◎不死への上昇
(2014-11-06)
(承前)『心臓の脈官は百と一ある。その内のひとつは頭頂へと走っている。(アートマンは)それによって上方におもむき、(頭頂の孔(ブラフマランドラ)から身体を脱けだして)不死に到達する。他(の脈管)はあらゆる方向に出て行くためにある。
親指大の人間(プルシャ)、(万物の)内部にあるアートマンは、常に人々の心臓に座を占めている。それを自分の身体から不撓の心で引き出すべきである。ムンジャ草から髓を引き出すようにそれを輝くもの、不死のものと知るべきである。それを輝くもの、不死のものと知るべきである。
ナチケータスは死神によって説かれたこの知識と、ヨーガの全規定とを得て、ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越した者となった。
まさしく最高のアートマンについてこのように知る他の者も(死を超越した者となるのである。)。
オーム。われら(師匠と弟子)をともに嘉したまえ。われらをともに益したまえ。われらが共に精進せんことを。 学習したことがわれらに輝かしからんことを。われらが憎み合うことのなからんことを。
オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。』
(世界の名著 バラモン経典/中央公論p150-151から引用)
アートマンは人によっては真我と訳すが、これは、個別性があるのかないのか誤解を招きかねない訳語であるように思う。有、「ただある」こそが、アートマンであって、個別性があっては本来のアートマンではない。つまり個別性が残る以上は、個別性の極北であるコーザル体であるときちんと表現すべきものをここでは、アートマンと呼んでいる。個別性の頂点であるコーザル体のこともアートマンと呼んでいるのだ。ウパニシャッドの時代には、アートマンに個別性があるかどうかはあまり問題にならなかったと見るべきだろう。
ここで個別性が不死たる中心太陽に到達する。この不死が中心太陽であることを初めて公開したのがダンテス・ダイジ。この時代にそれを公開する意義は、現代人の世界観では、個別性の極限を「不死」という生活実感の中でとらえるのではなく、肉体の死にも不死にもこだわらず、ビジュアルにこの世界を越えたいわば異次元の、自分というものをも捨てた先に有ることを鳥瞰的にとらえる必要があると見たのだろうか。
スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、コーザル体は心臓の位置に見え、アートマン(真我)も心臓内の洞窟に見える。この見え方を前提として、心臓からの脈管という表現があるように思う。そもそもアートマンに個別性はないのに、なぜか心臓の位置に、原子よりも更に小さい球体として霊視できるとしている。
おまけにスワミ・ヨーゲシヴァラナンダのコーザル体の説明では、コーザル体の一番外側はブラフマンの光球であると説明している。コーザル体は個別性があるが、その中に個別性のないかつ全く次元の異なるブラフマンを視認できるとは、妙な気がする。
このアートマンとブラフマンはコーザル体を見に行った時に見えるとするが、見る自分というのがあって、アートマンとは見る自分と見られるものとの区別のない状態なのに、「ただある」のアートマンが見えたり、ブラフマンが見えるとするのは、ひょっとしたら霊覚者、霊能者の見方を超えていないのではないかという疑念を禁じ得ない。
しかしここではアートマンが心臓にあると説明し、それを抽き出してきなさいと求道のルートを説明している。それが当時の人にとっては、最も受け入れやすい説明だったのだろうが、個別性の極みにある現代人にとっては、心臓をいくら解剖してもアートマンなど発見できないと反論するだろうから、アートマンと個別性の議論と、肉体と七つの身体の議論を整理して出していかないと、我等が無垢なる隣人に理解の糸口をつかんでいただくことすらできないだろう。
いずれにせよ、頭頂から自分が脱け出し、不死なる中心太陽に到達することがクンダリーニ・ヨーガの目標であることが、古代インド、ウパニシャッドの当時から王道とされていたことをここでは確認したい。
【チャクラと七つの身体-321】
◎アートマン-25
2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-3
(ザ・ジャンプ・アウト375)