アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

芒種のバランスと歩行改善と転倒防止エクササイズ

2024-05-31 15:12:56 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎身体バランス練習、シニア向け

 

すっきりと晴れない日が続いています。

今頃の季節は若い頃から不調なことが多かったのですが、それを思い出しました。

 

屋外散歩20分を2~3回にして、Olivia Lawsonの室内散歩20分を1回に減らしたら、てきめんに膝回りが弱くなってきましたので、Olivia Lawsonの室内散歩20分は最低2回はやるように変えたばかりです。

30 MIN BOOSTED WALKING WORKOUT FOR WEIGHT LOSS- No Jumping Fat Burning - YouTube

 

日がなマウスとキーボードの生活で、左手の弱体化が著しいのと、字を書くのもおっくうになってきたので、ボールペンで字を書く練習とロープ結び(昔ボーイスカウトの教本に複雑極まりないのが載っていたが、そういうのをやってみたい。)の練習を始めることにしました。

 

最初は、もやい結びを何回も練習するのから始めたいと思います。ロープ結びは、船舶、登山、ワイルドライフなどで必要で、ネットにもいろいろ上がっています。しかし狙いはあくまで手指のリハビリです。

字を書くのも、「最近の若い女性は手書きの字がきたない」などと他人のことは言えないほどに、自分の手指が退化してしまいました。将棋駒を積むリハビリもあるようですが、当面ロープ結びとペン字をやろうと思います。

ペン字も千字文でもやろうかと思いましたが、当面は住所氏名で。

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すべての次元にガイドがいる

2024-05-31 04:50:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-12

◎世界樹-10

◎ヘルメス、猿田彦命

 

霊界探訪記を見ると、霊界のどこにいても霊界太陽が見えるとあるものだ。人は霊界において神たる霊界太陽に常にリンクしている。この世においては逆に極めて稀な人しか神仏を目撃、あるいはコンタクトできない。しかしこの点は、この世でもあの世でも神仏にコンタクトできるという可能性を保証していると見るべきだろうと思う。

世界樹は、世界全体のシンボルだが、七つの次元のどこからでも神仏・ニルヴァーナに接することができるための親切なガイドさんがいる。そのガイドが、古代ギリシアではヘルメスと現れ、古事記では猿田彦命として現れる。

 

ピュタゴラスの冥界めぐりのエピソードにヘルメスが登場する。

『魂を一つにつなぎとめている紐帯は、血管や動脈や腱である。しかし魂の力が強くて、自分だけで静かに落ち着いているときには、魂(内部)の比(均衡)と活動がこれを一つにつなぎとめているのである。

しかし、(肉体との結合が解けて、)魂が地上へ放り出されると、魂は空中を肉体と同様にさ迷うことになる。そしてそのときには、ヘルメス(神)が魂たちの監視者になるのである。それゆえに、(地下の世界まで死者たちの魂に)「付き添うヘルメス」とか、「門の前に立つヘルメス」とか、「地下の世界のヘルメス」というような言い方がなされているわけである。

このヘルメスが、肉体から(分離した)魂たちを、陸からも海からも(定められた場所へと)送り届けるからである。

そして清浄な魂たちは、最も高い場所へ連れて行かれるが、不浄な魂たちは、清浄な魂たちにも、あるいはお互いにも近づくことが許されないで、エリュニス(復讐鬼)たちによって破ることのできない束縛のなかにつながれるのである。』

(ギリシア哲学者列伝(下)/ディオゲネス・ラエルティオス/岩波文庫P34-35から引用)

 

このようにヘルメスは至るところに登場する。地獄でも、中有の入り口でも、死んだばかりの取り込み中のところにも、ヘルメスが同伴している。

 

これは、人が七つの次元にあり、人が肉体レベル、エーテル体レベルなどのどの次元にいたとしてもヘルメスを目撃できることを言うのであって、それを「ヘルメスが魂に付き添う」かのように見えるせいではあるまいか。

 

よく真正なグルを真摯に求めればかならず出会えるというが、それもこの伝なのだろうと思う。

 

また日本の神話なら別れ道に立つ猿田彦命である。皇孫二々岐命が豊葦原瑞穂中国の主として降臨あらせられた時に、猿田彦命は、天の八衢(やちまた)に出迎え奉り、日向の奇振るの峯に天孫を導きたまい、また伊勢の大神の先導に立ちたまいし忠勇無比の神様である。

天の八衢とは、中有のこと。中有から先も自分で進まねばならないが、猿田彦命はそこでガイドを務め、正しい道を指し示してくれる。これぞヘルメスと同様のさまよえる魂を善悪立て分けて、相応の場所に送り届けるという役割である。

これを世界全体で俯瞰すると、無数の人が猿田彦命にエスコートされて、世界樹の幹や枝を上昇し或いは下降している様となる。

 

こうして「世界樹はエスカレーターとも見える」という見方があることがわかる。

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17 星

2024-05-31 04:03:42 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-10

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-10

◎明星を見る釈迦、空海、日蓮、クリシュナムルティ

 

有名覚者の悟りシーンには、星が登場することがままある。

 

釈迦は6年間の苦行を捨てて、ヨーグルト(乳糜)を食べて体力を回復し、菩提樹下でメディテーションに入った。そして、『明星が出た時、釈迦は廓然として大悟し、無上の正真道を得た。』(中国に伝わった最古の仏伝とされる修行本起経)とする。

 

空海はあらゆる経法の文義を暗記する力を得るために、高知県室戸崎で虚空蔵菩薩求聞持法を修した。すると谷響を惜しまず、明星が来影した。ごうごうたる阿吽(オーム)の響きたる谷響のうちに、明星がやってきた。

 

日蓮は十二歳で、安房小湊に近い天台宗清澄寺に入り、その年からこの寺の虚空蔵菩薩に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈っていたという。一六歳で出家。清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩。虚空蔵求聞持法は、虚空蔵マントラの連唱。清澄寺から旭の森に行く途中の切り立った崖の下に小屋があって、これこそ慈覚大師円仁の求聞持修行の地であり、日蓮の法華修行の霊場だという。

『五十五歳の日蓮が、身延から清澄寺の大衆へ書き送った手紙『清澄寺大衆中』の中

にこういう言葉がある。

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食(め)しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗竝に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』H・一一三三頁)』

(名僧列伝 3 念仏者と唱題者/紀野 一義/文芸春秋P210-211から引用)

日蓮は、明星のような大宝珠を得てあらゆる経典の優劣を理解し得た。

 

最後は20世紀の聖者クリシュナムルティ。

『勧められるままに木の下に行き、私はそこで座禅を組んだ。そのようにしていると、私は自分が肉体を離れ出るのを感じた。私は若葉の下に坐っている自分を見た。私の身体は東を向いていた。私 の前には自分の肉体があり、頭上にはきらきらと輝く美しい「星」が見えた。』

(クリシュナムルティの世界/大野純一P73から引用)

 

覚醒の確証としての星。それも釈迦からして、太陽でも満月でもなく、なぜか星。これはタロットの図柄の大きな星の方。

また大きな星の周辺には小さな七つの星が配置されている。これは、七つのチャクラ。七つの身体。

キリスト教も万人向けのオーソドックスな宗教なので、チャクラについての言及がある。以下は、ユクテスワの指摘。

『「振り向くと、七つの金の燭台が目についた」(ヨハネの黙示録1:12)

「それらの燭台の中央に、足まで垂れた上着を着、胸に金の帯を締めている人の子のようなものがいた。」(同上1:13)

「それらの右手に七つの星を持ち・・・」(同上1:16)

「あなたがわたしの右の手に見た七つの星と、七つの金の燭台の奥義はこうである。すなわち七つの星は、七つの教会のみ使いであり、七つの燭台は七つの教会である。」(同上1:20)

「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の真ん中を歩く者が次のように言われる」(同上2:1)』

(聖なる科学/スワミ・スリ・ユクテスワ/森北出版p84から引用)

 

道教の聖典である太乙金華宗旨にも当然の如く、チャクラへの言及がある。それは悟りの確証の体験の説明の一部として現れる。

『確証の体験の第一段階は、観無量寿経の瞑想法に「太陽は、大いなる水に沈み、立ち並んだ木々が存在する現象として、形をとってくる」とのべられている体験であろう。「太陽が沈む」というのは、混沌(現象があらわれる以前の世界、つまり叡智界)の中に基礎が打ちこまれたことである。これが無極(対立する両極を超えた状態)である。

最高善の状態は、水のように清らかで汚れがない。これかすなわち「太極」(大いなる極)の主宰者である。

「震」(東方)から帝(神)が出現することである。「震」のシンボルは木である。したがって「立ち並んだ木々」のイメージが生まれてくるのである。七重の並木は、身体の七つの穴(あるいは心臓の七つの穴)が光輝くことを意味する。』

(黄金の華の秘密/CGユング/Rウィルヘルム/人文書院P203から引用)

 

さて七つの身体の基本的な説明は次のとおり、

①第一身体

肉体。 物質。

②第二身体

エーテル体。経絡に相当する。エネルギー・コードの骨格(傘の骨みたいな形)というものに近いと言われる。

気合、意思力、勇気、体力などの根本的源泉。半物質。

③第三身体

アストラル体。幽体と呼ばれる。肉体に相似した形。これ以上は物質次元ではない。

④第四身体

メンタル体。高次の感情と精神活動を司る。透明で光輝いていると言われる。

⑤第五身体

コーザル体。肉体と世界を形作っている最後の個別性。球形の光と見えると言われる。

⑥第六身体

アートマン。個別性即ち我はなくなったが、『在ること』=有が残っている状態。

⑦第七身体

ニルヴァーナ。涅槃。なまえもなく、言葉では説明できない。

 

七つのチャクラが存在するのはメンタル体までなので、七つのチャクラが世界全体を示すシンボルというわけにはいかない。世界全体を示すには、七つの身体論こそが必要かつ十分なのである。

そして七つの身体があるということを俯瞰できるのは、第七身体ニルヴァーナに到達した者だけということも重要。

カモワン・タロットの17星の絵柄で説明されていない要素は、沐浴。次元を貫いてオームの川は流れるが、そこに沐浴する裸身の太母。沐浴は、西洋錬金術文書にも支那内丹書にもよく出てくるテクニカル・ターム。

ユクテスワは、沐浴とは聖音オームの川の流れで沐浴することで、最終的に神のもとに帰る途中のワン・クッションという説明だが、その意味するところは重い。ユクテスワの説明は「11 力」で示したとおり。

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悟りが夢であるように

2024-05-31 03:55:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-7

◎ニルヴァーナ-7

◎ニルヴァーナとその実感-7

◎神よ、「何もかもなし」それ自身よ、私自身よ

 

ダンテス・ダイジ遺稿の一つ老子狂言から『悟りが夢であるように』を引用。

 

悟りが夢であるように

 

 

迷いが一場の夢であるように

悟りもまた場を持たぬ一場の夢

 

悟りが夢であるように

迷いが夢であるように

7つのスペースから

熱と光は去り

私は未知以外の未知を知らぬ

 

かつての情熱は今や消え去り

私の夢は

私自身である「何もかもなし」それ自身を夢見る

 

一つの夢が終わり

新しい夢は始まっているはずだが

悟りが夢であるように

私には何一つ

つかまえるものが見えない

 

私の眼がくもってしまったのか

新鮮な何かを私は

なおかつ、待ち続ける

 

神よ、

「何もかもなし」それ自身よ

悟りが夢であったように

私という夢をことごとく

あなたの中に消し去りたまえ

 

神よ、

「何もかもなし」それ自身よ、

私自身よ』

 

 

あらゆる情熱はあたかも終わったかに見え、そこに七つの次元を縦横無尽に駆け回った欲望の激しい動きはもはや消え失せた。

そこには神にしてニルヴァーナなる「なにもかもなし」であった、私自身が残っている。

 

迷いは第五身体以下の神知らぬポジション。悟りは第六身体と第七身体の神。

悟ってみれば、迷いは一場の夢。有なる悟りである第六身体アートマンである『在ること』を棄ててしまえば、悟りも一場の夢と化す。

 

『7つのスペース』と言える位相は第七身体ニルヴァーナ。『在ること』を棄ててしまってニルヴァーナに居れば、既に未知となって、『私自身である「何もかもなし」それ自身を夢見る』。

 

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16 塔(神の家)

2024-05-30 06:35:30 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-9

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-9

◎クンダリーニの筒にして錬金術の炉

 

この塔はクンダリーニの筒にして錬金術の炉。またこの神の家は世界樹であって、「12吊るされた男」で神を知った後の人間はここでも脚を上に頭を下にする。というのは、世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。よって人間から見れば、世界樹なる世界全体は逆転して存在する。同時に二人の人物が塔から落下するのは、悟った人間の視点からは、実は上昇を示す。

 

また16 塔から19太陽の図柄では、空気中に天の露が降る。これは大吉兆を示す。既に12吊るされた男で、見神、見仏、見性を終え、15悪魔にも出会って無事試練を通過したからには、善の側に不退転となった。生きる姿そのものが、善だけを行い悪を行わない姿(諸悪莫作衆善奉行)となったのだ。

家族の因縁などと言うが、こうなれば九族昇天すということで、生きているだけで家族の悪因縁はどんどん解消されてしまう。これが天の露が降るということ。

 

二人の人物が塔から(一旦上昇して後)落下しているのと、天から稲妻が下っているのは啐啄同機。覚醒の深まりに向けて、天も動き自分もそれに進む姿である。OSHOバグワンは第四ステップ(逍遥訣)終了後からそうなると説明している。

 

彼はこれを第五の秘密と呼ぶ。

『そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、ものごとがひとりでに起こりはじめるということだ。あなたは何もする必要がない。むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。タオが、あるいは神があなたに乗り移っている。あなたは乗っ取られている! あなたは完全に消え失せ、今やあなたのなかには神しかいない。神が花として咲き、樹として繁るように、神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。今や神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。今やそれは神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。

 

最初の二つの段階では強い意志が求められ、次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。そして四つの境地を体得し終えると、意志は必要でなくなるし、明け渡すことも必要でなくなる。

 

いいかね、明け渡しはまた意志を落とすためのものでもある。最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。それが明け渡しだ。そして明け渡しによって意志が落とされたとき、究極の秘法のなかの秘法とは意志でもないし、明け渡しでもない。やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。第四を超えて行くことで、あなたは男と女の両方を超えて行く。意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく・・・・もはやあなたはそこにはいない、どこを探しても見つからない。そこには何者でもないもの、〈無〉、涅槃(ニルヴァーナ)がある。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP444-445から引用)

 

最後に、クンダリーニ上昇の最後は脱身。古事記で言えば、上筒男、中筒男、底筒男の3段のスシュムナー管をクンダリーニが上昇し、最後は頭頂サハスラーラ・チャクラから脱身していく。そのように炉の如き塔から微細身が上昇し発出される。

 

その様は、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』や柳華陽の慧命経に詳しいが、一枚の絵に納めるにはやや無理があるので、大体何枚かに分けて説明されるものである。またパタンジャリのヨーガ・スートラでは、

『3.43「大脱身」とは、粗雑な身体を離れ、想像を超えたところで機能する技法である。大脱身を遂行することで、輝きを覆っていたものは破壊される。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/ガイア社Pxivから引用)

 

これについて、OSHOバグワンは、“The Alpha and the Omega“の講話で、ヨーガ・スートラ3.43について

『メンタル体の外側にある意識状態に触れる力であり、考えられないもの、これを大脱身(MAHAVIDEHA)と呼ぶ。この力を通じて光の覆いは、崩壊する』と訳す。

さらに彼は、

大脱身とは身体を超えた人、身体に閉じ込められていない人のことであり、粗雑なあるいは微細な身体ということでなく、身体が境界がなく無限であることを知った人のこと。この際に、彼は心が目撃者であることを知る。

この無限を「光の覆いは、崩壊する」と表現する。このようにメンタル体が落ちれば、no-mind(ノーマインド)、思考のない状態を実現できる、と説明している。

 

大脱身から先は、17 星以降のことになる。

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アオウエイの五声

2024-05-30 06:26:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-11

◎世界樹-9

◎言葉は「道」であり「神」である

 

そこで出口王仁三郎の短歌。

 

言霊の真言の道を知らずして 此神国の治まるべきやは

 

出口王仁三郎の玉鏡から

『「道」は充ち満つるの意である。この宇宙には言霊(ことたま)が充ち満ちてゐる。即ち一つの機械でも動かせば非常なる音響を発するごとくに、此の宇宙も大旋廻しているから、非常な大音響を何時も発している。即ちアオウエイの五大父音が鳴り鳴りて鳴り止まずにいるのである。

 音響もまた言葉の一種である。意識的に発するのが言葉であり、無意識に発するのが音響である。兎に角、言葉は「道」であり「神」である。』

(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P170-171)

 

五大に響きがあって、五大父音だから、五大にはそれぞれ音響がある。しかし玉鏡にはこんな言霊の情けない実情も書かれている。

『宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いて居るが、人々が発する正しからざる言霊によっては之(これ)が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して音律の調節を行ふのである。』

(玉鏡/出口王仁三郎/天声社P172-173)

 

正しからざる人が唱える天津祝詞は、いくら奏上しても正しからざる言霊のままだろう。翻って、正しい人の上げる天津祝詞の言霊だけが正しいのだろう。よってまず正しからざる人が正しくならねば始まらないのである・・と読んだがどうだろうか。

 

ある信者が出口王仁三郎に『「アオウエイの五大父音の発生の中府は綾部ですか」と質問したところ、「どこでもや。王仁がおるところが中府や。今はここ(亀岡大本農園)が中府や。」』(新月の光(下巻)/木庭次守編P263から引用)と答えた。

中府の位置がわかるような人でないと、正しい言霊はないのだと思う。

 

こうして世界樹は、五大それぞれに鳴り鳴りて鳴りやまざる言霊によって日夜変動している。この動的な姿も世界樹の持つ一つの表情である。

 

霊界物語第75巻第二章 言霊の光で、言霊の由来と展開が語られているが、言霊研究が栄えるのはこの時代ではないだろう。

 

『言霊の生ける活用白雲の

  空に迷へる学者あはれ

 もろもろの学びあれども言霊の

  真言の学び悟れるはなし

 

 世の中に学びは数多ありながら

  学王学の言霊知らずも

 言霊の学びは総ての基なり

  其他の学びは末なりにけり

 

 根本を悟らず末の学びのみ

  栄ゆる此世は禍なるかな

 世の中の一切万事は言霊の

  光によりて解決するなり

 

 言霊の真言の道を知らずして

  此神国の治まるべきやは』

(霊界物語第75巻第二章言霊の光から)

 

人間は言霊によって原子力を手にしたが、原子力を過つことなくコントロールできるのは、正しき言霊を発することのできる正しき人だけなのである。

 

更に禅だけではデリカシーが不足だから、クンダリニー・ヨーガで繊細微妙が必要というのは、この言霊のことも代表的な一例である。

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天地不仁

2024-05-30 03:32:55 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-6

◎ニルヴァーナ-6

◎ニルヴァーナとその実感-6

◎すぐに燃やしたり捨てたりされる藁の犬

 

老子は、神仏の心、天地の心である石ころの心を、天地不仁と表現している。

人間的視点から見れば、天地は命を与えてくれるし、衣食住も与えてくれるとても「仁」なものに一見思われる。しかし人の命を奪うのも天であり、人を虚無の絶望に陥れるのも天である。したがって、天地が個々の者に対して仁でないという視点は、人間的な好悪や苦楽の感情を越えたところにあって初めて言える。

いつの時代にも戦争は繰り返され、生別死別等の苦しみは止むことはないことを指して、人間的な視点に降りてきて、仁ではないと言って見せている。

 

老子は、祭礼ですぐに燃やしたり捨てたりされる藁の犬に対しては、天地も聖人も仁ではないとする。彼は、鞴(ふいご)のたとえを用いて、筒みたいなものの中にある空気を動かすことを以って、背中のイダー、ピンガラー、スシュムナーの脈管を暗に示している。未発の中というニルヴァーナに至るプロセスとしてクンダリーニが意識されているのだ。

多言ではしばしば窮するので、中を守るに如かずとは、頭でやらないでメディテーションして、大悟して、道(タオ)を生きましょうということ。

老子は、ここで「中」という言葉を、無為、道(タオ)、ニルヴァーナという意味で使っている。

 

『老子第5章 天地不仁

(大意)

 

天地は個々のものに対して仁ではない。その万物に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々のあの態度と同じである。

聖人の人民(百姓)に対する態度は、あの祭礼のときに使う藁の犬に対する人々の態度と同じである。

 

天地の間は、例えばちょうどあのふいごや笛のようなもので、そのままでは中には何もないが、鞴(ふいご)は押せば空気が出るし、笛は吹けば音色が出る。そして音色が尽きることがないし、動けばますます出てくる。

 

大道は、理詰めで計算してこれをつかもうとしても、行き詰まってしまう。中すなわち己を虚しくして無為と一体になるに如くはなし。

 

(書下し)

天地は不仁、 万物を以って芻狗となす。

聖人は不仁、 百姓を以って芻狗となす。

天地の間は、 それタク籥の如きか。

虚にして屈せず、動きていよいよ出ず。

多言はしばしば窮す。中を守るに如かず。』

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15 悪魔

2024-05-29 06:54:46 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-8

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-8

◎大悟覚醒の直前に登場

 

冥想修行で、意識が深まる、潜在意識が露出してくる、自分がオープンになってくる・・・・言い方は異なるが皆同じことを言っている。その時に、人は暗示や指示に無防備になっている。オープン・マインドは最終ステップでの必要条件だが、対応次第で、人は神にも悪魔にもなる。

 

悪魔はいつ登場するのかと言えば、大悟覚醒の直前。イエスですら荒野の40日修行で、ファイナル・ステージ直前に「地上の国々の権威と栄華を与えよう」と悪魔の誘惑を受け、釈迦も「もうこの世を去ってもいいのですよ」とマーラ(悪魔)の誘惑を何回も受けた。不退転となる直前、九分九厘の時は、フィフティーフィフティなので、その時は神にもオープンであり、悪魔にもオープン。すべてを捧げようとする最後のステージではなぜか悪魔が登場する。

 

また稲生物怪録は、江戸時代、広島県三次市を舞台に、様々な妖怪が次々と登場し、16歳の稲生平太郎が、妖怪軍団をついに打ち破るというもの。沢山の悪霊が登場し、最後に魔王が登場するが、その際稲生平太郎は、冠装束をした人の半身(昔の一万円札の聖徳太子みたいな)が稲生平太郎の背後に見え、それは彼を守る氏神だろうと認識した。大悟の直前に悪魔が出現するのである。

 

最近非二元が流行しているらしいが、それを説く人は、二元が一元になる直前に悪魔が出現することを説明しているのだろうか。

 

このように既に「12吊るされた男」において、見神、見仏、見性を経た人物は、不退転のニルヴァーナに入る直前に悪魔に出会うのである。

 

 カモワン・タロットの悪魔では、図柄は悪魔ではなく乳房に男性シンボルを有する両性具有。見神、見仏、見性、見道した後に両性具有のステップがあると示す。そのことは、OSHOバグワンが端的に説明している。

 

時間もなく、場所もなく、すべてが神であるどこにもない場所、それが男女の別を超え、えり好みをしないという第四ステップを超えると起きてくる。つまり、自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるのが第四ステップ。彼は、神はどこにでも存在していて、その上で自分がどこにいるのか、自分が誰であるのか言えなくなるという、想像しづらい“現実”を突き付ける。ところがこれぞ『真のわが家(無何有郷は是れ真宅なり)』

 

『第四の現象はこれだ――神の臨在に気づきはじめると、あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。そうなったら、あなたは男でもないし女でもない、〈陽〉でもないし〈陰〉でもない。すると突然、あなたの男が女を食べ、あなたの女が男を食べる。この地点で、ヒンドゥー教のアルダーナリシュバル(両性具有) という概念が重要な意味をもってくる。そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。あなたは肯定と否定の二元性を超越している。』

(黄金の華の秘密/和尚/めるくまーるP431から引用)』

※第四の現象=四つ目のステップ:太乙金華宗旨の逍遥訣のこと。

 

最後にダンテス・ダイジの初期の説法から

『「サタンていうのは、天国を大切に守ろうとしている人にだけ現れる。たとえば、イエス・キリストがさ、荒野で自分を本当に高めようとしたときにさ、高めるっていう方向があるときにサタンは現れるわけ。それから釈迦が成道しようとしてさ、成道するっていうのは、天国的な方向に向かおうとする努力なんだ。そしてそれは絶対に必要なことなんだ、人間にとって。より素敵なものに向かうっていうのは。

 

そしてその方向に向かってるとき、突然サタンが現れるわけ。それも、釈迦のサタンていうのは、いかにも釈迦っていう人をよく表していてさ、奴の自意識の豊かさっていうのをよく表現してるよ。まだ素朴だよ、キリストのサタンの方が。汝を帝王にする、とか。石をパンに変えてみよ、とか。崖から落ちて飛び降りてみよ、とかさ。その代りにこの世の一切の権力を与えようとかさ、やるじゃない。

 

で、釈迦の場合に現れたものって言ったら、何のことはない、古女房が現れてきてさ(笑い)、ヤスダラっていうのが女房で、子供がラーフラか。ラーフラを抱きながら、その女房が現れるわけよ。』

(ダンテス・ダイジ1978年の東京是政での説法から)

 

【悪魔が怖い人に。】

ダンテス・ダイジの原典『救世主入門』の一節。

「君が天使のようだろうと

悪魔やそれ以外の何者のようだろうと

君自身は

天国にも地獄にも

決して長くは住まない

場所も時間もなく

君は

今・ここ・いる」

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空海の声字実相義

2024-05-29 06:45:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-10

◎世界樹-8

◎五大にみな響あり

 

ユダヤ教のセフィロトの10球は、結局五大が基本であった。五大は有の世界のことであり、無を包含していないので、7チャクラあるいは、7ボディが無を包含しているのに比べると、世界樹と同様に十全性を欠くように思う。

 

まずは、空海の声字実相義。

 

五大にみな響あり (五大皆有響)

十界に言語を具す (十界具言語)

六塵ことごとく文字なり (六塵悉文字)

法身はこれ実相なり (法身是実相)

 

五大とは、地水火風空のことで、それぞれにバイブレーションがある。

十界とは、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界であり、死の世界も含めたあらゆるボディの世界。それぞれの世界にリズムとメロディがある。

※仏界はニルヴァーナ。

 

六塵とは、色・声・香・味・触・法のことで、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るなどの感覚刺激の対象や、思考の対象のこと。それぞれにシンボルとしての文字がある。

こうした現象の現れも実相である窮極の真理である。

 

このように空海も、現象が五大から展開すると見ている。それが十界というそれぞれの宇宙という場で、感覚や思考の対象となる現象を形成、変動させているのだと。仏界にも響きがあるのだろうかという疑問はあるが、五大では全体とし有の世界を説明しているので、セフィロトと同次元のことを語っている。

 

さて出口王仁三郎は、空海は、宇宙の根源はア字から出てきたという阿字本義を唱えたが、実はス字本義が正しいと主張した。

どうしてそういうことが起きるのだろうか。古事記の万物の根源の葦牙(あしかび)は、アだったり、スだったりするということなのだろうか。

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石ころの心

2024-05-29 03:25:07 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-5

◎ニルヴァーナ-5

◎ニルヴァーナとその実感-5

◎人間の側に立っていないこと

 

第六身体アートマンとは、過去・現在・未来が一体であり、あらゆるものが一つながりにつながっている、時間空間物質が混然一体となっているもの。そうした創造滅亡ですらもない心を、ダンテス・ダイジは石ころの心と表現した。

 

『「奥深い心」

 

すでに人間はいない

あらゆるものを構え

その中でとりとめもない

人間の喜びと人間の悲しみとを持つ

そのものはすでにいない

 

人間の喜びと悲しみとから生れる

あのしみじみとした心の果てには

すでに人間はいない

 

人間にとってあるというすべてのものは

ことごとく消え果て

ただその奥深い心だけが

何の束縛もなく現前している

 

それは人間の心ではない

人間の喜びも悲しみも

その心のどこにもないのだから

人の子の悲惨な死も

甘美な恋慕も

その心には見えない

 

また その心は

石ころと人間とに区別がつかない

めくらで不人情な心だ

 

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

 

そこには既に人間はいないし、ややもすれば人間の側の都合なんか考えてはくれない。

本当にこの石ころの心がニルヴァーナかどうかは、実体験という、体験とは言えない体験をせねばわからない。

石ころの心が流出源であるという見方は、

『ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。

神とは、ニルヴァーナの中なる

マーヤーの流出源にすぎない。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP92から引用)

という一節にも見られ、古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。古事記では、最初水に浮いた脂のようなものが漂い、火たる葦牙(あしかび)が出現する。ついで、海水をかき混ぜて、しずくを垂らして、大地を造った。

 

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ヘルメス文書の「一者」の源である者

2024-05-28 03:14:05 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-4

◎ニルヴァーナ-4

◎ニルヴァーナとその実感-4

◎知性が神を知解する

 

以下は、第六身体である一者とニルヴァーナである「一者」の源である者の違いを説明している珍しい文。

錬金術の元祖ヘルメースが子タトに、知性が神を知解するメカニズムを諭す。

 

『1

ではタトよ、この教えをお前に詳しく話してやろう。 それはお前が、名よりもすぐれた神の奥義について無知であることのないためである。だから、お前は理解するのだ、いかにして多くの者には不明と思われるものが、お前には最も鮮明となるであろうかを。そこでだが、(不明と思われる)ものがもし不明〈でなかった〉なら、〈常には〉 在りえないであろう。なぜなら、すべて現れているものは生み出されたものであるから。それは、(ある時点から)明るみに出されたものだからである。これに対して、不明なるものは常に在る。現れる必要がないからである。それは常に在るのだから。そして常に在るが故 に、みずからは不明でありながら、他のすべてのものを鮮明にする。 鮮明にしながら、みずからは鮮明にされず、 〈生みながら〉、みずからは生み出されず、 また、万物を表象せしめながら、表象の内に〈ないのである〉。表象は生み出されたもののみに属すのであるから。実際、生成は表象に他ならぬのだ。

 

2

さて生れざる一者は、表象されざるもの、不明なるものであるが、万物を表象せしめることにより、万物を介し、万物において現れ、

とりわけご自身のよしとするものに現れるものであることは明らかである。

そこで汝、わが子タトよ、まず主に、父に、唯一なる者に、「一者」ではなく「一者」の源である者に祈りなさい。――――憐みを得てこれほどの神を知解することができるために、そして神の光線の一条でもおまえの思いに輝くように。

実際知性のみが、みずから不明なるが故に、不明なものを観るからである。

タトよ、もしお前にその能力があれば、それは叡知の眼に現れるであろう。主は妬みなきが故に、全世界を通じて現れるのである。

お前は、知性を見、みずからの手でこれを捉え、神の像を見うるのか。

お前の内にあるもの(知性)でさえ、お前にとって不明であるとすれば、どうして〈神自身〉がお前の肉眼を介して現れるであろうか。』

(ヘルメス文書/荒井献訳/P138-140から引用)

 

まず祈ろう。

観ている自分というのは、最後の場面でも問題になる。しかしここでは、「知性のみが、みずから不明なるが故に、不明なものを観るからである。」とし、知性が彼自身の悟境とある意味で関係なく一者を知的イメージとして捉えることができる可能性を示す。

さて生れざる一者は、表象されざるもの、不明なるものであるが故に、言葉では表現することはできない。

それでも生まれざる一者について表現をしようとチャレンジする意図があれば、それは知性によって為され得る。なんとなれば、知性そのものも不明なものであるからだと。

大いなるかな知性の機能。

 

そして、「一者」の源である者(生れざる一者)を示すことで、「一者」の源である者がニルヴァーナなのだろう。一者とはここでは、アートマンと思われる。

 

こういう議論が青銅器とかせいぜい鉄器しかなかった時代に正々堂々となされていたことに、驚きを禁じ得ない。ほとんど現代並みの高度な物質文明を送らなければ、平然とこういう議論は出て来ないのではないか。

クンダリーニ・ヨーギ本山博も言うように、人は物を沢山持つことで自我を膨張させ、自我を極大化するサポートとすることができる。物を沢山持つ生活とは文明生活である。

ヘルメースの子タトもそのような文明生活を営み、こうした議論の出るような自我の苦悩に直面していたのだろうと思う。

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ニルヴァーナ、語るべからざるを語る

2024-05-27 03:26:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-3

◎ニルヴァーナ-3

◎ニルヴァーナとその実感-3

◎石、岩、遠景、黄金、愚者

 

神仏には、有の相と無の相があるが、ニルヴァーナは、無の相の側。

ニルヴァーナは、もとより言葉では表現できない。維摩居士のように黙っているのも一手だが、そんな木で鼻をくくったような応対でよしとされる時代は過去のものになった。

ニルヴァーナは、属性で言えば、至福、歓喜、至真、至善、至美、円満具足、欣喜雀躍などが挙げられるが、言葉で表現できないと言われている以上、文字通りであるはずがない。

ニルヴァーナとは、GOD、ヤーウェ、ゼウス、中国の天帝・上帝、天御中主神、道、太沖など様々な名で呼ばれている。

 

ニルヴァーナのシンボルとは、真理のシンボルだが、石、岩などが用いられ、山水画では遠景としても登場する。西洋錬金術なら黄金。タロット・カードで愚者がニルヴァーナのシンボルとして用いられているのは、洒脱である。まるで、唐代の禅僧普化を思い起こさせるようだ。

 

 

『神とは絶対の未知自身だ!』(前掲書P122から引用)

 

『すべてがニルヴァーナだとしたら

なぜニルヴァーナに目覚めるための

冥想修行という

果てしなき苦難の道を歩かねばならぬのか

すべてがニルヴァーナだからだ』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP10から引用)

 

さはさりながら、ニルヴァーナを数少ない個人の実感として謳っている文を挙げてみる。

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ニルヴァーナ、人間と神の双全

2024-05-26 03:34:07 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-2

◎ニルヴァーナ-2

◎ニルヴァーナとその実感-2

◎リアリティーとは、対立の統合ではない

 

シャンカラ(8世紀頃)は、ブラフマンだけが唯一で不二の実在者であり、世界は無明マーヤが作り出した幻影であって、ブラフマンには何も影響しない付け足しだとした。さらに個我(アートマン)はブラフマンと同一だともしている。これが不二一元論のあらまし。

 

この不二一元論を意識して、ダンテス・ダイジは、ブラフマンも世界(無明)もどちらも現実であるという見方を示している。人間は、聖なるブラフマンと俗なるマーヤ(無明、世界)をどちらも真正の現実として生きているという見方である。

 

それは、次のような断片でわかる。

『ニルヴァーナとは、不二一元でさえもない。

神とは、ニルヴァーナの中なる

マーヤーの流出源にすぎない。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP92から引用)

神とはニルヴァーナのごく一部であるとしている。さらに、

『リアリティーとは、対立の統合ではない。

この考え方は、人間的知性の限界の表明にすぎない。

リアリティーとは、

永遠の対立であり

久遠の統合である。』

(上掲書P93から引用)

ここで、ブラフマン(ニルヴァーナ)と人間の対立が永遠であることがリアリティーだと直視する。統合しないのだ。人間の苦悩、不条理は、結局人間の側に解はないのだ。

 

それを踏まえて、

『クンダリニー・ヨーガは

不二一元観にその立場を持ち

霊肉二元を経過して絶対実在にいたる

 

只管打坐は霊身心一如から生死一如にいたる

色即是空は空即是色となり

色是色空是空として

永遠の未完結を完結する』

(上掲書P38から引用)

 

『霊肉二元を経過して絶対実在にいたる』とは、個我である肉体の二元が、大逆転・倒立して、絶対実在たるニルヴァーナに至るということ。

 

『霊身心一如から生死一如にいたる』とは、身心脱落してニルヴァーナに至るということ。

ユニークなのは、『色即是空は空即是色となり 色是色空是空として』のところ。” 色即是空空即是色”は、現象マーヤには実体がないというブラフマン一元の立場。一方“色是色空是空”とは、無明である現実世界もリアリティそのものであって、ブラフマン一元すなわちニルヴァーナ一元の聖性の極みと現実世界という俗性の極みが併存兼備しているということ。

 

その両方に直面するということは、自分自身に直面するということだが、その恐怖についてダンテス・ダイジは次のように描いている。

『今・ここにいることは、

君にできることではない。

君に、

今の中に完全にいることが起こったら、

余りの無気味さに圧倒されてはならない。

余りの未知・余りの神秘。

それは決して理解することはできない。

その時、すべてが開示される可能性を得る。』

(上掲書P176から引用)

 

さて、上掲書P38からの引用で、先にクンダリニー・ヨーガで絶対実在(ニルヴァーナ)に至るとあるが、クンダリニー・ヨーガでは、ニルヴァーナに到達した場合、その後も生きることが想定されていないので、“ニルヴァーナ”に至って終わる。引き続き只管打坐が書かれているのは、禅では、十牛図のとおり、ニルヴァーナ到達後も生存することが想定されているが、その場合は、“色是色空是空”が生きる姿になる(鳥飛んで鳥の如し(道元/坐禅箴))。

『クンダリニー・ヨーギが、究極の解脱を果たしても、なお肉体を捨てないで地上を生きる場合、クンダリニー・ヨーガは、禅となって完熟する。』

(上掲書P157から引用)

(クンダリニー・ヨーギOSHOバグワンが晩年禅宣言をやった消息である。)

 

ここで改めて、ダンテス・ダイジのなにもかもなしを挙げる。

『三神歌

 

われもなくうつし世もなくなにもかも

夢の中なる夢のたわむれ

 

われもなくうつし世もなくなにもかも

神の中なる神のあらわれ

 

われもなくうつし世もなくなにもなく

なにもかもなしなにもかもなし』

(上掲書P186から引用)

 

以上のようにダンテス・ダイジのニルヴァーナの見方を知的理解のために上げてみたが、そんなことはどこ吹く風である。

『ところで

ニルヴァーナの概念的理解によって、

あなたが、

ニルヴァーナであることに気づくはずはないのだから、

私は空間的進化の概念についてだけ、

狂言すればよい。』

(上掲書p189から引用)

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ニルヴァーナ、なにもかもなし

2024-05-25 03:50:58 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-1

◎ニルヴァーナ-1

◎ニルヴァーナとその実感-1

◎月もなく、太陽もなく、カイバリヤ

 

アートマンがブラフマンに突入すると、まずブラフマンにおいて、すべてのすべてが私であることに気づく。

これは、存在全体、有を知ること。

次に有から無すなわちシュンニャ(空)に移る。これをモクシャと呼んでいるようだ。

これでようやく、有と無、すなわち存在と非存在を両方クリアし完璧となる。

これでようやく、七つの次元が揃う。

 

※空という日本語は、第六身体を指す場合と第七身体を指す場合がある。

 

人間が悟りを持ってこの世を生きることについて考えていたところ、「なにもかもなし」という言葉がそこはかとなくひっかかっていた。一体、「なにもかもなし」とは、第六身体なのか、第七身体なのか。

そのせいか、ゆくりなくダンテス・ダイジがニルヴァーナと人生をどのように考えていたかがわかったように思った。

 

至道無難の道歌も一休の道歌も何もかもなしは印象的である。

 

本来もなき 古(いにしえ)の我なれば

死にゆく方も何もかもなし

一休

 

三世不可得(過去現在未来のことはわからない)

いろいろに あらはれ出ずる心かな 心のもとは 何もかもなし

至道無難

 

ドイツのゾイゼの、没我の説明。

『その一は、自我の完全な消滅で、影が消え跡形もなくなるように、事物そのものが消え失せ、もはやそこには何物もなくなるといった状態。』 (出典:ゾイゼの生涯/ゾイゼ/創文社P191-192)

 

さらに釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)で何もかもなしを敷衍する。

 

『二三

それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

 

二四

そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

 

二五

来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。

 

二六

水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

 

二七

そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、形なきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

二八

さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

 

二九

これは最上の究極であり、

無上の静けさの境地である。

一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』

(ブッダの真理の言葉 感興の言葉/中村元訳/岩波文庫P243-244から引用)

 

温泉の源泉は、ぬるすぎたり、熱すぎたりするもの。そして湯量が下流のホテルに行きわたるには少なかったりするもの。

そうした中で釈迦は、まさに源泉である。それも何千年も尽きぬ源泉。

ここに『さとりの究極』『最上の究極』という言葉が躍り、例の最終解脱という発想はこの辺から来た表現なのかもしれない。

月もなく、太陽もなく、という言葉で創造と滅亡でもなく、霊界でもなく、二元を超えた世界であることを示し、あったものが存在せず、虚空もなく、形からも形なきものからも抜けた境地は、カイバリヤ(独存)。言葉では表現できない『なにもかもなし』。

釈迦はこれをニルヴァーナと呼んだ。

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14 節制

2024-05-24 04:47:20 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-7

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-7

◎至高体験は自発的にやってくる

 

神人合一後は、聖胎長養。神仏の体験とはいえない体験は、それまでの日常感覚と行住坐臥に一致して反映させるには、あまりにもショックが大きい。そこで節制となる。

 

ただし、神人合一でなく、見仏見神見性などの一瞥体験をしたとしても悪人になる可能性があることは、至道無難が指摘しているところ。

 

聖胎長養は悟後の修行と言われるが、悟後の修行の必要性については、ケン・ウィルバーが次のように説明している。

『至高体験がたいてい短時間しか持続しないのに対して--数分から数時間--高原体験はより不変的かつ持続的であり、永続する適応に隣接している。

至高体験はたいてい自発的にやってくるので、それを持続させ、至高から高原に--短時間の変性状態から持続する特性に--変化させるためには長期にわたる実践が必要となる。

ほとんど誰にでも、どんな時でも、どんな年齢でも短時間の至高体験を得ることができるのに対して、私は高原体験の真正の事例において数年にわたる霊的実践を継続していない事例を知らない。』

(ワン・テイスト(1997年11月)/ケン・ウィルバー/コスモスライブラリーから引用)

 

ソーマ・ヨーガのドン・ファン・マトゥスもそれと思われることを言っている。

ドン・ファン・マトゥスは、思考停止において人間は特殊な意識状態で活動できるのだが、これを内的沈黙と呼んだ。これを世界を止めるとも呼ぶ。内的沈黙は蓄積されるのだが、そのような内的沈黙の活動がスタートするには、修行者は破壊点を必要とする。破壊点の後、神と共に生きる形に世界は再構成される印象がある。この「内的沈黙は蓄積される」とは、いかにも聖胎長養を思わせる言葉である。

 

絵柄は、濃厚な大悟覚醒というワインを水で薄めている図。治癒、和解、調整、節制のイメージと言えばわかったような気になるが、その時期の人物を外から見れば、何だかぶらぶらしているようにしか見えない。

 

たとえば京都大徳寺の宗峰妙超は、鍵束をガチャリと置く音で大悟した後、7年間鴨川の乞食の群れに身を投じ、乞食生活をやった。この悟後の乞食生活が、聖胎長養。

 

夢窓国師は、常州の臼庭(北茨城市)の小庵で、五月の末、庭前の木の下で一日坐禅をして、夜も更けたので、疲れて庵に上がって来た。

そこで壁のないところを壁と思って、ふと身をもたれかけたら倒れた。そこで大悟して、思わず失笑した。

臼庭には10月までいて、鎌倉に行き仏国国師に悟ったことを認められた。この5か月が聖胎長養だろう。

 

1652年3月、盤珪禅師は、長崎の道者超元禅師に参じていたが、坐禅中に豁然(かつねん)と大悟した。その後約一年ほどは、聖胎長養をしている。

 

節制、すなわち聖胎長養は、見神後どのようにその体験を定着化させるかという努力なのだと思う。

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