アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダリーニ・ヨーガの源流-3

2024-05-13 06:23:21 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎不死への上昇

(2014-11-06)

 

(承前)『心臓の脈官は百と一ある。その内のひとつは頭頂へと走っている。(アートマンは)それによって上方におもむき、(頭頂の孔(ブラフマランドラ)から身体を脱けだして)不死に到達する。他(の脈管)はあらゆる方向に出て行くためにある。

 

親指大の人間(プルシャ)、(万物の)内部にあるアートマンは、常に人々の心臓に座を占めている。それを自分の身体から不撓の心で引き出すべきである。ムンジャ草から髓を引き出すようにそれを輝くもの、不死のものと知るべきである。それを輝くもの、不死のものと知るべきである。

 

ナチケータスは死神によって説かれたこの知識と、ヨーガの全規定とを得て、ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越した者となった。

 

まさしく最高のアートマンについてこのように知る他の者も(死を超越した者となるのである。)。

 

オーム。われら(師匠と弟子)をともに嘉したまえ。われらをともに益したまえ。われらが共に精進せんことを。 学習したことがわれらに輝かしからんことを。われらが憎み合うことのなからんことを。

 

オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論p150-151から引用)

 

アートマンは人によっては真我と訳すが、これは、個別性があるのかないのか誤解を招きかねない訳語であるように思う。有、「ただある」こそが、アートマンであって、個別性があっては本来のアートマンではない。つまり個別性が残る以上は、個別性の極北であるコーザル体であるときちんと表現すべきものをここでは、アートマンと呼んでいる。個別性の頂点であるコーザル体のこともアートマンと呼んでいるのだ。ウパニシャッドの時代には、アートマンに個別性があるかどうかはあまり問題にならなかったと見るべきだろう。

 

ここで個別性が不死たる中心太陽に到達する。この不死が中心太陽であることを初めて公開したのがダンテス・ダイジ。この時代にそれを公開する意義は、現代人の世界観では、個別性の極限を「不死」という生活実感の中でとらえるのではなく、肉体の死にも不死にもこだわらず、ビジュアルにこの世界を越えたいわば異次元の、自分というものをも捨てた先に有ることを鳥瞰的にとらえる必要があると見たのだろうか。

 

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、コーザル体は心臓の位置に見え、アートマン(真我)も心臓内の洞窟に見える。この見え方を前提として、心臓からの脈管という表現があるように思う。そもそもアートマンに個別性はないのに、なぜか心臓の位置に、原子よりも更に小さい球体として霊視できるとしている。

 

おまけにスワミ・ヨーゲシヴァラナンダのコーザル体の説明では、コーザル体の一番外側はブラフマンの光球であると説明している。コーザル体は個別性があるが、その中に個別性のないかつ全く次元の異なるブラフマンを視認できるとは、妙な気がする。

 

このアートマンとブラフマンはコーザル体を見に行った時に見えるとするが、見る自分というのがあって、アートマンとは見る自分と見られるものとの区別のない状態なのに、「ただある」のアートマンが見えたり、ブラフマンが見えるとするのは、ひょっとしたら霊覚者、霊能者の見方を超えていないのではないかという疑念を禁じ得ない。

 

しかしここではアートマンが心臓にあると説明し、それを抽き出してきなさいと求道のルートを説明している。それが当時の人にとっては、最も受け入れやすい説明だったのだろうが、個別性の極みにある現代人にとっては、心臓をいくら解剖してもアートマンなど発見できないと反論するだろうから、アートマンと個別性の議論と、肉体と七つの身体の議論を整理して出していかないと、我等が無垢なる隣人に理解の糸口をつかんでいただくことすらできないだろう。

 

いずれにせよ、頭頂から自分が脱け出し、不死なる中心太陽に到達することがクンダリーニ・ヨーガの目標であることが、古代インド、ウパニシャッドの当時から王道とされていたことをここでは確認したい。

 

【チャクラと七つの身体-321】

◎アートマン-25

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-3

(ザ・ジャンプ・アウト375)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クンダリーニ・ヨーガの源流-2

2024-05-13 06:17:58 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎仮死で「ただある」

(2014-11-05)

 

(承前)『五感の知覚も思考力も停止し、理性も活動しない時、それを人々は最高の帰趨という。

その確固とした感覚器官の保持を、人々はヨーガと理解する。そのとき人は心を散らさなくなる。なぜならばヨーガは(内的な力の)発現であり、(最高の帰趨への)没入であるから。

ことばによっても、思考力によっても、視覚によっても、それ(アートマン)は得られない。それは「ある」という以外には、どのようにして理解されよう。

 

ただ「ある」というようにのみ、それは理解されるべきである。両者(理解するものとされるもの)の同一である状態として。ただ「ある」というように理解されたとき、(両者の)同一である状態が明らかになる。

 

彼の心を拠りどころとするすべての欲望が追放されるとき、死すべきものは不死となり、この世においてブラフマンに到達する。

 

この世において心の結び目がすっかり解きほぐされるとき、死すべきものは不死となる。

 

以上が(このウパニシャッドの)教えである。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論社P150から引用)

 

五感も停止、思考も停止、理性も停止するとは、肉体機能が停止し、アストラル体に帰属する感情も動かず、メンタル体に帰属する想念も動かない状態と見ることができよう。ここでは冥想による仮死状態が前提とされていると見ることができよう。

 

まず「その確固とした感覚器官の保持」ともあるので、クンダリーニ・ヨーガ特有の聞き守る、見守るという冥想の基本がここで確認されている。

 

この時心の散乱がないということであるから、ダーラナー(総持)という心の一点集中を経て、冥想する対象と冥想する自分がつながりディアーナ(定)の状態となる。密教では、冥想(観想)対象として多数の尊格を用いるが、ウパニシャッドでは、その対象が何であるかは、最終段階ではあまり問題にする必要はないものであると見ていることがわかる。

 

最後に冥想する者と冥想する対象が一体となる、サマーディ(三昧)の状態となり、ただ「ある」だけとなる。

 

例によって「ただある」というアートマンに到達したら、論理的説明抜きで、次のブラフマンに行ってしまうかのようだ。

 

 

【チャクラと七つの身体-320】

◎アートマン-24

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-2

(ザ・ジャンプ・アウト374)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クンダリーニ・ヨーガの源流-1

2024-05-13 06:09:57 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ウパニシャッド「死神の秘教」

(2014-11-04)

 

カタ・ウパニシャッドの死神の秘教は、賢者ナチケータスが死神に死の秘密を明かしてもらうストーリー。ここでは、アートマンがあって、ブラフマンがあってというのが前提となっているので、これはクンダリーニ・ヨーガ的世界観、修行体系の中の話となる。

 

この章の冒頭に世界樹アシュヴァッタ樹が説明され、その根が上方にあり、枝が下方にあると説明される。根とは頭頂サハスラーラ・チャクラのことであり、他の6チャクラがそこから展開することを枝と謂う。アシュヴァッタ樹は永遠であり、不死である。

 

また全世界の比喩として、大きな恐怖、振りかざされた金剛杵(武勇神インドラの武器)も用いられる。金剛杵は、密教の秘儀のシンボルであり、真言密教、チベット密教の金剛杵のそもそもの出所はここにあることがわかる。みじめでちっぽけな自我の上に真っ向から振り下ろされようとする全世界がダイヤモンド・ハンマーであることを知る人は不死となる。

 

『感覚器官よりも思考力がすぐれ、思考力よりも純粋存在の方が高次である。純粋存在よりも大きいアートマンがまさり、大きいものよりも未開展のものが上位にある。

 

しかし未開展のものよりも、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たない精神原理(プルシャ)がすぐれている。彼(精神原理)を知って被造物は解放され、そして不死の状態に到達する。

 

彼の姿は目に見えず、だれも彼を目で見ることはない。彼は心によって、思惟によって、思考力によって表象される。このことを知る人は不死となる。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論社p149-150から引用)

 

純粋存在(サットヴァ)とは、コーザル体か。大きいアートマンよりも上位にある「未開展のもの」はブラフマン。

ブラフマンの更に上に「精神原理(プルシャ)」を置いている。「精神原理(プルシャ)」は、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たないという性質なので、アートマンのことと考えられる。ブラフマンよりもアートマンが上位かどうかという議論には意味がないように思うので、この書き方にはある意図を想像する。

 

【チャクラと七つの身体-319】

◎アートマン-23

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-1

(ザ・ジャンプ・アウト373)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不連続な意識のスペクトル

2023-05-08 17:10:51 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ケン・ウィルバーの意識のスペクトル

(2014-12-15)

 

ケン・ウィルバーは、見たところ只管打坐系冥想による見性体験のある覚者。アートマン・プロジェクトという著書のP218にあるように、未だアートマンの残る十牛図第七図レベルでの世界の統合をテーマに活躍しているように見える。

 

そしてスタニスラフ・グロフなどのトランス・パーソナル心理学などの古今東西の多くの学者、聖者の見解を取り入れて、意識だけではなく、現象全体の統合、マッピングを図ろうとしている。ケン・ウィルバーにおいても、悟りは意識の深化の延長線上にあるという考え方である。(ただし彼は、宗教によっては、狙いどころが必ずしもアートマンであるとは限らないということも云っている。現世利益を求める宗教は、表向きはアートマンを標榜していることになっているかも知れないが、その実はそうではあるまい。)

 

そうしたケン・ウィルバーには、定番の意識のスペクトル説がある。これは意識レベルをいくつかに大分割するものであるが、内訳のカテゴリーには更に詳細なものもある。また分割数にもいくつかのバリエーションがあるが、ここでは、近著「インテグラル・スピリチュアリティ」(春秋社)のヴェーダンタなどを参考にした意識の5段階説を挙げてみる。

 

1.粗大な覚醒の状態

自転車に乗ったり、このページを読んだり、身体運動を行ったりしているときの状態。

 

2.微細な夢見の状態

鮮明な夢、鮮明な白昼夢、視覚化の訓練、あるタイプの形のある瞑想

 

3.元因-無形の状態

深い夢のない眠り、広大な「開け」ないしは「空」の体験

 

4.目撃者の状態

これは他のすべての状態を目撃する能力である。たとえば覚醒状態にあっても、明晰夢の状態でも、目撃者はそれを目撃する。

 

5.常に現前する非二元的意識

これは状態というよりは、他のすべての状態に対して常に現前する基底(グラウンド)である。そしてそのようなものとして経験される。

 

ヴェーダーンタもヴァジラヤーナ(金剛乗)も、これらすべての状態(そして、それに対応する身体ないし存在領域)は、「貴重な人体」のおかげで、あらゆる人間に獲得可能であるとしている。この意味するところは、これらの主要な存在と意識の状態は、発達のいかなる段階であっても、程度の差こそあれ、すべての人に獲得可能なのである。それには、幼児も含まれる。幼児もまた覚醒し、夢を見、眠るからである。』

〈「インテグラル・スピリチュアリティ/ケン・ウィルバー」(春秋社)P112から引用〉

 

ケン・ウィルバーは、「3.元因-無形の状態」から先がアートマン以上だと見ている。

 

ケン・ウィルバーはこの全レベルを1人称の体験として確認したと述べているので、見性したことで相違あるまい。

 

ケン・ウィルバーは、アートマン・プロジェクトにおいて、ニルビカルパ・サマディー、十牛図第八図人牛倶忘を、「3.元因-無形の状態」と「4.目撃者の状態」にカテゴライズしている(P162)。つまりケン・ウィルバーは、人牛倶忘は、一つの通過点として見ているのである。

 

ニルビカルパ・サマディー=十牛図第八図人牛倶忘を過ぎると、次は目撃者と目撃されるものが同一となり、全世界は、発現するものより完全に上位にあって先行しているが、全世界のどの部分も、そこから現れ出る個々の事物以外の何ものでもないとする。要するに個々が全世界と同一になって現れ出でる。これを以って彼は十牛図第十図だとする

 

 

またこの5段階は、悟っていない人間から見れば、2と3の間が不連続に見えるが、覚者からみれば、5段階連続している。ケン・ウィルバーは、これを承知しているが、そのことをあまり問題にしないという態度である。

 

ケン・ウィルバーは「社会全体の自己感覚の平均的あり方」をテーマにしてはいるが、覚者側に立っているがゆえに、その不連続を殊更に強調する必要を認めないというところだろうか。あるいは「社会全体の自己感覚の平均的あり方」からすれば、微細な夢見の状態以下は一顧だにする価値のないものとされるか、存在していないものとされているという現実を踏まえた方針なのだろうとは思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日の老いたる者の言葉

2023-02-01 17:26:52 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎音楽の効用

(2014-12-08)

 

言葉は、音であり、響きである。トーラーの言葉から

 

『ラビ・シモンが次の聖書の文を引いて語りはじめた。「わたしはわが言葉をあなたの口に置く」(イザヤ書五一-一六)

至聖がトーラーに取り組む人たちの声を聞き給うように、人間は日夜トーラーに励まねばならない。だがトーラーに励む者らによって新しくされる一語一語から至聖は天の空間を作り出す。わたしたちはこのように学んだ。

 

トーラーの言葉が人間の口から新しくなって出ると、それは上昇して至聖の前に立つ。すると至聖はその言葉を迎え、それに接吻し、しるしを打印した彫りこんだりした70の王冠をかぶせる。

 

新しくなった高い知恵の言葉はまた上昇し、ツァッディーク、永遠に生きる者の頭にとどまり、そこから飛び出して、七万の世界を通り抜けて、「日の老いたるもの」(ダニエル書七-九)の前へ昇って行く。

 

 

だが日の老いたる者の言葉はすべて知恵の言葉であり、隠れた高い秘密となっている。』

(ゾーハル/エルンスト・ミュラー編訳/法政大学出版会P29から引用)

 

この文からすると、「トーラーに取り組む人たち」とは、菩薩であって、最低でも見神を経た人。

 

しかしジャンルは問わないが、至聖なるものを求めてやまないミュージシャンにも、その旋律が、至聖の前に届くことがある。

 

そしてあろうことか、その旋律は日の老いたる者=中心太陽の前に登りさえするという。永遠に生きる者の頭とは、アートマン。

此の辺は、クンダリーニ・ヨーガの奥義をきわどく暗喩しているように思う。その場に立ち到った者だけがそれと気づく。

 

70の王冠の7万の世界も7つのチャクラの強調。

 

そうした前向きの想念を有した演奏者の手による音楽により、時として病んだ肉体は快癒のきっかけをつかむことがある。大いなるかな音楽の効用。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空海の十住心論-2

2023-01-13 10:33:30 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎空海の十住心論-2

 

空海の十住心論の続き。

 

第六住心から第九住心までは、十界説で言えば、ほとんど菩薩のレベルだと思う。菩薩のレベルというのは、最低でも見性しているレベルである。ところが、空海は、第八住心までは迷い(無明)であるとする。

つまり見性しているからとりあえず良しとするわけではなく、まずは第十住心の秘密荘厳住心でないと、問題があると指摘している。

 

第十住心の秘密荘厳住心がニルヴァーナであるのは問題ないと思う。一方第九住心の極無自性住心が、唯一の世界(法界)であるとして、華厳経の毘盧舎那佛のことであるとしているから、アートマンのことと見れる。よってこの十住心論の10ステップのトップ2も、やはりニルヴァーナとアートマンを置いていると思う。

 

 

第六住心

他縁大乗住心

心の海は静まり、波立っていないが、迷いの風が吹くために、波風は立つ。天国も地獄も自分の心が作り出したのだということを知らないレベル。

 

悪を行わず、あらゆる種類の善を長年にわたり行い、菩薩の52段階の修行を積み重ねても、本来の悟りは、自分の心の中にあることを知らない人のことである。心とそれが認識する対象物が別の物だと思っているが、菩薩としての修行がかなりできている人のレベルである。

 

第七住心

覚心不生住心

概念的な認識(五辺)は、本質的なものでない。原因により生起した心は、それ自体の性質(本性)を持たず、空であり、仮の存在であり、中道であり、アプリオリに存在している。

しかし本来の悟りは、遥かな過去から存在しており、自然や、清浄という表現も不適当で、言葉の表現を離れている。

 

ここで心の本性が不変で、自由自在であることを知り、無益な議論をすることはなくなったが、まだ本来の悟りの入口に初めて立っただけだ。

 

第八住心

一通無為住心

空性は、感覚と対象を離れて、形もなく境界もない。こうした認識主体である心と認識される対象との対立をなくしたところに常寂光土(浄土)がある。しかしその対立をなくし、常寂光土へ至る手だてはない。依然として無明のままである。

 

第六住心の課題は、認識主体である心と認識される対象との対立があることだったが、ここでは、その課題を克服する認識はできたが、実践方法が見つからないレベル。

 

第九住心

極無自性住心

ここまで積み上げてきた認識や哲学を総合すると、現象(迷い)と実在(さとり)は、唯一の宇宙法界(法界=世界)におけるものであることになるが、これは、単なる客観的な世界観に過ぎず、哲学にすぎない。これでは依然として真の悟りではない。

 

第十住心

秘密荘厳住心

大日如来は、あらゆる仏と一つであって、迅速な力という三昧(トランス)に入り、自ら証した心理の世界の本体という精神統一を説くレベル。仏界に相当。

仏の位に入るとは、即身成仏のことで、大日如来と一体化することである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空海の十住心論-1

2023-01-13 10:28:03 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎空海の十住心論-1

 

空海は、人間の意識の発展段階として、十住心論を掲げている。

住心とは、心のあり場所や精神のおきどころの思想・哲学ではなく、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系のこと。冥想の縦軸、横軸という議論からは、十住心論は歴史的な社会の発展段階説でもあるので、縦軸のステップであるという見方も否定できない。

 

ここでは仏教十界説と並べて、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系の特徴と狙いを考えてみたい。空海の十住心論は密教の世界観の伝統に従ったものであり、その中にアートマンも顕れる。

 

十住心論の10ステップは、十界説と1段階ずつパラレルの一対一の対応になっているのではなく、第一住心に、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の下位4界がまとめられていたり、更に菩薩段階から上が細かく分類されている、ちょっとデフォルメの効いた十ステップになっているところが特徴と言える。

 

デフォルメした狙いは、この論が、830年淳和天皇に命じられて編纂されたものであり、また真言密教が国家的にオーソライズされるために、真言密教が諸宗の冠たることを強調できるものに仕上げたということが考えられる。

 

しかし現代人にとっての課題を見るとすれば、第六住心以降の菩薩に相当する部分が最も必要性が高いので、その意味で十住心論の10ステップはとてもモダンな分類だと思う。

 

第一住心 

異生羝羊住心

牡羊のように性と食のみにとらわれ、本能の赴くままに生きているレベル

修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に相当。いきなり、下位の4レベルがまとめられていて、十住心論は、上位に力点があることがわかる。

 

第二住心

愚童持斎住心

愚かな子供ではあるが、生活の規則に目覚め、人への施しに目覚めるレベル。

人間界に相当

 

第三住心

嬰童無畏住心

いまだ輪廻の世界にいるが、来世の生があることを知って幼子のように一時的に安らいでいるレベル

天界に相当

 

第四住心

唯蘊無我住心

ただ物のみが実在することを知って、実体として個人が存在することを否定する。声聞の教えは自分一人のための小乗のレベル。

声聞界に相当

 

第五住心

抜業因種住心

一切のことは因縁によってなることを自覚して、無知の元を取り除いて、ただ一人悟りを得る。縁覚のレベルに相当。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の最終ステップ

2022-12-28 16:17:34 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎九分九厘まで

昭和の大クンダリーニ・ヨーギ、出口王仁三郎の一言。
『九分九厘までは神様がつれて行かれるが、岸は人間が登らねばならない』
(新月の光(上巻)/木庭次守編/八幡書店P219から引用)

出口王仁三郎は36回の転生を繰り返したと語る。この地球での転生パックツアーでは、36回コースを選んで出発したわけだ。そのフィナーレか、それに近い1回が前回の人生。

出口王仁三郎は九分九厘の仕組みとよく言う。九分九厘までは、組織宗教の枠内で信仰を深めることで、九分九厘までは到達できる。最後の1厘は自分で登れと信者を叱咤する。

ところがクンダリーニの覚醒プロセスをみると、個人である自分が、最後の自分であるコーザル体が最後の1厘を登り切るメカニズムにはなっていない。コーザル体は、どういうタイミングかは知らないが個ではないアートマンに変わり、アートマンが昇るのである。

個が全体に成るとは、自分のすべてを捨てる、自分と自分の周辺の宇宙すべてが死ぬということ。世界は自分のためにあるのではなく、自分が世界のためにあるというシチュエイションにトランスフォームすること。

世上の組織宗教の枠内では、修行の過程では高級神霊のサポートがあると盛んに宣伝するが、この一言は、サポートがない局面が最終ステージにおいて到来することを予告しているもの。

最後の1厘は、個人に起こるのか、世界全体に起こるのか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-10

2022-12-14 20:06:36 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎冥想の縦軸と横軸

以上のように冥想の深浅高低について、ヨーガ・スートラと釈迦の冥想レベルの比較を出した。これは、ケン・ウィルバーが、その著書意識のスペクトルで覚者の世界観の区分をいろいろと並べているが、そうしたものの一つであって、これぞ絶対的な区分と頑張る必要はないと思う。おおまかにいえば、どのレベル区分法にもニルヴァーナとアートマンは大体あるものだ。ただしそれ以外の区分は人によって千差万別。

冥想の縦軸を七つの身体とし、冥想の横軸を深浅高低にとった場合に、冥想の縦軸である七つの身体でいう最後の2つは、第六身体(アートマン)と第七身体(ニルヴァーナ)であり、個別性を超えた神(仏、無)のことである。

そして冥想の横軸である深浅高低では、ヨーガ・スートラの最上位の二つである有想三昧と無想三昧は、個別性を超えており、いつかは滅びるものである物質性や時間性というものを超えた世界のものである。したがって有想三昧は、第六身体(アートマン)に照応し、また無想三昧は第七身体(ニルヴァーナ、宇宙意識)に照応するものであると考えられる。

したがって冥想の縦軸と横軸において、最後の2段階はそれぞれ照応するものと考えられ、特に最後の第七身体と無想三昧は同じことを言っているように思われる。
この結果冥想の縦軸と横軸は、縦軸たる七つの身体では、第六身体の手前で横軸と交わり、かたや横軸たる深浅高低では、有想三昧の手前で縦軸と交わるイメージになるように考えられる。

政治の紛糾、経済の混乱、人間関係・家族関係の悪化などは、いわば身体の表面に現れる病状であって、病気の原因ではない。これらの病気の本質的原因は、我々の心の内にあるのであって、それを探るためには冥想によるしかないのである。

ところが、あらゆる観点と立場というものは、ジコチューな欲望の一つのツッパリにすぎない。そのため、その原因を探るためには、観点と立場を相手にしない冥想が必要なのである。付言すれば、冥想は、縦軸から追っても、横軸から追っても、ついには「そこ」に到達できるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-9

2022-12-14 20:04:24 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類6
◎釈迦成道

釈迦が、非想非非想処定を教えてくれるウッダカ・ラーマプッタ仙人のところを去ったのは良いとして、いくらでも天国気分を味わえる非想非非想処定を捨てて、わざわざ釈迦が苦行を選んだのはとても不思議なことである。人生を苦の連続と見る超ペシミスティック(厭世的)人生観の宗教を作り出した人だから、そのような苦行モードに入ってしまったためなのか・・・・・?

閑話休題
それでは入滅での釈迦の冥想レベルのアップダウンはわかったとして、成道の時はどうであったかは、一度は調べておく必要があると思い、調べて見ました。

悪魔の誘惑を退けた後、釈迦は、初禅、二禅、三禅、四禅と、移っていき、夜明けの光の中で、『アムリタ(不死の霊薬)を使う治療法は完成の域に達した。彼は、医師の王として現れ、あらゆる苦痛から解放し、法の王である如来の偉大な座席である如来の母胎(如来蔵)の上に坐って、ニルヴァーナ(寂滅)の幸福の中に(自己)を確立された』
(ブッダの境涯/東方出版p308から引用=方広大荘厳経の仏語訳の和訳)

とあるので、ニルヴァーナに至っている。しかしながら非想非非想処定などの無色界の禅定についての記述がないこと、滅想定の記述もないことについての疑問があり、それらの段階を経過したかどうかはわからないが、ニルヴァーナには到達したということだろう。

 釈迦がニルヴァーナに至る前夜の夜中(第二分)
『かのボサツは真夜中の時刻(第二分)において、過去世の住まい(境地)を正確に思い起こす賢明さの見解の知を直接生み出すために、精神を調え、精神を導かれた。かれは自分自身の,および他人の過去世の数多くの住まい(境地)を正確に思い出された。

たとえば、一つの、二つの、三つの、四つの、五つの、十の、二十の、三十の、四十の、五十の誕生、百の誕生、千の誕生、十万の誕生、何十万の誕生、一億の、百億の、千億の、百千億の誕生、百兆の誕生、何百億の誕生、何百千億の誕生から、一つのカルパの破壊、一つのカルパの再生、一つのカルパの破壊と再生、多くのカルパの破壊と再生に至るまでを。

このような場所に来て、私の名はこれであった。私の種族はこれであった。私のカーストはこれであった。私の生命(生涯)の範囲はこうであった。私がそこに留まった時間の長さはこうであった。私が経験した幸福と不幸とはこれこれであった。続いてそこから去って、他の場所に生まれ、続いてそこから去って、私はこの場所に生まれた。続いてそこから去って他の場所に生まれ、続いてそこから去ってここに生まれた。

このようにして、自分自身、及び全ての衆生の、数多くの種類の過去世の住まいを正確に思い出された。それぞれの性格と記載とを伴って』
(ブッダの境涯/東方出版P302-303から引用=方広大荘厳経の仏語訳の和訳)

これを読むと、メキシコのマサテコ族の呪術師マリア・サビナの境涯と似ていることがわかる。マリア・サビナはニルヴァーナの一歩手前まで行ったのだ。マリア・サビナの言葉「過去も未来も既に達成してしまった、既に起こってしまった、一つのものとしてそこにある。」。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-8

2022-12-14 20:02:09 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類5

原始仏教の遊行経の、釈迦の入滅シーンの続きです。
『(これまでただ釈尊の説法を数多く聴聞して、それを記憶することには特に傑出していたものの、その説法には説かれなかったこのような場面に遭遇して、すっかり窮地に陥った)アーナンダ(仏弟子)は、(天眼をもってこの情況を見通しにわかに出現した)アヌルッダ(阿那律=仏弟子)に質問します。

「世尊は、もはやすでに完全なるニルヴァーナを遂げられたのでしょうか。」
アヌルッダは答えて言います。
「まだです。アーナンダよ。世尊はいま(色界・無色界すなわち三界のすべてを超えて)
滅想定におられるのです。私はむかし親しく仏から聞いたことがあります。「第四禅から出て初めて完全なるニルヴァーナを遂げる」と。」

その時に世尊は(はたしてアヌルッダの答えたとおりに)、
滅想定から出て(無色界にもどって)、有想無想定に入り、
その有想無想定から出て、不用定に入り、
その不用定から出て、識処定に入り、
その識処定から出て、空処定に入り(ここで四無色定を終えて)、

その空処定から出て(色界に戻って)、第四禅に入り、
その第四禅からから出て、第三禅に入り、
その第三禅からから出て、第二禅に入り、
その第二禅からから出て、初禅(第一禅)に入り(3たび繰り返して)、

その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て、ここに仏は完全なるニルヴァーナを遂げました。』
(阿含経を読む/青土社P952-953から引用)

ここでポイントになるのは、欲界・色界・無色界すなわち三界のすべてを超えれば、既にそこは人間の体験でなく、仏の領域であるが、その滅想定はニルヴァーナではないと、釈迦自身が否定したとアヌルッダが述べているところである。

滅想定(滅尽定(滅受想定))は、三界を超えているので、定ではなく、ヨーガ・スートラでいえば、三昧に該当する。ところが滅想定はニルヴァーナではないので、滅想定はヨーガでいう有想三昧に該当すると考えられる。
で、ニルヴァーナは、ヨーガ・スートラでいえば無想三昧。

これによって仏教で見ている冥想(禅定)のレベルは9ではなく、実は10段階であり、それぞれがヨーガ・スートラの分類に符合するものとなると考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-7

2022-12-14 20:00:08 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類4

原始仏教の遊行経において、釈迦は今まさに入滅しようとします。
『ここで、世尊は直ちに、
まず初禅(第一禅)に入り、
その初禅から出て第二禅に入り、
その第二禅から出て第三禅に入り、
その第三禅から出て第四禅に入り、
その第四禅から出て(以上で色界の禅定を終え)、

空処定(虚空が無限であるという禅定の境地)に入り、

その空処定から出て識処定(心の識別作用が無限であるという禅定の境地)に入り、

その識処定から出て不用定(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に入り

その不用定から出て有想無想定(心の表象が存在するのでもなく、存在しないのでもないという禅定の境地)に入り、その有想無想定から出て(以上で無色界の禅定を終えて、これにより生あるものの全世界である三界を超え出て)、

滅想定(心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な禅定の境地に入りました。)』
(阿含経を読む/青土社から引用。P951-952)

※空処定:空無辺処定のこと
※識処定:識無辺処定のこと
※不用定:無所有処定のこと
※有想無想定:非想非非想処定のこと
※滅想定:滅尽定(滅受想定)のこと

以上のように釈迦は、禅定のレベル1から順番に上昇していってレベル9に入ったのである。

滅想定は、既に色界、無色界を超えたところなので、個人という人間性を超えたところにある。ということは、個人が体験しているのではなく、仏が仏を体験する、つまり仏の側の経験のことであると思う。

また滅想定は、禅定の最高レベルである。禅定という定に分類してあるが、ヨーガ・スートラの分類では、定ではなく有想三昧と見られるので、定と三昧がここでは混同されているように考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-6

2022-12-14 19:58:20 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類3

色界の禅定4レベルの説明が終わったので、無色界の禅定です。
9レベルのうち上位の4レベルを説明するが、無色界は、物質を離れた世界であるとは言っても、あくまで人間という個人が体験する個人性を残した定のレベルであることに変わりはない。人間の体験なので、それがどんなに素晴らしい体験であったとしても、いつかは変わり、消えてゆく体験なのだと思う。

(3)無色界 
欲望もなく、物質的なものも超えた精神性だけの世界。

(e)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識
    
(f)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識

(g)無所有処定:なにもかもがないという意識

(h)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

なにもかもがないという意識もないという状態は、何も問題がなく、不安もなく、快適で懐かしく、とても素晴らしい状態であるに違いない。初心の冥想修行者としては、一つの目指すべき境地であることは間違いない。また、おそらく通俗霊能力マスターなら、このレベルに至れば大物霊能力者と呼ばれるようなことになるのではあるまいか。

非想非非想処定とは、最上の天国に相当する状態でもあると思う。

しかし釈迦は、 非想非非想処定に満足することができず、その上の段階を目指した。釈迦の何回も繰り返された転生の中で、なにもかもがないという意識もないという状態ですら、本物ではないことをわきまえていたのだろう。定は定であって、人間性の限界を超えることはないのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-5

2022-12-14 19:56:35 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類-2

原始仏教の遊行経において、釈迦の前生の一つ、大善見王の物語の中に四禅の解説がある。

大善見王が人間としての幸福を得たので、次に天としての幸福を得る実践をしようとして冥想すると、
『そこでむさぼりと淫欲という悪不善について、じっくりと考えをめぐらし(そのような座禅の中で)覚と観がとあり、(欲望や悪を)離れることから、純粋な喜と楽とを生じて(そのような境地からなる)、第一禅(初禅)を獲得した。』
(阿含経を読む/青土社P799から引用)

※この中で「覚」と「観」は、いろいろな物事をあれこれ考える働きの中で、心の粗い働きを「覚」とし、細かい働きを「観」とよぶ。「喜」は喜び、「楽」は楽しみ、幸福感。

『(つぎには)その覚と観とをすっかり除いてなくし、心の中は浄らかなまことに満たされて、心の底からすっかりよろこび、うれしくて、しかもその心だけをひたすら見つめて統一し、こうして覚もなく、観もなくなり、禅定から喜と楽とを生じて、(そのような境地からなる)第二禅を獲得した。

(つぎには)その心にある喜を捨て去ってしまい、(心を)どこまでもしっかりと守り、ひたすら念(こころの思い)のみに集注して、散乱することがなく、自らの身体の楽をよく知り、賢聖の求めたところである「念をまもりつつ楽が実践される」という、(そのような境地から成る)第三禅を獲得した。

(つぎには)そこにもなお残っていた苦(不快)と楽(快)との両方をすっかり捨ててなくし、それよりもまえに、すでにこころの様々な憂いと喜とを除いてあって、こうして苦楽を超越した不苦不楽の境地に達し、そこでは念を守ることが浄らかであり、純粋そのものであって、(そのような境地から成る)第四禅を獲得した。』
(阿含経を読む(下)/青土社p799-800から引用)

全体としては、釈迦の前生である大善見王の、天としての幸福を実現するためには、第四禅の冥想をすることが必要であるという説明である。天とは仏教十界説の天(上から5番目)のことであり、最高の「仏」に至る冥想ではないのである。

この四禅の段階では、ちょっとスピリチュアルな冥想体験でよく出会う、楽しさ、うれしさ、平静さ、調和した感じなどが、冥想の深まりとともに純粋になっていく消息がうかがえる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冥想の深浅高低-4

2022-12-14 19:53:16 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎原始仏教の分類1

釈迦は、王子という地位や家族という社会的なすべてを棄てて、出家して二人の仙人に教えを受けた。

まずアーラーラ・カーラーマ仙人は、無所有処を説いた。無所有処は、禅定の9段階の7番目であり、世間から見たらかなりすごい。

そしてウッダカ・ラーマプッタ仙人は、非想非非想処を説いた。非想非非想処は、禅定の9段階の8番目であり、冥想ティーチャーの実力としては相当なものがあると言える。
釈迦は、これら二仙人に教えを乞うたが、結局納得することができず、苦行に入って行った。

1.原始仏教では、世界を三つの分野に分類する。欲界と色界と無色界である。
それぞれの分野が冥想の横軸である9つの冥想レベルに対応している。 
(1)欲界
最も下の世界で、淫欲と貪欲などの欲望を持つ生き物が住んでいる世界。
十界説では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間と、天の一部が含まれるとされる。
天の一部までのレベルの冥想は欲界定とされる。

(2)色界
欲界の上の世界で、既に欲望を離れた生き物の住む世界であり、姿や形のある「色」(物質)から成っている世界である。
十界説では天の一部、声聞、縁覚、菩薩、仏に当たる。

冥想(禅定)の4つのレベル(四禅)は、この色界からスタートする。 初禅から四禅まで、どれも、気持ちよかったり、楽しかったりする状態のこと。
(a)初禅
(b)二禅
(c)三禅
(d)四禅
 
以上の欲界や色界での冥想の中で、様々な心地よいスピリチュアルな状態が起こると考えられる。たとえば、幸福感、清らかさ、安心感、静けさ、力強さ、さわやかさ、やわらかさなどが生き生きとした実感として感じられる状態のことである。また天の一部も含まれることから、一部の超能力の発現も起こることがあると思う。

ここまでは、ヨーガ・スートラでいう有尋定が対応すると考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする