◎悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々
何度目かの老子狂言を通読した。最初に老子狂言を手にしたのは40年ほど前で、8割方は意味が分からず読み飛ばしていたというのが正直なところだった。
人間がどう覚醒していくのかということは未だに謎が多いが、最近は、七つの身体、7チャクラ、有の側、死の側、クンダリーニのエネルギーコード、身心脱落、水平の道、垂直の道など冥想十字マップにまつわるキーワードで、悟りに至るメカニズムを知的につかむことができたように思う。
そうした目で見れば、老子狂言とは、悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々であって、未悟の人向けにそれを率直に親切に説き示してくれているもの。そういう類のものは、なかなかないものだ。
老子狂言と言えば、老子道徳経の『名』というカルマを生き切るカルマ・ヨーガで大悟した伊福部隆彦氏がさらに只管打坐で身心脱落したという、今生で2回大悟した稀有な人物の生き方がまず想起される。
一生で2回大悟するのは、常人の成しえる技でなく、一回で充分だと思う。その証拠にインドでは、クンダリーニ・ヨーガでニルヴァーナに到達すれば、もう人間として再生してこない。
40年ほど前、20代後半だった私は、袁了凡的なカルマ・ヨーガを一生をかけてやっていきたいと思っていたのだが、ダンテス・ダイジは、カルマ・ヨーガをやるよりは、冥想専一にやった方が速いとアドバイスをくれた。結局、私は、冥想専一の修行者の道は選ばず、事上磨錬(仕事を精密にやる)でのカルマ・ヨーガの道を主に生きることにしたのだが、そうであっても波乱万丈の人生であることは予言されていた。
そういう経緯があったことで、カルマ・ヨーガで大悟するには、何生もかかるし、ハタ・ヨーギは今生で肉体調整し次の人生で大悟を狙うという話と同様に、カルマ・ヨーガにはいわば「今生での悟るチャンスを不意にする」ような側面もあることは、十分わかっていた。
よって、老子狂言は、カルマ・ヨーガと只管打坐という二種の冥想法を示しているが、老子狂言で想定される人生行路は、人生の初期に只管打坐などで大悟覚醒し、その悟りを持って以後生きていくという生の側から極める道であると思う。
カルマ・ヨーガは、積善陰徳の道であって、一行為一行為で徐々に自分をなくしていこうという事の積み重ねだが、一生を費やしても過去の悪業を解消しきれるかどうかわからないという、生憎な側面もある。
一方およそ人間は、善いことのみを為して悪いことをしないで生きるのが基本。
それを踏まえれば、現代人は、すべからく只管打坐のような水平の悟りを目指す冥想を行うべきであるというのが、老子狂言の示した方向性であって、知性の発達した現代人にとって、水平の悟りを持ちながら生きるというのは、どういう世界観でどういう感慨を持って生きているかを示した稀有な書が老子狂言なのだと思う。そういう情報がなければ、現代人は納得して冥想をやるまいよ。
またダンテス・ダイジには、「絶対無の戯れ」という韻文集があり、これも彼の求道の極致の作品集であるが、「老子狂言」は、同じ韻文集ながら水平の道に絞った作品集であるところが違う。
「老子狂言」を酔っぱらった詩人のナンセンスな詩句の多い雑な詩集と見る人もいるかもしれないが、人間と神の奥底に触れ続けた本なのである。
【老子狂言の目次&リンクス】