◎最初から追い込まれた生い立ち-1 法然
◎若くして虚無を見る
二段階目のモチベーションというのは、そのままでも十分わかりにくいのだが、有名覚者の生い立ちというものにそのヒントを捜すことができる。
法然は、若くして岡山県久米の故郷を出て、比叡山の僧となった。法然にも父母の死にまつわるトラウマがある。
法然は10歳の時に母秦氏(はたうじ)の兄弟観覚の下で既に僧となっていたが、極めて優秀であったので、15歳の時比叡山で学ばせようということになった。
法然が両親に別れを告げに行ったところ、父漆間時国(うるまのときくに)は、「私は、まもなく殺されることになるだろう。殺されたら私の菩提を弔ってくれ」と思いがけないことを語った。
そして母は、これが比叡山に登る法然との今生の別れとなることを予感し、都に発つ法然をしばらく送って行き、歌を詠んだ。
かたみとてはかなき藤のとどめてし、この別れさえ又いかにせん
(名残の藤は咲き残っているが、この別れだけはどうすることもできない)
親が子に対する思いやりをかなぐり棄てて、殺されるというようなことを実子法然に語るのはよほど切羽つまっていたのだろう。法然が比叡山に登ると、まもなく父時国が夜討ちに遇って殺害されたという知らせがやってきた。母秦氏はこの後記録に出て来ないので、父時国とともに殺害された可能性があるとされる。
父が殺害されて絶望した法然は、修行僧をやめて隠遁しようとしたが、師匠叡空に諭されて叡山に留まった。
南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間でも救われるとは、阿弥陀仏に出会ったこともない人は、いわば悪人であるので、ひたすら(専修)念仏するしか救済の方法はないというのが法然の考え方である。専修念仏の中にアナハタ・チャクラが開顕し、もはや人間の領分ではない愛に出会うことを救済と見たのだろうか。
法然が、それを求めるモチベーションとしては、15歳の父母の遭難というトラウマがあったと想像するのはさほど難しいことではない。岡山県久米の誕生寺では、毎年4月に父時国と母秦氏の追恩供養が行われ、両親を極楽浄土に迎えるセレモニーが催されるという。親鸞もこのようなことをしないので、これは、法然には両親の死によるPTSDがあった証拠とも考えられる。
思春期にあって、両親を失って天涯孤独の身となるのは、いかに絶望的なものか、その心境について赤裸々に語る者は少ないが、3.11東日本大震災を経験した日本人ならば容易に想像はできよう。
法然にあっては、10歳にして2段目のモチベーションに追い込まれたのだ。そういう環境を自分で選んできたということもあるだろう。こうした両親早世の環境では、生活を維持していくのも厳しい。心の安定を保持していくのも厳しい。それでも前向きのシャレンジにトライしたのだ。
世間的には、ここまで追い込まれた人は多くはないので、二段目のモチーベーションというのは、こうした特殊な生い立ちの人にしか起き得まいという先入観を与えることもあるが、更にこうした覚者の生い立ちを見ていく。