◎老子第39章 昔之得一者
『そもそも、この世界の発現においては、それは無有一如の玄なる道を得たからである。天は、この無有一如の玄なる道を得て以って清いのであり、地はこれを得て以って寧らかなのであり、神は是れを以って霊なのであり、谷はこれを以って水が盈ちるのであり、万物はこれを以って生じるのであり、候王は是れを得て以って天下の範となるのである。
これ等がこのようになるのは、天は決して清となろうとしてこのようになったのではなく、若し自ずからこうなろうとしたならば、忽ち天は裂けてしまうであろう。地もまた同じことで、自ずから寧らかになろうとしたならば、おそらく動揺して休む時がないであろう。
神が自ずから霊となろうとしたならば、おそらくは、その霊妙力が減じてしまうであろう。また谷が自ら水を盈たそうとしたら忽ち水枯れてしまうであろう。万物が自ら生じようとしたならば、忽ち絶滅してしまうであろう。候王が自ら貴く高い人間となろうとしたら忽ちその王位は失われてしまうであろう。
だから貴いものは、それだけで貴いのでなく、賤しいものがその根本を成しているのであり、高いものはそれだけで高いのではなく、低いものがその根基を為しているのである。これだから帝王たちは、自分を呼ぶのに孤(幼くして親のないもの)寡人(老いて配偶者のないもの)不轂(轂のない役立たぬ車)というようなことばを使うのである。
これは賤しいもの下のものをもって本と為しているということを表しているのではないか。そうではないか。事実、車でも、その部分をこれは輪、これは御光、これは心棒というようにいちいちその部分を数え立てていくと、車というものがなくなってしまうように、卑賤があって高貴があるので、卑賤を無視すれば、その上に立つ高貴も認められなくなるのである。
だから玉と石が一方はつやつやと光あって何処までも美しく貴く、一方は粗っぽく光なく、どこまでも賤しくて全く別々であるような、そういう考え方を好まない。』
単純な相対的なものの片側の有用を説く議論に堕していると読まれかねないところがある。
ところが、この世なる現実世界は、絶対なるものは何もない。絶対なるものが何もなければ、優劣は必ずあるものであり、五感による現実を越えた至聖の世界なる現実を優れたものとすれば、われわれの生活実感であるこの世こそが劣った世界である。
その2つの世界の微妙な中間なる天の浮橋に、我々は立ち位置をとっている。従って貴賤あるからといって賤しい側を毛嫌いして捨てるのはそのバランスを失うことになることを戒めるのが主旨だと思う。
賤しい者がやって来たとしても、拒めたものではないだろうと老子は言っているのではないだろうか。その中にも神性が輝いている。