◎水は下降で、外へ向かう流れ。火は上昇で、“内向”する
光とは何か。OSHOバグワンの説明。
太乙金華宗旨の冒頭。
ポイントは、以下。
- 両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。
- 洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。
- 〝外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。
- 水は下降で、外へ向かう流れ、水の旅は外界の旅。火は上昇で、上に向かって進み“内向”する。
- 両目とは、外向の目を内向の目に転じて両目がそろうことで、これが水の洗礼と火の洗礼。
(ゴシック体は、経典本文)
『天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。
だが、両目がひとつにならないかぎり、あなたはそれに気づかない。それは両目のあいだに含まれている。だが、それを見ることができるのは、両目がひとつになったときだけだ。ひとつになれば、それは解き放たれる。そうなったらすさまじい光の爆発が起こる。ツァラツストラはそれを「火の爆発」と呼ぶ。老子はそれを「光の爆発」と呼ぶ。それは同じものだ。
あなたがたは洗礼者ヨハネの言明を耳にしたことがあるにちがいない。彼は弟子たちに言っていた。「私はあなたがたに水の洗礼をほどこす。私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」彼が「私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」という言葉で言おうとしているのは、その爆発のことだ。
水の洗礼は外なる世界の洗礼だ。洗礼者ヨハネにとって、水とは外へ向かう流れの象徴だ。このことを覚えておきなさい。外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。水はつねに下に向かって進む。それゆえに水は外へ向かう流れを象徴する。水は水そのものから離れてゆく。水の旅は外界の旅だ。火は上昇し、つねに上に向かって進む。そして〝上昇”と“内向”は同じ意味だ。火の旅はつねに内界へと向かう。
洗礼者ヨハネはこう言っている私はあなたがたに水で洗礼をほどこしている。私はあなたがたに宗教の輪郭を与えている。私の後に、内なる洗礼、火の洗礼をほどこすキリストがやって来る。
イエス自身、「悔い改めなさい、悔い改めなさい」と何度もくり返し言っている。だがこの言葉はキリスト教徒たちの手によって、誤った解釈をされてしまった。彼らはそれを「あやまちを悔い改める」と解釈した。それはあやまちとは何の関係もない。「悔い改める」という言葉は、実際には引き返すこと、内へ向かうこと、もどることを意味する。つまりそれは帰ること・・・・自分の本来の姿を取りもどすということだ。「悔い改める」という言葉はメタノイア―回帰すること、一八〇度の転回を意味する。外へ向かって流れつづけたら、あなたは水のままだ。内側に方向を変えれば、あなたは火になる。
そしてこの両目、この二つの炎、あなたの意識のこの両半球がひとつになって、完全に橋がかかり、あなたがひとつの炎になるとき、その炎こそプロティノスが「一者から一者への飛翔」と呼ぶものだ。』
(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP29-30から引用)
火は上昇であり、クンダリーニ・ヨーガ。水は下降であり、只管打坐。洗礼のヨハネは日々の外的生活での善いことをして悪いことをしないことを水と言っている。
老子の光の爆発については、老子 第42 道生一に陰陽二気合体して万物生ずとある部分かと思う。
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。』
また、OSHOは、この爆発については、内破(implosion、爆縮)としている説明が以下にある。
【131_Tao_The_Three_Treasures_Vol1
p87
(仮訳)
内側へ動くとき、あなたは現在の永遠の中へと動きます。外側へ動くとき、あなたは過去へ、あるいは未来へと動きます。
そして、それは空間についても同じことが言えます。空間には、左か右しかありません。もしあなたが左に傾けばそれは外側であり、右に傾いてもまた外側です。しかし、もしあなたがその二つのバランスを取ることができれば、突然あなたは内側にいます。
中点はあなたの中にあり、外側の空間の一部ではありません。実際、現在と中点は一緒です。あなたが現在の中にいるときはいつでも、あなたは中点にいます。あなたが中点にいるときはいつでも、あなたは現在の中にいます。中点はあなたの外側の位置ではありません。それは現在のような内的な現象なのです。
ですから、私が言うとき、あるいは老子が言うとき、「バランスを取りなさい」と、私たちはあなたの人生においてバランスを静的な現象にしようと言っているのではないのです。それは静的ではありえません。あなたは左へ、右へと動きながら、それを継続的に維持しなければならないでしょう。
その動きの中で、あなたは時々、あなたの存在の最も内側の点を通過し、突然あなたは中点にいるでしょう。そして突然、あなたは爆発ではなく、内破を見つけるでしょう。内破。何か内側で内破します。突然、あなたはもはや同じではありません。あなたが内側の中点の位置を通過するときはいつでも、あなたはもはや同じではありません。あなたは強烈に生き生きとし、強烈に無邪気になり、強烈に純粋で神聖になります。その瞬間、あなたにとって暗闇も罪も罪悪感も存在しません。
あなたがそのバランスを見つけることができるときはいつでも、あなたは神聖であり、あなたは神です。しかし、あなたはそれを一度だけ見つけることができるのではありません。いいえ。人生は常に絶え間ないバランス、継続性、連続体なのです。あなたはそれを一度購入すれば、常に家にある商品のようにすることはできません。いいえ。もしあなたが気づいていなければ、あなたはそれを何度も何度も見逃してしまうでしょう。】