アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

生者の霊衣と生死

2025-01-09 06:51:18 | 浅い霊感から神人合一まで

◎病気回復と左翼系、共産主義系

 

出口王仁三郎の霊衣の説明。霊衣とはアストラル体のことなのだろうと思うが、生者の霊衣は丸く、死者(亡者)の霊衣は三角ということで、死んでも残るボディということでもあり、第三身体アストラル体が霊衣なのだろう。

出口王仁三郎は、霊衣の厚い薄いと、形の円いのか三角なのかで病人が回復するかどうかを見るという。病気は、第二身体エーテル体(気)の要素もあるはずだが、ここではほとんど論じていない。(肉体⇔エーテル体⇔アストラル体相互に呼吸がある)

彼は、大病人であっても神徳ある人が神恩を謝し、神の大恩を忘れず生きれば、病気も本復し再生するが、神恩を忘れた瞬間に霊衣をはぎ取られ死亡するとする。これはすさまじい。

 

さらに、神に反対したり信仰者の妨害をする人は、霊衣は薄くなり、形は三角になっていくものだという。無神論国家とは、神に反対したり信仰者の妨害をする国家であって中国、北朝鮮のようなのが典型。ただし日本のような信教自由の国家にあっても左翼系・赤系は無神論標榜だから、同様の傾向があるのだろう。左翼系・赤系でなくとも、無神論の人は、日本と自由主義国家に少なくないから、神仏を恐れることなく神仏に反対したり信仰者の妨害をすることはあるのだろうと思う。

ここで、出口王仁三郎は、そうした人の将来を思い、左翼系・赤系、無神論者の説得を何回も試みたが、まずうまくいかないので、『霊魂の因縁性来と云ふものは、如何ともする事が出来ない』(縁なき衆生度し難し)と慨嘆している。

この辺が、世界人類の生存確率が三分の一と言われる原因なのだろう。古神道では、悪人を殺さず、説得(言向け和す)するのだが、結局うまくいかないケースが結構あるのだ。

こうしたメカニズムを踏まえ、ダンテス・ダイジは、共産主義を邪境と呼んだのだろう。

 

以下出口王仁三郎の霊衣説明。

霊衣

 

現界に生きて居る人間の霊魂を見ると、現人と同形の霊体を持つて居るが、亡者の霊魂に比べると一見して生者と亡者の霊魂の区別が判然とする。生者の霊体(霊魂)は、円い霊衣を身体一面に被つて居るが、亡者の霊体は頭部は山形に尖り三角形の霊衣を纏うてゐる。それも腰から上のみ霊衣を着し腰以下には霊衣はない。幽霊には足がないと俗間に云ふのも此理に基くのである。

 

又徳高きものの霊魂は其霊衣極めて厚く大きく光沢強くして人を射る如く、且つ能く人を統御する能力を持つて居る。現代は斯の如き霊衣の立派な人間が尠いので大人物と云はるる者が出来ないのである。

 

現代の人間は追々と霊衣が薄くなり光沢は放射する事なく、恰も邪神界の神々の着てゐる霊衣の如く、少しの権威も無い様に霊眼で見られるのである。

 

大病人などを見ると其霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣はやや山形になりかけて居るのも今迄沢山に見た事がある。いつも大病人を見舞ふ度に、その霊衣の厚薄と円角の程度によつて判断を下すのであるが百発百中である。何程名医が匙を投げた大病人でも、其霊衣を見て厚く且つ光が存して居れば其病人は必ず全快するのである。之に反して天下の名医や博士が生命は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣が稍三角形を呈したり、紙の如く薄くなつて居たら、其人は必ず死んで仕舞ふものである。

 

故に神徳ある人が鎮魂を拝受し、大神に謝罪し、天津祝詞の言霊を円満清朗に奏上したならば、忽ちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、死亡を免れ得るのである。かくして救はれた人は神の大恩を忘れた時に於て忽ち霊衣を神界より剥ぎ取られ、直ちに幽界に送られるのである。

 

自分は数多の人に接してより、第一に此の霊衣の厚薄を調べて見るが、信仰の徳によつて漸次に其厚みを加へ、身体ますます強壮になつた人もあり、又神に反対したり人に妨害をして、天授の霊衣を薄くし、中には円い形を稍山形に変化しつつある人も沢山実見した、自分はさういふ人に向つて色々と親切に信仰の道を説いた。されどそんな人に限つて神の道を疑ひ、却て親切に思つて忠告すると心をひがまし、逆にとりて大反対をするのが多いのである。之を思へば何うしても霊魂の因縁性来と云ふものは、如何ともする事が出来ないものと熟々考へるのである。』

(大正一四・五・二一号 瑞祥新聞から引用)

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ベラ・コチェフスカ(Vera Kochovska)と伊勢神宮

2024-12-26 03:26:13 | 浅い霊感から神人合一まで

◎伊勢神宮にヤーウェが祀られている

 

東日本大震災の一か月前に故人となったが、ブルガリアの予言者ベラ・コチェフスカが伊勢神宮に参拝した。その際、伊勢神宮にヤーウェが祀られていると述べた。

これを聞いた人が、古神道の神社に異教のユダヤ教の神が祀られているとは・・・と驚いていた記事を読んで、そんなことを意外に思っているとはと、私も意表を突かれた。

 

全知全能にしてすべてのすべてである神は、当たり前のことだが、世界各国に存在して、これは一般に主神や主宰神などとされ、呼び名は異なるが、実体は共通であって、

天之御中主神(古神道)

道(道教)

ニルヴァーナ(インド)

ヤーウェ(ユダヤ教)

ゴッド(キリスト教)

大日如来(真言密教)

等々

宗派が変われば呼び名は変わるが、主神そのものが別の主神に入れ代わるわけではない。出口王仁三郎が万教同根と言ったのは、そういう意味だが、それを受け入れられない人が多い。また共産主義国民は、全員無神論者だが、逆に彼らにも平等に神の恵はある。

 

なお主神には、有の顔と無の顔の二つの顔がある。有の顔は、すべてのすべてにしてすべてが夢幻。無の顔は、言葉で表現できない石ころのようなもの。

 

有の側は、第六身体アートマンであり、無の側は、第七身体ニルヴァーナ。

 

この二面性についてのダンテス・ダイジの説明は以下。

 

『無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。

 

ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。

 

無          有    (タオイズム、禅仏教)

 

 ニー         バーナ   (主にインド・ウィグル)

 

 メン         ア     (主に古代エジプト・アトランティス)

 

 メン         アー    (キリスト教)

 

 ム          オー    (サンスクリットのマントラ・オーム)

 

 ウン         ア     (真言密教)

 

 カ          ミ     (日本古神道)』

(未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」/ダンテス・ダイジから引用)

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UFOと宇宙人の印象

2024-12-19 06:14:45 | 浅い霊感から神人合一まで

◎大災害の時代の直前に「今だ、今だ」と叫ぶUFO

 

最近アメリカを中心に世界各地で目撃されるUFO。米海軍報告では、これは中ロのものではなく、かつレーダーに映っておらず、地球製飛行体では不可能な迅速、敏捷な動きをするという。

 

UFOを考える基本線は、以下。

UFOは、現実(肉体レベル)のものでなく、霊界(エーテル体、アストラル体レベル等)にある。

UFOといえば宇宙人だが、ダンテス・ダイジの言い方では、映画館に行ったら複数名の宇宙人がいたなどと言っていたので、人間には、外見は人間だが中身が宇宙人の人間がいるらしい。

また宇宙人の判別についてダンテス・ダイジは、人類に友好的かどうかという見方を披歴していたので、これには「おや」っと思った。霊界の生き物に対しても同じような区分をとることがあること、そしてジョージ・アダムスキーか何かの宇宙人の見方もそのようなものだったからである。

 

またどんな時に霊(UFO)を見るか。それは、意識レベルが落ちた時であって、狸に化かされる(狐狸を人と認識する)、瞑想時の魔境、トランスなど。

日常では、入眠時、睡眠からの覚醒時など。いわば半覚醒時である。

 

そして、公式な統計があるかどうかは知らないが10人に一人くらいは霊を見たことある。それを基本線として、集団で霊(UFO)を見た例として挙げられるのは、アウシュビッツ強制収容所のユダヤ人が壁に描いた、ファティマ第三の秘密で有名な太陽ショー等。1917年10月、ポルトガルのファティマに聖母マリアの出現を見ようと集まった約七万人の群衆が見た、太陽が空中を「ダンス」するように、またはジグザグに動いた、地上に向かって突き進んだ、色とりどりのまばゆい光を放ったというような、異常な太陽の活動とは、UFOだったのだろうと思う。

 

またUFOと言えば、アブダクション(誘拐)、キャトル・ミューティレーション(家畜が惨殺されたり血を抜き取られたりする事件)、ミステリー・サークルなどもあるが、次元間出入り(三次元と四次元。三次元は肉体レベル、四次元は、エーテル体やアストラル体レベル)は、その運動として特徴的。

 

次元間出入りは、UFOの運動機能として見がちだが、飛行機や船舶などの次元間出入りとしては、バーミューダ三角海域での飛行機や船舶などの行方不明事件について、ダンテス・ダイジは、否定していなかった。彼は、アトランティスの社会全体の巨大動力源だったツーオイ石が今でもバーミューダ海域に残って機能することがあり、それが次元のゆがみを形成しているというニュアンスのことを言っている。

 

また巨大なパワーは肉体レベルと霊界レベルの壁を壊すことがあるというのは、ムラダーラ・チャクラとクンダリーニの接点の分離(クンダリーニ覚醒プロセスでもあるが、発狂する人でも起こることがある。ダンテス・ダイジ説)もそのような例ではないかと思う。

 

また憑依した霊体が口をきく(イタコ、ユタ、ノロ、デルフォイの神女、降神、降霊、necromancy)のは、憑依した霊体が次元間出入りしていると見ることもできる。

 

米国海軍は無数にあるUFO映像を隠していないで公開して議論すべきだと言っているが、宇宙人からの攻撃の予兆とか通告を懸念して言っているのだろうが、真相は万人が神知る時代(至福千年、みろくの世)が来て、すべての人が普通に霊を見、霊を感じる時代にならないとわからないと思う。

七つの身体のアストラル体レベルにはウダーナ気という上昇する気があり、それが墜落しない飛行機、沈没しない船舶の原理として次の時代に出てくる。エジプトのギザのピラミッドは、半重力装置を用いて建設されたと言われるが、それはウダーナ気の応用なのだと思う。

 

なお断っておくが、UFOを見るのも霊を見るのも、人間の本質的な幸福とは何のかかわりあいもない。

人類が滅亡に瀕している危機の時代だからこそ、次元の隙間から到来するUFOを目撃する人が多数出ているのだろうと思う。

その危機感は、アメリカにおいてより強く、平和ぼけの日本では情けないほど弱い。

 

ノストラダムスのアンリ2世への手紙に『大惨害の時代の直前に、多くの見慣れぬ鳥が空中をさえずり、「今だ、今だ」と叫び、しばらくしていなくなる。』とある。

多くの見慣れぬ鳥とは、UFO(UAP)のことではないのか。

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アメリカの遠隔透視の実情

2024-12-18 03:58:32 | 浅い霊感から神人合一まで

◎無意識の支配下にあっても意識的であること

 

熟眠中に夢を見てしまうケン・ウィルバーは、やがて熟眠中に夢を見ない状態を達成した。これが冥想修行の極み。

熟眠中に夢を見ないとは、熟眠という無意識の支配下にあっても意識的であることを継続できていることだろうと思う。

 

アメリカの遠隔透視部隊のマクモニーグル(マックモンイーグル)は、トランスという無意識優勢な状態に入っても遠隔透視のために意識的な部分を残すことができた。

 

※マックモンイーグルの上司がアットウォーター。マックモンイーグルは、オーストリアでの臨死体験があり、おそらくアストラル体で肉体を離脱したことがある。

 

『さまざまな要因のなかでも、ケルト人の血とオーストリアでの臨死体験のふたつが、マックモンイーグルにとって非常に有用な能力を与えたようだ。つまり、夢を見ているような意識の状態まで入りこんでいても、半覚醒状態を保っていられる能力である。多くの人びとが、そのような状態、「鮮明な夢」と呼ばれるたぐいのものをときどき経験することはある。夕食を食べ過ぎたあとや、病気のときなどに多い。しかし、マックモンイーグルはその不思議な状態に意のままに入りこむことができるのだった。

 

その結果、彼の遠隔透視はすばらしく現実的で、話が一貫していた。ゾーンへ入りこんだ透視のあと、しばしばどんなこまかいことまでも、自分の見てきたことを思い出して絵にすることができた。透視の最中でさえ、ときには、まるで映画館で映画を見ているかのように、その情景を説明することができた。彼には本当に簡単なことだったのだろう。

それでもたまには、透視中に解釈のむずかしい奇妙な知覚のゆがみが入りこんでくることがあった。一九八〇年ごろに、ある情報組織の依頼人がフォートミード部隊に任務をもってきた。ある人物の動きを遠隔透視で追ってもらいたいという依頼だった。ヨーロッパで活動している 外国人諜報部員をおよそ十二時間おきに、最近の数日間にわたって透視してほしいというのだ。

 

アットウォーターはすぐにマックモンイーグルを透視目標にあたらせた。ファイルには諜報部員の写真が入っていた。表には、彼が何をしているのか依頼人が知りたい特定の日時が書いてあった。アットウォーターはマックモンイーグルに、目標は人間だと伝え、任務は封筒に書かれている日時のその人物と周囲のようすを透視することだと命じた。

マックモンイーグルはゾーンに沈んでいき、指定された一連の日時を探りはじめた。ある特定の日時で、彼は丘陵地帯をうねって走る道路を感じた。透視目標の人物がその道を進む車を運転しているのだと、マックモンイーグルは気づいた。その人物は黒髪の男性で、きちんとした身なりをしており、おそらくビジネスマンだろう。マックモンイーグルはその道路と丘と車について口述した。五分ほど透視が進んだあたりで、透視目標に何か変化が起きたようで、マックモンイーグルは混乱しはじめた。「男は私の行けない場所へ行ってしまった」彼は言った。「どういう意味です?」とアットウォーターは聞いた。「そう」とマックモンイーグル。「彼の写真を見ていたら、急に写真が裏返しになったみたいなんだ」透視目標は突然消えてしまったのだ。

依頼人に透視結果を報告したあとで、アットウォーターはその写真の男が担当部員との約束の場所に現われなかったのだと聞いた。それで依頼人は男の過去の動向を知ろうとしたのだ。他の複数の遠隔透視者が結果を出してしばらくのち、依頼人はその男が、マックモンイーグルが透視した日時に、イタリアの山道で運転をあやまり、崖から落ちて死んだことをつきとめた。』

(サイキック・スパイ-米軍遠隔透視部隊極秘計画-ジム・シュナーベル/著扶桑社P85-87から引用)

 

マクモニーグルは、遠隔透視していた対象の男が交通事故で死んだ際、死んだと透視できず、男は私の行けない場所へ行ってしまって、写真が裏返しになったと知覚した。

まずマクモニーグルは、リアルタイムの透視ではなく、過去を透視している。これはすなわち現在の現界でなく、霊界の過去を透視しているということだと思う。

というのは、今ここである現在は過去現在未来が一枚板のようになっていていわば現在しかなく、時間がない世界だが、それを透視しているのであれば、亡くなっても居場所を知ることができるだろうと思われるからである。

 

さらに死後の中有などの個人を見失っても、それは知覚のゆがみではないのではないか。

遠隔透視はあるトランス状態で行われるが、この覚醒状態は、報酬も受け取るし、神仏に近づこうとしてやっているわけでもないし、そういう点では、本件は無意識状態での覚醒例ではあるが、冥想修行者の参考にしてはいけないところなのだろう。

はたしてマクモニーグルの透視が精確になるほど、彼の結婚生活は破綻していったという。

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生き通しの次元

2024-12-16 03:03:43 | 浅い霊感から神人合一まで

◎大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし

 

人間の本質は神の宮。肉体を生きかわり死にかわりして人間は、永久に生き続ける。

釈迦と仏教者は人生を苦と見るが、肉体人間が永久に生き続ける場合は、苦に始まり苦に終わるので、解脱あるいは苦の卒業がなければいささか都合が悪い。

 

出口王仁三郎は、人間の本質は、精霊、神の宮であって、神と人間が合一した立場にあって、そこで人間も神も永久に生き通しと説いているように思う。

 

出口王仁三郎の歌集言華より。

『あめ地に神なきものとほこりつつ

まさかのときに手を合す曲(まが)

 

衣食住これより外に望みなき獣のはばる世こそさびしき

日の本の国の名のみは残れども外国人やけもののみ住む

 

くにの為め世人の為めと言ひながら世の大方は身のためにする

 

霊肉の分離したのを死と言へど

その本体は生き通しなる

 

人の世のあらゆる艱苦をなめつくしはじめて悟る神の大道

 

大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし

 

百千千に乱れからみし人ごころそろへて救ふ一すぢの道

 

善き事にあしきことあり曲ごとに善き事まじる現世の道

 

有りがたしかたじけなしと朝夕におもひ暮せば曲事のなし

 

片時も神をわすれぬこころこそ天国にいたる栞なりけり

 

逝く年を心にかくることなかれ不老不死なる魂と生れて

 

八百萬千萬の神ことごとく綾の高天に集ふ御代なり』

(出口王仁三郎の歌集言華より引用)

 

上掲『大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし』が、神と人間が合一した立場を示す。第六身体。

 

上掲『人の世のあらゆる艱苦をなめつくしはじめて悟る神の大道』とは、ダンテス・ダイジの言うところの、悟るということはあらゆる実感を経るということ。

 

上掲『八百萬千萬の神ことごとく綾の高天に集ふ御代なり』は、上掲『大宇宙己が所有と為すとき』には、時間のない世界のことだから常にそういう目出度き御代であるのではないかと思う。

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本山博の個別神霊との合一と創造神との一致

2024-12-13 03:43:40 | 浅い霊感から神人合一まで

◎個人は完全に消滅し神となる

 

本山博は、お不動さんなどの個別神霊が人間と合一する場合は、人間は死にはしない。その人間も残ったままで、お不動さんも残っている。つまり二つのものが合わさるが、二つのままでいる。これが合一。霊能者は、このパターン。

一方創造神(第六身体アートマン)と個人が一致した場合は、個人は完全に消滅する。個人はその時死なねばならない。大死一番である。創造神とは、場所的神のことであり、有の側のことである。

第七身体は、無の側であり、創造神(場所的神)とは別のことになる。

第七身体(無、ニルヴァーナ)のことを本山博は、絶対者と呼び創造神と区別している。

 

本山博は、神秘家は、有である神を感得し接し得るが、それは無の側ではないと見ている。さらに有が絶対無に接する時、有は絶対的に無となるので、生死の場所は有であるとしている。

絶対無(ニルヴァーナ)のことは説明できないが、有の側から見た説明をしているわけである。

 

本山博が大涅槃(マハパリニルヴァーナ)に入ったかどうかはわからないが、大体はわかっているような印象である。

(参照:場所的個としての覚者/本山博/宗教心理出版P22-28)

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本山博の「場所的個」

2024-12-12 03:29:11 | 浅い霊感から神人合一まで

◎「場所」には、創造神と個別神霊がある。

 

本山博の「場所的個」とは、神人アヴァターラのことのようである。三身、三位一体の構成要素としての人間のことだと思う。

 

「場所的個」とは、

  1. 「場所的個」とは、ヨーガでは「アヴァターラ」、仏教で は「応化身」、キリスト教では「神が受肉をしてキリストになった」、あるいは「神の子」のこと。
  2. この場合の「場所」というのは「神様そのもの」。だから、「場所的個」とは神とイコールな人間で、普通の人間ではない。人間なのだけれども、神様になった状態でいる人。
  3. 「絶対」と個人とのつながりを本当にこの人の存在全体で体験した人が「場所的個」
  4. 絶対と現実(相対)とをつなぎ、両方を成り立たせるものが「場所的個」。
  5. 「場所」には、創造神と個別神霊がある。創造神とは、一切のものがそこで死んだり生きたりするような、そこで宇宙が滅んだり出来たりするような 「生死の場所」。個別神霊とは、そこで一切のものが死んだり生きたりはしないが、或る範囲の場所に存在するもの、生きているものが生かされているような、そういうプルシャ的な、あるいは神霊というか、そういう場所。お不動様や観音様のようなもの。

(以上参照:場所的個としての覚者/本山博/宗教心理出版P10-12)

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本山博の最初の三次元

2024-12-11 06:59:11 | 浅い霊感から神人合一まで

◎心霊、神霊との一致の宗教体験と色界の四禅

 

ダンテス・ダイジの実家はかつて井の頭線三鷹台にあって(今は何もない)、駅二つ隣が吉祥寺。吉祥寺の井の頭公園の南側には、クンダリーニ・ヨーギ本山博ゆかりの玉光神社があった(今もあるかどうかは知らない)

 

ダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガの教授を求められると本山博のところを勧めていたという。

出家並みの修行に打ち込める衣食住の整った環境がなければ、クンダリーニ・ヨーガの修行の継続、深化はないのだろうから、ダンテス・ダイジはクンダリーニ・ヨーガの自らの伝授には慎重だったのだろうか。

 

本山博は、七つの身体論ではないが、それなりに究極についてどう見ているかは、考えさせらるところがある。

 

『人間が、他の人間や自然と区別される小さな自分を見てと思っている間は、より大きな存在との一致の体験つまり宗教体験は生じない。しかし、死に直面する大病とか、自分が全力を尽くした事業に失敗するとかして、人間の有限な、はかなさ、小ささを自覚する時、より大きい存在との関わりが生じやすい。まして、断食、水行、瞑想等の修行を通じて、小さな自分の存在性の否定を日夜行ない、心を常により大きい存在、神或いは一切の存在を超えた絶対に向けている時、神或いは絶対は必ずその霊的成長を助け、成就せしめて、より高い存在の境位にまで次第に成長させて下さる。

 

この霊的成長には、一定の秩序と階梯がある。先ず、ヨーガの言葉を使えば、プラーナ(気)の次元、微細身(アストラル身)の次元(心霊の次元)、原因身(カラーナ身)の次元(神霊の次元)での霊的成長がある。これらの三つの次元はそれぞれ違った存在次元ではあるが、未だ自己の存在のために身体を必要とし、身体をもち、個人のカルマ(因果)の法則に従う存在次元である。ここで、心霊、神霊との一致の宗教体験が生じる――これは、仏教でいう、色界の四禅に相当する。

 

次に、ヨーガでいうプルシャの次元、すなわち、己れの存在のために身体を必要としない、個人のカルマを超えた存在次元での、プルシャ(神々)との一致の宗教体験が生じる仏教でいう無色界の四禅に相当する---。

 

以上の、心霊・神霊や神々との一致の宗教体験による霊的成長が単なる主観的なものでないことは、霊的成長に応じて、物の世界を精神の力で直接支配できる能力、ヨーガの言葉ではシッディ(神通力)が生じることから、明らかである。これらのシッディに関する科学的証明については、拙著「Psiと気の関係」「ヨーガの生理心理学的研究」等々を参照して戴きたい。』

(場所的個としての覚者Piiから引用/本山博/宗教心理出版から引用)

 

上記の三つの次元とは、

・プラーナ(気)の次元:第二身体(エーテル体)

・微細身(アストラル身)の次元(心霊の次元):第三身体(アストラル体)

・原因身(カラーナ身)の次元(神霊の次元):第四身体メンタル体または第五身体コーザル体

と考えられるが、特に原因身(カラーナ身)については、よくわからないところがある。

 ともあれ以上三つの次元については、個の次元なので、コーザル体以下だとわかる。

 

ここで、心霊、神霊との一致の宗教体験が生じるのは、色界の四禅に相当するとしているが、色界の四禅とは、釈迦が入寂する際に大涅槃(マハパリ・ニルヴァーナ)に飛び上がったスタート地点として重要なポイントである。

 色界の四禅と聞いても、私が大学生の時には聞き流したであろう言葉であり、汗顔の至りである。

 

この引用文では、この個の次元では、神通力(霊能力)が使えるようになることをことさらに言っているが、いわゆる科学的証明ということを考えた場合に、物質の世界とこうした次元が連動している証明のためには神通力があることを言わねばならなかったのだろうと思う。

だが往々にして、そこを信じない連中に無理に証明しても、結果は必ずしも善いことばかりではないのではないか。

イエスが復活した後に、ディディモのトマスにイエスは、破れたわき腹に手を入れさせたが、そこまで親切にしてあげる例は少ないのではないか。

超能力、霊能力を示さなくとも、もとより人間には、衣食住があることが奇跡ではある。

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ヤバい世界の秘密や都市伝説

2024-12-01 03:35:58 | 浅い霊感から神人合一まで

◎人類絶滅と世界の裏ボス

 

ナオキマンはじめコヤッキーなど各youtuberのヤバい世界の秘密や都市伝説ものを何本か見た。こうしたものは雑誌ムーと同じで、ある一線を越えず、決して窮極にまで突っ込んでいかないという特徴があるように思う。だからエンタメなのだと思う。

こうした不思議関連のエンタメ・コンテンツに触発された人は、昔は、伝統宗教や新興宗教の門をたたいて、中にはカルトに入ってえらい目にあった人もあるだろう。でもどんな教団、組織に入っても生きる情熱が一定以上あれば、窮極、悟り、ニルヴァーナ、神、仏を目指し続けるものではないのだろうか。

 

最近の不思議関連のエンタメ・コンテンツを見てもう一つ思うのは、最後にぐれんと返る一厘の仕組とは何かとか、人類削減して5億人になったとしても人間そのものに多数悪人が混じっていたら今と同じ地獄絵図の地球ではないのかとか、などと考えないのだろうかということである。

 

さらに全人類滅亡については次のような疑問が湧く。

様々な人類の人口削減策が言われているが、それを企画遂行している人たちは、全人類滅亡を目指しているのかいないのか。換言すれば、その企画遂行側の人たちは、昔のように巨大飛行機や巨大潜水艦に乗り組んで何か月か危機をやり過ごして生き延びようとしているのか。

あるいは、自分らも死ぬことを予定し、全人類滅亡が完成したら、イザヤ書のように地球あるいは他の天体で、新たな芽の人類でやり直そうと考えているのか。

 

実際youtubeなどの不思議関連のエンタメ・コンテンツを見ている人の中には、そのような疑問を持っている人が相当数いるのだろうと思う。

 

人類救済計画は大別して2種あり、一つはイザヤ書タイプの人類絶滅してその後やり直して至福千年、もう一つは、古事記タイプのカタストロフィーはあるが現人類が絶滅することなく存続して至福千年というもの。

 

とかくyoutubeなどの不思議関連のエンタメ・コンテンツは、DSの実態とか、世界のラスボスとかを知りたがるが、知ったところで、自分にどんなに金があろうが、権力があろうが、名声があろうが、みじめで情けない自分に変わりないのだ。

まずは冥想が優先。

 

もうひとつ、SNSの発達で“何でも真実を知るのが善いことだ”みたいな風潮があるが、知らない方が幸せなことも多い。知らぬが花

 

米大統領選挙では、ヒラリー対トランプ、バイデン対トランプ、カマラ対トランプの3戦連続して、ほとんどの米日マスコミはアンチ・トランプに回った。先の自民党総裁選挙では、マスコミはほとんど高市下げに回った。先般の兵庫県知事選挙では、マスコミは、ほとんど斎藤元知事下げに回った。などなどマスコミの奇怪な動きを最近連続して見ることが多い。

このようなイベントを経て、マスコミは報道しない自由のもとに真実を隠ぺいしているなどと批判されることが多い。

ところが、企業でも役所でも報道した結果の世間や国民の反応を考えて、報道しなかったり、報道内容を変えることは普通である。

 

さて、現実には3種ある。実際に起こった現実(関係者しか知らない事実)、マスコミが報道した現実、霊界で起こった現実(霊能力者しか知りえないが、これは現界で起こった現実とはやや相違しているという)。一般にマスコミ情報を現実として我らは生きているのであって、今後SNSの隆盛とマスコミ弱体化が進行すれば、かえって我ら大衆は今以上に何が正しくて何が間違っているかわからなくなるのではないだろうか。

 

また何でも真実を知るのがよいことという風潮は、とかく露悪趣味や弱い者いじめに陥りがちなものである。また事件関係者の立ち直りを阻害することになりがちである。成熟した日本人なら知らぬが花の意味を承知しているだろう。

中国のテレビでは、交通事故の怪我人の負傷具合までもろに見せることがあるが、日本では、一部TV会社を除いてそういうことはない。一部TV会社では外国人が幅を利かせているからだろうか。

 

youtubeなどの不思議関連のエンタメ・コンテンツは、いずれ世界の終末の様子や人間の救済の実際とか、この地獄的な時代から千年王国に進化するプロセスの開示を求められていくのではないか。

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根源に帰一する

2024-11-18 06:50:13 | 浅い霊感から神人合一まで

◎昭和初期の中国道教のレベル

 

英国人プロフェルドは、昭和8年から14年の7年間中国の道士を訪ね歩き放浪した。

 ある道観の住職とプロフェルドの会話。

『住職は笑った。 

「通常の儀礼は抜きにさせていただきます。あなたのおっしゃる「名誉ある宗教」は、むしろ儒教もしくはキリスト教にふさわしい言葉でしょう。私どものは宗教ではなくて、「道」に到る道なのです。また、名誉あるものでも、なんでもありません。そもそも、その種の美辞麗句とはいっさい無縁だからです。

 

「あなたの場合も同じでしょうか、私どもの瞑想と修行は心を清静にすることから始まります。心が静止すれば、我々の内と外、上と下に『道』の存在することが理解できるでしょう。

 

「第二に、私どもは活力を養い、長生きできるように努めます。精神の陶冶に必要な時間をかせぎ、より高度な目標に到達するためです。

 

「そして、その次に来るのが金丹の調合です。一部の誤れる人々は金丹を錬金術的手法で作り出そうとしましたが、実のところそれは体内においてのみ調合されうるものなのです。金丹が私どものうちわでは、不老不死の胎児として知られているのも、このためです。

 

「金丹の製造が不老不死への手段であるという点では、われわれ道家の見解はだいたいにおいて 一致しています。 しかし、ここで道が分かれるのです。 

 

「ある者は、未来永劫の長期にわたる不老不死を求めます。これはつまり、神のような地位の達成であって、これ自体が終局目標となるわけです。 

「他の者は、『根源に帰一する』ため、懸命に奮闘します。これは「涅槃」への到達と同じ理想の極致にほかなりませんが、この思いも寄らないような境地の概念については、当然のことながら内容が異なります。 

「あなたのご質問に関して申し上げれば、我々は物事を順序立てて考えなくてはなりません。で すから、まず、内なる心の静止を生みだす単純な方法をご説明することから始めましょう。 もっと進んだ私どもの修行については、その概略に触れるだけにします。基礎的な訓練を積んでいない者に、これを適正に説明することは不可能だからです。 

「究極目標である『根源への帰一』に関しては何も申し上げますまい。もしあなたが賢明にもこの目標を追究することを決断されるのであれば、仏教の先生を頼りにしなくてはなりません。到達目標が同じであるとすれば、なぜわざわざ新しい手段を身につける必要があるでしょうか。」』道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P248-249から引用)

 

道教の目標は、肉体の不老不死と根源への帰一がある。肉体の不老不死はわかりやすいが、根源への帰一はわかりにくい。

そして肉体の不老不死がそんなにすばらしいものであるかどうか、現代人には疑わしいものと映るでのはないだろうか。

そして、外丹と呼ばれる化学実験のような物質変成では、金丹はできないこと。金丹は、内なる心の静止から始まる冥想で作成するものであって、不老不死の胎児であって、それは涅槃ニルヴァーナと同じ。

 

この点は、西洋錬金術において黄金変成が実は、冥想によって成るものであることと見解を一にする。

 

こういうまともな道士が当時の中国にいたからと言っても、いまは全く残ってはいないのではないか。チベット密教がひどく迫害されたように、特に文化大革命中は伽藍の破壊、道士・僧への迫害はひどいものだったし、知識分子への下放なども行われ、静謐で食べることのできる冥想修行のできる環境はまず失われたのだろうと思う。

そもそも根源への帰一とか涅槃を認めない唯物論だから共産主義なのだから。

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祟り

2024-11-09 03:39:11 | 浅い霊感から神人合一まで

◎金で長生をあがなう

 

出口王仁三郎の随筆玉鏡から。

『昔亀岡の或る家の主人が代々四十二歳になると死んだ。何かの祟りであらうと心を悩まして居た。

 

或る時一人の修験者がやつて来て、その事

を他家で聞いて、その家を尋ねて行つた。そして其修験者が「貴方の家は、何時も御主人が四十二歳になると亡くなりますね」と云つた。その家の主人は「如何してそれが分りますか」と云へば、修験者は「法力で判るのだ」と答へた。主人は是非長生したいと言うて相談した。修験者はそれには八百万の神仏を供養せねばならぬ。その為にはあらゆる日本の神社仏閣を巡拝せねばならぬから、その旅費を出せと云つたので主人は快く承諾した。

 

そして修験者は何か書いて封じて、お呪禁と云つて高い所に掛けて置いた。其主人は九十歳位まで長生し、その又息子もそれほど長生した。其後その孫に当る人が、近所にも短命な人があるので、人助けだと思つて彼のお呪禁に如何なことが書いてあるかと思つて、お詫をしながら恐る恐る開いて見た。すると中には「本来無東西、何処有南北迷故三界城、悟故十方空」と書いてあつた。つまり悟るも迷ふも心一つ、祟るも祟らぬも心一つとの意味である。そしても一つの紙には「祟らば祟れ家主に」と書いてあつた。之を見た家の主人は吃驚して、ウンといつて死んで了つたといふ話がある。つまり神経を起したのである。世の中はまづザツトこんなものだ。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

 

若い時にこれを読んだときは、「本来無東西、何処有南北迷故三界城、悟故十方空」の意味がわからなかった。それが、まさに「悟るも迷ふも心一つ、祟るも祟らぬも心一つ」とわかったのは、40代の後半頃か。これそのものは、真理であって、善でも悪でも、白でも黒でもない。

 

もう一枚の紙に書いてあったのは、まさに呪禁であって、開封して読むべきではなかった。最初に大金で贖ったのが、最後にそういう結果を招いたのだろうか。

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神秘主義

2024-10-25 03:39:08 | 浅い霊感から神人合一まで

◎無時間の神秘

 

ダンテス・ダイジの文章には、神秘という言葉が神の実相を語る表現としてしばしば登場してくる。

『人間を越えようとする

意味づけることのできぬ永劫の情熱

それがいつ人間性の極限をもつき破って

無時間の神秘を実在せしめたのかは

誰も知ることがない』

(ダンテス・ダイジの詩:【何と人間らしいことか】から引用)

 

OSHOバグワンは、神秘主義について、もっと平易に語る。すなわち、

科学は、世界を「知られたもの」と「未知なるもの」に分けるが、「知りえないもの」などないと思っている。

神秘主義では、「知られたもの」と「未知なるもの」と「知りえないもの」の3区分に分ける。知る人と知られるものが一体となるとき、知ることはあり得ない。知る人と知られるものが一体となることを体験とは呼べない体験と呼び、この体験を知ることはできず、ただ経験することができるだけである。

これが「知りえないもの」である。自分という個人が知る人で、これが知られるものである宇宙全体・世界全体と合一するのは、第六身体アートマンであって、個と宇宙全体が逆転すること。

 

この体験については、言葉では語れないから口を閉ざしているしかない。なんという神秘、ミスティシズム(mysticism)。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP322-327)

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周史卿

2024-10-20 03:16:05 | 浅い霊感から神人合一まで

◎仙丹を完成直前に盗まれる

 

周史卿は浦城の人である。 宋の淳祐年間、一人の異人に逢って養生の秘訣を授けられ、それより油果山に上って略二十年計り修煉し、仙丹ようやく出来上らんとした時、ある晩、雨風雷鳴烈しく起こって、長年の間丹精を入れて作り上げた仙丹はその夜、何者かに盗まれてしまった。そこで、史卿は、「自分はこれから神魂を飛ばしてあまねく世界中を探し求めるから、自分の遺骸はしばらくの間大切に保護をして置いてくれ。七日目にはきっと帰って来るから。」と妻に告げて、そのまま身を横にすると、たちまち息が絶えてしまった。

然るに六日目になると、ここに一人の僧侶が訪ねて来て彼の妻に向い、一体道士という者は唯だ精神のみを重んじて、形骸は糞土の程にも思っていない、否むしろ却って自分の心を累はす邪魔物位に思っている。故に遺骸などは一日も早く焼き捨てた方がよいと説き勧めたので、妻はうっかりその言葉を信用し、史卿の遺骸を焼き葬ってしまった。

 

然るにその翌日になって果して史卿の神魂は帰って来たけれど、今は宿るべき形骸が無いので、二三日家の附近をうろうろしていたが、ある日空中に只声のみがして、痛く妻の不心得を叱るようであったが、その後いずことも無く立去ってしまった。

 

これは、出神のことなのだろうと思う。仙丹をほぼ完成し、これを誰かに盗まれたというのは、方便であって真相を妻に話しても理解できまいからそのように説明したのだろう。

やがて肉体を七日間仮死状態にして、後に肉体に帰還しようと思ったが、肉体は火葬されてしまって、周史卿一生の修行は、画竜点睛を欠くこととなった。

最後の最後で、そういうことが起こるのはよくよくの因縁があることだが、イエスも釈迦も最終段階の直前に魔に会っていることと同様か。

覚醒に耐えうる肉体づくりも重要なテーマであるから、史卿はこの窮地を予想できない自分を責めたのだろう。

 

表面的には、僧侶にも妻にも悪意はなかったと思われるが、史卿にとっては、それも含めて修行となった。

 

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張先生

2024-10-14 03:38:48 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ある草で鉄を煮ると銀に変わる

 

張先生は、貴池の人である。幼少の時に一人の異人に逢って仙術を授けられ、斉の国の山中に草廬を構えてそこに住んでいた。

 

彼は平生極めて無口な男で、終日ただ室の中に端座して神を煉ることに努めていたが、頭髪は黒く光沢があって漆のごとく、肌理は艶々していて玉を並べたようであった。

そうして宋の政治年間に屍解仙化してしまった。

 

めん陽というところに蕭行美という者がいて、90歳になったが孜々として道教修行をやめず継続していた。

ある日対融山に遊んで一人の老人に逢った。その時件の老人は自ら張先生と名乗り、傍らの路側に生えていた草を指して、「もしこの草を持ち帰って、これで鉄を煮るならば、化して銀にすることができる」と告げ、最後に「ただこの事を決して他人に悟られないように注意せよ。」と戒めた。

そこで彼は教えられたとおり、件の草を持ち帰って自分の庭に植え、その葉を刈り取って鉄を煮ると果たして、すべて銀に変化してしまった。

 

ところがこのことは、誰言うとなく広く世間に広まってしまった。しばらくすると、ある晩にわかに風雨が起こって、いつの間にか庭に植えておいた件の草をいずこへか押し流してしまった。

そこで彼は、再びかの対融山に登って件の草を捜し求めたけれど、どうしたわけかそこにはかほど多かった草が今は一本も見当たらず、空しく山を下りてきたそうだ。

 

張先生は、一日のほとんどを坐っていたのだろうから、すでに相当の境涯の人。生涯求道に熱心だった蕭行美は、晩年に大量の銀を与えられたのだろうが、神様のお気に召さない使い方をしたのだろうか、鉄を銀に変ずる草のことはそれとなく漏れたのだろう。

 

蕭行美は、悟境を試されたのだろうが、金銀への執着を残しており、すべてを捨てる準備はできていなかった。銀のために一生を冥想修行に打ち込んできたわけでもあるまいに。

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ダライ・ラマの託宣僧ネーチュン―3

2024-10-11 03:53:25 | 浅い霊感から神人合一まで

◎ネーチュンという未来予知システムの功罪と限界

 

『やがて彼は助手に助けられ、わたしの前に設けられた小さなスツールに坐り、トランス状態に入ってゆく。一回目の祈りが終り、二回目が始まるにつれ彼の恍惚は深まる。この時点で巨大な冠が乗せられる。冠の重さは約一四キロだが、かつては三六キロ以上もあったのだ。

 

さて、“クテン"の顔が変ってくる。荒々しい顔付きになり、やがて目が飛び出し頬が膨らみ、ぷーっ、ぷーっと荒い息を吐きはじめるとまったく違った形相を帯びてくる。息が短くなり、しゅっ、しゅっと激しい音を発しだす。と、一瞬彼の呼吸が止まる。この時点でもし本当に真実何かが起こらなければそのまま窒息してしまうにちがいないと思われるほど、冠が物凄くきつく締め直される。憑依は今まさに完成し、彼の肉体的限界が明らかに乗り超えられてゆくのがわかる。

 

彼は突如〝跳ね上がり、助手が差し出す儀式用佩刀をがっしりと握り、ゆっくりと威厳をもって、だがどこか威嚇的足取りで踊りはじめる。そしてわたしの前に来、全身伏拝し、巨大な冠が床に着くまで深々とお辞儀したかと思うや、一四キロを越す冠、三〇キロ以上の全装身具の重量もものかは、ぱっと飛び退る。あたかも体がゴムでできており、強力なぜんまいバネで動いているかのような柔らかで軽々とした動作をする。”クテン“の、あのひ弱な体内のどこにこんな爆発的神霊エネルギーが潜んでいるのだろうか。

 

それからネチュンとわたしの交感が始まり、ネチュンは儀礼的供物をわたしに捧げる。ついでわたしの質問があり、彼が答え、それが終るとスツールに戻り、閣僚たちの質問に耳を傾ける。それに答える前、彼は剣を頭上に振りかざし、ふたたび踊りはじめる。その姿は堂々とし、古の恐るべきティベット武将を彷彿させる。

ドルジェ・ダクデンが語り終えるやいなやクテンは最後の供物を捧げ、みるみる崩れ落ち硬直した生命なき姿を象り、憑依の去ったことを告げる。と同時に助手が大急ぎで駆け寄り、固く結びつけられている冠のひもを解き、儀式が続行しているかたわら、彼を蘇生させるため別室に運び去る。

 

そういうと驚くだろうが、お告げ師の答えが曖昧なことはめったにない。ラサ脱出の場合でもそうだが、彼は非常に明快であった。』

(ダライ・ラマ自伝/ダライ・ラマ/文芸春秋p262-263から引用)

 

この段は、トランスに入ると重い装束・冠をつけていても踊れるということに眼目があるわけではない。

 

天下国家について神託を受ける場合は、よりましの身魂が極めて清浄であることを要する。出口王仁三郎に言わせれば、ほとんど神様のような水晶身魂のような霊魂を有する人に大神(主神)が憑依してきて、天下国家の一大事を警告するものであるという。

※『大神の憑依さるる場合は天下国家の一大事を人界に警告さるる場合に、有徳の人、殆んど神様のやうな水晶の如うな霊魂を有する神人に依りて、神憑の手続を採らるるのである。』(大本史料集成2第1部明治・大正期の運動-第1章 出口王仁三郎関係文書 随筆『神霊界』大正8年8月1日号掲載から引用)

 

チベットへの中国侵攻とチベット密教の伽藍、信者、信仰の破壊は、ネーチュンに予告されていたが、結局避けることはできなかった。

平和、平和と言っているうちに亡国となったチベット。日本は他山の石とすべきだが、国家全体が弛緩しきっているといわれても仕方のないところがある。

日本は、まともなネガティブ予言は秘してあまり広めないところがある。なぜなら、当たるネガティブ予言が公表されれば、国民はやる気を失ったり、パニックになったり、一儲けしようと思ったり、外国に逃げようと思ったり、あまりためにならない結果が見えているからである。

 

また気がついてからは遅いということもある。

 

チベットはネーチュンという立派な未来予知システムを持っていたが、結局チベット高原を追われることになったという現実は重い。

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