アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダンテス・ダイジの『死生観』-2

2024-12-15 03:20:36 | ダンテス・ダイジの風光

◎生まれて死んでまた生まれ、死んで生まれてまた生まれ

 

ダンテス・ダイジの死生観続き。

『死ぬというのは人の世の

果てにはあらず 

生魂(いくみたま)の

重荷下して休むとき

神のみ前に遊ぶとき

栄えの花の開くとき

歓喜充てる時ぞかし

またもや神の命令に

神世の宿を立ち出でて

再び人生の旅をする

旅は憂いもの辛いもの

辛い中にもまた一つ

都に至る限りなき

歓喜の花は咲き匂う

 

神の御子たる人の身は

生まれて死んでまた生まれ

死んで生まれてまた生まれ

*死んで生まれてまた生まれ

*どこどこまでも限りなく

堅磐常盤に栄えゆく

常磐の松の美し世の

五六七(みろく)の神の太柱

玉の礎つき固め

高天原に千木高く

宮居を造る働きは

神の御子たる人の身の

勤めの中の勤めなり

 

ああ頼もしき人の旅

ああ頼もしき人の身の

人は神の子神の宮

神と人とは生きかわり

死にかわりして永久に

五六七の世まで栄えゆく

五六七の世まで栄えゆく』

 

霊界物語第11巻第3章死生観に同一の文章がありましたので、この文に感銘を受けたダンテス・ダイジが筆写したものと思われます。

なお、上記文中*の2行は、ダンテス・ダイジ文にはなく、霊界物語にはあったので、当方で追記しました。

 

また霊界物語のこの部分に輪廻転生の見方がありましたので、挙げてみます。

『東彦『今度は真面目に聞きなさい。人間と云ふものは、神様の水火から生れたものだ。神様は万劫末代生通しだ。その神様の分霊が人間となるのだ。さうして、肉体は人間の容れ物だ。この肉体は神の宮であつて、人間ではないのだ。人間はこの肉体を使つて、神の御子たる働きをせなくてはならぬ。肉体には栄枯盛衰があつて、何時迄も花の盛りで居ることは出来ぬ。されどもその本体は生替り死替り、つまり肉体を新しうして、それに這入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべき事でも何でもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向ふの新しい肉体へ入れ替ると云ふ事だ。元来神には生死の区別がない、その分霊を享けた人間もまた同様である。死すると云ふ事を、今の人間は非常に厭な事のやうに思ふが、人間の本体としては何ともない事だ』』

(霊界物語第11巻第3章死生観から引用)

 

人間は、神の生き宮であって、肉体は乗り物。肉体が死ねば、次の人生では次の別の肉体で出るが、人間の本質が神の生き宮ということは生きようが死のうが変わらない。

神には生死の区別がないように、人間にも肉体の乗り替えはあるが、このように人間の本質に生死の区別はない。だからと言って前世記憶を持ちながら生きるのは大変なので、前世記憶は持たせず再生してくる。

この故に上掲

『神と人とは生きかわり

死にかわりして永久に

五六七の世まで栄えゆく』なのである。

 

さて人の輪廻転生は永久に終わらないという見方は、解脱がないという見方。永久に終わらないという見方は、過去現在未来が一緒になった、今日只今しかないという現実感覚を想定しているように思う。何の問題もない世界だけが真実、これが、堅磐常盤(ときわかきわ)に栄えゆくということ。

 

※生魂について

玉の礎(出口王仁三郎)から以下引用:『(百十五)「死んで居らぬ」言ひやうと、聴きやうに依りて、生身ともなり、死身ともなるべし。日之出之神は瑞(みず)の御魂に引添ひて、高天原に現れ給へども、誰も知るものなし。生身と生魂の区別をよく弁へて、不覚を取るなかれ。肉体そのままにて神に使はるる者は生身なり。肉体を替へて神に使はるる者は生魂なり。生魂の働きある者はその者の肉体生きたると同じきなり。』

 

つまり肉体が生きているのが生身、肉体が死んでも生きていても活躍できるのが生魂。人は生きていれば、生身として神に使われ、死ねば生魂として神に使われる人もいる。一般に人は生き死ににかかわらず神に使われる。だが、生きていながら神に使われない場合もあるのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンテス・ダイジの『死生観』-1

2024-12-14 06:35:41 | ダンテス・ダイジの風光

◎古神道の奥義開陳

 

ダンテス・ダイジの断簡に古神道関係のものはほとんどない。道場の壁に墨色黒々と、出口王仁三郎の高熊山での開悟の歌『われは空行く鳥なれや』の一節を彼が揮毫したのを見たことがある程度だ。

 

以下は、珍しいダンテス・ダイジの古神道の死生観を歌ったもの。出口王仁三郎の霊体からダンテス・ダイジは、古神道の奥義を受けたが、誠に出口王仁三郎直伝をうかがわせる。

 

『天と地とは永久に

陰と陽との生き通し

神の水火(いき)より生まれたる

人は神の子神の宮

生くるも死ぬるも同じこと       

 

これをば物にたとうれば

神の世界は故郷の

恋しき親のいます家

この世に生まれた人生は

露のしとねの草まくら

旅に出でたる旅人の

クス野をたどるが如くなり

 

辿りたどりて黄昏に

いずれの家か求めつつ

これに宿りしその時は

この世を去りし時ぞかし

 

一夜の宿を立ち出でて

またもや旅をなす時は

まだ人間と生まれ来て

神の働きなす時ぞ

生まれて、一日働いて

死んで、一夜をまた休む』

(続く)

 

生き通しというのは、人が輪廻転生を永遠に繰り返すということではなく、現象世界の転変が止むことはないということ。輪廻転生の終わりはあると思う。

 

※クス野:三五(あなない)教(大本教のこと)の宣伝使が、アルタイ山を右に見て、西へ西へとクス野ケ原の曠野を進んで宣教するシーンが霊界物語第10巻から11巻にかけて展開している。

 

日中が活動の生で、夜が休息の死で、生が旅路で、死が生家での休息。生と死は分断していないと見る。これはマンツーマン輪廻の実態からすればどうかというところはある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』-君の素直さ

2024-12-05 03:53:29 | ダンテス・ダイジの風光

◎君はどこで生まれ、どこで育ち、どこで何をしようとしているのか?

 

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の大悟覚醒時の実感についての解き明かしの続き。

 

『君はどこで生まれ

どこで育ち

どこで何をしようとしているのか?

これらの答えは

君たち自身と共に

常に変化しているはずである』

(十三番目の冥想 原典『救世主入門』雨宮第慈講話録/渡辺郁夫編p106から引用)

 

これは、ニルヴァーナを生きている人すなわち悟った人向けに言っている。悟った人は今ここを生きていて、過去現在未来がいわば一枚の液晶モニターみたいになった世界に生きている。

君の現在は常に変わり続けるが、それに合わせて未来も変わるし、過去すらも変わる。

 

『このことは憶えておく必要はない

君はいつも見知らぬ世界に

いつも見知らぬ旅人としてある

君たちは常に今から

まったく新しい旅へ出発する』

(上掲書P106から引用)

 

見知らぬ世界にいつも見知らぬ旅人としてあるのは、覚者の生活実感であって、透徹した孤独である。それは、窮極に至れば、必ずそうなるから憶えておく必要はない。

現在にしか居場所はないということを、『常に今から

まったく新しい旅へ出発する』(上掲)と表現している。

 

『理由のある安心を持ってはならない

絶対の安心には

どのような根拠もない

君の素直さが

君を安心させる』

(上掲書P108から引用)

 

理由のある安心とは、願望や祈りや希望が実現したから安心した、というようなある条件を満たした場合の安心のこと。

どのような根拠もない絶対の安心とは、人間である以上その絶望と不条理から決して逃れることはできないが、人間が神に逆転すると何も問題がないことがわかる。これが、どのような根拠もない絶対の安心。

君が素直なら絶対の安心になる。

 

『救世主はいつも一番らくでいる

ちょっとらくでいるのではなく

一番らくでいる

一番らくでいることがどれほど恐ろしいものであっても

君は恐れてはならない』

(上掲書P108から引用)

 

素直だと楽だが、一番楽でいることはとても恐ろしいことだが、それを恐れてはならないと、ダンテス・ダイジは引き締めている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の眼目

2024-12-04 03:02:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎なぜ君はいるのか?君とは何なのか?

 

かつてのベストセラー小説『イリュージョン/リチャード・バック』の中に救世主のハンドブックという本の抜き書きが何回か登場してくる。この抜き書きは、ダンテス・ダイジがアトランティス時代に聖者だった時に彼の著作『救世主入門』が出版されていたのだが、当時それを読んだリチャード・バックが前世記憶から出してきたものだとダンテス・ダイジが説明している。

 

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』には、いくつかの大悟覚醒時の実感についての解き明かしがある。

 

『人間というものはどこにもいない

人間というものが

君のイメージの一つにすぎないように

時間の持続としての永遠もまた

永遠の夢にすぎない

場所も時間もない

君自身のことである。』

(十三番目の冥想 原典『救世主入門』雨宮第慈講話録/渡辺郁夫編p105から引用)

 

いまこことは、君自身のことである。

人間というものはどこにもいない色即是空空即是色、色是色、空是空。

20代の私は、この文の意味はわからなかった。

 

『しかし

死に際しては厳粛に取り組まねばならない

三歩先を歩くことのできない生物達は

ギロチンに首を突っ込んだまま

笑う君のことを

理解できないだろう

君は狂人と呼ばれる』

(上掲書p104から引用)

※三歩:時間、空間、物質のこと。

 

ギロチンに首を突っ込んだまま笑う人の例としては、ホセイン・マンスール・ハッラージ普化が挙げられる。

この段は、覚者の非社会性が明瞭であり、これぞダンテスの系流であると思う。

 

『最も単純な疑問が

最も深い意味を持っている

なぜ君はいるのか?

君とは何なのか?

君の頭は

決してこれらの単純な疑問に答えることはできないが

君自身はすでに答えている』

(上掲書p106から引用)

 

君の頭は決してこれらの単純な疑問に答えることはできないが、頭ではない君自身はすでに答えている。頭はOSHOバグワンの言うところのマインド。

隙間理論で言えば、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。

ここに君の頭と君自身が並立して、個人と全体の二重性が見える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダンテス・ダイジが語る「冥想とは何か」

2024-12-03 06:56:51 | ダンテス・ダイジの風光

◎本当の当たり前さを出す、ただそれだけ

 

ダンテス・ダイジが冥想の求めることを語っている。彼の片言隻句では、イメージする範囲が広すぎて迷うかもしれないが、このブログの『Overview of the meditation 冥想の全体像』や『ジェイド・タブレット』を読んだ人ならおおよその方向性は見当をつけることができるのではないか。

 

『ここは冥想の会なんだ。冥想の会っていうのはね、ギリギリのギリギリっていうより、本当の当たり前さを出す。ただそれだけ。

そう、まるでそう。人にはね、身体のある一カ所にね、中心っていうようなものがあるんだ。合気道の植芝盛平の弟子の誰かがね、腹の一点っていうのに気付いた時に合気道に開眼したんだ。合気道の奥義を達成したんだ。腹一点ものすごくしみじみとしたもんだぜ。それは腹でなくてもいい。胸でもいい。どこでもいい。この人差指から三センチくらいのところでもいい。その時初めて潤うんだ。触れるんだ。触れるっていうのはね、本当に触れるんだよ。それが信じ切るっていうこと。

 

君たちはいつも。今一つ、今一つ、今一つ。それ嫌いなんだ。どっかに乾燥した部分があると信じ込んでるんだ。ううん。現代人のやり方さ。

でも沁み渡るようなって何?そう砂漠のど真ん中をこう放浪しててさ、一杯の水にやっとありつけたって。その時、本当に沁み渡るんだよ。

どうやって? 今、おやすみなさい。』

(素直になる 雨宮第慈講話録/渡辺郁夫編P190から引用)

 

上掲『人差指から三センチくらい』は体外の一点だが、古神道の鎮魂法では、体外の一点である鎮魂石に集中するのだが、体外の一点もありなのだなと知った。

 

中心というようなものに一歩進んで、信じ切って、どこか乾いた部分が潤い、沁み渡る。

それが冥想。

それで、本当の当たり前さを出すのが冥想。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-6(完)

2024-10-08 03:27:11 | ダンテス・ダイジの風光

◎君はあらゆるものとともに死ぬ

 

『ソーマ・パイロットの言葉』の続き。

 

『君はつねに今から

まったく新しく出発する

 

言うことがない

考えることがない

することがない

 

君は

いちばんなつかしいところにいる

 

さあ、つきあいなぞ

どうでもいいから

君のマントラでも公案でも合唱せよ

それとも

叫べ!

静けさもない

冥想に入ろう

今が お買得のチャンスだよ

 

君は何がほしいんだ?

君は何がほしいんだ?

君は何がほしいんだ!

 

私は何を求めているのかなぞと

つまらないことを考えないでくれ

 

時間はない

私は無い

 

何もかも無いということを

考えてもしようがない

何もかも無い それ自身だ

 

君は

あらゆるものとともに死ぬ

君が

もともとありもしないここに

あらゆるものが

戯れている

 

マインド・ゲームという

どうどうめぐりのトリックに

だまされるなよ

マインドゲームを

考えるくらいなら

「マインド・ゲーム!」と

大声でどなったほうがましだ

 

よう

いい役

演じてるじゃねえか

 

君は君に出会っている

 

どうしようもない恐怖は

おまえだ

どうしようもないすてきさは

おまえだ

その他すべては

おまえだ

 

ドラッグ・トリップはない

目ざめよ

果てしなき流れにいる

 

ソーマは今ささやいている

「おかえりなさい、

ここが君のわが家だよ」

 

ソーマ・アムリタ・ソーマ

ハリ・オーム・ソーマ』

 

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

上掲『君はつねに今から

まったく新しく出発する』とは、過去も現在も未来もいっしょくたになった今しかないから。

 

上掲『言うことがない

考えることがない

することがない』とは、想念停止

 

今ここと言えば、無味乾燥だが、上掲『君は

いちばんなつかしいところにいる』なら情感あふれる。

 

上掲『君は何がほしいんだ?

君は何がほしいんだ?

君は何がほしいんだ!

 

私は何を求めているのかなぞと

つまらないことを考えないでくれ』とは、最深の願望に気づくべく努力するが、窮極に目覚めれば、自分勝手な努力なしで自ずと自分らしい生き方に気づくことができること。

 

上掲『君は

あらゆるものとともに死ぬ

君が

もともとありもしないここに

あらゆるものが

戯れている』

自分と自分の宇宙、自分の世界、自分の人間関係、自分の社会的地位・名誉、自分の家族、自分の財産など自分をとりまくあらゆるものが死ぬ時、自分個人はすべてのすべてへと逆転する。さらに一歩進んで、ニルヴァーナに到達して、戻ってくれば、上掲『もともとありもしないここに

あらゆるものが

戯れている』を確認することができる。

 

上掲『君は君に出会っている』とは、当初は君は君に出会っていないが、後に君は君に出会うということではない。最初から『君は君に出会っている』ことに気づくだけということ。

 

上掲「おかえりなさい、

ここが君のわが家だよ」とは、無何有郷である。

 

旅人と わが名呼ばれん 初時雨

(芭蕉)

 

さてこの『ソーマ・パイロットの言葉』の表題には、脳内麻薬という言葉が入っている。その理由はこのような仮説である。

 

人間は、クンダリーニ・ヨーガ修行により、ある特殊な脳内麻薬を作用させることによりクンダリーニのエネルギー・コードを上昇させ、個はすべてのすべてに逆転しニルヴァーナに突入する。

 

人間は、只管打坐修行により、ある特殊な脳内麻薬を作用させることにより身心脱落し、個はすべてのすべてに逆転し、ニルヴァーナに突入する。

 

あるいは、人間は、ソーマ・ヨーガ修行により、ある特殊な脳内麻薬を作用させることにより、あらゆるものとともに死に、もともとありもしないここに、あらゆるものが、戯れていることに気づく。

 

悟りは、とある心理だとか、ある特殊な精神状態だと考えている人が多いが、心理だとか精神状態である限り、逆転はない。

ある特定の脳内麻薬が特殊な作用を発生させるのが、悟りの契機であることは間違いないのではないか。ただし、それは意識的、能動的な姿勢があって、醒めていなければ、うまくいかないようなのである。

要するに然るべき脳内麻薬が発生したとしても、その全員が悟るわけではないのだ。賢者の石を手にした誰もが土くれから黄金を作れるわけではないのだ。

心理・精神から現実そのものへ。悟りは現実である。

二重の世界観、二重の現実

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-5

2024-10-06 03:02:37 | ダンテス・ダイジの風光

◎情熱があってこそ宇宙が宇宙としてある

 

ドラッグを服用してハイになって、その状態で文章を書いたり、あるいはその状態を描いたものは、アンリ・ミショーやオルダス・ハックスレー、ウィリアム・ジェームズなど捜せば結構出てくるものだが、窮極に届いてそれを描写し得たものは、極く稀れである。『ソーマ・パイロットの言葉』は、その稀れな一例。

 

『ソーマ・パイロットの言葉』の続き。

 

『ソーマ・トリップは

体験ではない

ソーマはドラッグではない

ソーマは

すべてを越えた君自身であり

すべてである君自身であり

ただひとりの君自身である

だから

ソーマ・トリップに

終わりはない

 

おまえが

永遠が好きなら

永遠にいればいい

永遠を終わらせたいのなら

終わらせればいいんだ

 

どこまでも、どこまでも

 

このアシッド

一つぶいくらしたの

横丁のラーメン屋のおやじ

競馬が大好きなんだぜ

おまえの着ている服 イカスな

おれ 今とってもさえてるよ

おまえは どう?

 

限りない虚空さえ

もはやない

 

君のやっているトリップが

何かの作用なぞと思わないでほしい

ドラッグに

トリップを起こす作用はない

 

もう、いいんだ

 

決して

情熱をやめないこと

トリップ・トリックに

ひっかかるなよ

情熱なんか無いなんて

かたいことは言わないでくれ

目的と

それへの情熱こそ

宇宙が宇宙としてある原因だ

 

もっと、もっと、もっと

 

 

本当に確かなものを

求めてみろよ

君は断じて

どこにも行き着かない

 

夢だよ』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

上掲の『『ソーマ・トリップは

体験ではない』は、体験とは言えない体験のこと。バッド・トリップやグッド・トリップは、見ている自分が残っているので、問題にしていない。

 

上掲『ソーマはドラッグではない

ソーマは

すべてを越えた君自身であり

すべてである君自身であり

ただひとりの君自身である

だから

ソーマ・トリップに

終わりはない』は、ソーマがニルヴァーナの展開であって、すべてであるアートマンであって、自分個人であることを示す。

この三つの相を往還するから、終わりはない。

 

※アシッド:LSD

※限りない虚空:梁の武帝が「仏法とはどんなものか?」と達磨大師に問うた。達磨は、「廓然無聖(心が大空のように晴れてわだかまりがなく、からっとして、聖などというものは無い)」と答えた故事が意識されていると思う。

 

上掲『もう、いいんだ

 

決して

情熱をやめないこと』

は、悟りにあっては、もういいが、現象の転変のゲームを続けるには、情熱をやめるわけにはいかないという、逆のことを言っているが、悟りには両方必要なのだ。迷いあっての悟り。

 

本当に確かなものを求めてみて初めて、君は断じてどこにも行き着かないことを知る。

それは、夢だよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-4

2024-10-04 03:29:49 | ダンテス・ダイジの風光

◎耐えられるぎりぎりのトリックを解く方法

 

『ソーマ・パイロットの言葉』の続き。

 

『素直であればいい

混乱や恐怖や不可解な中でも

ただ素直であるしかない

天国だろうと地獄だろうと

おれはあるがままでいるしかない

 

ドラッグ・ソーマの神は

時にトリップ者を

トリップの袋小路に誘い込む

それはトリップ者が

耐えられるぎりぎりのトリックだ

そしてこの耐え難い

トリックパズルを

解くやり方は

素直であること

それのみである

 

恐れるな

恐れにどんな根拠もない

今こそ

君はすべてのすべてを見る

君がすべてのすべてだ

 

今は

死ぬに最高の時だ

とっくに

おれは死んでいる

 

どこにもどろうというんだい

もどる場所なぞ

ありはしない

おれが

あらゆる場所

それ自体だ

 

宇宙とか神とか悟りとかを

気にしていない

君は無限に

それ以上だ

 

君にとって

一番すてきなもの

それが君なんだよ』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

冥想修行者が耐えられるぎりぎりのトリックでは、混乱や恐怖や不可解があり、天国も地獄もある。

そこで、素直であって、あるがままにして、恐怖がなければそのトリックを克服できる。

 

そこで、今は、死ぬに最高の時だ。どこにもどろうというんだい。もどる場所なぞ、ありはしない。

 

さて気がつけば、とっくにおれは死んでいる。

おれが、あらゆる場所それ自体で、おれがすべてのすべてだ。

 

このパートは、私個人とそれが逆転してすべてのすべて(第六身体アートマン)になることを強調している。ニルヴァーナは出てこない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-3

2024-10-02 03:34:40 | ダンテス・ダイジの風光

◎やすらげ、やすらいでいい、やすらいでいる

 

ヨハネの黙示録にある「わたしはアルパであり、オメガである」これと同義なのが、

以下の引用文に出てくる

『私こそすべて』

『すべてとつきあっている

私はすべてだ』

『ここに終わり

ここに始まる』等々。

 

以下の引用文では、三つの要素が混然としてばらばらに登場している。すなわち私個人、有(世界全体・宇宙全体・過去現在未来)、無(ニルヴァーナ、なにもかもなし)。

ここまで悟りを単純化して韻文にしてくれたものに出会うことは稀である。

個から全体への逆転、有から無への進行をダイナミックに表現している。

 

『ソーマ・パイロットの言葉』の続き。

『——ソーマ・パイロットの言葉

 

あらゆるものは

私が無いことを示している

私こそすべて

 

すべてとつきあえ

すべてとつきあっている

私はすべてだ

すべてだ

 

ここ

 

今じゃない今

ここじゃないここ

 

私は私に帰れない

すべては私自身なんだ

 

旅に限りはない

私はわが家にいる

 

いくたびもなく

いくたびもなく

 

ここに終わり

ここに始まる

 

やすらげ

やすらいでいい

やすらいでいる

 

殺せ

ぶちぬけ

行け

二度とないんだ

 

むかしむかしある所に

アトランティスがありました

それは 今

どこにあるでしょう

 

むかしむかしある所に

お釈迦様がいました

それは 今

どこにあるでしょう

 

むかしむかしある所に

超能力がありました

それは 今

どこにあるでしょう

 

むかしむかしある所に

悟りというものがありました

それは 今

どこにあるでしょう』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

冒頭の『あらゆるものは

私が無いことを示している

私こそすべて』とは、

有・第六身体である『わたしこそすべて』は、やがて『あらゆるものは私が無いこと』に転ずることを示している。

                                       

『今

ここ

 

今じゃない今

ここじゃないここ』

今ここは、現代スピリチュアルの流行語。今ここは、有・第六身体であって、変遷極まりない現象の総体にして、私という個人はない。だが、一歩進んで、『今じゃない今、ここじゃないここ』、であるニルヴァーナがある。

 

むかしむかしあるところにお釈迦様がいました。お釈迦様は単なる思い出に過ぎない。私はすべてのすべてだから、お釈迦様でもある。なにもかもなし。

 

ソーマは切れたら、元の木阿弥。その卒然さと、窮極に至る迅速さが、これらシンプルな詩になっていると見るべきか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-2

2024-10-01 03:01:30 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙とか神とか悟りとかを気にしていない君は無限にそれ以上だ

 

ジェイド・タブレット-外典で、ダンテス・ダイジのソーマ・パイロットの言葉の前半(それが、脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-1にあたる)だけを示したが、続きを示して注釈してみる。

 

インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿がソーマである。

 

ダンテス・ダイジの断簡では、もう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。

酒をソーマとして使う人もいる。

北欧神話では、ミーミルの泉の水である。

 

さて『ソーマ・パイロットの言葉』の冒頭に、次のような文がある。

『精神変容をもたらす薬物は、そのドラッグ・トリップ自体が、すでに神ソーマ自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットである。』

(メディテーション/トラベル・ガイド/ダンテス・ダイジから引用)

 

精神変容をもたらすものは、薬物に限定されるものではなく、あらゆる冥想修行や、宗教洗脳、思想洗脳、商業洗脳までも含まれる。

よって、冥想修行者にとっては、その冥想修行自体がすでに神自身であり得ると同時に、最高の旅の仲間、水先案内人、パイロットなのだ。

この文章は、もともとソーマ・ヨーギ向けに書かれたのだが、冥想修行者全般に向けて書かれたものとしても読むことができる。

 

ソーマ・パイロットの言葉の続き

『これからここに記される語句は、ソーマが、あらゆる姿を通じて、君を解放しようとした働きの一例である。そして、これらの言葉は、無限なる神ソーマから直接流れでたものである。

そして、ソーマ・パイロットの言葉は、君が混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のソーマ・トリップの最中以外に聞いたり読んだりしても無意味であろう。

ソーマ・パイロットは、君と共なる旅の真っ最中に君に語りかけるために、ここに言葉を置いたのである。

君は、これらの語句のどれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、どれも読まなくてもいい。』

(前掲書から引用)

 

上掲の『混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のソーマ・トリップの最中』とは、まさに天国的なものが通用せず、地獄的なものが前途に立ちふさがって、混乱と調和、地獄と天国、恐怖と歓喜のブリザードにあって、自意識は意識と無意識がせめぎあって、自分でも自分のコントロールがつくかどうかぎりぎりのラインにいるシチュエイションを想定しているのだろうと思う。

そういう人には役立つが、その状態がまだやってこない人にとっては、どのようなものか前もって知っておくのもよいのではないか。(ジェイド・タブレットでいえば、《8.地獄も超えて》以降が該当する。)

 

ソーマ・パイロットとは、そんな混乱の巷にあって途方に暮れる君の同行二人目にして、ヘルメスであり、猿田彦という水先案内人なのだ。

 

上掲の『君は、これらの語句のどれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、どれも読まなくてもいい。』とは、すべてが、窮極である無限なる神ソーマから直接流れでたものであるから、どれから読んでもいいし、一つだけ読んでもいいし、君自身が神だから、どれも読まなくてもいいのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニルヴァーナへの神秘修行者は男性が圧倒的多数の理由

2024-09-21 03:44:32 | ダンテス・ダイジの風光

◎ダンテス・ダイジの性愛冥想から

 

ダンテス・ダイジは、射精をしたことのない男性はほとんどいないが、一方オルガズムを経験したことのない女性はかなりいる事実をまず指摘。よって、平たく言えば、男性の性愛の極致は射精だから生理的であり、一方女性のそれは心理的精神的なものに大きく支配されていると述べる。

 

  1. トランスは、ニルヴァーナ(宇宙意識)、悟りの入口ではある。
  2. 阿片系統の麻薬使用は、男性の性能力は減退するが、逆に女性の性欲は亢進する由(ダンテス・ダイジ説。阿片服用で陰萎になる話は、それ系の書物で時々読むところではある)。

『この潜在意識の作用の一つであるトランス状態は、人を脱我的陶酔へ導く入口であり、種々の仕方で誘発するトランスの中で薬物による肉体的トランス状態においても、なおかつ、その肉体性トランスを性的オルガズムに結合させることができるのは、もっぱら女性の性的機能の特質、すなわち、女性の性的快楽が肉体生理よりも精神心理にその多くをよっているという特質にあることを示している。

 

例えば、以上の事実からして、男性型の性愛が権力欲、支配欲的な方向をもちやすく、女性型の性愛が感性的、脱我的方向を持ちやすいという特徴も説明しうる。

だからこそ、宇宙意識の広大な脱我法悦の神秘修行者は、男性の方が圧倒的多数を占め得るのであり、

女性は、ある意味で局部的とも言える性愛的脱我の中に足しきることができる。

 

純粋な宗教神秘主義的な志向性は、男性の非陶酔的性格と

それから必然的に派生する強烈なロマンチシズムを、原動力としている。

 

女性の正統宗教修行者は、どうしても「神がかり」やシャーマニズム的な形式をとりやすく、それには秘められたセクシャルな匂いを感じることができる。

私は性的オルガズムのトランス状態の最中に、突然「神がかり」になった女性を知っている。私は、古神道の眼目である鎮魂帰神の法を大本教の聖師、故出口王仁三郎師の霊によって、習得したが、その立場から見ても、その女性の性交時の「神がかり」は、高低深浅の審神は抜きにして鎮魂性トランスの「神がかり」と何ら変わるものではなかった。』

(ダンテス・ダイジ/性愛冥想より引用)

 

『女性は、ある意味で局部的とも言える性愛的脱我の中に足しきることができる。』これがいわゆる女性的自我の充足の一端と言われるもの。この辺は、なかなか万人に納得のいく説明をしづらい部分である。

勿論女性にも覚醒した人はいる。

また何気なく、鎮魂帰神の法を大本教の聖師、故出口王仁三郎師の霊から伝授されたとあり、肉体でない師からの奥義伝授があり得ることを書いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を

2024-07-10 03:09:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎男神には、あの遙かな性愛三昧を

 

秦の始皇帝の母親の趙姫は、女盛りの34歳で前秦王である夫を失い、息子が秦の始皇帝であったので皇太后となったが、孤閨をかこつことになった。丞相呂不韋は、自分と趙姫の関係を清算しようとしたのか、にせ宦官ロウアイを趙姫のつばめとして送り込み、趙姫はこれを寵愛した。これは、儒教の支那でも不道徳と思われたか、あるいは曲がったことでもあるものはあるという支那の合理性の容認するところだったのかどうかはわからない。

後にロウアイは趙姫に息子二人を産ませ、秦王政9年には、ロウアイはクーデターを敢行したがロウアイと息子は処刑された。

儒家の声が大きい支那では、趙姫は淫乱ということになっているが、ことわざに三十後家は立たずとあるように、その年代の後家さんは性欲お化けになるのはむしろ自然であって、淫乱とまでは言えないと思う。

またこの話には、趙姫の性愛エネルギーの消費という視点はあるが、趙姫がツイン・レイと出会ったのかどうかという視点も、男性側に思いやり深き態度があったかどうかなど本源的な愛にまつわる彼女の幸福という視点もない。趙姫が呂不韋の愛妾としてキャリアをスタートしたのは不運だったというのは簡単だが、それだけなのだろうか。

さて、ダンテス・ダイジの性愛観では、まず神事が第一、すなわちまず悟ることが最低基準である。これは、『高次元意識への自己解放』であって、一般にニルヴァーナへの突入か身心脱落を指す。

第二にパートナーは、魂の半身であるソウルメイトに限ること。相手を取っかえひっかえはあり得ない。

第三に、その時『その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を受容せしめ』て、それは愛に変じ、時間・空間・物質の三元に展開する。

 

そもそも体位とか、テクニックとかの巷間の想像とはまったく違った方向で、彼は性愛冥想を論じているのだ。

 

『人間的営為が虚無に打ち勝つことは決してない。

人間があるということは、虚無があるということだ。

むしろ、虚無そのものによって人間が絶対的に否定される時、虚無はまさに虚無ゆえに自消自滅する。

 

ここにセックスは、不安としての享楽刺激から

言詮不及の愛の一表現として甦る消息がある。

すでに、いかなる対立も戦いもありえない。

時・空・物の三元のない至福は

もう至福と名づけるのも愚かしい。

 

女神には、無数のオルガズムからの忘我的極点を。

男神には、射精しない持続的快感と、

思いやり深き態度から、さらには、あの遙かな性愛三昧を。

 

男性の性愛冥想者は、自我意識を霊的広がりに

向かって捨て去らねばならない。

射精のはかない生理的快感は、とるに足らぬものだ。

 

女性の中に歓びと安住を頼るのではない

まず高次元意識への自己解放があり、

その絶対的歓喜が魂の半身同志の交合を

受容せしめるのだ。

 

性愛は何も産まない

悦楽も安らぎも産まない

子供も産まない

子供はおのずから生きる

子供は子供独自の生命を流れている』

性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-4

2023-09-22 03:43:26 | ダンテス・ダイジの風光

◎純粋冥想のみが人類の全面的平和と全面的幸福を明示できる

 

『純粋冥想には、初めも終りもない。

純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。

 

そして純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できるのである。

 

あたりまえに考えると、この人類は奇妙な文明と称する何ものかを生きている。

 

生とは何か?

死とは何か?

私とは何か?

存在とは何か?

真の幸福とは何か?

 

これらは、それぞれに分割できぬ全体をなしているのだが、人類史上、ごく少数の人々を除いて、これらが解明され実現されたことはなかった。

この余りにも、あたりまえな前提を抜きにして、人類は、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求して、文明と称する何かを作り出している。

そして、今や、人類全体をたやすく滅亡させることのできる巨大兵器を持て遊んでいる。

 

余りにも、あたりまえな基本抜きでは、単なる欲望追求の複雑化は、自滅に至って終るだけだというのに。

こころみに問う。

欲望とは何か?

人間とは何か?

これは、哲学的あるいは宗教的あるいは、どのような一定の立場の命題にもなり得ない。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅶ~ⅷから引用)

 

純粋冥想は、人間性が把握できるいかなる属性も持っていない。ところが、純粋冥想のみが、全面的平和と全面的幸福の何たるかを人類に、明示できる、とくれば、全面的平和と全面的幸福は、人間の側に属していないであろう純粋冥想の彼岸に望むものなのだろうと思う。

ダンテス・ダイジの文明評価は、平たく言えば何人覚者を出したかということ。文明の成果とは覚者であって、神の香気。この近代西欧文明は、神を隠してしまおうという傾向が恐ろしく強く、ともすれば本物の覚者が出れば、イエスのように迫害して殺すし、OSHOバグワンのように域外に放逐し排斥するものである。

今や人間を至上とする民主主義と新旧の共産主義の皮を仮りた独裁国家が世界で角逐しているが、どちらにしても神の居場所はない世界となり果て、真の覚者はいたとしても息をひそめている。まるで、神への信仰を持つことが社会にとって危険であるというような言論思想圧殺の時代が、まもなく来ることをありありと予感しているが如くだ。

 

こんな時代に覚者が何人出ようが、神のかぐわしい香気が、人々の行住坐臥や街並みや野や山や海にどの程度残っているかどうかを気にする人はとても少ない。

このような姿をダンテス・ダイジは、『奇妙な文明と称する何ものか』と謂う。

 

まず、純粋冥想により、

生とは何か?

死とは何か?

私とは何か?

存在とは何か?

真の幸福とは何か?

を解明し、その悟りを持って生きる。

これらが『それぞれに分割できぬ全体』であるとは、今ここのことだが、それは人間性には属していない。

悟りのないままに、人類が、便利さ、快適さ、快楽・幸福を追求しても、その果てしない強欲は、核兵器による人類滅亡を人質に脅迫をお互いに繰り返すこの80年間を経て、その緊迫感は近年露骨で、さらに全面核戦争の危険度が高まりつつある。

大方の人類には、全く信じられないことかもしれないが、世界平和と世界人類の幸福を実現する手段は、軍事的優勢でも、経済的圧倒でも、巧緻な外交でも、インテリジェンスの勝利でもなく、各人が純粋冥想に取り組むことなのだ。

仮に今ここに世界平和が実現したとしても、万人が悟っていない以上は、早晩次の戦争が繰り返されるだけである。

 

たしかに、これまでの人類の歴史上大悟覚醒した人は稀である。覚醒する確率は低いけれど、それでも今ウクライナで戦争が行われている中、人類滅亡の戦慄に慄きながらも平和と幸福を実現する手段は、純粋冥想だけなのである。各人が純粋冥想により、悟りという意識の限界状況を通過していくことだけなのである。

悟りには、見神と神人合一の2段階あるが、神人合一により世界と合一し、世界に何の問題もないことを確認し、真の幸福と世界平和を生きるのだ。また真の幸福と世界平和は、上部から下部へと移りながら実現するものであり、霊的な言い方ならば、時間のない世界に実現し、神界に実現し、霊界に実現し、最後に現界に実現する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-3

2023-09-21 03:58:07 | ダンテス・ダイジの風光

◎成熟し切った自我とは何であるか

 

『真正の覚者についての、いかなる規定も説明も無意味である。

彼には、いかなる特定の立場も質もない。彼は、究極的覚醒そのものであるが、覚醒の何たるかを一度も垣間見たことのないあなたにとって、覚醒を見わける方法も手段も、その眼力もない。 したがって、苦悩するあなたにとって、真正の覚者は、決してわからないのである。

真正の覚者なしでは、純粋冥想はあり得ない。あなたは、覚者の行為しているその形式を実践することはできる。だが、あなたの覚者とその行為形式とは、まったくの欺瞞である。それは、最悪の狂信的イデオロギーになる可能性を持っているという点で、単なる社会的欺瞞よりも、たちが悪い。

 

ここで、あなたは、成熟し切った自我とは何であるかを理解しなければならない。 成熟し切った自我とは、いつでも死ぬ準備のできている自我である。成熟とは、世界とか社会とかに順応して、いわゆる円満な人格になった自我ではない。順応とか適応とかは、一つの妥協であり自己欺瞞にすぎない。

成熟し切った自我は、単に生きのびるために、決して自我の渇望や情熱を妥協させ摩滅させはしない。成熟し切った自我は、私達一切の苦悩と混乱との諸問題 からの全面的開放のために、額面通り命がけである。

そして、自我は、自我という欲望が、問題を作り出していて、それが、解決不可能であることを全面的に知っている。つまり成熟し切った自我は、いつでも死ぬ準備ができている。

この時、あなたは、真正の覚者と出会うに必要な直観を得る可能性を持つ。 真実の覚者が何であるかわかるに必要な空白を持つ可能性がある。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅴ~ⅶから引用)

 

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を実現するには、真正の覚者に出会わねばならない。

しかしながら、この部分では、あなた自身が悟っていなければ、真正の覚者に出会っていたとしても、真正の覚者を見分けることができないとしている。

ところが例外的に、あなたの自我が成熟しきっていれば、真実の覚者と出会った時にそれが真実の覚者であるという直観を得る可能性を持つことができるとする。

自我が成熟しきるとは、いつでも死ぬ準備のできている自我であること。個なる自分は、それまでの人間関係、恋人、家族、財産、名声、地位などの自分を取り囲むすべての宇宙に別れを告げて、すべてがすべてである新たな宇宙に逆転して入って行く局面があるのだが、その逆転を『いつでも死ねる』とシンボリックに言っている。

教義と坐法と金と生活の面倒を見てくれる誰かがいれば、純粋冥想という悟りが成るわけではない。真正の覚者と出会わなければ、ノーチャンスなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメジスト・タブレット・プロローグ序言を読む-2

2023-09-19 06:54:02 | ダンテス・ダイジの風光

◎絶対者の体得・絶対の全面的覚醒が純粋冥想

 

 『ヨーガとは、純粋冥想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。

また、一切の仮設を排除した知的全面的探索は、ジュナーナ・ヨーガと呼ばれていたものだが、むしろ、真実の公案禅において完璧な結晶化が見られる。

そして、人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、 全面的に理解されれば、そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を、純粋冥想とすると、それが、どのような違ったアプローチに見えようとも、結局は、禅か、クンダリニー・ヨーガに包含されている。

最終的には、絶対者の究極的覚醒は、同一だとしても、それぞれのアプローチには、それぞれのニュアンスの違いが、最後までつきまとうことは、否定できない。

 

今、禅とクンダリニー・ヨーガに限って、絶対者のどの側面が強調されるかを見てみよう。

公案禅は、絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面。

クンダリニー・ヨーガは、肉体すなわちボディ・マインドの死後と絶対者の多次元存在として現出している全実在の構造的側面。

そして只管打坐は、絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面が、それぞれ強調されている。

以上は、真正の公案禅・クンダリニー・ヨーガが、只管打坐に関しての、その重点的な側面もしくは位相、すなわちニュアンスの違いである。

 

そして、真正の禅もしくはヨーガなどの純粋冥想は、真正の覚者との出会い抜きには、あり得ない。それが、純粋冥想が決してメソッドやセラピーとして成立しえないゆえんである。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅳ~ⅴから引用)

 

最初にクンダリニー・ヨーガの説明が置かれている。いきなりインド伝来のクンダリニー・ヨーガがクンダリーニ・ヨーガ系冥想の代表として置かれている。これで想定されているのは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において彼自身が披歴している、脱身からニルヴァーナの道筋であって、

『身体上の死の超越すなわち不死性の獲得』に至らなければ十分とは言えないということ。そのレベルに至って、脱身以降は、道教の柳華陽や、古神道の出口王仁三郎の示す『無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態』のように宗派を超えて共通の、肉体からニルヴァーナへのハイウェイが広がっていると見るべきなのだろうと思う。

 

禅といえば、公案禅と只管打坐という2テクニックが代表的冥想法。公案によってとある哲学的世界を構築し、絶対的に解のないことに素直に向き合えば、絶対無の自己同一化という恩寵は起こり得る。ダンテス・ダイジは、隻手の公案を透過した。彼は隻手の音声の中に『絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面』を見たのだ。

だが公案禅は、密参禅など悟りとは無縁の安易な道に逸れやすいという側面もある。

只管打坐のやり方は普勧坐禅儀などに出ている坐り方で、背骨を垂直にしさえすれば、身心脱落が起こるが、実際はいうほどに簡単ではない。『人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、全面的に理解』することが、只管打坐の冥想姿勢・ポスチャーにあるのだろう。また『絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面』は、彼の示す只管打坐の7ステップから当たりをつけることができる。

そして最後に、真正の覚者との出会いがなければ、その冥想は、なんちゃって冥想、ファッション瞑想、坐法・メソッド、セラピー止まりとなる。一時的にはよい状態があるかもしれないが、結局何も解決しないという手法群である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする