◎臨終時の悟りと生前の悟り
『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧/ダライ・ラマ/地湧社』を読むと、ダライ・ラマは、生存中に実際に肉体死のプロセスが起きることはないと見ており、ニルヴァーナが起こるタイミングは、人生の最後の段階で起こる死における肉体死のプロセスの最後でニルヴァーナに入ることしかないと見ているように思う。
これは、チベット密教に一般的な考え方であり、そうでなければ、出家僧ばかりか在家の居士までが、七つの身体とか屍解を目指すなどということはあり得ないと思う。要するに臨終時の冥想修行にあまりにも重心がかかっているのであり、「悟りをもってこの世を生きていく」という日々の日常における悟りの発現という禅的な姿は見えないのだ。
以下のダライ・ラマの文では、彼が生前の死の体験を疑似体験と斬って捨てているが、ダライ・ラマ自身がそれを体験していない以上は、生前の死の体験からニルヴァーナに至ることがあるとは断言できないのだろうと思う。
『わたし自身は、無常・苦・空・無我という四つの基本的な教えを軸にして修行しています。さらに、毎日行なう八つの異なる儀式の一部として、死んでゆく段階を瞑想します。土の元素が水の元素に溶けこみ、水の元素が火の元素に溶けこみ・・・・・・と順に瞑想していくのです。
これといって特別な経験をしたわけではありませんが、すべての顕われの溶解を観想しなければならない儀式では、しばらく呼吸が止まります。もっと時間をかけ、より正確に観想する修行者なら、まちがいなく完全に近いヴィジョンを得ることでしょう。わたしが 毎日行なう 「本尊ヨーガ」の修行法には、すべて死の観想が含まれていますから、そのプロセスには慣れ親しんでいます。ですから、現実の死に直面しても、各段階をよく知っているはずですが、うまくいくかどうかはわかりません。
わたしの友人の何人か―――ニンマ派のゾクチェン (大究竟)の行者も含まれます―――は、溶けこんでゆく深遠な経験をしたといいます。それでも、それはあくまで生きているあいだの疑似体験にすぎません。ただし、医師に亡くなったと宣言されたあとも、長いこと肉体の腐敗が起こらなかったチベット人の例はたくさんあります。』
(上掲書P173から引用)
これは、死の8段階のプロセスで発生する母の光明(原初の光)を梃子にして、それを子光明に変ずるというニルヴァーナ達成を、死後の肉体が腐敗しない時間を長くすることで実現促進しようとするもの。だから呼吸停止、脈拍停止後○日遺体が腐敗しなかったなどと、腐敗しない時間を重視する。
ダライ・ラマ自身も死の観想で呼吸停止することは認めていても、ことさらにそれ以上踏み込んではいかない姿勢がある。法王とはそういうものだろうと思う。
そして死の観想に習熟しても実際の自分の人生最後の場面で、それがうまくいくかどうかわからないというのは、あまり語る人は少ないがそうなのだろうと思う。