと、恐るべきことなどが起こるが、びびりながら『精魂込めて神にすが』るしかあるまい。

『一切が静かで闇に隠れる真夜中』とは、言い得て妙な表現である。想念や思考の止まる隙間。

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-1

2024-08-30 06:47:30 | 浅い霊感から神人合一まで

◎世界の中心にある山には莫大な宝が隠されている

 

17世紀に薔薇十字団のトップであったらしいエウゲニス・フィラレテス宛に薔薇十字団から来たらしい宝捜しメモ。

薔薇十字団は、西洋錬金術の奥義を復興したと目されるグループだが、それはクンダリーニ・ヨーガ系であって、垂直の道である。

よって言葉で奥義が明かされることはないが、その真理の属性は遠回しで隔靴掻痒の感のある言い回しに終始する。

薔薇十字団は、キリスト教の影に隠れて延命していくが、その伝統は、アレイスター・クロウリーやブラヴァツキー夫人、現代のフリーメーソンなどに継承されている。

 

さて薔薇十字団では、霊界の魔法の山には、宝が秘蔵されているという。

 

『「地球の中央あるいは世界の中心に位置するひとつの山がある。それは小さくて大きい。柔かくて、同時に石のように堅い。遠くにあって身近にあるが、『神』の計らいにより目には見えない。この山には莫大な宝物が秘蔵されており、その価値をこの世の人間が値踏みすることはできない。絶えず神の栄光と人類の幸福を妨げる悪魔の嫉妬から、この山には非常に獰猛な獣や飢えた猛鳥が徘徊しており、このためそこへ至る道はきわめて困難かつ危険である。これまではまだその時期ではなかったので、その道を探求することも発見することも不可能であった。しかし今こそ発見するにふさわしき者はその道を発見しなければならない。だがそれはひとりひとりの労苦と努力によって探求されなければならない。」 』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院p67-68から引用)

 

ここは宝物の価値はこの世のものでないことをまず示し、二律背反な性質を持つことも示す。すべてのすべてを含み、個人も勿論含まれるので二律背反。霊界と言っているが、天国も地獄も越えるものだからこのような言い回しになる。 

困難かつ危険で、ひとりひとりの労苦と努力によって探求するとは、自分自身に出会うことは困難かつ危険であることを言っている。

 この文は、冥想とか、神になるという言葉を使えば、たちまち異端として裁かれる時代の文書なのだ。

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古代モンゴルと新モンゴル

2024-08-29 06:25:03 | メインストリーム予言と先行モデル

◎出口王仁三郎のモンゴル行き

 

出口王仁三郎のモンゴル特別視は、彼の独特のモンゴル観、アジア観、素盞嗚(スサノオ)観なくして理解し難い。およそこの150年程度の歴史でモンゴルを理解しても出口王仁三郎のモンゴル脱出のことや笹目秀和のモンゴル人脈への献身の理由などはわからなかったのである。

 まして、「評伝 出口王仁三郎/村上 重良/ 三省堂」に出口王仁三郎のモンゴル行と軍部のつながりの経緯が詳しいといっても、ご神業としてのモンゴル行の意義は測り知れなかった。

 

以下の二つの文を見れば、出口王仁三郎は、大峠での地殻変動後のアジア全域を見て、その上でモンゴルがやがて世界の中心になることを幻視していたのだろうと思う。小は日本のモンゴルへの西遷ということも暗示しているが、誰もが神を知り、神を生きる時代に、地球の神業の中心がそれまでの日本からモンゴルに移ることについてなにほどの感慨はあるだろうが、それは大きな問題ではないのだろう。その時すでにみろくの世、至福千年は実現しているのだから。

 

『亜細亜大陸と素尊の御職掌

 

神典に云ふ葦原の国とは、スエズ運河以東の亜細亜大陸を云ふのである。ゆゑにその神典の意味から云ひ、また太古の歴史から云へば日本国である。三韓のことを「根の堅洲国」とも云ふ。新羅、高麗、百済、ミマナ等のことであるが、これには今の蒙古あたりは全部包含されて居たのである。

 また出雲の国に出雲朝廷と云ふものがあつて、凡てを統治されて居つたのである。

 

一体この亜細亜即ち葦原は伊邪那美尊様が領有されて居たのであつて、黄泉国と云ふのは、印度、支那、トルキスタン、大平洋中の「ム」国等の全部を総称して居た。それが伊邪那美尊様がかくれ給うたのち素盞嗚尊様が継承されたのであつたので、その後は亜細亜は素盞嗚尊様の知し召し給ふ国となつたのである。素盞嗚と云ふ言霊は、世界と云ふ意味にもなる。また武勇の意味もあり、大海原といふ意義もある如く、その御神名が既に御職掌を表はして居る。それで素盞嗚尊様の御神業は亜細亜の大陸にある。

 

併しながら日の本の国が立派に確立されなくてはいけない。自分が蒙古に入つたのも、また紅卍字会と握手したのも、皆意義のあることで、大神業の今後にあることを思ふべきである。

 『昭和』の雑誌に次のやうな歌を出して置いた。充分考へて見るべきである。

 

 亜細亜とは葦原の意義あし原は

  我が日の本の国名なりけり

 満蒙支那神代の日本の領土なり

  とり返すべき時いたりつつ

 大蒙古は昔の日本の領地なり

  回復するは今人の義務

 時は今我が国民は建国の

  皇謨により活動すべき秋

 和光同塵政策をとりし我が国は

  旗幟を鮮明にすべき時なり』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

 

さらに

『特に我日本は神代に於ては渤海湾からゴビの沙漠より新彊まで海が続き、日本海が殆ど瀬戸内海の如きもので、小舟で交通が出来たのである。それがために日本が全アジアを支配してゐたのであり、又蒙古の大中心にまで大きな海が入りこんでをつたので気候が暖和であり、今日の如く寒冷荒涼の地ではなかつた。その時分には非常に此のアジア方面を扼して了つてゐたから、他の国からアジア(アジアとは葦原の国のことで、日本を意味す)をどうすることも出来なかつたが、現在では日本海の島々が沈没して、僅に壱岐、対馬、佐渡の核心だけが残り、津軽海峡を距てて四方環海の国なつて了つたのである。それがために交通が出来なくなり、年処を経るに従つてアジアの統一が出来なくなり、言語風俗等も変つて了つて、蒙古や支那のことは分らなくなつて了つたのである。』

(出口王仁三郎全集 第5巻 言霊解・其他/国防と国民の覚悟/出口王仁三郎から引用)

 

出口王仁三郎の蒙古行は、軍部の支援による単なるパフォーマンスと見ると誤る。新時代、至福千年へ向けての型出し神業だったのである。一行は、一旦死んで生還したが、その後出口王仁三郎は、生きているのか死んでいるのか自分でもわからないことがあったというのは意味深長である。神を知るというのは、そういうことも含めてなのだろう。

 

また世界全体の武装解除、天皇陛下が世界のトップになるということも、これらと相前後することになるのだろうと思う。

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中国軍機の日本空襲の予兆

2024-08-28 03:44:09 | 時代にFace it

◎出口ナオ、出口王仁三郎の予言

 

2024年8月26日午前、中国軍のY9情報収集機が、長崎県五島市の男女群島沖で日本領空を侵犯した。中国軍機の領空侵犯は、史上初で、完全に日中関係は新たな戦争への時代に入った。

 これまで日本軍機が中国を飛行することはあってもその逆はなかったのだから。

 

今後中国軍機の日本空襲があり得ることは、既に100年前から出口ナオ、出口王仁三郎の次のような予言に出ている。

 また聖徳太子未来記には、『西鳥来たり東魚を食う』という思わせぶりな一節もある。

 

まず唐土(中国)の鳥が生物化学兵器を投下する予言。

なづな七草

 

昔から「なづな七草唐土の鳥が渡らぬさきに云々」と云ふ歌がある。これは唐土の鳥即ち外国の飛行機から毒瓦斯(ガス)を投下するその時に、なづな七草を食べて居れば毒瓦斯(ガス)にあたらぬと云ふ予言警告である。

 なづなと云ふのは冬青々としたもので、松葉でも葱でも皆薬となるものである。七草は七種の意である。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

 

唐土(中国)の空襲以前に日本人は改心して神を知るようにならねばならない。

『唐土の鳥の渡らん先きに、神は還りて経綸を致せども、聴く人民無き故に、残念なれど唐土の鳥が今に日本へ渡りて来るぞよ。毒を空から降らして、日本の人民を絶やす経綸を、昔から致して居る事が、能く神には判りて居るから、永らく知らしたので在りたぞよ。早く改心致さぬと改心の間が無いぞよ。神は気を附けた上にも気が附けてあるぞよ。』

(大本神諭 大正6年旧11月23日から引用)

なお唐土は、中国と限定せず、外国一般を指す場合もある。

 

次の予言詩では、「カラ国」が以前は味方だったが裏切って攻撃してくる次第が書かれてある。

『聯合の国の味方と今迄は、成て竭せしカラ国の、悪魔邪神が九分九厘、モウ一厘の瀬戸際に、旗を反すと白露の、其振舞の非義非道、凡ての計画を狂はせて、勝つ可き戦争の負け始め、永びき渡る西の空、黒雲晴るる暇も無く、独り気儘の仕放題、印度の海も掠め取り、茲にも深き経綸為し。次いて浦塩日本海、我物顔に跳梁し、卜ン卜ン拍子に乗り出して、神の御国を脅迫し、モウ一ト息と鳴戸灘、渦巻き猛る荒浪に、大艦小船残り無く、底の藻屑と亡ぶるも、綾の高天に最と高く、空に聳えし言霊閣、天火水地と結びたる、五重の殿に駆け登り、力の限り声限り、鳴る言霊の勲功に、醜の鳥船軍艦、水底潜る仇艇も、皆夫れぞれに亡び失せ、影をも止めぬ惨状に、曲津軍も慄のきて、従ひ仕へ来る世を、松と梅との大本に、世界を救ふ艮の、神の稜威ぞ尊とけれ。』

瑞能神歌 大本神歌から引用)

 

そもそも明治時代中期に、出口ナオと出口王仁三郎がそれぞれ別々に、奇しくも、中国からの空襲で京都の寺社がまる焼けになるという同じ幻視を見たのが、大本教を立てる機縁になったことも忘れるべきではないだろう。

予言の実現内容は、時と共に変わるものではある。またネガティブ予言は、それが実現しないように人間に警告を与えるために出されているものではある。

一日も早く神を知り、善いことをして悪いことをしないように。

 

ジェイド・タブレット

 《7.天国まで》  

 人はまず天国的なものを希求するが、肝心の神仏は、天国にはなく、天国の先にあるけれど、天国の側を窮めることだけが神仏への道。

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処暑のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-08-27 03:00:01 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎自分に合った運動メニューの選定と分量のむずかしさ

 

摂氏35度以上で日差しがあると痛い。そうした日々もようやく薄らいできたと思ったら次は妙なコースを奔る台風10号である。

 

最近は、朝の体操後に、竹脇まりなの室内散歩15分。

その後、きくち体操20分×2と、Olivia Lawsonの室内散歩20分×3を一日の目標としてやっている。

https://www.youtube.com/watch?v=uDPyIKq1sHw&t=89s

熱中症対策で、頭と首に冷やしタオルを巻いてやっている。巻かないと発汗するので。

 

ウォーキング・メニューを増やしたのと、きくち体操の復活のせいか、ひざ回りの筋が太くなり、尻裏、太股、ふくらはぎの筋肉が若干ついてきた感じがある。

 

きくち体操は、1年前はポーズを真似するだけで精一杯だったが、長座を20分やりながら意識でもって膝上の筋肉を繰り返し上側に引き上げるという動作を繰り返すというのが、尻裏、太股、ふくらはぎの一つながりの筋肉増強につながっていることが筋肉痛で感じられるようになった。

 

私も含めて素人は、人間は老化によってどの筋肉からやせていくかは知る由もないが、きくち体操では、老化やせのひどい部位から筋肉を回復させる動作をさせるようだ。

筋肉がやせてなくなったところは、最初血液やリンパで動かしていくうちにいつのまにか筋肉がついていく感じを受けるが、ようやく筋肉がついてきたのを実感した2年目である。今まではウォーキングの絶対時間が足りなかったのに加え、足首回しと長座のきくち体操も不足で、全然筋肉が戻らなかったように思う。

 ふくらはぎの一番太い部分が、両手の親指と人差し指で作った輪よりもやや大きくなったので、サルコペニアは回避できたかも。

 なおバランスは、むしろ悪化しているので、腕の動かし方などを中心に研究してみたい。

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人間の洗脳は何年で解けるか

2024-08-26 06:30:46 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎1950年代初頭の中国共産党洗脳以後

(2014-01-18)

 

オウム真理教事件の裁判の報道があり、既にかの事件から19年も経ったことを知った。オウム事件では、カルト宗教という看板を隠れ蓑にして、洗脳というものがかくも強引にかつ粗暴なやりかたで行われていることに日本中が驚かされたものだ。

それは一教団内部で行われていたことだが、共産主義国家では、大規模に広汎に徹底的に行われるものである。

中国共産党は、1948年に中国統一を成し遂げて、その直後の数年において中国全土の思想改造という名の洗脳を、対中国人はもとより対外国人に対しても行った。

アメリカは、朝鮮戦争からの帰還兵の中共による洗脳されぶりを見て、その後洗脳技術研究にいそしんだようである。このあたりは、「CIA洗脳実験室/ハービー・M・ワインスタイン/wave出版」などでも書かれており、LSDの教祖ティモシー・リアリーの官憲からの追及の経緯などを見ても、そうした背景があったことはうかがえる。

こうした組織的洗脳について、私はかねてよりその効果が何年もつかについて関心を持っていたが、中国で共産主義政権誕生直後に施設で洗脳を受けた西洋人に対する調査に関する以下の文で、その大概を知ることができた。

 

『長期の効果

 

西欧人に適用されたような、刑務所内での思想改造のもつ、長期にわたる成功ないし失敗というものについて何が言えるのか。彼らを説得して、共産主義の世界観へ彼らを変えさせるという観点からすると、そのプログラムはたしかに、失敗だと判断されねばならない。

私の対象である二五人の中ではただ一人(そして、私のその人たちのことについて話を聞いただけの他多数の人々の中では、一人だけあるいはおそらく二人)が、ほんとうにうまくいった転向者と見なし得る人物であった。追跡調査で得られた情報によって、香港でこの人たちに面接したときに、観察しはじめて次のことが確かめられた。つまり、思想改造の精神から、中国共産党の行動をより批判的に見るようになるのが一般的ななりゆきであるということである。

彼らの釈放後三年ないし四年たつと、彼らのほとんどが、収容される以前に感じていたものとははるかにきびしい感情を共産主義に対して表明している。

世界の大きなイデオロギー的問題に対する解答を得るため彼らのあてにしているのは、共産主義ではなくて、彼らが若い頃知った西欧の列強であり、彼ら自身の内なる統合であった。この自分たちのうけた思想改造を意識的に容認するということは、決して、心理的な全景をあらわすものではなかった。しかし、意識的な意見というものは、結局は重要な意味をもってくるものである。』

(思想改造の心理/リフトン/誠信書房P253から引用)

 

刑務所や収容所などの施設での洗脳であっても、3~4年経てば戻るだろうということ。ただし、その間にまた洗脳を繰り返されれば元に戻るので、洗脳は定期的に繰り返し行われがちなものである。共産主義を1990年代でやめたロシア、東欧諸国の脱洗脳ぶりはどうだったのだろうか。

ともあれ、この時代の覚醒には、なるべく社会による洗脳を避けるように心がけるというのは必要なことですから。

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中国不動産バブルと末路

2024-08-26 03:17:35 | 時代にFace it

◎全人民スマホ管理の結末

 

直前決算で中国事業で大赤字を出した複数の企業が、普段TVCMなど流さないのに、にわかに有名タレントを使ってTVCMを流すので、そういえば、中国関係で損失を出したのだなとかえって思い出されるこの頃。

 

『中国不動産バブル (文春新書)/柯隆』を読んだ。柯隆さんは、好漢である。

 中国不動産バブルに関して、特に日本人にあまり理解されていない事がいくつか書いてあり、読書メモがてら、感じたことも書いてみる。

  1. 中国は三権分立ではない。三権を超える絶対的権力を中国共産党が保有している。
  2. 腐敗というのは賄賂とインサイダー取引のこと。
  3. 中国のサラリーマンの賃金水準は一般に日本より低いので、中国富裕層の収入は、賄賂とインサイダー取引と不動産投資で構成されているのだろう。中国富裕層は悪銭の人々か。
  4. 10年前で賄賂1千万円というのはチップ程度の扱い。本格的な賄賂は10億円単位なのだろうが、その規模だと案件そのものの採算にも影響大。昔、女優ファンビンビンが、上海の有名占い師に見料1件3千5百万円払ったと聞いて驚いたが、その金額は実は相場だったのか。
  1. 不動産開発で、賄賂のもらい手は中央および地方の共産党幹部と政府の幹部、銀行幹部。わいろは社会の潤滑油と呼ぶそうだが、この高額では、潤滑油どころではない。わいろの出し手は、直接的にはデベロッパーなどだが、もともとの金の出所は住宅ローンを借りている庶民。
  2. 中国と中国人は、契約を守るという慣習がない由。契約を一方的に破棄しても罪に問われないからの由。法律はあるが執行がダメな由。中国は、礼と道徳の国だと考えていたがそうではなかった。始皇帝の時代から韓非子の法家が重きをなしていたのは、約束や契約を守らないのが当たり前みたいな考え方だったのですね。国家間でも合意はするが履行しない例はいくつもあった。
  1. 中国では、最低限の私有財産権も、共産党の意向で踏みにじられることがある。それは、文化大革命とコロナ禍の地域隔離時に顕著だった。コロナ禍の地域隔離時には、官憲が個人の家に勝手に侵入し、ベッドの上に消毒剤をまき、犬猫などペットを殺してまわった由。法律の上に存在する共産党。
  2. 中国は、スマホにより全国民の思想、所在、住居、金銭の管理を現実化した。これは、ジョージ・オーウェルの小説1984年を上回る最先端の管理社会を、人類史上初めて実現したもの。その中で「人間」はやっていけるのだろうか。共産主義洗脳は、1940年代から日々繰り返し行われているが、その末路はどうなるのだろうか。
  3. 不動産バブルの崩壊は、不動産業、金融、行政、共産党の一党支配を脅かすかも。中国は、富が権力側に偏って集中していて、共産党指導者を中心とした特権社会であって、一体これが社会主義体制なのかと考えさせられる構造である。
  1. 中国共産党員は、約98百万人(2022年末)もいて、その賃金は膨大。日本の公務員数は、約3百万人で、その30倍。
  2. 中国では、軍事費より社会治安維持費用の方が大きい由。政府と国家は、人民の信用を失っているかららしい。
  3. 日本もバブルが終わってから20年経っても、それでも今後株価は戦後最高値をつけると信じている人が結構いた。いわんや中国人がにわかに不動産価格が下がるなどとは、頭でわかっていても、受け入れられないだろう。中国人は総じて強気の投資判断なのだろう。
  4. 不動産バブルの崩壊は、政権の致命傷となりかねないので、なんとかして不動産バブルを崩壊させまいとするのだろうが、手はあるのだろうか。1976年の文化大革命終了時も中国経済は破綻していたらしいが、それを改革開放で乗り切った。中国特有の、庶民の人権を軽視するという切り札があるので、何でもできると思っているのだろうか。恐ろしいことではある。上海のコロナでの地域隔離時に食料は途絶し、病院医療も崩壊した事例がある由。
  5. Win Winという言葉は、最近は普通に使われるが、元は中国から最近来た言葉と思う。日本には、三方一両損という美しい言葉がある。
  6. 中国農家のエンゲル係数は50%以上で、都市部住民の平均エンゲル係数は40%以上。庶民は、搾取され絞りつくされている。
  7. 中国の低所得層は、金がなければ、最低限の生活の権利を守ってくれる制度もないという恐るべき状態にある由。
  8. 絶対的権力は絶対的に腐敗する。

 

ダライ・ラマは、存命中での中国共産党の終了を予言。

 ダンテス・ダイジは中国四分割を予言。

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世界的な海水面の上昇と大都市の放棄

2024-08-25 03:47:05 | 時代にFace it

◎埋立地は海に還る

世界的に徐々に海水面が上昇し、やがて世界の相当数の大都市群は、海水中に没し、人類はそれまでに主に集中的に低地に投資が蓄積されたことを嘆くだろうというのは、ダンテス・ダイジ予言の一節。原因が地球温暖化だったとはね。世界的な海水面の上昇は、火力文明の帰結である。

またこれを見越したのか、出口王仁三郎は、『日本は艮の金神様のご神体だから、埋立地などはいかぬ。元の通りになる。
(昭和19年12月12日)』
(新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P243から引用。)と述べている。

ダンテス・ダイジは、そもそも土地は神のものであり、土地売買は神にそむく行為であるというニュアンスのことを言っている。土地売買は合法だが、本来神が許し給わぬのだ。この延長線上に上記の出口王仁三郎予言がある。
合法だが神が許し給わぬ行為というのは、他にもある。そういう視点は、核戦力を支配力の源泉とする現今の国際政治や国家群にはない。

20年ほど前の冬の夕方、六甲の山から神戸を眺めたことがあったのだが、埋立地は盛大に広がっており、想像以上に日本の埋立地の規模は大きいものだなと感じさせられた。この時上述2本の予言が脳裏をよぎり、ぞっとしたことは言うまでもない。

バブル時代の地上げの弊害が大きかったことなどから、最近は高層タワーを立てる開発が中心となったようだが、ウォーター・フロントの名で埋立地の利用は、依然着実に増加している。30年50年の採算を考えるのであれば、海水面の長期的上昇も踏まえ立地場所の選定はよくよく考えねばならない時期になっているのではないか。

そもそも何が神の許し給う生業で、何が神の許し給わぬ生業かというのも冥想してみるべきだろう。

現代は、善と悪、真と偽、嘘とホントが複雑に入り混じり過ぎて、何が正しくて何が正しくないかほとんどわからない時代になってしまった。

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白隠禅師坐禅和讃のエッセンス-4

2024-08-24 03:33:08 | 達磨の片方の草履

◎ここはニルヴァーナであってこの身は仏である

 

白隠禅師坐禅和讃の続き

『因果一如の門ひらけ

無二無三の道直し

 

無相の相を相として

行くも帰るも余所ならず

無念の念を念として

謡うも舞うも法の声

 

三昧無礙の空ひろく

四智円明の月さえん

 

この時何をか求むべき

寂滅現前するゆえに

当所即ち蓮華国

この身即ち仏なり』

 

『因果一如の門ひらけ

無二無三の道直し』

原因も結果も一つということは、時間のない世界であって、過去も現在も未来も合わせて一枚の動くイラストのような世界。これが二もなく三もなく純粋に無相だけがある。

 

『無相の相を相として

行くも帰るも余所ならず』

無相について、ダンテス・ダイジの冥想十字マップでは、有種子三昧に相当する有相三昧と、無種子三昧に相当する無相三昧とを空間的進化の横ラインに置き、第六身体の知恵と第七身体ニルヴァーナを時間的進化の縦ラインに置いている。

言葉にできないものが無相であって、「三昧」とは既に自分がない冥想。自分がある冥想を「定」とする。

 

『三昧無礙の空ひろく

四智円明の月さえん』

これは、一円相のことだが、なぜ月であって太陽ではないのだろうか。

※四智とは、
大円鏡智・・・すべてのものをありのままにとらえる知慧。
平等性智・・・すべてのものを平等に見る智慧。
妙観察智・・・思いのままに自由自在に観察する智慧。
成所作智・・・状況に応じてなすべきことをなす智慧。

 

『寂滅現前するゆえに

当所即ち蓮華国

この身即ち仏なり』

寂滅とは、ニルヴァーナ。ここに蓮華国あるいは浄土が実現するが、それは、天国、極楽のことではなく、言葉にできない究極のことを便宜的に極楽っぽく言っている。

よってそうなれば、自分は仏である。

 

禅籍では、悟りの状態をこのようにストレートに述べるのは稀である。だからこそ白隠は何十人も悟った人を輩出できたのだろうか。

 

白隠-1(初期の悟り)
 白隠-2(正受にしたたかに殴られる)
 白隠-3(世界はどう変わるか)
 白隠-4(生死はすなわち涅槃である)
 白隠-5(白隠の最後の悟り)
 

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白隠禅師坐禅和讃のエッセンス-3

2024-08-23 03:14:21 | 達磨の片方の草履

◎自分自身のオリジナルな姿は何もかもなし

 

白隠禅師坐禅和讃の続き

 

『一座の功をなす人も 

積し無量の罪ほろぶ

悪趣何処にありぬべき

浄土即ち遠からず

 

かたじけなくもこの法を

一たび耳にふるる時

讃歎随喜する人は

福を得る事限りなし

 

いわんや自ら回向して

直に自性を証すれば

自性即ち無性にて

既に戯論を離れたり』

 

『一座の功をなす人も 

積し無量の罪ほろぶ』

一座とは、30~40分だが、実際に究極に到達しているタイムはわずか数秒なのではないかと考えられる。

また精神状態が坐相postureを決めるの法則から言えば、言ってみれば大死一番あるいは身心脱落してしまう姿勢があって、それにマッチした坐相になれば、悟りを開く(だからといって坐相固定マシーンで身体を押さえつけて坐相を決めてもそうはならないと、ダンテス・ダイジは言っている。)。よって白隠は、きちんと一坐座れれば、それまでの何生かで積んで来た無量の悪業は滅んでしまうのだと断言している。一人出家すれば九族昇天するの謂いである。

 

『自性即ち無性にて

既に戯論を離れたり』

自分自身に奥深く分け入って、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いでいくように、自分自身のオリジナルな姿を確認してみれば、そこは何もない“無性”だった。

さすれば、如何なる言葉を尽くした議論も意味がなくなる(戯論)。言葉では表現できないから一円相

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白隠禅師坐禅和讃のエッセンス-2

2024-08-22 03:38:32 | 達磨の片方の草履

◎闇路に闇路をさまよい歩いても真の幸福はない

 

白隠禅師坐禅和讃の続き。

 

『六趣輪廻の因縁は

己が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏そえて

いつか生死を離るべき

 

夫れ摩訶衍の禅定は

称歎するに余りあり

布施や持戒の諸波羅蜜

念仏 懺悔 修行等

その品多き諸善行

皆この中に帰するなり』

 

『闇路に闇路を踏そえて

いつか生死を離るべき』

むさぼり、怒り、迷い、惑い、何もわからないまま暗黒の輪廻転生の道を繰り返していては、生も死も超え、天国も地獄も踏み越えて、最後には生死の違いを離れ、窮極の救いに至ることはできない。

 

『夫れ摩訶衍の禅定は

称歎するに余りあり』

白隠は、20歳の頃美濃加茂市の岩滝で1年9か月修行。後に白隠は41歳の時に、深山巌崖、人跡不到、清閑瀟洒の岩滝時代よりまさる遥かに優れた境地にあると自認し(壁生草-下15丁裏)、さらに42歳秋に大悟した。

白隠は、黙照枯坐の只管打坐を批判していたのだが、ここでいう摩訶衍の禅定とは、語義は大乗のメディテーションだが、実はかえって42歳の白隠は、清閑瀟洒なる黙照枯坐的な坐で大悟したのかもしれないと思う。

 

文意は、仏教の修行には、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧・念仏・懺悔などいろいろあるが、大乗のメディテーションこそが最も優れているというニュアンス。

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白隠禅師坐禅和讃のエッセンス-1

2024-08-21 06:38:00 | 達磨の片方の草履

◎衆生本来仏なり

 

禅メディテーションをやろうと思う人ならば、一度は禅の教義を知りたいと思うものだ。ところが、基本書である信心銘・証道歌・十牛図坐禅儀を見ても、ぶっ飛び過ぎて何のことかわからなかったり、十牛図に至っては説明が簡略過ぎてこれまたわからなかったりする。

あるいは、達磨の語録や禅語録、国宝になっている雪舟の慧可断臂図を見ても、師はその理由を説明しないのがエチケットみたいなところがあり、ますます面食らうものだ。

 

ところが白隠禅師坐禅和讃は、平易世俗の語り口の中に禅のエッセンスが置いてあり、これだけでも悟れるというような代物だ。

 

『白隠禅師坐禅和讃

 

衆生本来仏なり

水と氷の如くにて

水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし

 

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

 

たとえば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて

貧里に迷うに異ならず』

 

まず『衆生本来仏なり』とは、自分も他人も善人も悪人も生物も無生物も、すべて仏であるということ。これは、第六身体で自分が神となれば、この実感になるので、無と有ということで言えば、有の悟りである。

つまり『衆生本来仏なり』を実感するには、仏人合一せねばならないということ。禅を坐れば、仏人合一があるということ。

 

これについて、OSHOバグワンは、これは、始まりであり、中間であり、終わりであって、アルファにしてオメガであると言う。

自分も他者もすべて仏であって、一瞬たりともそれ以外のものであることはできない。それは、過去もなく未来もなくただ現在だけがあるが、それは、敏感で目覚めていて、まばゆいばかりに輝いている。

OSHOバグワンは、白隠禅師坐禅和讃は、冒頭の『衆生本来仏なり』この一句で決着をつけられているとする。後はこれの繰り返しのようなもの。

 

さらに

『水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし』

 

これは、選り好みをせよと言っているのではなく、悟りと迷い、ニルヴァーナとマーヤ、真理と現象は、二つそろって必要なものだと言っている。悟りだけでは、この世とあの世のドラマは展開しない。迷いと悟りがあって初めて展開する。

だがそんな深遠な現実の説明を坐り始めたばかりの人の誰が必要とするのだろうか。

それでも彼は、仏だからである。

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世の終末と立替

2024-08-20 07:00:11 | アヴァターラ神のまにまに

◎正しい教えが伝わらなくなった時と伝わり切った時

 

出口王仁三郎の説明では、立替には、破壊シーンと復興シーンがあって、破壊シーンが立替であってノア、復興シーンは立直しであってナオ

立替とは、自分の心のことであって、「立替を 世人のことと な思ひそ 立替するは 己が身魂(みたま)ぞ(出口王仁三郎)」のことで、神人合一を言う。この結果の人間を、水晶身魂、クリスタル・ピープルと呼ぶ。

 

出口王仁三郎の随筆集水鏡から。

 『世の終末と立替

 

キリストの本当の教が伝はらぬやうになつた時。仏法に於ては釈迦の誠の教が伝はらないやうになつた時、それが世の終りである。即ちキリスト精神の滅亡、仏法精神の滅亡を意味する。此時にあたつて、本当の耶蘇教、誠の仏法を起すのが世の立替である。』

(水鏡_世の終末と立替/出口王仁三郎から引用)

 

このようにキリスト教も仏教も本当の教えが伝わらなくなった時、それが世の終りであるとしているが、逆に一方で正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こるとしているのがイエスやノストラダムス

 

大悟覚醒、人間が逆転して神になる場合、自分も家族も人間関係も財産も名誉も社会的地位もすべてを捨てる段階が必ず起きる。これは自我の死だが、これが世の終わりにしてノア。自我は死んで、不思議なことに神知る自分として再生するのだが、これが復活、復興であってナオ。

未成熟の者は復興はないのだろうが、人間には、堪えられないことは起こらないの法則もある。その辺を踏まえて、キリスト教では、「正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こる」と、成熟が万人に起きるまで世の終わりがないかのような言い回しをしているが、これは出来上がりの至福千年からみれば結果的にすべての人は成熟を経て神を知っているので、「成熟が万人に起きたから」世の終わりと至福千年が発生したと言えることは言えるのではないか。

こうした人にやさしいキリスト教の教えには見るべきものはある。一方で砕霊という無慈悲なものがあることを唱える道教は、人に厳しい支那の風土を反映していると見るのか、神仏は必ずしも人間に都合よく動くばかりではないと見るのか微妙なところがある。

2024パリ五輪閉会式で、イエスの最後の晩餐のパロディが披露され、現代フランスは涜神の巷であったことを改めて証明した。現代フランスには、正しい教えが伝わらなくなった時が来たのか、はたまた伝わり切った時が来たのか。

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石鞏一矢で一群のすべての鹿を射れず

2024-08-19 03:45:00 | 達磨の片方の草履

◎弓矢で狙われた三平は胸を開いて受けようとした

 

ある日、猟師だった石鞏は、馬祖大師の庵の前を通りかかって馬祖に問うた。「旦那、わしの鹿の通るのをみただろう。」

馬祖「おぬしは何者だ。」

石鞏「わしは猟師だ。」

馬祖「おぬしは矢を射れるか?」

石鞏「射れるとも。」

馬祖「一矢でどれだけ射る?」

石鞏「一矢で一頭は仕留める。」

馬祖「おぬしはさっぱり射れないな。」

石鞏「旦那はまさか射れまい。」

馬祖「おれの方が射れる。」

石鞏「一矢でどれだけ射る?」

馬祖「一矢で一群は仕留める。」

石鞏「どいつもこいつも生きものなのに、どうして一群が射れるのだ。」

馬祖「おぬしは、そこまでわかっていて、どうして自分を仕留めないのだ。」

石鞏「私に自分を仕留めよと言われると、まったくお手上げです。」

馬祖「この男は、無明煩悩が一度に吹っ切れたわい。」

石鞏は、その場で弓矢をへし折り、刀で髪を切り、馬祖について出家した。

 

後に石鞏は、馬祖にその悟りを認められた。

 

ある日、見込みのありそうな三平義忠がやって来た時、石鞏は、弓に矢をつがえて叫んだ、「箭を見よ。」

三平は、がっと胸を押し開いて受けようとした。

石鞏、「三十年待ち受けて、今日は半箇の聖人を得た。」

 

三平は、悟って後、この時のことについて思い出して「あの時は、してやったりとばかり思ったが、今にして思えば、してやられていたのだな。」と。

 

三平は、いい線いっていたのだが、不徹底だったのだ。けれども、三十年間そういう人すらもなかなか見つかるものではない。

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