アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一遍の三段目

2024-10-31 03:29:46 | まはさてあらん、AEIOU

◎仏と個人の二重の世界を生きている

 

一遍は、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」の歌を詠んで、由良の法燈国師心地覚心に印可(さとりを証明)されたと思っていたが、その先があったようだ。

 

一段目。

兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。

となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃった。

 

二段目。

そこで、一遍は、また「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠じ直したところ、

国師は、その歌を悟りと認めた、とかつて書いた。ところが三段目があるらしい。

なるほど、この歌では仏もわれもないのは、ニルヴァーナっぽいが、南無阿弥陀仏が残っている。ニルヴァーナではないのだ。

つまり一遍は、マントラ・シッディ特有のすべてが南無阿弥陀仏である世界に入ったのであって、大悟ではなかった。

 

三段目。

行状によると、一遍は翌年再び由良に来て、

「すてはてて身はなきものとをもひしに

寒さきぬれば風ぞ身にしむ」

と詠んだ。

 法燈国師は、この歌を覚醒と認めて、手巾・薬籠を与え印可された。

 

この歌は、わが身が残っているかのように思われるが、覚者は、仏と自分個人という二重の世界観を生きている。

 

京都鴨川の河原で何年も乞食をやった大徳寺の大燈国師の歌。

こもかぶり 乞食じゃないぞ 寒牡丹

 

冬支度でわらをかぶった牡丹。牡丹は、仏あるいは真理のシンボル。乞食が個人。仏と個人の二重の世界を生きている。

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虚堂智愚の小悟、大悟

2024-10-30 03:44:14 | 達磨の片方の草履

◎疎山寿塔の公案は曲者

 

虚堂智愚(1185-1269)は、宋末の人。京都紫野の大徳寺は、この人なくしては成立しなかった。

 

虚堂智愚(1185-1269)は16歳で出家。運庵普巌に参禅し、古帆未掛(こはんみか:舟に古くからの帆すらかかっていなかった時はどうか?)の公案をもらい、最初は何を言っても師運庵に罵倒された。

ある日、ものごとに大小の区分はないという見解をもって師に参禅したところ、古人のことを論評していつ終わりがあるかと返され、退散した。

虚堂智愚は、ひどく落ち込んだ。ところが突然、古帆未掛の公案が見極められ、さらに「清浄な行者は涅槃に入らない」という公案をも会得し、他のいくつかの初歩的公案もわかってきたことを自覚したので、翌朝参禅(師に回答を呈示すること)した。運庵師は、彼の顔色が違っていたので、古帆未掛の公案をやめさせ、南泉斬猫(南泉が寺の皆でかわいがっていたペットの子猫を斬る)の公案を与えた。

この公案には、趙州が草履を頭に載せた故事があるが、虚堂が「大地ですら、載せて起こせません。」と答えたところ、師は頭を低めて微笑した(小悟を認めた)。

 

この小悟から半年たったが、心は昔のように騒がしくなることがあった。そこで、疎山寿塔の公案を与えられ、三、四年苦しんだ。

ある日、無心になって、この公案に出てくる羅山禅師が光を放った時のことを納得して、ようやく自在を得て人にごまかされなくなった(大悟と思われる)。この時、以前看ていた公案を見直してみたら、今日の所見と全く異なっていたことから、悟りは言葉で言えるものではないと信知した。

(参照:「悟り体験」を読む (新潮選書)/大竹晋/新潮社P51-54)

 

虚堂智愚は、74歳にして中国の阿育王山の住職であったのだが、1256年(宝祐三年)讒言にあい、僧籍を剥奪されて一か月獄に入った。

出獄直後の1259年、大応国師南浦紹明は、虚堂智愚に出会い、嗣法(悟りを認められた)して帰国。その後大徳寺開祖の宗峰妙超(大燈国師)に悟り(ニルヴァーナ)を伝えた。

 

臨済禅中興の祖白隠も、長野県飯山の正受老人膝下で修行中は、穴ぐら禅坊主と呼ばれ、何か月も白隠を怒鳴りつづけた。ある日托鉢中に他家の門口で、老婆のあっちへ行けという声に気がつかなかった。老婆が箒を持ってきて、白隠の腰をしたたかに叩いた。その途端に、白隠は与えられた南泉遷化の公案(南泉という坊さんの死はどういう意味か?)や疎山寿塔の公案などがはっとわかった。疎山寿塔の公案は白隠の小悟のきっかけになった。

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道元が子猫を斬らず

2024-10-29 20:55:49 | 只管打坐neo

◎禅マスター南泉の子猫斬り

(2021-06-02)

 

猫はかわいいものだが、子猫は無邪気さが加わってさらにかわいい。

 

南泉が住職の寺で、ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の子猫をどちらが飼うかについて言い争っていた。

そこに南泉がやってきて猫をぶら下げて言った。

「僧たちよ、誰か大正解の一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう。」

暫時待ったが、残念ながら誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を両断した。

そこに趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った公案を呈示すると、趙州は履(くつ)を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。

南泉は、あいつがあの時いれば、子猫は斬られずに済んだのに、とつぶやいた。

 

この出来事以後の南泉はダメになったと評価されたりもしている。

 

道元は、衆僧に代わって『南泉は只一刀で二つに斬ることを知っているが、只一刀で一つに斬ることを知らない』と答えてみせ、子猫は世界全体であり、これを見て直ちに衆僧は悟りを開かねばならないとする。(正法眼蔵随聞記巻二)

 

一般に仏僧にとっての殺生は、戒律を破ることだが、チベット密教のグルが、多くの動物を殺しては焼いて食べて、これは動物を供養しているのだなどと説明したり、不淫戒を守るはずの一休宗純が大徳寺の法事で大勢の読経の声が聞こえる別室で、愛人と快楽の限りを尽くしたりと、戒律をマスターが破るということはあるものだ。

 

イエス・キリストだって、弟子の前で愛人とキスしたり、他の弟子が当惑するようなことをすることはあるものだ。

 

この事件以後南泉を貶める評価もあるが、あまり真面目にとりあうこともないのではないかと思う。

子猫には、長寿も短命もあり、短命は短命なりの一生の中に春夏秋冬を持っているものではないかと思う。

弟子の僧たちは、一刀両断された子猫を見て、自分が一刀両断されたショックを感じ取らねばならなかったのだ。

道元は親切で優しい。

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疎山の寿塔の値段

2024-10-29 03:12:54 | 達磨の片方の草履

◎自分の墓とその費用のことを気にする

 

疎山匡仁(洞山良价禅師の法嗣)は、くる病で背が低く、食べたものをすぐに吐き出す病気を持っていた。

疎山に主事僧が寿塔(生前に建てておく墓)を造り終わった旨を伝えた。

疎山「石屋にいかほど銭を与えたか」と問うた。

僧は、「すべて和尚様次第です。」

疎山、「石屋に三文を与えたらよいか、それとも二文を与えたらよいか、一文を与えたらよいか、言ってみよ!もし言えたら、本当に私のために寿塔を造ったことになる。」

主事憎は、これを聞いて茫然自失して、何も言えなかった。

後にある僧が、大嶺に住庵していた羅山道閑にこのことを告げた。

羅山は、まだ誰も答えていないと聞いて、「お前は帰って疎山に、羅山は次のように言っていたと告げよ。

もし三文を石屋に与えたならば、疎山は生きている限り決して寿塔を得ることはできますまい。

もし二文を与えたならば、疎山は石屋の手伝いをせねばならないだろう。

もし一文を与えたならば、疎山も石屋も眉鬚堕落(言語を弄してみだりに仏法を説くと、その罪で眉やひげが脱け落ちてしまうこと。)することになるだろう。」

 

その僧は、このことを疎山に告げた。疎山は、威儀を正して大嶺を望み、礼拝して嘆じていわく、「この世では、真の禅者はいないと思っていたが、大嶺に古仏がいて、その光がここまで届いた。ちょうど12月に 蓮の花が開いたようだ。」

羅山は、これを聞いて言うには、「もう亀の毛が数メートル伸びてしまったわい。」

 

疎山は、諸々の聖者のあとを追わず、自己の神聖性をも重んじないという厳しい考え方を貫いてきたのだが、晩年になって自分の墓とその費用のことを気にするようになっていた。

最高額の三文払ってもらいたいが、そんなことをすれば、禅者としてはダメだ。

二文ならば適正価格かもしれないが、そんなことを言っているようでは、疎山は石屋の手伝いをせねばならない。

最低額の一文なら、疎山の法身(人によって法身が異なるとも思えないが)の値段としては安すぎる。

つまり三文でも二文でも一文でもだめなのであって、本当に本当に自分が死なねばならない。

羅山は、徹底していない疎山の応答が気にいらず、亀の毛が数メートル伸びたと評しただけだった。

 

出口王仁三郎は、随筆月鏡で「怒声と悲鳴とが魂の長さと幅である以上は、幅の分らぬ人間こそ真の人間であり神の子である。」と唱えた。疎山は、長さと幅を測りに行った。

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南泉が生まれ変わって水牛になる

2024-10-28 03:46:17 | 達磨の片方の草履

◎盗人のとりのこしたる窓の月

 

南泉普願(七四八~八三四)が、病を得て亡くなるとき、第一座の僧の趙州がたずねた。

 

趙州「和尚は有(有の側)を知る人ですが、百年の後(亡くなった後)どこに生まれ変わるのでしょうか。

南泉「山の下の檀家の一頭の水牛となる」

趙州「お示しありがとうございます。」

南泉「昨夜の真夜中、月がおれを迎えに来た。」

 

半生を善を行い続けた南泉にして水牛に転生するしかない。

宗教や信仰の窮極は、永遠の安楽な生活にあると思っている人が多いのかもしれないが、そんな淡い願望を高僧南泉の臨終のやりとりは打ち砕いていく。

 

それでも人は何のために生き、何のために生まれ変わってくるのだろう。

 

盗人のとりのこしたる窓の月

(良寛)

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イエスが海の怪物リヴァイアサンを吊り上げる

2024-10-27 06:50:35 | 人と神の「実際のところ」

◎無意識である魚を神化する

この絵は、旧約ヨブ記41章1節の海の怪物リヴァイアサンが、餌としての十字架に喰らいついている図(フォン・ランツベルク「快楽の園」(1180年頃))。

リヴァイアサンの口は上を向き、十字架を飲み込もうとしているが、十字架の先には七つのチャクラにして七つの次元七つの身体である七つのイエスの顔がついてる。

そして神としてのイエス・キリストが、餌にかかったリヴァイアサンを引き上げようとしている。リヴァイアサンは、地獄であって欲望の表象だが、地獄の底も天国の天辺も根こそぎ引き上げるのだ。一本の釣り糸なる霊線

七つの次元、七つの身体を用いるキリスト教は、クンダリーニ・ヨーガ系だが、冥想法があまり明かされていないのはなぜだろうか。

 

イエスのシンボルは魚である。魚は無意識の表象で、無意識を意識化するのが悟り、ニルヴァーナ、神化。

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巌頭の剣

2024-10-26 03:50:40 | 達磨の片方の草履

◎僧は自分の首がストンと落ちたことに気がつかなかった

 

巌頭が僧に問うた、「どこから来た」。

僧「長安から来ました」。

巌頭「黄巣が通り過ぎてから、剣を手に入れたか」。

〔安禄山の乱後100年ほどして黄巣の乱が起きて、唐朝滅亡に導いたが、黄巣は「天賜黄巣」と銘のある剣を手に入れて、反乱を起こし、880年長安を陥れ大斉国を建てたが、唐朝の反撃にあい、884年郷里の山東で自決した。その剣のこと。〕

 

僧 「手に入れました」。

巌頭は首を伸ばし差し出して、「ストン」。

僧「先生の首が落ちました」。

巌頭はカラカラと大笑いした。

僧はその後、雪峰のところに来た。

雪峰「どこから来た」。

僧「巌頭から来ました」。

雪峰「なんと言っていたか」。

僧は先の話を提起した。

雪峰は三十棒食らわして追い出した。』

(碧巌録第六十六則)

 

巌頭も雪峰も、さっさと自分の首を落としなさいと言っている。

 

さらに、

『竜牙が修行行脚していた時、この問いを出して、徳山に問うた、「拙者が鏌鋣(ばくや)の剣を持って先生の首をとろうとしたらどうしますか」。⦅鏌鋣の剣:名剣の代名詞⦆

徳山は首を伸ばし差し出して、「ストン」。竜牙 「先生の首が落ちました」。

徳山は方丈に帰った。

竜牙は後に洞山にこの話をした。

洞山「徳山はその時何と言った」。

竜牙「何も言いませんでした」。

洞山「何も言わなかったことはさておき、わしに徳山の落ちた首を貸してくれないか」。

竜牙は言下に大悟した。そして、香を焚き遥かに徳山を望んで礼拝し懺悔した。ある僧が徳山に伝えた。徳山「洞山のおやじ、善し悪しを知らんな。こ奴は死んでからかなりたつ。救って何になろう」。

 

この公案は竜牙のと同じだ。徳山が方丈に帰ったのが、言葉にならない最も玄妙なところだ。』

 

首を落とされた徳山が無言で自室に帰ったのは、竜牙に見込みがあったからだろう。

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神秘主義

2024-10-25 03:39:08 | 浅い霊感から神人合一まで

◎無時間の神秘

 

ダンテス・ダイジの文章には、神秘という言葉が神の実相を語る表現としてしばしば登場してくる。

『人間を越えようとする

意味づけることのできぬ永劫の情熱

それがいつ人間性の極限をもつき破って

無時間の神秘を実在せしめたのかは

誰も知ることがない』

(ダンテス・ダイジの詩:【何と人間らしいことか】から引用)

 

OSHOバグワンは、神秘主義について、もっと平易に語る。すなわち、

科学は、世界を「知られたもの」と「未知なるもの」に分けるが、「知りえないもの」などないと思っている。

神秘主義では、「知られたもの」と「未知なるもの」と「知りえないもの」の3区分に分ける。知る人と知られるものが一体となるとき、知ることはあり得ない。知る人と知られるものが一体となることを体験とは呼べない体験と呼び、この体験を知ることはできず、ただ経験することができるだけである。

これが「知りえないもの」である。自分という個人が知る人で、これが知られるものである宇宙全体・世界全体と合一するのは、第六身体アートマンであって、個と宇宙全体が逆転すること。

 

この体験については、言葉では語れないから口を閉ざしているしかない。なんという神秘、ミスティシズム(mysticism)。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP322-327)

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恋人たちは互いのなかに死ぬ

2024-10-24 03:47:14 | 人と神の「実際のところ」

◎愛は死だ

 

愛は死だ。自分が落ちる。これは、真剣な恋愛経験者なら誰でも知っている。

近松門左衛門の情死物に心が揺すぶられるのは、現代人も同じ。

 

OSHOバグワンの説明。

『そしてこれらだけが死の形ではない。さらにもっと微妙な死の形もある。恋に落ちるとき、あなたは死ぬ。愛は死だ。それは最も純粋な死だ。死をもいとわない者だけが愛することができる。死ぬことを恐れる人は、愛することもまた恐れる。世界に愛が欠けているのはそのためだ。人々はいつも愛について考える―それについて幻想を抱くが、そのなかに入っていこうとはしない。なぜなら、愛は死だからだ。死があなたをおびえさせる。

 

恋人たちは互いのなかに死ぬ。互いのなかに死ぬことができる者たちだけが恋人どうしになる。ほかの者たちはゲームを演じているにすぎない。愛のゲームはほんとうの愛ではない。それはまがいものだ。数知れぬ人々がまがいものにとどまっている――彼らは死を恐れ、それゆえに愛をも恐れているからだ。愛はつねに死をもたらす。愛は死への扉であり、死は愛への扉だ。

 

あるいは瞑想をするとき、そのときにもあなたは死ぬ。人々が瞑想に深く入ってゆくことを恐れるのはそのためだ。毎日、誰かが私のところにやって来て言う――「和尚、それが起こりはじめました。私は怖くなってしまいました。心の底から恐ろしくなりました。瞑想が起こっているので す。まるで自分が消えてしまうような気がします。どうか私を守ってください」彼は瞑想に意欲的だった――それが起こっていないとき、彼はそのことをひどく心配していた。今やそれが起こりはじめ、それがまた不安の種になる。私は理由を知っている――瞑想について読んだり聞いたりしているうちに、彼は強欲になってしまったのだ。瞑想が人を深い死に導くことに気づかないまま。

 

あるいは、あなたは師に自らを明け渡す。それは最も深遠な死のひとつだ――自我が死んで、消えうせる。これらはみな死であり、死はつねにやって来つつある。』

(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP256-257から引用)

 

『恋人たちは互いのなかに死ぬ。』というが、そんな相手に簡単にマッチングアプリで出会えるものだろうか。

 

後に大悟覚醒した冥想修行者たちは中国や日本中を回って真正の悟ったマスターを探したが、そう何人もいるものではなかったことを知った。会員多数のマッチングアプリの向こうに、互いのなかに死ねる恋人候補が何十人もいるわけではないと思う。

まず自分が死ぬ覚悟があって本物のマスターに出会えるのと同様に、自分が死ぬ覚悟があれば本当の恋人にも出会えるだろうと思う。

 

愛は悲しい。

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万有と道

2024-10-23 03:16:39 | 人と神の「実際のところ」

◎祖先が一番初めに通った道

 

出口王仁三郎の随筆から

『万有と道

 

鳥獣類にも皆彼等が通行する道というものが定まっているのである。そして、その道以外、決して他の道を通らぬものである。だから猪でも鴨でもその通る道に待伏せしていると、きっとそこを通るから捕獲することが容易に出来るのである。その道というのは彼等の祖先が一番初めに通った道であって、子々、孫々その道を通るのである。決して勝手次第に歩くもので無い、総てのものは道によって立っている。神も道によって立ち、人も道によって立ち、万有も道によって立つ。』

(水鏡/出口王仁三郎から引用)

 

人間にも道があって、それは祖先が一番初めに通った道。その道は、完全人、あるいは真の人を念頭に置いている。イブを分離する以前のアダムが完全人アダムカドモン

 

アダムカドモンとは、原人、原始の人などと訳されるが、人間の祖型にして完成した人間の謂いである。完成したというニュアンスには、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗などの二元の両方すなわち両性具有が含まれる。荘子の真人もアダムカドモンと同義。禅の信心銘のえり好みをしないというのも同じ流れ。

タロットなら魔術師

 

古事記ならウガヤフキアエズが完全人。

古事記のウガヤフキアエズのところでは、卑しい竜女がウガヤフキアエズという人間を産むのだが、これが人間の進化すなわちジャンプアウト(垂直上昇)を象徴している。これは逆転の示唆でもある。      

古事記上つ巻は、ウガヤフキアエズの段で終わっている。出口王仁三郎は、終わりの時代に、上つ巻の内容はすべて現実化すると予言している。

 

さて道と言えば、出口王仁三郎著作集に真人の道という文章がある。真人の心が真心。

『真心とは、天地の先祖の大神の大精神に合致したる清浄心である。』

大神の大精神に合致したる清浄心とは、真似ぶことでは、なかなか到達することはできず、大神と神人合一することを言っているように思う。

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魂の入れ替え

2024-10-22 03:35:03 | 人と神の「実際のところ」

◎意につくす能はざるところに神の権威があり、また真理がある

 

出口王仁三郎の随筆から

『神様と味はひ

 

書は言を竭(つく)す能はず、言は意を竭す能はず、意は真を竭す能はずと云ふことがある。

意に竭す能はざるところに神の権威があり、又真理がある。神は説明することは出来ぬ。恰(あたか)もボタ餅がうまいと云つても、どんなに甘いといふことは、味はぬ人に説明することが出来ないやうなものである。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

神様は味わってみなくては、わからない。

見るだけでは、足らないのだ。

 

さらに

『魂の入れ替え

 

人間は誰でも毎日魂を入れ替へてもらつてゐる。そのために善悪の言心行となつて現はれる。改心慢心は魂の入れ替つてゐる證拠である。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

 

これは、隙間理論によれば、刹那毎に人間の魂は入れ替わっている。

あるいは、夢を見ない熟眠時に毎晩人間の魂は入れ替わっている。

出口王仁三郎は、一体どういうつもりでこれを書いたのだろう。

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OSHOバグワンの見る小悟

2024-10-21 06:50:29 | 覚醒のアーキテクチャー

◎見神、見仏、見性、一瞥(ちら見)が小悟

 

白隠は、何度も小悟した。その都度、渾身で感謝、感激と思い上がりを見せるものだから、かえって40代の大悟の印象が淡いものと思われるほどである。

 

さて、OSHOバグワンが、小悟の説明をしているが、要するに見神、見仏、見性、一瞥(ちら見)が小悟なのだ。曰く、小悟は、その敏感でかそけき花のような性質のために、雑にあるいは乱暴に取り扱うと元に戻ってだめになる。小悟は、得るのは大変だが、壊したり、だめにしたり、捨てるのは簡単である。曰く、小悟は妊娠のようなものだから、注意深く扱わねばならない、と。

 

これは、至道無難が、

「悟ったと同時にそれを守らせよ。そうすれば悪念が出ることはない。長年この心を養えば道人となる。

悟ったと同時に万事はこれだと教えると、大方悪人になるものである。悟りばかりを守る人は、大方坐禅にとりついて律宗になるものだ。」という所以である。

 

妊娠を小悟とすれば、出産は大悟。大悟をサマーディと呼ぶが、サマーディは、個人が宇宙全体に逆転する。よって、サマーディにはそれを体験する人間はいない(すでに人間はいない)。OSHOバグワンは、サマーディはその人を通じて全存在が光明を得ることと説明しているが、釈迦はこれを、私が光明を得た日に全存在が光明を得たと説明している。

OSHOバグワンは、サマーディとは、プロティノスの「休息」だとも言っている。万事休す。

OSHOバグワンは、本によっては、一瞥、小悟の話ばかりして、本筋がわからなくなる場合がある。冗長すぎる時があるのだ。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP244-250)

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周史卿

2024-10-20 03:16:05 | 浅い霊感から神人合一まで

◎仙丹を完成直前に盗まれる

 

周史卿は浦城の人である。 宋の淳祐年間、一人の異人に逢って養生の秘訣を授けられ、それより油果山に上って略二十年計り修煉し、仙丹ようやく出来上らんとした時、ある晩、雨風雷鳴烈しく起こって、長年の間丹精を入れて作り上げた仙丹はその夜、何者かに盗まれてしまった。そこで、史卿は、「自分はこれから神魂を飛ばしてあまねく世界中を探し求めるから、自分の遺骸はしばらくの間大切に保護をして置いてくれ。七日目にはきっと帰って来るから。」と妻に告げて、そのまま身を横にすると、たちまち息が絶えてしまった。

然るに六日目になると、ここに一人の僧侶が訪ねて来て彼の妻に向い、一体道士という者は唯だ精神のみを重んじて、形骸は糞土の程にも思っていない、否むしろ却って自分の心を累はす邪魔物位に思っている。故に遺骸などは一日も早く焼き捨てた方がよいと説き勧めたので、妻はうっかりその言葉を信用し、史卿の遺骸を焼き葬ってしまった。

 

然るにその翌日になって果して史卿の神魂は帰って来たけれど、今は宿るべき形骸が無いので、二三日家の附近をうろうろしていたが、ある日空中に只声のみがして、痛く妻の不心得を叱るようであったが、その後いずことも無く立去ってしまった。

 

これは、出神のことなのだろうと思う。仙丹をほぼ完成し、これを誰かに盗まれたというのは、方便であって真相を妻に話しても理解できまいからそのように説明したのだろう。

やがて肉体を七日間仮死状態にして、後に肉体に帰還しようと思ったが、肉体は火葬されてしまって、周史卿一生の修行は、画竜点睛を欠くこととなった。

最後の最後で、そういうことが起こるのはよくよくの因縁があることだが、イエスも釈迦も最終段階の直前に魔に会っていることと同様か。

覚醒に耐えうる肉体づくりも重要なテーマであるから、史卿はこの窮地を予想できない自分を責めたのだろう。

 

表面的には、僧侶にも妻にも悪意はなかったと思われるが、史卿にとっては、それも含めて修行となった。

 

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主客逆転:ムラダーラとサハスラーラ

2024-10-19 03:06:15 | 覚醒のアーキテクチャー

◎個人の歓喜から世界のすべての至福へ

 

性的オルガズムとサマーディ(霊的な歓喜、大悟覚醒)では、会陰のムラダーラ・チャクラと頭頂のサハスラーラ・チャクラが同じ波長で振動し、歓喜が得られる。

ムラダーラ・チャクラとサハスラーラ・チャクラの間に生のすべての戯れ、すべてのスペクトルがある。

ところがこの歓喜の波動は、性的オルガズムにおいては、ムラダーラが主であり、サハスラーラはこだまであって従。

ところが、サマーディにおいては主客逆転し、サハスラーラが主であり、ムラダーラはこだまであって従。

 

すなわち性的オルガズムは、大悟覚醒以前のことであり、サマーディは大悟覚醒以後のこと。つまり大悟覚醒以前はムラダーラ・チャクラが世の帝王なのだが、大悟覚醒以後はサハスラーラ・チャクラが主客逆転して世の帝王となる。これは、世の終わり以前は神知らぬことが当たり前だったが、至福千年では、神知ることが当たり前になり、あらゆる価値観が逆転することを意味する。

(参照:英知の辞典/OSHO/めるくまーるP180-181)

同様のことは、次のように古来から世界各所で言われている。

  1. ユダヤ・キリスト教では、人に打ち捨てられた石が北東に置かれるのだが、それが長い年月の末に、滅びることのない神の神殿の基礎となるという伝承がある。
  2. 長年月北東に監禁されていたもともとこの世の主宰神であった艮の金神が、現代に至って再び地球の主宰神である国之常立神として復活する。(出口王仁三郎)
  3. イエスは磔刑直前に弟子の足を手づから洗って見せ、最も低きに置かれていた平民が神となる手本を示して見せた。

 

性的オルガズムは、個人の歓喜という体験に過ぎないが、大悟覚醒を経て人は神になり、サマーディという体験とはいえない体験、至福に逆転するのだ。

 

サマーディ:サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定には人が出たり入ったりできるが、サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。

サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

 

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寒露のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-10-18 03:14:24 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎酷暑モードから錦秋モードへの切り替え

 

最高気温が連日30度を下回るようになってから、膝の動きが悪くなったり、胃腸の調子が悪くなったり、いささか不調が出るようになった。思い当たるのは、肉体が酷暑モードから錦秋モードへの切り替わったということ。

 

酷暑モードでは、顔や身体全体にうっすら汗ばみ続けるものだが、最近の錦秋モードでは、顔にあぶらが浮くのは午後の一時だけで、あきらかに全身の代謝は落ちている。

そこで、室内散歩を屋外散歩に切り替えることとした。一番違うのは、足の踏ん張りと全身の筋肉が連動する感があること。

よって酷暑時は、室内散歩でも所定のカロリー消費ができていたが、最近は、気温低下で運動負荷を増加させる必要があることに気づいた。

 

最近のエクササイズ・メニューは、散歩が室内から屋外に変わったのが変更点。

 

きくち体操については、肚(丹田)の力を入れ続けるというとても不慣れな状態を、長座時以外のポーズにおいても続けるようにし始めた。

きくち体操は、50代以上向けだが、大半が女性のせいか、肚に力を入れなさいということを「腹をひっこめて」と指図している。これは、生まれつき肚ができている女性ならではであって、男性の場合はいわば「ウーン」と言いながら意識的に(スワジスターナ・チャクラ)に力を入れ続ける必要があるのではないかと思った。

 

文弱な何十年を過ごして、過去重いものを持つ際などで肚に力を入れ続けた経験は、大学生の時の運送のバイトで、重い荷物をケーブルで上げながら3人で持ち上げる際に、トラックの運ちゃんに私の力が全然入っていないこと(肚に力が入っていない)を叱られた時くらいのもの。

またダンテス・ダイジの女性弟子のひとりとインディアン・レスリングをやらされて、肚の力不足で軽く敗北したことを思い出す。

それほど、過去の人生において、肚に力を入れ続けるという経験はなかったのだ。

※インディアン・レスリング:坐って向かい合った2人が互いに相手の手だけをつかんで押し合うスポーツ。片方の尻が浮いた方が負け。

 

きくち体操は、1年前はポーズを真似するだけで精一杯だったが、丹田に力を入れ続けることがメインだと気がつくまでに一年かかった。生徒も大人だし、頭ごなしに強制しても言うことは聞かないもの。

 

最近の運動メニューは、以下です。

 

朝の体操後に、屋外散歩15分。

その後、きくち体操20分×2と、屋外散歩20分×3を一日の目標としてやっている。

 なおバランスは、今のところ著変なし。

 

腕周りの筋肉は、痰を吸収する機能や食物を嚥下する機能と連動している由なので、その方面も研究したい。

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