アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

世界の秘密を見たがる者は、見たくもないものを見る

2024-12-02 05:09:26 | 覚醒のアーキテクチャー

◎世界の秘密へのアクセスに堪えられる自分かどうか

 

ダンテス・ダイジは、今後の人類は見たくないものを見ると予言している。最初これを聞いた時は、全面核戦争、ポール・シフト、大地震大洪水などの天変地異をイメージして、いやな気分になったものだ。最近はそれについては、釈迦もイエス・キリストも大悟直前に悪魔に襲われたのだが、人類全体が至福千年に入るには人類全体が大悟せねばならないが、その直前に人類も釈迦やイエスのような見たくもない体験を経ねばならないことを示唆していると考えるようになった。

 

世界の秘密や都市伝説もののyoutubeを見ると、焦点はひたすら世界の秘密を知りたいであって、いやなものを見ることへの恐怖や不安はほとんど感じられない。感性がフラットであるというのはわかるが、私の感じでは、善悪の切り分けと虐げられたものへの慈悲・愛に、やや関心が薄いのではないかと思われる。スピーカーの年齢は老若男女取り混ぜているので、全世代的にそうだが、若い人ほどその傾向が強いのかもしれない。

 

求道の道は、知の道、情の道とあって、知の道から入れば、確かにそうなのかもしれない。一方、幼少時から片親や両親早世で、無常を強く意識せざるを得ない環境に生まれてきた人に覚者が多いのは歴史的傾向だが、これが情の道。愛に飢える感じは、人を激しい情動に陥らせ、知の道よりも容易に窮極に導く傾向があるのだろう。

 

そうした例としては、禅で入った一休が、晩年は、念仏門に帰依してしまった消息に見える。

 

また善悪も知の限界も言わない只管打坐では、なぜか愛・慈悲に目覚める段階がある(“ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ”の只管打坐篇では、慈悲に目ざめる段階と身心脱落と二段になっている。)。

 

OSHOバグワン流に言えば、究極の悟りを得る中で、世界の秘密を見る人は多いが、それを外に語る人は極めてまれである。「世界の秘密を見た者はそれを語りたがる」の法則があるが簡単ではないのだ。

 

空海、釈迦、マリア・サビナなど世界の秘密を知ったものはいる。今度は、皆がそれを知る時代であって、その先ぶれとして、youtubeなどで競って、世界の秘密に近い情報を出しているのかも知れない。

 

結局最後は、自分が体験とは言えない体験をせねばアカシックレコードの読み取りはできないのだ。それはアカシックレコードにアクセスすることに堪えられる自分に成長しなければ起こらないのだろう。こうしたイベントは起こるが、しばしば当人は何が起こったかわからないということもある。

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OSHOバグワンの見る小悟

2024-10-21 06:50:29 | 覚醒のアーキテクチャー

◎見神、見仏、見性、一瞥(ちら見)が小悟

 

白隠は、何度も小悟した。その都度、渾身で感謝、感激と思い上がりを見せるものだから、かえって40代の大悟の印象が淡いものと思われるほどである。

 

さて、OSHOバグワンが、小悟の説明をしているが、要するに見神、見仏、見性、一瞥(ちら見)が小悟なのだ。曰く、小悟は、その敏感でかそけき花のような性質のために、雑にあるいは乱暴に取り扱うと元に戻ってだめになる。小悟は、得るのは大変だが、壊したり、だめにしたり、捨てるのは簡単である。曰く、小悟は妊娠のようなものだから、注意深く扱わねばならない、と。

 

これは、至道無難が、

「悟ったと同時にそれを守らせよ。そうすれば悪念が出ることはない。長年この心を養えば道人となる。

悟ったと同時に万事はこれだと教えると、大方悪人になるものである。悟りばかりを守る人は、大方坐禅にとりついて律宗になるものだ。」という所以である。

 

妊娠を小悟とすれば、出産は大悟。大悟をサマーディと呼ぶが、サマーディは、個人が宇宙全体に逆転する。よって、サマーディにはそれを体験する人間はいない(すでに人間はいない)。OSHOバグワンは、サマーディはその人を通じて全存在が光明を得ることと説明しているが、釈迦はこれを、私が光明を得た日に全存在が光明を得たと説明している。

OSHOバグワンは、サマーディとは、プロティノスの「休息」だとも言っている。万事休す。

OSHOバグワンは、本によっては、一瞥、小悟の話ばかりして、本筋がわからなくなる場合がある。冗長すぎる時があるのだ。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP244-250)

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主客逆転:ムラダーラとサハスラーラ

2024-10-19 03:06:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎個人の歓喜から世界のすべての至福へ

 

性的オルガズムとサマーディ(霊的な歓喜、大悟覚醒)では、会陰のムラダーラ・チャクラと頭頂のサハスラーラ・チャクラが同じ波長で振動し、歓喜が得られる。

ムラダーラ・チャクラとサハスラーラ・チャクラの間に生のすべての戯れ、すべてのスペクトルがある。

ところがこの歓喜の波動は、性的オルガズムにおいては、ムラダーラが主であり、サハスラーラはこだまであって従。

ところが、サマーディにおいては主客逆転し、サハスラーラが主であり、ムラダーラはこだまであって従。

 

すなわち性的オルガズムは、大悟覚醒以前のことであり、サマーディは大悟覚醒以後のこと。つまり大悟覚醒以前はムラダーラ・チャクラが世の帝王なのだが、大悟覚醒以後はサハスラーラ・チャクラが主客逆転して世の帝王となる。これは、世の終わり以前は神知らぬことが当たり前だったが、至福千年では、神知ることが当たり前になり、あらゆる価値観が逆転することを意味する。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP180-181)

同様のことは、次のように古来から世界各所で言われている。

  1. ユダヤ・キリスト教では、人に打ち捨てられた石が北東に置かれるのだが、それが長い年月の末に、滅びることのない神の神殿の基礎となるという伝承がある。
  2. 長年月北東に監禁されていたもともとこの世の主宰神であった艮の金神が、現代に至って再び地球の主宰神である国之常立神として復活する。(出口王仁三郎)
  3. イエスは磔刑直前に弟子の足を手づから洗って見せ、最も低きに置かれていた平民が神となる手本を示して見せた。

 

性的オルガズムは、個人の歓喜という体験に過ぎないが、大悟覚醒を経て人は神になり、サマーディという体験とはいえない体験、至福に逆転するのだ。

 

サマーディ:サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定には人が出たり入ったりできるが、サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。

サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

 

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隙間理論の断片

2024-10-17 05:32:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎見守ることを通して奇跡が起こる

 

意識の流れと言えば、小説家のジェイムズ・ジョイスやマルセル・プルースト。若い時に読んで全然面白いとは思わなかった。

意識の流れ、心理の流れといえば、精神方面のことであって、物質方面、現実のできごと方面のこととは、まず思わないのだろうが、実はそこにのっぴきならない、ままならない現実がある。

 

ニルヴァーナ、悟りは、物質でもなく、心理でもなく、精神でもなく、感情でもないことを原始仏教の9段階説は示しているのだが、OSHOバグワンは、ここに現実とは、ニルヴァーナがはさみ込まれていることを示す。

その発想は、ヨーガ・スートラを描いたパタンジャリもそうだっただろうとOSHOバグワンは見ている。時間とは、〈現象〉〈現象〉〈現象〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉と進行しているのが、隙間理論であって、古代インドのパタンジャリの見方。この〈現象〉には、心理も意識も感情も現実の出来事も含まれる。〈隙間〉の存在に気づけば、〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉の全体が意識の流れであって、その時ウパニシャッド以来の求道者にとってほとんど最後のテーマである『睡眠時の夢のない時間帯こそ神』に至る。

 

以下は、OSHOバグワンの隙間理論に関する断片。

『至福 BLISS

 

至福はかぐわしい香りだ。 それをじかに手に入れることはできない。あなたはバラの繁みを育てなければならない。バラの花が咲いたら、香りは自然に放たれる。至福は瞑想のかぐわしい香りだ。瞑想とは、もっともっと静かになることだ。

 

喧しい人は至福に満ちることができない―――彼には沈黙の音楽が必要だ。だが私たちの心はあまりにも騒がしい。私たちは頭のなかにまるごと世間を、あらゆるたぐいのガラクタを持ち運んでいる。しかも私たちはひとりではなく、内側では群衆、多くの人々であり、彼らは絶え間なく口論し、闘い、互いを支配しようとしている。心の断片のひとつひとつが優位に立とうとしている。絶え間のない内なる政治がある。この絶え間のない内なる戦争のなかに至福を見つけることはできない。

 

至福は、この絶えざる戦争がやんで初めて生まれてくることができる。それを終わらせることはできる。それを超えることはそんなに難しいことではない。必要なのは〈気づき〉だけだ。私たちはこの打ち続く現象全体に気づいていない。それは底流のように内側で続いている。私たちはほとんどそれを意識していない。昼も夜もつねにそこにあるが、私たちはそれに意識的ではない。

 

それに意識をもたらしなさい。ゆっくりと、喧騒の微妙な層を見守っていると、だんだんとあなたは頭のなかに精神病院と見まがうばかりのおしゃべりがあることに気がつくようになる。私たちはこの悪夢のなかに暮らしている!

 

見守ることを通して奇跡が起こる。見守ることができたものはすべて消えてゆく。それが蒸気のように消えてなくなる瞬間、あなたのもとには深い静寂が残る。最初のうちは間合い、思考がやんだときの小さな透き間、実在を見ることができる小さな窓があるだけだ。だが、この透き間は少しずつ大きくなってゆき、もっと頻繁に来るようになり、そしてもっと長くそこにとどまるようになる。

 

この透き間は古代の神秘家たちによって割りだされてきた―――私は彼らにまったく同意する―――四八分間、まったき沈黙のなかにとどまることができるなら、その人は光明を得て、絶対的な至福に満たされるようになる。そうなればそれは永久に続き、あと戻りすることはない。あなたは彼方へとおもむき、時間とその移ろいゆく砂原を超えた場所に到達している。永遠なるものの岩盤に到 達している。人はここで初めて自らの不滅性を了解する。

これがサニヤスの究極の目標だ。

 

THE GOLDEN WIND』

(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP275-276から引用)

 

現象が、蒸気のように消えるのは、色即是空。

この隙間は最初小さいとは、クリシュナムルティも釈迦も空海もこの隙間であるニルヴァーナを明星と見ていたが、やがて大きくなっていったことを指すのだろう。

 

この透き間がだんだん大きくなって、毎日来ていたのが、クリシュナムルティのotherness

 

48分間、隙間・ニルヴァーナに居られれば不退転となるとは、計測していたのだろう。

 

悟りに必要なのは、隙間への〈気づき〉だけだ。

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緑の獅子が太陽を食べる

2024-09-13 06:51:08 | 覚醒のアーキテクチャー

◎クンダリーニのエネルギー・コードが中心太陽に突入する

 

中世錬金術書の哲学者の薔薇園の図版に『緑の獅子が太陽を食べる』イラストがある。

緑の獅子とは、ヘルメスの金属であって水銀(錬金術書逃げるアタランタの図版37)。つまり緑の獅子とは、クンダリーニのエネルギーコードのことである。よって『緑の獅子が太陽を食べる』とは、クンダリーニのエネルギー・コードが中心太陽に突入する寓意である。

種村季弘によれば、獅子の口は、死の口であり、再生のためには死に飛び込まねばならない(黒い錬金術/種村季弘P236)。

緑の獅子の獅子の口から血がしたたり大地に落ちているのは、再生の意図。インドでは、クンダリーニ・ヨーガは再生を展望しないが、西洋錬金術では再生もありなのだろうか。

 

C.G.ユングは、人間が穴に落ち熊に襲われる夢を材料に、『熊は龍や獅子と同様、第一質料(プリマ・マテリア)の危険な側面を表す(偽トマス・アクィナス『錬金術について』(1520年より))』とし、熊は黒化(ニグレド)であり、そこから孔雀の尾の華やかに“戯れ”溶け合う色が生ずると説明している(心理学と錬金術Ⅰ P252)。

要するに錬金術書では、熊や龍や獅子が、女性とからみあう図版が時々出てくるのは、ダイヤモンドなる大悟直前の黒化のシーンであると言っている。逃げるアタランタの最終図50枚目に女と龍がからむ絵が置かれているが、女も龍も共に死ぬとしており、それは、世界全体の死であって、第六身体の死。そして逃げるアタランタでは、なにもかもなしの第七身体ニルヴァーナの図版はないということになる。

さらにタロットカードのstrength力。これは、女魔術師が獅子の口をこじ開けている。タロットでは、魔術師は1番の男魔術師11番力の女魔術師。無意識・死を扱うのは、男魔術師でも女魔術師でもよいが、本格的に繊細に人間的、個人的に扱えるのは女魔術師であることを示す。つまり女魔術師はクンダリーニ・ヨーガのシンボルであって、男魔術師は只管打坐のシンボルと見る。

11番力の女魔術師は、獅子に飲み込まれていない絵になっている。

『食らう者より食物出て

強き者より甘き者出でたり

―――士師記14:14』をサリー・ニコルズが引用(ユングとタロット―元型の旅 サリー ニコルズ 新思索社P326)しているが、これぞ個人と全体の逆転を示す。11番力の女魔術師は、逆転の始まりなのだ。

 

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願望実現時にちらりと兆す虚無感、倦怠感こそクリティカル

2024-09-03 03:10:56 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人が冥想に真剣に取り組むモチベーションあるいは分水嶺

 

人は欲望が充足・実現すれば満足するが、同時にむなしさ、虚無を感じるものだ。

一般に人はあらゆるレベルで多数の欲望を抱えており、手あたり次第あるいは順序にそれを実現しようとするのだが、次々に人はそれをクリアしては喜びを感じ、同時に願望実現したことでの倦怠感をも都度感じるものだ。

 人が冥想に真剣に取り組むモチベーションあるいは分水嶺は、実はその虚無感、倦怠感にある。

 

冥想には、二つの方向性しかない。

一つは各人の最もふさわしい欲望を生きるということ。もう一つは、「何も無い」ということを逃げずに生きるということ。

 個人の最も相応しい欲望を生きるとは、欲望実現のことだが、その際の願望実現の虚無にまじまじと向き合って初めて、「何も無い」ということを逃げずに生きるということに本気で進んで行ける。

 人は、その欲望の大小を問わず、実現したとたんに、喜びと満足感と同時に虚無を感じることを何千回、何万回繰り返してきたこともほのかに感じているのではないか。

 ところが、現代は、願望達成時の喜びと満足感と同時に虚無が出た瞬間、別の欲望に引き込む罠がとても発達してしまった。

 具体的には、買い物依存、ブランド依存、ネットポルノ依存、モバゲー依存、ギャンブル依存、アルコール依存、薬物依存など。

 これらは依存症につながるものだが、そういう願望でなく健全な願望であっても、人生経験を積んで行けば、願望実現への努力が始まる段階で願望実現後の虚無やら倦怠感まで予感してしまうものではなかろうか。そういうのが人間の成熟であって、それを積むと人間の卒業、輪廻転生の終わりが近いということだと思う。

 

願望実現時にちらりと兆す虚無感、倦怠感は、さっとやり過ごされてしまうのかもしれないが、実はそれがメリットのない冥想、効果を求めない冥想の入口である。

 

おもしろうて やがて悲しき鵜舟哉

(芭蕉)

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冥想の二つしかない方向性

2024-09-02 03:43:49 | 覚醒のアーキテクチャー

◎最深の欲望実現、虚無、解脱

 

ダンテス・ダイジが、冥想の二つしかない方向性を語る。

表現はとても硬いが、要するに冥想テーマは、一つには各人の最もふさわしい欲望を生きるということ。もう一つは、「何も無い」ということを逃げずに生きるということ。

 

『冥想には、二つのテーマしか存在しない。一つは欲念相続の当体としての自己自身を最高の情熱と充足の中に生きようとすることであり、そして今一つの冥想の極意は、「何も無い」そのことの絶対を絶対自体で覚知することである。

 冥想には、あらゆる人間をしてその人自身の最も根本的欲望を知らしめ、そしてその欲望を実現する力がある。

 しかも、冥想は、あらゆる欲望が最終的に欲望そのものからの解脱を目指す時に、その純粋冥想の極点で、解脱即涅槃を成就せしめるのである。

 どのような豊かな幸福もそれがこの地上のものである限り必ず終息する時がくる。その時、人間は、人間であるがゆえの虚無を見ねばならなくなる。そして純粋冥想はその虚無と人間とをもろともに寂滅せしめる。

 そして あらゆる生命達は、再び地上に帰 ってくるだろう。有と無あるいは空・仮・中の三法などの教説は すべて煩悩即菩提の永遠の神秘を説こうとする試みである。』

(ダンテス・ダイジの断簡より引用)

 

冥想の神秘的な力により、人はまず最深の根源的欲望に気づき実現する。ところが、そこで人は虚無を感じてしまう。

次に人は、あらゆる欲望が最終的に欲望そのものからの解脱を目指すことになるのだが、冥想により、マーヤ(迷い)とはニルヴァーナ(悟り)のことであったことに気づくことになる。

 そのことを書いているわけだが、とても生硬な表現であって、わかりにくいかもしれない。

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睡眠の間に神に出会う-2

2024-08-17 03:46:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎人は眠りを通して神に入っていくがそれだけでは決して神を知るには至らない

 

次の文は、OSHOバグワンの『眠りのなかで目覚めていること』だが、字義どおり読むと誤解を招く。あたかも読者が神人合一という体験とは言えない体験を承知しているのを前提に語っているようである。

 ヨーガ行者(ヨーギ)全員が、ニルヴァーナを徹底して知っていれば、ヨーガ行者は、睡眠中に夢を見ないが、まるでヨーガ行者全員がニルヴァーナを知っているような書きぶりである。ヨーガ行者だからといって、覚醒しているのはひと握りにすぎない。

アメリカの覚者ケン・ウィルバーだって、最初の覚醒から、熟眠中に夢を見ないようになるまでは時間がかかったものだ。

 普通の人は、一晩に10分以下の夢を見ない時間があってそれが神の時間。これは、いわゆる隙間であって、肉体死のプロセスにおいて万人が必ず目撃する原初の光(母の光明)と同等のもの。

 OSHOバグワンは、以下の文において、人は冥想をしない限り、何百万回の人生において何億回睡眠しても、睡眠中の夢を見ない状態が、神であると意識することはないと釘を刺しているのだ。

たとえ毎晩の何億回の睡眠にさいし、何億回神と出会ったとしても、それは無意識で起きているから、それが神であると気づくことは決してない。冥想により、意識的に神と出会う訓練を積むことにより、無意識である睡眠において夢をみない空白(gap)が神であると気づくこともあるかもしれない。

 だが、それは、古代インドでインドラが苦労したように簡単なものではない。

 世間では、熟睡は、心身をリフレッシュするというが、それ以上のものがあるのだ。

 

『眠りのなかで目覚めていること

 

眠りに入ってゆくことと神に入ってゆくことは、まさにひとつの同じことだ。ただ唯一の違いは、眠りをとおして、人は無意識のうちに神に入ってゆくのに対して、瞑想をとおして、人は意識ある状態のまま神に入ってゆくということだ。ただし、これは非常に大きな違いだ。あなたは何千もの生にわたって、眠りをとおして神に入ってゆくかもしれない。しかしけっして神を知るにはいたらない。ただし、かりに一瞬でもあなたが瞑想に入っていったなら、何千もの何百万もの生にわたって、深い眠りのうちに――つねに無意識のうちにではあったが――たどり着いていたところに、その同じところにあなたはたどり着く。そしてそれが、あなたの生を全面的に変容させる。

 

興味深いことには、ひとたび瞑想に入ってゆくと、―――深い眠りがつれてゆく虚空のうちに入ってゆくと、人は二度と無意識でいることがなくなるのだ。―――たとえ睡眠中であっても。クリシュナがギータのなかで、「ほかの誰もが眠っているときでも、ヨーガ行者は目覚めている」といったのは、ヨーギが全然眠らないという意味でいったのではない。それどころか、ヨーギほど美しく眠る者はいないくらいだ。ただ、もっとも深い眠りのうちにあってなお、ヨーギのなかの瞑想に入っていった部分は目覚めたままでいる。毎夜、ヨーギはこの覚醒状態のうちに眠りに入ってゆく。そのときヨーギにとって、瞑想と睡眠はひとつの同じものだ。両者のあいだに違いはない。そしてヨーギはつねに完全な意識のうちに眠りに入ってゆく。ひとたび瞑想をとおして自己の内側に入っていった者は、けっして眠りのなかで無意識になることはない。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社166-167から引用)

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睡眠の間に神に出会う-1

2024-08-16 03:41:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎"わたしであること"のうちに存在するのをやめたとき、人間はまどろみなき眠りに落ちる

 

日中の覚醒時に思考あるいは想念の連続の間には隙間が断続的にあって、その隙間こそが神であることは知られている。

一方OSHOバグワンは、睡眠時の夢のない時間帯こそ神であると述べている。ただし睡眠時は人は無意識であり、睡眠時の思考あるいは想念が夢にあたる。

よって覚者たちは、まず最初に冥想により日中の覚醒時に隙間を意識できるような方向で冥想修行し、その後、睡眠時にも夢を見ないことを目指す。睡眠時に夢を見ないことで、無意識である睡眠時においても意識的に神であることを目指すのである。

 

OSHOバグワンは、アメリカでヨーガや瞑想が流行している原因は、生活が重苦しく、抑圧や緊張で一杯なので、睡眠不足であることが一般的なせいだと見ている。それが証拠にアメリカの睡眠薬の消費量は膨大で、ややもすれば、医師までも、ヨーガや瞑想は睡眠導入ツールの一種くらいにしかみられていない。

 

一般に人は一晩に10分以下の夢を見ない時間帯がある。その時間に人は、神という生命の始原に到達し、生のエネルギーを得て元気を回復するが、それが神であるなどとはまず気づかない。

 

なお一晩中夢を見ないと主張する人のほとんどは、夢は見ているが覚えていないだけである。

 

一晩の睡眠における夢を見ない10分を空白(gap。隙間と訳している場合もある)と呼ぶ。

『つまり夢なき眠りとは、人間が機械のおよぶ範囲を超えたところにゆき着いたことを意味するのだ。人間が聖なるものに入ってゆくのは、この空白においてだ。

 

機械にはこのあいだの空間を、この空白を探ることができない。人間が夢を見ているかぎり、機械は内なる活動を記録している。―――すると空白が起こり、人間はどこかに消えてしまう。やがて十分後に機械はふたたび記録をはじめる。この十分の絶え間に人間がどこにいたのかをいうのは難しい。アメリカの心理学者たちはこの空白にひどく当惑させられた。そして睡眠を最大の謎だと考えた。事実、神はさておき、眠りこそ唯一の謎なのだ。ほかに謎などない。

 

あなたは毎日眠る。しかし眠りの何たるかについては何の考えも持ち合わせていない。人間は一生のあいだ眠りつづける。しかし何も変わらない。―――眠りについては何も知らない。あなたが眠りのことを何も知らないのは、眠りがそこにあるとき、あなたはいないからだ。覚えておくがいい。あなたが存在するのは、眠りが存在しないときだけだ。したがってあなたは、せいぜい機械が知っているくらいのことを知るだけだ。ちょうど機械が空白に直面して止まってしまい、人間が運ばれていった先にまでゆき着くことができないように、あなたもそこにはゆき着けない。―――あなたも機械以上のものではないからだ。

 

あなたもまたその空白に出会うことがないために、眠りはひとつの謎にとどまっている。あなたの手のとどかない彼方にとどまっている。これは、"わたしであること"のうちに存在するのをやめたときにしか、人間はまどろみなき眠りに落ちてゆくことがないためだ。

 

したがって、自我が成長してゆくにつれ、眠りはどんどん少なくなってゆく。自己中心的な人間が眠る能力をなくしてしまうのは、その人の自我が、"わたし"が、一日二十四時間さし出てやまないからだ。目を覚ますのは"わたし"なのだ。 通りを歩いているのと同じ"わたし"だ。その"わたし"が二十四時間というもの、のべつ存在しているために、眠りに落ちるときになっても、"わたし"を落とすときがやってきても、それを追い払うことができない。当然、眠りにつくのは困難になる。“わたし”が存在しているかぎり、眠りは不可能なの だ。そして昨日話したように、"わたし"が存在しているかぎり、神への参入は不可能なのだ。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社164-166から引用)

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スケートボード堀米雄斗選手、1%の可能性を最後まで信じて

2024-08-15 03:03:42 | 覚醒のアーキテクチャー

◎九分九厘から一厘の大逆転とは、個人が逆転して世界全体になること

 

2024年パリ五輪、スケートボードの男子ストリートで、堀米雄斗選手は、1%の可能性を最後まで信じて、最終の5回目の演技に成功し、2大会連続の金メダルを獲得した。

 

釈迦が成道できたことで英雄と呼ばれるのも、悟る可能性が1%もなくても可能性を最後まで信じて冥想修行に取り組んだから。

また古神道家ならこれを一厘の仕組という。一厘の仕組とは、世の立替の時に、99.9%滅亡のところから大逆転するメカニズムのこと。出口王仁三郎は、そのヒントは、古事記の仲哀天皇の帰神の段にあるという。

 

さらに冥想シーンで、九分九厘から一厘の大逆転とは、個人が逆転して世界全体あるいは神になること。

 

冥想シーンでのそれを、確率百分の一の無謀なギャンブルと見れば、常識的社会人や青少年はおいそれと取り組まないかに思える。

 ところが、すべての人は、クンダリーニのエネルギー・コードが直接神とつながっているが、それに気がつくことを神人合一という。

 さらに、古代インドのパタンジャリは、時間とは、〈現象〉〈現象〉〈現象〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉と進行しているが、       

 それを超スローモーションで見たパタンジャリが、有である〈現象〉の停止に気づき、実は時間とはリアルな現実ではなくデジタル動画であることを発見したのだ。    

現象という動画は、無数の静止画と隙間によってできている。というのは、パタンジャリは、世界の現象を形成する無数の静止画(三種のグナ)が何も動かないで停止しているのを見たから。その時、パタンジャリは、すべての現実というドラマがデジタル動画つまり幻影で作られていることに気がついた。

この気づきこそが、大悟覚醒、入我我入、一厘の仕組である。このことは、確率1%だから取り組む、取り組まないという個人的好みの問題ではなく、すべての人にとって何のために生きているのかという共通の課題なのである。

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人間は玉の緒(クンダリーニ)が神様と結ばれている

2024-08-12 03:23:47 | 覚醒のアーキテクチャー

◎善いことは容易にできない世の中だが、善いことをし続ける

 

出口王仁三郎は、クンダリーニは神様とつながっていると明言。だから人は神の生き宮、神の分霊などというのだが、さらりと人間はクンダリーニのエネルギー・コードによって神様につながっていると説明している。もとより神様とつながっている以上、誰にでも仏性があるとか神性があるというような表現は、とても妙な言い回しであるように思う。

最近の人間は、自分が神様とつながっているという自覚のない人もいるし、他人も神様とつながっていると知れば他人にひどいことなどできないはずなのに、よろしからざる仕打ちをする人もいる。

『人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其(その)もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。』

(水鏡_人生の諸問題/出口王仁三郎から引用)

 

たまたま2024年8月8日『南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)』が出されたが、気になる自分の生死も、玉の緒を神様が切られるかどうかによるということ。まことに、生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。

さらに、『されば最第一なる霊魂精神は、至大天球一名は至大霊魂球にして、一個人の神経は此の霊魂球中の一条脉なる即ち玉の緒と言ふ物也と明言して、その明細を説明する事不能也也。』

(霊界物語 第81巻 総説 天地開闢の極元/出口王仁三郎から引用)』

これは、世界全体、宇宙全体である至大天球は、人間と玉の緒(クンダリーニ)でつながっていることを言っている。ただしその説明はできないとしている。

 

なお、出典の出口王仁三郎の随筆水鏡の「人生の諸問題」には、処世法の秘訣、神様に守って頂くこと、勇気を出して物事をやつて行かねばならないこと、昨今の転職ブームについて述べている。

『人は水の流れるやうに生活すればよろしい、水は流れ易い方向を撰んで、いと自然に自が途を開いて進み行く。途中障害物に突あたる事があると、又いと自然に方向転換をやつて進み易い道を進んで行く、これが処世法の秘訣である。自然に逆らつて低きにつかんとする水を高所に上げやうとする様な生活は、労多くして功が些ないものである。

現今の地上は、悪魔の集会所である。故に諸善神は天にのぼり、地に潜んで、其跋扈跳梁に任してあるが如き状態である。で有から善い事は容易に出来ない世の中である。善い人、善い仕事には却つて悪魔がつき纏ふて邪魔をする。恰度(ちょうど)よい果実に悪い虫がつくやうなものであつて、神様のお守りを受けるより外に之を防ぐ道がないものである。

甘い果実に悪い虫がつく、其虫がつかぬやうに人間が除虫法を行ひ、袋をかぶせて保護してやる。さうすると誠に立派な見事なものが得らるる道理。どんな性のよい人、又成功すべき仕事であつても、神様のお守りがないと悪魔に祟られて、惜い事には十分成熟せずに、ポタリポタリと途中で落ちて行く果実の其と同じ結果に終つて仕舞ふのである。

生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。大切な子が死んだため信仰をおとすなどと云ふのは訳の分らぬ人間である。

思ふやうには行かぬ世の中である。それは前云ふ通り、地上に悪魔が横行闊歩して居るからである。それ故に人間は神様に守つて頂くと同時に、勇気を出して物事をやつて行かねばならぬ。勇気を出せば悪魔は退いて仕舞ふ。人は思ふ道を勇敢に進むに限る。思ふやうには行かぬ世の中と云ふのは悪魔のさやる世の中を云ふので、神代になれば思ふ事が箱さしたやうに、ケタリ、ケタリと甘く行く事は神諭に示さるる通りである。

それだからこそ神様が立替を急いでおいでなさるので、神様は早くこの悪魔を退治して皆が喜び勇んで暮らす世の中にしてやろうと、昼夜間断なく御活動になつて居るのである。思へば有難く勿体ない限りである。

どんな仕事でも十年位辛棒すれば運が向て来る。一年や二年では成功するものでは無い。一つ仕事をつかまへたらそれを変へぬほうがよい。二三年してはほかし、三四年しては職業を変へるやうな人は、生涯成功を見る事が出来ない、十年しても芽が出ねば、外の仕事を選んで見てもよいが、それも若い中の事で、四十歳を越したらもう、ちやんと一定の職業と云ふものが定まらねばならぬ。四十才で仕事が定まればそれがまあ普通である。四十歳を越して仕事をかへてもあかん、三十歳までに仕事が定まればその人は成功者となる事が出来る。』

(水鏡_人生の諸問題/出口王仁三郎から引用)

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心のキャパシティ

2024-08-09 03:29:02 | 覚醒のアーキテクチャー

◎大悟覚醒と前世記憶

 

OSHOバグワンは、前世記憶はいたずらに覗きにいくものではないと言っている。今生の思いだけでもアップアップなのに、その上に前世記憶を受け容れるなど、泣き面に蜂もいいところだからである。

その説明の中に心のキャパシティに関する説明がある。これは、大悟覚醒のための準備の一つであるとも見れる。

OSHOバグワンは、さる女性教授に前世記憶をオープンにしてくれるようしつこく迫られていた。それも4つの過去世だ。OSHOバグワンは、それが愉快な結果を生まないことを承知していて、そういう説明もしたが、根負けして彼女に過去世記憶をオープンさせた。

まずいことにその女性教授は、日頃から自分が敬虔で一点も曇りもない女性だと信じこんでいた。

 

『それでなくても、ひとつの人生の記憶だけでも耐え難いのに、三つも四つもの過去世の記憶が垣根を破って押し寄せてきたら、人は気が狂いかねない。だからこそ自然はわれわれが過去を忘れてゆくように仕組んだのだ。自然は、思い出せる以上のことを忘れ去ることができるという偉大な能力を授けてくれた。そのおかげで、心(マインド)が持ち運べる以上の重荷を背負いとむことはない。心(マインド)の受容力が増大してのちはじめて、重荷に耐えることができるのだ。この受容力ができあがっていないうちに記憶の重みがのしかかってきたとき、問題が起こる。だがその女性教授は頑固だった。わたしの忠告には耳もかさず、実 験へと入っていった。

ついに過去世の記憶の洪水が襲いかかってきたとき、夜中の二時ごろだったが、女性教授はわたしのところへ飛びこんできた。混乱のきわみ。すさまじい苦境におちいっていた。彼女はいった。「なんとかしてこれをくい止めなければ。物事のこんな面は見たくもないわ」

しかし、ひとたび破れ放たれた記憶の潮を押しとどめるのは容易ではない。打ち砕かれてしまった扉を閉めるのはひどく困難だ。扉はただ開くのではない。破れて開くのだ。――――およそ十五日かかった。 そしてようやく記憶の波はおさまった。何が問題だったのか?

この女性は、日頃から自分がとても敬虔で、一点の罪のくもりもない女性だと自称していた。前世の記憶に出くわしてみると、そこでは彼女は娼婦だったのだ。身を売っている場面が浮かびあがってきたとき、彼女の全存在が震えあがった。 現世における品性のすべてがかき乱された。

 

この種の啓示の場合、その光景は他人事のように見えたりはしない。貞節をふれまわっていたその同じ女性が、いまや娼婦としての自分を見るのだ。前世では娼婦だった人間が、つぎの生では徳の高い人 間になるというのはよくあることだ。前世での苦悩に対する反動だ。その女性を貞節な女性にするのは、 前世での苦痛と傷の記憶なのだ。』

(死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/ 講談社P74-75から引用)

 

大悟覚醒とは、個人から全体への逆転のことだが、全体とはあらゆる生物無生物の現世記憶も過去世記憶も生も死も背負い込むということ。そのためにそれを受け容れるだけの心のキャパシティが必要となる。

ところが、未悟の者は、そんなことが起これば発狂しかねないから、自分の今生のことで、なおかつ自分が耐えられる出来事の記憶だけを持って生きることが多い。自分が耐えられない出来事は忘れるという素晴らしい機能があるから、平安な心を維持もできる。

この説明だけだと、悟りに向けて心(マインド)の受容力を増大させる冥想修行の方向性は、わたしの過去世記憶もあなたの過去世記憶も受け入れることができるようになることだと思いがちだが、そうではない。OSHOバグワンは、わたしもあなたもない先に大悟覚醒があるのだと説明している。

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人間とは、連続的に気づいている意識だ

2024-08-06 03:22:47 | 覚醒のアーキテクチャー

◎飢えや渇きを感じている肉体を観照している自分

 

一般に人は、自分の肉体と同一化して生きている。そこでOSHOバグワンは、人間は、飢えや渇きなど、自分の肉体に起きていることについて、連続的に気づいていることから、『人間とは意識、連続的に気づいている意識だ。彼は体験者ではない。単なる知る者だ。』(死ぬこと生きること/OSHO/市民出版社P204から引用)と述べる。

飢えや渇きを感じている行為者は、自分ではなく、「飢えや渇きを感じている肉体を観照している自分」こそが、本当の自分であり、連続的に気づいている意識だとOSHOバグワンは、言う。

 

肉体を観照している自分とは、エーテル体もアストラル体も、メンタル体もコーザル体も観照できるに違いない。なぜなら肉体からコーザル体は自分の個なるボディだからだ。よって、肉体を観照している自分とは、世界全体、宇宙全体である自分ということになるのだろう。『肉体を観照している自分』とは、個なる自分がドッペルゲンガーみたいに別にどこかにあるかのように誤解させる言い方だと思う。

 

イエスは、十字架にはりつけになった時、痛いとか喚いたりしなかった。スーフィの聖者ホセイン・マンスール・ハッラージも手足を切断されても痛いとか苦しいとか叫ばなかった。神奈川の慧春尼は、火のついた薪の上に坐っても熱いなどと言わなかった。痛みに苦しんでいるのは、自分の本体でなく、自分の一部である肉体に過ぎないと承知していた。三者とも『観照している自分』がいたからである。

 

OSHOバグワンは、自分自身を笑うという言い回しをすることがあるが、それは、他人ではなく自分自身の目撃者あるいは観照者になるということである。

それは、見神、見仏、見性なのだろう。見ている自分を残しているから。

なお、連続的に気づいている意識には、気づいていない隙間が断続的に存在している。

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神はどこまでIT、科学をお残しになるか

2024-08-04 06:35:17 | 覚醒のアーキテクチャー

◎愛の代用品としての白狐あるいはホワイト・フォックス

 

私が小学生の頃は、科学の発達により、食料がある程度増産されれば、人間も国家も食料を求めて相争うことはなくなり、自ずと世界平和に向かうのだろうと漠然と考えていた。

昭和39年の東京オリンピックを一つのエポックとして私の育った東北の農村は、細かく不整形だった田んぼが一区画が大きいものに、町村全体で耕地整理され、それ以後泥鰌もほとんどいなくなり、夏の闇夜の夢幻であった蛍は、ごくわずかにしか見られなくなった。

日本経済の高度成長は既に始まっていたが、東北への恩沢は、この頃から狂乱物価の昭和48年頃までの短い期間だったのではないかと思う。

 

それから50年経過して、世界は相変わらず食料の分捕り合いを繰り返し、金の奪い合いはIT、科学の発展によりなくなるどころか、ますます瞬時に狡猾巧妙に大規模に行われるようになった。そのあげく少ない神の賜物を平等に分けて神をことほぐとういう敬虔、謙虚な風は広く失われ、巨富であることを持ち上げ誉めそやすという奇怪な風が世に蔓延するようになっている。

 

日々刻々、神を感じ、神に帰り、神を知りつつ日常の営みを行うという人間として当たり前のライフ・スタイルは絶滅に瀕しており、片手にスマホをもったばかりに、神に立ち帰るタイミングも失い、まともな思考すらできない人間が大多数になりつつある。

 

出口王仁三郎は、科学の発展の結果は、大峠以後は、通信の一部だけが残ると言った。他のいわゆる火力文明の科学の精華はほとんど残らないのだ。

 

なぜなら火力文明下の科学は、それ自体白でも黒でもないが、黒の側への悪用が過ぎた結果、あまりにも神から離れる方向に使われ過ぎてしまったからである。

それについて、ダンテス・ダイジは、白狐あるいはホワイト・フォックスについて、それが人類の一半に不幸な結末を招いたことについての慨嘆の詩を残している。白狐あるいはホワイト・フォックスとは、お稲荷さんにして、科学であり、ITであり、生成AIであり、最先端の科学技術の粋である仮想通貨や軍事技術のシンボルのことである。

白狐あるいはホワイト・フォックスは、元々はそれを利用して人類全体が、天国も地獄も超えた真の幸福に至るための道具になるはずだったが、いつのまにか人類全体を不幸にする道具と成り果てた。テクノロジーはそれを用いる者の善悪は問わないからである。GAFA(Google,Apple,facebook,Amazon)の問題は、こうしたあらゆる問題の集大成でもあるとも感じられる。

 

白狐あるいはホワイト・フォックスは、もともと天国の眷属の一部ではあったはず。

 

『白狐。

 

所詮、おまえの神通力も、

愛の代用品に過ぎない。

 

そして、

いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、

ホワイト・フォックス 

おまえに一体、

何ができよう。

 

快適で豊富なる暮らしの神。

聖なるマンモン。

 

白狐。

もう、

おれは、

おまえについて、

どんな判断もしやしない!』

(ダンテス・ダイジの老子狂言から引用)

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宇宙全体と無、なにもかもなし

2024-07-15 06:16:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じ

 

第六身体アートマンを宇宙全体と置いているが、それでは無とは何か。

OSHOバグワンも宇宙全体は無、なにもかもなしだと言っている。これを一言で言ってのける人(一休、至道無難ダンテス・ダイジ)もいて、それで納得できない人は傾聴すべきだろう。

 

『存在と非存在、無とすべて、そうしたものは一見反対だが、実際は同じものを意味している。

すべてと無は、同じものを意味する。 辞書上では反対だが、生においては反対ではない。たとえ ば、「私はすべての人々を愛する」というのと、「私は誰も愛さない」というのは同じ意味だ。特定の誰彼を愛して初めて、違いが現れる。すべての人々を愛するとは、誰も愛さないのと同じだ。 そこに違いはない。

 

違いというものは、つねに程度問題であり、相対的だ。両極端には程度がない。 「全」と「零」 には程度がない。全を零と呼ぶこともできれば、零を全と呼ぶこともできる。だから内なる空間 の呼び方は、悟った人間それぞれによって違っている。たとえば、空、シュンニャ、無、非存在、 アナートマ、と呼ぶ人もいれば、絶対的存在、梵(ブラフマン)、アートマン、至高我、と呼ぶ人もいる。 どちらでも同じだ。一方は肯定的で、他方は否定的だ。片やすべてを包含し、片やすべてを排除する----そのどちらかしかない。 相対的な用語では叙述できないから、絶対的な用語が必要となる。この相矛盾する両極端は、どちらも絶対的な用語だ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHO P293-294から引用)

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