アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れなかったこと

2024-09-16 06:25:33 | イエスと救世主たち

◎言葉で語れないニルヴァーナ、白髪の子

 

トマス福音書から、

『一七

 イエスが言った、「私はあなたがたに、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い 浮かびもしなかったことを与えるであろう』

(ナグ・ハマディ文書 2 福音書/荒井献/〔ほか〕訳/岩波書店P24から引用)

 

これは、言葉で語れないニルヴァーナのことであり、出口王仁三郎の次の歌と同じ。

 

耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず

 

耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳

(出口王仁三郎)

 

『一一

 イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上(の天)も過ぎ去るであろう。

そして、死人たちは生きないであろう。そして、生ける者たちは死なないであろう。あなたがたが死せるものを喰う日に、 あなたがたはそれを生かすであろう。

 

あなたがたが光にあるとき、あなたがたは何をするであろうか。あなたがたが一つであった日に、あなたがたは二つになっている。しかし、あなたがたが二つになっているときに、あなたがたは何をするであろうか」。』

(上掲書P21から引用)

 

『天は過ぎ去る』とは、現象の転変が止まらない様。

生も死も一緒くたになった第六身体アートマンにある日が『死せるものを喰う日』であり、死人たちは生きず、生ける者たちは死なない。

 

一つの自分個人が一つの宇宙全体となる時、合計二つとなっている。その時誰の意思で何をするのだろうか。天意のみあり、恣意はない。

 

『二二

イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「乳を与えられているこの小さな者たちは、王国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、王国に入るの でしょうか」。イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがた は、[王国に]入るであろう」。』

 (上掲書P26から引用)

 

『二つのものを一つにし』とは、一つの自分個人が死んで一つの宇宙全体となって再生すること。

 

『男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にする』は、両性具有、完全人であって、第五身体で成る。LGBTQではない。

個たる人間の最後の姿は、あらゆる正反対のものを包含して完全人であり、ミクロコスモスのようなものである。

 

『一つの目の代わりに目をつくり云々』は、人は誰でも転生の最初に全能の神に出会っているが、人生航路上で再度自分を死んで神に出会わなければ、真に神に出会うとは言えない。

だからチベット密教では、死の直後には神である母の光明に出会ってもこれを悟りとは見ず、後天的な冥想修行の努力において神に出会うことを子の光明として区別する。母の光明が最初の「目」であって、その代わりに作った「目」が子の光明。

 

老いたる子白髪の子としても表現される。

 

ここまでわかるイエス・キリストが磔にあうまで大悟しなかったのは、まことに不思議なところではある。

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死ぬものが死なないものを着る

2024-09-15 03:19:10 | イエスと救世主たち

◎終りのラッパの響きとともに、またたく間に、一瞬にして変えられる

 

神の国を継ぐとは、大悟覚醒のことであって、天国的なものを超えるということ。

朽ちるものとは、天国的な幸福。朽ちないものとは、天国も地獄も越えた幸福

終りのラッパの響きとは、家族、恋人、金、地位、名誉など自分と自分に属するあらゆる宇宙と別れを告げること。その時に起こるのが、人は朽ちない者によみがえらされるということ。

一瞬にしてそれが起こるということは、徐々に起きるイベントではない。個人が宇宙全体として逆転するのだ。

 

これは、有の方の悟りだが、なかなかこの説明は理解しにくかっただろうが、一方これを書いた使徒パウロはわかっていた人だった。

 

以下新約聖書コリント人への第一の手紙15:50~54。

『兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きとともに、またたく間に、一瞬にして変えられる。

 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。』

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薔薇十字団とフリーメーソンと米ロ

2024-09-14 03:40:57 | アヴァターラ神のまにまに

◎薔薇十字団の流れは、現代でも継承されている

 

17世紀に勃興した薔薇十字団は、17世紀末までには消え、入れ代わるようにフリーメーソンが登場した。

フリーメーソンは、欧州全域で最初からフリーメーソンとして活動していたわけでなく(発祥は1717年イギリスとされる)、ドイツでは、イルミナティ啓明結社が中心となり、ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』でフリーメーソンの理想郷について触れ、モーツァルトは、『フリーメーソンのための音楽』や『魔笛』を書いた。

18世紀末ドイツのイルミナティ壊滅後は、残党はフランスに流れ込み、ロベスピエールのジャコバンクラブ結成の基盤となった。ロベスピエールの父は熱心なフリーメーソンだった。

19世紀後半に薔薇十字団はパリ中心に復活し、イギリスでは、黄金の曙と改称し、詩人のイエイツ、作曲家のエリック・サティも参加。20世紀初頭のブラヴァツキー夫人、ルドルフ・シュタイナー、アレイスター・クロウリーなどの流れにつながっていく。

 

種村季弘によれば、現代におけるフリーメーソンの最大の遺産は、アメリカとロシアである。曰く、『野田茂著 世界的秘密結社の検討(昭和17年栄養の日本社刊)』では、アメリカの歴代大統領34名中20名がフリーメーソンで、ロシア革命委員会のメンバーの大半がユダヤ人即フリーメーソンだったことを検討している由。

(参照:黒い錬金術/種村季弘P257-267)

 

わたしの見るところ、第二次世界大戦は、フリーメーソンの世界構想の最初のテストだった。

 

戦後約80年、世界の戦争は何だか米国民主党政権の時に起き、いつのまにか日本は政治家も官僚もマスコミも親方日の丸ならぬ親方米国民主党みたいになっていて、かつまたアメリカの支援で作られた支那のご機嫌をうかがっているのも、大きなフリーメーソンの流れなのだろうか。

以前と違って、コロナ・パンデミック以降は、実質的に人間を生きづらくさせる政策や人口削減策の形で人類絶滅政策というのがあることが半ば公然と語られるのは恐ろしい変化といえる。

 

ダンテス・ダイジは、こうした巨大な悪だくみについて、時代が進むにつれてどんどん露見していくと予言している。それを聞いて、私はあまりそちら方面には力を注がず求道方面メインに書いているわけである。

日々冥想を。

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緑の獅子が太陽を食べる

2024-09-13 06:51:08 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニのエネルギー・コードが中心太陽に突入する

 

中世錬金術書の哲学者の薔薇園の図版に『緑の獅子が太陽を食べる』イラストがある。

緑の獅子とは、ヘルメスの金属であって水銀(錬金術書逃げるアタランタの図版37)。つまり緑の獅子とは、クンダリーニのエネルギーコードのことである。よって『緑の獅子が太陽を食べる』とは、クンダリーニのエネルギー・コードが中心太陽に突入する寓意である。

種村季弘によれば、獅子の口は、死の口であり、再生のためには死に飛び込まねばならない(黒い錬金術/種村季弘P236)。

緑の獅子の獅子の口から血がしたたり大地に落ちているのは、再生の意図。インドでは、クンダリーニ・ヨーガは再生を展望しないが、西洋錬金術では再生もありなのだろうか。

 

C.G.ユングは、人間が穴に落ち熊に襲われる夢を材料に、『熊は龍や獅子と同様、第一質料(プリマ・マテリア)の危険な側面を表す(偽トマス・アクィナス『錬金術について』(1520年より))』とし、熊は黒化(ニグレド)であり、そこから孔雀の尾の華やかに“戯れ”溶け合う色が生ずると説明している(心理学と錬金術Ⅰ P252)。

要するに錬金術書では、熊や龍や獅子が、女性とからみあう図版が時々出てくるのは、ダイヤモンドなる大悟直前の黒化のシーンであると言っている。逃げるアタランタの最終図50枚目に女と龍がからむ絵が置かれているが、女も龍も共に死ぬとしており、それは、世界全体の死であって、第六身体の死。そして逃げるアタランタでは、なにもかもなしの第七身体ニルヴァーナの図版はないということになる。

さらにタロットカードのstrength力。これは、女魔術師が獅子の口をこじ開けている。タロットでは、魔術師は1番の男魔術師11番力の女魔術師。無意識・死を扱うのは、男魔術師でも女魔術師でもよいが、本格的に繊細に人間的、個人的に扱えるのは女魔術師であることを示す。つまり女魔術師はクンダリーニ・ヨーガのシンボルであって、男魔術師は只管打坐のシンボルと見る。

11番力の女魔術師は、獅子に飲み込まれていない絵になっている。

『食らう者より食物出て

強き者より甘き者出でたり

―――士師記14:14』をサリー・ニコルズが引用(ユングとタロット―元型の旅 サリー ニコルズ 新思索社P326)しているが、これぞ個人と全体の逆転を示す。11番力の女魔術師は、逆転の始まりなのだ。

 

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ネット詐欺横行と強欲な人-3

2024-09-12 06:15:16 | 時代にFace it

◎実は人間は人に騙され続けている

 

出口王仁三郎は、だまされる被害者は心の中に悪と欲と利己心が充満していると指摘した。

もう一つの見方がある。『人間は人に騙され続けている』のが自分ということと、誰にも騙されない自分があるということが両方とも存在するというもの。

 

水平の悟りにあっては、何者にも騙されない自分と人に騙され続けている自分を両方もって生きている。その片側を指して『実は人間は人に騙され続けている』と云う。一方、何者にも騙されない自分とは、鎌倉円覚寺の開山無学祖元やスーフィの聖者ホセイン・マンスール・ハッラージのように、首をちょん切ると脅しても譲らないで、ああ切るなら切れ、これが真実だと言う場合。

 

無学祖元は、鎌倉円覚寺の開山。中国の温州(浙江省)の能仁寺に住していたとき、南宋攻略で、モンゴル兵が寺に侵入し白刃をかざして迫ったが、無学は泰然として,

〈乾坤孤笻(こきよう)を卓するに地無し

喜び得たり人空法亦空

珍重す大元三尺の剣

電光影裏に春風を斬る

 

大意:

(元軍の侵攻で)天地には一本の竹棹を立てる余地もない。

ただ喜ばしいことは、人は空であり、法も亦空である。

珍重すべきは、元兵が持つ三尺の剣である。

その剣を振るったとしても稲妻のように瞬間に、春風を斬るようなものである。(斬られる自分などない)〉

と偈を呈し,難を免れた。

 

モンゴル兵が結局大剣を振り下ろさなかったのは、モンゴル兵にこの偈を聞いてそれを感じる感性があったからである。

 一方ホセイン・マンスール・ハッラージの場合は、イエス・キリストと同様に大衆の要望で殺害されてしまった。ただし殺されようが殺されるまいが、それを問題にしない自分があるというのが眼目。

 

最近の世の中は、悪人と悪人同士の騙し合いであって、より進んだ知識を持ってどうそこを切り抜けるのかという発想が当たり前のように考えられている。これは、奥底に自分が善人であって、他人が悪人であるという考えが見えるが、高みから見れば、悪人と悪人同士のやりあいの姿ではないか?これを地獄の相という。

これをさらに複雑にしているのは、金を相手からもらったりもらおうとする借りやシステムや仕組や法規制があれば、相手が悪事を要求してきても拒みにくいというようなこと。ホワイト・フォックス、白狐、金運の神の法則。

これがいわば、地獄的様相を拡大、固定化している原因の一つでもある。

こういうのを見ても。出口王仁三郎がいう『最後は神と学との戦い』とは、神対人間の狡知と科学の戦いのことだと感じさせられる。

 

中国不動産バブルの処方箋は、ソフト・ランディングなら中国政府が公的資金を不動産業界や金融業界に注入して、責任者の中国共産党員を次々に処罰するということなのだろう。ところが、それができそうもないから、台湾有事と同時に『中国で大規模な飢餓が発生し、それをきっかけに中国が世界戦争に打って出る』(『「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』の予言)可能性は、無視できないように思う。

 

9月中旬なのに朝の最低気温が28度と異常な高温で、そういうことを感じさせられる季節の変わり目である。

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笹目秀和がシベリア抑留列車から一旦脱走したが、自ら列車に戻る

2024-09-11 03:11:59 | アヴァターラ神のまにまに

◎人間としてのどうしようもなさは、個人の天命と裏腹

 

笹目秀和は、シベリア抑留列車がハイラル駅(現在の中国内モンゴル自治区)の停車中にソ連兵の警備をかいくぐって一旦脱走に成功したが、自分一人だけが楽な思いをすることをあきらめて、なんと自分で列車に戻っていった。

 

さて1945年日本に帰還する列車だとソ連に騙されて、笹目秀和は興安駅からシベリア抑留列車に乗車。列車がハイラル駅に入ったことで、日本に向かっていないことに気がついた。そこでハイラル在の20年来の友人の中国人を頼って、ハイラル駅で脱走しようと笹目秀和はチャンスをうかがっていた。

列車はハイラル駅に停車した。

 

『やがて扉の外鍵を外し”オボルニー"と、警備兵が叫んで、次々に各貨車を同じようにして過ぎてゆく。あッ! これは警備兵の多くは寝ていて、一人が各貨車を回って鍵を外しているんだな、と察したのである。

 

チャンス!

一刻というよりも一瞬を争うかもしれない。あの警備兵が、五十車輛の鍵を外して帰って来るまでに、われは駅構内を脱出してしまわなければと、異常な決意と緊張を以て立ち上がった。そして、扉を自ら排して地上に降りたのは吾輩が第一号だった。見渡せばまごうかたなくハイラルだった。警備兵の影もほとんど見当たらず幸いなことには駅構内に幾人かの人員が動いていた。

 

好機!逸すべからず!と胸に問い腹に応えて、貨車の先頭の方に歩いてゆき、一旦車輛下をくぐって、左方のプラットホームに出て様子を見る。警備兵らしき者はいないのを見定め、素早くホームから柵外に出た。走ってはいけないと、われ自ら戒めながら、いかにも自然らしく悠然と大股に歩を進めて、二十年来往復をして、勝手知ったハイラル街の城内への路を歩いた。

 

だれ一人歩いている者もなく、時折ロシア人街の犬に吠えられたが、犬など眼中になく一路目的の玄君の家にたどり着いた。

かつての経験から、この間の時間は約十五分かかったと思う。

 

遂に天は脱出を許され、保護し賜わったことを感謝し、さて玄君が果たしておってくれるだろうか。拳を上げて戸を叩こうとしたとき、その一瞬である・・・・・"ハッハッハアー・・・"と、高らかな笑声が耳に入った。いや耳じゃない、腹に聞こえたのだ。今のは人間の笑いではなかった。聞き覚えのある声だった"神仙だ、疏勒神仙のお声だ"

さあて神仙!と問い返すとまた、"ハッハッハアー・・・・"と、一段と高らかな声が聞こえてきたのであった。

と同時に、私の腹には、万言を以て説明された真理が、一遍に解明されたのであった。

 

こうした場面を、文字を以て説明を求められても、一般の読者には何を語っているのか、さっぱりわからないであろう。しかし、幼児がおいたをしないまでも、何かを自己意志に任せて手をつけようとしたとき、母親が"コラッ"と鋭い声で叱ったとする。フト幼児は母親の目を見ただけで、母は何を言っているかがわかるように神仙の教えを受けた小生にとって"ハッハッハアー・・・"と、お笑いになっただけで、神仙は何をいわれたかが一瞬にして悟得できたのであった。それを言葉のうえに現わしてみれば、次のようなことであった。

 

"大道がこの世の中に行なわれるようになれば、天が下に存在するところのもの一切は、天上界にまします主宰神に帰し、一般人にとっては公有物となり、これはだれのものであり、あれは彼のものだというような私有観は無くなる。むろんここは東の国であり、かしこは西国人の居住地で、勝手気儘な出入はできませんよ、といったことはなくなり、大きくは全大宇宙が存在し、小さくは虫魚の別があるように思われるが、本来の性は、三千大千世界をしろしめす主神の性に帰してしまうもので同じなんだ。共産主義は、その天理を人為的に行なったもので幾多の矛盾が生じてくる。その実情と観察と体験がなければ、次代の経綸に携わることはできない。汝!新たな使命の第一歩だ、艱難を避けるべきではないぞ! " ハッハッハアー・・・・・"ということである。

 

ハッと気がついた私は、拳を下ろして急ぎハイラル駅への路を引返したのであった。このときほど、息せき切って速度を速めたことはないが、決して走りはしなかった。駅に近づいて行くと、輸送貨車は、水の補給に機関車がタンク塔の前に止まっていて、首の無い貨車は眠れるごとくに静かだった。』

神仙の寵児 8 煉獄篇/笹目秀和/国書刊行会P142-143から引用』

 

友人である玄君宅のドアを叩こうとする刹那、笹目秀和は、自らの天命を生きる覚悟を疏勒神仙のテレパシーにより気づかされた。

その逆転には一瞬の躊躇もなかった。

もっともこれは大悟でも小悟でもないが、どんな人でも、一生を左右する分かれ道を、不本意ながらあるいは内心納得して、見かけはネガティブな選択をせざるを得ないケースにぶちあたることがあると思う。人生では、本来の生き方を進めるためにそういうめぐり合わせや選択の機会はあるものだ。人間である以上、天命の一つの重要な分岐ポイントである。

笹目秀和の場合、それが求道と連動しており、北東アジアのカルマ、日本のカルマを消化するためにそれは公的にも必要なものだったのだろう。

老子は、個人の持つ天命を“名”とよび、大道を履みながらも“名”という個人的天命を生きるのが人間の姿であると見たが、その後11年におよぶシベリア抑留生活が待っていることも知らぬ笹目秀和は、恐れずその道に進むことができた。

 

この逸話で思い出されるのは、呂洞賓の一件である。

呂洞賓の10のテストのテスト6:

呂洞賓が外出して家に帰った時、家の財産はすべて盗賊に盗まれ、食糧さえも無くなっていた。だが、呂洞賓は怒りの色も見せず、いつものように耕作をはじめた。ある日、畑を耕していると、鍬の下から数十枚の金塊を掘り出した。しかし、呂洞賓は一枚も取らずに、そのまま金塊を埋めた。

 

ハイラルでの笹目秀和も、黄金を埋め戻した呂洞賓も、無私、無欲では説明できない。人間である以上、誰もがどうしようもなさを抱えている。どうしようもなさとは、天国的なものでは納得できないし、かといって地獄に落ちるのもいやだが、自分では手のつけようがない。だが、その人間としてのどうしようもなさは、個人の天命と裏腹であって、ニルヴァーナにつながっている。

 

その徹見がないとそういう行動はとれない。

ところが、すべての現代人は、その徹見を持ち、冥想により神仏を知って生きることを求められている。

 

『私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、

夢幻虚仮でないものは一つもなく、

あらゆる生々転変する夢幻虚仮が.

無数の人間ドラマを織りなす。』

(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

 

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ネット詐欺横行と強欲な人-2

2024-09-10 03:16:59 | 時代にFace it

◎人にだまされる者は、心の中に悪と欲と利己心が充満している

 

出口王仁三郎は、ネット詐欺にだまされる人は、心の中に悪と欲と利己心が充満していると、厳しく指弾している。最近ではほとんど誰もそのようなことは思いつきもしなくなった。

出口王仁三郎は、まず人間の想念及び情動は、発する声音に現はれ、皮膚に現はれるものであるとする。

よって、心に悪なく欲なく、善の徳に充たされた人は、相手の一言一語で腹のドン底まで見抜けるので、だまされることはない。

一方、心に悪と欲と利己心が充満している人は、情動は鈍り智性は衰え、意思は狂い、容易に相手の心中を見透かす事はできないので、だまされるのだと説明している。

 

これは、(詐欺で)だまされた被害者側の問題点を挙げているので、ほとんどの日本人から見れば、非常識で極端な説に見えるかもしれない。

だが神の側から見た人間の善悪の判断基準は、常識的社会人の考えるそれよりはるかに厳しいのだ。

引用文末には、欲深い利己的な人間はシンクロの法則によって貪欲な悪人にだまされ、取返しのつかない失敗を招くものである、とダメ押しをしている。

 

※神格に充されたる天人即ち本守護神:悟っている人間のこと。

『大本神諭の各言句の中に、人をして内的証覚に進むべき事項を含蓄せしめある所以は、神格に充されたる天人即ち本守護神の言語は情動と相一致し、一々其言語は概念と一致するものである。又天人の語字は其(その)想念中に包含する事物の直接如何によつて無窮に転変するものである。

尚又内辺の天人は言者の音声及び云ふ所の僅少なる語字によつて其人の一生を洞察し知悉し得るのである。何となれば、天人は其語字の中に含蓄する諸概念に依つて、音声の各種各様に変化する状態を察し、これに依つて、其人の主とする所の愛と信及び智慧証覚の如何なるものなるかを知るものである。

現界の人間でも少しく智慧あり証覚あり公平無私なる者に至つては、其籍を生きながら天人の団体においてゐるものであるから、対者の一言一句の中に包める意義によつて其人の一生の運命を識別し得るものである。

人間の想念及び情動は其声音に現はれ、皮膚に現はれ、如何にしても霊的智者賢者の前には之を秘する事が出来ないものである。此一言は愛を含むとか、此一句は親なりとか、彼の一句は勇とか、此一句は智とか、凡て一言一句の際にも顕現出没して、如何なる聖者といへども賢人といへども、心中の思ひを智慧証覚者の前には隠す事は出来ない、之即ち神権の如何にしても掩ふべからざる所以である。

心に悪なく欲なく、善の徳に充されたものは従つて智性も発達し情動の変化も非常に活溌なるが故に、対者の腹のドン底まで透見し知悉し得るは容易なれども、若し心に欲あり、悪を包み利己心ある時は其情動は鈍り智性は衰へ、意思は狂ひ、容易に対者の心中を透見する事は出来ない。

故に人に欺かるるものは皆其心に悪と欲と自利心が充満してゐる故である。決して愛善の徳に充され信真の光に充ちた聖人君子は、自然界の体欲に迷ひ悪人に欺かるるものでない。

要するに欲深き吾よしの人間が相応の理によつて貪欲な悪人に欺瞞され、取返しのならぬ失敗を招くものである。』

(霊界物語 第48巻第9章 罪人橋から引用)

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ネット詐欺横行と強欲な人-1

2024-09-09 03:30:38 | 時代にFace it

◎出口王仁三郎の罪人橋

 

最近ネット詐欺など、人に騙される話が多い。ところがその被害者は一般に善人であるという前提に立っているが、被害者が詐欺にあったことで、逆恨みし、神も仏もあったものかと神仏を離れ、地獄への道を進む者がいると、出口王仁三郎は注意している。

そうした被害者でもそんな悪の道に入ると、その地獄から娑婆に戻るには、大きな川にかかっている細い長い橋を無事に渡らねばならない。この橋を罪人橋という。

出口王仁三郎は、罪人橋を渡らねばならぬ人は、そもそも自分の強欲と不注意によって損害をこうむったのだが、それを棚に上げて、神仏を逆恨みすることがあるという。

 

最近は、何も悪いことをしていなくても、システムや法律、手続の不備をついて、詐欺を行う人間が出てきている。そうした犯罪に遇う人間には何の罪もないのではないかと思う人も多いと思うが、出口王仁三郎は、そこは厳しく、悪を行わず善だけを行う人間にはそういうことはないと主張する。

出口王仁三郎のその見方は牧歌的なのか、それともあくまで人間のカルマの真相を突いているのだろうか。

現代は、強欲は違法でも道義的責任もないとされるのだろうが、だから地獄がほとんど現界に移ってきているのだ。不注意はあり得るが、できる限りは人事を尽くす。

 

『自分の迂愚不明から悪人に欺かれ自ら窮地に陥り、遂には其人間を仇敵の如く怨み且(かつ)罵り、遂には自分の悪欲心より出でたる事を平然として口角に束ねながら、其竹篦(そのしっぺい)は遂に神の御上にまで及ぼすものである。

彼等は茲に至つて天道は是か非か、神は果して此世にあるものか、果して神が此世に儼存するものならば、何故斯の如き悪人に苦しめられ居るのも憐れみ給はず傍観的態度を執らるるや、吾々は斯の如き悪事災難を免れ家運長久を朝夕祈り立派にお給仕をして信仰を励んで居つたのに何の事だ。

神には目がないのか、耳がないのか等と云つて、恨言を百万陀羅並べ立て、遂には信仰より離れ自暴自棄に陥り、益々深く地獄の底に陥落するものである。』

(霊界物語 第48巻第9章 罪人橋から引用)

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笹目秀和の事上磨錬

2024-09-08 06:02:31 | メインストリーム予言と先行モデル

◎日本人ヘイトと日本人逆差別は亡国への道

 

笹目秀和が、仕事に打ち込むことで開ける、すなわち事上磨錬について語っている。

笹目秀和は、終戦時民間人でありながら、兵士でもないのに不当にもソ連に11年も抑留され、シベリアで炭鉱掘りや薪割りをやらされ。最後まで共産主義思想へ転向しなかったので、11年目の昭和32年まで帰国ができなかったらしい。

 

笹目秀和が、サーヤさまの山本護衛官に語る。

『どんな仕事であっても、それになりきり、打ち込むことだね。そうすると宇宙にみなぎっている霊気、先天の炁(き)がどっと流入してくる。ヨガでは、先天の炁(気)のことをプラーナと呼んでいるのではないかな。

山本君の護衛の仕事は楽ではないけれども、己を捨て、こだわりを捨てて無心に打ち込むことだ。そこから自然と楽しみが生まれてくる。わしが、炭鉱掘りや薪割りを楽しんだようにね。

サーヤさまはまだ学生だから、日々の修行と心得て無心にひたすらに学業に打ち込むことだね』

(日本のカルマを背負った男 「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド P244-245から引用)

 

ある仕事に無心に打ち込むとプラーナが流入してくる。神に入るというやつだ。プラーナは、半物質なのでそれが入って来ると活性化、元気になるということだが、人によっては、それ以上のものを感得する場合がある。

例えば、妙好人という念仏の達人の中には、元気になって、すべてが南無阿弥陀仏である世界をも通過して、それ以上の境地に進む者がいることである。

 

笹目秀和は、二人の神仙に命じられ、日本のカルマを享け北東アジアに2か国の建国を命じされたが、白頭山のリョ神仙の予言どおり建国に失敗し、それが1945年の日本の敗戦につながって行く。

 

とかく笹目秀和については、太陽や月の精気を食むなどの超能力が使えることで色眼鏡で見られがちだが、笹目秀和だけが、日本のカルマを背負った特別な人間ではなく、個々の日本人一人一人が日本のカルマを背負っているのである。

 

最近日本の大学院では、院生の9割が中国人だという。日本の大学の教授陣も十年もすればほとんど中国人になるのだろう。

40年前経済学のゼミの半数以上がマルクス主義経済学だと聞いて驚いたものだが、それは敗戦時に大学から放逐されなかったのが左翼系の教員だった結果なのだろうと知ったのはずっと後年のことだった。

 

中国人院生(留学生)は月に15万円だかの生活費が日本国から支給され、日本人院生にはそれはないと来れば自ずと院生の9割が中国人になろうと言うもの。日本人ヘイト、日本人逆差別も極まれり。

日本は、このように思想学問の世界でも中国の侵略を許しており、将来日本政府の専門家会議のメンバーもほとんどが中国国防動員法に支配された反日思想の中国人教授になるという悪夢も近いのだろう。

 

こういう日本のふがいない状況を出口王仁三郎は、第二次大戦時の日本に比してこんにゃくと評している。神一厘の仕組みがあるからなどと安心していては、反日国家の華流、韓流にどんどんやられ、チベットのように気がついたら亡国になっていましたなどということになりかねない。

 

日本人ヘイトと日本人逆差別は、亡国への道。

 

チベットも亡国の何十年前から、高僧は、チベットが中国の植民地になることを幻視していたことを、チベットものを読むと時々見つけることができる。

 

台湾有事に際し、中国はいわば自動的に敵国に変わるので、相応の体制が必要のはずだが、そういう気配もないのが、将来の日本人の苦難を増幅させる。

政治家、政府、マスコミの責任は、大きい。NHKラジオ国際放送で電波ジャックした中国人の氏名がいまだに公開されないのも奇怪である。そこまで口を出される日本国政府のふがいなさ。

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笹目秀和のクンダリーニ

2024-09-07 03:19:01 | 浅い霊感から神人合一まで

◎頭頂から尾骶骨までクンダリーニがつきささった

 

笹目秀和は、長白山の天池のそばで年齢200歳のリョ神仙に出会うのだが、その直前に天池のほとりでクンダリーニ現象があったことを記録している。

 

『私は極天(北極星の位置)に向かって九拝すると、なにか、ズシーンと頭頂から尾骶骨まで、金色の延べ棒がつきささった。それから発散する光波が無限の細胞に作用したかと思うと、やがてそれらの光波が丹田に集結して、爆発したような音が感じられたのでわれに返った。まさに瞬間的神秘な事象であった。

さらに“無事天池に浴する機会を賜りましたことを感謝する”と哮(さけ)びを発して、無形の存在である天に向かって礼拝したのだった。』

(神仙の寵児2 神秘篇(上)P108から引用)

 

この段階で、まだ笹目秀和は悟ってはいない。神人合一に至るクンダリーニ覚醒プロセスは、上方に上がるが、本件の金の延べ棒は下降である。宇宙のエネルギーが、ムラダーラに一旦入り、後丹田に集結したのだろう。

 

笹目秀和は、以後30年、シベリア抑留など筆舌に尽くせぬ辛酸をなめるが、それに堪え得る宇宙のエネルギーを与えてもらったのだろうか。サハスラーラではなく、下方三チャクラの一つである丹田スワジスターナでの爆発ということで、笹目氏本人のニルヴァーナへの道程ということではなく、日本のカルマを実生活で消化していくための実際的エネルギーを賦与してもらったのだから、丹田での爆発だったのだろう。

 

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-5

2024-09-06 03:21:58 | 浅い霊感から神人合一まで

◎高貴なチンキという賢者の石

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

 

『やがて夜が明ける。そのとき宝物の山を目にするであろう。中でも最高にして完全であるのは高貴なチンキである。このチンキによって世界は、(神の役に立ち、このような贈物に適わしいかぎり)金色に輝き出し、最も純粋な金へと変容するのである。」

 「『指導霊』が教える通り、このチンキを使えば、たとえ貴兄が老いていても、たちまち若返り、体のどこにも病気を認めることがなくなるだろう。またこのチンキにより想像を絶する素晴らしい真珠の輝きを目のあたりにするであろう。しかし、自分が身につけた能力を自慢して何もかも自分の手柄だといい気になってはいけない。『指導霊』が伝えるもので満足すべきである。

 この神の贈物に対し神を絶えず讃えよ。そして世俗的なうぬぼれのために利用するのではなく、逆に俗事には関わらぬ仕事に使用するよう特に気を使わなければならない。持っていないときと同じようなつもりで正しく使い十分楽しむがよい。

 束の間のはかない人生を生き、僅かでも罪を犯さぬよう用心せよ。さもなければ『指導霊』は貴兄を見捨て、貴兄の幸福を剥奪するであろう。このことはくれぐれも承知しておくこと、これはまったく真実である。チンキを乱用し、人前にあって、模範的に、純粋に、敬虔に生きなければ誰でも、この恩恵を失い、後で取り戻す望みはほとんどなくなるのだ。」』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院P69-70から引用)

 

このチンキ(液剤)により世界は黄金に変わるので、チンキとは、賢者の石のこと。チンキを得てそれを振りかけるから世界は黄金になるように考えると、チンキと世界は別物のように思われるかもしれないが、チンキと世界は最初から同一なのではないか。

 だからこのチンキを得ても、模範的に、純粋に、敬虔に生きなければ、黄金を失うという戒めがある。さらにわずかでも罪を犯せば、その特権ははく奪されるという。チンキをゲットできてもその幸運に浮つくことなく、善いことだけをして悪いことをしないという行動原則は変えてはならないのだ。

 すぐに黄金が得られるとか、楽して黄金が手に入るとか、そういうことは一切言っていないところが要注意。

 チンキを用いるに神を讃えよ。そして、金儲けや相場やギャンブルや恋愛など自分勝手な欲望を満たすために用いてはならない。

要するにチンキを手に入れた人間とその世界は不可分に連動しているのであって、チンキなる賢者の石は万能だが、人間が自分勝手に使えるような代物ではないのだ。

 

真珠の輝きとは、中心太陽か。

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日本のカルマ

2024-09-05 03:11:34 | メインストリーム予言と先行モデル

◎天地公事

 

『日本のカルマを背負った男 「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』に天地公事のことが書いてある。天地公事とは、世界の運命は大筋は神様が決めているが、人間の行動状況を見て、節目節目で大きな転換点すなわち天変地異や戦争などが神様の決定で起こることをいう。

 

天地公事という言葉自体は、出口王仁三郎と同時代の朝鮮の神人姜甑山の言行録には頻出していた。

 

出口王仁三郎は、信者を交えた座談会では、話題がしばしば政治や戦争の行方に及んだ場合、決まって『人間が様々に議論しても詮無い、神様がお定めになることである。』というようなことを言って、あまり積極的に語らなかったものだ。天地公事は、半ばは人間の行為の結果であるが、将来の方針を決めるのは神様なのだろう。

現実の出来事は、先に霊界において決定していて、後に現界に現実化するもの。

 

日本の将来のメイン・シナリオは、古事記に出ているとおり。今後は仲哀天皇から山幸彦のあたりが現実化してくるのだろうか。

笹目秀和は、日本のカルマを背負った男だが、いわば天皇陛下も総理大臣も日の丸を背負ったオリンピック選手も、そして一人一人の日本人も日本のカルマを背負っている。

『日本のカルマを背負った男 「笹目秀和」と二人の神仙/宮崎貞行/ヒカルランド』を改めて読み返してみたが、前半は笹目秀和の大著神仙の寵児のダイジェストではなく、これまで書かれていなかったことが半分くらい含まれている。宮崎貞行氏が本人から聞き書きしたのだろうか。その点で貴重である。

印象に残ったのは、『共産社会の行き着く先は、貧困の平等化とモラルの欠如である』という言葉。モラルとは、夫婦の貞操、親孝行、勤労のモラル(一生懸命に働かない)ということ。

さらに、仏露の人民裁判や中国の文化大革命でも見られたように、親子、肉親、親友であってもわが身可愛さで吊し上げ、人間相互の信頼や愛を破壊し孤立孤独に追い込むことで、共産主義洗脳を思想だけではなく情動からも強化しているということ。

 

1990年代にソ連崩壊があって、共産主義国の拡大はほぼ見られなくなったが、かえってリベラリズムとITの発展により貧困の平等化とモラルの欠如は世界的に拡大してしまった。並行して、人間相互の信頼や愛や家庭を破壊し孤立孤独に追い込む工作は、不法移民による民族破壊、宗教破壊、夫婦別姓化もあいまって、更に広汎に行われているのが現状である。

 

ますますスマホから手を放して冥想しなければならない時代である。

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霊界の魔法の山に秘蔵されている宝捜し-4

2024-09-04 06:11:08 | 浅い霊感から神人合一まで

◎大いなる静けさに、明けの明星がのぼるのを見る

 

エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。

 

『「地震が去ると次いで火事が起こる。地上のがらくたをすべて燃やし尽した後、はじめて宝物が姿を現わす。

しかしまだ貴兄には見えないだろう。

これら一連の現象の後、明け方近く、大いなる静けさがやってくる。貴兄は明けの明星がのぼるのを見よう。』

(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院P68-69から引用)

 

『地震の次に火事が起こり、地上のがらくたをすべて燃やし尽くす』というのは、あらゆるこの世的なものに別れを告げるということ。

風、土、火というエレメントを問題にするならば、次は水だろうと予想する。

 

そこで初めて宝物が姿を現す。

『明け方近く、大いなる静けさがやってくる。貴兄は明けの明星がのぼるのを見よう。』

この光景は釈迦も、空海も、クリシュナムルティもそうだった。中心太陽に突入するのではなく、明けの明星を望見するのだ。

 

これは、書きぶりは見神だが、単なる見神とは評価できず、個から全なる第六身体へと進んだと見るのだろう。

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笹目秀和氏のご神業

2024-09-03 04:12:07 | 古神道の手振りneo

◎業障を負う

(2011-12-14)

 

笹目秀和氏は大本のご神体を崑崙山に返還してきた人物。彼のモンゴル神仙邂逅記を読んだ頃は、彼の山あり谷あり苦あり楽ありの人生記は、通常人の10倍20倍の密度で展開しているので、とてもではないが、こんな人生では私ならやっていけないと思ったものだが、これぞ「ご神業」というものであったと、今しみじみと思う。

深山幽谷を訪問しておまじないみたいなことをやったり、集団でパワースポットとされる神社仏閣を参拝するだけが、ご神業ではないのだと思う。

召命、神の側に使命を課されるというのがあって初めてご神業であり、自発的に参拝して回るようなのはご神業と言えるのかどうか。

 

笹目秀和氏が、崑崙山中の疏勒神仙を訪問したとき、疏勒神仙は洞窟に居た。

『疏勅神仙は、その奥のほうに胡座しておられた。

小児かと思われるほど小柄で、顔も童児のような血色のよさである。頭頂には頭の毛がない(いわゆる禿)のだが、周辺には漆黒の髪がはえていて、それを頭上に束ねて結んでいるので、禿はほとんど目立たない。顔立ちも子どものようなので、限りなく童児に近いという感じなのだが、しかしもちろん全然違うのだ。

「拝顔の栄を得ましたことを、最上の喜びに存じます」

わたしは日本語で挨拶した。

「今日ここにこられましたのも、仙師の庇護によるものと、深く感謝いたしております。どうか新たな使命をお授けくださいますよう、お願い申し上げます」

「おお、ごくろうだったな」

仙師のお言葉がわたしの頭の中に入ってきた。

「汝が十二年の活動は、つぶさに知っておる。魔の障害が多かったが、それは汝が世の業障を背負ったためで、世を救うための慈悲行と心得るべきだ」

業障というのは、大自然の法則に違反した結果として、世の中が負担しなければならない代償である。それは地震や津波などの自然災害のかたちで出ることが多いのだが、そうならないでわたしが背負った。そのために、あれだけの苦労をしたというのだ。

その苦労を少しでも軽減するために授けられたのが、“月の精気を食む方法”なのだが、その実践が足りなかったと注意された。

「いまここにきたということは、さらに“太陽の精気を食む方法。”を授けられるということだ。では、これの実践によって、魔障やもろもろの苦労から解放されるかというとそうではない。反対にいっそうたいへんになる。どうだ、耐えられるか」

そう言って、仙師は大声で笑った。

 

「仙師がついておられるからには、断じて耐える決意です」

「そうか。では明日、崑崙山の山頂、モヌマーハルの聖地で、その法を伝授することにしよう」』

(モンゴル神仙邂逅記/笹目秀和/徳間書店p252-253から引用)

 

笹目秀和氏は故人となったが、阪神大震災、関東東北大震災の続発など、日本人がその因縁を自ら背負って清算する時期がきているのだろう。それを負う覚悟、そして正しい生き方を続けるための冥想習慣は、日本人のカルチャーとして必要だと、崑崙山脈を縫うように走る鉄道の映像を見つつ思う。

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願望実現時にちらりと兆す虚無感、倦怠感こそクリティカル

2024-09-03 03:10:56 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人が冥想に真剣に取り組むモチベーションあるいは分水嶺

 

人は欲望が充足・実現すれば満足するが、同時にむなしさ、虚無を感じるものだ。

一般に人はあらゆるレベルで多数の欲望を抱えており、手あたり次第あるいは順序にそれを実現しようとするのだが、次々に人はそれをクリアしては喜びを感じ、同時に願望実現したことでの倦怠感をも都度感じるものだ。

 人が冥想に真剣に取り組むモチベーションあるいは分水嶺は、実はその虚無感、倦怠感にある。

 

冥想には、二つの方向性しかない。

一つは各人の最もふさわしい欲望を生きるということ。もう一つは、「何も無い」ということを逃げずに生きるということ。

 個人の最も相応しい欲望を生きるとは、欲望実現のことだが、その際の願望実現の虚無にまじまじと向き合って初めて、「何も無い」ということを逃げずに生きるということに本気で進んで行ける。

 人は、その欲望の大小を問わず、実現したとたんに、喜びと満足感と同時に虚無を感じることを何千回、何万回繰り返してきたこともほのかに感じているのではないか。

 ところが、現代は、願望達成時の喜びと満足感と同時に虚無が出た瞬間、別の欲望に引き込む罠がとても発達してしまった。

 具体的には、買い物依存、ブランド依存、ネットポルノ依存、モバゲー依存、ギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存など。

 これらは依存症につながるものだが、そういう願望でなく健全な願望であっても、人生経験を積んで行けば、願望実現への努力が始まる段階で願望実現後の虚無やら倦怠感まで予感してしまうものではなかろうか。そういうのが人間の成熟であって、それを積むと人間の卒業、輪廻転生の終わりが近いということだと思う。

 

願望実現時にちらりと兆す虚無感、倦怠感は、さっとやり過ごされてしまうのかもしれないが、実はそれがメリットのない冥想、効果を求めない冥想の入口である。

 

おもしろうて やがて悲しき鵜舟哉

(芭蕉)

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