◎自分の人生も妻の人生も多数の他人の人生も破壊
OSHOバグワンが売れっ子占星術師と話した。
『(仮訳)
私は以前、ある都市に数年間住んでいたのですが、ちょうど向かいに、出生図を読んで人々の結婚を決めていた非常に有名な占星術師が住んでいました。私たちは向かいに住んでいたので、彼と知り合うのにそれほど時間はかかりませんでした。
私は彼に「自分のやっていることは正気だと本当に信じているのですか?」と言いました。
彼は「どういう意味ですか?私はこの地域で一番の占星術師です。何百マイルも離れたところから人々が私の所にやって来ます。」と言いました。
私は言いました、「私には自分自身が見えます。しかし、あなたの妻があなたを殴っているのもわかります。この女性と結婚したときに、自分の出生図を見ましたか?そして、自分でも判断できなかったとしたら、自分のやっていることは単純に愚かなこと、そして愚かで非人間的なだけではないことを恥ずかしく思いませんか?」
彼は途方に暮れていました。私は言いました。「覚えておいてください、私は奇妙な男です。私はこのニュースを皆に広め、あなたのところへ人が来るのを防ぐために庭の前に座り込みます。私はあなたの人生で何が起こっているかを彼らに話します。」
まさにその時、彼の妻が台所から入ってきて言いました。「あなたの言う通りです。私はあなたを支持します。この男はただの馬鹿です。彼は何も知りません。彼は私の人生を破壊し、彼の人生を破壊し、そして何千もの他の人々の人生を破壊しています!」
しかし、このようなことは続いています。易経に相談する人々、タロットカードに相談する人々がいます・・・。しかし、本当のものは別のところにあります。そしてそれは知られているのですが、宗教的な偏見が人類がそれを利用することを妨げているのです。 』
(“The Great Pilgrimage From Here to Here/osho“から仮訳。)
これは、占い師界隈では、よくありそうなシーンである。
占い、スピリチュアル、チャネリングに功利、現世利益を持ち込めば、必ずこういう奇怪な出来事は起きてくるものだ。
宗教も然り、功利、現世利益面だけ優先するのはまずいのであって、利益や目的のない無用の用が半分なければ本来の姿ではない。
いうなれば、功利、現世利益面が個なる人間方面で、利益や目的のない無用の用が神仏方面。古神道家の出口王仁三郎は、個なる人間方面を顕斎とし、神仏方面を幽斎と区分した。
占い、スピリチュアル、ヨーガ、ロハスであれば、とりあえず歓迎の時代ではもはやないだろう。
◎私に殺す心があるからです
禅の食事作法では、生飯といって餓鬼に施すため米飯数粒を膳のわきにのけて、係が全員の生飯を集めて野鳥に供する。
ある日、院主が鳥に生飯をやろうとしているのに、なぜか鳥が皆飛んで逃げる。
趙州「鳥はあなたを見て、どうして鳥が飛んで逃げるのですか?」
院主「私がこわいからです。」
趙州「なんということを言っているのだ。」
趙州は、院主に代わって言った「私に殺す心があるからです。」
現代人は、何はさておきメリット・デメリット、タイパ、コスパと他人を出し抜いて一円でも儲かってやろうという気持ちの人が多い。幼少時から、敵をせん滅することを繰り返すモバゲーで成長してきたせいか他人を殺し続けるのはお手のもの。
だが四六時中そればっかりでは、一日のうちにどうしても安らぐ時間を求めることになる。
冥想、瞑想は、本来そんなリラックスのための道具ではないが、半ば精神病の人が正気とされる現代では、まずだんだん呼吸を落としリラックスから冥想を始めるのも致し方ないことだと思う。
内心で鳥を殺そうとしている院主の心は、ともすれば現代人の心であって、意馬心猿。
自分の癒しのためにペットを飼い始め、諸事情で殺処分のために市役所に持参したり、捨て犬・捨て猫をしたりということもあるのだろうが、殺す心がなければそういうことにはなるまい。
キリスト教は愛の宗教、只管打坐でも愛・慈悲を知る時節がある。愛や癒しを求めても、他人やペットを殺す心が心の奥底に残っていては、野鳥にも覚られようというもの。
◎洞穴で黄金を発見する
ヤコブ・ベーメは、靴屋の職人だったが、後に光明を得た。
『ある日、ぼくは羊の群を追って山にいた。ふと、赤い大きな岩のつみかさなったかげに、地中へおりていく入口があいているのに気がついたぼくは、ふらふらと地下へおりていくと、樽いっぱいにつまった金の山がぼくの目を射るではないか。突然われにかえったぼくは、おそろしさに無我夢中で穴から逃げ出し、あとで友達をさそっては何度もその場所へ行ってみたが、洞窟の入口などかげかたちもなかった。』
(ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元 南原実/〔著〕 哲学書房P26-27から引用)
これは、窮極を黄金として垣間見た。
中国なら洞天福地、壺中天。
『ぼくが親方のうちに丁稚となって仕事を習っていたある日、みなりはいやしいがどことなく威厳のある男がひとり店に入ってきて、靴を一足買いたいといった。ちょうど親方もおかみさんも留守で、ぼくひとり店番をしていたので、どうしていいかわからず困っているのに、男は靴を売れとしつこくいってきかない。それならべらぼうの値段をつけてやれと思って高いことをいうと、男はしりごみするどころか、いいなりの代金を払って靴を買っていってしまった。ヤコブ! 出てきなさい!―――ぼんやりしているぼくの耳にとつぜん呼ぶ声がきこえ、おどろいて外へ出ていってみると、さっきの男が外に立っていたのでした。
会ったこともないこの男が、なぜまたぼくの名前を知っているのか、気をのまれていると、きらきら輝く目をした男はぼくの右手をにぎり、ぼくの目をのぞき込むようにしていうのだった――ヤコブ、お前は、まだ年もいかない小さな子供だけれども、大きくなったら、世界中の人がおどろくような全くち がった人間になるだろう、だから、神さまをうやまい、神さまの言葉を大切にしなさい、なにより、聖書を読むことだ、聖書こそなぐさめを与え、困ったときにはどうしたらよいのか教えてくれる、お前は、やがてみんなから迫害をうけて、貧乏にも苦しむだろう、だが、心配するな、勇気をだして、神さまはいつもそばにいて、お前を守ってくださるにちがいない――こういうと、その男は、ぼくの目をもう一度のぞき込んで、どこかへ消えていってしまったのでした・・・。』
(ヤコブ・ベーメ 開けゆく次元 南原実/〔著〕 哲学書房P27-28から引用)
威厳のある男は、神使である。こういうイベントを召命と言う。こういう出会いがしばしば一生を決める。
ノストラダムスが、若き無名の修道士に、「後にあなたはローマ教皇になる」とひざまずいて予言したシーンにも似ている。
働き始めの時期は、誰にとっても苦しいものだ。
◎ダライ・ラマは審神者、ネーチュンは依代。
ダライ・ラマは、重要な決定を迫られる場合は、国営託宣僧ネーチュンにトランスに入らせ、ドルジェ・ダクデンをその身に憑依させ、質問に対する回答を行わせる。ダライ・ラマは、チベット脱出時にもネーチュンを用いたという。
ダライ・ラマという覚者であっても、自分で自分の寿命を延ばせるような人物でも、そういうものを使うことがあるのだ。
というよりも、ダライ・ラマは、ネーチュンよりも上位者なので、審神者。依代ネーチュンには、当然に審神者が必要ということか。
『オラクル(神託、予言者、お告げ師)"という言葉が誤解を招きやすいという点である。 オラクルは予言力をもつ人という意味で使われるが、それは間違っている。ティベットの伝統では、自 然と精神領域間の媒体として行動する一定の男女――ティベット語でクテン、つまり文字どおり“身体の基”を意味するがいるということなのだ。また指摘しておきたいのは、オラクルは普通、人間として語られるが、便宜上そうしているにすぎない。もっと正確にいえば、彼らは、 特定の事物(たとえば像など)に結びついた“霊”といいうるのだ。 しかし、これを、独自の実体をもつ、外的存在を信じているというふうにとらえてはならない。
以前にはティベット中に何百人というお告げ師がいたはずである。今はわずかに残っているにすぎないが、最も重要な存在―ティベット政府が登用している―はまだ健在だ。もちろんその筆頭が“ネチュン”である。彼を通してダライ・ラマの守護神の一人、ドルジェ・ダクデンが現示するのである。
ネチュンはもともとバタホルという中央アジアの地に住んでいた、インド人の聖者ダルマパラの子孫とともにティベットに移住してきた。八世紀のチソン・デツェン国王の統治時代、インド・タントリックのグル(師)であり、ティベットの精神的守護者であったパドマサンバヴァによってネチュンはサンミヤ僧院の保護者に任命された(サンミヤは事実上ティベットで最初に建てられた仏教寺院で、別のインド人学者、シャンタラクシタ院長によって創始された)。というわけで二世ダライ・ラマは、ネチュン――この頃にはデプン僧院と深い結びつきをもっていた――と親密な間柄になり、それ以来ずっとドルジェ・ダクデンが歴代ダライ・ラマの個人的守護者となったのである。』
(ダライ・ラマ自伝/ダライ・ラマ/文芸春秋p259から引用)
憑依する神霊は、歴代ダライ・ラマの個人的守護者であるドルジェ・ダクデン。ダンテス・ダイジも評価するチベット仏教の創始者パドマサンバヴァがこの神霊を定めた。
ドルジェ・ダクデンは、将来問いたいことについて仮にドルジェ・ダクデンという高級神霊として見えるが、個別高級神霊としてドルジェ・ダクデンが存在しているわけではないのだろう。この辺は、ダライ・ラマの幽霊(非有機的存在)についての見方が参考になる
8世紀は、唐代の道教、仏教隆盛に加え、パドマサンバヴァがチベットに入った偉大な時代だった。
現ダライ・ラマ14世は最後のダライ・ラマ。そう自称し、予言しているのは、時代の終わりを控え、その境涯の高さを裏付けていると思う。
◎神の言葉でなくては効果はない
寿命を延ばすのは超能力の話だが、ダライ・ラマ、出口王仁三郎とも恣意的に行使していない点が注意。
1.ダライ・ラマ
ダライ・ラマがインド亡命後、インドでは、チベット密教の力量ある師の不足に悩んでいた。
かつてセラ大僧院のチェ学堂の管長を務めていたロサン・ワンチュク師(1901~1978)は、1975年頃、僧院に大きな布施をして法要を行い始めた。ダライ・ ラマは、これは死ぬ準備をしていると直感し、師に「あなたはもうすぐ死ぬ気ですね。 今チベットがどういう状況かお分かりですか。仏教のためにもう少しこの世に留まってください」と頼んだ。すると師は「私にはあなた様のように自分の意志で寿命を延ばす力がありません」と答えると、ダライ・ラマは「できるかできないかを言ってない。この世に留まりなさい」と言うと、ロサン・ワンチュク師はその時は死ななかった。
三年経った1978年、ロサン・ワンチュク師は説法会が終わると同時に急死してしまった。
ヨーロッパで訃報を聞いたダラ イ・ラマは、「失敗した。 もう一言『この世に留まれ』と命じておけば、あと一年はもったはずだ」と 言った。』
(出典:ダライ・ラマと転生/石濱裕美子/扶桑社P75-76)
ダライ・ラマは、自分の寿命も自分で延ばせるのですね。
2.出口王仁三郎
(1)『年を若くする事
年を若くして呉れと、菓子でもねだる気で頼む人があるが、中々容易にさういふ事が出来るものでは無いのである。
私が頼まれて止むを得ず発する言葉では、要するに駄目なので、私の方から自然に発する言葉、即ち神の言葉でなくては効果は無いのである。
抑々(そもそも)年齢を若くすると云ふのは、年齢を継ぎ足して長生さして上げる事で、今六十歳定命の人に二十年の歳をつぎ足して上げると、其人が八十才になつた時が六十才になる勘定だから、要するに二十年若くなり長生する訳である。私が年齢をつぎ足すには、定命を全ふせずして、たとへば、自殺して死んだ人の余つた年齢を与へるのであるが、これが又なかなかむづかしい事で、もし悪人の余つた年齢をつぐと、知らぬ間に其の人が悪化して仕舞ふから、善人でなくてはいけないので、甚だむつかしい。
先日頭山翁の年齢を若くして四十八歳にしてあげた。翁は大層喜んで、それから誰に遇うても四十八歳だと云ふと云ふて居られた。』
(月鏡/出口王仁三郎から引用)
(2)『心配は毒
人間にとつて心配程毒なものは無い。心配は寿命を縮める。心配事が出て来ても総てを神様に奉納して心配せぬやうにする、これが長寿の秘訣だ。』
(上掲書から引用)
寿命を延ばすことは、非科学的迷信であると思う人がほとんどなのだろう。
長命の人に長命の一生なりの春夏秋冬があるように、短命の人にも短命の一生なりの春夏秋冬がある。
笹目秀和道人が出会った仙人は、200歳と500歳。今や100歳以上の人が日本だけでも10万人いるという。
長寿は、その人生で果たすべき何かが終わっていないから長寿なのだろう。
長寿が無条件に良いことだなどと思っている人は少ないだろう。
この終わりの時代に一体それは、何なのだろう?
英雄は見果てぬ夢を追い、乙女は最愛の伴侶を求める。それだけなら、この世に生まれてはこないのではないか。
◎まずは自分が神仏を知る
私がネガティブ予言を考える場合に、次のような判断軸がある。
- 実現するのかしないのか。
- 現実化する予言なのか、単に霊界だけで起きていて、現界に移ってこない予言なのか。
- 予言をした人は、悟っているのか、悟っていないのか。
- 予言をした人は、予言の実現時期をわきまえている人なのか、そうでない人なのか。
- ネガティブ予言は、一人でも多くの人が神仏を知ることで、ネガティブ予言が現実化しないようにすることができる。ただし、極ジャンプのように神仏を知る人の多い少ないにかかわらず、起きてしまうようなものもあるようだ。
「1.実現するのかしないのか。」は、その予言を発した瞬間に、事象はズレはじめ、結果的にはずれることがままある。つまり、予言した瞬間にはずれはじめるというのが、予言一般の基本性質。
「2.現実化する予言なのか、単に霊界だけで起きていて、現界に移ってこない予言なのか。」これは、最初から現実化しない予言が大半であって、予言の時点で一部現実化する予言があるということ。ただし、そうした現実化するはずの予言であっても、1で述べたように予言した瞬間からズレ始める。
「3.予言を見た人は、悟っているのか、悟っていないのか。」
現実を最終的に起こすのは、神仏。大悟覚醒した人が、現実化すると見たビジョンは、予言時点では現実化するのが確実だが、時間の経過とともに変質し、はずれたりすることがある。
予言の当たる程度は、その人が大悟覚醒した人であるかによる。
逆に大悟覚醒していない人の見た予言ビジョン(幻視)は、正確性が大悟覚醒した人よりも落ちる。
「4.予言を見た人は、予言の実現時期をわきまえている人なのか、そうでない人なのか。」
これは、過去数万年レベルの記憶が、本山博とダンテス・ダイジでは全く異なるということからも、こうした疑問がわくものだ。
大正時代に関東大震災の予言を実際より早めの日付で予言して世間が大騒ぎになったが、時期が数年はずれて顰蹙をかったことがあった。これに関しての出口王仁三郎のコメント。
『正夢は時間、場所、事柄等、見た通り些しも違はず実現するものである。霊夢は比喩的に見せられるから、其判断を誤ると間違つて来る。假へば、空にお月様が二つ出た夢を見たとすると、二月とも取れるし、又あるべからざる事実として凶兆とも取れない事は無い。故に正しい判断をせねばならぬ。霊眼もこれと同じであつて、見せられた事が本当であつても、其判断のしかたを知らねば間違つて来る。空に五五と云ふ文字が現はれたとしても、五十五日、五十五年、五月五日、五年五ケ月、二十五日、と幾様にも取れる。正しい判断の仕方があるのである。』
(水鏡/正夢と霊夢、霊眼/出口王仁三郎から引用)
さらに
出口王仁三郎が語る、霊眼に映った出来事が現実化するメカニズムは次のようなものである。なおこの文章では、神界幽界をまとめて霊界とよんでいるように読める。
『ここで自分は神界幽界の現界に対する関係をちょっと述べておこうと思う。
神界と幽界は、時間空間を超越して、少しも時間的の観念はない。それゆえ霊界において目撃したことが、二三日後に現界に現れることもあれば、十年後に現れることもあり、数百年後に現れることもある。また数百年数千年前の太古を見せられることもある。
その見ゆる有様は、過去、現在、未来が一度に鏡にかけたごとく見ゆるものであって、
あたかも過去、現在、未来の区別なきが如くにして、しかもその区別が歴然推断され得るのである。
霊界より観れば、時空、明暗、上下、大小、広狭等すべて区別なく、皆一様平列的に霊眼に映じてくる。』(霊界物語第一巻/出口王仁三郎から引用)
つまり、予知あるいは予言した瞬間に、その内容に合わせて現在も過去も変貌してしまうのだが、その様子を『あたかも過去、現在、未来の区別なきがごとく』と言っているのだろう。
「5.ネガティブ予言は、一人でも多くの人が神仏を知ることで、ネガティブ予言が現実化しないようにすることができる。ただし、極ジャンプのように神仏を知る人の多い少ないにかかわらず、起きてしまうようなものもあるようだ。」
つまりネガティブ予言には、揺るがすことのできない人類の大スケジュールあるいは地球の予定というものと、多数の人間の悪想念の結果起こる、天変地異、戦争、動乱、飢餓、疫病などという二種がある。
世間では、一言でカタストロフィ、大峠などと十把ひとからげに言いがちだが、そこは気をつけてみたい。
そして大災害を緩和し得るものは、その地に何人の神仏を知った人がいるかどうかである。ある日突然全員が大災害の危急に直面して、全員が悟るなどということは夢物語。日々の冥想の基礎の上に悟りが起こるもの。
まず自分の無力を実感し、日々の冥想を。
◎世界戦争と疫病の予感
2023年11月5日、6日にかけて、ウクライナ、ルーマニアなど欧州のイタリア以北や、アメリカのケンタッキー、コロラド、中国の新疆ウイグル自治区、南半球のタスマニアなどで、赤いオーロラが見られ、Xに多数写真が上がっている。(全部は見切れなかった。)
赤いオーロラと言えば、1938年1月25日~26日にヨーロッパ全域で見られた赤いオーロラが有名である。これに先立って、1917年5月13日にポルトガルの小さな町ファティマに聖母マリアが出現し、3つの予言を出した。
第一の予言は、第一次世界大戦の終了と次の世界大戦の再発。
第二の予言は、その前兆としてヨーロッパ中に不気味な光が見えること。
第三の予言は、兵士たちが教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、他の司教、司祭、修道士、修道女、平信徒たちを射殺する事件。
この第二の予言が実現したのが、1938年のオーロラだと言われている。
今回の赤いオーロラは、欧州だけでなく、米本土、中国、豪州タスマニアまで広がっており、世界的であって前回とは異なっている。
今回の赤いオーロラを予兆として見るならば、それをきっかけに自分をのぞき込んでみる。それは、それをきっかけに世界全体を見てみれば、その意味するところがわかるということ。
ローマ教皇庁は、既に第三の予言は過ぎ去ったと考え今後は実現しないと見ている由。そういう展開はあり得るが本当にそうなのだろうか。
科学者、現実主義者は、赤いオーロラを天体現象と見るが、オカルティストは、予兆と見る。
現実は先に霊界で現象化し、その後にこの世に現象となって現れる。天体現象が先触れになることはある。自分の心理状態と世界的事件が全く無関係ということはない。NHK番組のファミリヒストリーを見れば、ほぼすべての家系が戦争で大きな影響を蒙っているものであることがわかる。世界大戦やまた疫病が起こるとすれば、自分の苦しみですらまんざらでもないとする気分と選り好みをする心性が底流にあるのだろう。
それは、一般社会人の常識から言えば善でも悪でもないが、実はその辺から赤いオーロラが湧き起こっているのではないかと思う。
◎苦しみを取り込み健康や幸福を送り返していく
ある日、ケン・ウィルバーは、甲状腺ガンの友人に対して、どのようにがんになったかを分析、説明して友人を怒らせたことがあった。何が本当に患者の支え、癒しになるかわかっていなかったのだ。
ケン・ウィルバーの妻のトレヤは、乳がんで苦しんでいたが、がん患者がどのような治療法を選ぶかということは勇気がいることであって、がんが不治の病であった昔も、がんであることを受け容れることは簡単なことではなかった。
『こうした修行の中でまっさきに挙げられるのが、トンレンという名前で知られているもので、トンレンとは「取り込み、送る」という意味だ。ヴィパッサナーによってしっかりした土台を築いた後、修行者はこのトンレンの修行に移る。この訓練は非常に強力で、意識の変容を強く促すため、チベットでは最近まで秘密にされてきた。そしてトレヤが心底気に入ったのが、この修行だった。内容を以下に記そう。
自分がよく知っていたり、愛情を抱いている人の中で、病や損失、絶望や苦痛、不安や恐れといった苦しみを体験している人のことを瞑想中に観想する、あるいは思い浮かべる。
息を吸う際、彼らの苦しみのすべてを、真っ黒で、煙やタールのような、どんよりとした雲のような存在として想像し、それが鼻孔を通って自分の胸の奥まで入っていくのを想像する。そしてその苦しみを自分の 胸の内に保っている。次に、息を吐き出すときには、自分の中のやすらぎ、自由、健康、善や徳といったものすべてを、人を癒し解放する光というイメージにして、その知人に送るように想像する。
そして彼らがそれをすべて吸収して、完全な自由や解放感、幸福を味わっているようすを思い描く。 この呼吸を数回繰り返す。
それから知人の住んでいる街をイメージする。息を吸いながら、その街に存在するあらゆる苦しみを吸い込んでいるイメージを描き、息を吐きながら自分の健康や幸福を、 街に住むあらゆる人に送り返す。
次はこれを州全体に広げ、さらには国全体、惑星、全宇宙へと広げていく。
あらゆる場所のあらゆる存在のあらゆる苦しみを自分の中に取り込み、健康や幸福、徳を彼らに送り返していくのだ。
初めてこの修行を教えられた人たちは、普通、本能的な強い拒否反応を示す。ぼくもそうだった。黒いタールを自分の中に取り込むだって? 冗談じゃない。それで本当に病気になったらどうする んだ? 正気の沙汰じゃない、危険だ!リトリートの半ばになってカルからこのトンレンの修行 を教わったとき、一〇〇人ぐらいの聴衆の中からひとりの女性が立ち上がって、その場にいたほぼ 全員が考えていたことを発言した。
「でも、もし本当に病気にかかっている人を相手にこの訓練をして、自分が病気になってしまった らどうするんですか?」
間髪を置かずカルは答えた。「こう考えなさい。おお、素晴らしい!効果が現れているんだ!」
この言葉がトンレンのポイントだった。この言葉によって、われら「無我の仏教徒」は、みんなエゴをぶらさげたままだということに気づかされた。ぼくたちは自分が悟り、自分の苦しみを取り 除くために修行しようとしているのに、想像の中でさえ他人の苦しみを引き受けるのはまっぴらだ、というわけだ。』
(グレース&グリット(下)/ケン・ウィルバー/春秋社P44-46から引用)
※カル:カルリンポチェ。チベットの孤独な洞窟で13年修行。
※ヴィパッサナー:呼吸を見つめる行法。
古神道でも大祓祝詞で、天津罪、国津罪を一旦唱えてそれから祓うが、それと似ている。チベット密教では、観想法とは言え、恐ろしげな修法であり、これを中途でやめたり失敗すれば、不幸な状態に陥るだろうことは想像される。まことに悟った師の指導なしでは危険であろうことが見て取れる。
また観想法そのものの作用反作用を考えれば、ヴィパッサナーに習熟した者しかトンレンをやらせないということは、最低でも見仏を経た者しかやらせないということだろうから、方向性を誤る可能性は低いのだろうとは思う。
ケン・ウィルバーもトレヤも一時期この行法が気に入っていた。それでもトレヤは乳がんで早逝した。生も死も大した差はないと言ってもケン・ウィルバー自身3年ひきこもるほどのショックだったのだ。
病を受け容れる、死を受け容れるというのは、トンレンの行法も最後は宇宙全体をも幸福にするのだから、病を忌避し健康だけを受け容れるとか、死を忌避し生だけを願うというようなものではないことがわかるはずではあるのだが。
神のまにまに。
◎OSHOバグワンの見方
『隠された神秘/和尚/市民出版社』の全体の三分の一程度は、占星術について占められている。
インドでは、リグ・ヴェーダに9万5千年前の星座の現象のことが述べられており、占星術の起源はインドであり恐ろしく古いとする。
OSHOバグワンは、現代人が占星術で、いつ死ぬかとか、恋愛がうまくいくかとか、いつ儲かるかとか、外面的なことばかり占断しているが、そのようなものにはあまり意味がないとする。
なんとなれば、空間軸で言えば、全宇宙のあらゆる出来事は、相互に影響を与え合っており、そうした中で、自分一人だけが幸運をつかんだり不運に苦しんだりということはあり得ない。幸運も不運も世界全体に少しく影響を与え続けているものだ。
また空間軸では生者の世界ばかりでなく死者の世界、つまり無意識の世界も影響を与えている。
また時間軸で言えば、一般には過去が現在と未来を生成しているように見えるが、実は未来の方も現在に大きく影響を与えている。未来も現在を強力に引っ張っているのだ。
『占星術を自分のプライドを溶かし、エゴを崩壊させるものとして見るなら、占星術は宗教になる。しかし私たちは、凡庸な占星術師のところへ行き、自分のエゴを守るために尋ねる。「私は損をするだろうか? くじに当たるだろうか? 取り掛かっている新しい事業に成功するだろうか?」
こうした質問をするのは、自分のエゴを救うためだ。しかし実のところ、占星術は全面的にエゴと対立する。占星術の意義とは、あなたは存在しないが世界は存在する、あなたは存在しないが宇宙は存在するということだ。非常に強力な力がはたらいており、あなたはまったく取るに足らないものなのだ。
自分がこの大きな世界の不可欠な部分であると考え、感じるなら、あなたはその光の中ではじめて占星術を理解できる。だから私は、太陽系全体がいかに太陽と繋がっているかを話してきたのだ。これに気づくことができたら、私たちの太陽が宇宙のさらに大きな多くの太陽と繋がっていることにも気づくだろう。
(中略)
無限の究極の中心は、知る者たちによってブラフマン、究極の実体と呼ばれた。この究極の中心は自転もしないし、別の何かの周りを公転することもない。自転するものはすべて、必ず別の何かの周りを公転する。しかし自転も公転もしないのは、究極なるものだ。それはまた、至高の沈黙または無として知られている。これは軸であり、中心点であり、全宇宙はその周りで膨張し収縮して いく。』
(隠された神秘/和尚/市民出版社P284-285から引用)
つまり少なくとも神仏なるブラフマンを見る体験があって、初めてエゴのない占星術の見方が可能になることを示している。
自分は、みじめで情けない存在だが、それと同時に宇宙全体の不可欠な一部であるという実感を得て初めて占星術が理解できるとOSHOバグワンは述べている。それはつまり、キリスト教なら神と人と聖霊の三位一体を実感するということであって、仏教なら三身(法身、報身、応身の三種)を体感するということがあって占星術を理解できるということ。
道家は、この究極という回転軸を、道の枢(とぼそ)と呼んだ。
占星術では、我々はとかくみじめで情けない自分ばかり気にしているが、本来それを問題にしないところに占星術は科学として屹立していたのだ。
また現代では、星は物質界だけと思われているが、テトラビブロスでは、エーテルが自明に存在している。七つの身体では、半物質であるエーテル体が存在しており、それは時に霊や気とも呼ばれるが、微細世界あるいは微細身はエーテル体の層ばかりではない。
ホロスコープは12宮12星座で世界全体を示すが、世界全体である神を知って初めて、何が幸運で何が不運なのかをありのままにつかむことができる。まず回転軸である窮極をつかまないと当たるも当たらないもないのだと思う。
◎ユクテスワのパワーグッズ
パラマンサ・ヨガナンダが、師匠のユクテスワから宝石付きの金属製腕輪をはめることを勧められた。
ユクテスワは、その根拠としておおまかに以下のような説明をしている。
- 元々占星術(星学)は、太古において科学だった。
- 人は生存中は、人間の内部の地水火風空の混乱と、自然現象から来る外的崩壊力という2種類の力と戦っていかなければならない。人は天界と地界の様々な影響力を受けねばならない。
- 宇宙には、いろいろな電気的放射線や磁気的放射線が絶えず循環しており、それは人体によい影響や悪い影響を与え続けている。そして純粋な金属から発している霊的放射線が星のネガティブな影響力打ち消す力を持っている。同様の効果は、ある種の植物の組み合わせや2カラットの無傷の宝石も有する。これらは必要な重量を満たさないと効果がなく、また直接肌に密着させないと効果がない。
- 冥想や祈りによって神に意識を合わせている者は、何をしても決して間違いはない。だが一切の人間苦は、宇宙の法則に対して何か違反を行ったことから生じる。
- 人間は過去の過ちやカルマによって苦難に逢うことがある。その際、人は神に祈ったり、意志の力によったり、自分の行動を正していったり、冥想したり、聖者の助けを借りたり、占星学の腕輪をつけることで、その苦難を最小限度にとどめることができたり、完全に避けることができたりする。
このような原理の説明の後に、ヨガナンダは、半年苦しむ予定だった肝臓病が、指示された銅と鉛でできた腕輪をつけることで三週間で治癒した自分の実例を挙げている。
(以上参照:あるヨギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP169-174)
世にパワーストーンやパワー・グッズ、ハーブを売る人は多い。だが実際にこうした霊的占星術にマッチした腕輪などのアクセサリーやハーブやパワーストーンを選定・調整できるのは、神知る人だけなのだろうと思う。まずは神仏を知ること。
史記天官書の分量は膨大だが、退屈と言えば退屈である。神仏を知らぬ王侯が、天変地異や反乱の発生を占星術で知ろうとしても、王侯自身がその原因の主たるところである場合が多いからである。
霊界占星術は、太古の膨大なノウハウをほとんど失い、今は科学ではなく眉唾みたいなものに成り下がったが、万人が神知る時代になれば、そのノウハウが復興することがあるのだろうと思う。
◎猫との意思のやりとりから屍解
キリスト教では、動物に魂はないとするが、猫には魂はある。
クンダリーニ・ヨーギ本山博が自宅の近所まで来て、猫のチャムに「門のところまで迎えに来て」と念じると、猫のチャムの「はい」という反応を感じ、いつもそのとおり迎えに来る。ある日、「はい」という反応をしたが、突然通信が消えて変だなと思ったらよその黒猫と喧嘩の最中だったという。(出所:本山博の人間の研究/本山博/東洋経済新報社P33)
一般に猫は音とにおいに敏感だが、行動半径200メートルと言われる中の一部である自分の縄張りの中については、他の猫などが侵入した場合、音とにおいだけではなく、別のレーダーみたいな感覚でわかるようだ。
人と猫の遠隔の意志交換はある。飼い主が帰ってきた時の足音や自転車の音は、猫は敏感に察知しているものだ。猫が人間に要求するニーズはせいぜいがえさと水と居場所だが、狐やたぬき並みに人を化かしたり操ったりすることはたまに伝えられている。
猫も宇宙人も幽霊も彼らは彼らなりの世界観で生きているのであって、人間と同様の感情や道徳律を期待してはいけない。
猫は健康なら20年も生きるが死ぬ時はあっという間。出口王仁三郎の「猫は屍解する、死体を残さない」という説を読んで長年見たり聞いたりしたが、交通事故などでは死体は残すが、死体を残さない屍解のケースもあるのだろうと思っている。いつのまにかいなくなったというケース。
キリスト者自身は輪廻転生せず、猫は物だというが、彼らはそういう世界観に生きている。
猫は人間の気持ちもわかって挨拶もするし、同情もしてくれるが、屍解もある生き物であると思う。また屍解するくらいであれば、天国とかは問題にしないのではないかと思う。
◎天書と霊線
出口王仁三郎は、ホロスコープは書かなかったが、天を見上げることで占断した。
空の星には各人の来るところの星がある。出口王仁三郎は、各人の霊線はその星とつながっているとは言っていないものの、各星は、月日と霊線で結ばれているとする。
ダンテス・ダイジは、各人は霊線に沿って神霊界(微細身)からアートマンへと上昇すると述べている(ニルヴァーナのプロセスとテクニックP100など)。
出口王仁三郎の説明。
まず占い一般は当たらないこと。
『迷信
干支、九星、家相、人相、手相、骨相等決して当になるものではない。こんなに色々の種類があつて一致せない事を見ただけでも、すでに確実性がない證拠である。よく艮に便所を設けてはいかぬと云ふが、艮は太陽の上るところであるから、きれいにして置いた方がよいと云ふだけで便所等は成るべく目にたたぬ所に設ける方がよろしい。然し造作の都合でかかる迷信に囚はれてはいけない。年廻りや月日が悪い等と気にするやうでは、すでに其の迷信に征服せられてゐるのであるから、悪く現れて来る様になる。この広い天地に生を享けて、自分から日の吉凶を気にして、自らを束縛して窮屈に渡世する程馬鹿らしいことはない。王仁は今日迄いつも世間で年廻りが悪いと云ふ年程結構な仕事が出来てゐる。月も日もその通りである。』
(玉鏡/出口王仁三郎から引用)
次に彼の占星術について
『天書
天書とは星の事である。天書を読めば来るべき世の推移が分る。今の世は星がだんだん下つた如く見ゆる、そして光を失つて居る。人の心が正にそれである。星と人とは相対関係がある。だから有為の材の会合などの事を諸星集ると云ふのである。
月宮殿のあの石畳は王仁が寝て空を眺め、天書の意を悟るために予め造つておいたのだ。読む方法を教へよと云ふのか。それは六ケ敷い。第六感、第七感以上の働く人でなくては分らぬ。人事上に起つて来る事などは皆天書に書いてあるから前から分つて居る。王仁はこの天書を読む事が一番楽しみだ。』
(上掲書から引用)
さらに
『幾億万の星の霊線に守られて
月日は空に清くかかれる』
(霊界物語 第75巻〈第6章〉余白歌/出口王仁三郎から引用)
『幾億の星の霊線つなぎ合せ
本まつことに国土をささへつ
月も日もこの天界も言霊の
まことにつなぐ星のかずかず
月も日も言霊の水火(いき)につながれて
おなじ所を行き通ふなり』
(霊界物語第74巻 第23章 意想の外/出口王仁三郎から引用)
各人には各人に対応した星が一個ある。各星は、月日と霊線で結ばれている。
また霊線伝いに飛行できる。
『天帯
弁財天や、天女達の周囲にある帯の如き布帛は天帯というて飛行の要具である。天人はこの帯に乗つて飛行するのである。勿論天帯といふのは象徴的の言葉で、霊線の事である、霊線をつたうて飛行するの謂である。』
(月鏡/出口王仁三郎から引用)
ダンテス・ダイジは、占星術や数秘術などには現代では失なわれたノウハウが多数あり、最盛期にはそれなりにちゃんとした神秘科学であったとして、迷信としては退けてはいない。ただ現代は、それらが当たらなくなる過渡期にあることを示唆している。
◎奇跡には時を選ばないタイプの奇跡もある
5月下旬になっても気温がエレベーターのように乱高下する気候が繰り返されて、農作物の実りが心配な今年。さらに最近は日本全国で毎日のように震度5クラスの地震が連発し、巨大地震の発生も懸念されるところである。
禅の六祖慧能は、幡(はた)がはためくのを見て、幡がはためいているのでもなく、風がはためいているのでもなく、心が揺れているのだと喝破した。心が揺れている人が多いのだ。
古代ローマの初期は占星術が皇帝の座の行方を左右する重要なファクターだった。皇帝自身が占星術が大得意だった者も、ハドリアヌス、ティベリウスなど何人かいた。ただし自分のホロスコープをオープンにした皇帝は初代アウグストゥスとセプティミウス・セウェルス(在位193年-211年)だけだった。セプティミウス・セウェルスは、皇帝位につくことを正当化するために占星術を利用した。
自分のホロスコープをオープンにした場合、退位時期、病気の時期、死亡時期、結婚時期、離婚時期がわかることになり、無数のステイク・ホルダーによって、邪魔な者は暗殺したり好ましいものは推挙したりなどあらゆる策動が動くものだからである。
ただし、すべての占星術師の未来予言が当たったわけではなく、見事はずれて死なないなずなのに暗殺されたり、はずれ予言のとおり動いて失敗したとされる人物も少なくない。当時は秘密警察の犯罪捜査に占星術が積極活用されていたそうだから実情は推して知るべし。
古代ローマ初期のキリスト教がまだ国教でなかった時代、占星術は何度も禁令を出されるほど影響が大きかった。
あのレーガン大統領は、女占星術師ジョーン・キグリーに、政治や経済などの重要事項を相談していたという。皇帝や独裁者の孤独はいつの時代も変わらない。それゆえに占星術にまつわる悲喜劇が起こる。
世俗トップとして、彼らこそが神仏を知らねばならないが、それには、まずはわれら平民一人一人が神仏を知っているのが当たり前にならないといけない。
また奇跡には時を選ばないタイプの奇跡もあることを承知しておいた方がよいだろう。