◎二重性をも忘れて再び人間を生きる道
若い頃は、ダンテス・ダイジの老子狂言を読んでも意味がわからないから8割方はスルーしていたのだが、一通りのコメントをつけることができた。
この中で、現代人に最も役に立ちそうなのは、≪意味だけが生きるのだろうか?≫。
これは、
【なぜ生命は
何の意味もないというのに生きているのか。】
という生そのものへの根本的な疑問からスタートする。この疑問への回答は、もはや天国も地獄も通用しないところにある。
そして、有想定、無想定、有相三昧、無相三昧と進み、水平の悟りなので最後は人間への帰還となる。
『ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方』でも述べたが、老子狂言は、悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々であって、未悟の人向けにそれを率直に親切に説き示してくれているもの。そういう類のものは、なかなかないものだ。
だからこそ、混迷さらに深まるこの時代に、悟りしか解決の方向性がないと感じた冥想修行者に必要なものは、悟りとは何か、悟りの実感とは何か、悟りを持って生きるとは何かといったもの。そのポイントを、『それ』から凝縮して、濃厚に書き連ねてくれたのが、老子狂言である。
水平の悟り系の詩集なので、クンダリーニとか、神秘体験に関する作品はほとんどない。
神人合一という爆発を経て(あるいは経なくとも)、みじめで情けない自分とすべてのすべてである神仏が二重性をもって存在し、その二重性をも忘れて再び人間を生きるのが、水平の道。
垂直の道なら、神人合一後は人間に戻ってこない。
老子狂言をコンプリートして思ったのは、『今ここ』は、有のサイドであって、すべてではなく、その先に『何もかもなし』の無のサイドがあるだろうってこと。
だから『今ここ』のそばに隙間(gap)があるのだから、軽々に『今ここ』を窮極と呼んではいけないかもしれない。
≪精神病院内の異様な哲学的風景≫は、難物で長年読めなかった。