アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

六条御息所と世界の見方

2024-03-31 16:04:04 | 密教neo

◎霊のある世界、神仏のある世界

(2021-08-28)

 

光源氏という懲りないプレイボーイに捨てられた女は数多いが、彼女らがすべて彼を怨みに思い、執念深く付け狙ったわけではない。六条御息所だけが執念深い女であり、その他の振られた女は都合の良い女だったという構成は、現代から見ればいかがなものか。

六条御息所は、物語の最初の方で光源氏に振られ、生霊が妊娠中の葵の上を悩ませ、葵の上は出産後急死。六条御息所は、死後も紫の上に死霊として出現し、光源氏に捨てられた恨み言を言い、紫の上を一旦危篤に陥らせる。

また光源氏と柏木との三角関係に苦慮した女三宮は、実は六条御息所の死霊が憑依しており、女三宮が出家する原因となった。

この世界観は、individualな個人霊というのが生前も死後も存続し、病気になるのも、死の原因になるのも、男女関係に影響を与えるのも霊だというもの。

もっとも同時代人の空海も病気の原因は霊のせいだという世界観を否定していないので、源氏物語は、まさにそういう世界観の産物である。

出口王仁三郎も、『本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。』(玉鏡/流行性感冒)と述べ、同様の世界観に生きている。

今、われわれは、新型コロナはワクチンで重症化を防ぐことができるなどという霊とは無縁の世界観に生きている。

ひと口で世界観の相違というが、我々は飛行機に乗って海外に降り立てば、そこに全く異なる世界観の人物が全く異なる世界観で生きていることを感じるものだ。

霊の有無の世界観の相違だが、今本当に問題なのは、神仏があるとする世界観、神仏がないとする世界観のことである。時代はまさに神仏がないとする世界観の底の時代にあり、きちんと神仏があるとする世界観に反転できるかどうかが問われている。

それは他人のひとごとではなく、自分が反転できるかどうかということなのだ。

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インドのライフ・サイクル、ライフ・プラン

2024-03-31 06:37:57 | 人と神の「実際のところ」

◎エネルギー蓄積により悟り、その後世俗生活を生きる

 

冥想が次の新時代の鍵であることがわかったとしても、日々の冥想習慣の先に大悟覚醒が起きなければならない。アメリカのように孤独に禅メディテーションを坐るはめにならないように、インドでは古来から冥想により神に至るライフ・サイクル、ライフ・プランが描かれている。

それは、人生を25年づつ4回の段階(アシュラマ)に区切るもの。

0歳から25歳までの時期は、人が世帯主となった時に、生のすべての快楽を深く体験できる準備として、エネルギーを創造し、蓄積することを目的とする。

次の50歳までは、蓄積したエネルギーにより、欲望を全面的に経験することで、その欲望から自由になり、この世の生の頂きと深みに触れる時期。生の快楽を目いっぱいトータルに体験する。この時期は世俗生活を送り、激情にひたるべき時期。

 

たとえば、現代は、かつてないほど、セックスがオープンに行われる時代だが、真に性的に満足している男女は少ない。

なぜなら行為以前に、セックスのためのエネルギーと努力が浪費されているからである。だが、そういう状態では、真理に向かうエネルギー、神に向かうエネルギーは十分に蓄積されないままで終わる。

楽しめなかった経験への欲求を残してはならない。そこで俗世の快楽の無益さをとことん思い知る。この時期の人は強くなければならず、弱い人では自分の激情、欲望を体験し尽くして、それから自由になることができない。

次の75歳までは、家庭生活を送りつつ成人した子供たちに生活上の指導を行うが、実際には森に入らないが、森に入って冥想生活を送ることを念頭に置く。

次の100歳まででようやく森に入って冥想に専念する。

うまく老人になったケースで、真に円熟した老人は、平和な美しい精神状態を醸し出す。一方肉体は老いても心はせわしなく、落ち着きなく、気短な老人の方が多いのも現実。

(以上参照:私の愛するインド/OSHO/市民出版社P66-73)

 

冥想により神に至るということで言えば、これでは、75歳まで悟りを開けないということで、この危機の時代においては世界がつぶれてしまいそうなライフ・プランである。

次の至福千年の時代では、思春期に見神見仏見性が体験され、青年期には、大悟覚醒を起こし、人は青年期以降悟りを持って社会生活を送るというのがスタンダードになるようなので、このインドのライフ・サイクルはのんびりしすぎなように思う。

若い時期はせっかちで興奮しやすいが、それでも冥想を続けつつ社会生活をやっていくしかあるまい。インド人は、人生は百年あって四期だなどと説くが、クンダリーニ・ヨーガには、大悟覚醒の後、肉体死から復活して社会生活を送るビジョンがない。だから最後の25年は森で冥想生活などと説いて平気である。インドの冥想には、悟りを持って世俗生活を生きることが想定されていないようである。

その点、禅の十牛図では、悟りを持って世俗生活を生きることがしっかり出されており、インドよりはるかに生の側から極めるという点では真摯である。禅が残る日本の方が「悟りをもって社会生活を営む」スタイルがあると言う点では、健全だと思う。

現代は、エネルギーを、ゲーム、ギャンブル、飲酒、セックス、エロ、広義のマインド・コントロール、生業で消費されがちであり、ますます難しい時代になっている。

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インドとはどういうものか

2024-03-30 07:30:21 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-4

◎垂直上昇への仕掛け-4

◎精神的なものに価値があるとして揺るがない

 

古事記の全人類が大悟する舞台装置や近代西欧文明全体のエジプト由来の垂直上昇に至るメカニズムを説いたが、そんな中でインドというものにどうしても触れざるを得ない。

最近でこそインドは、世界で人口の一番多い国の一つだとか、新型コロナをイベルメクチンで撃退した国だとか、ITに強い国だとかで知られるようになった。でも一般の日本人にとっては、カレーを素手で食べる国ぐらいのイメージしかなかったのではないだろうか。

しかしながら、インドの本質は、インド全体が精神的なものに価値があるとして揺るがないところにある。インドの雰囲気は有名覚者より名も知れず死んで行った無名の覚者の方が圧倒的に多いのではないかと思わせるところがある。

クリシュナ、釈迦、マハーヴィーラ(ジャイナ教の開祖)、龍樹、達磨といった古い時代の大物覚者以降も連綿として人間の本質をわきまえた聖者が出続けている。

最近では、ユクテスワ、ラーマクリシュナ、クリシュナムルティ、そしてババジ、OSHOバグワン。ババジは全然別格。OSHOバグワン(ラジニーシ)は、大学の教師をやめてから10年ほどインド全土を旅行してまわったが、OSHOバグワンほどの境地の人に出会わなかったという。

日本にもときどきインドから聖者覚者という触れ込みの人物がグルとしてやってくるが、その大半は神人合一体験はなく、見神体験しかない人物であると言われる。良し悪しは別にして、現代は見神(見仏、見性)しただけでも師匠(グル)が務まってしまうのだ。なお見神は禅の十牛図で言えば、三番目見牛の段階にすぎない。

そうした流れでインドの大物覚者たちを見れば、インドの懐の広さと深さを感じざるを得ない。釈迦は、アショーカ王を仏教に引き込み、その後13世紀の仏教滅亡まで、インドにおいて仏教を興隆せしめた。仏教の水平の道サイド(只管打坐)は、強風のパミール高原を越えて達磨によって中国に持ち込まれ、栄西、道元などによって日本で花を咲かせた。今アメリカで禅が盛んだが、日本と同様に精神的なものに価値があると考える人は圧倒的に少なく、インドや日本で坐るのに比べて、自分一人で坐る孤独感が強いのだろうと思う。

仏教の垂直の道サイド(密教、クンダリーニ・ヨーガ)は、チベットでパドマサンバヴァによって持ち込まれ、20世紀中盤にダライラマ14世が中国に追われてインドに入り今活躍している。

垂直の道とは、密教の道、クンダリーニ・ヨーガの道だが、生身の師が毎度伝授するわけではないようで、どのようなルートで現在に至っているのかわからないところがある。

釈迦経由の垂直の道のもう一つのルートはヒマラヤ越えで、中国密教として唐代の恵果に伝わり、奇跡的な経緯でそれは空海に伝授された。

空海は日本で真言密教を立てたが、軍荼利がクンダリーニであるように、クンダリーニ・ヨーガは言葉は変わってもクンダリーニ・ヨーガなのだ。さて日本の密教は海外布教をあまりしないのだろうか。

インドに発した釈迦の水平の道も垂直の道も果たして日本で開花したが、ご存じのとおり今や日本のみならず世界は累卵の危機に瀕している。釈迦が水平の道も垂直の道も両方クリアした稀有な人物であったことはまことに世界史上の奇跡である。一方只管打坐をクリアしたダンテス・ダイジが、インドに渡り、ババジにクンダリーニ・ヨーガの奥義を伝授され、それによって水平の道も垂直の道も両方クリアした意義は考えてみる必要があるだろう。

ダンテス・ダイジは、只管打坐での身心脱落を経ているが、一生に出会うすべての人物の顔を次から次へと見て行ったというが、その中にババジも含まれていたのだろう。

 

ラーマクリシュナは、黒光りのするカーリー女神像に熱烈に帰依することで、サマーディに入り、ダンテス・ダイジは、インドの道端で餓死した若い女の顔に法悦を見た。本当の真理に近づくために万人が、あらゆるチャレンジをその人なりに、しみじみと正直に日夜繰り替えしているインドだからこそ、貧富の違い、ファッションの違い、清潔感の違い、男女の違いなどあらゆる相違を乗り越えて、

「プロセスもテクニックなぞもないことを体現している

あらゆる

あなた達にささげる」

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ巻頭言)

という言葉が実感として出て来たのだろうと思う。

 

クリシュナムルティは、マイトレーヤの魂の乗り物となることを拒否して只管打坐の境地の伝道者となった。

OSHOバグワンはアメリカに渡り、あまりにも本物であることに官憲に気づかれ、世界中から村八分になった。

インドなくして現代社会の発展も存続もなかったと思う。

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父系三位一体と近代西欧文明の宿命-2

2024-03-29 03:15:29 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-3

◎垂直上昇への仕掛け-3

◎錬金術師マリア・プロフェティサの公理

 

エジプトのオシリスとホルスの神話に見るように、父なる神オシリスと聖霊に相当するラー、そして神の子ホルスで、古代エジプトでは、既に太母なき父系の三位一体が成立していた。

ユダヤ教エッセネ派という密教系の集団から出たイエスは、愛を中心に据えた密教系でも只管打坐系でもない独特の宗教を開発することができた。イエス没後の彼の継承者たちは、本来密教系の霊力・超能力偏重の宗教団体として伝法していくことができたはずだが、現在のカトリックのようなほとんど霊力、超能力から離れた清浄にしてシンプルな宗教として2千年の繁栄を見ることができた。この間、磔刑のイエスの十字架をシンボルとし、輪廻転生を否定し、イエスの一生の観想法を中心としたキリスト教が西欧を席巻した。

そうした密教系からの分離は、3世紀頃起きたと思われ、ゾシモスやマリア・プロフェティサの片言からうかがうことができるが、キリスト教は、密教系の錬金術と分離した。

こうして西欧では、死の世界を究めようとする垂直の道(クンダリーニ・ヨーガ型の宗教)は結局根付くことはなかった。わずかに錬金術や魔術などの伝統が細々と続いてきたにとどまった。

 

一般にキリスト教(カトリック)は、三位一体と言われているが、その実二位一体と言われている(出口王仁三郎、ケン・ウィルバー)。その原因は、聖霊の意味を広くとって、一方で太母の扱いが不当に低いことである。なお聖霊とは神の属性である絶対善を有して活躍しているもの。そして人間にとって、聖霊は天にも地にも人にも聖霊が主要部を占めているので、人間の本質でもあり、天であり、地であり、高級神霊のサポートみたいでもある。

さて、マリア・プロフェティサは、3世紀アレクサンドリアの錬金術師。『一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり』という錬金術1700年の歴史を貫くマリアの公理を呈示した女性。

一は、主なる神。これがマーヤ、無明、現象に分化して二。一の父なる神と二の聖霊と三のイエス(男性なる人間)が出現して、これで家父長的な三位一体は成る。

マリア・プロフェティサは、四として太母である聖母マリアを出してきて、四位一体を完成させたと考えられる。

これを受け、ユングは、キリスト教の四位一体を次のように示している。

 

       聖霊(鳩)

 

キリスト    +     父なる神

 

       マリア

(出典:結合の神秘Ⅰ/ユング/人文書院 P237)

 

一方でマリア・プロフェティサは、キリストが脇腹から女を引き出して山頂で交わった幻視を得た(出典:錬金術の世界/ヨハンネス・ファブリキウス/青土社P343)というが、これが父なる神と太母であるマリアが交わってマクロ・レベルでの両性具有を達成したことにシンクロして、イエスと脇腹から引き出された女が交わって人間レベルでの両性具有を達成したと幻視したのだろう。

父系的三位一体は、女性を抑圧するが故にどうしてもストレスを抱え不安定である。よってこれを解消するために太母である第四位を表に引っ張り出さねばならない。そしてそれは、近代西欧文明においては、神々レベルと人間レベルにおいて同時に起こるということなのだろう。

古事記では、神々レベルの両性具有は太古に早々に高天原において発生して、人間レベルのそれは、現代において起きるシナリオ。一方、西欧では、神々レベルの両性具有も人間レベルのそれも、同時に現代において起こるシナリオになっているのだろう。

イエスが十字架にかかるまで大悟覚醒しなかったのは、死と再生という「老いたる息子」としての再誕を示すため(垂直上昇)。カトリックが父系三位一体をまだ捨てないのは、神々レベルの両性具有の実現のタイミングを測っているのだろうか。次の時代は、万人が、神という体験とは言えない体験を経ている、宗教のない時代である。

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父系三位一体と近代西欧文明の宿命-1

2024-03-28 03:24:53 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-2

◎垂直上昇への仕掛け-2

◎冥想による無意識の意識化

 

ほとんどの人が神を知らず、一方でSNSや監視カメラ、思想言論監視システム、金の流れの政府管理システムがもう少し進展すれば、ほとんどの人が牢獄に入ったような絶望的な気分で暮らす日々になってしまうのだろう。

その時初めて、現代文明すなわち近代西欧文明は、どうしてこんな困ったことになっちまったのだろうと考える人が沢山出てくるに違いない。

そのそもそもの初まりは、紀元前3120年のエジプトで決定されていたとダンテス・ダイジが断言するのを聞いて、私はどういうつもりでそのことを言っているのだろうと訝った。その時代はエジプトで最初の統一王朝が成立したかどうかという時期。紀元前3120年に文献的、考古学的な根拠などないことは後にわかった。なおマヤ暦の最初の日が、紀元前3114年の8月13日と近く、この時期に何か地球的な変動があった可能性がある。

だが、次のようなマクロのシナリオでもって現代に至り、またその奔流はこの爛熟腐敗を極める世界をおおう近代西欧文明全体の宿命も予見している。

 

  1. 古代エジプトで、オシリス、ホルス父子の父系三位一体が成立。これは三千年継続。
  2. その影響により、キリスト教の父なる神と神の子イエスの父系三位一体が成立。これは現代に至るまで二千年継続し、かつ人類の進化のための成熟を準備することができたという点で成功だった。
  3. 三位一体には、父なる神と息子という形式の他に、両性具有なる神と息子という形式があり得るが、ことさらに父なる神と息子という形を選んだことが、現在の知性偏重文明にして火力文明の成立発展につながっている。
  4. キリスト教における「人が神に至る仕掛け」はあばらで女性を作ったところから(神の側からの仕掛け)始まっている。これは神の側からの仕掛けであるが、この段階で既に有無を言わせず男性優位の父系の三位一体が予定されている。その後の母性の回復はマリア信仰や聖母被昇天などの措置に見られるが、補償的であって、父性と対等にはしていない。
  5. キリスト教の完成は、イエスの十字架上での大悟覚醒(人の側からの仕掛け)。無意識の代表である魚座から、万人の意識化すなわち悟りであるみずがめ座の時代へ。イエスのシンボルは古来魚だった。また魚は組織宗教をも暗示する。そこから知性の発達の結果、各個人個人が悟る時代へ。父系三位一体の跛行は、知性中心文明の宿命だが、それでも至福千年を目指す。だからこそイエスは磔刑直前に弟子の足を手づから洗って見せ、万人が神となる手本をまず示して見せた。
  1. ユダヤ・キリスト教では、人に打ち捨てられた石が北東に置かれるのだが、それが長い年月の末に、滅びることのない神の神殿の基礎となるという伝承がある。これは、出口王仁三郎が、長年月北東に監禁されていたもともとこの世の主宰神であった艮の金神を舞台の中心に引き出したのと同義。人に打ち捨てられた隅石とは、太母のこと。
  1. かくして知性の極みの時代は、ITによる万人を管理する世界全体の牢獄化と、果てしのない欲望の極大化による人類全体の自殺を招きかねない危機に遭遇する。その先にもはや叫びも悲しみも苦しみもない至福千年が到来する。
  2. 悟りあるいは神と合一することは、すべての無意識を意識化することだが、その意識化する方法は冥想である。冥想という、無用の用を万人が日常的に行うことによって、地上は天国となり千年王国七福神の楽土が実現する。

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聖霊の話

2024-03-27 17:47:11 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-4

◎二位一体

 

キリスト教では、父なる神と子なるイエス・キリストがいて、さらに聖霊があって、三位一体の構成要素である。しかし三つの神々ではなく、唯一の神を主張すると同時に他の多くの神々を否定する。この「他の多くの神々」にあたる部分の大方が太母なのだが、これを否定していることで、三位一体と自称しているが実質は二位一体と評価されることがある(ケン・ウィルバーも二位一体と評す)。

 

そして聖霊といえば、キリスト教の専売特許のようだが、さにあらず。

 

まず、旧約聖書。

創世記7章では、神は土のちりで人を造り、命の息(聖霊)をその鼻に吹きいれられて、生きた者となった。また聖母マリアは聖霊によって身重になった。

 

そして新約聖書。

1.ヨハネによる福音書14章『父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。』

 

2.同3章『神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。』

 

3.同20章『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』

 

4.マタイによる福音書12章『人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』

 

こうして並べてみると、聖霊とは神の属性である絶対善を有して活躍している様子。そして人間にとって、聖霊は人間の本質のようでもあり、高級神霊のサポートみたいでもある。

 

さて出口王仁三郎は水鏡で、『キリストは三位一体と説いて居るが、その三位一体は父と子と聖霊とを云ふて居る。聖霊なるものは決して独立したものでなく、天にも地にも人にも聖霊が主要部を占て居る、否聖霊其ものが天であり、地であり、父であり、母であり、子であり、人である。故に三位一体といつても其実は二位一体である。キリスト教には父と子はあつても母が無い。』と言っている。

 

出口王仁三郎は、聖霊が一位、子たる人間が二位で、二位一体と見ているのだろう。一般的な三位一体モデルというものがあるとすれば、無形無相の神(ニルヴァーナ)が父で、母は現象面のシンボル(アートマン)、そして人間の三位一体ということになるだろう。

 

こうして見てみると、聖霊は無形無相の反対物としての現象の総体の主要部のことを言っているようであり、無形無相の神の「有の側の働き」のことも言っているようでもあるから、「父と子はあっても母がない」という言い方になるのだろうか。

 

聖霊とは人間でいえば人間の精神を貫く神的な要素のこと。聖霊を人間が受けるとは見神に相当するのだろう。

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ダンテス・ダイジの人類史観から

2024-03-27 17:37:08 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-3

◎シリウスからエジプトへ

 

ダンテス・ダイジの老子狂言より。

『現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観から人間進化を位置づけてみよう。

 

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。現代西洋人種とは、地理上の西洋・東洋を意味するのではなく、紀元前3120年以後の人類全体のことである。』

 

ダンテス・ダイジの断簡を読んでいると、レムリアとは明示していないが、大聖者メルキゼデクの悲劇的最期が追憶の一節として登場し、またダンテス・ダイジが人馬合体の姿のケンタウロスであったことも出てくる。当時は、人間の肉体、あり方自体が現代人の想像もつかぬ有様だったのではないか。

その延長線上に、彼自身の故郷であるらしいアルファ・ケンタウリ(地球から最も近い恒星、距離4.3光年)の少女と、シリウスから銀色に輝く空飛ぶ円盤で地球に降り立った彼の姿が見え隠れする。シリウスは、犬星というやや傾(かぶ)いた、或いは照れたような表現で、漠然と言及されている。

レムリア人の客観的な手がかりはないが、その上で彼はレムリア人を意欲人と規定、アトランティス人を感情人、現代人を知性人と見る。知情意を完備した姿が人間の完成形なのだ。

 

紀元前3120年は、古代エジプトの第一王朝で上エジプトのナルメル王が下エジプトを征服しエジプトを統一した頃。勿論この年代は、地政学的な意義を語っているのではなく、中有的な時代、神の現存を確認しきれぬもやもやした5千年の始まりであって、最終的にその知性で物質文明、火力エネルギー主体の文明を極め、社会と人間において上面だけに神がいる5千年をもって知性人としての成熟を図る。

最終段階たる現代では、アトランティス末期同様に人類絶滅兵器を使用できるようになるが、人類が絶滅を回避できるかどうかは、神のみぞ知る。

この5千年は、闇を無視し光を珍重するアポロン的時代。あるいは、生のポジティブ面だけを強調し、死を隠す時代。死の極みは愛の極みに近いがゆえに、死の見えない時代は、愛なき時代でもある。

紀元前3120年において、現代の方向性を定めたと唱えるダンテス・ダイジは、それに先行して紀元前九千年頃エジプトに出現して、以降の足がかりを築いている。

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父なる神が息子における若返りという形で誕生する

2024-03-27 03:02:46 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-2

◎崇高な〈日の老いたる者〉が、子どもとして生まれてくる

 

キリスト教においては、三位一体という大枠の中で、父なる神が息子における若返りという形で誕生するというイメージがある。神の子イエスとは、父なる神の『日の老いたる息子』なのだ。

以下にC.G.ユングの説明を挙げる。

『同じように錬金術でも老いたる王には救済者としての息子がひとりある。ないしは老王自身が救済者としての息子になる(ラピスは始めにおいても終わりにおいてもラピスである!)。さらに、王がよりよきものに改まる必要性という点では、中世のある考え方を考慮に入れなくてはならない。それは旧約聖書の怒れる神の新約聖書の愛の神への変容にかかわる考え方で、神は一角獣のように処女〔マリア〕の膝のなかで 〔胎内で〕怒りを鎮められ変貌したというのである。この種の考えはすでにフランシ スコ会の聖人ヨハネス・フィダンツァ・ボナヴェントゥラ(一二七四歿) にも現われているように思われる。その際注意すべきは、教会の比喩言語は父なる神を老人の姿で思い浮かべることを好み、父なる神が息子における若返りという形で誕生するというイメージを好むという事実である。

ノラのパウリヌスはある讃歌のなかで教会を神の母〔聖母〕のアナロジーとして讃美しているが、そこにはこういう詩句が見える。

 

けれどもこの妻は、なんぴとも触れなかったその肉体においてはいつまでも妹のままだ。

彼女が抱擁するのは霊である。彼女の愛する人は神なのだから。

この母から老人が、いまだ可愛らしい子どもの姿で生まれ・・・・・・

 

ここにいわれているのは、たとえば受洗者―――「新たな子どもへと生まれ変わる者」 renatus in novam infantiam―――のことであるが、しかし教会と神の母のアナロジーはまさに、父なる神自身が髭をたくわえた老人として、息子なる神が新たに生まれる子どもとして崇拝されたという点に存するのである。

「老人」senex と 「子ども」puer のこのような鮮やかな対置はおそらく一再ならず古代エジプトの神学の神の更新という元型と接触したことであろう。エフラエム・シュルスのつぎの詩句に見られるようにこの対立の本質同一性が、はっきりと前面に現れている場合には特にそのことをうかがわせる。「崇高さに満ちた〈日の老いたる者〉が、子どもとして、子宮のなかにやどっていた」 Antiquus dierum cum sua celsitate habitavit, ut infans, in utero. 「おお処女よ、汝の小さな子は老人である。いな、〈日の老いたる者〉であり、あらゆる時に先立って存在していたのだ」 Puerulus tuus senex est, o virgo, ipse est Antiquus dierum et omnia praecessit tempora.』

(結合の神秘Ⅱ/C.G.ユング/人文書院P34-35から引用)

※ラピス:賢者の石

 

これは、チベット密教の母の光明が、より錬磨洗練されて子の光明に進化することを連想させるイメージである。チベット密教では母から子、キリスト教では父から子。

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正妻と妾

2024-03-26 05:24:54 | 人と神の「実際のところ」

◎妾は恋人がいつ来るかわからないので待っているだけ

 

NHK大河ドラマ『光る君へ』で、まひろが藤原道長から「妾になれ」と言われて、「正妻は家にいれば必ず夫が来るが、妾は愛人がいつ来るかわからないので待っているだけ」というニュアンスの返しをまひろがする。

この問題は、生涯未婚率がどんなに高くても、どんなに女性の社会的地位が引き上げられてきても重要なイシューであり続けてきた。

男性は若い時は恋人は何人いてもよいくらいに考えていたりするが、既婚者となって中年になって老いらくの恋などすると妙におしゃれになって周囲に気取られるなどということも耳にした。独身だろうが、既婚者であろうが、基本は一夫一婦。それは功過格にも書いてある。

ところが、イスラム教は一夫四妻が基本。人間の基本は、一夫一婦なのか、一夫四妻なのかという質問に対して、ダンテス・ダイジは、人間の霊的元型は一夫四妻だが、それはまた社会的ニーズにより女性が生きにくい事情も反映しているというような説明をしている。

一夫多妻と大上段に振りかぶらなくても、不倫となれば修羅場はあるもので、正妻以外の女性に執心となれば、事件は起きがちなものであって、その結果が離婚率にも現れている。

ところが、ダンテス・ダイジ自身の前世の一つはナツノという名の妾であって、ほとんどやって来ない愛人トースを待つばかりの人生だったと語っている。さらに彼の詩の中には、新宿のソープ嬢として転生するかのような一節まで出てくる。

運悪く第二希望以下となった女性たちの中には、刃傷沙汰になったりその刃を自分に向ける人もいる。人間の霊的元型は一夫四妻であると見透かしてもいても、金があればそれを平和裏に維持できるというものでもないし、妾は常にコンプレックスを負って日常を暮らす。そして積み重なる日々の影響は、その子に及び、老いとなって決着などつけられないままになっていく。

なお、世の中には房中術、性愛冥想セクシュアル・メディテーションというのがあるが、ダンテス・ダイジのそれは明らかに正妻をパートナーとするものであるのに対し、OSHOバグワン支那の皇帝がチャレンジしたような相手をとっかえひっかえするというようなタイプのが見受けられる。後者は、要するに真正の悟りなど目指していない類のそれなのではないかと思う。

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その時に見るやすらぎ-6

2024-03-25 12:43:05 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎オーディン

 

北欧神話の主神オーディンは、巨人中の賢者のミーミルの守る知恵の泉の水を飲むために片目を差し出した。

ミーミルの泉は世界樹イグドラシルの3本に分かれた根のうち、霜の巨人の側に張り出した根元にある。

泉の水の鏡をのぞき込む者は、何よりもまず自分の姿を見る。出口王仁三郎がその教団で本守護神たる自己を奉斎させたように、内面への世界への旅は、必ずしも愉快なものではない自分自身と出会うことから始まる。

水鏡に映る自分の姿は、自分の影である。しかし自分の影の先である水底には宝があることが知られている。水底の宝を手に入れるという行為は、歴史上にしばしば魚を取るという行為としてシンボル化されて出て来る。水面下とは、死の世界であり、集合的無意識の世界である。

魚さえ取れば、その泉の水さえ飲めば、この世とあの世を股にかけた本当の自由を手に入れることができ、人間的苦悩からの解放がある。だからそのことは宝として表現される。

しかし水面下の知恵を手に入れるということは、我々にとって、いわば生きるか死ぬかの問題である。この世のあらゆるものを捨てさせられることになるからだ。オーディンは片目を失った代わりにそれを手に入れた。

オーディンですらこの世的なものを捨てさせられた。アダムとイブでは、知恵の実を食べた代わりにエデンの園を追放されることになった。

オーディンは、ミーミルに片目を差し出して、敢えてこの上ない癒しを求めたのだ。知恵とはあらゆる人間的苦悩を超越できる叡智である。よってこの知恵こそ無上の癒しに他ならない。

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ホルスの目

2024-03-25 07:44:56 | 浅い霊感から神人合一まで

◎護符の効果と功罪

 

ホルスの目(ウェジェトの目(左目))は、ホルスが父オシリスの仇であるセトを討つ時に失われたが、(この左目はホルスの下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後)知恵の神にして月の神・時の神であるハトホルによって癒され(ホルスの下に戻り)、回復した。

そのため、「ホルスの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルスが癒された目を父オシリスに捧げたというエピソードもある。

また、守護神としてのウェジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。

 

大英博物館の猫像(Gayer-Anderson:https://www.britishmuseum.org/collection/animals/gayer-anderson-cat)は、猫神バステト神の一変化だが、胸のホルスの目の護符が印象的。

またツタンカーメンの副葬品でもホルスの目の護符(https://egypt-museum.com/winged-scarab-pendant-of-tutankhamun/)が見事である。

 

護符というものは、用いれる人と用いれない人がいると思う。霊道が開いている人、霊道が開いていない人ということであって、誰もがアクセサリーだから買ってもよいということにはなるまい。護符効果については、よくよく考慮すべきだと思う。生兵法は大怪我のもと。

違法賭博ではないが、素人が手を出すべきものではないものは世の中には多い。

 

北欧神話でも片目を捧げて全智を得るモチーフはある。

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本山博が最後の魔に出会う

2024-03-24 07:08:31 | 人と神の「実際のところ」

◎機関砲の砲弾に追われて右往左往するよりも怖い

 

本山博が最後の魔に出会った件。

『小学校五年生の満十歳の時、チフスに罹って死に直面したことがあります。現在小豆島のホテル・ニュー観海のある辺りはその頃は何もない山で、山にかかった辺りに避病院が一軒あって、チフスだの赤痢だのコレラだのになったやつを皆その中に放り込んで、一つの部屋に二、三人いて、死ぬやつは死ぬよりしようがない。私も一カ月半ぐらいいたのですかな、いくらたっても菌がなくならないで、妙ちきりんな具合に腹がギューッとしぼって、痛くて気持ちが悪くてどうにもならない。食べられる物も何もないから骨と皮みたいになって、起きあがることも寝返りもできなかった。 そのぐらい弱りきって、周りでは人が死ぬ。でも、意識はどういうものかすごくはっきりしていて、全く死ぬようには思わなかった。

そういうのとも、魔に遇った時というのは全く違うのです。

 

日頃、人間は物の力に支配されて生きている。たとえば皆さんも余り腹がへった時にはガツガツ食べるでしょ う。あれも物の力に支配されている証拠ですね。 そして、 或る人が物の力を超えてそれを離れようとする時、物の世界の力はそれを防ぐために強烈に働き、恐怖心を起こさせる。

そういう魔に遇うわけです。これは遇ってみないと、その怖さは分からない。キリストについても釈尊についても誰の場合でも、こういうことはみな書いてあります。 物の力が壊れようとする時は、ものすごい物の力が先ず現れてくるわけです。

強大な物の力からの脱却は、神様のお力なしにはできないのです。神様のお力が入ってくる時には、最初は白い、しかしものすごい光が見える。 それから、 法雲三昧というか、井の頭の宗教心理学研究所の玄関のガラスに、 雲の上に菩薩が乗っているのが描かれているでしょう。魔に遇ってそれを克服してからは、ああいう感じに、絶えず光っている、大きな雲の上に乗っているような感じで、そして自分がすごく光っているのです。そして坐っているのだけれども、現実に坐っている場所で坐っているのではなくて、かなり高いところで、光っている雲のようなフワフワしたものの上に自分が乗っかって坐っているのです。その自分に光っている。そしておかしいことに、自分がそこ(雲の上)にいるし、下にいるようでもあるし、同時にどこにでもいて、初めはとても 妙ちきりんなのです。』

(神秘体験の種々相Ⅱ/本山博/宗教心理出版P53-54から引用)

 

この前段で、本山博は、特攻隊にいた時に機関砲の砲弾に追いかけられると、うろたえて右往左往するが、魔に遇った時の怖さは、そういう怖さとは比較にならないと言っている。

 

本山博は、魔のことを物の力と表現している。原理は物の力だが、「物の力」では、平易な表現すぎてかえってわかりにくいかもしれない。

雲の上にいるのは、出口王仁三郎と同じ。そういうこともあるのだろう。

神様の白い、しかしものすごい光とは、出口王仁三郎の言うところの内流。

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オシリスとホルスの神話

2024-03-23 06:32:00 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-10-1

◎父なる神オシリスと神の子ホルス

 

古代エジプトの神々の話は、時代が数千年にわたり、かつ主神がラーからオシリスに移ったり、オシリス自体の性質も変遷していったりするので、学者さん以外には精密に読もうとする意欲がわき難いと思われる。ところがオシリスとホルスの神話は、キリスト教の三位一体説の原型となっているということなので、この混乱、爛熟を極める近代西欧文明のそもそもの原因を探るため、ここに上げておきたい。

 

『太陽神ラーは、みずから作り出した世界の直接統治から身をひき、その後は息子のシュウが支配権を引き継ぎ、次いで孫のゲブが跡を継いだ。その次に王位についたのが、ゲブと天空の女神ヌウトの間にできた4人の子供の1人、オシリスである。

オシリスが王になると、弟のセトは嫉妬の炎を燃やし、王位を奪うために陰謀を計画した。ある日セトは、オシリスを含め大勢を宴会に招き、その場でじつに豪華な棺を披露した。そのすばらしさは、一目見た者なら誰もが自分の葬式のためにぜひ所望したいと願うほどだった。セトは、この棺に体がいちばんぴったり納まる者に、これを進呈しようと約束した。そこでオシリスが中に入って横になると、まさしくぴったりと合うではないか。するとセトは棺の蓋をバタンと閉め、そのままナイル川へ投げこんだのである。

オシリスの妹にして妻であるイシスは、夫の遺体を捜しに出かけ、ついに杉林の谷(エジプト学では、これはレバノンの森のことではないかと推定されている)で1本の生きた木の幹に包みこまれているのを発見した。イシスは、魔術的力を使って死んだ夫を生き返らせて、エジプトへつれ帰った。するとセトは、今度は兄の体を細かく切りきざんでふたたび川に投げすてた。バラバラになった遺体は、川の流れに乗ってエジプトの各ノモスに散らばっていった。

これをイシスは、妹にしてセトの妻であるネフティスの助けを借りて1つ1つひろい集め、すべてそろうと、ふたたび魔術的力を使ってオシリスの精力をよみがえらせ、子供を身ごもった。この後、オシリスは冥界の支配者として地下に下り、残されたイシスは、正当な後継者たる息子ホルスを湿地にかくまった。子供時代のホルスは、毒ヘビとサソリの攻撃や、さまざまな病気にさらされていたが、ひたすらイシスの魔術的力のおかげで、身を守り病を癒すことができた。

ホルスは成年に達すると、ラーからゲブをへてオシリスに受け継がれた支配権は自分に帰するはずだとして、セトとの戦いを開始した。この戦いでは互いに姿を千変万化させたが、戦闘中には川の動物に変身することが多く、ある戦闘の真っ最中には、ホルスが銛(もり)打ちになって、カバに姿を変えたセトをしとめようとしたこともある。その場面は、プトレマイオス時代に建てられたエドフのホルス神殿の壁にきざまれている。戦闘は、講和の提案があったり、ラー神を始めとする神々に訴えたりするたびに、一時中断する。

ある中断期間の最中には、セトがホルスを誘惑するものの、後にイシスの魔術によって逆に公衆の面前で恥をかかされるという有名な事件が起きている。最終的に、神々の法廷から妥協案が提示される。ホルスは人々の住むエジプトの土地を支配することとし、一方セトには、砂漠と外国に対する支配権と、太陽の船に乗るラーを悪から守る役割を与えるという案だ。この和解によって停戦が実現したが、外国人となったセトは、末期王朝時代になるとエジプト人の目には悪魔のような姿で描かれるようになる。これは、この時期にエジプトが地理的に孤立した国ではなくなり、外国による占領という過酷な経験をくりかえし受けたためだろう。』(大英博物館図説古代エジプト史/A.J.スペンサー/原書房P86-87から引用)

 

  1. 太陽神ラーは、みずから作り出した世界の直接統治から身をひいたということで、ラーは、キリスト教で言えば聖霊。
  2. オシリスは父なる神。息子ホルスは父の死を踏まえているので神の老いたる子イエスに相当。
  3. 教祖にしか合致しない豪華な棺は、過去数千年の教祖を中心にした組織宗教隆盛を示す。オシリスという組織宗教が死んで、個人であるホルスの覚醒がある。

 

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完全に納得できるものを求める

2024-03-22 07:07:13 | 時代にFace it

◎ありとあらゆるバカげたことが起こっている

 

野球の大谷翔平の通訳にして、キャッチボール相手、壁当てルーティンのサポート、投球やスイング強度の測定など、欠かせない練習パートナーだった水原一平氏が、2024年3月20日ドジャースから突然解雇された。

原因は、水原一平氏がギャンブル依存だった所に違法賭博に関与し、大谷翔平の口座から7億円弱送金させたことらしい。なお日本でも賭博関与では球界永久追放の前例があり、大谷翔平の関与のないことを祈りたい。

SNSでは、マスコミの寵児周辺に降ってわいたスキャンダルに対し、金の流れや大谷翔平の関与の具合の他に、ギャンブル依存に関する意見が見受けられる。

昔、さる大手企業の社長と4、5人での中国宮廷料理に陪食した際に、その社長が大の麻雀好きだと知った。人は仕事と出世がこの方のように順風満帆であって老年に至っても、真の生きがいを求めて、あくまで麻雀というギャンブルに打ち込むものなのだということを感得させられた。

身近に7億円動かせなくとも、ゲーム課金やパチンコ、パチスロ、オンラインカジノ、競輪、競馬、競艇などで、ささやかなあるいは人生の最も大切な何かを賭けるスリルを求めがちなことはよくある。生きがいを求めるために広義のギャンブル依存にはまっている人は少なくないが、本当の生きがいを求めるということは、自分に素直になる一環であって、本来その動機は誰にも咎めることはできないもの。

だが、広義のギャンブル依存によって、まま人生を棒に振るということはあるものだ。

 

10代後半、20代前半の時期にそういうものが始まることが多いが、受験勉強、資格取得、恋愛など多事多端で忙殺されている時期だからこそそういうものに熱中しやすいということもある。

人間の行動は、基本フリーハンドだが、奨学金返済、住宅ローンなどで何十年の人生を縛る仕掛けは多いが、若いうちから何が本当に大切で何がそうでないか感じつつ、注意深くあることは必要なものだと思う。

だから若い時分からの冥想(瞑想)習慣は、意外に大事だと思う。

 

以下は、ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックの巻末詩から。

『本当に正直になれば、

完全に納得できるものを求めざるを得ないということを

誰でも知っているはずだ。

 

なまじ、自我が唯一の自分だと思ったが故に、

ありとあらゆるバカげたことが起こっているのだ。

 

今、大切なことは

ただ一人の

絶対完全、永遠無限人間であることが

自分自身であることに

目覚めること以外にありません。

そして、それには

いわゆる人間と称するものの限界性を

とことん知り尽さなければなりません。

なぜなら、本当に正直になれば、

その限界をいやという程知っているに違いないからです。』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版P143-144から引用)

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春分のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-03-21 03:22:11 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎身体バランス練習、シニア向け

 

春なのに台風並みの北風が吹き荒れ、神様のご機嫌が気になるこの頃です。

 

Olivia Lawsonの室内散歩に変更して、2週間以上経過しました。これは、1回20分を一日3~4回やるようにしています。

片足立ち時間は、1秒だったのが、3秒できることが多くなった程度の改善です。

Olivia Lawsonの室内散歩メニューは結構きつく、ふくらはぎの張りは常時、太ももの張りが時々起こるようになりました。中腰でのポーズがわりにあるのと上半身ねじりが多いのが、ふくらはぎと太ももの張りにつながっているように思います。

特に膝を半端に曲げたままで動作できなかったのが、微妙にできるようになったのを感じています。全体的に膝回りが強化され、太ももの付け根が痛むようになっています。

膝回りの強化のおかげで、バランスのとり方は少々上手になった感はあります。ただし、その場での駆け足はまだできません。それほどに足裏・足首以上の筋力が何十年単位で弱まったことを感じさせられます。それもOlivia Lawsonをやり始めてからわかったことです。

 

なおパソコン使い過ぎシニアのためのめまい・ふらつき防止エクササイズはやめました。なお以下のポイントについては、留意するようにしています。

『※ふらつきやめまいを感じた場合は、できればその方向を見つめ続けるようにしてください。つかまらないようにして、自分を落ち着かせて、めまいがほとんど消えるかどうかを確認してください。3〜4秒後、ふらつきによるめまいが消えるのを感じます。その後、そのまま続けられると思います。』

 

Olivia Lawsonの室内散歩は、1メニュー40秒から50秒ですが、きついので20秒ぐらい画面どおりやり、残り時間は足踏みが多いです。

まず転倒しないことに注意し、やると必ず痛めるポーズはやらないように、それとやり過ぎに注意して進めています。

なお最近スマートウォッチで、心拍を見ながらやっていますが。心拍が90台になると疲れた感が出ます。100を超えると負荷かけすぎかなと動作をセーブしています。

 

以下はOlivia Lawsonの室内散歩のおすすめの一例です。

30 MINUTE NO REPEAT STANDING CARDIO STEP WALKING WORKOUT

https://www.youtube.com/watch?v=UYYe6xpHQ5A&t=4s

30 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping _ Standing _ Walk at Home

30 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping | Walk at Home (youtube.com)

30 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping _ Walk at Home

30 MIN METABOLIC WALKING EXERCISES FOR WEIGHT LOSS- No Jumping | Walk at Home (youtube.com)

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