アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-2

2025-01-29 07:22:20 | 冥想いろいろ

◎問題はソーマではなく、本人の準備ができているかどうか。

 

悟り薬、それは一回服用すればニルヴァーナに到達できる薬であって、まるで一かけらを鉛に投入したけで全体が黄金に変成する賢者の石のような薬。それが実際にあれば、ニルヴァーナに入りっぱなしで、ラーマクリシュナのように横になったきりで何日も過ごすような人が続々と出るのではないか。そのようにニルヴァーナの至福感は強烈なのだろう。

ただしニルヴァーナに入りっぱなしというのは、よさげに聞こえるが、ダンテス・ダイジは、そのような状態には否定的だった。実際ラーマクリシュナ(バクティ・ヨーガの覚者)は、数日その姿勢のままなので侍者が口に水を含ませたりなど世話が必要だったようだ。

以下の文では、ドラッグの効果は、現実(ニルヴァーナという意味)に到達できず、幻覚に過ぎないとし、薬物の効果は必ず切れるので、その時冥想しなさいと示している。薬を服用しただけでは悟れないのだ。

そうした非常に科学的な方法で、インドでは過去何万年、ヒンドゥー教のすべての流派がドラッグを使用し続けてきたのだろう。

インドの街頭にコブラ使いがいるのは、リグヴェーダ以来のソーマ・ヨーガの伝統だったわけだ。

まずは、本人の成熟、そしてドン・ファン・マトゥスのような正師との出会いが必要。

これは、旧満州のアヘン窟やアメリカ大都市のフェンタニル依存者あふれる様子とは大分違う。

 

OSHOバグワンがソーマ使用に反対している意見の続き。

『(OSHOバグワンのThe Last Testament, Vol 4 Chapter #6の一部を仮訳)

そして私自身の理解としては、これらの人々も瞑想を試みたのは、ドラッグがある時点で無効になるからだ。免疫がつくのだ。最初は途方もない体験をもたらすが、やがてそれはほとんど体の化学反応の一部となる。それを摂取しないと困難に陥る。体の全てがそれを求めるようになる。摂取しても何も得られない。服用量を増やし続けるだけだ。

インドでは、ドラッグの実験が最も古いものであるはずで、なぜなら世界最古の聖典はリグ・ヴェーダであり、ヒンドゥー教徒の宗教的な源であるからだ。リグ・ヴェーダはソムラスと呼ばれる特定の薬物について言及している。このソムラスのため、オルダス・ハクスリーは、LSDが精製され、 副作用がない究極の薬物が現れた時、それを「ソーマ」と呼ぶだろうと述べた。

名前はリグ・ヴェーダに由来している。 リグ・ヴェーダはヒンドゥー教徒によれば九万年前のものであり、これが間違いだと証明できた人はいない。その古さを証明する議論はほとんど反駁不可能だからだ。それらは論理的ではなく、そうでなければ簡単だろうが、天文学的なのだ。

リグ・ヴェーダには現代の天文学者によれば九万年前に起こった星の特定の組み合わせの記述がある。リグ・ヴェーダを書いていた人々がそれを詳細に記述できる方法は、それを見たことがない限り、ない。 これはどうすることもできない証拠だ。その組み合わせは九万年間再び天空に現れていないという天文学者たちの発言。このため、その当時それを完全に理解していた人々によって書かれたのだろう。 九万年間、ヒンドゥー教徒は薬物を宗教儀式の一部としてほぼ受け入れてきた。

イギリスの統治下で初めて、ドラッグが問題を引き起こしたが、これは宗教的儀式の一部であり、世界で最も古い宗教であったため、イギリス政府も干渉することを恐れた。それでも続いた。

私が子供の頃でも、ドラッグは市場で手に入れることができた。違法性の問題もなかった。ヒンドゥー教のすべての流派がドラッグを使用していたが、それを非常に科学的な方法で使用していた。

特定の量のドラッグを投与し、人に特定の体験をさせ、それからその体験が終わった後に「これはただの錯覚でした。それはドラッグの影響、つまり化学反応によるものです」と説明するのだ。

現実の中で体験してみたいですか? もし幻覚がこんなに素晴らしいのなら、現実がどれだけすごいか考えてみてください。ドラッグによって作られた体験は数時間しか続かず、再び同じ古い腐った世界に戻ってきます。

でも、もしその体験が本物なら、それは永遠にあなたのものです。決して失うことはありません。それはあなたに起こったものではなく、もともとあなたの中にあったものです。それを発見したのです。

だから私は、この方法でドラッグを使用することが間違っているとは思いません。実際、これが現代の人々にとって世界中で取り入れるべきアプローチだと思います。

(中略)

適切な指導--医学的、瞑想的--の下で、薬は大いに役立つことがあります。 薬物が中毒性を持つと、自己への旅において最も破壊的なものになるため、私は薬物に反対しています。その結果、幻覚に魅了されます。そして、それは手間がかからないので、人々は大きな用量をますます取るだけで済むため、安易に進みます。

インドでは、ある時点に達しました.... 今日でも、寺院では毒蛇を飼っています。というのも、人々があらゆる種類の薬物に中毒し、それらの薬物が彼らには全く効果がなかったからです。どんな用量を取っても、彼らは正常の状態を保っています。唯一少しの体験を得るためには、コブラの舌に噛まれることです。それは誰にとっても致命的ですが、彼らにとっては美しい薬物体験です。』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-1

2025-01-28 07:00:05 | 冥想いろいろ

◎ソーマ依存になって廃人になる危険が大

 

OSHOバグワンのアシュラムでもソーマ摂取が盛んだったようだが、OSHOバグワンはこれに対して否定的な意見だった。要するにソーマ・ヨーガによって悟りに至る可能性は否定はできないが、実際のところソーマ依存になって冥想修行どころか、生活すらできなくなる危険の方が大きいと見ていた。

OSHOバグワンは、ソーマ・ヨーガによって悟りに至る方法としては、ソーマによって、幻想の世界、夢の世界があることを自覚させること(霊道を開くということでもある)をきっかけにより、以後冥想修行に邁進できる可能性を見ていた。だが、そのケースでもソーマの使用はいわば最初の一回に限定している。

 

ソーマの使用は、未悟者は禁止だが、覚者の中にはソーマや酒でもって悟りを維持する場合があるらしい。冥想パワーで体内の毒性を意識で排出できるような連中だけが、それを可能なのだと思う。

 

唐代の知識人や貴族の間には、外丹という向精神性薬物摂取が流行したが、かなりの人が水銀中毒やヒ素中毒で死んだ。ところが則天武后だけは晩年までばんばん外丹摂取し元気はつらつだったという。則天武后は、冥想パワーで体内の毒性を意識で排出できるようなレベルまで行っていたのだろう。

 

以下は、OSHOバグワンがソーマ使用に反対している意見の冒頭。

『(OSHOバグワンのThe Last Testament, Vol 4 Chapter #6の一部を仮訳)

薬物は人類と同じくらい古く、確かにそれほど重要な価値を持っている。私は薬物に反対だが、私が薬物に反対する理由は、何千年もの間、人々が薬物に依存している理由と同じだ。奇妙に見えるかもしれない。薬物は、日常の世界を超えた幻覚的な体験を与える能力がある。それが瞑想によって探求される体験だ。 瞑想は実際の体験に連れて行ってくれ、薬物はただの幻覚、夢のような体験だが非常に似ている。瞑想することは難しい。

 

薬物は安い。しかし、薬物の魅力は精神的なものだ。人は日常の存在に満足していない。彼は何かもっと知りたいと思っている。彼はもっと存在したいと思っている。ただの平凡な人生はあまりにも平坦で、意味がなくて、もしそれがすべてなら、唯一の救いは自殺だと思われる。それはエクスタシーも喜びも与えない。それどころか、ますます多くの不幸、心配、病気、老齢、そして最終的には死を積み重ねる。生から死まで、普通の人生はただの足かせだ。人々は臆病だから、それを生き続けている。さもなければ自殺するだろう。彼らには自殺するだけの勇気がない。しかし、これは誰も喜べるものではない。

 

ずっと続けられるけど、それは生きるとは言えない。そこにダンスもなければ、色彩もない。ただ見渡す限り広がる砂漠があり、どこにもオアシスはない。 レオ・トルストイの夢の一つを思い出す。それは珍しい夢だ。それが彼の人生のほとんどの間、繰り返し現れたという点でも、また独特だ。彼が覚えている限り、その夢は起こり続けた。そしてその夢はとても奇妙だ。 彼の夢の中では、広大な砂漠と、中に誰も入っていない2つの長靴が見える。足のないその2つの長靴がただ歩いていて、歩き続けて、歩き続ける。歩くのが終わることはない。砂漠は果てしない。そして彼はいつも汗をかいて目を覚まし、心臓が激しく鼓動し、恐怖に襲われた。

彼は精神分析医に行かずとも、その意味を理解していた。彼自身が天才だったのだ。彼はこれが彼の人生であり、夢ではないことを知っていた。それは象徴的ですらない。それはまさに彼の人生そのものだった。

彼はどこへ行こうとしているのか?どこへ行っても、最終的には墓にたどり着くだろう。誰が歩いているのかはわからない。長靴は空っぽだ。彼の中には誰もいないことがわかる。彼は長靴を履いている人を知らない。彼は見えない。見えるのは長靴と砂漠、そして果てしない、無意味な旅だけだ。

これが、人々が初めからドラッグに惹かれてきた理由だ。それが一時的な救いを彼に与えたからだ。しかし、瞑想を試みた人はわずかだった。』

 

※冥想は現実そのもの(今ここ、カイヴァリヤ)に連れて行くが、薬物はただの幻覚、夢のような体験を出ない。瞑想することは難しい。

ただし、カルロス・カスタネダのようにソーマ使用を繰り返して究極に至る道もあることは不思議なことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダライ・ラマ例外的なケースで自殺を認める

2025-01-16 06:46:40 | 冥想いろいろ

◎自殺を絶対的に罪だとするキリスト教とは違う

 

仏教者は、釈迦が弟子ヴァッカリの自殺を例外的に認めたケースがある。ラマ教のダライ・ラマも同様に例外的なケースで自殺を認めている。

極限状態の中で、自殺は許される

 

しかしながら、自殺はなべて悪であるとは言い切れない。ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。

 

最近、私はある親しい友人、チベット人の友人と語り合った。話題はチベット動乱の後、私がインドへ亡命した一九五九年以後のチベットのことに及んだ。彼には長く親しんできたラマ僧の友がいた。

ひじょうな大食漢であったそのラマ僧は、とてつもなく肥満していたそうなのだが、毎日、少なくとも五〇個もモモ(皮の分厚い、肉と野菜のチベット餃子)を食べ、一キロもの肉 を食べ、巨大なボウル一杯のヨーグルトと一リットルものミルクを飲むような食生活をして いたという。それでいて、彼は宗教的にはすばらしく高い境地にまで到達していたらしい。 大量消費と宗教的高潔さが同居する不思議にして稀な例だと言える。

その彼が、一九六〇年代になってからのことだが、中国当局に逮捕された。反革命の容疑で人民裁判が行なわれた。即決裁判によって、彼は、翌日公衆の見守る中での鞭打ちの刑を言い渡された。ラマの高僧へ恥辱を与えることが目的であったとしか考えようがない。

 

そこでどうなったか。

その夜、彼は瞑想に入り、自らの魂を肉体から切り離した。死んだのだ。いわれない恥辱を耐え忍ぶより、彼は《その生命〉を、その瞬間に自ら断ったわけである。このような場合、こうした《死》を自ら選び取ることは許される。

 

彼が、もしその夜、このようにして自らの命を断たなかったとしたらどうだったか。いずれにしても、彼は群衆の輪の中にひざまずかされ、鞭打たれ、あるいは拷問され、遠からず死なねばならなかっただろう。それならば、瞑想の中で死ぬほうがましである。なぜならば、彼が一日生きながらえればその分だけ、数日生きながらえればより多く、他者に悪しきカルマを積ませることになっただろう。鞭打つ刑吏や拷問者は、彼を苛むことで悪しきカルマを蓄積することになったわけだから。

他者に悪しきカルマをもたらすことを避けるためには、こうした自殺は許される。瞑想による死は自殺ではないと言う人がいるかもしれない。だが、仏教徒として見れば、呪いによって人を祈り殺すのが殺人であるのと同じように、瞑想による死もまた自殺である。

(中略)

 

人を殺すに刃物や銃器などの武器を使おうと、マントラ(真言。祈りの呪文)の力に頼ろうと、その結末は、まったく同じだと言わねばならない。死である。他者の死。自殺するに、ロープを用いるか、毒薬をあおるか、瞑想の中での自己の肉体との決別を選択するか、それは手段の違いにすぎない。結果は死である。自己の死。

(中略)

 

だが、よく肝に銘じておくべきだ。仏教徒にとっても、自殺は悪しきことである。極力、自殺は避けねばならない。ここで私が述べたことは、あるきわめて限定された極限状況の中で、例外的に自殺も否定されない場合があるということである。いかなる場合も、自殺を絶対的に罪だとするキリスト教との違いを覚えておけばそれでいい。

自殺ばかりではない。殺すことは、それが人間だけではなく、いかなる生命であろうとも殺生として禁じられている。生命の破壊は罪である。』

(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議/14世ダライ・ラマ/クレスト社P53~58から引用)

 

現代の人類は緩慢な自殺をしているようなものであるとは、生きる本質的な意義を見出せずにいながら、人並の生活を続けていくには激烈な生存競争を勝ち抜いていかなければならず、自ずとその生活は苦と感じられる人が多いからである。

 

最近の学校では、自分に合った仕事を捜させるわけだが、これが本来の自分らしい自分捜しにつながっているところがよい。その方法は冥想(瞑想)がベストだが、無私無欲をベースに本来の自分らしい自分を、思うことなく考えることなく求めていけば、いつか自分にふさわしいライフ・スタイルは見つかるだろう。

だが現代では、それではすまない。自分にふさわしいライフ・スタイルで生きるとは、いわば下方三チャクラ(ムラダーラ、スワジスターナ、マニピュラ)で生きることであって、そんな人ばかり増えると最終的には世界全面核戦争に至り殺しあうようなことになりかねない。

よって、愛を踏まえた上方3チャクラ(アナハタ、ビシュダ、アジナー)で生きつつ、大悟覚醒(ニルヴァーナ)を目指さねばならない。

上方3チャクラで現代を生きるのは、胃をやられがちになる。他人を傷つけないような生き方をするのは当たり前だが、ダンテス・ダイジは、「自分を傷つけられるのはどうか?」と問われて、「自分を傷つけられるなどということは知ったことではない」と一刀両断した。

さはさりながら、現代において生きるために全身全霊をかけて生存競争に勝ち抜いていきながら無私・無欲・無用の用の冥想修行を続けていくには相当に骨折りが必要であるのも間違いない。

 

自殺は論外だが、この人生で大悟覚醒することを狙ってこの時代に生まれてきた人には、日々の30分の冥想もする余裕もなく暮らしている人も少なくないだろう。それでも頑張って少しでも冥想していこう。

それだけが、人類全体の自殺を回避する道なのだから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

室伏広治ハンマーを磨いて金メダルを取る

2025-01-03 03:24:08 | 冥想いろいろ

◎心と体がハンマーと一体になる

 

ハンマー投げの室伏広治は、ある時からハンマーを磨き始め、ハンマーと向き合い、ハンマーの気持ちになることができるようになった。やがて心と体がハンマーと一体になるようになって、それから記録がどんどん伸びるようになって、ついに2004年アテネオリンピックで金メダルを獲得できた。彼は、練習の終わりにいつも5分間ハンマーを磨いていたという。

 

禅の世界では、瓦を磨いて鏡にすることで悟りを開こうとした南嶽がいる。それを見て馬祖が「瓦を磨いても、鏡などできないでしょう。」と問うた。

南嶽、「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」と返されて、馬祖は何も言えなかった。

 

禅では、一人の僧が御簾を巻き上げるのはダメとされたが、別の僧が御簾を巻き上げるのは可とされた。同様に坐禅中にある僧が居眠りしていたら棒でたたかれたが、臨済は坐禅中に居眠りしても咎められなかった。

 

5分間ハンマーを磨いた誰もが金メダルを取れるわけではない。

そこには、道具を大切にするとかゾーンに入るということとは、別種の何かが存在している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の皇統文献を破却したらしい聖徳太子

2024-12-06 03:24:04 | 冥想いろいろ

◎神代文字を消滅させるほど、当時の日本は爛熟していたのだろうか

 

ウガヤフキアエズ尊は、死の床で統治関係文書をわが子である15歳の神武天皇に譲ったと、秀真伝に記述がある。

先代旧事本紀大成経では、神武天皇の御代に彼の腹心の天種子命に対し、この粘土板を焼いた文書は神魂と称する大切なもの(おそらく皇統などの古記録であって、神代文字で書かれた文書)だから、忌部、卜部両家が永久に保存せよと命じられたものであった。

昔は、皇位継承に際しては、文書と鏡と剣を引き継ぐものであって、鏡は右の臣、剣は左の臣が奉持した。文書は、神魂と称する大切なものである。

 

ところが、聖徳太子は、小野妹子と秦河勝に命じて、この土器文書すべてを保管元の忌部、卜部両家から差し出させて、聖徳太子自ら蓋を回して土器文書を見たという。

 

この土器文書は神代文字文書と思われるが、日本は漢字が入るまでは無文字社会だったというのが現代の定説だが、おそらく真相は神代文字社会であろう。聖徳太子と蘇我氏が、日本を漢字と仏教社会にするため、この土器文書を含め、神代文字を焚書坑儒して撲滅したと思われる。

 

こういう原日本文化の伝統の粋を破却する荒業をやった反作用か、聖徳太子は一族すべて滅亡。かたや聖徳太子の聖性を評価する後世の聖人はいる。

(以上参照:人類文明の秘宝『日本』  世界破局救済の「使命」その根因を探る  馬野周二/徳間書店P248-252)

 

古事記は予言の書と言われる。古事記上つ巻は、ウガヤフキアエズの段で終わっている。出口王仁三郎は、終わりの時代に、上つ巻の内容はすべて現実化すると予言している。

上記土器文書の中で、ほぼ神武天皇が譲り受けた時点までの記録こそが、ウガヤフキアエズの段で終わっている古事記上つ巻。

この時代には、中つ巻以降は現実化しないから、焚書かつ神代文字も破却してよいと聖徳太子は考えたのかどうか。

 

古事記原文の、漢字をほとんど音に当てただけのような妙な文を見るつどそんなことを思う。

出口王仁三郎は、古事記はわやにされたとも言っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メルクリウスの水の作り方

2024-11-22 03:24:12 | 冥想いろいろ

◎正しく理解してさえいれば、賢者の石は短時間でできあがる

 

『錬金術師の入門式については、いくつかおもしろい話がある。見たところ実話のようだが、実際にはほとんど寓話だろう。歴史家はよく、エルヴェシウス(ヨハン・フリードリッヒ・シュヴァイツァー)の話を引用する。というのも、錬金術の達人との出会いをありのまま語っているように見えるからだ。『金の子牛』から、その物語を要約してみよう。

 

一六六六年十二月二十七日のこと、見知らぬ男がハーグにあるエルヴェシウスの家に現われた。男は「小さなクルミくらいの大きさで、透きとおった青白い硫黄の色をした」物質のかけらをいくつか見せ、「哲学者の石」だと言った。ほんのひとかけらもエルヴェシウスにくれようとしなかったが、石を貴石に変える方法と、霊薬や「清らかで澄んだ、蜂蜜よりも甘い水」(おそらく、有名なメルクリウスの水)の作り方を教えてくれた。錬金術の金で作ったメダルも見せてくれた。

三週間後、男が再びやってきたので、エルヴェシウスはしつこく頼みこんで、ようやく小さな石の「かけら」をもらった。しかし、それっぽっちでは何も作れそうにない。すると、男は石のかけらをとりあげて半分を火に投げこみ、残りの半分を返してくれた。そして石を調合する方法を教えてくれた。それによると、必要な物質は全部でたったふたつ。それに坩堝がひとつあればできる。正しく理解してさえいれば、石は短時間でできあがるし、費用も少なくてすむという。男はそれきり、二度と戻ってこなかった。

エルヴェシウスは妻の助けをかりてその石で変成をなしとげた。できあがった金は正式に鑑定した結果、良質であることがわか った。』

(錬金術 心を変える科学/C.ジルクリスト/河出書房新社P74から引用)

 

上掲『必要な物質は全部でたったふたつ。それに坩堝がひとつ』の必要な物質はあらゆる正反対のもの、坩堝とは肉体。

なぜ石を半分だけくれたかは、師の教えは半分であって、残り半分は自分でたどり着くものだから。

 

メルクリウスの水とは、処女の乳、生命の水、火とも呼ばれ、この水で死者を生き返らせたり、病気を治したり、不死に到達したりできるとされる。メルクリウスは、水銀のこと。

 

メルクリウスの水や賢者の石が、さる冥想状態であるとは普通気がつかないが、全身全霊で人生をかけて、「人生はかくも理不尽、不条理であるのは何故か」と追求しきるエネルギーのある者だけが、そこに気がつくのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梁野人-2

2024-10-16 03:35:29 | 冥想いろいろ

◎梁戴は宿に大量の黄金を置いて屍解する錬金術師

 

ところが梁戴の兄の顔は、その時州の太守となって居たが、ある日突然弟の梁戴が訪ねて来たので、顔は大いに喜び、早速酒を出して共に快く飲んであった。その時顔は弟が身にボロを着て居るのを見て不憫に思い、新しい衣を出して彼に着せてやると、彼は稍や不機嫌らしい顔をして、平生山林に生活して居る我々風情の者は、唯だ精神の修養を重んじて形骸のことなどはもとより念頭に置いて居ない。美しい衣、美しい邸宅等は我々から見れば、あたかも糞土にも劣った物であると言って兄が親切に留めるのを振り払って、そこを辞し、その夜はとある旅舎に泊った。

 

然るにその夜半になって蔵の座敷で夥しく金銭の響がするので、宿の主人は不審に思い、彼をばてっきり盗賊の類と思い込み、ひそかにその座敷を覗いて見ると別に何のこともなく戴は酒に酔って快くそこに寝て居た。

 

然し主人が此方へ帰って来ると、再び梁戴の居間で、前の如く金銭の響きがするので、再び行ってその居間を覗いて見ると、矢張り何の変事もない。

そこで主人は益々不審を抱き、翌朝梁戴が起き出て立去るや否や、急いで件の座敷へ駆け込んで見ると、驚いた。

 

壁の側に黄金が夥(おびただ)しく積み重ねてあって、その上に兄の太守に宛てた手紙が一通添えてあった。

 

そしてその手紙の中には、自分は野に育った人間で、松風蘿月は即ち自分の無二の伴侶で、天にある青空は即ち自分のための屋蓋、大地は即ち自分の寝床である。気が向けば何十年とそこに留るけれど、一度嫌になってしまえば十年の住家も弊履の如く捨て、復た他の気に入った場所を探し求める。かくの如く自分は今日は東、明日は西と流れ歩く浮草の身で、もとより一定の住家もなければ、自分のことは今日限り長く思い切って、唯だ国家のために長く自愛せられんことを望む。かくてまたここに積んである金は、夫々貧民に施して貰いたい。それから又自分のこれまで愛用していた弊衣をここに脱ぎ捨ててあるから、これを自分の形見として永く取っておいてくれるように書き認めてあった。

 

そこで彼が脱ぎ捨てた衣を観るに、散々に裂け破れて居るけれど、一種言うに言われぬ佳い香気がして、如何にも世間普通の物とは異なって居た。そしてその後彼の室をよくよく検べて見ると、屋根の瓦が二三枚剥き取られて居て、どうやら彼はそこから天上へ飛昇したらしい形跡があったということだ。

 

梁戴は、兄から新品の衣をもらったことをきっかけに、行雲流水の生涯を終え、大量の黄金を置いて屍解した。梁戴の以前の放蕩は、この世的な欲望に別れを告げるためのものだったのだろう。

 

これは、一休宗純の親友一路居士が、托鉢の食事入れに馬の沓(くつ)が入れてあったのを見て亡くなった事績に似る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梁野人-1

2024-10-15 03:31:09 | 冥想いろいろ

◎無際限の富を得て酒食乱倫に使う

 

梁野人、名は戴、長沙の人である。彼の父兄は共に儒学を治めたけれど、彼のみは独り仙道を学び、日夜研鑽して鉛汞修煉の術を得た。

 

三清殿の後苑に一の銅像があって、ある日、彼はその下に憩って居ると、頻りに唾気が催して堪えられぬので、ふとウトウトとすると夢に長さ一丈あまりの金人が現れ、右の手に一個の金貨を持って、それを彼に与え、あなたがもし銭が欲しいと思う時は左の手を袖の中へ突込み劇(はげ)しく手を振動かせば銭はいくらでも欲しいと思うまで出て来るであろう。但しこの事は決して他人に漏らしてはならぬぞと言う かと思うと、その姿はたちまち消え失せて了った。

 

梁戴は、夢が醒めてからもなお精神恍惚として居たが、しばらくたって我に

返って見ると、左の手が少し痛みを感ずるので、おそるおそる掌を見ると、うすぼんやりと銭の形がその上に現れて居た。

そこで試に左の手を袖の中へ突込んで、二、三度はげしくゆすぶって見ると忽ち銭が袖の中に一杯になったので彼は大いに喜び、その日は何喰わぬ顔をして家へ帰って来た。

 

而してその後、彼は益々放蕩に身を崩し、到るところの酒樓に流連して居たので、彼の母はそれを見て大いに心配し、兄の顔は、幼少の頃から学問して進士の試験にも及第し、今は位高き身となって居るのに、お前のみは益々放蕩に身を持ち崩すとは何たる浅間しいことであるぞと言って、時々彼を戒めて居たが、彼は母の言葉などは少しも意に介さなかった。而してその後久しく経つと、彼はにわかに家を飛び出して諸方を遊び廻り、前後十二年計りの間は何の音沙汰もなかった。

 

どんな人でも人生のうちに少なくとも1回は、袖の中に大金がわくようなことはあるものではないだろうか。

だが、どんなに徳を積んでも3回も王に生まれ変われば、過去世で積んだ徳を使いきってしまうという。

 

梁戴は、真摯な冥想修行者だったが、欲しいだけ銭が湧く袖を手に入れて放蕩して、元の黙阿弥になったのか、最後に残った現世的欲望を叶え、すべてを捨てる準備としたのか。ニルヴァーナに向けて回り道をしたのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クラリネットの一音だけで奏者の人生を知る

2024-10-13 03:29:50 | 冥想いろいろ

◎音をきっかけに自分の奥底をのぞき込む

 

著者のピーター・バスティアンは、デンマーク人のバスーン奏者にして、巨匠チェリビダッケの愛弟子。ハタ・ヨーギ。一日、彼は、ブルガリアのクラリネット奏者を訪問することにした。彼は、クラリネットの一音を聞いただけで、奏者の人生のすべてを直観した。

 

『-音-

 

七〇年代の中頃、私はレコードで聞いたジョルジ・コエフという名前のブルガリアのクラリネット奏者を追いかけたことがある。私は先生のニコラ・ヤンコフから彼の居場所を聞き出し、捜し回ったあげく、ブロヴディフの近郊の小さな村の外で彼を見つけた。突如、車のヘッドライトのなかに浮かび上がった彼は、錆だらけの自転車を引いていた。

通訳は車から飛び出すと、すさまじい勢いでデンマークとブルガリアの文化的協調や、テーブ録音やラジオ・デンマークなどといったことについてまくし立てた。コエフは冷たい調子でいくら払うつもりなんだと尋ねた。通訳が口ごもりながら何とか口実を見つけようとしていると、コエフはこう言い残すと踵を返して行ってしまった―「豚を見に行くところなんだ。デンマークとブルガリアの文化的協調とやらに時間を割いているひまはないね」。がっかりした私は通訳を暗がりに引っ張ってゆくと彼女の音楽的センスのなさを罵り、コエフを追いかけて行って自転車の前に立ちはだかると彼のメロディの一つを口笛で吹いてみせた。

 

-突然、ほんの一瞬だが、彼は天使のように微笑むとこう言った、「金曜日の朝の九時に、五分間だけ吹いてやろう」。彼は行ってしまった。

 

金曜日、午前九時の朝日のなか。――私たちは庭の小道をたどって、コエフに出会い、彼は通訳に何やらぶつぶつと言うと、どこかへ行ってしまった。わけも分からず家のなかに入って行くと、そこでは二人のジプシーが気違いじみたテンポで、まるで競争のようにアコーディオンを演奏していた。私たちは部屋の真ん中にあるストーヴのそばに座ると、いったいどうなるのだろうと戸惑いながら待っていた。ジプシーたちは首から汗を滴らせながら、白熱した演奏を繰り広げていた。

突然、コエフがイチゴを山盛りにした器を持って部屋に入って来ると、顔の一方で通訳に何やらぶつぶつ言い、もう一方で残りの者たちに微笑みかけ、またあたふたと部屋から出ると、外から扉の錠前を掛けてしまった。

 

一時間後、彼はクラリネットを手にして戻ってくると、私たちの向かい側に座ってじっと私をにらみつけた。彼のクラリネットに手を伸ばすと、まるで彼の体の大事な部分をつかんだかのように手をぴしゃりと叩かれた。私たちは長いことひどく気まずい思いをしながら座っていたが、やっと彼は自分のクラリネットを取り上げた。それはずいぶん古めかしい、ハンダや真鍮やプラスチックや蜜蠟などで修理された代物だった。マウスピースは固定されて動かないようになっていて、すっかり歯形が付いているし、太さの違う何本もの糸をマウスピースとリードの間に巻きつけて、リードに適当な透き間ができるようにしてあった。

 

調子合わせに数音を吹いたが、それだけの音のなかにも何か私を完全に変容してしまうものがあった。一音を数秒間吹いたが、ただそれだけで、私はこの人がどういう人でどのような人生を生きてきたのかが分かった。私自身の生きた人生が内側で微かに震えているかのようだった。』

(音楽の霊性 ニューエイジ・ミュージックの彼方に/ピーター・バスティアン/工作舎P62-63から引用)

 

これは、ピーター・バスティアンの小悟。

この話で思い浮かべるのは、無門関第二十九則 非風非幡。六祖慧能禅師が、広東省広州の法性寺で法話を聞いていたところ、風に揺れる幡(はた)を見て、二人の僧が「あれは、風が動いているのだ。」、「あれは、幡が動いているのだ。」と言い争って収拾がつかない。

六祖慧能は、「風が動くのでもなく、幡が動くのでもない。ただあなたの心が動いているだけだ。」と言ってのけた。

 

クラリネットの一音はきっかけに過ぎず、そこからピーター・バスティアンは、自分の奥底をのぞき込んだのだ。

 

占い者は、自分を鏡のようにして、占いをきっかけに自分の奥底をのぞき込む。

タロット、ルノルマン、易、オラクルカード、ホロスコープ西洋占星術、紫微斗数、四柱推命であっても。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分自身を経験する新しい方法

2024-09-20 03:42:17 | 冥想いろいろ

◎アイデンティティと意識を抜き取られ、永遠の亡者になる朝顔

 

違法ドラッグ、脱法ドラッグが以前より手に入りやすくなっているようだが、そうしたものに手を出すのは人生を棒に振る危険も死に至る危険もはらんでいる。

植物だろうが、化学製剤だろうが、向精神薬は、用量を誤ると死に至るものが多い。「ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社」にも用量を誤って死んだ学者やパイオニアの話が沢山出ている。

冥想修行も向精神薬も精神を操作するということでは同様であり、相応の危険性があることは言うまでもない。

奥山で見つけた見目麗しいきのこが毒キノコであるかどうかは、素人にはわからないように、自分が悟っていない限りその人物が大悟覚醒しているかどうかわからないということはある。

 

そしてまた同じ用量でも効果に個人差があることは知られている。カルロス・カスタネダのシリーズでも用量は精密だが、服用時期や心境も大切にしている。

まことに奇跡には時を選ぶタイプの奇跡と時を選ばないタイプの奇跡がある。

 

以下は、規制の緩い時代のアメリカの話として、ソーマとはどういうものかを知識として持っておいて、落とし穴にはまらないために参考になると考えて挙げるもの。

『アサガオの種子は、一般に三百個が大量と考えられている。また、一人一人の精神と身体の出来具合が異なることを思えば、ある人にとっては「少々きつい経験」も、別の人にとってはひどく不快な副作用になることもある。さらに、違う植物から採取したものは、その植物の栽培条件その他の要因によって、適量も効果も違ってくるだろう。種子三百個がだいたい六グラムから八グラムだとすると、前記の方法の五十六グラムは、なんと二千個以上の種ということになる。そのようなトリップがどんなものかは、その半量だけを試したある男性の経験談の抜粋がある。この例をみると、その効果が「サイケデリック」だったことは間違いない。

 

《私自身の経験を話せば、アサガオの種が幻覚剤としてどれだけの力を持っているかがわかるだろう。この経験は、単にハイになるという以外に明確な目的や期待はなにもないお粗末な状況で行ったために、結果的にはバッド・トリップになった。それは、幻覚剤に対する信頼感を回復するまで、二年もかかったほどのトリップだった。このような結果になったのはもちろん、なんの備えもできていないのに、いきなり膨大な量を摂取するという無謀な行動に出たためだ。・・・・量は千個から千二百個ほどあったと記憶している。以前に、三百個ほどで十分というのを読んだことがあったが、これは最低量だろうと思ったのだ。だからたっぷりやって、しっかりいい気分になるようにしたほうがいいと思ったのである。

「回転翼」としか言いようのないものが、ものすごいスピードで、どんどん大きくなりながら近づいてきた。それは、それまでの私のあらゆる経験を完全に超えていた。それは二度三度と近づいてきて、ほとんど部屋いっぱいになり、私は心底怖くなって死ぬのではないかと思った。逃れることは不可能だった。その回転の中心は私の視野の中心であり、私自身の回転軸だったからだ。

それはものすごい、無限のエネルギーで、回転方向を変えながらどんどん近づき、私は自分がその中に吸い込まれ、溶けていくのを感じた。アイデンティティと意識を抜き取られ、永遠の亡者になる。・・・・・燃えるような赤と鮮やかな緑の二本の大河が私の意識を切り裂く。心と頭の分裂は、電子と陽子から私自身の意識的思考を生み出す二葉の大脳に至るまで、完璧に二分した宇宙の一つの現れにすぎないのだ、と私は悟りはじめた。すべてが二分し、永遠に天国と地獄に分かれるのだ。今や私は本気で心配になり、妻に病院に連れて行ってくれるように頼んだ・・・・・・。》

幻覚体験の最も興味ある側面の一つは、その種の物質に対する個人の反応に非常な差があるということだ。ある人が二千個の種によるトリップを「少々きついが、やってみる価値はある」と言う一方で、その半量で救急病院に駆け込む人もいる。ここで論じているのは、個々人の精神を司る脳のシナプスと連絡する精神活性分子である。したがって、基本的には、幻覚剤は自分自身を経験する新しい方法にすぎない。われわれはそれぞれに違う人間なので、それぞれの経験も違って当然なのだ。

 

オルダス・ハックスリー(*イギリスの小説家・批評家。神秘主義への傾倒から幻覚剤を試し、その経験を「知覚の扉』に書いた)はLSDをやって、独特な悟りに達する。チャールズ・マンソン(*アメリカ・カリフォルニアのカルト集団のリーダー。一九六九年に女優のシャロン・テートなど七人の女性を殺害した)もそうだが、しかし得るものは非常に違っている。』

(ドラッグ・シャーマニズム/ジム・デコーン/青弓社P163-164から引用)

 

充分な生への情熱こそが、最後には人をニルヴァーナに導くのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一生の使い方

2024-08-02 06:17:55 | 冥想いろいろ

◎資金運用と黄金への修行

 

西洋錬金術ものを読むと、錬金術実験の資金を得るために貴族や王に金の無心をするが、大体実験はうまく行かず、詐欺だとそしられるシーンが多数出てくる。

錬金術師の側から言えば、一生の半分を資金調達に費やし、うまく資金ができても大体成功はせず、遅くとも一生の終わりごろには、経典の読み方を誤っていたのか、師匠の教えが悪いのか、実験の回数が足らなかったのかなどと悩むことになる。

一生を黄金変成という冥想修行に使うか、金集めに使うか。

 

中国の有名錬金術書抱朴子の著者、葛洪は金丹の真経を手に入れたあとで、「わたしは それを手に入れてから、もう二十数年になる。だが少しの財産もなく、実験のしようがなく、長嘆息するだけである。櫃にあふれるほど黄金を積み、山のように銭を貯めた人は、逆にこのような不死の法があることを知らない。たとえ聞かせてやっても、万に一つも信じる可能性はない。どうしようもない」と慨嘆している(「抱朴子」「金丹」)

 

金が必要だからといって、資金運用、財産形成をメインに活動していけば、大金ができた頃には、人間にとってもっとも大切なもの、真の幸福が、金ではない方面にあることなど思いも及ばなくなっている。

 

唐代以前の王侯貴族は、資金面にも生活面にも不安はなかったから、最速の修行期間で大悟覚醒できる方法として外丹、金丹の服食の方法を選ぶ人が多かった。ところが、ほとんど失敗におわり、重金属中毒で死んだ人が多かった。

冥想修行の分類としては、外丹あるいは金丹の服食は、近道には見えない。それがソーマだとすれば、ソーマの効能が切れた元の黙阿弥をどう克服するのかという謎もあるし、そもそも服用以前にすべてを捨てる準備ができていなければならない。

すなわち当時の道士たちからは、金丹の服食が一気に登仙することができ、成仙の簡便かつ適当な近道だと推奨されていたが、そんな道士は本物ではなかった。そういうエピソードは、唐代だけでなく、秦の始皇帝にもいくつもあった。

中国歴史ドラマは、戦争と謀略・陰謀と愛欲がメインだが、まず金丹の服食の話題は出ないが、王侯貴族の主たる関心事は、実は金丹だったのだ。

 

ブランドに価値があると思っている現代人ですらその価値の本質は価格ではなく、精神的なものであることを知っている。だからこそ現代人は日々、冥想修行が第一なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今ここは口に苦し

2024-07-09 03:22:57 | 冥想いろいろ

◎生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる

 

口に苦い絶望を前面に出さない『今ここ』は嘘っぽい。

OSHOバグワンが、そこを指摘する。

『この現瞬間に生きるよう努める。けっして希望を抱かない―――どんな希望であれ。現世のものにしろ、彼岸のものにしろ、何の変わりもない。たとえ宗教的な希望であったとしても・・・・・・未来なり、彼岸なり、天国なり、ニルヴァーナなり、死後に関わるものであっても、何の変わりもない。希望を持ってはいけない。

 

たとえ今ここにおいてまったく絶望的であっても、ここにとどまり、今この瞬間から動かない。動いてはいけない!それを苦しみなさい。けっして希望を入り込ませてはいけない。

希望を通じて夢が現れる。だから絶望するのだ。もし生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる。けっして未来の物事にしがみつかない。すると突然そこに変化が現れる。現瞬間にとどまりさえすれば、夢はやむ。もう夢は生じない。なぜならその源泉が引っこんでしまうからだ。夢に手を貸しているからこそ、夢の母となっているからこそ、夢が生じる。だから夢に手を貸したり、夢の母となったりしない。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへOSHOP192-193から引用)

 

日本人は、生が絶望的だったら、絶望はするが、それをまんざらでもないと考え、それを受け容れる悪い癖がある。これは、今ここにある絶望を無条件に受け入れているのではなく、馴れ合っているのだ。これでは、突然の変化などいつまでたっても現れることはない。

そんな人は、後世の人に、まだ抑圧を必要とする人々として分類され、進化の準備ができていない人と判定されてしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セクシュアル・メディテーション雑感

2023-10-17 07:14:51 | 冥想いろいろ

◎原担山、LGBTQ、釈迦

 

江戸末期から明治にかけての禅僧原担山は侍だったが、若くして妻帯した。そんな新婚のある日、予定外に日中に帰宅してみると、なんと恋女房が他の男と寝ていた。

これを見た原担山は、剣を抜いて間男に切りかかろうとしたが、その瞬間にすべてのことが馬鹿馬鹿しくなって、剣を振り下ろすことなく出家してしまった。彼は性愛そのものを見切ったのだ。

セクシュアル・メディテーション、性愛冥想、カーマ・ヨーガ、房中術といえば、その行為自体に何かあると思われていることが多いと思う。あるいは、オルガスムス、オルガズム、エクスタシー、絶頂というものに何かあると思われていることが多いと思う。

だが、女性の絶頂は全身的であるのに対し、男性の絶頂ははかないものだ。求道という観点で言えば、性的な男性の絶頂は大したことがないが故に、男性は自分のすべてを賭けて冥想に挑むのだということはある。逆に女性は性において程度の満足があるがゆえに冥想の極みを求めるケースは少ないのだと言える。

 

中国養生思想や酒池肉林の悪影響か、何十人もの若い女性と関係して気を得ると長生きするとかいう説も見かけるが、一方でダンテス・ダイジは、不倫だと性愛冥想は成功しないとしていることから房中術の相手は最適最愛な一人である。

そして行為自体が問題ではなく、行為の後の冥想にこそ眼目があるのではないかと思う。すなわちメンタル体離脱に至る道は様々だが、メンタル体離脱以降は共通らしい。つまりセクシュアル・メディテーションにおいても、行為の後の冥想こそ本来の狙いなのではないかと思う。

OSHOバグワンは、性愛冥想について、いろいろなことを語っているが、行為の後の冥想にはあまり関心はないようだ。サンバラ(交合図)の原理は説くが、彼の教団のフリーセックスを咎めることに彼はあまり関心を持っていなかったのだろう。

 

将来学校で冥想道を説く場合、性愛の問題は避けて通れない。特に昨今、愛と性が完全分離しているが如くなのはどうかと思う。LGBTQ全盛のこの時代だが、本来愛と性は相伴って男女関係の基礎となり、人によっては、セクシュアル・メディテーションの土台にもなっていくもの。

なお求道としてのセクシュアル・メディテーションの道は極めて困難な道であり、あの釈迦ですら、その厳しさに忌避したという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルクレティアの自殺

2023-09-20 03:39:56 | 冥想いろいろ

◎貞節と一夫一婦

6世紀、古代ローマの貴族セクストゥスは、ローマ軍のアルデア攻囲戦での宴会で、いとこのコッラティヌスに妻の比べ合いの余興を持ちかけた。セクストゥスの妻らはローマで宴会を開いて遊んでいたが、コッラティヌスの妻ルクレティアは召使いたちと夜遅くまで糸紡ぎをしていた。ルクレティアの貞淑さに瞋(いか)ったセクストゥスは、数日後、剣で脅しながらルクレティアを強姦。
傷心のルクレティアは、夫と父にこの経緯を伝え、短剣で胸を突いて自刃した。

キリスト教では、貞潔が求められる一方で自殺は禁止されている。人生場裡には、そういう理不尽な事件はままあるものだ。
後にシェークスピアは、この事件を題材に『ルークリース凌辱』(The Rape of Lucrece)を書いた。

事情はやや異なるが、明智光秀の娘細川ガラシャの自殺、明治維新の大田垣蓮月の貞節など、こうした事件には見るべきものはある。

魂の伴侶、一夫一婦のビジョン、イスラムの一夫四妻のビジョン、サンヴァラ(交合図)など、一夫一婦の正統性について考慮すべきファクターは多いが、歴史的に不倫乱倫は一律に悪とされてきたのには、それなりの理由があるのだろうと思う。

(ルクレティア/クラナッハ・ザ・エルダー/ドイツ,バンベルク,バンベルク図書館蔵)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おしゃれな場所でマインドフルネス冥想

2023-08-06 07:04:58 | 冥想いろいろ

◎ファッション瞑想と本気の冥想

 

マインドフルネスは、効果を求める冥想の一種。効果とは、心が落ち着くとか、ストレスが軽減されるとか、気持ちがよくなるとか。こういう冥想は、真剣に冥想修行している人たちからは、ファッション冥想などと呼ばれている。

2023年8月5日のNHK総合サタデーウオッチ9 でマインドフルネスが紹介されていて、パソナの淡路島の禅坊 靖寧と銀座の化粧品店(資生堂?)の地下にある卵型カプセルが紹介されていた。

靖寧は、崖に突き出した空中楼閣に一列に窓を向いてならび座布ではないお尻固定クッション上に坐って冥想するもの。4時間の体験で2万3000円。

銀座の卵型カプセルは、ヘミシンクの水タンクを連想させるが、単に蓋の閉まるカプセル内でヘッドホンで冥想音響を聞きながら冥想するもののようだ。料金は30分で4400円。

冥想音楽は、ambientと言われ、テクノ系だが、アメリカでは60年代から大きく発展してきた。瞑想アプリを使ってみるとambient音楽が流れることがままある。youubeでambientを検索するといくらでも出てくる。だがそもそも内に向かって自分に直面するのに、中途で音楽は不要で邪魔になるのではないか。

 

確かに体調が悪い時期、気力が落ちて何も手につかない時期はあるものであって、そんな時に音楽は効果がある。そうした状況を改善する呼吸法もあるし、マントラもある(南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメンなどなど色々使える)。

 

だが、ambient音楽もファッション瞑想も癒しになるのかもしれないが、真摯に自分の人生の問題を解決しようと思えば、外の冥想場所や風光明媚や心地よい音楽など振り捨ててて、自分に向かう、内側に向かうものなのではないか。

最澄は竹で編んだ筒みたいな中で何も堂宇のない比叡山で冥想に取り組み、一休は日に二食も食べず琵琶湖畔の葦の繁みで坐った。最近だと、用具小屋で坐ったりするインドのグルまでいた。

坐る場所は一人になれればそれでよい。

座物(座布団、クッション)では、背骨が垂直になることが眼目なので、外部施設であてがいのクッションを用いるのは、自分の尻の高さに合っていないことの方が多いのだろうと思う。クッションの形状によっては掌の位置、腿の場所が制限されるのも問題ではある。

 

マインドフルネスでは、トランスに入りながら正師の指導がないというのは、本当は課題なのだと思う。トランスに入るというのは、あらゆる暗示にかかりやすいということで、この時代では特に要注意の心理状態。

冥想を指導できるのは、悟った人だけであって、ハタ・ヨーガや体操を教えるのとは訳が違う。冥想の指導者というのは、弟子の一生を背負う、弟子を一生面倒みるという側面があることは否めないのではないか(金の話ではないです)。

 

さはさりながら、冥想というものがあることも知らないのが普通の時代に、冥想を紹介してくれるNHKは貴重だとも思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする