アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

今ここは口に苦し

2024-07-09 03:22:57 | 冥想いろいろ

◎生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる

 

口に苦い絶望を前面に出さない『今ここ』は嘘っぽい。

OSHOバグワンが、そこを指摘する。

『この現瞬間に生きるよう努める。けっして希望を抱かない―――どんな希望であれ。現世のものにしろ、彼岸のものにしろ、何の変わりもない。たとえ宗教的な希望であったとしても・・・・・・未来なり、彼岸なり、天国なり、ニルヴァーナなり、死後に関わるものであっても、何の変わりもない。希望を持ってはいけない。

 

たとえ今ここにおいてまったく絶望的であっても、ここにとどまり、今この瞬間から動かない。動いてはいけない!それを苦しみなさい。けっして希望を入り込ませてはいけない。

希望を通じて夢が現れる。だから絶望するのだ。もし生が絶望的だったら、絶望し、それを受け容れる。けっして未来の物事にしがみつかない。すると突然そこに変化が現れる。現瞬間にとどまりさえすれば、夢はやむ。もう夢は生じない。なぜならその源泉が引っこんでしまうからだ。夢に手を貸しているからこそ、夢の母となっているからこそ、夢が生じる。だから夢に手を貸したり、夢の母となったりしない。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへOSHOP192-193から引用)

 

日本人は、生が絶望的だったら、絶望はするが、それをまんざらでもないと考え、それを受け容れる悪い癖がある。これは、今ここにある絶望を無条件に受け入れているのではなく、馴れ合っているのだ。これでは、突然の変化などいつまでたっても現れることはない。

そんな人は、後世の人に、まだ抑圧を必要とする人々として分類され、進化の準備ができていない人と判定されてしまう。

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スカイ・ダイビングでのパノラマ現象

2024-07-08 15:29:07 | 【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo

◎数秒で急速な意識レベルの低下

(2013-11-21)

 

自衛隊の草創期に習志野第一空挺団に所属していた方の述懐。

 

この方は、人間の高所恐怖は33フィート(約10メートル)が上限で、それより高度が高くなると逆に恐怖感が薄らぐものだとする。これはおそらく自衛隊での定説であり、この理論に沿って訓練メニューが作られていたりするのだろう。そこで33フィートからの飛び出し訓練を終えて、飛行機からのスカイ・ダイビングに挑む。

 

飛行機からは眼下に習志野演習場が見えてきた。

『私は二番目に飛び出した。4秒以内に傘が自動的に開く開傘ショックがなければ、予備傘を開く紐を引かねばならない。

「一降下、二降下、三降下、四降下」と心で数える。その瞬間にズシンと開傘によるショックがあった。この4秒間の何と長いことか。

そして、不思議なことにこのわずか四秒の間に、これまでのことが走馬灯のように次々に頭に浮かんできたのだ。開傘、そして傘点検、異常なし。やっとホッとできる。

周囲の空に浮いている同僚の笑顔が見える。

(中略)

地面に降りた瞬間、私は大地を叩いて「私は落下傘で降りた」と小躍りしたい気持ちになった。あの初めての降下の時に感じた恐怖や快感は死ぬまで決して忘れることはないだろう。』

(自衛隊秘密諜報機関/阿尾博政/講談社P66-67から引用)

 

恐怖を入り口にして、数秒で急速な意識レベルの低下が発生して、個人のアカシック・レコードの高速再生であるパノラマ現象を見る。

 

「現代人は数秒で悟りに到達することができる」と語る人もいるが、この急速な意識レベルの低下、しかも見当識の低下を伴わないそれ、つまり失神しないこと、意識が清明のままであること。これこそが、その説の根拠であるのではないか。またここに人間の意識の秘密があるように思う。

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パノラマ記憶

2024-07-08 15:24:59 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎カルマを上映するスクリーン

(2011-06-04)

 

オランダの心理学者ダウエ・ドラーイスマによるパノラマ記憶についての表現。

『パノラマ記憶の最近の体験話で、それよりはるかに共通して用いられる隠喩は映画であり、フラッシュバック、再生、スローモーションのような映画用語である。

以下の例は、臨死体験の研究から取ったものである。

 

・「私の人生が瞬間的に再生されているあいだ、時間がわからなくなり・・・・・・」

 

・「カメラから外れたフィルムに写っている」かのように時間が通り過ぎていきました。

 

・温かい人間関係の記憶だけが「選別されてスローモーションで流れました」

 

・「フィルムの早送りのように、画面の一つひとつが、きちんと枠に収まって、はっきりした映像で、速い速度で連続して現れました」

 

・「非常に高速の映画です。ほんのいくつかの出来事を集めたハイライトでした」

 

・「それは映画のようでした。目の前を右から左へと進んでいく撮影カメラのようでした」』

(なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか/ダウエ・ドラーイスマ/講談社P337から引用)

 

彼は、パノラマ記憶の視覚性と自分の登場する映像を第三者的に見る感覚の両方を表現する暗喩として、パノラマ記憶は「映画」として表現されると指摘する。その一方ですべての記憶が一斉に同時に現れたように見えるという特徴は、「映画」にはない要素として挙げている。

 

カルマというフィルムは脳というスクリーンで展開されるが、パノラマ記憶という特殊な上映状況においては、脳を介さずに生カルマを直接上映するために、「すべての記憶が一斉に同時に現れたように見える」のだろうか。

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隙間理論と華厳経

2024-07-08 06:23:32 | 覚醒のアーキテクチャー

◎霊眼とパノラマ現象

 

華厳経では、一粒の微塵の中に巨大な仏国土が存在している。

『一一の微塵の中に仏国海が安住し、仏雲が遍く護念し、弥綸して、一切を覆う。

一つの微塵の中において、仏は自在力を現じ、神変することもまたかくの如し。

諸仏及び神力は、盧遮那の示現したもうなり』

(華厳経盧遮那仏品 第二之二)

 

つまり時間とは、〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、この〈有〉に過去現在未来を含むあらゆる無数の微塵が含まれている。微塵の中味には滅するものも多いが不滅のものもある。

 

それは、どういう見え方かと言えば、出口王仁三郎が語っている。

『ここで自分は神界幽界の現界に対する関係をちょっと述べておこうと思う。

 

 神界と幽界は、時間空間を超越して、少しも時間的の観念はない。それゆえ霊界において目撃したことが、二三日後に現界に現れることもあれば、十年後に現れることもあり、数百年後に現れることもある。また数百年数千年前の太古を見せられることもある。

 その見ゆる有様は、過去、現在、未来が一度に鏡にかけたごとく見ゆるものであって、

 あたかも過去、現在、未来の区別なきが如くにして、しかもその区別が歴然推断され得るのである。

 

 霊界より観れば、時空、明暗、上下、大小、広狭等すべて区別なく、皆一様平列的に霊眼に映じてくる。』(霊界物語第一巻/出口王仁三郎から引用)

 

また人間は、パノラマ現象、パノラマ記憶で、類似の直観を得ることがある。

  

 これに対してヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファン・マトゥス。

『「一瞬が永遠にもなるということを知ってるか?これはなぞなぞなんかじゃないんだぞ。事実なんだ。

ただし、お前がその瞬間に乗って、自分の全体性をどの方角へも広げていけるようにそいつを利用すれば、

の話だがな」』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

さらにドン・ファン、

『いまこの瞬間、お前が不滅というものに囲まれているのがわかるか?そして、お前が望みさえすればその不滅というものを利用できることを知ってるか?』

(力の話/カルロス・カスタネダ/太田出版P16から引用)

 

ドン・ファンは、一瞬が永遠であることを示し、それすらも利用できることをほのめかす。 それすらも利用できることとは、冥想自在

 

華厳経の一粒の微塵とは、あらゆる生物無生物の生滅のことである。隙間と並べてみると微塵全体が、停止していることに気づいたパタンジャリ。

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呼吸を用いる冥想法と隙間

2024-07-07 05:43:39 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナーから道元の不思量底とクリシュナムルティの死まで

 

パタンジャリが見たとする隙間理論は、想念と想念の隙間。その隙間の時間的長さがあるとすれば、刹那であり千分の一秒とも称する。これに対して人間の呼吸の数は、一分間に12から20であり、冥想で落ち着いた場合には、さらに少ない。つまり呼吸と呼吸の隙間の長さは、千分の一秒どころでなくもっと長いのだろうと思う。

 

その意味で、呼吸の隙間と想念の隙間をとりあえず同列に扱うことには疑問がある。

だが、異なるものとも思えない。

 

シヴァが、宇宙への帰一の方法を問われた時に語った呼吸テクニックには四つあって、

『-1-

光り輝く者よ、この体験は二つの息の間に起こる。

息が入った後、息が出る直前-そこに賜物がある。』

(内なる宇宙の発見/OSHO/市民出版社から引用)

これは、ヴィパッサナーの隙間を問題にする冥想法。

 

『-2-

息が下降から上昇に転じるとき、

そして再び息が上昇から下降に転じるとき、

この両方の転回を通じ、覚れ。』

(上掲書から引用)

これは、呼気、吸気にそれぞれ転回点があるが、それを覚知するという精妙な感受性が必要となる。

 

『-3-

あるいは、入息と出息が融け合うその瞬間、

そのエネルギーなき中心、

エネルギーに満ちた中心に触れよ。』

(上掲書から引用)

これは、入息と出息を一体のものと見て、入息と出息の融合点を感得せよという方法。

 

『-4-

あるいは、息がすべて出終わり、ひとりでに止まるとき

あるいは、息がすべて入り終わり、止まるとき

そのような全休止において、人の小さな自己は消え去る。

これが難しいのは不純な者のみ。』

(上掲書から引用)

これについてはOSHOバグワンは、禅だと言っている。呼吸停止で身心脱落が起きる。これが道元の言う不思量底であり、『死ぬことは、まったく空っぽな心、毎日の願望や楽しみや苦悩のない心をもつことである。』《クリシュナムーティ/自己変革の方法/P161-162から引用》でもある。

 

要するに呼吸を用いる瞑想法であっても、どれもが隙間を用いるわけではないということ。

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隙間理論とヴィパッサナー-2

2024-07-06 03:37:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎出入りする息だけが世界となる

 

【呼吸のすき間を見守る】の続き。

ここでは、実際のやり方が述べられる。

入ってくる息を鼻孔から先(の肺?)まで、息とともに息と同時に意識が一緒になって、急がず遅れず、息とともに内に入り、息とともに外に出る。

そうすると、出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域になる。突如として、息をしていないすき間を感じる。

 

ところが、実際は最初は息と意識を同時に進めることはできないので、まずは息の通路を感じるようにする。慣れてきたら息を感じることができる。だがこのヴィパッサナーは、前世でさんざん訓練を積んだ釈迦ですら6年、マハーヴィーラですら12年かかったので、およそ簡単ではない。

ところで、最終的に隙間に至る冥想ならば、隙間の方を強く意識すれば早いのではないかと誰でも思うが、OSHOバグワンは、釈迦はそのやり方では『隙間を意識すること』自体が障害になると知っていたという。隙間に到達しようという願望自体が障害になる由(新瞑想法入門P113-114参照)。また引用文のヴィパッサナーのやり方は、前半だけであり、釈迦は、後半を明かしていないことも承知しておくべきだろう。

 

隙間側の冥想法の代表格は、只管打坐。だがそれは隙間を意識するという方法ではない。ダンテス・ダイジは、ヴィパッサナーを勧めず、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。不眠になるようなこともあり、粗雑なバイブレーションの生活環境に生きる現代人には、ヴィパッサナーは、釈迦の時代よりさらに困難になっているのかもしれない。

 

『試してごらん。そうすれば、あなたはすぐに核心をつかむだろう。そして、体得できる。それは既にそこにある。自分、または自分の基本的な構造に付け足すようなものは何ひとつない。一定の〈気づき〉以外はすべて、既にそこにあるのだ。それではどうすればよいのか。第一に、入ってくる息に気づくことだ。 見守りなさい。なにもかも忘れて、ひたすら入ってくる息―――その通路そのもの―――を見守りなさい。息が鼻孔に触れるとき、その息を鼻孔で感じる。それから、息が入る。充分に意識して息とともに動くのだ。息とともに下へ、下へ、下へと降りてゆく。そのとき、息を見失ってはならない。先へ行き過ぎたり、後に遅れたりしないように。ただ一緒に進むのだ。いいかね。先へ進み過ぎてもいけないし、影のように後についてもいけない。息と同時に進むのだ。

 

息と意識がひとつにならなければならない。息が入れば、自分も入る。そうしてはじめて、二つの息の間にあるポイントがつかめるだろう。それは簡単なことではない。

 

息とともに内に入り、息とともに外に出る。入って、出て、入って、出て・・・・・。仏陀は特にこの瞑想を用いようとしたため、これは仏教の瞑想法となった。仏教用語で、これは安般守意(アナパナサティー―――ヴィパサナの一種)と呼ばれている。仏陀の悟りはこの技法ひとつに基づいていた。

 

呼吸への〈意識〉、呼吸への〈気づき〉を実修していれば、ある日突然、知らないうちにその狭間にやってくる。気づきが鋭く、深く、強烈になるにつれ、あなたの気づきが括弧でくくられるにつれて、全世界がその括弧からはずされてしまう。出入りする息だけが世界であり、自分の意識の全領域だ。突如として、あなたは息をしていないすき間を感じる。

細心の注意を払って息とともに動いていれば、息のないときに気づかぬわけがない。不意に、息がないことに気づく。息の出入りのない瞬間が感じられる。呼吸は完全に停止している。その停止のなかに 「恩恵」がある。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P166-167から引用)

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隙間理論とヴィパッサナー-1

2024-07-05 05:51:46 | 覚醒のアーキテクチャー

◎呼吸のすき間を見守る

 

隙間理論は、ヴィパッサナーとも親縁性がある。

隙間理論とは、時間とは、〈有〉〈有〉〈有〉とのべつ幕無しに進行しているわけでなく〈有〉〈隙間〉〈有〉〈隙間〉〈有〉と進行しているが、       

〈有〉だけが現象であるというもの。

これがヴィパッサナーによると、〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉〈呼気〉〈隙間〉〈吸気〉〈隙間〉になる。人間は、〈呼気〉で死に、〈吸気〉で再生を繰り返している。ただし、厳密に見ると、これらは、連続しているわけでなく、〈隙間〉で分断している。〈隙間〉には何もない。これぞ色即是空の実態。

 

OSHOバグワンによると、ヴィパッサナーは、もともとはインド発祥だが、東洋全体に広がったテクニックだという。釈迦がこれで菩提樹下で悟ったテクニック。

 

以下の引用文は、『新瞑想法入門』からだが、日本語の字面は違うが、元の英語がほぼ同じであろうという内容の記述が、『内なる宇宙の発見』にもある。OSHOバグワンが詳細を丁寧に語ってくれている部分であって、とてもわかりやすい。

 

『呼吸のすき間を見守る

 

シヴァいわく

「光り輝く者よ、この体験が二つの息のあいだに現れ出さんことを・・・・・。息が入った後(下降)、まさに上へ向かう直前(外側)――― そこに恩恵がある」

 

息が入ってくるとき、よく見なさい。息が上へ向かうまえ、それが外向きに変わるまえ、一瞬、または 一瞬のなかのごくわずかな瞬間では、呼吸がなされていない。息が入り、それから、ある地点にきて呼吸が止まる。それからまた、呼吸が出てゆく。息が出てゆくと、再び、一瞬、または一瞬のなかのどこかで呼吸が止まる。それから、呼吸が入ってくる。息の出入りのまえに、呼吸していない瞬間がある。その瞬間、何かが可能だ。

 

呼吸していないときには世界のなかにいないからだ。いいかね。呼吸をしていなければ死んでいる。あなたは静止しているが、死んでいるのだ。だがその瞬間があまりにも短いため、それに 見入ることはけっしてない。

 

吸う息は再誕生で、吐く息は死だ。外へ出る息は死と同義で、内へ入る息は生と同義だ。人はそれぞれの息で死に、再び生まれる。その二つのすき間(合い間)は非常に短い。だが、熱心な観察と細心の注意力があれば、そのすき間を感じ取れるだろう。そしたら、それ以外には何も必要ではない。あなたは祝福されている。あなたは知っている。それが起こったのだ。

 

呼吸を訓練するのではない。呼吸はありのままでよい。なんという単純な技法だろう。それは実に単純にみえる。真理を知るのにこんな単純な技法でよいのだろうか。真理を知るとは、不生不滅のものを知ることだ。つねに変わらずにある永遠の原理を知ることだ。吐く息や、吸う息なら知ることもできる。が、この二つの息の狭間について、人は何も知らない。』

(新瞑想法入門/OSHO/市民出版社P165-166から引用)

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冥想における意識と無意識-2

2024-07-04 06:13:13 | 覚醒のアーキテクチャー

◎ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)と不眠

 

冥想とは一般に意識的である訓練であるが、只管打坐も意識的であり、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)も出入りの息を見つめ続けるのだから意識的である。

 

ある日、OSHOバグワンのところに三か月眠れない仏教僧がやってきた。彼の手足は震え、絶えず汗をかき、ひどいノイローゼだった。精神安定剤も不眠には効かず、落ち着かないまま横たわるだけだった。

彼が、ヴィパッサナー(アナパナサティ・ヨーガ)をやっていたことを確認すると、OSHOバグワンは、なんと、眠ろうとするのはあきらめなさい、ヴィパッサナーは、眠りを不可能にする修行だから、と宣告した。

OSHOバグワンは、実はヴィパッサナーには、不眠の第一ステップのままでは、狂ったり死んだりすることがあるので、それを避ける第二ステップの冥想法があると言う。

ただし、第二ステップの冥想法はどの本にも載っていない。なぜならヴィパッサナーで不眠になった修行者だけに与えられるべき「鍵」だからであると。

 

OSHOバグワンは、「鍵」は、それを与えられるべき準備ができた修行者だけが受けるべきであり、「鍵」とは、そのような修行者に与えられるべき秘密の隠された巡礼地であるという。

(参照:隠された神秘/和尚/市民出版社p70-72)

 

世には隠されたマントラ、秘境、秘密の冥想法がある。だが、それを大金を出しただけで与えるというようなのは、準備ができているいないにかかわらず与えるということで、それだけでまともではないのはわかるのではないか。

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論語と算盤

2024-07-04 04:40:29 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎ある一定の時期に達するまでは

(2011-10-16)

 

さすがに私の本棚には、論語はない。孔子は、晩年に覚醒したのだが、論語は孔子の若い時の言行録であって、未悟なる者の言行は、絶対的なものとして採用することなどできないからである。苦心の経過として参考になるところはあるのだが。

 

孔子の言行は、荘子などの求道者から見て妙なことを大真面目にやっているようなところがあって、荘子などでは、論語そのものではないが孔子をネタに大ボケをかましている部分がしばしばある。

 

「論語と算盤」は、明治の実業家渋沢栄一の口述になるものだが、論語の一条一句を説明しているものでなく、論語をネタに処世、人生をコメントしているもの。

 

渋沢栄一は、悟ってはいないが、私心のない人物とされており、後の三井、住友、三菱などといった、自分の一族郎党の勢力を数世代にわたって拡大しようというような野心を持たなかった。

 

『わたしは今日でももちろん、争うべきところは争いもするが、人生の半分以上にわたる長い経験によって、少しばかり悟ったところがある。なので若い時のように、争い事をあまり多くは起こさないようになったと自分でも思う。というのはこんな事情があるからだ。

 

世の中のことは、「こうすれば必ずこうなるものだ」という原因と結果の関係がある。ところがそれを無視して、すでにある事情が原因となってある結果を生じてしまっているのに、突然横からあらわれて形勢を変えようとし、いかに争ってみたところで、因果関係はすぐに断ち切ることができない。ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない、と思い至ったのだ。

 

人が世の中を渡っていくためには、成り行きを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。正しいことをねじ曲げようとする者、信じることを踏みつけにしようとする者とは、何があってもこれと争わなければならない。このことを若いみなさんに勧める一方で、わたしはまた気長にチャンスが来るのを待つ忍耐もなければならないことを、ぜひ若いみなさんには考えてもらいたいのである。』

(現代語訳 論語と算盤/渋沢栄一/ちくま新書P25-26から引用)

 

『ある一定の時期に達するまでは、成り行きを変えることなど人の力ではとてもできない』これは、物事の成り行きをその手で何回も変えてきた人物ならではの発言である。魔法や手品のように見えても、その実は物事の成る時節の見極めがきちんとできる人物がタイムリーに動くから成るだけのこと。

 

人も、精神とカルマの成熟を待って動かないとダメ。ついこの間まで、「道」のことなど関心の端にも上らなかった。ノストラダムスの1999年も実現せぬままに「ある一定の時期」を待っているのだろう。

 

世の中の行く末のメイン・シナリオは変わることなどなく、クリシュナムルティ、OSHOバグワンなどの有名覚者は世を去って久しい。目覚め、悟りは他人ごとでなく、自分でどう取り組むかにかかっている。取り組み方を変えるのは自分の力だが、それが成るかどうかは、人の力ではないところがある。それは取り組んだ人だけに言えるのであって、取り組まない人があれこれ言っても始まらない。

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渋沢栄一の実験論語処世談を読む

2024-07-03 20:04:09 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎魂年齢が若い

(2021-05-31)

 

渋沢栄一は、老子や禅は読まないそうだ。その点では、西郷隆盛や勝海舟に比べると、魂年齢が若い。西郷隆盛や勝海舟も相当に禅で行けているのに比べると、人生への洞察は未だしの感がある。

 

渋沢栄一は、論語を座右の銘として処世してきた。彼は易はこれから学ぶなどと云っているので、孔子の域には達していない。

 

最近のスピリチュアルに関心のある人向けに言えば、四書五経の中で、ストレートで究極を説いているのは、大学、中庸、書経。あの世とこの世の構造を描いているのは易経。

 

孔子は晩年大悟したと思われるのだが、それ以前の言行は論語に多く拾われているものの、禅家、道家から見れば、この世にまだ未練が残っている段階であって、自分を死ぬ準備はできていない。

 

そんな具合だから、荘子においては孔子の言行は突っ込みどころ満載のトピック提供者として重宝されている。

 

孔子もその生涯で最後は論語レベルに飽き足らず易経に進んだ。禅にも老荘にも関心を持てないようであれば、転生の最終ターンではない。

 

NHKの大河ドラマで出口王仁三郎でもやれば面白いのだが、旧内務省の流れでそうはなるまい。

 

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冥想修行者の人生観

2024-07-03 06:33:27 | 人と神の「実際のところ」

◎神である自分と人間である自分の両様の自分を生きる人生観

 

冥想修行者の人生観とは、覚者の人生観に近づくことである。思想、信教の自由の下では、人間の人生観など他人に教えてもらうものではないと思っているのだろうが、その自分の考えの9割以上が外からきたものであるからには、その人生観とは現代のあらゆる形でのマインド・コントロールの結果であって、いわば自分の人生観は、「自分の」ではなく、どこかの知らない他人の人生観の複合物であろう。

 

人間には、社会人・肉体人としての公生活とあらゆるとんでもない思いまで含む私生活がある。

だが、ジェイド・タブレットに示した通り、本来人は、神である自分と人間である自分の両様の自分を生きるべきものである。本来あるべき人生観とは、『時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。

これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。』。

 

この立場から出て来た会話が、達磨が梁の武帝に「私がしてきた仏教支援策はどんな功徳があるだろうか」と問われ、「無功徳」と言い放った事例や、花園天皇が「仏法不思議、王法と対坐す」というと、これに対し大徳寺の宗峰妙超が「王法不思議、仏法と対坐す」と言い返した例がある。

 

ところが、生活にも不安なく、地位も名誉も問題のない天皇陛下ですら、神事がまず先と教えてもらわねばならなかった。第84代順徳天皇の著された「禁秘御抄」の冒頭に、「凡(およ)そ禁中の作法まず神事、後に他事」とあるように天皇も神事がまず先だった。人々も食べられるなら、神事すなわち冥想がまず先。仲哀天皇は、冥想修行を怠けて、結果がよろしくなかったという例まで古事記に載っている。

 

西洋占星術のホロスコープは、上半球が公生活、下半球が私生活で、12室のカテゴリーは、人生上の出来事の区分をすべて網羅しているなどと感心していてはいけない。神として生きる自分の視点が全体の中に隠されているが、そのことがホロスコープには欠落しているのだ。神として生きる自分には、

宿命もカルマの改善もそこからの解脱も含め、あらゆる可能性がある。それには、チート技はないが、方法はある。

 

だが、その修行の仕方は、調子に乗って図に乗れば、パエトーンのようにあっという間に叩き落とされるのが常であり、すべてを棄てることが求められるシーンが必ずあるものである。

 

また見神者、菩薩の人生観には、見るべきものがある。

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冥想における意識と無意識-1

2024-07-02 07:16:20 | 覚醒のアーキテクチャー

◎肉体意識から夢を見ないまで

 

古代インドでプラジャーパティが熟眠中でも夢を見ない意識状態を至高のものとして求めて以来、冥想修行者にとって無意識をすべて意識化することが、最終的目標である。アメリカの覚者ケン・ウィルバーですら、熟眠中でも夢を見ない意識状態到達には苦戦した。

 

無意識の意識化について、OSHOバグワンは、一歩踏み込んだことを言っている。薬物のように肉体レベルの化学作用が人を酔ったり無意識にしたりできるということは、一般に薬物の方が人間の意識より強力だということ。ところが、タントラの技法では、人を酔ったり無意識にしたりする薬物を摂取しても人は意識的なままでいることができるとする。

 

このような例としては、ラム・ダスの出会ったニーム・カロリ・ババ(マハラジ)が、普通の人が飲む6倍もの強烈な効き目のLSDを3錠飲ませても平気だった例や階段から落ちて大けがで痛みに苦しむ人が観想法で痛みを感じなくなった例などがある。

 

OSHOバグワンは、薬剤による効果や、怒りや性欲、嫉妬ですら肉体レベルで起こる、無意識が意識を押しのける作用だが、それが起きた時にそれに翻弄されないようにするには冥想すればよいという。こうした肉体レベルの作用が起きた時に、意識的であって観照者でいなさいと、彼は言う。(参照:秘教の心理学/OSHO/めるくまーるP268-270)

 

肉体死のプロセスも容易に無意識になっていくプロセスだが、そこで意識的になれば、神に出会うことができるとチベット死者の書では言っている。

 

ソクラテスは、毒杯を飲みながら自分の肉体が麻痺していく様を自分で実況中継した。

スーフィのホセイン・マンスール・ハッラージは、斬首台の上でしか語れぬ、神との秘密を明かした。

 

こうした例は、肉体意識が意識のすべてではないという側面が強いが、熟眠中でも夢を見ない意識状態とは、肉体意識のことでなく、微細身レベルのことで一歩進んでいる。

 

無意識には生の世界も死の世界もあり、冥想修行とは、無意識を意識化することだと一言で云うのは易いが、底知れぬ深みがある。

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コア オブ ジェイド・タブレット 

2024-07-01 03:14:23 | ジェイド・タブレット

1.人間には、各々霊線があって、これを根源までさかのぼると、自分がすべてのすべてである神仏であることに気がつくことができる。


2.すべての他人が、神仏である自分の一部であることがわかれば、もはや他人を傷つけることはできない。そこには愛だけがある。

3.時間も空間も現象もない神仏である私は、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、人間である私は、私にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。
これが、神仏と人間を同時に生きる二重性。

 

ジェイド・タブレットのストラクチャー

 

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