アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

イングリッシュ・ペイシェント

2023-04-05 14:56:04 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎愛に生きる

(2007-02-11)

珍しく映画を通しで見たので感想など。イングリッシュ・ペイシェントは97年のアカデミー賞作品賞他9部門獲得だそうです。こんないい映画があるのかと驚きました。

 

あら筋:

第二次世界大戦下のチュニジアの砂漠を舞台とした、ハンガリー人青年と探検家の妻の不倫物語。探検家は、最後に妻の不倫への怒りで自暴自棄になって、砂漠で、妻と同乗した複葉機での着陸に失敗して死ぬ。その不倫相手である青年は、墜落で重傷の探検家の妻を、泳者の洞窟に運び込み、救援を呼びに行くと称して洞窟から出かけてしまう。

 

結局そのために、彼女は洞窟の中で孤独な死を迎えた。

 

死後何日も経って、ようやく青年は飛行機で彼女を迎えに行くが、彼女の亡骸を積んだ飛行機は、砂漠の上空で撃墜される。青年は全身火傷で、イタリアで療養を続けるが、まもなく亡くなってしまう。

 

感想:

彼女が亡くなる寸前に、共に墜落した夫の安否のことを、不倫相手の青年にしきりに問うていた。結婚わずか一年で不倫して、不倫相手の青年も愛していたとしても、夫のことは格別な存在として、意識の中を占めているもので、まして結婚生活の破綻が一般的には大きなトラウマになってしまう消息がここにある。

 

瀕死の重傷を負った彼女を洞窟に置き去りにして孤独な死を迎えさせたことが、青年の大きな悔恨になった。あそこは砂漠の中で水も食糧も医療設備もない。であれば、何もなくとも彼女と一緒にいて、その死を看取ってあげるのが、愛人としての務めではなかったか。看取ることが原因で自分も飢え死にしても、そこは身を捨てて看取るのが、一度でも狂おしい愛の時間を共に過ごした者のあり方ではなかったか。

 

これから迎えるであろう彼女の死の重さに堪えきれなかったのか、青年はその場を立ち去った。こういうのはカルマになる。愛を全うするためには、平素から自分を捨てる覚悟がないと、いざという時に、捨てられるものではない。

 

その悔恨が、生きる気力をも失わせ、最後に青年は安楽死を選ぶ。青年の次の人生では、同じ失敗を繰り返さないことができるのだろうか。

 

一見気楽に始まった恋愛でも、最後には相手の全人生を負う結末が待っているもの。映画ならやり直せるが、実人生は一回限り。

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巣ごもり消費とセックス

2022-11-16 12:14:50 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎男と女を一つの神にする

 

巣ごもり消費で、任天堂などのゲーム関連企業とネット通販関連企業は、その他業界が未曽有の不況に襲われている中、例外的に好調な業績となっている。

企業とは関係ないが、きっと恐ろしく希求され、また広汎に頻繁に行われているだろうものは、セックスである。

 

ダンテス・ダイジの詩集「絶対無の戯れ」から、

『性愛

 

1

 

性愛は何も産まない

子供も産まない

子供はおのずから産まれてくる

性愛は何も産まない

空を飛ぶ鳥のように

 

 

2

 

落ちてはいけない

意識を広く広く

つき離したままにして置くのだ

女神の悦びのために

 

そこにタントラの道は開かれ

めくるめく忘我と

深い深い深海の静寂とが

男と女を

一つの神にする』

(上掲書P60-61から引用)

 

性愛タントリズムについては、釈迦もチャレンジしかけたとか、ダライラマも知っているとか、無謀にも挑戦しかけた何某が無残にも失敗して単なる荒淫に終わったとかいろいろのことが言われる。明治維新の頃の剣豪にして明治天皇侍従の山岡鉄舟も、これに一時はまった。

 

この詩に続きの「3」もあるが、性愛タントリズムが男性の側の修行法であることは明示されていない。

 

性愛タントリズム周辺は、カーマ・スートラとかチベット密教の交合図(サンヴァラ)とか、誤解を招くことを恐れぬ文や絵も多い。またOSHOバグワンの性愛タントリズムの記述は多いが、ほとんど真面目に語っているとは思えない。

 

その点ダンテス・ダイジのそれは極めて真摯な姿勢が窺える。

 

『子供はおのずから産まれてくる』とは、人間の魂が死に至り、転生していくプロセスを追跡していくと、死んだ誰かと彼が転生して産まれた誰かについては厳密な連続性がないということ。そして、両親と子という縁、関係はあるが、子という自意識の自由、人間の自由という点からは、『子供はおのずから産まれてくる』としかいえない実態があるのだろうと思う。

 

そこでセックスは何か産むのかと自問したのだ。

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OSHOとダンテス・ダイジの性愛冥想の違い

2022-11-16 12:12:34 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎バグワン流

 

OSHOバグワンもダンテス・ダイジも性愛冥想には、わずかなヒントしか残していない。

 

だが、二人の性愛冥想には決定的な違いがある。ダンテス・ダイジは、不倫というようなわだかまり的なものがある場合は成就しないというようなことを言っているのに対し、OSHOバグワンは弟子の間での性愛パートナー交換は日常的だった。この点はクリティカルな相違点。

 

OSHOバグワンは、タントリズムはじめいろいろな宗派の経典をひいては性愛冥想についてコメントしているが、どうもダンテス・ダイジのそれとは全く別のものを言っているように思えるのだ。

 

OSHOバグワンのプーナに移る以前で、わずか25人程度のグループだった時代に弟子になったヒュー・ミルン。彼の著書『ラジニーシ・堕ちた神(グル) 多国籍新宗教のバビロン ヒュー・ミルン/著 第三書館』は敬して遠ざけるみたいにしていたが、改めて今読んでみると、冷静で緻密な書きぶりの求道者であり、のっけから、自分は20代だけどOSHOバグワンの指図で年齢が倍の面識のない婦人(小教団のリーダーで30人の弟子をインドに連れてきていた!)と、夜、メイク・ラブすることを指示された話が出てくる。

 

幸運にも、これは見事に失敗した。

 

当時から教団周辺のインド人からは、OSHOバグワンは、セックス・グルで、セックス教団と陰口をたたかれていた。OSHOバグワン自身もオルガズムに導く技法について解剖学よろしく細かく講義もしていたという話も出てくる。だが、信者同士のフリーセックスは奨励し、自らもパートナーを次々に変えていたらしい。

 

ところが教団内は、上水道などの問題で、もともとあまり清潔ではなく赤痢が蔓延した上に性病も蔓延。こうしたやり方もやがて下火になったという。エイズが出てくる前の時代のこと。

 

男性がパートナーを変えるのと女性がパートナーを変えるのは、意味が異なると思う。

 

平たく言えば、OSHOバグワンは、相手の心理を読む神通力は持っていたが、女心を理解することにはあまり関心がなかった。それに対して、ダンテス・ダイジは、女心のことは十分に理解していた。その辺がダンテス・ダイジの不倫はダメみたいな話につながってくる。

 

よって、そこから出てくる性愛冥想へのアドバイスは、二者間で自ずと異なる。

 

これは私の想像だが、前世で、生真面目なチベット密教修行者だったり、孤独なクンダリーニ・ヨーガ行者だったOSHOバグワンは、性愛方面では経験不足であり、大いにカルマを残していたのではないか。

 

これに対して、モテ男クリシュナの後身であるダンテス・ダイジは、女性のことは何でも掌を指すように理解していた。

 

OSHOバグワンは、集団の裸体冥想もやっていた。ヒュー・ミルンは、その写真を目にした。

 

そういう風景は天国(出口王仁三郎の霊界物語に指摘あり)にはある。また実家の宗教がジャイナ教だったバグワンらしく、ジャイナ教風でもある。だが、インド人ならずとも、どの国でもそれをやれば皆顰蹙する。

 

覚者の合理的判断は尊重すべきではある。だが、それが社会の迷惑を全然顧みないで出ることも時にある。その一例がこれ。

 

ダンテス・ダイジは、OSHOバグワンが、コミューンでチャレンジしていることは評価していたが、弟子たちに対して真摯であったかどうかは疑問であるみたいなことを言っている。そういうのがバグワン流なのだろうと思う。

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エクスタシーで意識的でいる

2022-11-16 12:08:49 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎男性の側の修行法

 

OSHOバグワンは、様々な箇所で、カーマ・ヨーガに言及しているが、私の見たところ、男性の側の修行法に限定したやり方を語っているとは思えない。

 

そんな中で数少ない「男性の側の修行法」としてのエクスタシー。彼によると、ポイントの一つは、射精せず、エクスタシーの瞬間、意識的であること。これは死のプロセスを意識清明にして感じ取って行くのに似る。無意識に堕ちれば射精して失敗に終わる。

 

第二のポイントは、その絶頂状態にあって、オルガズムの縁にあって、意識的であること。そうしていると、突然に内なる中心に気づくという。何秒意識的であれば、あるいは何分何時間意識的であれば「気づく」のか、などということは言ってはいない。

 

その時、男性修行者は、パートナーを女神として礼拝するという。ここはダンテス・ダイジ説と一致。

(以上参考:究極の錬金術Ⅱ/OSHO/市民出版社 P84-86)

 

そのパートナーは、ソウルメイト魂の伴侶でないとだめなのかと想像をめぐらすが、OSHOバグワンはその辺は、教団内でフリーセックスを容認していたらしいので無頓着で、言及はないようだ。一方ダンテス・ダイジは、不倫ではうまくいかないことを示唆する。

 

オルガズム直前にあって意識的であるための、ある種の繊細さは、事前の冥想訓練がなければ成功しにくいのではないだろうか。それが神仏の恵み、来たるが如きものである以上、敬虔で率直な姿勢は基本である。そしてパートナーとの信頼。成功条件として真のパートナーと出会う縁まで挙げれば、バーは一挙に上がるのかも知れない。

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性的ヨーガのアーキテクチャ

2022-11-16 12:07:02 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎タントラとは自由である

 

OSHOバグワンが、『タントラの変容』において、まともな“性的ヨーガのアーキテクチャ”について多分初めて概説している。

 

それは、次のようなものだ。

セックスは、7段あるはしごの最初のとかかり。

セックスのオルガズムは冥想に入るとっかかりにすぎない。この時内なる扉が開く。

 

七段とは、七チャクラ。ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ、アナハタ、ヴィシュダ、アジナーと進み、サハスラーラに至る。

 

ムラダーラから、アジナーまでは、男女いずれかの二元性を持つ。サハスラーラは非二元のブラフマランドラ。

 

男性では、ムラダーラは男性で、スワジスターナは女性。一方女性にあっては逆の、ムラダーラは女性で、スワジスターナは男性。

 

ここで男も女もムラダーラとスワジスターナが結婚、内側での性交をしなくてはならない。

 

以下同様にマニピュラ、アナハタが結婚せねばならないし、ヴィシュダ、アジナーも結婚せねばならない。

 

この書には明記はないが、おそらく『男性では、マニピュラは男性で、アナハタは女性。一方女性にあっては逆のマニピュラは女性で、アナハタは男性。

 

また、男性では、ヴィシュダは男性で、アジナーは女性。一方女性にあっては逆のヴィシュダは女性で、アジナーは男性。』

 

ムラダーラとスワジスターナの第一の結婚は次のマニピュラとアナハタの第二の結婚の可能性となる。第二の結婚は、ヴィシュダとアジナーの第三の結婚となり、それは第四の状態である二元を超え一なるものニルヴァーナに到達する可能性となる。

 

この四段の結婚は、その特徴から、下からそれぞれ、眠り、夢見、覚醒、トゥリヤとも呼ばれる。

 

なお、チャクラは、エーテル体、アストラル体、メンタル体においてそれぞれ存在しているが、それが、どのボディのチャクラかは明らかにしていない。

 

OSHOバグワンはいろんな本でセックス・メディテーションに言及しているが、まともに体系的に述べているのはここだけではないかと思う。

 

全体としてみると、シンボルとしてアスクレピオスの杖が近く、また変性男子、変性女子という古神道の呼称も意味深である。

 

常に誤解されがちだが、セックスそのものに何かあるわけではない。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-3

2022-11-16 12:04:31 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎マーヤ(幻影)を空性の悟りの智慧に変容させる

 

チベット密教では、サンヴァラ(交合)は、空性大楽に誘う。空と楽を結合させる必要性については、マーヤ(無明、幻影)を空に転換するのだから、楽という原始仏教の初禅から三禅までの始めの段階でみられるエレメントをことさらに用いるのは、当然と言えば当然なのかもしれない。

 

※空性大楽とは、空性の悟りの智慧と楽の深い経験が、分かちがたく結びついていること。空性大楽とは不変の楽のこと。

 

『無上ヨーガタントラのクラスの密教においては、体内の生命元素のことを菩提心と呼びます。実際にこの菩提心を溶かしだすためには、性的魅力のある異性に対して感じるような欲望の感情をまず持つ必要があります。そうすれば、その欲望の力によって、体内のエレメントが溶けだし、概念のない心の状態が生まれてきます。菩提心が溶けはじめたら、さらに、それに意識を集中させる必要があります。

 

体内で菩提心が溶けだすと、至福にみちた概念のない状態(空性大楽)の経験が生じます。もしこの至福を味わいながら、その本性は空であると認識している心の状態を生み出すことができれば、幻影を空性の悟りの智慧に変容させるという一大事を達成したことになります。なぜなら、この智慧は、もともとは貪欲という煩悩だったのですから。

 

概念のない状態―――つまり、至福に満ちた心―――の体験をつうじて空性を悟ることができれば、そうやって生み出された智慧は、苦しみの原因となる煩悩やあやまった認識の力をすべて弱める、きわめて強力な解毒剤としての役割を果たすようになります。幻影から生じた智恵が、幻影を破壊するのですから、幻影そのものが幻影を破壊するのだ、といってもいいかもしれません。

 

性的欲望から生み出された至福に満ちた空の体験が、その性的衝動の力を融解させてしまうのです。これは、木に生みつけられる虫の生き方に似ています。この虫は、自分が生みおとされたまさにその木を食べるのです。幻影を悟りへの道の推進力として使うことは、密教のユニークな特徴です。』

(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P132-133から引用)

 

最近巷間の房中術本を読んでみたが、大半は快感追求に終始し、ダライラマのように人間を超えていく技術の展開として捉えているものはなかった。

 

若い時期の禁欲はきついが、禁欲の準備ができた者だけが、その先に進むことができる。また性的衝動が悟りの推進力なのだが、その原理は、カーマ・ヨーガだけで用いられているわけではない。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-2

2022-11-16 12:02:11 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎エクスタシーの秘密

 

ダライラマは、無分別智から光明に至ることを示し、日常の生活体験には無分別智にコンタクトするチャンスが性的な絶頂時など4種あることを示した。以下では、性的な絶頂時と射精コントロールについて説明する。

 

『これらの自然に生じる四つの状態の中で、光明を体験する最高の機会を与えてくれるのは、性的な絶頂時です。もっとも、「性的」といったからといって、ふつうの意味ではありません。異性と一体になることによって、生命力の元素が頭頂から溶けだしてきます。

 

さらに瞑想の力によって、その流れを逆流させ、上昇させるのです。性的ヨーガのきわめて高度な修行をおこなっていく場合、行者に欠かせない条件のひとつは、射精しないだけの十分なコントロールの力を持っていることです。射精は修行のさまたげになると考えられているのです。

 

特に『カーラチャクラタントラ』は、精液の放出は、修行にダメージをあたえるから、夢のなかでも精をもらさないように、みずからをコントロールしなければならないと、強く戒めています。

 

無上ヨーガの密教経典には、行者が夢精を避けるための、さまざまな技術も説明されているのです。このような無上ヨーガタントラの考え方は、小乗の戒律であるヴィヤナとは対照的です。ヴィヤナのなかで、ブッダは、夢精を例外として認めています。修行者の意識的なコントロールを超えていると考えられるからです。

 

ところが夢の中であっても射精することのないように努力すべきだと、タントラは特に強調しているのです。』

(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)

 

小乗では夢精を認め、密教では夢精をも認めない。その差異の結果については言及していないが、チベット密教では行者が夢精を避けるための、さまざまな技術も説明されているほどにここの部分は厳格に対処されてきたのだろう。

 

改めて言うまでもないが、これは男性側の修行となる。エクスタシーにあっては、生命力の元素が頭頂から溶け出すが、それを上方に逆流させることだとグランド・デザインを示している。

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ダライラマのカーマ・ヨーガ-1

2022-11-16 12:00:09 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎自然に無分別智を経験する

 

ダライラマが、密教でのカーマ・ヨーガに言及している。

『『秘密集会タントラ』の本尊のうち、ジュニャーナパーダ流でおもに用いられるグヒヤサマージャ・マンジュシュリーヴァジュラの究竟次第についての注釈である『マンジュシュリームカーガマ』(マンジュシュリーの聖なる言葉)の中で、インド人の導師プッダシュリージュニャーナは次のように言っています。

 

この惑星に人間として生まれた者は、誰であれ、その身体構造と構成元素のおかげで、光明や概念のない状態(無分別) と呼ばれる繊細な意識のありようを、わずかな間ではあるけれども、自然に経験する場合がある、と。

 

それは、睡眠中、くしゃみをするとき、気絶、そして性的な絶頂時です。自分自身の中にもともと何らかの潜在能力や種子があるからこそ、それを大きく成長させることが可能なのです。』

(宇宙のダルマ/ダライラマ/角川書店P131-132から引用)

 

※直観智とは、般若のことであって、無分別智ともいう。主体客体を離れた智恵のこと。あなたは私であるという境地にあって初めてこれを知る。

 

チベット死者の書では、死の最初のステージで原初の光明という悟りに早くも到達するが、無分別智はそれと同じと思われる。修行によって主体客体を離れるのは簡単なことではないが、ここでは、自然な生活の中で、般若=無分別智へコンタクトすることがあることを指摘している。

 

このわずかなチャンスであっても、人間には無限光明ニルヴァーナに向かう可能性があることの説得材料として、チベット密教者はこれを出してきている。この4種のチャンスの中でくしゃみはもっともありふれているが、その一瞬に般若を感得するには、相当な繊細さが要求される。

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女几の房中術

2022-10-17 05:51:30 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎おとこもすなる房中術をおんなもしてみむとすなり

 

中国の周の時代の陳の国に、女几(じょき)と申す酒を売る婦人があった。その酒はたいそう味がよいので評判だった。

 

たまたまさる仙人がその店に立ち寄って酒を飲み、飲み代の質に『素経』五巻を置いていった。女几がその本を開けてみると、それは性を養う男女交接の術(房中術。性愛冥想のこと)を説いたものであった。

そこで女几は、こっそりとこの文の要点を写し取った。そして更に部屋を建て増しして、多数の若者を連れ込んでは美味い酒を飲ませ、部屋に同宿して、本に書かれた方法をトライした。

 

これを続けること30年で、容貌もずっと若返り、二十歳の頃のようであった。

 

数年後仙人がまたやってきて、笑いながら女几を冷やかして、「盗みの道に師匠なし。羽があれば、飛ばずにはいないものじゃのう」と言った。女几は、ついに店をたたみ、仙人の跡を追ったきり、行方がしれなくなった。(参考・列仙伝/平凡社)

 

女性が房中術を行うための基本条件としては、まず男好きであること、単なる異性への権力欲のはけ口としてのセックスではないこと、人生への虚無感の深さを背景として、欲情離脱へと切り替わっていくこと、などであろうが、最も問題なのは、簡単に色餓鬼地獄に落ちやすいことである。

 

性愛冥想や性愛三昧という冥想は、その奥底にこの世の無常・不安を抱えながら、それを性愛冥想の中で直視しようとするものであるから、ままならぬ現実を直視しようとする姿勢がなければ、享楽的刺激を求めるだけの色餓鬼地獄に落ちるだけである。

 

女几の話だけでは、このあたりの深刻さがわかりにくいが、女几も最後には、こうした問題を突破して、「羽を持つことができた」のだから、相当真剣な求道をしたのだと思う。

また「羽を持つことができた」という表現に、上昇するエネルギーを得たというニュアンスがある。

 

女性は、本当は多数の男性の肉体を求めているわけではなく、深く確かなふれあいを求めている。多数ではなく、ただ一つの確実な魂の半身を求めているのである。そうした動機の現れ方は、ある人にとっては、性愛冥想であったり、ある人にとっては、色餓鬼地獄になったりするのだが、性倒錯ですら、そのひとつと見ることができよう。

 

房中術は、男女のエクスタシーの質の違いから、男性側の冥想である。女几の話では、男性と同様に、女性も房中術ができるのかどうかという疑問があり、それは本当に房中術だったのか疑問に思うところがある。

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深い愛の中

2022-10-17 05:32:51 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎ゆらぎ

 

カーマ・ヨーガの簡潔な説明。

前提条件として、「両方の体がどこまでもリラックスし、お互いに対してどこまでもオープンになり、何の恐怖も何の抵抗もないとき」を挙げているので、不倫の場合はそれだけでアウト。

 

(上部は胸で、下部は陰部)

『男と女が出会う時、男の陰極は上部にあり、陽極は下部にある。

女の陽極は上部にあり、陰極は下部にある。

 

この陽と陰の両極が出会って、円環が形成される。その円環は至福に満ちている。でも普通はそうでない。普通の性行為の中では円環は起こらない。

 

だからこそ、あなたはこれほどセックスに惹きつけられながらたいそう嫌悪するのだ。これほどにセックスを追い求め、ほしがりながら、いったんそれが与えられると、がっかりしてしまう。何も起こらない。

 

円環が可能となるのは、両方の体がどこまでもリラックスし、お互いに対してどこまでもオープンになり、何の恐怖も何の抵抗もないときだ。そのようにして、自らをどこまでもゆだねたとき、両方の電気は出会い、溶け合って、ひとつの円環となる。

 

 

するとじつに奇妙な現象が起こる。タントラはそれを記録している。

あなたは聞いたことがないかもしれないが、この現象はたいそう奇妙なものだ。二人の恋人が真に出会い、一個の円環となるとき、そこに「ゆらぎ」が起こる。

 

少しの間彼が彼女に、彼女が彼になる。そして次の瞬間、彼は彼に、彼女は彼女に戻る。少しの間、男性が女性になり、女性が男性になる。それは円環状にエネルギーが働いているからだ。エネルギーは一つの円環となっている。

 

それでこんなことが起こる。男性がしばらくの間活動的になり、それからリラックスする。すると今度は女性が活動的になる。つまり、男性エネルギーが女性の体に移る。すると彼女が活動的になり、彼は受動的になる。そしてそれが続く。通常、あなたは男であるか、女であるかのどちらかだ。

 

でも深い愛の中、深いオルガスムの中で、しばしの間、男が女になり、女が男になるということがある。この受動性の変化は明らかなものだ。はっきり感じられ、認識される。』

(生の神秘/和尚/市民出版社p117-118から引用)

 

だからと言って、男の方が意図的に女になろうとしたり、女の方が故意に男になりきろうとしたりするのは、的外れなことなのだと思う。

 

いずれにせよ、このカーマ・ヨーガの話は断片的なのが多い。

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タントラの現実

2022-10-17 05:30:02 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎谷体験

 

和尚バグワンのタントリック・セックスの見方。それは週刊プレイボーイや女性セブンのセックス観とは全く異なったものとなっている。

 

『タントラはセックスを教えているわけではない。ただたんに、セックスは至福の源泉となりうると言っているまでだ。そしていったんその至福を知ったら、その先へと進むことができる。なぜならあなたはもう真実に基礎を据えているからだ。

 

セックスとは永遠にとどまるべきところではなく、跳躍点として使うものだ。これこそタントラの意味するところだ。セックスは跳躍点として使える。いったんセックスのエクスタシーを知ったら、神秘家の語っている、より大きなエクスタシー、宇宙的オーガズムが理解できるようになる。』

(愛の円環/和尚/市民出版社p55-56から引用)

 

『タントラ的セックスとは、根本的に、まったく正反対であり、違っている。それは放出ではない。エネルギーを外に放つことではない。それは射精なしで、エネルギーの放出なしで、性行為の中にとどまることだ。溶けあったまま性行為の中にとどまる・・・・・・性行為の後半部ではなく、前半部にとどまる。これによって性行為の質は変わる。質がすっかり別のものとなる。

 

(中略)

 

そして第二点。興奮とは始まりでしかない。ひとたび男が挿入したら、ふたりはくつろぐことができる。動きはまったくいらない。ふたりは愛深い抱擁の中でくつろいでいればいい。ただ男なり女なりが、勃起の減退を感じたら、そのときにだけ、多少の動きなり興奮が必要になる。でもそれからまたくつろぐ。この深い抱擁は、射精なしで何時間も続けられる。それからふたりは共に深い眠りの中へと入ればいい。

 

これこそが谷オーガズムだ。ふたりはくつろいでいる――――ふたつのくつろいだ存在として出会う。

 

(中略)

 

しかしタントラとはあくまで谷オーガズムだ。頂上体験ではなくて、谷体験だ!』

(同上書p63-67から引用)

 

 

タントラは、男性の側の修行法のはずだが、和尚バグワンは女性が誤解するだろうなんてことにはお構いなしだ。(巻末に女性が体験談を載せているが、妙な感じである。)

 

冥想修行者はセックスをもジャンプ台に使うのだが、修行者は男性に限られる。相手の女性について条件はあるが、女性にとってそれがどうかなんてことは、本筋ではないせいか、饒舌な和尚バグワンですらほとんど言及はない。ただ「ゆらぎ」は男女双方に起こるとする。

 

最初はくつろぎ、谷に入り、やがてゆらぎ、円環となる。これが和尚バグワンの見方。谷体験とは独特の表現なのだが、タントラ技法って本当にこれを極とするのかどうか疑問が残る。ジャンプしていないからである。

 

谷神が死んでいないところをまだ見ていないからである。

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アヴィラの聖女テレサのエクスタシー

2022-10-08 16:46:33 | カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(冥想法4)neo

◎天使に槍を突きさされる

 

アヴィラの聖女テレサは、全世界を一望のもとに世界を見渡す経験をするほどの精神的高みにあるけれども、女性としての至福という色彩が色濃く残る、官能的な印象がある絶頂体験も経ている。

 

聖女の法悦(ピーク・エクスペリエンス)にも二種類あって、一人の人間としてのエクスタシーと、一人の女としてのエクスタシーの二種類があるように思われる。どちらのケースであっても、神が結婚相手として現れることがあるが、その結婚の描写の仕方は、著しく異なるものであることがすぐわかる。

 

このことから、男性にとって至福と言った場合、常に絶対なるものへの探求、すなわち宇宙意識(タオ、仏、神)そのものが常に念頭にあるのに対し、女性にとっての至福というテーマは、求める相手を男性とする至福と、求める相手を宇宙意識に据えた至福の二種類に分かれるように見える。このことは、女性にとっての人生の目的が、もとより男性とは異なるものであることを、象徴していることの一つであると思える。

 

『有名な例にアヴィラの聖女テレサがある。改革カルメル会の修道女テレサは、ある日の神秘体験を次のように書き残した。「私は、すぐそばに、左側に、肉体のある天使を見ました。(・・・)背は高くなく、小さくてとても美しく、顔は炎に包まれたようで、愛に燃えた天使の中でも最も高貴なように思 えました。名乗りませんでしたが、多分ケルビム(智天使)だと思います。(・・・) その天使が、手に長い黄金の投げ槍を持っていました。その先は鉄で火がついているようでした。彼は槍で私の心臓を貫き、はらわた深くまで突き刺したようでした。それを抜いたときはまるではらわたが一緒に抜かれたようで、私は全身が神の無辺の愛で沸き立つ思いでした。苦痛があまりにも激しく、うめき声をあげずにはいられませんでした。けれどもこの比類のない責め苦によって引き起こされた甘美さが強烈だったので魂はそれが終わることを欲さず、神の外では何ものにも満足できなくなっていました。』

(聖者の宇宙/青土社/竹下節子P199-200から引用)

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