アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

太乙金華宗旨の光について-2

2025-02-03 03:45:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎水は下降で、外へ向かう流れ。火は上昇で、“内向”する

 

光とは何か。OSHOバグワンの説明。

太乙金華宗旨の冒頭。

 

ポイントは、以下。

  1. 両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。
  2. 洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。
  3. 〝外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。
  4. 水は下降で、外へ向かう流れ、水の旅は外界の旅。火は上昇で、上に向かって進み“内向”する。
  5. 両目とは、外向の目を内向の目に転じて両目がそろうことで、これが水の洗礼と火の洗礼。

 

(ゴシック体は、経典本文)

天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

だが、両目がひとつにならないかぎり、あなたはそれに気づかない。それは両目のあいだに含まれている。だが、それを見ることができるのは、両目がひとつになったときだけだ。ひとつになれば、それは解き放たれる。そうなったらすさまじい光の爆発が起こる。ツァラツストラはそれを「火の爆発」と呼ぶ。老子はそれを「光の爆発」と呼ぶ。それは同じものだ。

 

あなたがたは洗礼者ヨハネの言明を耳にしたことがあるにちがいない。彼は弟子たちに言っていた。「私はあなたがたに水の洗礼をほどこす。私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」彼が「私の後に、あなたがたに火の洗礼をほどこす人がやって来る」という言葉で言おうとしているのは、その爆発のことだ。

水の洗礼は外なる世界の洗礼だ。洗礼者ヨハネにとって、水とは外へ向かう流れの象徴だ。このことを覚えておきなさい。外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。水はつねに下に向かって進む。それゆえに水は外へ向かう流れを象徴する。水は水そのものから離れてゆく。水の旅は外界の旅だ。火は上昇し、つねに上に向かって進む。そして〝上昇”と“内向”は同じ意味だ。火の旅はつねに内界へと向かう。

洗礼者ヨハネはこう言っている私はあなたがたに水で洗礼をほどこしている。私はあなたがたに宗教の輪郭を与えている。私の後に、内なる洗礼、火の洗礼をほどこすキリストがやって来る。

 

イエス自身、「悔い改めなさい、悔い改めなさい」と何度もくり返し言っている。だがこの言葉はキリスト教徒たちの手によって、誤った解釈をされてしまった。彼らはそれを「あやまちを悔い改める」と解釈した。それはあやまちとは何の関係もない。「悔い改める」という言葉は、実際には引き返すこと、内へ向かうこと、もどることを意味する。つまりそれは帰ること・・・・自分の本来の姿を取りもどすということだ。「悔い改める」という言葉はメタノイア―回帰すること、一八〇度の転回を意味する。外へ向かって流れつづけたら、あなたは水のままだ。内側に方向を変えれば、あなたは火になる。

そしてこの両目、この二つの炎、あなたの意識のこの両半球がひとつになって、完全に橋がかかり、あなたがひとつの炎になるとき、その炎こそプロティノスが「一者から一者への飛翔」と呼ぶものだ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP29-30から引用)

 

火は上昇であり、クンダリーニ・ヨーガ。水は下降であり、只管打坐。洗礼のヨハネは日々の外的生活での善いことをして悪いことをしないことを水と言っている。

 

老子の光の爆発については、老子 第42 道生一に陰陽二気合体して万物生ずとある部分かと思う。
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。』

 

また、OSHOは、この爆発については、内破(implosion、爆縮)としている説明が以下にある。

【131_Tao_The_Three_Treasures_Vol1

p87

(仮訳)

 

内側へ動くとき、あなたは現在の永遠の中へと動きます。外側へ動くとき、あなたは過去へ、あるいは未来へと動きます。

そして、それは空間についても同じことが言えます。空間には、左か右しかありません。もしあなたが左に傾けばそれは外側であり、右に傾いてもまた外側です。しかし、もしあなたがその二つのバランスを取ることができれば、突然あなたは内側にいます。

 

中点はあなたの中にあり、外側の空間の一部ではありません。実際、現在と中点は一緒です。あなたが現在の中にいるときはいつでも、あなたは中点にいます。あなたが中点にいるときはいつでも、あなたは現在の中にいます。中点はあなたの外側の位置ではありません。それは現在のような内的な現象なのです。

 

ですから、私が言うとき、あるいは老子が言うとき、「バランスを取りなさい」と、私たちはあなたの人生においてバランスを静的な現象にしようと言っているのではないのです。それは静的ではありえません。あなたは左へ、右へと動きながら、それを継続的に維持しなければならないでしょう。

 

その動きの中で、あなたは時々、あなたの存在の最も内側の点を通過し、突然あなたは中点にいるでしょう。そして突然、あなたは爆発ではなく、内破を見つけるでしょう。内破。何か内側で内破します。突然、あなたはもはや同じではありません。あなたが内側の中点の位置を通過するときはいつでも、あなたはもはや同じではありません。あなたは強烈に生き生きとし、強烈に無邪気になり、強烈に純粋で神聖になります。その瞬間、あなたにとって暗闇も罪も罪悪感も存在しません。

 

あなたがそのバランスを見つけることができるときはいつでも、あなたは神聖であり、あなたは神です。しかし、あなたはそれを一度だけ見つけることができるのではありません。いいえ。人生は常に絶え間ないバランス、継続性、連続体なのです。あなたはそれを一度購入すれば、常に家にある商品のようにすることはできません。いいえ。もしあなたが気づいていなければ、あなたはそれを何度も何度も見逃してしまうでしょう。】

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太乙金華宗旨の光について-1

2025-02-02 06:42:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎天上の光は、両目のあいだに含まれている

 

道教では光を回して、金華を得る。そこで光とは何か。OSHOバグワンの説明。

 

太乙金華宗旨の冒頭。

※性を精髄と訳。

※命を生命と訳。

※天光を天上の光と訳。

(ゴシック体は、経典本文)

 

ポイントは以下。

  1. 精髄と生命は、天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。
  2. 天上の光は、両目のあいだに含まれている。
  3. 精髄も生命も、直に感じ取らねばならない。
  4. 両目はあなたの内側にある男性性と女性性を表している。
  5. この男性と女性があなたの内側での出会いが「天上」での内なる交合。
  6. イエスも「二つの目がひとつになると、光が現れる」と言う。

 

タオには名前もなければ形もない。それは一つの精髄、原初の精神である。

(中略)

 

精髄と生命は見ることができない。この二つは天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

形は見ることができるし、肉体は見ることができる――肉体は形であり、精髄を包み込んでいる物質だ。だが、精髄を見ることはできない。精髄は目では見ることができず、五感ではとらえることができない。それは何も介さず、直に感じ取らねばならない。

 

あなたは私の肉体を見ている。私はあなたの肉体を見ている――そこには器官が介在している。私の目が、あなたがここにいると告げている。あなたの目が、私がここにいると告げている。だが、本当にそうだろうか。私たちは目にだまされているのかもしれない――目には時々だまされることがある。夜、暗闇のなかで一本の縄が蛇のように見える。蛇だと思い込めば、それは蛇と同じように作用する。あなたは怖くなって走りだす。あるいは、砂漠のなかで、ありもしないオアシスを見ることもある。それはたんなる投影による現象だ。喉があまりに渇くので、あそこにオアシスがあればという願望が起こり、その願望がオアシスをそこにつくりだすからだ。目はよく人をだます。だから当てにはならない。

 

あいだにものを介在させて知られる真理は、つねに怪しく、疑わしいままだ。それは確実なものとはなりえない――絶対に確かだとは言えない。が、絶対的な確証のない真理などまったく真理ではない。真理というものは絶対に確かなものでなければならない。ほぼ確かでは通用しない。となると道はただひとつ――真理はあいだにものを介在させずに知られねばならない。人はそれを直接、端的に知らなければならない。人はそれをいかなる器官も介さずに知らねばならない。真理はまさにそのようにして知られる。

 

生命を見ることはできないが、それを感じ取ることはできる。それは主観的な体験であって、客観的な対象ではない。

 

精髄と生命は見ることができない。この二つは天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。

 

人間には二つの目がある。道家の人々にとって、この二つの目にはとても重要な意味がある。現代の科学はようやくその真実を見ることができるようになった。この二つの目はたんにものを見るためにだけあるのではない。この両目はあなたの内側にある男性性と女性性を表している。

 

今や現代の科学は言う。人間の脳は二つの半球に分割することができる――そして片方の半球は男性的で、もう片方の半球は女性的だ、と。あなたの頭脳の右側は女性的であり、左側は男性的だ。だから片方の目はあなたの内なる男性を表し、もう片方の目はあなたの内なる女性を表している。そしてこの男性と女性があなたの内側で出会うときの、その出会いこそが「天上」と呼ばれているものだ――それはあなたの男性性と女性性の出会い、内なる交合だ。

 

イエスは言う。「二つの目がひとつになると、光が現れる」彼は道教の煉丹術師のように語っている。あなたの両目がひとつになると、光が現れる。あなたの両目がひとつになると――あなたの男性性と女性性が互いのなかに消えてゆくと、究極のオルガズム的な体験が起こる。女性や男性と愛を交わすときにあなたが感じるものは、その一瞥、つかの間の一瞥にすぎない。それはほんの一瞬のものなので、あなたが気づくころにはすでに過ぎ去っている。あなたは後になってようやくそれに気づく。それはあっという間に行ってしまう。だが、それは一瞥であり、男性性と女性性の出会いの一瞥だ。

 

これは外側の世界における出会いだ。たとえ一瞬といえどもそれが起こるのは奇蹟だ。が、そこには深遠な可能性が秘められている。タントラ、タオ、ヨーガをはじめとする、世界のあらゆる秘密の教えが行なってきたのはそれだ・・・・内なる男性と女性――タントラ行者が「シヴァ」と「シャクティ」、道家が「陰」と「陽」と呼んできたものにあなたが気づくのを助けること。その二つの極、あなたのなかの〈陰〉と〈陽〉、あなたのなかの昼と夜――その二つが出会わなければならない。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP26-29から引用)

 

「イエスの二つの目が一つになると光が現れる」という言葉は、次の新約聖書のマタイ伝6章22節と23節に由来するが、覚者が後で示唆しなければわからない。

 

『22

あなたのからだのあかりは、目である。もしあなたの目が健全であれば、あなたの全身は明るいであろう。

23

もしあなたの目が悪ければ、あなたの全身は暗いであろう。もしあなたのうちにある光が暗ければ、その暗さはどんなに大きいことか。』

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周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-2

2025-02-01 03:13:13 | 覚醒のアーキテクチャー

黄金の華は、賢者の石

 

黄金の華は、賢者の石であり、アムリタ(甘露)である。

 

古代インドで、インドラ神は、クリシュナの要請に応じて、アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。ところがこの尿を、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。ウッタンカ仙人は、まだ準備ができていなかったのだ。

黄金の華を得るためには、最高度の知性と明晰さ、そして完全な受容性と静謐さが必要となる。

 

黄金の華の秘密の続き。

(ゴシック体は、経典本文)

『タオは女性指向ではない。タオはその両方――それらの統合だ。巡らせるのは男性的なエネルギーであり、一点にとどめておくのは女性的なエネルギーだ。行為を通して無為に到り、受動性にたどり着く。努力を通して無努力を達成する。

 

この根本原理を実践する際には、他の技法を探し求める必要はない。ただ汝の思考をそれに集中させればよいだけだ。思考を集束させることによって、人は飛翔することができ、天上に生まれる。黄金の華とは生命の仙薬のことだ。

 

これがあらゆる不死なるものの奥義だ。西洋の錬金術師たちが「賢者の石」と呼んでいたものはこれだ。これはインドでは「アムリタ」―霊薬、甘露-と呼ばれている。『黄金の華の秘密」は錬金術の論書であり、体内化学を錬金術に変容させ、卑金属を黄金に変容させる秘法をあなたに授ける。今現在のあなたは卑金属にすぎない。が、あなたはその秘法を内に秘めている。もしその秘法が成し遂げられたら、あなたは黄金に変容する。黄金は不滅だ。

 

黄金の華とは生命の仙薬のことだ。効き目は実に確かだが、ひじょうにとらえがたいので、最高度の知性と明晰さ、そして完全な受容性と静謐さが必要とされる。この最高度の知性と理解力をもたない者は、道を見いだすことがない。この受容性と静謐さをもたない者は、それをしっかり保つことができない。

 

二つのことが求められている。

第一に、人は知性と明晰さを必要とする。これらのことは気にかけなくてもいい。自分に知性がなかったらどうしようなどと考えはじめたりしないこと。人はみな知性をそなえて生まれてくる。知性とは内在する資質だ―誰もが息をしながら生まれてくるように、人はみな知性をそなえて生まれてくる。

聡明な人もいれば聡明でない人もいるという考えは完全に間違っている。

(中略)

 

いいかね、人はみな知性をそなえて生まれてくるのであって、ただひとりの例外もない。あなたは自分自身の知性を――それがどこにあるかを見つけ出すだけでいい。ひとたび自分自身の知性を見いだしたら、あなたは明晰になる。

 

人々は明晰さを欠いたままで生きている。それは彼らが間違った自己観念を抱いて生きているからだ。誰かが先生が、校長が、大学教授が「おまえは知性的ではない」とあなたに言った。だが、彼らの基準はあくまで択一的なものであり、その基準をすべての人に当てはめることはできない。大学はまだ普遍的なものにはなっていない。あらゆる種類の知性を許容しているわけではない。知性があらゆる形で顕現するのを認めているわけではない。

ひとたび自分自身の知性を受け容れて、その知性に敬意を表しはじめたら、あなたは明晰になり、問題は何もなくなる。

 

(中略)

 

みずからの知性を受け容れたら、自分自身を受け容れたら、あなたは明晰に、このうえもなく明晰になる。雲はすべて晴れる。

 

そして第二に、あなたには受容性と静謐さが必要だということ。知性と明晰さは男性的な精神の一部だ。受容性と静謐さは女性的な精神の一部だ。吸収することができるのは女性だけであり、だからこそ女性は妊娠する――子宮をもっている。

 

これら二つのことが同時に必要とされている。知性が欠けていたら、あなたは何を言われているのか理解することができない、師が何を分かち与えてくれているのか理解することができない。そして女性的でなかったら、あなたはそれを吸収することができない、それを子宮に宿すことができない。その両方が必要とされている。要点を見抜くために、あなたは知性的でなければならない、このうえもなく知性的でなければならない。そしてそれを内側で保つために、あなたはこのうえもなく受容的でなければいけない。そうすれば、それはあなたの一部になることができる。

 

これはたんなる下地だ。徐々に徐々に、私たちは光を巡らせる具体的な手法へと入ってゆく。注意深く聴きなさい、知性を働かせながら聴きなさい。それを吸収するがいい。それはあなたの生涯における最大の体験のひとつにもなりうるだろう。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP40-43から引用)

 

なぜこのようなことが重要とされるかがわからないかもしれないが、後にわかることだろう。

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周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-1

2025-01-31 07:02:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎太乙金華宗旨

 

クンダリーニ・ヨーガでは、クンダリーニのエネルギーコードを上昇させ、周天では身体の前後に気を周回させる。ほとんどの人は、クンダリーニのエネルギーコードと気は別物と考えているのだろうと思うが、OSHOバグワンは、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見ている。

クンダリーニのエネルギーコードは、玉の緒と呼ばれるように第二身体エーテル体から第七身体エーテル体まで、各身体を通貫して存在している。これを基本認識とせねば、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見れないように思う。というのは、気は、エーテル体が基地であるが、呂洞賓の太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)では、気あるいは回光も同一物が次元を越えて運動、作用しているように見えるからである。

そういう見方が可能なのは、OSHOバグワンが正師につかず、試行錯誤と知性と好奇心で大変な苦労でクンダリーニ・ヨーガで究極に至った稀有な人だからだと思う。

 

以下は、OSHOバグワンの太乙金華宗旨の冒頭部分。太字は経文。

ゆえに、汝の為すべきことは光を巡らせることのみ、これが最も深遠で霊妙な秘法だ。光は動きやすいが、一点に定めがたい。だが久しく巡らせば、光はおのずと結晶する。「汝は黙して朝に飛翔す」と記された境地はそれだ。

 

ひじょうに重要なことがこの経文のなかで語られている。光は動きやすく、固定させるのがむずかしい。だから光を一点にとどめておこうとしないこと。ここでヨーガは容易にはできないことをやろうとする。ヨーガがむずかしく、骨が折れるのはそのためだ。

 

ヨーガは光を一点にとどめておこうとする。ヨーガはまた両目のあいだ眉間のちょうど真ん中、第三の目のセンターに光をとどめておこうとする。ヨーガは光を一点に固定させようとする。タオとヨーガの違いはそこにある。ヨーガは光をとどまらせようとする。「第三の目に意識を集中させなさい」―要約するなら、ヨーガの哲学はそれにつきる。「すべての意識を第三の目に集中させることができたら、人は変容する。両目はひとつになり、人は光で満たされる」

 

そして第三の目を超えると――第三の目はヨーガの意識の地図では第六のセンターだ――六番目を超えると七番目のセンターがある。第七のセンターは「一千枚の花弁をもつ蓮華」と呼ばれている。光を第三の目に集中させると、容量の限界に達した光は、第七のセンターを押し開こうとする。それは貯水池の水のように上昇しはじめる。第七のセンターに圧力が加えられることで、何世紀にもわたり、何百万もの生にわたって閉じたままだったつぼみが開く。

 

タオは別の観点から働きかける。タオは言う――光を一点にとどめておくことはひじょうにむずかしい。光をとどめておくことに気を取られてはいけない。光を巡らせるやり方が簡単だ。心にとっては巡らせることがいつもやさしい。動くことが心の本性だ。心にとって集中することはつねにむずかしい。そうだとしたら、なぜ心の潜在能力を使わないのか?なぜそれを活用しないのか?

 

タオは自然であることを大切にする科学だ。手を加えないこと。無理強いしないこと。自分で不必要なもめごとをつくりださないこと。心にそなわる自然な能力―動くという能力、動くことを好むという能力、さまようという能力を活かしなさい。それを使うのだ。光を巡らせなさい――光を巡らせる方法については後で語り合うことになるだろう――経路を見いだして、光を巡らせなさい。

 

光を巡らせることで、道家の人々は七〇〇の鍼の経穴を発見した。光を全身に巡らせることによって、彼らは光が強烈に輝くポイントが七〇〇あることに気づいた。彼らはそれらを正確に数えあげた。今や科学がそれを立証している。正確に七〇〇の経穴がある。今や人体の七〇〇の経穴を画像でとらえ、どの経穴で光が失われているか、どの経絡に気が流れていないかを示す機械さえもが発明されている。道家の人々はどのようにしてそれを知ったのだろう?彼らには機械も科学技術もなかった。彼らの唯一の技法は、内側に入って光を巡らせることだった。

 

どのようにして光を巡らせるか、その具体的な技法についてはあとで触れる。今は道家の人々の方法がどういうものかを正確に理解する下地をつくっているだけだ。

彼らは言う――光を巡らせ、さらにそれをまわしつづけてゆくと、ある地点で光はおのずと結晶化する、と。

 

光を一点にとどめておくことは心配しなくてもいい。それをぐるぐるぐるぐるまわしてゆくと、ある瞬間、すべてのものが止まっているのに気づく。ヨーガが懸命に起こそうとしていることが起こっている。タオにおいては、それは自然に起こることだ。ヨーガにおいては、それは長く険しい努力の旅になる。ヨーガは男性指向だ。』

(黄金の華の秘密/OSHO/メルクマールP38-39から引用)

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-34(最終節)

2025-01-26 03:24:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎カイヴァリヤ:何かを言う可能性はここで終わる。これを超えるのは経験だけ

 

ヨーガ・スートラ4-34の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P143-)

 

ポイントは、以下。

1.カイヴァリヤは、三つのグナが再出現した後に続く悟りの状態。世界が止まり、刹那と刹那の間を見る。

※三つのグナの再出現とは、第六身体アートマンか。

2.幻想的な世界が夢のように消える時、それがカイヴァリヤ。その時、人は身元も名前も形もない純粋な意識となる。これは、独存であって、基本的で、最も本質的で、最も存在的で、純粋で、孤独。

※これは、有の側の現象が終わって、無に入ったことをカイヴァリヤと言うのだと思う。

3.人はカイヴァリヤになることができるが、カイヴァリヤを言うことはできない。経験することはできるが、言葉で説明できない。パタンジャリのカイヴァリヤとは、老子の道(タオ)であり、マハーヴィーラのモクシャであり、ブッダのニルヴァーナであり、今ここであり、体験とは言えない体験である。

4.苦しみはあなたの敵ではなく、単なる症状。すべてを正し、自己を正し、調和を取り戻し、自己を調整して、すべての苦しみが消えるとき、人は自分の性質と調和している。

 

※ヨーガ・スートラでは、カイヴァリヤから人間として再生しない。これは禅、水平の道、生の側から極める道とは異なる。インドでは、窮極の悟りをしたらそれで転生は終わり。

 

『(仮訳)

カイヴァリヤとは、グナがプルシャの対象(プルシャが認識するもの)を失うことによって再出現することに続く悟りの状態です。この状態では、プルシャは純粋な意識という本来の性質に確立されます。】終わり。

 

カイヴァリヤは、三つのグナが再出現した後に続く悟りの状態です...世界が止まり、プロセス、世界のクラマハが止まり、二つの時間の瞬間と二つの物質の原子の間を見ることができるようになり、空間に移動できるようになり、すべてが空間から生じ、再び空間に戻っていくのを見ることができるようになったとき、突然幻想的な世界が夢のように消えるとき、それがカイヴァリヤです。そのとき、あなたは純粋な意識として残ります - 身元も名前も形もありません。そのとき、あなたは最も純粋な存在となります。そのとき、あなたは最も基本的で、最も本質的で、最も存在的であり、この純粋さ、孤独に確立されます。

 

パタンジャリは言います、「カイヴァリヤは、グナがプルシャの対象を失うことによって再出現することに続く悟りの状態です。この状態では、プルシャは本来の性質に確立されます。」あなたは家に帰ってきました。旅は長く、苦しく、困難でしたが、あなたは家に帰ってきました。魚が純粋な意識という海に飛び込んだのです。パタンジャリはそれ以上何も言いません。なぜなら、それ以上言うことはできないからです。

そしてパタンジャリが「終わり」と言うとき、彼は単にヨーガ・スートラがここで終わると言っているのではありません。彼は「表現の可能性はここで終わる。究極の現実について何かを言う可能性はここで終わる。これを超えるのは経験だけです。表現はここで終わる」と言っています。そして誰もそれを超えることはできませんでした - 誰も。人類の意識の歴史全体において、例外は一つも存在しません。人々は試みました。非常に少数の人々がパタンジャリが到達した場所に到達しましたが、誰もパタンジャリを超えることはできませんでした。

 

だから私は彼がアルファでありオメガであると言います。彼は非常に初めから始めます。誰も彼より良い始まりを見つけることができませんでした。彼はごく初めから始め、ごく終わりに到達しています。彼が「終わり」と言うとき、彼は単に表現が終わった、定義が終わった、説明が終わったと言っています。もしあなたが本当に彼と一緒にここまで来たなら、これを超えるのは経験だけです。

 

今、存在的なものが始まります。人はそれになることができますが、それを言うことはできません。人はそれの中で生きることができますが、それを定義することはできません。言葉は役に立ちません。この点を超えるとすべての言語は無力です。単にこれだけを言います:人は自分の本当の性質を達成する - パタンジャリは止まります。それが目標です:自分の性質を知り、それの中で生きること - なぜなら、私たちが自分の性質に到達しない限り、私たちは苦しみの中にいるからです。

 

すべての苦しみは、私たちが何らかの形で不自然に生きていることを示しています。すべての苦しみは、何らかの形で私たちの性質が満たされていないことを示しています。何らかの形で私たちが現実と調和していないことを示しています。苦しみはあなたの敵ではありません。それは単なる症状です。それは示しています。それは温度計のようなものです。それは単にあなたがどこかで間違っていることを示しています。

すべてを正し、自己を正し、調和を取り戻し、戻り、自己を調整します。すべての苦しみが消えるとき、人は自分の性質と調和しています。その性質を老子は道と呼び、パタンジャリはカイヴァリヤと呼び、マハヴィラはモクシャと呼び、ブッダはニルヴァーナと呼びます。しかし、何と呼びたいかに関わらず - それには名前も形もありません - それはあなたの中にあり、今この瞬間に存在しています。

 

あなたは自分自身から出てきたために海を失いました。あなたは外の世界にあまりにも多く移動しました。内向きに移動します。今、これをあなたの巡礼にしましょう:内向きに移動します。

 

あるスーフィーの神秘家、バヤジッドがメッカへの巡礼に行く途中で起こったことです。それは困難でした。彼は貧しく、何年も物乞いをして旅費をなんとか工面しました。今、彼は非常に幸せでした。彼はほぼ必要な金額を持ってメッカに行き、そして彼は旅をしました。彼がメッカの近くに到達したとき、町の外で彼はファキール、彼の師に会いました。彼は木の下に座っていて、「おお、愚か者よ、どこへ行くのか?」と言いました。

バヤジッドは彼を見ました。彼はこんなに輝かしい存在を見たことがありませんでした。彼は彼に近づき、その男は「持っているものをすべて私にくれ!どこへ行くのか?」と言いました。彼は「私は巡礼のためにメッカに行く」と言いました。彼は「終わりだ。もう必要ない。私を崇拝しなさい。好きなだけ私の周りを回ることができる。あなたのパリクラマ、あなたの周回を私の周りで行うことができる。私はメッカだ」と言いました。そしてバヤジッドはこの人の磁力に満たされ、彼はすべてのお金を渡し、崇拝しました。そして老人は「今、家に帰りなさい」と言い、彼は家に帰りました。

 

彼が町に戻ったとき、人々は集まり、「何かがあなたに起こったようだ。メッカに行くことは本当に効果があるのか?あなたは輝いて見える、光に満ちている」と言いました。彼は「このナンセンスをやめなさい!一人の老人が私に会い - 彼は私の巡礼全体を変えました。彼は『家に帰れ』と言い、それ以来、私は家に帰り続けています、内向きに。私は到着しました。私は到着しました。私は私のメッカに到達しました」と言いました。

 

外のメッカは本当のメッカではありません。本当のメッカはあなたの内側にあります。あなたは神の神殿です。あなたは究極の住処です。だから、真実を見つける場所の問題ではなく、あなたがそれを失った方法の問題です。どこへ行くかの問題ではありません。あなたはすでにそこにいます - 行くのをやめなさい。

 

すべての道を捨てなさい。すべての道は欲望の道であり、欲望の延長であり、欲望の投影です:どこかへ行く、どこかへ行く、常に他の場所へ、ここではない。

 

求道者よ、すべての道を捨てなさい。なぜなら、すべての道はそこに通じており、彼はここにいるからです。

 

プルシャールタ(目的)がないグナ(性質)の逆行は、カイヴァリヤ(解脱)であり、それはチティ・シャクティ(意識の力)の本質において確立される。】」

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-33

2025-01-25 03:05:12 | 覚醒のアーキテクチャー

◎すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消える

 

ヨーガ・スートラ4-33の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P141-)

 

ポイントは、以下。

1.すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消える。

2.ヨーギは、冥想修行の最終段階で、すべてのグナがブラックホールに消え、無に消えていくのを目にする。だからヨーギたちは世界をマーヤ、魔法のショーと呼ぶ。世界全体が夢を見ており、世界全体が映像を投影している。

3.原子・物質は実体でなく、何もない空間が神である。

4.多数の静止画像が早く動くと、ものが動いているかのように思えるが、個々の静止画像と静止画像の間には空白がある。その空白の方が真理であり、神である。

5.すべてのグナが止まり、何も動いていないのを見たとき、突然、全体の物語が幻想的な動き、速い動きによって作り出されたことに気づく。

 

隙間理論について

以下の物理学での説明は、第一身体の肉体・物質レベルの例話に過ぎず、世界全体の現象を語るには、それに加え、第二身体エーテル体から第六身体アートマンまで全層において、個々の静止画像と静止画像の間には空白があると見なければならないと思う。それにより現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていると見る。

人間は、どういう状態になれば、それを目撃できるかと言えば、「三種のグナの変容の最終的な終わり」つまり今ここにいる場合であると思う。

「三種のグナの変容の最終的な終わり」とは、グナが無に消滅していく時であって、それは第七身体ニルヴァーナ(カイヴァリヤ)に到達した時。つまり、最終解脱しなければ、現象は、瞬間と瞬間の間に『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れていることを確認できないのである。

 

『(仮訳)

【(サンスクリット語の)クラマハ、すなわちプロセスとは、瞬間から瞬間へと起こる変化の連続であり、それは三つのグナの変容の最終的な終わりにおいて理解可能となるものです。

 

この小さなスートラの中で、パタンジャリは現代物理学が発見したすべてのことを述べています。ほんの30年か40年前には、このスートラを理解することは不可能だったでしょう。なぜなら、この小さなスートラの中に量子物理学全体が種の形で存在しているからです。そしてこれは良いことです。なぜなら、これは最後から2番目のスートラだからです。したがって、パタンジャリはこの最後から2番目のスートラで物理学の全世界を要約しています。その後、形而上学が続きます。これが本質的な物理学です。この世紀に物理学に訪れた最大の洞察は量子論です。

 

マックス・プランクは非常に信じがたいことを発見しました。彼は、生命は連続性ではないことを発見しました。すべては不連続です。ある瞬間の時間は別の瞬間の時間とは別であり、その二つの瞬間の間には空間があります。それらはつながっていません。別々です。ある原子は別の原子とは別であり、その二つの原子の間には大きな空間があります。それらはつながっていません。これが彼が「量子」と呼ぶものです:互いに橋渡しされていない、無限の空間に浮かぶ、別々の、独立した原子です。ちょうど一つのカートンから別のカートンにエンドウ豆を注ぐと、エンドウ豆がすべて別々に、独立して落ちるように、または一つの容器から別の容器に油を注ぐと、油が連続して落ちるように。

 

存在はエンドウ豆のように別々です。なぜパタンジャリはこれを言及するのでしょうか?それは彼が「一つの原子、もう一つの原子:これらは世界を構成する二つのものです。その二つの間には空間があります。それが全体を構成するもの、神です。空間と呼ぶか、ブラフマンと呼ぶか、プルシャと呼ぶか、何とでも呼んでください。世界は独立した原子で構成されており、全体はその二つの間の無限の空間で構成されています」と言っているからです。

 

今、物理学者たちは、もし私たちが全世界を押しつぶして空間を取り除けば、すべての星とすべての太陽はただ小さな球に押し込められると言います。それだけの物質が存在します。それは本当に空間です。物質は非常にまれで、ここやそこにあります。もし私たちが地球を非常に強く押しつぶせば、それをマッチ箱に入れることができます。すべての空間を取り除けば、信じられないことです!そしてさらに、もし私たちがそれをさらに押しつぶし続ければ、パタンジャリは「その少量さえも消えるでしょう」と言います。今、物理学者たちは、物質が消えるとブラックホールを残すと言います。

 

すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消えます。物質的な体があるように:地球、太陽、星々、それらに似た空洞、ブラックホールがあります。これらのブラックホールは凝縮された無です。それは単なる無ではありません。それは非常に動的です。無の渦です。もし星がブラックホールの近くに来ると、ブラックホールはそれを吸い込みます。したがって、それは非常に動的ですが、それは無です。物質はありません。単なる空間ですが、非常に強力です。どんな星でも吸い込むことができ、星は無に消えます。それは無に還元されます。したがって、最終的に、もし私たちが試みれば、すべての物質は消えます。それは巨大な無から出てきて、再び巨大な無に落ちます:無から出て、無に戻ります。

 

ヨギは最終段階でこれを目にします。すべてのグナがブラックホールに消え、無に消えていくときです。だからヨギたちは世界をマーヤ、魔法のショーと呼びました。マジシャンが数秒でマンゴーの木を作り出し、それが成長し続けるのを見たことがありますか?そして数秒でマンゴーが現れるのです...無からです。それはただの幻想です。彼は幻想を作り出します。おそらく彼はあなたの無意識に深いメッセージを送ります。それは深い催眠のようなものです。彼はアイデアを作り出しますが、そのアイデアを非常に深く視覚化し、それをあなたの無意識に非常に深く印象づけるので、あなたも彼が見せたいようにそれを見始めます。何も起こっていません。木はそこにありません、マンゴーもありません。そして、ただの大きな想像力からマンゴーの木を作り出し、マンゴーが現れることが可能です。それだけでなく、彼は一つのマンゴーを摘んであなたに渡すことができ、あなたは「とても甘い」と言うでしょう。

 

ヒンドゥー教徒は世界をマーヤ、魔法のショーと呼びます。それは神の想像です。全体が夢を見ており、全体が投影しています。

 

映画を見に行くと、大きなスクリーンで素晴らしい物語が演じられているのを見ます。そしてすべてが連続しているように見えますが、そうではありません。フィルムが少し遅く動くと、すべてが不連続であることがわかります - 量子です。一つの画像が消え、別の画像が現れ、また別の画像が消え、また別の画像が現れますが、二つの画像の間にはギャップがあります。そのギャップで本当のスクリーンを見ることができます。画像が非常に速く動くと、動きの幻想を作り出します。もちろん、映画フィルムは動いているフィルムではありません。それは他のどの静止写真と同じように静的な写真です。動きは幻想です。これらの静的な写真が非常に速く連続して動いているため、その間のギャップが非常に小さく、ギャップを見ることができません。だからすべてが連続しているように見えます。

 

私が手を動かすとき:この手が映画で動いているのを見せるためには、各静止状態の何千もの写真が必要です - この点からこの点まで、この点からこの点まで、この点からこの点まで。手の一つの単純な動きは、何千もの小さな静止動きに分割されます。そしてすべての写真が速く動くと、手が動いているように見えます。それは幻想です。深く見ると、二つの写真の間には白いスクリーンがあり、空です。

 

パタンジャリは「世界はシネマトグラフ、投影に過ぎない」と言います。しかし、この理解は、理解の最後のポイントに達したときにのみ生じます。すべてのグナが止まり、何も動いていないのを見たとき、突然、全体の物語が幻想的な動き、速い動きによって作り出されたことに気づきます。これが現代物理学で起こっていることです。

 

最初に彼らが原子に到達したとき、「これが究極だ。これ以上分割できない」と言いました。しかし、彼らは原子も分割しました。次に電子に到達しました。「これ以上分割できない」と言いました。今、彼らはそれも分割しました。今、彼らは無に到達しました。今、彼らは何が来たのかわかりません。分割、分割、分割、そして現代物理学では物質が完全に消えた点に到達しました。現代物理学は物質を通じて到達しましたが、パタンジャリとヨギたちは意識を通じて同じ点に到達しました。この最後から2番目のスートラまで、物理学は到達しました。この最後から2番目のスートラまで、科学者たちはアプローチ、理解、浸透を持つことができます。最後のスートラは科学者には不可能です。なぜなら、その最後のスートラは物質を通じてではなく、意識を通じてのみ達成できるからです。物体を通じてではなく、直接主観性を通じてです。』

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-2

2025-01-24 03:30:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヨーガは、私たちが切り離されてしまった無限の生命に到達するための努力である

 

ヨーガ・スートラ4-32の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P140-)

 

ポイントは、以下。

1.誰かが悟りを開くと、その人にとって世界は終わりとなる。他の人にとっては世界は続く。

2.ヨーガは、私たちが切り離されてしまった現実(無限の生命)に到達するための努力である。

 

『(仮訳)

目的を果たした後、三つのグナの変化のプロセスは終わりを迎えます。

 

三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマスの世界は終わりを迎えます。誰かが悟りを開くと、その人にとって世界は終わりを迎えます。もちろん、他の人々は夢を見続けます。もし、熱い砂の上で、焼ける太陽の下で苦しんでいる魚がたくさんいて、一匹の魚が何度も何度も試みて海に飛び込み、再び家に帰ると、その魚にとっては、焼ける太陽と熱い砂とすべての苦しみが消え去ります。それはすでに過去の悪夢です。しかし、他の人々にとっては、それは存在します。

 

ブッダやパタンジャリのような魚が海に飛び込むと、彼らにとって世界は消え去ります。彼らは再び海の冷たい子宮に戻ります。彼らは再び無限の生命に結びつき、つながります。彼らはもはや切り離されていません。彼らはもはや疎外されていません。彼らは気づきを得ました。彼らは新しい理解を持って帰ってきました:警戒し、悟りを開いた - しかし、他の人々にとっては世界は続きます。

 

パタンジャリのこれらのスートラは、家に帰った魚が、まだ岸で苦しんでいる人々に何かを伝えようとしているメッセージに過ぎません。彼らは海のすぐ近く、境界線上にいるかもしれませんが、どうやってそれに入るかを知りません。彼らは十分な努力をしていないか、間違った方向に努力しているか、単に苦しみに迷い込み、それが人生だと受け入れているか、非常に挫折し、落胆しているため、何の努力もしていないかのいずれかです。ヨガは、私たちが切り離されてしまった現実に到達するための努力です。再びつながることがヨギであることです。ヨガとは、再接続、再結合、再融合を意味します。』

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-1

2025-01-23 03:17:31 | 覚醒のアーキテクチャー

◎私たちは神を知るため、神の海から投げ出される必要があった

 

ヨーガ・スートラ4-32の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P139-)

 

ポイントは、以下。

1.悟りを開いた人にとっては、世界全体が止まり、世界は状況として存在する。それは神を忘れ、再び思い出すための状況。なぜそうなるかといえば、私たちは神を知るためには、神の海から投げ出される必要があったから。

2.悟りを開いたとき、彼は世界から卒業した。

3.人は苦しみを通して神を知るが、神を知った後の世界は以前とは違っている。もうすでに世界は何であるかを知っているから。

 

『(仮訳)

目的を果たした後、三つのグナの変化のプロセスは終わりを迎えます。

 

悟りを開いた人にとって、世界全体が止まります。なぜなら、もはや世界が続く必要がないからです。究極が達成されたのです。世界は状況として存在します。世界はあなたの成長のために存在します。学校は学ぶために存在します。あなたがその教訓を学んだとき、学校はもはやあなたのためのものではありません。あなたは卒業しました。

 

誰かが悟りを開いたとき、彼は世界から卒業しました。今、学校は彼にとってもはや何の役割も果たしません。今、彼は学校を忘れることができ、学校も彼を忘れることができます。彼は超越し、成長しました。その状況はもはや必要ありません。

 

世界は状況です:それはあなたが迷い、家に帰るための状況です。それは迷子になり、そして戻るための状況です。それは神を忘れ、再び思い出すための状況です。 しかし、なぜこの状況があるのでしょうか?

 

- それは微妙な法則があるからです:もしあなたが神を忘れることができなければ、神を思い出すことはできません。彼を忘れる可能性がなければ、どうやって思い出すのでしょうか、なぜ思い出すのでしょうか?常に利用可能なものは簡単に忘れられます。海の中の魚は海を知りません。彼はそれに住み、それに生まれ、それに死にますが、海を知ることはありません。魚が海を知る唯一の状況は、海から取り出されたときです。そのとき突然、これが海であり、彼の命であったことに気づきます。魚が岸に投げ出され、砂の上に投げ出されたとき、彼女は海が何であるかを知ります。

 

私たちは神の海から投げ出される必要がありました。彼を知る他の方法はありませんでした。世界は気づきを得るための素晴らしい状況です。苦しみがありますが、それはすべて意味があります。世界には無意味なものはありません。苦しみには意味があります。苦しみは、岸で砂の上で苦しんでいる魚のようなものであり、海に戻るためにあらゆる努力をしています。今、もし魚が海に戻れば、彼女は知るでしょう。何も変わっていません - 海は同じであり、魚も同じです - しかし、彼らの関係は非常に変わりました。

 

今、彼女は「これが海だ」と知るでしょう。今、彼女は海にどれだけ感謝しているかを知るでしょう。苦しみは新しい理解を生み出しました。以前も彼女は同じ海にいましたが、今や同じ海はもはや同じではありません。新しい理解、新しい気づき、新しい認識が存在するからです。

 

人間は神から投げ出される必要があります。世界に投げ出されることは、神から投げ出されることに他なりません。そして、それは全体の慈悲から、あなたが投げ出されるのです。そうすることで、あなたは戻る道を見つけようとします。努力によって、困難な努力によって、あなたは到達することができ、そして理解するでしょう。あなたは努力によってそれを支払わなければなりません。さもなければ、神はあまりにも安価になってしまいます。

 

そして、物があまりにも安価であるとき、それを楽しむことはできません。さもなければ、神はあまりにも明白になってしまいます。物があまりにも明白であるとき、あなたはそれを忘れがちです。さもなければ、神はあなたにあまりにも近くなり、彼を知るための空間がなくなります。それが本当の苦しみです。彼を知らないことです。

 

世界の苦しみは苦しみではありません。それは変装した祝福です。なぜなら、この苦しみを通してのみ、あなたは認識の素晴らしい喜び、顔を合わせて見ることの素晴らしい喜び...神聖な真実を知ることができるからです。』

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-30、4-31

2025-01-22 03:58:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎心を通じて得られる知識は、悟りを通じて得られる知識に比べて非常に少ない

 

心を通じて得られる知識とは、未悟の人がいわばスポットライトを当てた部分の知識のことであって、悟って宇宙全体が自分と合一すれば、宇宙全体がスポットライトを当てたように知ることのできる知識というようなところか。知識に絞ればそういう話なのだろう。

 

ヨーガ・スートラ4-30、4-31の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P139-)

(仮訳)

【次に、苦しみとカルマからの解放が続きます。心を通じて知ることができるものは、悟りによって得られる無限の知識に比べて非常に少ないです。悟りの中で、ベール、歪み、不純物が取り除かれるとき。】

 

ほんの数スートラ前に、パタンジャリは心が無限に知識を持ち、心は無限に知ることができると言いました。今、彼は心を通じて知ることができるものは、悟りによって得られる無限の知識に比べて非常に少ないと言います。 高く進むにつれて、各状態はあなたが超越した最初の状態よりも大きくなります。

感覚に迷っているとき、心は不完全に機能します。感覚に迷わず、体に執着しなくなると、心は完全に健康な状態で機能し始めます。心には無限の理解が起こり、無限を知ることができるようになります。

しかし、それも心が完全に取り除かれ、心なしで機能し始めるときに比べれば何でもありません。今や媒介は必要ありません。すべての車輪が消え、あなたは現実に直接触れます。心さえも仲介者として存在しません。何も間にありません。あなたと現実は一つです。心を通じて得られる知識は、悟りを通じて得られる知識に比べれば何でもありません。』

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-29

2025-01-21 05:54:32 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ダルマ・メーガ・サマーディ(Dharma megha samadhi)

 

パタンジャリのヨーガ・スートラは、この世の実体のないこと(空、空性)の実証である隙間理論に及んでいるので、その直前の節から読んでみた。

この節は、ヨーガ・スートラ4-29であって『永続的な識別知の中において、瞑想から得たどんなものからも自分自身を切り離せば、雲という特質を散り散りにするサマーディに入る』(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/ガイアブックスから引用)と訳されているが、これでは何のことかわからない。これがOSHOバグワンなら『最も高貴な悟りの状態に対してさえも、欲望のない状態を維持し続け、最高の識別力を発揮できる者は、「美徳の雲が降り注ぐ」として知られる状態に入ります。』となる。

 

そこで、OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 p138以下を仮訳してみた。

ポイントは、以下。

1.ダルマ・メーガ・サマーディは、地獄を抜けて天国をも抜けた位置。 すべての欲望が消えた瞬間のこと。自己さえももはや望まれず、死が恐れられないときが、ダルマ・メーガ・サマーディ。それは、最後の障壁。

2.ダルマ・メーガ・サマーディには見ている自分が残っているようだ。この地点からは、まだ戻る可能性がある。

3.キリスト教、ユダヤ教、イスラム教では、地獄と天国の二つの状態しか存在しないが、ダルマ・メーガ・サマーディは、キリスト教徒が天国と呼ぶもの呼ぶもの。西洋では、これを超えた宗教は存在しない。インドでは、地獄、天国、モクシャの三つがある。地獄は絶対的な苦しみ、天国は絶対的な幸福だが、モクシャ(ニルヴァーナ)はその両方を超えている。

4.ダルマ・メーガ・サマーディの天国という雲を超えれば、苦しみとカルマからの解放が続く。

5.ダルマ・メーガ・サマーディは99番目のポイントだが、蛇がいて元に戻る可能性があるので、蛇に捕まる前に、あなたは100番目のポイントである一円相にジャンプせねばならない。

 

【(仮訳)最も高貴な悟りの状態に対してさえも、欲望のない状態を維持し続け、最高の識別力を発揮できる者は、「美徳の雲が降り注ぐ」として知られる状態に入ります。】

 

ダルマ・メーガ・サマーディ:この言葉は理解される必要があります。それは非常に複雑です。そして、パタンジャリについて多くの注釈が書かれていますが、彼らはポイントを見逃しているようです。ダルマ・メーガ・サマーディとは、すべての欲望が消えた瞬間を意味します。自己さえももはや望まれず、死が恐れられないとき、美徳があなたに降り注ぎます - まるで雲があなたの頭の周りに集まり、美しい美徳のシャワー、祝福、大きな恵みが降り注ぐかのように.... しかし、なぜパタンジャリはそれを「雲」と呼ぶのでしょうか? - それを超える必要があるからです。それはまだ雲です。

 

以前は、あなたの目は悪徳でいっぱいでしたが、今は美徳でいっぱいです。しかし、あなたはまだ盲目です。以前は、苦しみだけがあなたに降り注いでいました。ただ地獄があなたに降り注いでいました。今、あなたは天国に入り、すべてが完璧に美しく、何も不満はありませんが、それでもそれは雲です。おそらくそれは白い雲であり、黒い雲ではありませんが、それでもそれは雲です - そしてそれを超える必要があります。だから彼はそれを「雲」と呼びます。

 

それは最後の障壁であり、もちろんそれは美徳のために非常に美しいものです。それはダイヤモンドで飾られた金の鎖のようなものです。それらは普通の鎖のようではありません。それらは非常に装飾的に見えます。それらは鎖というよりも装飾品のようです。誰もがそれにしがみつきたいと思うでしょう。誰が自分に降り注ぐ途方もない幸福、終わりのない幸福を望まないでしょうか?誰がこのエクスタシーの中に永遠にいたいと思わないでしょうか?しかし、これもまた雲です - 白く、美しいですが、それでも本当の空はその背後に隠れています。

 

この高貴な地点からでも、まだ戻る可能性があります。もしあなたがダルマ・メーガ・サマーディにあまりにも執着しすぎると、あまりにも楽しみすぎると、「私はこれでもない」と区別しないと、戻る可能性があります。

 

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教では、地獄と天国の二つの状態しか存在しません。これがキリスト教徒が天国と呼ぶものであり、パタンジャリがダルマ・メーガ・サマーディと呼ぶものです。西洋では、これを超えた宗教は存在しません。インドでは、地獄、天国、モクシャの三つの用語があります。地獄は絶対的な苦しみです。天国は絶対的な幸福です。モクシャはその両方を超えています:地獄でも天国でもありません。西洋の言語には、モクシャに相当する単一の用語は存在しません。キリスト教は天国で止まります - ダルマ・メーガ・サマーディ。誰がそれを超えることを気にするでしょうか?それは非常に美しいです。

そして、あなたは長い間非常に多くの苦しみの中で生きてきました。あなたは永遠にそこに留まりたいと思うでしょう。しかし、パタンジャリは言います、「もしそれにしがみつくなら、あなたは梯子の最後の段から滑り落ちます。あなたは家に非常に近づいていました。もう一歩で、戻れない地点に到達するでしょう - しかし、あなたは滑りました。あなたは家に到達しようとしていましたが、道を見失いました。あなたはドアのすぐそばにいました - ノックすればドアが開いたでしょう - しかし、あなたはポーチが宮殿だと思い、そこに住み始めました。」遅かれ早かれ、あなたはポーチさえも失うでしょう。なぜなら、ポーチは宮殿に入る人々のために存在するからです。それを住処にすることはできません。もしそれを住処にするなら、遅かれ早かれあなたは追い出されるでしょう:あなたは価値がありません。あなたは誰かのポーチに住み始めた乞食のようです。

 

あなたは宮殿に入らなければなりません。そうすればポーチは利用可能なままです。しかし、もしあなたがポーチで止まるなら、ポーチさえも取り上げられるでしょう。そしてポーチは非常に美しく、私たちはそのようなものを知らなかったので、確かに誤解します - 私たちは宮殿が来たと思います。私たちは常に不安、苦しみ、緊張の中で生きてきました。そして、究極の宮殿に非常に近い、究極の真実に非常に近いポーチでさえも、非常に静かで、非常に平和で、非常に至福であり、非常に大きな祝福であるため、それ以上のものが可能であるとは想像できません。あなたはここに定住したいと思うでしょう。

 

パタンジャリは言います、「気をつけていなさい。」だから彼はそれを雲と呼びます。それはあなたを盲目にすることができます。あなたはそれに迷うことができます。もしあなたがこの雲を超えることができれば - TATAH KLESA-KARMA-NIVRTTIH (「その後、苦しみとカルマからの解放が続く」)- その後、苦しみとカルマからの解放が続きます。

 

もしあなたがダルマ・メーガ・サマーディを超えることができれば、もしあなたがこの天国の状態、この楽園を超えることができれば、そのときのみ...その後、苦しみとカルマからの解放が続きます。さもなければ、あなたは再び世界に戻るでしょう。小さな子供たちがルード、梯子と蛇というゲームをしているのを見たことがありますか?梯子から彼らは上昇し続け、蛇から彼らは戻り続けます。ポイント99から、もし彼らが100に到達すれば、彼らはゲームに勝ち、勝利者です。しかし、ポイント99には蛇があります。もしあなたが99に到達すれば、突然戻り、再び世界に戻ります。

 

ダルマ・メーガ・サマーディは99番目のポイントですが、蛇がいます。蛇があなたを捕まえる前に、あなたは100番目のポイントにジャンプしなければなりません。そのときのみ、住処があります。あなたは家に帰ってきました。完全な円です。』

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Dream Truth

2025-01-10 06:55:27 | 覚醒のアーキテクチャー

◎あらゆる個生命達の、夢と真実と愛のストーリー

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。

 

『Dream Truth

 

この世のあらゆることには、

完成ということがない。

それは、時計が回るように回帰する。

人生それは、また時計のように成熟し得る。

時計には、個生命としての生老病死がある。

あらゆる個生命達の、

夢と真実と愛のストーリー。

 

THIS IS DREAM-TRUTH. 』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

私が18歳で東京に出てきた時、初めて三重複線の電車を見て、その壮観に驚いたものだ。回帰と言えば、人は何回かの輪廻転生を経て、ニルヴァーナへの突入あるいは神人合一をイメージする人が多いかもしれない。

 

上掲『時計が回るように回帰する。』について、今の私が見る限り回帰には、三重の回帰がある。

 

一つは、始まりはダンテス・ダイジ自身が示したように、未悟の愛妾ナツノやほとんど未悟の人生だった初期アトランティスのダンテス・ダイジの迷いと求道の人生。そして13番目の覚者ダンテス・ケンタウロス・アメンティの人生。そして、以後のヘルメスとしての人生、クリシュナとしての人生、雨宮第慈などの人生、そしてネオ・アトランティスの次の人生など7、8回の地上転生をへて、地球の転生コースを終えるというような複数転生で、大悟覚醒に至るというような回帰。事実インドのヨーガでは大悟覚醒後の再転生はない。

 

またダンテス・ダイジの韻文では『一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた』という一節や釈迦の後世が新宿のトルコ嬢(ソープランド)であったことを示唆するものもあり、聖者の前世が風俗嬢であっても何の抵抗もあるまい。覚者とは人類全体の実感、宇宙の実感を生きるものだから。またこの一説があることは、彼のやさしさそのものである。※

 

もう一つの回帰は、チベット密教で言うものであって、肉体死の瞬間に人は神(母の光明、原初の光)に出会っているが、実はその時神人合一(回帰)しているのであって、気がつかない人が大半なだけ。

 

いま一つの回帰は、隙間理論であって、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。ここに君の頭と君自身が並立して、個人と全体(神)の二重性が見える。

 

このように三重の回帰の説明が可能だが、実際のダンテス・ダイジの説明は、“今ここ”(過去現在未来と時間空間物質が一緒)に終始している印象があり、ひどくわかりにくいが、禅問答よりはましか。

 

※関係する謎の部分。

『二度とこの世に生まれることはないと

解脱涅槃を成就した仏陀が

新宿のホステスの私生児として生まれ

酒と麻薬の中に

トルコ風呂の女として死んだ

蟻達を殺して面白がっている子供は

蟻の時を持ち

蟻は人間の子供としての時を持つ時

昆虫を殺すことを楽しむ』

(【絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ】の詩『ただいのちだけが』の一部、P128-129から引用。)

 

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世界の秘密を見たがる者は、見たくもないものを見る

2024-12-02 05:09:26 | 覚醒のアーキテクチャー

◎世界の秘密へのアクセスに堪えられる自分かどうか

 

ダンテス・ダイジは、今後の人類は見たくないものを見ると予言している。最初これを聞いた時は、全面核戦争、ポール・シフト、大地震大洪水などの天変地異をイメージして、いやな気分になったものだ。最近はそれについては、釈迦もイエス・キリストも大悟直前に悪魔に襲われたのだが、人類全体が至福千年に入るには人類全体が大悟せねばならないが、その直前に人類も釈迦やイエスのような見たくもない体験を経ねばならないことを示唆していると考えるようになった。

 

世界の秘密や都市伝説もののyoutubeを見ると、焦点はひたすら世界の秘密を知りたいであって、いやなものを見ることへの恐怖や不安はほとんど感じられない。感性がフラットであるというのはわかるが、私の感じでは、善悪の切り分けと虐げられたものへの慈悲・愛に、やや関心が薄いのではないかと思われる。スピーカーの年齢は老若男女取り混ぜているので、全世代的にそうだが、若い人ほどその傾向が強いのかもしれない。

 

求道の道は、知の道、情の道とあって、知の道から入れば、確かにそうなのかもしれない。一方、幼少時から片親や両親早世で、無常を強く意識せざるを得ない環境に生まれてきた人に覚者が多いのは歴史的傾向だが、これが情の道。愛に飢える感じは、人を激しい情動に陥らせ、知の道よりも容易に窮極に導く傾向があるのだろう。

 

そうした例としては、禅で入った一休が、晩年は、念仏門に帰依してしまった消息に見える。

 

また善悪も知の限界も言わない只管打坐では、なぜか愛・慈悲に目覚める段階がある(“ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ”の只管打坐篇では、慈悲に目ざめる段階と身心脱落と二段になっている。)。

 

OSHOバグワン流に言えば、究極の悟りを得る中で、世界の秘密を見る人は多いが、それを外に語る人は極めてまれである。「世界の秘密を見た者はそれを語りたがる」の法則があるが簡単ではないのだ。

 

空海、釈迦、マリア・サビナなど世界の秘密を知ったものはいる。今度は、皆がそれを知る時代であって、その先ぶれとして、youtubeなどで競って、世界の秘密に近い情報を出しているのかも知れない。

 

結局最後は、自分が体験とは言えない体験をせねばアカシックレコードの読み取りはできないのだ。それはアカシックレコードにアクセスすることに堪えられる自分に成長しなければ起こらないのだろう。こうしたイベントは起こるが、しばしば当人は何が起こったかわからないということもある。

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OSHOバグワンの見る小悟

2024-10-21 06:50:29 | 覚醒のアーキテクチャー

◎見神、見仏、見性、一瞥(ちら見)が小悟

 

白隠は、何度も小悟した。その都度、渾身で感謝、感激と思い上がりを見せるものだから、かえって40代の大悟の印象が淡いものと思われるほどである。

 

さて、OSHOバグワンが、小悟の説明をしているが、要するに見神、見仏、見性、一瞥(ちら見)が小悟なのだ。曰く、小悟は、その敏感でかそけき花のような性質のために、雑にあるいは乱暴に取り扱うと元に戻ってだめになる。小悟は、得るのは大変だが、壊したり、だめにしたり、捨てるのは簡単である。曰く、小悟は妊娠のようなものだから、注意深く扱わねばならない、と。

 

これは、至道無難が、

「悟ったと同時にそれを守らせよ。そうすれば悪念が出ることはない。長年この心を養えば道人となる。

悟ったと同時に万事はこれだと教えると、大方悪人になるものである。悟りばかりを守る人は、大方坐禅にとりついて律宗になるものだ。」という所以である。

 

妊娠を小悟とすれば、出産は大悟。大悟をサマーディと呼ぶが、サマーディは、個人が宇宙全体に逆転する。よって、サマーディにはそれを体験する人間はいない(すでに人間はいない)。OSHOバグワンは、サマーディはその人を通じて全存在が光明を得ることと説明しているが、釈迦はこれを、私が光明を得た日に全存在が光明を得たと説明している。

OSHOバグワンは、サマーディとは、プロティノスの「休息」だとも言っている。万事休す。

OSHOバグワンは、本によっては、一瞥、小悟の話ばかりして、本筋がわからなくなる場合がある。冗長すぎる時があるのだ。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP244-250)

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主客逆転:ムラダーラとサハスラーラ

2024-10-19 03:06:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎個人の歓喜から世界のすべての至福へ

 

性的オルガズムとサマーディ(霊的な歓喜、大悟覚醒)では、会陰のムラダーラ・チャクラと頭頂のサハスラーラ・チャクラが同じ波長で振動し、歓喜が得られる。

ムラダーラ・チャクラとサハスラーラ・チャクラの間に生のすべての戯れ、すべてのスペクトルがある。

ところがこの歓喜の波動は、性的オルガズムにおいては、ムラダーラが主であり、サハスラーラはこだまであって従。

ところが、サマーディにおいては主客逆転し、サハスラーラが主であり、ムラダーラはこだまであって従。

 

すなわち性的オルガズムは、大悟覚醒以前のことであり、サマーディは大悟覚醒以後のこと。つまり大悟覚醒以前はムラダーラ・チャクラが世の帝王なのだが、大悟覚醒以後はサハスラーラ・チャクラが主客逆転して世の帝王となる。これは、世の終わり以前は神知らぬことが当たり前だったが、至福千年では、神知ることが当たり前になり、あらゆる価値観が逆転することを意味する。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP180-181)

同様のことは、次のように古来から世界各所で言われている。

  1. ユダヤ・キリスト教では、人に打ち捨てられた石が北東に置かれるのだが、それが長い年月の末に、滅びることのない神の神殿の基礎となるという伝承がある。
  2. 長年月北東に監禁されていたもともとこの世の主宰神であった艮の金神が、現代に至って再び地球の主宰神である国之常立神として復活する。(出口王仁三郎)
  3. イエスは磔刑直前に弟子の足を手づから洗って見せ、最も低きに置かれていた平民が神となる手本を示して見せた。

 

性的オルガズムは、個人の歓喜という体験に過ぎないが、大悟覚醒を経て人は神になり、サマーディという体験とはいえない体験、至福に逆転するのだ。

 

サマーディ:サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定には人が出たり入ったりできるが、サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。

サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

 

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隙間理論の断片

2024-10-17 05:32:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎見守ることを通して奇跡が起こる

 

意識の流れと言えば、小説家のジェイムズ・ジョイスやマルセル・プルースト。若い時に読んで全然面白いとは思わなかった。

意識の流れ、心理の流れといえば、精神方面のことであって、物質方面、現実のできごと方面のこととは、まず思わないのだろうが、実はそこにのっぴきならない、ままならない現実がある。

 

ニルヴァーナ、悟りは、物質でもなく、心理でもなく、精神でもなく、感情でもないことを原始仏教の9段階説は示しているのだが、OSHOバグワンは、ここに現実とは、ニルヴァーナがはさみ込まれていることを示す。

その発想は、ヨーガ・スートラを描いたパタンジャリもそうだっただろうとOSHOバグワンは見ている。時間とは、〈現象〉〈現象〉〈現象〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉と進行しているのが、隙間理論であって、古代インドのパタンジャリの見方。この〈現象〉には、心理も意識も感情も現実の出来事も含まれる。〈隙間〉の存在に気づけば、〈現象〉〈隙間〉〈現象〉〈隙間〉〈現象〉の全体が意識の流れであって、その時ウパニシャッド以来の求道者にとってほとんど最後のテーマである『睡眠時の夢のない時間帯こそ神』に至る。

 

以下は、OSHOバグワンの隙間理論に関する断片。

『至福 BLISS

 

至福はかぐわしい香りだ。 それをじかに手に入れることはできない。あなたはバラの繁みを育てなければならない。バラの花が咲いたら、香りは自然に放たれる。至福は瞑想のかぐわしい香りだ。瞑想とは、もっともっと静かになることだ。

 

喧しい人は至福に満ちることができない―――彼には沈黙の音楽が必要だ。だが私たちの心はあまりにも騒がしい。私たちは頭のなかにまるごと世間を、あらゆるたぐいのガラクタを持ち運んでいる。しかも私たちはひとりではなく、内側では群衆、多くの人々であり、彼らは絶え間なく口論し、闘い、互いを支配しようとしている。心の断片のひとつひとつが優位に立とうとしている。絶え間のない内なる政治がある。この絶え間のない内なる戦争のなかに至福を見つけることはできない。

 

至福は、この絶えざる戦争がやんで初めて生まれてくることができる。それを終わらせることはできる。それを超えることはそんなに難しいことではない。必要なのは〈気づき〉だけだ。私たちはこの打ち続く現象全体に気づいていない。それは底流のように内側で続いている。私たちはほとんどそれを意識していない。昼も夜もつねにそこにあるが、私たちはそれに意識的ではない。

 

それに意識をもたらしなさい。ゆっくりと、喧騒の微妙な層を見守っていると、だんだんとあなたは頭のなかに精神病院と見まがうばかりのおしゃべりがあることに気がつくようになる。私たちはこの悪夢のなかに暮らしている!

 

見守ることを通して奇跡が起こる。見守ることができたものはすべて消えてゆく。それが蒸気のように消えてなくなる瞬間、あなたのもとには深い静寂が残る。最初のうちは間合い、思考がやんだときの小さな透き間、実在を見ることができる小さな窓があるだけだ。だが、この透き間は少しずつ大きくなってゆき、もっと頻繁に来るようになり、そしてもっと長くそこにとどまるようになる。

 

この透き間は古代の神秘家たちによって割りだされてきた―――私は彼らにまったく同意する―――四八分間、まったき沈黙のなかにとどまることができるなら、その人は光明を得て、絶対的な至福に満たされるようになる。そうなればそれは永久に続き、あと戻りすることはない。あなたは彼方へとおもむき、時間とその移ろいゆく砂原を超えた場所に到達している。永遠なるものの岩盤に到 達している。人はここで初めて自らの不滅性を了解する。

これがサニヤスの究極の目標だ。

 

THE GOLDEN WIND』

(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP275-276から引用)

 

現象が、蒸気のように消えるのは、色即是空。

この隙間は最初小さいとは、クリシュナムルティも釈迦も空海もこの隙間であるニルヴァーナを明星と見ていたが、やがて大きくなっていったことを指すのだろう。

 

この透き間がだんだん大きくなって、毎日来ていたのが、クリシュナムルティのotherness

 

48分間、隙間・ニルヴァーナに居られれば不退転となるとは、計測していたのだろう。

 

悟りに必要なのは、隙間への〈気づき〉だけだ。

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