アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

まだ、私の何ものかが信じている

2025-02-03 20:46:48 | ダンテス・ダイジの風光

◎すべてのすべてが至福だと(老子狂言)

 

すべてのすべてが至福だと

 

まるで私は

はづれてしまった

 

私の冬に私はいる

私という真夜中に私ははいる

 

ニルヴァーナの想い出と

マーヤーの戯れが

戯れとも気づかずに戯れている

何のためでもなく

 

あのニルヴァーナの絶対無以外に

完全な歓びも安心もエナジーもない

私は曲がった小路を歩いているのかもしれない

 

だが、まだ、私の何ものかが信じている

すべてのすべてが至福だと』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

これは、ニルヴァーナから戻って、まるで迷いの中に暮らしているが如き心境。

 

ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経ても【あのニルヴァーナの絶対無以外に

完全な歓びも安心もエナジーもない

私は曲がった小路を歩いているのかもしれない

 

だが、まだ、私の何ものかが信じている

すべてのすべてが至福だと】

と言わなければならないところに、いささか驚きを禁じ得ない。

 

覚者は、みじめで情けない無力な個人とすべてのすべてである神という二重性の体現者。だからこういう

【私の冬に私はいる

私という真夜中に私ははいる】

ネガティブな一節が出てくる。

 

未悟の者にこのようなあけすけな実感を語ってくれるのはありがたいことだ。

 

※ブクログのパブーに上がっていた老子狂言には欠落がいくつかあるが、本詩もその一つ。

 

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何もかもが全く見知らぬものと化す

2025-02-03 19:28:31 | ダンテス・ダイジの風光

◎過ぎ去る夢の夢よ・・・(老子狂言)

 

過ぎ去る夢の夢よ・・・

 

楽しみが

一ミリもない時は

どうしたらいいのか?

 

何もかもがわからないということに

気づいた時は

どうしたらいいのか?

 

私は

そうである以外にない。

 

何もかもが

全く見知らぬものと化す。

不安は意味もないのに

不安と感じられる。

 

重苦しい今の夢よ・・・

過ぎ去る夢の夢よ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【何もかもがわからないということに

気づいた時は】

これは、中心太陽との合体時の実感と思われる。

 

【私は

そうである以外にない。】

素直であるしかない。

 

【何もかもが

全く見知らぬものと化す。】

これは、覚者の生活実感というべきものだと思う。

 

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朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと

2025-02-03 16:10:13 | ダンテス・ダイジの風光

◎センチメンタル・ジャンプ(老子狂言)

 

『センチメンタル・ジャンプ

 

どこにでも、

どこまでも、

朗らかさの中を

朗らかに自由に

飛んでいけるようにと、

私は、

あらゆるもの達に願う。

 

ジャンプ·イン! 

ジャンプ・アウト!

自由自在な

愛と美が踊り狂う!

 

すべてが、

よかったのだ。

渇望の狂暴なパンチが、

あらゆる生命を、

駆り立てる。

 

美と醜のかなた―――

理解と不可解、

安心と不安のかなた―――

孤独な鳥は、

天翔ける。

アメンティーの中心太陽に向かって

アメンティーの中心太陽の中を・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

【どこまでも、

朗らかさの中を

朗らかに自由に

飛んでいけるようにと、】

これは、誰にでもできることでなく、神様の慈悲と、相当に生きる情熱がないとできない。

 

【ジャンプ·イン! 

ジャンプ・アウト!

自由自在な

愛と美が踊り狂う!】

ニルヴァーナにジャンプ·インし、マーヤにジャンプ・アウトし、自由自在な愛と美が踊り狂う。

 

時代は、カタストロフィーを越えて至福千年に向けて【渇望の狂暴なパンチが、あらゆる生命を、駆り立てる。】

それでも、【すべてが、よかったのだ。】

 

アメンティー中心太陽に向かって

アメンティーの中心太陽の中を・・・】

アメンティーは、アトランティス密教の最奥殿で、13人の超人がいた。13番目の超人がダンティス・ポセイダン・アメンティー

中心太陽への突入を描写したのは、ダンテス・ダイジが空前絶後である(ニルヴァーナのプロセスとテクニック)。

 

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限りなき高みを天かける孤独の鳥

2025-02-03 07:00:40 | ダンテス・ダイジの風光

◎鳥は鳥に帰るのだ(老子狂言)

 

『鳥は鳥に帰るのだ

 

鳥は鳥に帰るのだ。

魚は魚に帰るのだ。

 

限りなき高みを天かける孤独の鳥は、

その量り知れぬ意志ゆえに、

空の果てまでも見破って、

永遠の神秘におののく。

 

この魚も、

海の底深く、

深海魚よりも、さらに深く、

まっ暗闇の深海の地獄へ沈んでゆく。

 

鳥が太陽に向かって飛ぶように、

魚は海に溶け込みたいのだ・・・

 

もし、

太陽が鳥を愛し、

海が一ぴきの魚を慈しむのなら、

かれらは、

太陽となり海となるだろう。

 

そうして帰ってくるのだ。

鳥は一ぴきの愚かな鳥として、

魚は一ぴきの無知なる魚として、

帰るともなく帰ってくるに違いない。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

鳥は限りなき高みを孤独に飛翔し、やがて太陽となり、一ぴきの愚かな鳥として、帰るともなく帰ってくる。

魚は、深海の底深く沈み、やがて海となり、

魚は一ぴきの無知なる魚として、帰るともなく帰ってくる。

 

この円環は、出口王仁三郎の霊界物語第11巻第3章死生観の転生観を思わせる。

ダンテス・ダイジの『死生観』-1

ダンテス・ダイジの『死生観』-2

 

かもめのジョナサンの鳥は帰ってこなかったが、この詩では、【帰るともなく帰ってくる】のがよい。

 

魚行って魚に似たり、鳥飛んで鳥の如し(道元)

 

 

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一切を越えた神秘体験に夢中だ

2025-02-03 06:23:47 | ダンテス・ダイジの風光

◎快楽の極限(老子狂言)

 

快楽の極限

 

もはや禅味だけになってしまった。

余りにも、

禅定が神秘で力強いエクスターゼだから。

 

宗教は阿片だ・・・

神秘体験以上の歓喜は、

この世に存在していないかのようだ。

 

かつて小麦色のしなやかな肢体の女に、狂喜したように、

今は、ただただ、一切を越えた神秘体験に夢中だ。

 

これが本当だったのだ。

これが完全なる至福だったのだ。

否、完全なる至福以上のこれ!

 

何もかもかもが、

本当に本当に

どうでもいいのだ。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

※禅味:禅を通して得られる、言葉では表現しきれない奥深い体験や感覚や味わい。

※禅定:ダンテス・ダイジは、定と三昧を区別している。定は、見ている自分がある。三昧は見ている自分がない。

※エクスターゼ:エクスタシー。

※どうでもいい:第七身体ニルヴァーナに居る感慨だと思う。【老子狂言のメシアン・ハンドブックの一節が参考になる。

「決して

情熱をやめないこと 

情熱なんぞどうでもいいなぞと

カタイことは言わないでくれたまえ

何ものかへの情熱こそ 

世界を世界にしているのだから」】

 

生きる情熱が十分でないと、悟りへは届かないし、いろいろなことが起こる。

また、このどうでもいいは、生きる情熱が十分でない人を安心させたり増長させたりするが、ダンテスの悪影響の原因でもあるように思う。

 

この詩全体として神秘体験肯定のように読めるが、そうではない側面もほのめかす。

 

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人間とはジャンキーのことだ

2025-02-01 19:11:20 | ダンテス・ダイジの風光

◎人間ジャンキー(老子狂言)

 

人間ジャンキー

 

人間というジャンキーよ、  

おれたちは、

何といとおしいのだろう・・・

 

麻薬ジャンキー、

セックス・ジャンキー、

夢想ジャンキー

性愛ジャンキー、

社会性ジャンキー、

新興宗教ジャンキー、

権力ジャンキー、

支配欲ジャンキー、

戦争ジャンキー、

殺人ジャンキー、

マイホーム・ジャンキー、

プライド・ジャンキー、

自然ジャンキー、

神秘体験ジャンキー、

センチメンタル・ジャンキー

ニルヴァーナ・ジャンキー、

衣食住ジャンキー、

空気と水のジャンキー、

しかり!

ジャンキー・マーヤ・ジャンキー!!

しかり!

ジャンキー・モクシャ・ジャンキー!!

 

人間とはジャンキーのことだ。

それにしても、

なんと美しいことだろう・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

ジャンキーは、迷いの現れ、マーヤ(無明)の具現。

ジャンキーにあれば、それに耽溺し、依存し、なかなか抜け出せない。だからジャンキーなのだ。

現代人は少々パラノイア(偏執症)が正常とされると言われるのは、少々ジャンキーでなければ正常とされないということ。

【人間とはジャンキーのことだ。

それにしても、

なんと美しいことだろう・・・】

これは、マーヤなくしてニルヴァーナなしの立場から言っている。

だからと言って、未悟の者が迷いのままでいてよいということではない。

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極楽さえチンケなほどの悦楽

2025-02-01 17:19:55 | ダンテス・ダイジの風光

◎答え(老子狂言)

 

答え

 

極楽さえチンケなほどの、

悦楽を味わうのだ。

 

地獄がママゴトに見えるほどの、

苦痛を味わうがいい!

 

そうしたら、

私達は二度と、

答えを求めはしなくなるだろうよ。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

以下【】内は上掲詩から引用。

 

欲望は欲望を滅尽させるために欲望としてある。欲望は、悦楽による充足と苦痛による苦悩というゲームの作り手である。だから【極楽さえチンケなほどの、悦楽を味わ】っても満足することはなく、別の悦楽を求めに奔る。また【地獄がママゴトに見えるほどの、苦痛を味わ】ったとしても、また欲望満足にチャレンジし、不本意でまた無意識にかもしれないが、別の苦痛を求めて進む。

それが欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームであって、常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終わっている。

 

現代人は、自分の死(自殺ではなく、自分の精神の死、禅の大死一番)なくして、欲望のゲームを越えて、本当の愛を知ることはない。

【そうしたら、

私達は二度と、

答えを求めはしなくなるだろうよ】

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考えられないほど素適で想像することもできないほど邪悪な

2025-02-01 07:17:28 | ダンテス・ダイジの風光

◎サッパリわからん(老子狂言)

 

サッパリわからん

 

おれは、死のトリックを見抜いたぞ!

 

死は、闇でも光でもなかった・・・

悟りでも迷いでもなかった・・・

死は、生でも死でもなかった・・・

快楽でも苦痛でもなかった・・・

ニルヴァーナでもマーヤーでもなかった・・・

 

死は死ではなかった。

それは、

考えられないほど素適で、

想像することもできないほど邪悪な、

時のない久遠の戯れだった。

 

おれは、すべてを見抜いたぞ!

 

けれども、

おれは、

何が何だかサッパリわかりはしない・・・

 

ああ、

おれが、おれになった刹那よ!

 

我もなく映し世もなく何もかも

夢の中なる夢の戯れ

我もなく映し世もなく何もかも

神の中なる神のあらわれ

我もなく映し世もなく何もかも

なにもかもなしなにもかもなし

 

サッパリわからん!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは言葉で表現することができない第七身体ニルヴァーナとすべてのすべてである第六身体アートマンを語る歌。『サッパリわからん!』という題と裏腹に、悟りの実感に切り込んでいる凄みがある。

以下【】内は上掲詩から引用。

【死は、闇でも光でもなかった・・・】

:死は天国も地獄も超える

 

【悟りでも迷いでもなかった・・・

死は、生でも死でもなかった・・・】

:言葉で表現することができない第七身体ニルヴァーナを指す。

 

【ニルヴァーナでもマーヤーでもなかった・・・】

:言葉で表現することができない第七身体ニルヴァーナを指す。ニルヴァーナあってのマーヤー、マーヤーあってのニルヴァーナ

 

【死は死ではなかった。

それは、

考えられないほど素適で、

想像することもできないほど邪悪な、

時のない久遠の戯れだった。】

:言詮不及の第七身体ニルヴァーナの実感。

 

【映し世】:霊界が映ってきて現実になるので、この世は映し世。

 

【我もなく映し世もなく何もかも

夢の中なる夢の戯れ

我もなく映し世もなく何もかも

神の中なる神のあらわれ

我もなく映し世もなく何もかも

なにもかもなしなにもかもなし】

:これは、大本教出身の生長の家の創始者の谷口雅春の三神歌。ダンテス・ダイジの冥想道手帳でも採用されている。

 

【我もなく映し世もなく何もかも

夢の中なる夢の戯れ】

:室町時代から戦国時代にかけての武将木戸孝範の作(下野国足利庄木戸郷を本拠とし、代々関東管領の重臣。)

 

言葉にできないから【サッパリわからん!】なのだが、この詩で悟りの実感の想像がつくであろう貴重な詩。

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夢にだに見ることのできぬあなた自身

2025-01-31 16:03:02 | ダンテス・ダイジの風光

◎一刹那の戯れ(老子狂言)

 

一刹那の戯れ

 

一刹那を戯れなさい。

次の刹那なぞありはしないのだから!

 

これは、

刹那主義ではない。

刹那主義という、

永遠の欲求不満のトリックではない。

 

一刹那の戯れとは、

夢にだに見ることのできぬ、

あなた自身のことだ・・・

 

あなたは、

恐怖を恐れてはならない。

あなたは、

あなた自身を恐怖してはならない。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

隙間理論では、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。現象は第六身体であってすべての空間、時間、物質が一枚鏡になっているが、これが一刹那に挟みこまれている。これぞ一刹那の戯れ。

 

自分自身に直面すると、「私」が消え去っていく、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。何か自分が下へ下へと沈んでいくような感覚がある。それで、恐怖が起こることがある。

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すべてのすべてを見破ったら

2025-01-31 15:38:51 | ダンテス・ダイジの風光

◎忘れ果てるがいい(老子狂言)

 

忘れ果てるがいい

 

何を語れば、いいというのだ。

 

語るべきものなぞ 何一つとてない。

石ころは、一体何を語っているのだろうか。 

形あるものは必ず死ぬというのに。

 

すべてのすべてを見破ったら、

おろかに、

なにもかも忘れ果てるがいい。

 

私は髪の毛、一本、

白くも黒くもできはしない···』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

非人間的な石ころから始まるのは、ダンテス・ダイジの慣用句。

 

上掲『すべてのすべてを見破ったら、

おろかに、

なにもかも忘れ果てるがいい。』は、禅では、見性、大悟に執着しないことを言い慣わす。

 

『髪の毛、一本、

白くも黒くもできはしない』は、イエスの言葉。大悟後に超能力霊能力が使えるようになっても、それが何だというニュアンスが隠れている。

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大悟には、悟りも迷いもありはしない

2025-01-31 15:18:25 | ダンテス・ダイジの風光

◎大悟(老子狂言)

大悟

 

見性とは、

なにもかもいいんだ!という、

理解ではない。

見性は、

なにもかもよい!というそのことだ。

 

大悟には、

いい! いやだもない。

なにしろ、

大悟には、悟りも迷いもありはしない。

 

だが今のところ、

心の底から本当に愛着できる

何ものかが欲しい・・・

 

悟りなぞと、つっぱらないのがいい。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

見性は、なにもかもよい!ことを見ている自分がいる。十牛図第三図

大悟は、言葉で表現できないから、悟りも迷いもない。十牛図第八図

悟っても一個人に戻るから、悟りなどと、つっぱらないのがいい。

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なにもかもないそれが老子

2025-01-30 03:20:52 | ダンテス・ダイジの風光

◎老子狂言の老子

 

老子

 

老子について何も知らない。

ただ

気楽な人だったなあと、

私は思う。

 

そうなってゆく、そのままの人。

そうなってゆく石ころ

そうなっていく雨だれ。

 

ただ

素直にやわらかく、

豊かだったなあと、

私は思う。

 

イエスのように純真だが、

そのオトボケは、ソクラテスを楽々とノイローゼにさせるほどの俗物中の俗物。

 

もちろん、

老子とは個人の名前でもなく、

老子という本の名前でもない。

 

宇宙の名前だといったらよいのか?

無限の名前といったらいいのか?

否、否、三たび否!

 

なにもかもないそれを、

老子が老子と名付けたらしい。

ありとあらゆるものそれ自身を、

誰かが仮りに

老子 と名づけたようだ。

 

それだからこそ、

老子はあたりまえな人間なのだ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

『気楽な人』と『そのオトボケ』は、クンダリーニ・ヨーガに比し、ある程度の鈍感さが、水平の悟りにあることと関係がある。

 

タオの高みにある人は、その崇高な生き方を意気がってやや得意げに語ったりしないものだが、老子にはそういうところが見え隠れする。

老子第10章 載営魄

 

柔弱な生き方を老子は自在にできていて、得意げである。気楽さが見える。

老子第43章 天下之至柔

 

老子の中には、人間という視点が全くないものがあって、取り付く島もないものがあるが、それがややデリカシーに欠けた生の側から極めるということである。石ころのようだ。

老子第34章 大道汎兮

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ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

2025-01-27 03:36:12 | ダンテス・ダイジの風光

◎悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々

 

何度目かの老子狂言を通読した。最初に老子狂言を手にしたのは40年ほど前で、8割方は意味が分からず読み飛ばしていたというのが正直なところだった。

 

人間がどう覚醒していくのかということは未だに謎が多いが、最近は、七つの身体、7チャクラ、有の側、死の側、クンダリーニのエネルギーコード、身心脱落、水平の道、垂直の道など冥想十字マップにまつわるキーワードで、悟りに至るメカニズムを知的につかむことができたように思う。

 

そうした目で見れば、老子狂言とは、悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々であって、未悟の人向けにそれを率直に親切に説き示してくれているもの。そういう類のものは、なかなかないものだ。

 

老子狂言と言えば、老子道徳経の『名』というカルマを生き切るカルマ・ヨーガで大悟した伊福部隆彦氏がさらに只管打坐で身心脱落したという、今生で2回大悟した稀有な人物の生き方がまず想起される。

一生で2回大悟するのは、常人の成しえる技でなく、一回で充分だと思う。その証拠にインドでは、クンダリーニ・ヨーガでニルヴァーナに到達すれば、もう人間として再生してこない。

40年ほど前、20代後半だった私は、袁了凡的なカルマ・ヨーガを一生をかけてやっていきたいと思っていたのだが、ダンテス・ダイジは、カルマ・ヨーガをやるよりは、冥想専一にやった方が速いとアドバイスをくれた。結局、私は、冥想専一の修行者の道は選ばず、事上磨錬(仕事を精密にやる)でのカルマ・ヨーガの道を主に生きることにしたのだが、そうであっても波乱万丈の人生であることは予言されていた。

そういう経緯があったことで、カルマ・ヨーガで大悟するには、何生もかかるし、ハタ・ヨーギは今生で肉体調整し次の人生で大悟を狙うという話と同様に、カルマ・ヨーガにはいわば「今生での悟るチャンスを不意にする」ような側面もあることは、十分わかっていた。

よって、老子狂言は、カルマ・ヨーガと只管打坐という二種の冥想法を示しているが、老子狂言で想定される人生行路は、人生の初期に只管打坐などで大悟覚醒し、その悟りを持って以後生きていくという生の側から極める道であると思う。

カルマ・ヨーガは、積善陰徳の道であって、一行為一行為で徐々に自分をなくしていこうという事の積み重ねだが、一生を費やしても過去の悪業を解消しきれるかどうかわからないという、生憎な側面もある。

一方およそ人間は、善いことのみを為して悪いことをしないで生きるのが基本。

それを踏まえれば、現代人は、すべからく只管打坐のような水平の悟りを目指す冥想を行うべきであるというのが、老子狂言の示した方向性であって、知性の発達した現代人にとって、水平の悟りを持ちながら生きるというのは、どういう世界観でどういう感慨を持って生きているかを示した稀有な書が老子狂言なのだと思う。そういう情報がなければ、現代人は納得して冥想をやるまいよ。

 

またダンテス・ダイジには、「絶対無の戯れ」という韻文集があり、これも彼の求道の極致の作品集であるが、「老子狂言」は、同じ韻文集ながら水平の道に絞った作品集であるところが違う。

 

「老子狂言」を酔っぱらった詩人のナンセンスな詩句の多い雑な詩集と見る人もいるかもしれないが、人間と神の奥底に触れ続けた本なのである。

 

【老子狂言の目次&リンクス】

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老子狂言の目次&リンクス

2025-01-25 20:52:03 | ダンテス・ダイジの風光

◎老子狂言の目次&リンクス

 

献辞

巻頭言

格言1

悟りが夢であるように

オカルチック・ソネット

I AM NOT POET

流浪者の故郷

ミステリーかな純文学かなSFかな

胃がんで死んだブッダ

Dream Truth

人のからくり

格言2 

老子

ウィリアム・ブレイク

果てしない旅

悟りのテクニシャン

大悟

忘れ果てるがいい

一刹那の戯れ

サッパリわからん

 

答え

 

人間ジャンキー

どうでもいい

ホワイト・フォックス

快楽の極限

鳥は鳥に帰るのだ

すべてを知り尽くす

センチメンタル・ジャンプ

過ぎさる夢の夢よ・・・

すべてのすべてが至福だと

なにもかもいいんだよ・・・

私は女だ

楽しさをあこがれ続けるらしい

パンドラの箱

何と完全なんだろう!

石ころは、高らかに笑う

ドナルド・シモダ

メシアン・ハンドブック

人にはすべて夢があり

どこまで行ってもきりがない・・・

格言3

ただそれだけのこと

私はとこしえに楽しく生きたい!

すべてがわかるっていいね

帰っておいで

永遠の旅に出る

わが父に感謝をこめて

まるで一輪の野の花のように・・・

黒は白なのだ

タオ

(無題)

自動車ブーブー

距離

不安

そうなのだ

格言4

 

かのように・・・

欲念相続

セイナルモノという夢

大志をもて!

実際のところ・・・

 -人と神の「実際のところ」-1(ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-1)

 -人と神の「実際のところ」-2(ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-2)

 - 人と神の「実際のところ」-3(ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-3 )

 -人と神の「実際のところ」-4(ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-4)

 -人と神の「実際のところ」-5(ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-5)

 -人と神の「実際のところ」-6(ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-6)

決定的根拠

いとしいゲーム

地獄の天国のあくび

マハー・マーヤー

どうしようもない・・・

プレイボーイ

ガイド・ストーン

伊福部先生の言葉

オカルティックに

ブタが空を飛んでいる

女は眠っている

いつも私は評価する

意味だけが生きるのだろうか?

血わき肉おどる!!!

詩的直観

なにもかもいいんだ

精神病院内の異様な哲学的凡景

これしかないもんだ

パラノイア

酔いを味わうだけらしい・・・

ガンチャ・ババの卵

サムシング

絶対者

格言5

如意第慈拝

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老子狂言の格言1

2025-01-20 03:32:04 | ダンテス・ダイジの風光

◎確かなものが人間自体にないことを知ってしまったから人間は確かなものを求めざるを得ない

 

ダンテス・ダイジの老子狂言の続き。

 

『巻頭言

 

 そこの

 横丁の

 タバコ屋のオヤジさん

 一ぴきの

 井の中のカワズだった

 ぼくの

 超高級神秘力の眼で見てみたら

 あ奴が

 老子だったのさ・・・

 

 

格言1

 

人間は 

確固とした何者かであろうとする

人間とは 

欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ

 

人間的な一体感は安心感を仮作するが

その安心感ゆえに不安でもあることになる

人間は確かなものを求めざるを得ない

確かなものが人間自体にないことを知ってしまったからだ

 

人間的安定は、絶対者の戯れと正反対の立場にある

産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ

 

人間性は、完全な束縛を願い、

そしてまた、あらゆる束縛からの

解放を願う

 

観念的であるということは 

現実的であることだ 

現実的行動派は実は余りに夢想的なのだ

 

確実なものが何一つないここでは 

あらゆる方向性が意味を持ち 

あらゆる価値付けが無意味だ

 

只管打坐の坐禅修行に励んでいるある婦人が、こう言った。

「今日の坐禅中は、ひたすらタタミの目の数を数えていました。」

コリャア一体何者ぞ?』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

人間はその知性ゆえに、確かなものが人間自体にないことを知ってしまったから、完全な束縛を願うことで、人間は確かなものを求めざるを得ない。ところが確かなものは人間的安定にはなく、不安を感じつつ、絶対者の戯れにあることを内心わかっている。よって、あらゆる束縛からの解放を願う。

 

この堂々巡り的な動きを、観念的であるということは、現実的であることだと評す。

 

上掲『確実なものが何一つないここでは 

あらゆる方向性が意味を持ち 

あらゆる価値付けが無意味だ』は、空恐ろしい状態だ。

 

この格言を初めて読んだ時、畳の目を数えるところしか、私はわからなかった。

 

角のたばこ屋のおやじが悟っていることはあり得る。身障者の親戚が悟っていることはあり得る。

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