アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

不死の薬を飲みそこねる

2024-08-01 03:31:29 | 無限の見方・無限の可能性

◎羿(げい)と楚王

 

中国には、長生術というのがある。もののあはれが染みついた日本人は、長生きしても寝たきりになったり介護されるのはたまらないので、長寿もそこそこにと思うのも人情である。だから中国人が長生術と言って専ら寿命の長いのをよしとするのは奇妙なことだと思う日本人は少なくないだろう。

ところが中国でいう長生は、意外にも不死のことなのである。

 

『羿(げい)が、死をつかさどる神である西王母に不死の薬をねだってもらい受けた。ところがある日、妻の嫦娥(こうが)が不死の薬を盗み出して、早速服用して飛昇成仙し、月に逃亡した。これを知った羿は追いかけるでもなく、ただがっかりして茫然自失し、がっかりして死を待つばかりとなった。』(「淮南子」「覧冥訓」)。

月というのは、異世界ということを強調するもので、西洋オカルト本で金星人とか火星人とか木星人が単に異世界であることを強調するのに力点があるのと同じ。霊界、天国止まりではあるまい。

 

似た故事がある。

『春秋戦国の末期、さる客人が楚王に不死の薬を献上した。 取次ぎの役人がそれを持 って奥に入っていくと、宿衛の士が「食べてもいいですか?」ときいたので、「いいです。」と答えると、宿衛の士は、奪い取って食べてしまった。王は非常に立腹し、その宿衛の士を殺させようとしたが、王に弁解するには、

「私は取次ぎ役が食べてもいいというので食べました。

もしこの不死の薬を食べた私が殺されるのであれば、客人の献上したのは、実は死の薬であったことになる。そうなると客人は王をだましたことになる。

楚王が客人に騙されたという外聞の悪いニュースが公表されるよりは、私を許した方がよい。」

楚王はそれを聞くと殺すのをやめた。』

(韓非子/「説林(上)」)

 

不死の薬は、ソーマのこと。

死においては、財産も名誉も家族も愛人も人間関係もすべて喪失する。不死の薬を服用できさえすれば、そのリスクを永遠に回避できると、持てる者は思う。

持てる者とは、天国をベストとする考え方なのだと思うが、天国は天人五衰であり、結局永続するものではない。

財産も名誉も家族も愛人も人間関係も不変の生活は、実は退屈きわまりないものであり、それは真の幸福、永劫不壊の歓喜とは異なるものなのではないだろうか。

既にこの世の世俗面での充実というものが何かを知っている楚王は、そこに気がついていたのだろうし、羿の妻の嫦娥は、ソーマを服用して飛昇成仙という名の大悟覚醒を遂げたのだと思う。

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明星の謎

2024-04-02 05:49:28 | 無限の見方・無限の可能性

◎神とは、絶対の未知自身だ

 

明星を見て、悟りを表現しているケースが、釈迦空海、クリシュナムルティとある。

 

ダンテス・ダイジのアメジスト・タブレット・プロローグの一節で、呼吸停止、心拍停止を経て、自意識が頭頂から半球状に出た状態で、上方を見ると、はるかかなたに透明なる光の光源(中心太陽central sun)を望見するシーンが出てくる。これは文字通りなら見神。だが、三者ともその際見神体験に止まったかどうかは、別の問題であって、語ったり、書くことを許されなかったかもしれない。

 

ババジの書籍の挿絵でババジの両目が三白眼になり上方を向いている意味もひょっとしたらそういうことかもしれない。

 

『クンダリニー・ヨーガによろうと、ニア・デス体験によろうと、

君は、今、肉体死を経験しつつある。

 

全世界は、未知と化し、

君自身さえも、まったく未知にいる。

肉体という枠は、冷たく硬くなり消滅している。

目覚めよ、知覚を鋭敏にするのだ!

純粋意識自身に、目覚めよ。

 

君自身という純粋知覚は、頭部から半球状に突出している。

彼方の光源に向って、三本の白銀色のコードを、下方の輝く球体 (チャクラ) から、一つずつはずしていくのだ。

もし、君が、六個の輝く球体(チャクラ)から、光り輝くコードを純粋知覚なる頭頂の透明球へ引き上げることができれば、未知は、至高の解放として、透明球である君自身の上方に、光り輝いている。

 

透明なる光の光源に向って飛翔せよ!

今や、未知は、君自身の至上の故郷へと変容している。

神とは、無限の彼方の光源自身だ。

目覚めよ!ジャンプせよ!

君自身が、遠い昔に出て来た発出源へ、今や帰る刹那が来ているのだ。

神とは、絶対の未知自身だ。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP121-122から引用)

 

三本の白銀色のコード:スシュムナー、イダー、ピンガラー。

なお、このシーンは、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」のP97付近のイラストで説明されている部分である。

またニア・デス(臨死体験)で見神するケースは稀であり、ほとんどが見神しないようだ。

空海は明星が口に飛び込んだと言うが、それはサハスラーラの開口のことだろうか?

 

虚空蔵菩薩求聞持法に明星を拝む手番がある。

 

※20世紀の聖者クリシュナムルティ。

『勧められるままに木の下に行き、私はそこで座禅を組んだ。そのようにしていると、私は自分が肉体を離れ出るのを感じた。私は若葉の下に坐っている自分を見た。私の身体は東を向いていた。私 の前には自分の肉体があり、頭上にはきらきらと輝く美しい「星」が見えた。』

(クリシュナムルティの世界/大野純一P73から引用)

脱身したが、頭上に星を見たというのは微妙なシチュエイションではある。

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蛸壺やはかなき夢を夏の月

2023-08-10 06:56:49 | 無限の見方・無限の可能性

◎入ったら中は広いが、邯鄲の夢のようなものかもしれない

 

芭蕉晩年の五句。

『嵐山藪の茂りや風の筋』

(嵯峨日記)

嵐山のふもとにかけて風が渡り筋ができている。その視点の在り処よ。

 

『うきわれをさびしがらせよ閑古鳥』

(嵯峨日記)

閑古鳥を一人で聞くのはそれだけでも寂しいが、静寂の中、愁いに一人沈む自分には、閑古鳥を聞かせてもらった方がましである。

(悟った人でも気分の上下はある)

 

『宿かして名をなのらする時雨哉』

(小文庫)

時雨が降ってきたので、名乗って一夜の宿を借りることになった。時雨の機縁によるおもてなしはありがたいことだ。

 

『ともかくもならでは雪のかれお花』

(雪の尾花)

長い漂泊の旅の末に枯れ尾花のような野垂れ死に寸前の様子だが、ともかくも生きている。

 

『蛸壺やはかなき夢を夏の月』

(猿蓑)

明石の浦に旅寝して、蛸壺にはまった気分で夢を見る。人生で『はまる』『はめられる』シーンはあるものだ。それはある意味で人為ではない、自分では動かすことのできない大きなカルマの重さを感じさせられるシーンである。壺中天は入ったら中は広いが、それは、蛸が蛸壺で見る夢のようなものかもしれないのだ。邯鄲の夢、黄粱一炊の夢

 

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鏡の前のストリッパーの踊り

2023-07-28 06:38:13 | 無限の見方・無限の可能性

◎カルロス・カスタネダの記憶すべき出来事

 

カルロス・カスタネダは、ずっと貧しかった。学生の時もそうだった。彼は二度の同棲経験があるが、その同棲の時期も金は主に同棲相手が出していた。求道者は、往々にしてそんな人生になることがある。

 

師のドン・ファン・マトゥスに命じられ、カルロス・カスタネダは、無数の出来事のうちで記憶すべき出来事として“鏡の前の踊り”を思い出せる限り克明に思い出し、語ることになった。

 

カルロス・カスタネダがイタリアの美術学校で彫刻を学んでいる時に、あるスコットランド人と親友になった。そのスコットランド人エディーは専門が美術批評だが、その土地の売春婦一人一人について実に詳しく知っていた。ある日エディーが、売春宿でえらく奇妙な体験をしたので、彼が金を出してくれるということで、カスタネダも体験しに行くことになった。

それは、鏡の前の踊りである。

薄汚いおんぼろの建物の前に、二人の

うさんくさい黒髭の男が立っていた。エディーとカスタネダは、階段を二つ上がって112号室に入ると、マダム・ルドミラがいた。

彼女は、背が低く肉付きがよく、白茶けたブロンドの髪で、赤いシルクのローブをまとっていた。年の頃は40代後半か。エディーは、部屋を去ってカスタネダだけになった。

マダム・ルドミラが“鏡の前の踊り”を見たいかと訊いてきたので、カスタネダはうなづくと、彼女は“鏡の前の踊り”は前戯にすぎず、気持ちが高ぶってきて、あっちがその気になったら、やめるように言ってちょうだいと言い、それから先は隣室のベッドで行われることを示唆した。

二人は、暗くて薄気味悪い小さな電球に照らされた部屋に入り、彼女は蓄音機でサーカスの行進曲のような悩まし気な曲をかけた。そこで二台の大型衣装ダンスの両開きの扉を開けると、中には全身を映す大きな鏡がついていた。

マダム・ルドミラは、赤いローブを落とした。肌は白く、大部分が張りがあったが、腹が少々たるみ、豊かな胸も垂れていた。顔もあごやほほのあたりにたるみがある。鼻は低く、唇を真っ赤に塗って黒いマスカラをつけている。それでもどこかあどけなさ、少女みたいな自由奔放さと信じやすさと優しさがあった。

カスタネダは、既に深く心を揺さぶられた。

 

マダム・ルドミラは音楽に合わせ、片足を高く蹴り上げ、次に反対の足を上げ、独楽のようにくるくる回り、「お尻、お尻」と言って、裸の尻をカスタネダに向けてカンカンのように踊った。これを彼女は何回も繰り返した。

カスタネダは、彼女が旋回しながら遠ざかりどんどん小さくなっていくと感じた。ふと絶望感と孤独感が心の奥底から浮かび上がり、カスタネダは、椅子から立ち上がって部屋を出て狂ったように階段を駆け下り外に出たのだった。

 

ドン・ファンは、このエピソードについて、あらゆる人間の心の琴線に触れるとし、われわれは老いも若きも誰もが“鏡の前の踊り”を踊っているのだと解説している。『彼らがどんな人間であろうと、あるいは彼らが自分をどう考えていようと、さらにはまた彼らが何をしようと、彼らの行為の結果はつねに同じだということが明確に理解できるだろう。そう、鏡の前の無意味な踊りだということがな』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房P43から引用)

 

“鏡の前の踊り”で、プラトンの国家7巻の洞窟の影絵を思い出す人もいるかもしれないし、空性の悟りを思う人もいるかもしれないし、色即是空を思う人もいるかもしれない。私は、閻魔大王が用いるというその人の人生すべてを映し出す浄玻璃鏡を思うのだ。

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エゴをなくし思考を停止すると落下が起こる

2023-07-06 06:34:03 | 無限の見方・無限の可能性

◎感じることを大事にし、思考を断ち、私性に直面

 

世界は、君のために存在しているわけでなく、君がいようといまいと何の変りもない。ところが君は自分のことを重要だと思っている。それがエゴ。

そんなわけで、エゴはこの世で最大の嘘であり、あり得ない。真実はエゴを決してサポートせず、直接コンタクトが起きれば、真実はエゴを常に破壊する。真実はその際ショックとして現れる。それは真実に出会う都度繰り返される。

それが嫌さに、君はだんだん真実を直視しなくなる。こうして君は真実とかかわらなくて済むように、自分の周りに自分でこしらえた偽りの世界を作り、そこに住む。その間、真実は常に恐ろしいものとしてあり続ける。

 

エゴは、君が起きている時と浅い眠りの時に存在し、深い眠りに入った時はエゴはない。それが、エゴが実在しない証拠。

エゴは、真実あるいは神に到達しようとするが、エゴは、真実あるいは神に到達することは不可能である。

「私は神を達成した」という発言は、エゴである私は神を達成したということだろうが、私というエゴが残っている限り、それはありえない。

 

OSHOバグワンによれば、チベットでは、まず沈黙する。次に私というエゴはどこにいるか探求する。探求が極まれば、ある単純な存在(私性)が起こる。

曰く、感じることを大事にし、思考を断ち、私性に直面することで、私性が存在しないとわかる。私性は、直面すれば消え失せる。

これは自分が死ぬことであり、大変な恐怖だ。

この私性が消え失せるシーンについて、OSHOバグワンは、『つまり「私」が消え去っていき、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。何か沈んでいくような感覚がある――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P273から引用)

 

彼は、私性が消えた後、死と等しくなり、新たなもの、若く、手つかずの最古の処女性、「我」が現れると言う。

既に思考もエゴもなく、隙間が現れ、この「我」は、あなたと私を含み、一切を包含したものであり、「私は神だ」とわかる由。

平常の活動時間帯は、人は視覚・聴覚・触覚・思考という外側の器官で、自分を確認できる。思考が止まった後は、それら感覚・思考は使えないので、意識・知性という内側の器官で自分を確認できる。

これは、死のプロセスで、自分が死んだことを自分が認識するまでは、やや時間がかかることで想像がつく(チベット死者の書)。肉体が死ねば、自分を確認するのに感覚は使えなくなるからだ。

以上参照:ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P246-277

 

我とか、私性とか似たような言葉が並び、わかりにくいかもしれない。要するにエゴがなくなり、思考がなくなれば、第六身体アートマンなる神となるということ。

面白いと思ったのは、『自分に死が起こりつつあるように感じる。何か沈んでいくような感覚がある――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・。』の部分。これが身心脱落なのだろうか。クンダリーニ上昇では、『上昇』なのに、ここでは落下が起きるという。

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あるものはあるという見方だが、幸福ではない

2023-07-04 03:44:51 | 無限の見方・無限の可能性

◎容赦なく、苛酷で、世知辛い

 

お国ぶりで、宗教戒律や道徳律の規制の厳しい国では、現実にはあるものでもあってはならないという建前を優先し、まるでないかの如く行われる国がある。それは、キリスト教をバックボーンとする近代西欧文明国全般に見られる特徴である。

これに対して、あってはならないかもしれないが、どんな醜悪で、不道徳で、俗悪なものであっても、あるものはあるという見方をとる国がある。それは中国が代表的である。

中国では、民衆も指導者もそのような見方をしているからと言って、それが究極の幸福により近いといえば、必ずしもそうではない。

 

ジョン・ブロフェルドが、北京在住の満洲族の道教の栄道士に世界の見方を問うた。

『平静さが音楽や感情への最善のアプローチであるとすれば、概念に関連する問題の場合にはそれがもっと評価されてしかるべきである。私のように皇帝独裁体制下で大きくなった若者は、人民政府という観念に大喜びした。後年、悪漢一味が権力を握ると、いまは亡き皇帝の慈悲を涙とともに思い返すのだ。私は覚えきれないほどたくさんの革命と戦争を経験してきたから、自信を 持ってこう言うのだ。

「事物が本来あるがままの姿とは異なったものであってほしいと思うのは、不必要に自分を苦しめる結果になる。私は七十四歳のこの年になっても、あの六年そこそこの幸福だった時期を回顧 できる。その時期は、日本軍の中国占領という暗黒時代に始まった。暴虐と死が横行し、短くもあれば長くもあった混乱の時代で、私はずっとそれを憎悪していた。

「しかし、あるとき突然、悟りをひらき、心の束縛から解き放たれた。善悪は一枚の硬貨の両面の名称にすぎず、両方ともに受け入れるか、ともに拒絶するかのどちらかでなくてはならない、という悟りである。

「一瞬にして、私は生涯の病――つまり範疇の病である――-から回復した。我々の苦痛の大半は、あれやこれやのものに望ましいとか憎らしいとかのレッテルを貼ることから派生している、という認識によって、この病が癒されたのである。

「人間にもともと備わっているこれらの苦痛や悲痛は、たとえレッテルをはがしても、依然としてそのままに存続する。だが、いったん我々が現実的であろうと決心し、現在または将来そこに存在するものを、そうであるべきはずのものの一部として受け入れると、たちまちにして悲痛は 悲痛でなくなるのだ。」』

(道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P340-341から引用)

 

人は本来、善に生き、天国的に生きるべきである。

ところが幼少からネガティブな環境に育つと、なかなか天国的に生きる気分にはなりにくい。一般に、長じていろいろ理不尽な事、不条理でつらい目にあうことを繰り返していくうちに、世の中には地獄的なものもあるものだと気がつく。

世の中には、天国的なものも地獄的なものも存在しているが、それを表立って認める社会と認めない社会がある。中国は認める社会であって、あるものはあるのだと認める4千年の歴史である。

栄道士には、あるものはあると認める率直さはあるが、その目は外部に向けられている。あるものはあると認めることが知性で行われているようである。だが、その目が自分に向けられていれば、このようにすまして訳知りには語れないのではないかと思う。

また今の中国に見るように社会全体があるものはあると認める社会は、容赦のないものであって、苛酷な社会である。世知辛いのだ。

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賢者の薔薇園に鍵も持たずに入ろうとする者は

2023-07-02 07:20:36 | 無限の見方・無限の可能性

◎脚なしに歩みを進めようとする者に等しい

西洋錬金術書、逃げるアタランタXXVIIから。
『賢者の薔薇園に鍵も持たずに入ろうとする者は、 
脚なしに歩みを進めようとする者に等しい。 

【寸鉄詩】 
賢者の薔薇園にはさまざまな花が咲き乱れている。 しかしその扉は堅牢な錠前で閉じられたまま。 
その唯一の鍵はこの世では蔑されるもの、 
これを持たぬ者は脚なしに道を行こうとするようなもの。 
パルナソスの高みを前に、 
やっとのことで立ちつくすばかり。

【論議】
エリクトニウスはヴルカヌスが叡知の女神パラスを襲った折に大地に播いたその種子から生まれたとい い、その足は人のものではなく蛇のようだったという。パラスの援けなしに、ただヴルカヌスだけを恃みとして生じたもの、脚がなく、自ら糧を探すことができない無用なものとして堕胎された子らはこれに似ている。四足獣のように手と足で這う者をみるのは辛いが、さらにまったく脚なしに腕でにじり寄る者をみるのはさらに哀れを催す。蛆や蛇が進むような状態に戻されたように見えるから。実際、脚なしに歩むことができないのは、目なしに見ることができず、手なしに触れることができないのと同じ。医術にも、実践にかかわる諸他の業同様にそれを支える両脚があり、それが体験と道理づけである。どちらか一方が 欠けると業は不完全で不安定となり、その規定(処方)も伝統も完全とはならず、目的を遂げることもできない。
 
変成術はなにより二つのもの(それにとっての脚に相当する)を歓ぶ。一つは鍵、もう一つは錠前。これらによってすべての壁面を塞がれた賢者の薔薇園は開き、そこに入る者に入庭を保証する。これらのいずれ か一方が欠けるなら、そこに入ろうとする者は兎を追い越そうとして足を痛める者のようなもの。生け垣と囲いで完全に閉じられた庭に鍵なしに忍び入ろうとする者は、夜陰に紛れて薔薇園に入りこみ、何が芽吹いているかも識別できず、盗もうと思う善財を悦ぶことのできぬ盗人のようなものである。

じつのところ、鍵はたいへん卑しいもので、諸章で石と称されてきたものであるが、これはロードスの根であり、これなしにはなにも芽吹くこともなく、若枝も膨らまず、薔薇も花咲かず、数知れぬ花弁を拡げることもない。
 
しかしこの鍵はどこで見つかるのかと問う者もあろう。これには託言をもって答えておこう。それはオ レステスの骨が見つかるところで見つかるだろう、と。それは、「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」。あるいは、ルカが解説するところによれば、鋳掛屋の工房内に。託言の語法では、風は鞴をあらわしており、毀つものは金槌、衝撃を撥ね返すのは鉄床、また人々を破壊するとは鉄を意図している。 

探索者は、慎重に星座を識別しつつ算えるなら、この鍵を獣帯の北半球に、錠前を南半球に見つけるだろう。これを手に入れることができれば、扉を開け、中に入ることは容易い。』
(逃げるアタランタ/M・マイアー/八坂書房P244-247から引用)

賢者の薔薇園とは、大悟覚醒のこと。西洋錬金術には、さる冥想法がある。冥想技法を行うには、その技法が何を狙って何を意味するかを理解した上で、師の教えるとおりの冥想を行わねばならない。
これにおいて冥想法だけでは足なしと表現され、これが文中の『体験』である。また、知的理解が『道理づけ』である。

足なしは、しばしば起こることは起こったがそれが何を意味するか本人にはわからなかったというもったいない事例として出てくる場合がある。

『鍵』は知的理解、『錠前』は冥想法。『鍵』はそれまでの一切の固定観念、世界観を全く逆転するものであるから、『「毀ち、衝撃を撥ね返し、人々を破壊する風とともに見つかるだろう」』という表現になる。タロットの吊るされた男。

鍵は、賢者の石であって卑しいと言うのは、価値観の逆転後での表現。精神的なものにこそ価値があると見る世界観にあって、初めて賢者の石の価値が高いものとわかる。このカネ至上の人々の多い時代には、賢者の石は卑しく見える無用の長物。無用の用。

北半球は、世俗の部分。南半球は、精神的部分。

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道教の三つのレベル

2023-06-30 03:54:16 | 無限の見方・無限の可能性

◎ジョン・ブロフェルドの事績

 

ジョン・ブロフェルドは、日中戦争の最中に7年間中国大陸を放浪して後、母校ケンブリッジ大学に戻り道教・仏教の研究者になった。当時は、道教の地位低下は既に著しかったが、彼の出会ったさびれた道観の道士は、どうも道を承知していたらしい気配がある。

 

その道観の道士談。

『「あなたが友人の卞道士から見せてもらった『参同契』などの、錬丹術に関する解説書は、よく次の三つのレベルに関連していると解釈されます。

「第一が、丹砂と鉛を不老不死の奇蹟の霊薬に錬成すること。

第二が、自分の身体内のるつぼに黄金の秘薬もしくは胎児ともいうべきものを作り出し、これで年齢と死を克服すること。

そして第三が、性交から得られる成分にもとづいた、やはり内丹の一形態。

 

「このうち第二、第三は、『道』に根ざした同様の原理によって支配されており、政治活動、軍事戦略、個人的なレベルでの平和の達成にも適用できます。というのも、ことの大小にかかわらず、これらはすべて同じパターンやリズムに従って機能するものであるからです。

「わが中国の不思議な古典、『易経』("変化の書"の意)は、まさしくこの基礎の上に立脚して います。つまり、未来は――といっても、特定されているわけではありませんが、――一連の出来事を、未来が所属しているサイクルに関連づけることによって占うことができる、と見るわけです。』

(道教の神秘と魔術/ジョン・ブロフェルド/ABC出版P259-260から引用)

 

第一のレベルは、外丹。西洋錬金術でいう賢者の石。

第二のレベルは、内丹。

第三のレベルは、男女双修、房中術、カーマ・ヨーガ。

 

道経の経典は、無数にあるが、多くは以上の三つのレベルが区分されず混然となっていたり、究極を得ていない段階の修行者が書き残したものであったり、またそれにより間違いを書いていたりということがあるのだろうと思う。それはやはり無数にある西洋錬金術書も事情は似たり寄ったりであって、信頼するに足るテキストは、道教においても西洋錬金術においても極く一握りなのだろうと思う。

 

この道士は、その混乱ぶりを指摘し、真相が那辺にあるかをわかっているところが凄い。ブロフェルド自身の境涯もいい線行ってないとこういう話は引き出せない。

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なにもかもなしとすべてのすべて

2023-04-27 06:30:05 | 無限の見方・無限の可能性

◎アートマンとブラフマン

 

アートマンであるすべてのすべてと、ブラフマンあるいはニルヴァーナのなにもかもなしの関係性は、論理的にぶっ飛んでいるので理解を越えている。

 

以下はOSHOバグワンの説明。

『人間には二種類ある。 一方は、否定性に何の親近感も持てない。他方は、肯定性に何の親近感も持てない。 ブッダは否定的な部類だった。肯定性には何の親近感も持てず、否定性に親近感を持つ。それですべてに否定的な用語を使う。

シャンカラは否定性に何の親近感も持てない。それで彼は、究極の真実を肯定的な用語で呼ぶ。どちらも同じことを言っている。 ブッダはそれを、「シュンニャ」と呼び、シャンカラは「ブラフマン」と呼んでいる。ブッダは「空」、「無」と呼び、シャンカラは「絶対」、「すべて」と呼ぶ。どちらもまったく同じことを言っている。

 

シャンカラ批判の急先鋒のひとりに、 ラマヌジャという人がいた。そのラマヌジャいわく、「シャンカラは隠れた仏教徒だ。彼のヒンドゥー教は見せかけで、実際はそうでない。肯定的な用語を使うせいで、ヒンドゥー教徒に見えるだけだ。ブッダが無と言うところを、彼はブラフマンと言う。それ以外はみな同じだ」。ラマヌジャによれば、シャンカラはヒンドゥー教の大破壊者だ。詭計(トリック)を使って、裏口から仏教を招じ入れている――否定的な用語の代わりに肯定的な用語を使っているだけだ。 ラマヌジャはシャンカラのことを、「プラチャナ・ボーダ」つまり「隠れ仏教徒」 と呼ぶ。それにも一理ある。たしかに何の違いもない。言わんとしていることは同じだ。

 

だからそれは人による。 沈黙や無に親近感を持つ人は、その「大存在」を「空」と呼べばいい。また、それに恐怖を感じる人は、その「空」を「大存在」と呼べばいい。それによって技法も変 わってくる。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHO P297-298から引用)

 

釈迦的な行き方は、諸行無常と諸法無我とどうしてもネクラな厭世観からスタートする。だが、釈迦の行法は、禅の只管打坐あり、公案禅のジュニャーナ・ヨーガあり、密教の入我我入あり、念仏あり、お題目ありと大体のメニューは揃っている。そしていきつくところは、シュンニャ、無。

一方シャンカラは、不二一元論であって、アートマンとブラフマンは同じだと言っているが、実在するというニュアンスに重きを置く。

 

このようにOSHOバグワンは、肯定性たるすべてのすべて=アートマンも否定性たるなにもかもなし=ブラフマンも同じだとするが、それは哲学ではなく、実際の「体験ではない体験」なのである。

 

その点の説明として、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』にアートマンがブラフマンに進むイラストがあるが、これこそ何千年の聖者、求道者間の議論に解決をもたらした空前絶後の秘密の開示であったと言える。

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西洋錬金術の道具立て

2023-04-17 06:11:20 | 無限の見方・無限の可能性

◎見ている自分が残る

 

ユング派の著作を見ると、ユング同様に錬金術書、カバラ、グノーシスの著作の断片が多数登場し、それを再構成する能力と洞察には驚かされる。

 

西洋錬金術と道教の外丹は似ているというのは、昔から言われてきた。道教の側が、関係文書を道蔵や蔵外道書などで集大成したことがあり、道教の外丹感を想像することができるようになっている。平たく言えば、似たような文献が多いが、実際に悟りまでたどりつけた人間がさほど多くはないのではないかと思われる。

 

西洋錬金術からカバラ関連も、事情はおそらく同じであって、挿絵入りの立派な文献であってすら、実際に大悟にまで至った人間の手になるものは多くはないのではないかと思う。

 

一方で、悟りを開いた人間は、そのプロセスを語りたがるという法則があり、文献に残すかどうかは別にして、旧知や弟子に話はしているのだろうと思うがその旧知や弟子がちゃんと理解できているかどうかは別のこと。

 

さらに西洋錬金術と道教の外丹・内丹のように広義の密教系、クンダリーニ・ヨーガ系経典では、肝心のところは文字にしない伝統がある。また文字にしたとしても、俗人や門外漢には絶対にわからないように書いている。

 

チベット密教の究竟次第は明かされていないし、秘密集会文献には精液、経血などがばんばん登場、さらにダライラマは、一つの言葉が3つも4つもの意味で登場するのが普通であると述べている。同様に西洋錬金術の用語辞書みたいなのを見ると、一つの言葉が3つも4つもの意味で登場してきている。

 

その意味を同定するには、自分が悟りを開かねばならないが、他の読者、研究者が悟りを開いていることは稀である。よって真義は伝わりにくい。

 

そうした中で、西洋錬金術の基本線について感じていることは、次のようなことになる。

 

1.錬金術の素材のプリマ・マテリアは、宇宙はただ一つの物質からできているという説明から、第六身体アートマンである。

 

2.その下に四大元素地水火風がある。第五元素を立てる者もいる。

 

3.七金属は七チャクラに照応する。

金:サハスラーラ(太陽)

銀:アジナー(月)

水銀:ヴィシュダ(水星)

錫:アナハタ(木星)

鉛:マニピュラ(土星)

銅:スワジスターナ(金星)

鉄:ムラダーラ(火星)

 これは上から順にならべてみた。

 

4.賢者の石とは、大悟覚醒のことだが、それに至る三段階は、次のとおり。

(1)黒化(ニグレド):影(本来の自己)との出会いの苦しみ

(2)白化(アルベド):影からの解放。天国化。

(3)赤化(ルベド):天国と地獄の結婚、二元対立の解消。賢者の石の完成。

 

三段階を全体として見れば、見神と神人合一が区別されていないのは、どういうつもりなのだろうか。それこそ異端の烙印を押されかねなかったということか。

 

挿絵は錬金術書『太陽の光輝』の22枚目最終図(出典:wikipedia)だが、見ている自分が残っている。

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痛みの退行

2023-04-07 06:49:06 | 無限の見方・無限の可能性

◎諸感覚の扉を閉じる

 

臨死体験ものを読むと、ひどい交通事故などで重傷を負った人が、気がついたら病室の上方から痛みも感じずに、自分の身体を見ている描写がよく出てくる。

 

OSHOバグワンの高齢の友人が階段から落ち、三か月の安静が必要とされ、毎日鎮痛剤なしでは眠れないほど痛みに苦しんでいた。そこでOSHOバグワンが彼に、「自分がただの石だ、石像だと思い込んでみなさい」と示唆した。

 

友人は、それを始めて30分間目を開けなかった。そして、この30分間自分の手足やら肉体を動かそうとしても動かせなかったのだが、そんなあらゆる動きが止んだ時、突然世界が消えうせ、自分は自分の奥深くに居て、痛みはすべて消えうせた。(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(1瞑想)OSHO P307-309)

 

さらに、ダンテス・ダイジがさる事故でひどいやけどになった際に救急車で運ばれたことがあった。その際救急車内で、意識を肉体から後退させ痛みを感じないようにして、救急車の隊員に、「薬を塗ったりなどの手当てをする必要はありません。」と求めた。

救急隊員は、「仕事ですので、少しは薬を塗らせて下さい。」と求められたので、ダンテス・ダイジは、手首のところだけに薬を塗らせた。

ところがその結果、手首のところだけが残念ながらケロイドになってしまった。

ダンテス・ダイジは、このやけどを機に顔を作り替えて、前よりいい男になったと言っている。

 

昨今、鎮痛剤を常用する人も多いのだろうと思う。医療、薬剤のない危急のシチュエイションでは、このように、肉体から意識を退行させ、痛みを感じさせない技法がある。もちろんこれは、自意識が肉体ではないとわかっている人だけが可能であって、誰もができるわけではない。

 

またOSHOバグワンは、この技法のことを『諸感覚の扉を閉じる』と称し、諸感覚の扉を閉じれば、その時世界が閉じきることで、ニルヴァーナが起きるとする。

 

痛みに苦しむ自分は、いったいどこにいるのだろうか。

 

禅僧白隠は、禅病を軟酥の観で快癒させて喜んでいたが、ダンテス・ダイジはこの点を捉えて、白隠に対する評価は低いところがあるように思う。

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悟りから見た人間の4分類

2023-04-06 06:37:59 | 無限の見方・無限の可能性

◎昇りきった龍は落ちるしかない

 

悟りから見た人間の分類は、人によっていろいろな語られ方がある。OSHOバグワンは、おそらく最も機能的に誰でもわかるように四区分している。

それは、こうだ。

 

  1. 固定的な自己イメージをしっかり持っている正常人。自分の自己イメージにしがみついている人。彼らは自分が誰であるかを知っている。

 

  1. 流動的な自己イメージを持っている人間。詩人、芸術家、画家、歌手など。彼らは自分が誰であるかを知らない。時には正常で、時には気ちがいになり、時には釈迦の聖なるエクスタシーにも触れる。

 

  1. ずっと狂ったままの人間。自分自身から逸脱し、決して自分の家(中心)に戻ってこない。家を持っていることさえ覚えていない。

 

  1. 自分自身に中心があり、自分のあるがままに安らいでいる人間。何かになろうとはしない人間。釈迦、イエス、クリシュナなどの聖者。

 

どうしてそんな区分になるか。軸として自己イメージの有無と「自分が何かを得たり何かになったりしようとする欲望」の二軸がある。

「自分が何かを得たり何かになったりしようとする欲望」とは、人は、ある欲しかったものを得た途端に他を欲しがるからこと。あるいはまた、自分がAになった瞬間に今度はBになりたいと思うこと。

 

この4区分においては、狂人を除く三者には、自己イメージ(存在、being)がある。そして聖者を除く三者には、何かになろうとする欲望(becoming)がある。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(1瞑想)OSHO P279-285)

 

さらに欲望の満足に終わりはないが、その終わりなき欲望の満足ゲームに退屈が襲ってくる時節がある。そんな時ですら、人間には様々な倒錯や、異常なあるいはささやかな気晴らしがあるものだが、中には本当の人生を生きたいと思う人もいる。そこに聖者あるいは神仏に向けた突破口がある。

 

またこれは、危急の際に、人間心理の奥底が露わになり、いわゆる隙間が見えるのだが、その際に次にどこに向かうかが、この4区分のいずれかになるという説明においても使われる区分でもある。危急の際とは、世の終わりや最後の審判や古神道の大峠のことであり、個人的イベントとしては最愛の人との死別など「隙間」の発生し得るシチュエイションのこと。

 

広義のマインド・コントロールは、人間の欲望にまつわる心理を操作するものだが、「終わりなき欲望ゲームに退屈しきったり、飽ききったりした人」だけが、悟りに向かっていくという傾向はある。「欲望ゲームを終わらせよう」というスローガンだけで人が悟りに向かうならばこんな時代になってはいない。ネットポルノ依存、アルコール依存、ギャンブル依存、ゲーム依存などそのようなスローガンだけではどうにもならない部分がある。ここ何十年か日本の教育は、自分にあった職業や自己イメージの確立を標榜してきたところがあるが、それもそのような依存の温床になってきた部分もある。

 

ただし、欲望ゲームに本当に嫌気がささないと人はそれを終わろうとはしない。何事も極まらなければ反転しないのだ。

それは、世界平和においても同様。平和運動、平和キャンペーンで平和が来るなら苦労はない。亢龍悔いありである(昇りきった龍は落ちるしかない。転じて、極まらなければ反転しない。)。

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運命は最初から決定されているという見方

2023-04-05 07:18:45 | 無限の見方・無限の可能性

◎苦難と幸福をも越えて

 

第二次世界大戦末期にABCD包囲陣というのがあった。これは、アメリカA、イギリスB(Britain)、中国C(china)、オランダD(Dutch、蘭領のインドネシア)に、日本が包囲されていたということ。

 

大本神諭には、世界各国が日本を分捕ろうと攻め入って来る様を「末に日本をとる仕組み」と表現している。それを踏まえたのかは知らないが、いまや周辺国の中国、ロシア、北朝鮮、韓国、と軍事同盟国アメリカまでも、政治、経済、文化方面で、日本を分捕ろうと余念がない状態はようやく最近マスコミでも伝えられるようになった。

 

この他にも日本に限らず人類全体を人口激減から滅亡に至らしめようという勢力も、新規の疫病や〇〇BTや昆虫食や〇境問題解決の美名の下に世界中で活動している。

つまりいじめ撲滅、差別防止のレトリックを旗印に、男女の結婚・妊娠件数を減少させ、全体を不健康とし、貧困化させ、生きづらくさせようとする勢力が日々大手を振って大活躍している。

 

こうした状況は、学校でポジティブ思考であるべきと教えられた青少年や若い世代には、極めて理解しづらい状況ではないかと思う。この困った状況を見て、時に運命は最初から決定されているという見方に陥ることもあるかも知れない。

 

自分の個人の運命ですら、中学入試、高校入試、大学入試、就活、そして社会人になってからの成功失敗、恋愛の行く末、結婚の成否なども最初から決定されているという見方もある。日々一生懸命に生きている人もそうでない人も、その運命は最初から決定されているという見方を採る場合、人は、自分という役柄を一生かけて演じるということになる。

 

ある日、ダンテス・ダイジが最初の大悟覚醒後に、一生で出会う人物の顔を一人一人すべて見ていった。その話を聞いた弟子が、「自分の一生が最初から最後までわかるというのは、つまらないのではないか?」と訊いてきた。

ダンテス・ダイジは、「事前に知った人生を味わうということもある。」と答えた。

 

OSHOバグワンは、運命は最初から決定されているという見方は、自分が演技手あるいは人生を演じる役者だと見ることになり、それは、役者の背後に居る神を洞察させるための方便だと指摘している。(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(1瞑想)OSHO P263-271)

 

自分を人生の役者と見れば、人生はこの一回きりでも、何度も輪廻転生しようが理屈的には問題はない。だが実際のところ、苦しい人生であればあるほど、今回の一生だけで十分であって転生したいとは思わなかったりする。逆に富貴な楽な人生なら何度でも転生してやろうと思ったりする。そこには、苦痛、苦悩と快楽や幸福が入り混じり、せめぎあい、天国と地獄が目先にちらちらする。

 

そこで人生を一演技手としてみる場合、天国と地獄、苦悩と快楽を越えねばならないという直観が兆す。まともな宗教ならば必ず天国と地獄を越えたところを説くものだ。

 

つまり、運命は最初から決定されているという見方は、天国と地獄、幸福と不幸を超える生き方にたどり着くのだ。それは、やや人間的ではないと感じられる人もいるのだろうと思うが。

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人生を否定的に見る宗教の隆盛

2023-03-31 06:49:44 | 無限の見方・無限の可能性

◎肯定的な宗教、否定的な宗教、あるいは楽天的な宗教、厭世的な宗教

 

仏教とキリスト教は、代表的な生を否定的に見る宗教で、厭世的宗教。古神道は、生を肯定的に見る宗教で、楽天的な宗教。

 

OSHOバグワンは、キリスト教については明示していないが、自分を罪人と考えるから、否定的に見る宗教と考えているのだろうと思う。

 

さてOSHOバグワンは、生を肯定的に見る宗教と否定的に見る宗教の優劣について、肯定的に見る宗教の方が優るとする。

また無選択を究極と同義として使っているが、わかる人はあまり多くはないのではないか。

 

その理由は、

  1. 生を否定的に見る人間は、無選択へと飛躍できない。苦悩からジャンプするのはむずかしいが、肯定的に見る人が幸福からジャンプする方がやさしい。幸福な時の方が勇気が湧いてくるから。苦悩する時、人は臆病になり苦悩にしがみつく。

 

  1. 人は、肯定的で幸福な時に、未知の幸福にジャンプでき無選択に到達できる。逆に否定的で苦悩にある時、未知の苦悩に進むよりは既知の苦悩に居る方が楽だから、まず未知の苦悩には進まない。

 

  1. 否定的な宗教には、否定的な頭(マインド)の人が育つ。クリシュナムルティは、無選択を説くが、彼の講話を聴く聴衆は否定的な人だから理解できる人はいない。逆に肯定的な人たちは講話を聴きに来ない。否定的な頭(マインド)の人に無選択や二元性の超越や肯定性と否定性の両方を説くことには、意味がない。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(5愛の円環)OSHO P138-143)

 

このような理屈で、OSHOバグワンは、人は人生を肯定的に見ることに切り替えなければならない、とする。

 

さらに彼は、生を否定的に見る宗教の定番の地獄について、次のように誰も天国にも地獄にも入りはしないと説明する。

『不幸であるときには冒険的になれない。 冒険できるのはあなたが何となく幸福であるときだけ だ。幸福であれば、既知を去ることができる。幸福であるから、あなたは未知を恐れない。 幸福がしっかりした現実となっているので、あなたにとっては、どこにいようとも幸福が一緒だ。マインドが肯定的であれば、あなたにとっては、地獄などない。自分がどこにいようとも、天国はそこにある。それで未知の中に入れる。あなたにとっては、天国はいつも自分と一緒だ。

 

よく言われるが、人は天国か地獄に入ることになっている。これはたわごとだ。誰も天国に入りはしないし、誰も地獄に入りはしない。人は自分の地獄と天国を携えている。どこへ行くときも、自分の地獄や天国と一緒に行く。 天国や地獄は扉ではない。 荷物だ。人はそれを携えていく。』

(上掲書P139から引用)

 

またOSHOバグワンは、次のようにさりげなく、人の悟りのプロセスの大要を示す。すなわちそれは、

  1. 自分の頭(マインド)を肯定的にする。
  2. 地獄から天国へと進む。
  3. 天国からモクシャへ(天国でも地獄でもない究極)に進む。

※モクシャはニルヴァーナと同じ。

 

『幸福なとき、あなたは退屈する。それで未知へと向かう。未知は魅力的だ。無選択とは未知への扉だ。否定性から肯定性へ、肯定性から無選択へ、それがとるべき道筋だ。まず自分のマインドを肯定的にする。 地獄から天国へと進む。そして天国からモクシャへと天国でも地獄でもない究極へと進む。苦悩から至福へと進んで初めて、その両方を越えた超越へと進むことができ る。だからこそスートラは「まず自分のマインドを否定性から肯定性へと変容しなさい」と言うのだ。この変化は、焦点を変えることにほかならない。

 

生というのは、その両方か、あるいはそのどちらでもない。その両方か、あるいはそのどちらでもない! それはあなたしだいだ。あなたが生をどう見るかにかかっている。否定的なマインドで見れば、生は地獄のように見える。それは地獄ではない。あなたの解釈だ。

見方を変えて、肯定的に見てごらん。』

(上掲書P140から引用)

 

生を肯定的に見る宗教は、過去何千年世界宗教たり得なかったから、こんな時代になっているのだろう。

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荘周胡蝶の夢を見る者

2023-03-30 07:04:28 | 無限の見方・無限の可能性

◎浅い夢と深い夢の一体化

 

荘周は、胡蝶になった夢を見た。胡蝶になって飛び回るうちに荘周であることを忘れた。やがてはっと目が覚めた時、自分が荘周であることに気づいた。しかしながら、荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかはわからなかった。

 

夢の世界は二重構造になっていて、「起きて活動している時間帯の自分という夢」と、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に実は分かれているのだが、これは、この浅い夢と深い夢の区分がなくなった状態であるように思う。

 

出口王仁三郎は、モンゴルのパインタラで銃殺寸前まで行き辞世の句まで詠んだが、それ以後、生きていながらこの世とあの世の区別がつかなくなったというようなことを言っている。

 

さらにOSHOバグワンは一歩進んで、荘周がそうした夢を見るには、夢を見る者が必要だと指摘する(ヴィギャンバイラブタントラ(5愛の円環)OSHO P121)

 

この指摘は、自分が世界全体になって、荘周にも胡蝶にもなったが、荘周も胡蝶も夢まぼろしであり、世界全体も夢まぼろしであるというところで唱えている。そこで夢を見ている者の立ち位置は、夢まぼろしであるマーヤ(無明)の外にあるということであろう。

 

夢幻とは、世界全体、宇宙全体だが、それは常にニルヴァーナとセットであり、なぜそうなのかは、ウパニシャッドでは、説明なく漠然と、世界全体、宇宙全体であるアートマンは、ブラフマンとペアで出てくることでわかる。

 

OSHOバグワンは、ニルヴァーナの存在を夢見る者として遠回しに語ったのだろう。この世の夢まぼろし(マーヤ)を仮現させるものは、ニルヴァーナだが、ニルヴァーナは独立では存在し得ず、マーヤあってのニルヴァーナ。だから常にペアで出てくる。

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