アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

室伏広治ハンマーを磨いて金メダルを取る

2025-01-03 03:24:08 | 冥想いろいろ

◎心と体がハンマーと一体になる

 

ハンマー投げの室伏広治は、ある時からハンマーを磨き始め、ハンマーと向き合い、ハンマーの気持ちになることができるようになった。やがて心と体がハンマーと一体になるようになって、それから記録がどんどん伸びるようになって、ついに2004年アテネオリンピックで金メダルを獲得できた。彼は、練習の終わりにいつも5分間ハンマーを磨いていたという。

 

禅の世界では、瓦を磨いて鏡にすることで悟りを開こうとした南嶽がいる。それを見て馬祖が「瓦を磨いても、鏡などできないでしょう。」と問うた。

南嶽、「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」と返されて、馬祖は何も言えなかった。

 

禅では、一人の僧が御簾を巻き上げるのはダメとされたが、別の僧が御簾を巻き上げるのは可とされた。同様に坐禅中にある僧が居眠りしていたら棒でたたかれたが、臨済は坐禅中に居眠りしても咎められなかった。

 

5分間ハンマーを磨いた誰もが金メダルを取れるわけではない。

そこには、道具を大切にするとかゾーンに入るということとは、別種の何かが存在している。

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日本の皇統文献を破却したらしい聖徳太子

2024-12-06 03:24:04 | 冥想いろいろ

◎神代文字を消滅させるほど、当時の日本は爛熟していたのだろうか

 

ウガヤフキアエズ尊は、死の床で統治関係文書をわが子である15歳の神武天皇に譲ったと、秀真伝に記述がある。

先代旧事本紀大成経では、神武天皇の御代に彼の腹心の天種子命に対し、この粘土板を焼いた文書は神魂と称する大切なもの(おそらく皇統などの古記録であって、神代文字で書かれた文書)だから、忌部、卜部両家が永久に保存せよと命じられたものであった。

昔は、皇位継承に際しては、文書と鏡と剣を引き継ぐものであって、鏡は右の臣、剣は左の臣が奉持した。文書は、神魂と称する大切なものである。

 

ところが、聖徳太子は、小野妹子と秦河勝に命じて、この土器文書すべてを保管元の忌部、卜部両家から差し出させて、聖徳太子自ら蓋を回して土器文書を見たという。

 

この土器文書は神代文字文書と思われるが、日本は漢字が入るまでは無文字社会だったというのが現代の定説だが、おそらく真相は神代文字社会であろう。聖徳太子と蘇我氏が、日本を漢字と仏教社会にするため、この土器文書を含め、神代文字を焚書坑儒して撲滅したと思われる。

 

こういう原日本文化の伝統の粋を破却する荒業をやった反作用か、聖徳太子は一族すべて滅亡。かたや聖徳太子の聖性を評価する後世の聖人はいる。

(以上参照:人類文明の秘宝『日本』  世界破局救済の「使命」その根因を探る  馬野周二/徳間書店P248-252)

 

古事記は予言の書と言われる。古事記上つ巻は、ウガヤフキアエズの段で終わっている。出口王仁三郎は、終わりの時代に、上つ巻の内容はすべて現実化すると予言している。

上記土器文書の中で、ほぼ神武天皇が譲り受けた時点までの記録こそが、ウガヤフキアエズの段で終わっている古事記上つ巻。

この時代には、中つ巻以降は現実化しないから、焚書かつ神代文字も破却してよいと聖徳太子は考えたのかどうか。

 

古事記原文の、漢字をほとんど音に当てただけのような妙な文を見るつどそんなことを思う。

出口王仁三郎は、古事記はわやにされたとも言っている。

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メルクリウスの水の作り方

2024-11-22 03:24:12 | 冥想いろいろ

◎正しく理解してさえいれば、賢者の石は短時間でできあがる

 

『錬金術師の入門式については、いくつかおもしろい話がある。見たところ実話のようだが、実際にはほとんど寓話だろう。歴史家はよく、エルヴェシウス(ヨハン・フリードリッヒ・シュヴァイツァー)の話を引用する。というのも、錬金術の達人との出会いをありのまま語っているように見えるからだ。『金の子牛』から、その物語を要約してみよう。

 

一六六六年十二月二十七日のこと、見知らぬ男がハーグにあるエルヴェシウスの家に現われた。男は「小さなクルミくらいの大きさで、透きとおった青白い硫黄の色をした」物質のかけらをいくつか見せ、「哲学者の石」だと言った。ほんのひとかけらもエルヴェシウスにくれようとしなかったが、石を貴石に変える方法と、霊薬や「清らかで澄んだ、蜂蜜よりも甘い水」(おそらく、有名なメルクリウスの水)の作り方を教えてくれた。錬金術の金で作ったメダルも見せてくれた。

三週間後、男が再びやってきたので、エルヴェシウスはしつこく頼みこんで、ようやく小さな石の「かけら」をもらった。しかし、それっぽっちでは何も作れそうにない。すると、男は石のかけらをとりあげて半分を火に投げこみ、残りの半分を返してくれた。そして石を調合する方法を教えてくれた。それによると、必要な物質は全部でたったふたつ。それに坩堝がひとつあればできる。正しく理解してさえいれば、石は短時間でできあがるし、費用も少なくてすむという。男はそれきり、二度と戻ってこなかった。

エルヴェシウスは妻の助けをかりてその石で変成をなしとげた。できあがった金は正式に鑑定した結果、良質であることがわか った。』

(錬金術 心を変える科学/C.ジルクリスト/河出書房新社P74から引用)

 

上掲『必要な物質は全部でたったふたつ。それに坩堝がひとつ』の必要な物質はあらゆる正反対のもの、坩堝とは肉体。

なぜ石を半分だけくれたかは、師の教えは半分であって、残り半分は自分でたどり着くものだから。

 

メルクリウスの水とは、処女の乳、生命の水、火とも呼ばれ、この水で死者を生き返らせたり、病気を治したり、不死に到達したりできるとされる。メルクリウスは、水銀のこと。

 

メルクリウスの水や賢者の石が、さる冥想状態であるとは普通気がつかないが、全身全霊で人生をかけて、「人生はかくも理不尽、不条理であるのは何故か」と追求しきるエネルギーのある者だけが、そこに気がつくのではないだろうか。

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梁野人-2

2024-10-16 03:35:29 | 冥想いろいろ

◎梁戴は宿に大量の黄金を置いて屍解する錬金術師

 

ところが梁戴の兄の顔は、その時州の太守となって居たが、ある日突然弟の梁戴が訪ねて来たので、顔は大いに喜び、早速酒を出して共に快く飲んであった。その時顔は弟が身にボロを着て居るのを見て不憫に思い、新しい衣を出して彼に着せてやると、彼は稍や不機嫌らしい顔をして、平生山林に生活して居る我々風情の者は、唯だ精神の修養を重んじて形骸のことなどはもとより念頭に置いて居ない。美しい衣、美しい邸宅等は我々から見れば、あたかも糞土にも劣った物であると言って兄が親切に留めるのを振り払って、そこを辞し、その夜はとある旅舎に泊った。

 

然るにその夜半になって蔵の座敷で夥しく金銭の響がするので、宿の主人は不審に思い、彼をばてっきり盗賊の類と思い込み、ひそかにその座敷を覗いて見ると別に何のこともなく戴は酒に酔って快くそこに寝て居た。

 

然し主人が此方へ帰って来ると、再び梁戴の居間で、前の如く金銭の響きがするので、再び行ってその居間を覗いて見ると、矢張り何の変事もない。

そこで主人は益々不審を抱き、翌朝梁戴が起き出て立去るや否や、急いで件の座敷へ駆け込んで見ると、驚いた。

 

壁の側に黄金が夥(おびただ)しく積み重ねてあって、その上に兄の太守に宛てた手紙が一通添えてあった。

 

そしてその手紙の中には、自分は野に育った人間で、松風蘿月は即ち自分の無二の伴侶で、天にある青空は即ち自分のための屋蓋、大地は即ち自分の寝床である。気が向けば何十年とそこに留るけれど、一度嫌になってしまえば十年の住家も弊履の如く捨て、復た他の気に入った場所を探し求める。かくの如く自分は今日は東、明日は西と流れ歩く浮草の身で、もとより一定の住家もなければ、自分のことは今日限り長く思い切って、唯だ国家のために長く自愛せられんことを望む。かくてまたここに積んである金は、夫々貧民に施して貰いたい。それから又自分のこれまで愛用していた弊衣をここに脱ぎ捨ててあるから、これを自分の形見として永く取っておいてくれるように書き認めてあった。

 

そこで彼が脱ぎ捨てた衣を観るに、散々に裂け破れて居るけれど、一種言うに言われぬ佳い香気がして、如何にも世間普通の物とは異なって居た。そしてその後彼の室をよくよく検べて見ると、屋根の瓦が二三枚剥き取られて居て、どうやら彼はそこから天上へ飛昇したらしい形跡があったということだ。

 

梁戴は、兄から新品の衣をもらったことをきっかけに、行雲流水の生涯を終え、大量の黄金を置いて屍解した。梁戴の以前の放蕩は、この世的な欲望に別れを告げるためのものだったのだろう。

 

これは、一休宗純の親友一路居士が、托鉢の食事入れに馬の沓(くつ)が入れてあったのを見て亡くなった事績に似る。

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梁野人-1

2024-10-15 03:31:09 | 冥想いろいろ

◎無際限の富を得て酒食乱倫に使う

 

梁野人、名は戴、長沙の人である。彼の父兄は共に儒学を治めたけれど、彼のみは独り仙道を学び、日夜研鑽して鉛汞修煉の術を得た。

 

三清殿の後苑に一の銅像があって、ある日、彼はその下に憩って居ると、頻りに唾気が催して堪えられぬので、ふとウトウトとすると夢に長さ一丈あまりの金人が現れ、右の手に一個の金貨を持って、それを彼に与え、あなたがもし銭が欲しいと思う時は左の手を袖の中へ突込み劇(はげ)しく手を振動かせば銭はいくらでも欲しいと思うまで出て来るであろう。但しこの事は決して他人に漏らしてはならぬぞと言う かと思うと、その姿はたちまち消え失せて了った。

 

梁戴は、夢が醒めてからもなお精神恍惚として居たが、しばらくたって我に

返って見ると、左の手が少し痛みを感ずるので、おそるおそる掌を見ると、うすぼんやりと銭の形がその上に現れて居た。

そこで試に左の手を袖の中へ突込んで、二、三度はげしくゆすぶって見ると忽ち銭が袖の中に一杯になったので彼は大いに喜び、その日は何喰わぬ顔をして家へ帰って来た。

 

而してその後、彼は益々放蕩に身を崩し、到るところの酒樓に流連して居たので、彼の母はそれを見て大いに心配し、兄の顔は、幼少の頃から学問して進士の試験にも及第し、今は位高き身となって居るのに、お前のみは益々放蕩に身を持ち崩すとは何たる浅間しいことであるぞと言って、時々彼を戒めて居たが、彼は母の言葉などは少しも意に介さなかった。而してその後久しく経つと、彼はにわかに家を飛び出して諸方を遊び廻り、前後十二年計りの間は何の音沙汰もなかった。

 

どんな人でも人生のうちに少なくとも1回は、袖の中に大金がわくようなことはあるものではないだろうか。

だが、どんなに徳を積んでも3回も王に生まれ変われば、過去世で積んだ徳を使いきってしまうという。

 

梁戴は、真摯な冥想修行者だったが、欲しいだけ銭が湧く袖を手に入れて放蕩して、元の黙阿弥になったのか、最後に残った現世的欲望を叶え、すべてを捨てる準備としたのか。ニルヴァーナに向けて回り道をしたのか。

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クラリネットの一音だけで奏者の人生を知る

2024-10-13 03:29:50 | 冥想いろいろ

◎音をきっかけに自分の奥底をのぞき込む

 

著者のピーター・バスティアンは、デンマーク人のバスーン奏者にして、巨匠チェリビダッケの愛弟子。ハタ・ヨーギ。一日、彼は、ブルガリアのクラリネット奏者を訪問することにした。彼は、クラリネットの一音を聞いただけで、奏者の人生のすべてを直観した。

 

『-音-

 

七〇年代の中頃、私はレコードで聞いたジョルジ・コエフという名前のブルガリアのクラリネット奏者を追いかけたことがある。私は先生のニコラ・ヤンコフから彼の居場所を聞き出し、捜し回ったあげく、ブロヴディフの近郊の小さな村の外で彼を見つけた。突如、車のヘッドライトのなかに浮かび上がった彼は、錆だらけの自転車を引いていた。

通訳は車から飛び出すと、すさまじい勢いでデンマークとブルガリアの文化的協調や、テーブ録音やラジオ・デンマークなどといったことについてまくし立てた。コエフは冷たい調子でいくら払うつもりなんだと尋ねた。通訳が口ごもりながら何とか口実を見つけようとしていると、コエフはこう言い残すと踵を返して行ってしまった―「豚を見に行くところなんだ。デンマークとブルガリアの文化的協調とやらに時間を割いているひまはないね」。がっかりした私は通訳を暗がりに引っ張ってゆくと彼女の音楽的センスのなさを罵り、コエフを追いかけて行って自転車の前に立ちはだかると彼のメロディの一つを口笛で吹いてみせた。

 

-突然、ほんの一瞬だが、彼は天使のように微笑むとこう言った、「金曜日の朝の九時に、五分間だけ吹いてやろう」。彼は行ってしまった。

 

金曜日、午前九時の朝日のなか。――私たちは庭の小道をたどって、コエフに出会い、彼は通訳に何やらぶつぶつと言うと、どこかへ行ってしまった。わけも分からず家のなかに入って行くと、そこでは二人のジプシーが気違いじみたテンポで、まるで競争のようにアコーディオンを演奏していた。私たちは部屋の真ん中にあるストーヴのそばに座ると、いったいどうなるのだろうと戸惑いながら待っていた。ジプシーたちは首から汗を滴らせながら、白熱した演奏を繰り広げていた。

突然、コエフがイチゴを山盛りにした器を持って部屋に入って来ると、顔の一方で通訳に何やらぶつぶつ言い、もう一方で残りの者たちに微笑みかけ、またあたふたと部屋から出ると、外から扉の錠前を掛けてしまった。

 

一時間後、彼はクラリネットを手にして戻ってくると、私たちの向かい側に座ってじっと私をにらみつけた。彼のクラリネットに手を伸ばすと、まるで彼の体の大事な部分をつかんだかのように手をぴしゃりと叩かれた。私たちは長いことひどく気まずい思いをしながら座っていたが、やっと彼は自分のクラリネットを取り上げた。それはずいぶん古めかしい、ハンダや真鍮やプラスチックや蜜蠟などで修理された代物だった。マウスピースは固定されて動かないようになっていて、すっかり歯形が付いているし、太さの違う何本もの糸をマウスピースとリードの間に巻きつけて、リードに適当な透き間ができるようにしてあった。

 

調子合わせに数音を吹いたが、それだけの音のなかにも何か私を完全に変容してしまうものがあった。一音を数秒間吹いたが、ただそれだけで、私はこの人がどういう人でどのような人生を生きてきたのかが分かった。私自身の生きた人生が内側で微かに震えているかのようだった。』

(音楽の霊性 ニューエイジ・ミュージックの彼方に/ピーター・バスティアン/工作舎P62-63から引用)

 

これは、ピーター・バスティアンの小悟。

この話で思い浮かべるのは、無門関第二十九則 非風非幡。六祖慧能禅師が、広東省広州の法性寺で法話を聞いていたところ、風に揺れる幡(はた)を見て、二人の僧が「あれは、風が動いているのだ。」、「あれは、幡が動いているのだ。」と言い争って収拾がつかない。

六祖慧能は、「風が動くのでもなく、幡が動くのでもない。ただあなたの心が動いているだけだ。」と言ってのけた。

 

クラリネットの一音はきっかけに過ぎず、そこからピーター・バスティアンは、自分の奥底をのぞき込んだのだ。

 

占い者は、自分を鏡のようにして、占いをきっかけに自分の奥底をのぞき込む。

タロット、ルノルマン、易、オラクルカード、ホロスコープ西洋占星術、紫微斗数、四柱推命であっても。

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自分自身を経験する新しい方法

2024-09-20 03:42:17 | 冥想いろいろ

◎アイデンティティと意識を抜き取られ、永遠の亡者になる朝顔

 

違法ドラッグ、脱法ドラッグが以前より手に入りやすくなっているようだが、そうしたものに手を出すのは人生を棒に振る危険も死に至る危険もはらんでいる。

植物だろうが、化学製剤だろうが、向精神薬は、用量を誤ると死に至るものが多い。「ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社」にも用量を誤って死んだ学者やパイオニアの話が沢山出ている。

冥想修行も向精神薬も精神を操作するということでは同様であり、相応の危険性があることは言うまでもない。

奥山で見つけた見目麗しいきのこが毒キノコであるかどうかは、素人にはわからないように、自分が悟っていない限りその人物が大悟覚醒しているかどうかわからないということはある。

 

そしてまた同じ用量でも効果に個人差があることは知られている。カルロス・カスタネダのシリーズでも用量は精密だが、服用時期や心境も大切にしている。

まことに奇跡には時を選ぶタイプの奇跡と時を選ばないタイプの奇跡がある。

 

以下は、規制の緩い時代のアメリカの話として、ソーマとはどういうものかを知識として持っておいて、落とし穴にはまらないために参考になると考えて挙げるもの。

『アサガオの種子は、一般に三百個が大量と考えられている。また、一人一人の精神と身体の出来具合が異なることを思えば、ある人にとっては「少々きつい経験」も、別の人にとってはひどく不快な副作用になることもある。さらに、違う植物から採取したものは、その植物の栽培条件その他の要因によって、適量も効果も違ってくるだろう。種子三百個がだいたい六グラムから八グラムだとすると、前記の方法の五十六グラムは、なんと二千個以上の種ということになる。そのようなトリップがどんなものかは、その半量だけを試したある男性の経験談の抜粋がある。この例をみると、その効果が「サイケデリック」だったことは間違いない。

 

《私自身の経験を話せば、アサガオの種が幻覚剤としてどれだけの力を持っているかがわかるだろう。この経験は、単にハイになるという以外に明確な目的や期待はなにもないお粗末な状況で行ったために、結果的にはバッド・トリップになった。それは、幻覚剤に対する信頼感を回復するまで、二年もかかったほどのトリップだった。このような結果になったのはもちろん、なんの備えもできていないのに、いきなり膨大な量を摂取するという無謀な行動に出たためだ。・・・・量は千個から千二百個ほどあったと記憶している。以前に、三百個ほどで十分というのを読んだことがあったが、これは最低量だろうと思ったのだ。だからたっぷりやって、しっかりいい気分になるようにしたほうがいいと思ったのである。

「回転翼」としか言いようのないものが、ものすごいスピードで、どんどん大きくなりながら近づいてきた。それは、それまでの私のあらゆる経験を完全に超えていた。それは二度三度と近づいてきて、ほとんど部屋いっぱいになり、私は心底怖くなって死ぬのではないかと思った。逃れることは不可能だった。その回転の中心は私の視野の中心であり、私自身の回転軸だったからだ。

それはものすごい、無限のエネルギーで、回転方向を変えながらどんどん近づき、私は自分がその中に吸い込まれ、溶けていくのを感じた。アイデンティティと意識を抜き取られ、永遠の亡者になる。・・・・・燃えるような赤と鮮やかな緑の二本の大河が私の意識を切り裂く。心と頭の分裂は、電子と陽子から私自身の意識的思考を生み出す二葉の大脳に至るまで、完璧に二分した宇宙の一つの現れにすぎないのだ、と私は悟りはじめた。すべてが二分し、永遠に天国と地獄に分かれるのだ。今や私は本気で心配になり、妻に病院に連れて行ってくれるように頼んだ・・・・・・。》

幻覚体験の最も興味ある側面の一つは、その種の物質に対する個人の反応に非常な差があるということだ。ある人が二千個の種によるトリップを「少々きついが、やってみる価値はある」と言う一方で、その半量で救急病院に駆け込む人もいる。ここで論じているのは、個々人の精神を司る脳のシナプスと連絡する精神活性分子である。したがって、基本的には、幻覚剤は自分自身を経験する新しい方法にすぎない。われわれはそれぞれに違う人間なので、それぞれの経験も違って当然なのだ。

 

オルダス・ハックスリー(*イギリスの小説家・批評家。神秘主義への傾倒から幻覚剤を試し、その経験を「知覚の扉』に書いた)はLSDをやって、独特な悟りに達する。チャールズ・マンソン(*アメリカ・カリフォルニアのカルト集団のリーダー。一九六九年に女優のシャロン・テートなど七人の女性を殺害した)もそうだが、しかし得るものは非常に違っている。』

(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P163-164から引用)

 

充分な生への情熱こそが、最後には人をニルヴァーナに導くのだろうか。

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一生の使い方

2024-08-02 06:17:55 | 冥想いろいろ

◎資金運用と黄金への修行

 

西洋錬金術ものを読むと、錬金術実験の資金を得るために貴族や王に金の無心をするが、大体実験はうまく行かず、詐欺だとそしられるシーンが多数出てくる。

錬金術師の側から言えば、一生の半分を資金調達に費やし、うまく資金ができても大体成功はせず、遅くとも一生の終わりごろには、経典の読み方を誤っていたのか、師匠の教えが悪いのか、実験の回数が足らなかったのかなどと悩むことになる。

一生を黄金変成という冥想修行に使うか、金集めに使うか。

 

中国の有名錬金術書抱朴子の著者、葛洪は金丹の真経を手に入れたあとで、「わたしは それを手に入れてから、もう二十数年になる。だが少しの財産もなく、実験のしようがなく、長嘆息するだけである。櫃にあふれるほど黄金を積み、山のように銭を貯めた人は、逆にこのような不死の法があることを知らない。たとえ聞かせてやっても、万に一つも信じる可能性はない。どうしようもない」と慨嘆している(「抱朴子」「金丹」)

 

金が必要だからといって、資金運用、財産形成をメインに活動していけば、大金ができた頃には、人間にとってもっとも大切なもの、真の幸福が、金ではない方面にあることなど思いも及ばなくなっている。

 

唐代以前の王侯貴族は、資金面にも生活面にも不安はなかったから、最速の修行期間で大悟覚醒できる方法として外丹、金丹の服食の方法を選ぶ人が多かった。ところが、ほとんど失敗におわり、重金属中毒で死んだ人が多かった。

冥想修行の分類としては、外丹あるいは金丹の服食は、近道には見えない。それがソーマだとすれば、ソーマの効能が切れた元の黙阿弥をどう克服するのかという謎もあるし、そもそも服用以前にすべてを捨てる準備ができていなければならない。

すなわち当時の道士たちからは、金丹の服食が一気に登仙することができ、成仙の簡便かつ適当な近道だと推奨されていたが、そんな道士は本物ではなかった。そういうエピソードは、唐代だけでなく、秦の始皇帝にもいくつもあった。

中国歴史ドラマは、戦争と謀略・陰謀と愛欲がメインだが、まず金丹の服食の話題は出ないが、王侯貴族の主たる関心事は、実は金丹だったのだ。

 

ブランドに価値があると思っている現代人ですらその価値の本質は価格ではなく、精神的なものであることを知っている。だからこそ現代人は日々、冥想修行が第一なのだ。

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今ここは口に苦し

2024-07-09 03:22:57 | 冥想いろいろ

◎生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる

 

口に苦い絶望を前面に出さない『今ここ』は嘘っぽい。

OSHOバグワンが、そこを指摘する。

『この現瞬間に生きるよう努める。けっして希望を抱かない―――どんな希望であれ。現世のものにしろ、彼岸のものにしろ、何の変わりもない。たとえ宗教的な希望であったとしても・・・・・・未来なり、彼岸なり、天国なり、ニルヴァーナなり、死後に関わるものであっても、何の変わりもない。希望を持ってはいけない。

 

たとえ今ここにおいてまったく絶望的であっても、ここにとどまり、今この瞬間から動かない。動いてはいけない!それを苦しみなさい。けっして希望を入り込ませてはいけない。

希望を通じて夢が現れる。だから絶望するのだ。もし生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる。けっして未来の物事にしがみつかない。すると突然そこに変化が現れる。現瞬間にとどまりさえすれば、夢はやむ。もう夢は生じない。なぜならその源泉が引っこんでしまうからだ。夢に手を貸しているからこそ、夢の母となっているからこそ、夢が生じる。だから夢に手を貸したり、夢の母となったりしない。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへOSHOP192-193から引用)

 

日本人は、生が絶望的だったら、絶望はするが、それをまんざらでもないと考え、それを受け容れる悪い癖がある。これは、今ここにある絶望を無条件に受け入れているのではなく、馴れ合っているのだ。これでは、突然の変化などいつまでたっても現れることはない。

そんな人は、後世の人に、まだ抑圧を必要とする人々として分類され、進化の準備ができていない人と判定されてしまう。

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セクシュアル・メディテーション雑感

2023-10-17 07:14:51 | 冥想いろいろ

◎原担山、LGBTQ、釈迦

 

江戸末期から明治にかけての禅僧原担山は侍だったが、若くして妻帯した。そんな新婚のある日、予定外に日中に帰宅してみると、なんと恋女房が他の男と寝ていた。

これを見た原担山は、剣を抜いて間男に切りかかろうとしたが、その瞬間にすべてのことが馬鹿馬鹿しくなって、剣を振り下ろすことなく出家してしまった。彼は性愛そのものを見切ったのだ。

セクシュアル・メディテーション、性愛冥想、カーマ・ヨーガ、房中術といえば、その行為自体に何かあると思われていることが多いと思う。あるいは、オルガスムス、オルガズム、エクスタシー、絶頂というものに何かあると思われていることが多いと思う。

だが、女性の絶頂は全身的であるのに対し、男性の絶頂ははかないものだ。求道という観点で言えば、性的な男性の絶頂は大したことがないが故に、男性は自分のすべてを賭けて冥想に挑むのだということはある。逆に女性は性において程度の満足があるがゆえに冥想の極みを求めるケースは少ないのだと言える。

 

中国養生思想や酒池肉林の悪影響か、何十人もの若い女性と関係して気を得ると長生きするとかいう説も見かけるが、一方でダンテス・ダイジは、不倫だと性愛冥想は成功しないとしていることから房中術の相手は最適最愛な一人である。

そして行為自体が問題ではなく、行為の後の冥想にこそ眼目があるのではないかと思う。すなわちメンタル体離脱に至る道は様々だが、メンタル体離脱以降は共通らしい。つまりセクシュアル・メディテーションにおいても、行為の後の冥想こそ本来の狙いなのではないかと思う。

OSHOバグワンは、性愛冥想について、いろいろなことを語っているが、行為の後の冥想にはあまり関心はないようだ。サンバラ(交合図)の原理は説くが、彼の教団のフリーセックスを咎めることに彼はあまり関心を持っていなかったのだろう。

 

将来学校で冥想道を説く場合、性愛の問題は避けて通れない。特に昨今、愛と性が完全分離しているが如くなのはどうかと思う。LGBTQ全盛のこの時代だが、本来愛と性は相伴って男女関係の基礎となり、人によっては、セクシュアル・メディテーションの土台にもなっていくもの。

なお求道としてのセクシュアル・メディテーションの道は極めて困難な道であり、あの釈迦ですら、その厳しさに忌避したという。

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ルクレティアの自殺

2023-09-20 03:39:56 | 冥想いろいろ

◎貞節と一夫一婦

6世紀、古代ローマの貴族セクストゥスは、ローマ軍のアルデア攻囲戦での宴会で、いとこのコッラティヌスに妻の比べ合いの余興を持ちかけた。セクストゥスの妻らはローマで宴会を開いて遊んでいたが、コッラティヌスの妻ルクレティアは召使いたちと夜遅くまで糸紡ぎをしていた。ルクレティアの貞淑さに瞋(いか)ったセクストゥスは、数日後、剣で脅しながらルクレティアを強姦。
傷心のルクレティアは、夫と父にこの経緯を伝え、短剣で胸を突いて自刃した。

キリスト教では、貞潔が求められる一方で自殺は禁止されている。人生場裡には、そういう理不尽な事件はままあるものだ。
後にシェークスピアは、この事件を題材に『ルークリース凌辱』(The Rape of Lucrece)を書いた。

事情はやや異なるが、明智光秀の娘細川ガラシャの自殺、明治維新の大田垣蓮月の貞節など、こうした事件には見るべきものはある。

魂の伴侶、一夫一婦のビジョン、イスラムの一夫四妻のビジョン、サンヴァラ(交合図)など、一夫一婦の正統性について考慮すべきファクターは多いが、歴史的に不倫乱倫は一律に悪とされてきたのには、それなりの理由があるのだろうと思う。

(ルクレティア/クラナッハ・ザ・エルダー/ドイツ,バンベルク,バンベルク図書館蔵)

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おしゃれな場所でマインドフルネス冥想

2023-08-06 07:04:58 | 冥想いろいろ

◎ファッション瞑想と本気の冥想

 

マインドフルネスは、効果を求める冥想の一種。効果とは、心が落ち着くとか、ストレスが軽減されるとか、気持ちがよくなるとか。こういう冥想は、真剣に冥想修行している人たちからは、ファッション冥想などと呼ばれている。

2023年8月5日のNHK総合サタデーウオッチ9 でマインドフルネスが紹介されていて、パソナの淡路島の禅坊 靖寧と銀座の化粧品店(資生堂?)の地下にある卵型カプセルが紹介されていた。

靖寧は、崖に突き出した空中楼閣に一列に窓を向いてならび座布ではないお尻固定クッション上に坐って冥想するもの。4時間の体験で2万3000円。

銀座の卵型カプセルは、ヘミシンクの水タンクを連想させるが、単に蓋の閉まるカプセル内でヘッドホンで冥想音響を聞きながら冥想するもののようだ。料金は30分で4400円。

冥想音楽は、ambientと言われ、テクノ系だが、アメリカでは60年代から大きく発展してきた。瞑想アプリを使ってみるとambient音楽が流れることがままある。youubeでambientを検索するといくらでも出てくる。だがそもそも内に向かって自分に直面するのに、中途で音楽は不要で邪魔になるのではないか。

 

確かに体調が悪い時期、気力が落ちて何も手につかない時期はあるものであって、そんな時に音楽は効果がある。そうした状況を改善する呼吸法もあるし、マントラもある(南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメンなどなど色々使える)。

 

だが、ambient音楽もファッション瞑想も癒しになるのかもしれないが、真摯に自分の人生の問題を解決しようと思えば、外の冥想場所や風光明媚や心地よい音楽など振り捨ててて、自分に向かう、内側に向かうものなのではないか。

最澄は竹で編んだ筒みたいな中で何も堂宇のない比叡山で冥想に取り組み、一休は日に二食も食べず琵琶湖畔の葦の繁みで坐った。最近だと、用具小屋で坐ったりするインドのグルまでいた。

坐る場所は一人になれればそれでよい。

座物(座布団、クッション)では、背骨が垂直になることが眼目なので、外部施設であてがいのクッションを用いるのは、自分の尻の高さに合っていないことの方が多いのだろうと思う。クッションの形状によっては掌の位置、腿の場所が制限されるのも問題ではある。

 

マインドフルネスでは、トランスに入りながら正師の指導がないというのは、本当は課題なのだと思う。トランスに入るというのは、あらゆる暗示にかかりやすいということで、この時代では特に要注意の心理状態。

冥想を指導できるのは、悟った人だけであって、ハタ・ヨーガや体操を教えるのとは訳が違う。冥想の指導者というのは、弟子の一生を背負う、弟子を一生面倒みるという側面があることは否めないのではないか(金の話ではないです)。

 

さはさりながら、冥想というものがあることも知らないのが普通の時代に、冥想を紹介してくれるNHKは貴重だとも思う。

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単独行遭難

2023-05-17 06:54:07 | 冥想いろいろ

◎遭難の理由と変性意識の隙

 

登山に良い季節になった。『ドキュメント 単独行遭難/羽根田治/山と渓谷社』を読んだ。

 

登山には、グループで登るのと単身で登るのがある。警察庁の統計では、全遭難者中の3~4割が単独行。登山は冥想修行と同じで、他の誰かが登ってくれるわけではなく、自分で登らなければならない。

 

この本に上がっている遭難例は、ほとんどが50代から60代であって、泊まる可能性がある登山をできるのはほぼ中高年だけに限られることがわかる。

 

また遭難した山岳は、

奥秩父・唐松尾岳、

北海道・羅臼岳、

秩父・両神山、

北アルプス・徳本峠、

加越山地・白山、

北アルプス・奥穂高岳、

尾瀬・尾瀬ヶ原(豪雪時)

である。

 

遭難の理由は、やや無理をしてその日の踏破距離を伸ばそうとしたとか、ちょっと別ルートに入ったとか、道に迷ったとか、予定ルートを進んでいたが、足を踏みはずして転落滑落したというのが多い。一律ではないが、生還例だけが挙がっていることに注意。

 

道迷いについては、迷った後で『迷った』と気がつくもの。

 

足を踏みはずして転落滑落ということについては、Great traverseの田中陽希が700名山を踏破しても足を踏みはずして手指を骨折したのが1回きりであるということを思うと、田中陽希の心肺機能が凄いとか、筋力が凄いということもさることながら、目に見えない浮石の踏み方、目に見えない滑りやすい草の踏み方が精妙であって、ほとんど何年も転落滑落がない一歩一歩を履めるからこそ名人なのだと思う。

だが、それを名人と言えば判断停止しがちだが、変性意識のブレ(隙間)を防ぎつつ歩くことが何年も何秒も継続してできていることこそ見逃せない。

 

また、ちょっと別ルートに入っても必ずしも遭難するわけではない。

 

そして日本の山岳では、標高8千メートル以上の死の地帯という呼吸が苦しくて異常心理になりがちなエリアはない。だが標高数十メートルの低山や平地であっても、夜に単独で歩けば、狐や狸を人と認識して化かされるような変性意識状態はあり得る。

この本には、いるはずのない人物を認識した話はいくつか出ている。

 

大悟覚醒は、トランスとも呼ばれる変性意識状態の近所にあるわけだが、聖者覚者はそれを心理と見ることを戒める。最終的には現実そのものなのだ。

 

単独行遭難は、生還した事例ばかりだが、バス転落事故で亡くなった方たちの死以後のルートを霊視した丹波哲郎の「霊界旅行」という本もある。

 

瞑想修行でも単独行遭難は無数の例があることはご承知のとおりである。

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沈黙の行を動物たちと行う

2023-05-03 06:45:57 | 冥想いろいろ

◎少年スヴェタケトゥの動物との共生

古代インドのウパニシャッドの時代。少年スヴェタケトゥが、悟った師グルクルの許に父親から送り込まれた。
スヴェタケトゥは、ヴェーダの全編など当時あったすべての科学を暗記し、偉大な学者としてその令名はインド全土に聞こえた。彼は師からすべてを学んだと考え、故郷に戻った。

故郷では、威張りくさった歩き方で傲然とあたりを見回すしぐさのスヴェタケトゥを見て、父親が非常にがっかりした。
父親はスヴェタケトゥに「すべての苦しみが消えるのを学ぶ事で学んだかね。すべての苦しみが消えるのを知る事で知ったかね。教われないものは教わったかね。」
(私の愛するインド   和尚/講話  市民出版 P19から引用)

スヴェタケトゥは師の許に立ち戻ると、師は、「師の400の雌牛、雄牛、他の動物を誰もいない深い森に連れて行き、話をせずに1000に増やしなさい」と命じた。これでスヴェタケトゥは、すべての学識を落とすことになった。

スヴェタケトゥは、長年の沈黙の生活で学識を落とし、牛になって、動物を1000に増やして、動物とともに師の許に帰って行った。

OSHOバグワンは、これをスヴェタケトゥは動物たちと共感し、お互いをわかちあったと評価する。

自分の症状を自分で訴えられない乳児、幼児を相手にする小児科の医者や母親、共通言語のない獣医やペットの飼い主も同じようにのっぴきならない沈黙行を強いられる。

スヴェタケトゥは1000頭の動物レベルまで落ちたが、それはしばしば破戒物語に出てくるような人間として恥ずべき行為を行って動物レベルまで落ちるという意味ではない。

万物との共感、一体であると言う直観、実感を得るために、逆行ではあるが、動物たちだけとの共生が修行として行われた。そこで、不可視で言葉で表現できないものが実感された。これが師からの法の伝授。

このエピソードは美しいが、現代では、土地の余裕も動物供給の手当もなかなか容易ではない。
スマホを常時手にする現代人は、すでにスヴェタケトゥ並みの学識は得ている。ただ自室などで冥想に向かうだけだ。

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冥想(瞑想)の種類と分類-3

2023-04-12 06:47:48 | 冥想いろいろ
◎体験とは言えない体験に耐えられるかどうか

2. 悟りを目指す求道冥想

これまでのセラピー瞑想については、「精神療法と瞑想 心を解くセラピー&メディテーションガイダンス 宝島編集部/編 JICC出版局」を参照してきたが、セラピーではない悟りを目指す求道冥想については、これまでどおり準備冥想と本番の悟りに至る冥想を述べる。

OSHOバグワンは、多数の準備冥想を発案・紹介しているのだが、それでストレス発散やカタルシス、頭の想念・思考の掃除をやることが多い。そうした技法と究極に至るヴィパッサナーや只管打坐、クンダリーニ・ヨーガなどの技法を同列には論じられない。

そして何よりも大事なことは、自分自身が究極と言う体験とは言えない体験に耐えられるかどうかということであって、それを無視して、瞑想技法の種類と効果だけを論じるわけにはいかない。

またクンダリーニ・ヨーガ系(古神道、道教内丹、チベット密教、西洋錬金術等)などは段階があるが、只管打坐は段階なくいきなり窮極に到達する。また冥想といえば、坐相ポスチャーだが、意識状態が坐相を決めるという側面があり、その姿勢を自分ではとったと思っても正確に求められる坐の姿勢をとれたかどうかは別である。その一方でその坐相の効果の絶対性というものもある。
参考:【Overview of the meditation 冥想の全体像】

(1)冥想の準備
 (a)柔軟体操(柔軟体操)
 (b)食事・嗜好品(食事・嗜好品)
 (c)呼吸法(呼吸法)
 (d) マインド・コントロール対策

(2)単体冥想のいろいろ
 (a)イメージ・トレーニング(観想法)
 (b)気功、導引
 (c)ハタ・ヨーガ
 (d)カーマ・ヨーガ(性愛冥想)
 (e)ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)
 (f)占星術
 (g)マントラ禅
 (h)只管打坐
 (i)クンダリーニ・ヨーガ
 (j)丹田禅

もちろん冥想法には、宗派による区分もある。一例として、クンダリーニ・ヨーガ系のカバラ瞑想では、観想法である「イメージ形成」「イメージ想起」に加え、「神の姿勢」という椅子上の坐法があり、呼吸法もある(参照:魔法修行/W.E.バトラー)。この冥想法は西洋魔術、魔法と呼ばれるが、これもいくつかの冥想技法の集合体ではある。どこの宗派のそれも大方冥想技法の集合体であって、宗派に関係ないマインドフルネスとかフルフィルメントであっても冥想技法の集合体である。

ところで、このように準備冥想メニューや窮極に至る単体冥想メニューを並べてみたが、ホテルの朝食ビュッフェよろしく、自分の気に入った冥想メニューばかりやってはならない。いろいろな宗派の「いろいろな行法を混ぜてはいけない」(魔法修行/W.E.バトラー/平河出版社P60から引用)のだ。

同様に、日蓮が、禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊と他宗派排撃を言っているのは、「いろいろな行法を混ぜてはいけない」から南無妙法蓮華経を専一に唱えなさいと言っているだけのことである。禅にも、念仏にも、真言にも・律にも覚者は出ているし、それが証拠に日蓮直筆の曼荼羅に天照大神が記載されているのは、そのような消息である。どの宗派においても、その宗派の冥想技法一本でやりなさいと言うものだ。

準備冥想であっても単体冥想であっても、人をトランスに導き不安定にさせる可能性がある以上は、悟った正師の指導を受ける必要があるのは言うまでもない。
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