◎観想法から現実の操作へ
デビッドニールは、悪霊を招き寄せているときに当の術者が急死するケースをいくつか見聞きしていた。
彼女がこのケースの見解について質問すると、学識経験者であるクショグ・ワンチェンは、いつもとは違う声で次のように語った。
『「死んだ者たちは、死に至らしめられたのだ。彼らの見た映像は想像の産物である。悪霊を信じないものは、彼らに殺されることは決してない。
従って虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。
それが自発的なものであろうとなかろうと、心に像を描き出すのは、もっとも神秘的な術なのだ。そこに形成されたものはどうなると思う。肉に生れる子と同じく、これらの心の生んだ子らもまた、われわれから生命を分離し、われらの支配を離れて、独自に動きだすのではないかね。
またこうしたものを作り出せるのは、我々だけであろうか。そのようなものが世界に存在するとすれば、作り出した側の意志あるいはその他の原因によって、これらと接触する可能性がありはしないか。
われわれが思いか行いを通して、これらのものが活動しだす状況を作り出すことが原因のひとつではないのか?
たとえを使おう。
あなたが、川岸から少し離れた乾いた土地にいるとする。この場合、魚はあなたに近づくことはない。だが川とあなたの間には溝を堀り、乾いたところに池を作れば、水がそこに流れ込み、魚は川から泳いで来て、あなたは自分の目で魚を見ることもできる。
不用意に径路(チャンネル)を開かぬよう、よくよく用心することだ。実際無意識という巨大な倉に何が納まっているのかを知っている人間はほとんどいないのだ。』
(チベット魔法の書/デビッドニール/徳間書店から引用)
この事件は、残忍な悪霊トゥオに立ち向かう修行の半ばで、食い殺されてしまった弟の事件である。
観想法においては、ありありとイメージを想像するが、その当のイメージにも本物とにせものがある。本物というのは、どんな場所どんな時代においても変化することのないイメージであり、第六身体のイメージである。にせものというのは、第四身体(メンタル)以下の霊界のイメージであり、どんな素晴らしいイメージであろうと、天人五衰と呼ばれるように、いつかは滅び、死する時が来る性質を持つイメージである。
クショグ・ワンチェンのコメントは、観想法におけるイメージは、取扱に注意すべきことを語ったものであるが、この分類では、にせもののイメージの取扱ということになる。にせものという呼び名ではあるが、霊界深部に作り出したイメージは、現実に実現していくものがある。だから観想法を修する人間は、よくよく注意しなければならないという警告がまず一つある。
そして、霊的な感受性・チャンネルを開いてしまった人間には、そうしたもの(イメージ、霊、波動)が「実在」するものとして干渉してくるのでその危険性を認識せよと二重の意味で警告している。
クショグ・ワンチェンのコメントは意味深長である。「虎の存在を信じない者は、たといこの獣は出会ったにしても、自分が虎に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」。
これは、霊能の世界一般の法則だと思う。さらに、「神の存在を信じない者は、たといこの神は出会ったにしても、自分が神に決して傷つけられないという確信を持てるということだ。」という言い換えも可能である。現代人の無神論の心理的な原型がここにある。
大衆のイメージをマスコミのニュース・コマーシャルで操作し、そのイメージを大衆・国民の深層心理に定着させ、やがてはそのイメージを、知らず知らずのうちに現実化させるというやり方は、この原理を知悉した勢力が、政治や経済を誘導する場合の「観想法」を利用した常套手段である。
このストーリーは、チベットの山奥で、初心者の坊さんが、トンデモ修行に失敗して、虎に食い殺された気の毒な事件にとどまるものではなかった。