◎ジェイド・タブレット-10-4
◎垂直上昇への仕掛け-4
◎精神的なものに価値があるとして揺るがない
古事記の全人類が大悟する舞台装置や近代西欧文明全体のエジプト由来の垂直上昇に至るメカニズムを説いたが、そんな中でインドというものにどうしても触れざるを得ない。
最近でこそインドは、世界で人口の一番多い国の一つだとか、新型コロナをイベルメクチンで撃退した国だとか、ITに強い国だとかで知られるようになった。でも一般の日本人にとっては、カレーを素手で食べる国ぐらいのイメージしかなかったのではないだろうか。
しかしながら、インドの本質は、インド全体が精神的なものに価値があるとして揺るがないところにある。インドの雰囲気は有名覚者より名も知れず死んで行った無名の覚者の方が圧倒的に多いのではないかと思わせるところがある。
クリシュナ、釈迦、マハーヴィーラ(ジャイナ教の開祖)、龍樹、達磨といった古い時代の大物覚者以降も連綿として人間の本質をわきまえた聖者が出続けている。
最近では、ユクテスワ、ラーマクリシュナ、クリシュナムルティ、そしてババジ、OSHOバグワン。ババジは全然別格。OSHOバグワン(ラジニーシ)は、大学の教師をやめてから10年ほどインド全土を旅行してまわったが、OSHOバグワンほどの境地の人に出会わなかったという。
日本にもときどきインドから聖者覚者という触れ込みの人物がグルとしてやってくるが、その大半は神人合一体験はなく、見神体験しかない人物であると言われる。良し悪しは別にして、現代は見神(見仏、見性)しただけでも師匠(グル)が務まってしまうのだ。なお見神は禅の十牛図で言えば、三番目見牛の段階にすぎない。
そうした流れでインドの大物覚者たちを見れば、インドの懐の広さと深さを感じざるを得ない。釈迦は、アショーカ王を仏教に引き込み、その後13世紀の仏教滅亡まで、インドにおいて仏教を興隆せしめた。仏教の水平の道サイド(只管打坐)は、強風のパミール高原を越えて達磨によって中国に持ち込まれ、栄西、道元などによって日本で花を咲かせた。今アメリカで禅が盛んだが、日本と同様に精神的なものに価値があると考える人は圧倒的に少なく、インドや日本で坐るのに比べて、自分一人で坐る孤独感が強いのだろうと思う。
仏教の垂直の道サイド(密教、クンダリーニ・ヨーガ)は、チベットでパドマサンバヴァによって持ち込まれ、20世紀中盤にダライラマ14世が中国に追われてインドに入り今活躍している。
垂直の道とは、密教の道、クンダリーニ・ヨーガの道だが、生身の師が毎度伝授するわけではないようで、どのようなルートで現在に至っているのかわからないところがある。
釈迦経由の垂直の道のもう一つのルートはヒマラヤ越えで、中国密教として唐代の恵果に伝わり、奇跡的な経緯でそれは空海に伝授された。
空海は日本で真言密教を立てたが、軍荼利がクンダリーニであるように、クンダリーニ・ヨーガは言葉は変わってもクンダリーニ・ヨーガなのだ。さて日本の密教は海外布教をあまりしないのだろうか。
インドに発した釈迦の水平の道も垂直の道も果たして日本で開花したが、ご存じのとおり今や日本のみならず世界は累卵の危機に瀕している。釈迦が水平の道も垂直の道も両方クリアした稀有な人物であったことはまことに世界史上の奇跡である。一方只管打坐をクリアしたダンテス・ダイジが、インドに渡り、ババジにクンダリーニ・ヨーガの奥義を伝授され、それによって水平の道も垂直の道も両方クリアした意義は考えてみる必要があるだろう。
ダンテス・ダイジは、只管打坐での身心脱落を経ているが、一生に出会うすべての人物の顔を次から次へと見て行ったというが、その中にババジも含まれていたのだろう。
ラーマクリシュナは、黒光りのするカーリー女神像に熱烈に帰依することで、サマーディに入り、ダンテス・ダイジは、インドの道端で餓死した若い女の顔に法悦を見た。本当の真理に近づくために万人が、あらゆるチャレンジをその人なりに、しみじみと正直に日夜繰り替えしているインドだからこそ、貧富の違い、ファッションの違い、清潔感の違い、男女の違いなどあらゆる相違を乗り越えて、
「プロセスもテクニックなぞもないことを体現している
あらゆる
あなた達にささげる」
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ巻頭言)
という言葉が実感として出て来たのだろうと思う。
クリシュナムルティは、マイトレーヤの魂の乗り物となることを拒否して只管打坐の境地の伝道者となった。
OSHOバグワンはアメリカに渡り、あまりにも本物であることに官憲に気づかれ、世界中から村八分になった。
インドなくして現代社会の発展も存続もなかったと思う。