アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

世界観の二重性

2022-11-28 06:55:14 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第七章】冥想に取り組む姿
4.世界観の二重性

世界観の二重性とは、悟っている人は、二重のリアリティ、二重の現実に生きているということ。

よくある間違った見方は、悟っている人は、世界のすべてや他の人間と一体なので、どんなひどいことをされても怒らないとか、衣食住が不足しても平気だとかいう見方。これでは、悟っている人は無制限な虐待にさらされることになる。悟っている人は、動物園のパンダでもパンチング・ボールでもない。

そうした甚だまずい仕儀となったのは、イエスだけでなく、イスラムのホセイン・マンスール・ハッラージなどがいる。

登山や荒れ地の旅行だとわかるが、人間は飲み水や食べ物が三日手に入らないと死んでしまうのが普通。肉体人間とは、はかないものだ。そうした物質面もさることながら、精神面ではほとんどがみじめで情けない自分を抱えながら生きている人が多いのではないだろうか。

人は一人で生まれ、一人で死んで行く。人間には現実として救済などない、と見切ったところから求道をスタートさせ、幸運にも神仏(ニルヴァーナ)という無上の至福を見たり一体化できたのが数少ない悟った人。

彼らは、みじめで情けなく無力な自分という一つの現実(リアリティ)に生きると同時に、何の問題もない至福という現実(リアリティ)も生きている。

彼ら覚者のまわりに集まって来る連中が、どうしても幸福や解脱に関心が高いので、ニルヴァーナこそ現実であるとことさらに強調されるのだが、冷静に公平に見てみれば、彼らは二重の現実(リアリティ)に生きていることに気がつくのではないだろうか。

釈迦は胃癌で死んだ、イエスは磔で死んだ、日蓮はお腹をこわして死んだ、禅の巌頭は盗賊に首を斬られて大声で悲鳴を上げて死んだ。こういうものは、すべて悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。

一休は70代になっても30代の妾と情欲に爛れた生活を送っていた。臨済は「今日の御馳走のメニューは昨日のと比べてどうだ」などとつまらないことに関心を持っていた。クリシュナムルティは禿を気にしていた。出口王仁三郎は子供が死んで大泣きした。こうしたものも、悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。

そうであっても、なにものにも傷つけられない自分があることを知っているのが悟った人。

そして、その二重の現実(リアリティ)相互には時差がある。同時には存在しないのだ。それは葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる。

わたしの見るところ、自分と全体が一致する瞬間はあるが、それに居っぱなしでは、社会生活できないので、そこから出て社会生活する。その際、自分と全体が一致することこそ真実であり真理だと承知はする。だが、『時間は、自分と全体の間の刹那にある。』換言すると自分と全体の一致から出れば、『自分と全体は分離し、そこには時間差が生じる』。時間は心理上のものなのだ。

この辺が、迷い(マーヤ、無明)なくして真理は存在しないという消息だろうか。
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冥想する気分にならなくても坐る

2022-11-27 07:09:48 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第七章】冥想に取り組む姿
◎3.冥想する気分にならなくても坐る

生きていれば、いやなことはあるものだ。だが、いやな気分や沈んだ気持ちを払拭しようとして冥想するのは、本来邪道である。例えばマントラ禅に分類される念仏やお題目を唱えて、南無阿弥陀仏になりきったり、南無妙法蓮華経に成り切ったりすれば、血行はよくなるし、気分はスッキリ爽快となる。だがそうしたポジティブな効果があったとしても、効果だけを求めるのは邪道なのだと思う。
だがそれは、十分に冥想が深まった場合のこと。

実際問題として、平日朝夕30分の冥想時間をとるのは相当に大変なことである。全く冥想しないのはまずいので、そこでやむなく短時間の冥想をすることになる。その場合、冥想する気分になってから坐るというのは、ほとんどあり得ないことになる。実際に時間に追われて暮らしていけばそうなりがち。

われわれの大部分は、死ぬことと同様に生きることをも恐れている。すなわち家族のことを心配し、世間の批判を恐れ、仕事や生活の保証を失うことや、その他多くのことに恐れを抱いて生きている。こうした、不安定、不愉快な気分をかかえて、毎日生きていく中で冥想するとは、
まさに毎日の生活に直面するということ。

つまり平素の面白からざる気分で冥想を始めざるを得ないことの方が多いということ。

冥想熟達者は数分で定に入ることができるという。だが、そういう他人の冥想のことを言っても仕方がない。自分の冥想に上手下手はないのだ。どんな気分でも坐るしかないのだ。

ケン・ウィルバーが、東日本大震災でオープン・マインドを説いたのも、被災後の鬱屈した気分でもオープン・マインドを、ということだが、どんな気分でも坐るということと発想は同じ。
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混乱している状態でも坐る

2022-11-26 06:35:27 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第七章】冥想に取り組む姿
2.混乱している状態でも坐る

これは、例えば仕事から帰宅した直後の状態であって、頭の中は公私いろいろ考えて混乱しているが、肉体的には坐れる状態にある時のこと。あるいは、朝眠りから醒めて、頭の中は夢か現(うつ)つかと混乱しているが、肉体的には坐れる状態にある時のこと。

初心のうちは、冥想する気分にならないと、あるいは気分が乗らないと快い冥想にならないからなどと思い、冥想するタイミングを遅らせたり求めたりするのだが、現代人は意外に余暇の時間が少ないから、いわば気分的には無理やりに坐らねば冥想時間捻出ができないのも現実。換言すれば、睡眠時間を削ってでも坐らねば冥想はしにくいという面もある。

冥想習慣のある人なら、夜冥想した後は、自分の波長・雰囲気が変わっていることを知っているだろう。
また、起き抜けの冥想は半ばトランスから始まるので深いことも知っているだろう。

混乱していて、冥想する気分にならなくても冥想するというのは、大切である。
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迷いのままに坐る

2022-11-25 06:06:49 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第七章】冥想に取り組む姿
◎1.迷いのままに坐る

迷いのままに坐るとは、最初は未悟で坐るということ。後に時熟せば、迷いのままに悟るということ。

悟っていない以前は、悟りの何たるかがわかっていないが、知的に悟りの必要性を理解するか、感覚として大悟覚醒がよいものであることを何かをきっかけに感じて坐るということ。

悟るということには、見仏見神見性と、神人合一あるいは即身成仏があるが、見仏見神見性は一過性であるがゆえに迷いに戻ることがあるので、迷いのままに坐るということはあるのだろうと思う。
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正師は、お布施は受け取るが教授料はとらない

2022-11-24 07:57:12 | Overview of the meditation 冥想の全体像
◎【第六章】正師の見分け方
◎2.正師は、お布施は受け取るが教授料はとらない。

正師の見分け方の基本は、正師も悟っている人だから、覚者の基本的な態度なども見分け方の一つである。覚者の基本的態度とは、フランクであること、嘘を言わないこと、他人に何かしてあげるのに打算のないことなどが挙げられるが、ここでは、この金とメリット優先の時代に対して、お金の受け取り方を示す。

およそ悟った後に世俗との折り合いをどうつけるかというのは、未悟の者にとっては大きな問題だが、それについては、いくつかの故事がある。臨済と普化が檀家の御馳走に招待されたが、普化は御馳走のテーブルを蹴り倒して臨済の不徹底ぶりを罵ったという話である。臨済も禅の王者と言われるほどの徹底した名僧である。普化も最期は屍解して亡くなるほどの問題ないレベルの高僧。

そういう世俗との折り合いについては、必ず神仏の方を優先するものだから、覚者の対応は必ずその原則による。

禅僧趙州は、貧窮に甘んじ、椅子の足の一本が折れたので木切れを添えて縛って使っていた。一休の親友であった一路は、草庵のもっこに入れてくれる喜捨で食べていたが、ある日もっこに馬の古沓(ふるくつ)を入れられたので、飢えて死んだ。藍采和は、もらった銅貨を他人に贈りながら生きた。

そうした事例の中でもっともわかりやすいのは、江戸時代の禅僧至道無難の説明である。
『道心を守る人は、すべての物事に自分が過ちをしないように恐れるべきだ。自分の為すべき事をせずにいながら衣食住が安楽なのは、必ず天罰を受けるものだから、道心を守るには、すべてが不足不如意なのを吉とする。』

こうしたロジックは、謙遜という生活態度にもなっていく。

また正師ではないマスターの場合、超能力志向、権力志向、財産志向などが見えるものである。

こうした理由で、正師は、お布施は受け取るが教授料はとらないものだが、教授料を取って道を教えることにはもう一つの問題点がある。それは、金と引き換えに真理を伝えることになるので、それはもはや真理とは言えなくなることである。
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自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない

2022-11-23 07:07:06 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第六章】正師の見分け方
1.自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない。

冥想のメカニズムを知的に納得することで冥想修行のモチベーションが起こってきたとすると、次のテーマは、自分が悟っていないことの自覚と、正師との出会いである。

(1)自分が悟っていないことの自覚
人が神仏を悟るやり方には次の三区分があり、いずれの体験もなければ、自分は悟っていないということである。

(a)神仏に憑依される
これは、憑依中について自分では何が起きたかわからないので、審神者の介在が必要になる。
(b)神仏を見る
これは、神仏を見ている自分が残っている状態なので、自分の体験である。
(c)神(仏)人合一
これは、神仏を見ている自分がもはやない状態なので、自分の体験とはいえない。体験とはいえない体験となる。

(2)正師との出会い
 正師とは悟りを得たマスターのことである。
例えば、気分が落ち着く、元気になる、健康になる、血行がよくなる、あるいは金運上昇や恋愛成就とか、合格祈願などの現世利益を狙った「効果を求める冥想」においては、必ずしも正師は必要ではない。正師を必要とするのは、ほとんど人生の卒業に手がかかった冥想修行者であって、人生上の世俗のことの方が重要と思う人にとっては、正師はまだ必要とは思われないのだろう。

中国道教の魏伯陽には3人の弟子がいたが、死に至る毒を飲めと命じることで、毒を飲んだ一名だけに修行の継続を認め、飲まなかった二名は自分の意志で修行をやめて故郷に帰ってしまったという故事がある。正師が必要な段階にあったのは一名だけだったのだ。帰郷した二名は正師と出会っていたにもかかわらず、正師の見分けはつかなかったのだ。

以上まとめると、自分が悟っていなければ、既に正師に出会っていようがいまいが、誰が悟っていて誰が悟っていない人か見分けることはできないから、誰が正師かどうかもわからない。このような状況では、正師に出会うことは、まったく自分の希望や意志とは別個のところで起きるように思われる。

これを踏まえてユクテスワは、「真剣な求道者が一定の進境に達すると出会える」と突き放した説明をしているが、もっともなことだと思う。
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丹田禅

2022-11-22 05:44:38 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(10)丹田禅

丹田禅は、マントラ禅冥想に加え丹田を作ろうとする冥想手法。いわば生きていること自体が公案になっている禅。
(a)坐法など
数息観、随息観、阿字観、無字観。マントラ念唱の併用も可。
丹田であるスワジスターナ・チャクラを中心とした下腹部に気力(エーテルパワー、アストラルパワー)、生命力、意志力の源泉であるエネルギーを充満させる。
(b)丹田禅のルート
気力(エーテルパワー、アストラルパワー)、生命力、意志力が強化され、健康にもよい。極めれば、見性(見仏、見神と同義)する。
ダンテス・ダイジは、丹田禅は見性(見仏、見神)をピークとするものであって、即身成仏(神人合一、ニルヴァーナ)には届かないという書きぶりである。しかしながら、マントラ禅でも妙好人が大悟覚醒した例もあるように、丹田禅でもニルヴァーナに届き大悟覚醒した例は、禅語録を見ると枚挙に暇がない。
 冥想手法とその結果の不確定性という言葉でまとめるのは簡単だが、情けない自分から解放されたいという人間としての苦悩からの脱却の願いが、全身全霊で丹田禅に打ち込んだ果てに奇跡を呼び込むことがあると見るのだろうと思う。
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クンダリーニ・ヨーガ

2022-11-21 06:43:45 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(9) クンダリーニ・ヨーガ
狭義のクンダリーニ・ヨーガといえば、インドでクリヤ・ヨーガと呼ばれている冥想で、ダンテス・ダイジが「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」で開陳したもの。
これに対して広義のクンダリーニ・ヨーガとは、究極としてニルヴァーナ(第七身体、神、仏、タオなど:無)を置き、その前段としてアートマン(第六身体、宇宙全体、世界全体など:有)を置いている冥想と考えられる。

広義のクンダリーニ・ヨーガとは、クリヤ・ヨーガ、西洋の魔術・錬金術、中国の内丹、古神道、チベット密教、日本密教などと考えられる。
なぜそう考えるに至ったかと言えば、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」において、アートマン(第六身体)がブラフマン・中心太陽(第七身体)に突入するのだが、これと同じモチーフの図式が慧命経/柳華陽の図版に発見されたからである。またチベット死者の書(パドマサンバヴァ)には無上の垂直道というこの秘儀に登場するキーワードが出てくることも挙げられる。

つまり宇宙全体・世界全体なる第六身体も神であって、言葉で表現できないもの、名状しがたいもの、なにもかもないものである第七身体も神であるが、その二つの態様が明らかに区分され、さらに個人が第六身体に転化する特徴を明示している宗教は、広義のクンダリーニ・ヨーガとしてさしつかえないと思われるからである。そしてその要素を持っている宗教は多い。

なお、一般に悟りとされるものは、個人が全体なる第六身体に転化してしまうことを言う。ここまでは言及されている宗教は多い。
ところが、さらに、アートマン(第六身体)がブラフマン・中心太陽(第七身体)に突入することまで述べているのは、柳華陽、ダンテス・ダイジ、OSHOバグワンだけだと思われる。

世界の宗教、古伝承、神話に当たっていくと、こうした個人から第七身体に至るメカニズム全体を説明した断片を発見することは結構あるものだ。だが、言葉は時代と共に全く変わってしまい、当時の社会通念の中で通用した秘儀解釈はいつしか忘れられ捨て去られる。そうした流れの中で、時代を超えた永遠不壊なるものは繰り返し現れて来るものだから、それをタイムリーに知って冥想修行に役立てていくことがその時代の最重要課題であり続けてきたのだと思う。

その意味でも、各時代に現れたアヴァターラ・神人の存在は貴重であり、見る目のある人に示唆を与え続けてきたと思う。

(a)広義のクンダリーニ・ヨーガで悟った人
空海、パドマサンバヴァ、呂洞賓、出口王仁三郎など。
(b)広義のクンダリーニ・ヨーガの悟り
中心太陽・ブラフマンへの突入とモクシャ(実在・意識・至福)への到達。

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只管打坐

2022-11-20 06:55:35 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(8)只管打坐

只管打坐以降、つまり只管打坐、クンダリーニ・ヨーガ、丹田禅は、それ以前の健康法的な冥想とは一線を画し、窮極を目指す冥想となる。ただし丹田禅では、健康法的色彩が強いが見性の可能性を見ている。よって窮極を目指す冥想としては、只管打坐、クンダリーニ・ヨーガが、より純粋であるということになる。

只管打坐、クンダリーニ・ヨーガの違いは、只管打坐は、すぐさまニルヴァーナに届く、一方クンダリーニ・ヨーガは、徐々にニルヴァーナに至る。あるいは、只管打坐は、生の側から極めることで死の側もクリアする。そして、クンダリーニ・ヨーガは、逆に死の側から極めることで生の側もクリアする。この場合の死の側とは、無意識の世界、霊的世界を指す。

(a)只管打坐で悟った人
道元、天童如浄、老子、クリシュナムルティ、久松真一など

(b)只管打坐の悟り
身心脱落がそれ。クリシュナムルティの著作では、しばしばothernessなどの名詞でもってしばしば到来するという表現をもって書かれている。クリシュナムルティを読むと、悟りが平素にそれこそ毎週でも起こるような印象を持つのだが、道元の正法眼蔵では、一生に一度しか起こらなかったであろうという印象を受ける。一般に身心脱落のような大悟イベントは、一生に一回であり、二回も稀であって、クリシュナムルティのように毎度起こるのは例外なのだと考えている。

以下に老子とダンテス・ダイジの只管打坐の悟りを挙げる。

老子 第4章道冲
『道はちょうど中の冲になっている器のようなもので、見たところ何もあるようには見えないが、しかもその無形のところが、用を為しているのである。
そして道はこれを用いても盈(み)ちるということがない。それはちょうどあの淵のようなものであり、万物の本源に似ている。
道は静かに、存在しているようにも似ている。誰の子であるかもわからない。天地の主宰者たる上帝よりなお先からあるようである。』

ダンテス・ダイジ
『只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも物質にも、現象にも束縛されず、まして、宇宙と一体になることでもない。

もちろん、初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、絶対無であるところの、究極の答えであるところの、唯一存在するところであるところの、或いは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元は、それを「身心脱落」と言ったのである。そして、一体幾人の人が、その究極の自己、無相の自己、無限の自己、絶対の自己、すなわち身心脱落を経験―――いいや、身心脱落そのものの、透明なる自己自身に目覚めたであろうか。

只管打坐とは、即座に、この生きているまま、この肉体を用い、この世界に生きているまま、無限定な、永遠なる、覚自体なる覚に目覚めることなのである。神自身が神を神することなのである。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP112-113から引用)

(c)只管打坐の方法
坐法については、古典である普勧坐禅義が基本であるが、ニルヴァーナのプロセスとテクニックではさらに詳しい。背骨を垂直にするのがポイント。坐相については、正師にチェックしてもらうのがよい。誤った坐り方で何年も無駄にすることはない。
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マントラ禅

2022-11-19 07:25:51 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(7)マントラ禅

(a)マントラ・ヨーガからマントラ禅へ
あるマントラを、一心不乱に全身全霊で、自分のすべてを捧げるつもりで念ずると、その時に誠意、真心、信頼という信愛(バクティ)が発生し、生体機能を調整する。これがマントラ禅。普通はマントラを専一に唱え続けるのはマントラ・ヨーガに分類されるが、「自分のすべてを捧げるつもりで」行えば、何かが起きるので、そこでマントラ禅に転化する。

なお信愛(バクティ)という言葉は、ラーマクリシュナ本で頻出する用語で、ラーマクリシュナがカーリー女神に全身全霊で帰依することで起こるのが信愛(バクティ)。

なお自分の個人的な金やメリットのために強く念じたり願ったり唱えたりするのはマントラ禅ではない。

(b)マントラの種類
次のものから自分にフィットするものを一つ選ぶ。
①ムー
②何もかもなし
③ニルヴァーナ
④オーム
⑤神 (または)神様(神を念じること)
⑥ラーム
⑦南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)
⑧南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)
⑨(読経)=(お経をよむこと)
⑩アーメン
⑪(主の祈り)(キリスト教)
⑫(祝詞)(のりと)
⑬何でも:『Z世代』でも、『サプリ』とか『スマホ』でも何でも自分にフィットするものならOK。ただし、およそ物事の始まりには不思議な力が宿っているものであるから、(徹すれば問題はないのかもしれないが)変なマントラを選ぶと結末がよくないということもある(出口王仁三郎に関連エピソードがある)。

※参考:主の祈り(日本カトリック司教協議会)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

(c)坐法など
ダンテス・ダイジは正座、半跏趺坐にて合掌する他、半眼閉眼どちらでも可とする他に唱え方念じ方まで示している(ニルヴァーナのプロセスとテクニック)。神に全身全霊を投げ込む感じで行うことを特に注意している。

(d) マントラ禅のルート
マントラ禅で行きついた境地としては、真宗の妙好人の歌で、全心身の快適な状態にとどまらず、最終的に究極まで届いた人がいることを知ることができる。

自力が他力にしてもろて いまはあなたと申す念仏
(妙好人 浅原才一)

それを、冥想手法とその結果の不確定性という法則の一つとして考える見方もある。

ダンテス・ダイジは、マントラ禅の例として南無阿弥陀仏の念仏中に、竹富島で自殺した友人の幽霊が自分と一緒に死んでくれと頼んで来たので、躊躇なく家の外にある石造りの便所の換気口に棒を入れ紐をくくり、彼と一緒に首を吊ったことを挙げている。

その間ダンテス・ダイジは、念仏を唱え続け、『あらゆる生命の苦悩と死が南無阿弥陀仏の中を流れ来たり、流れ去っている。』(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP8から引用)ことを見た。これは、全心身の快適どころではない。すべてが南無阿弥陀仏でできている世界に居たし、そのことは妙好人の歌でもそういう世界に入ることを確認できる。他のマントラでもすべてがそのマントラでできている世界があるのだろうと思う。

妙好人の浅原才一の歌、
『この世界仏の世界でござります
仏の世界に生をうけさせ
ご恩うれしや南無阿弥陀仏
ありがたいな

ご恩を思えばみなご恩
これ才市なにがご恩か
へえご恩がありますよ
この才市もご恩でできました
着物もご恩でできました
食べ物もご恩でできました
足に履くものもご恩でできました
そのほか世界にあるものみなご恩でできました

茶碗や箸までもご恩でできました
敷き物までもご恩でできました
ことごとくみな南無阿弥陀仏でござります
ご恩うれしや南無阿弥陀仏』

※悪いマントラの例:
出口王仁三郎が岐阜に立ち寄った際、自分のことを淫乱商人と名乗って、朝から遊郭橋本屋に上がった。そこで遊女20名の人生相談をしたところよく当たるので、全員その場で入信した。その後も橋本屋から彼に来訪要請があったが行けないので、別の人物をそこの新設教会トップに置いたが、いろいろな事がゴタゴタ続いて結局教会はなくなった。
出口王仁三郎は、教会が最初うまくいったが結局ダメになった原因は、自分が始めに淫乱上人と言った言霊が祟ったのだとしている。
(出典:『神霊座談会 長沢雄楯・出口王仁三郎』(機関誌『昭和青年』『昭和』に昭和6年(1931年)から8年にかけて掲載された、出口王仁三郎を中心とする座談会記事))

言霊もマントラである。
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占星術

2022-11-18 06:31:32 | Overview of the meditation 冥想の全体像
【第五章】冥想の種類
◎単体冥想の評価と方法
3. 単体冥想のいろいろ
(6)占星術

占星術には、東洋系と西洋系がある。西洋占星術では実際の惑星を使うが、東洋でも紫薇斗数は12宮と惑星であって元々は実際の惑星を使っていたと思われる形跡をうかがうことができる。だが、最近冥王星が準惑星に格下げされたことで、西洋占星術は、実は科学的ではないことが発覚したと言える。

西洋占星術も、ホロスコープをきっかけに自分の内面をのぞき込むという手法としては、易などと大差はない。だが、パソコンで作った天宮図でもって自分をのぞき込むことと、実際の満天の星でもって自分をのぞき込むことには、大差があるように思う。旅行先の海や山などで満天の星を見て、自分の運命以上のものを直感した経験がある人は少なくないのではないか。

その辺を踏まえて、ダンテス・ダイジは、PCのホロスコープ上の惑星と実際の惑星の位置には誤差があることを指摘している。その意味は、望遠鏡とPCで毎夜精確な惑星の位置を観測せよということではなく、自分に直面せよということなのだと思う。
また彼は、占星術で自分の人生上の傾向を知り事前に対策を打つような「処世術」は勧めていない。自分のカルマを解明し、自分の人生における使命を全うすることが占星術の狙いだとしてはいるが、彼がカルマ・ヨーガを肯定的に語ることは極めて少ないので、これは例外的な見解だと思う。(彼はカルマ・ヨーガは究極に至るまで時間がかかりすぎるので、あまり勧めていない)

ところが人生シーンで、大難を小難にできれば、その後予定されていた別の大難を日々善行を積むことでさらに小難にできる時間が与えられるということはある。人生は一回きりなので、そうした展開は、ある意味で望ましいところはある。勿論それをよしとしない人もいる。

冥想手法には、頓悟、漸悟、あるいは乾いた道、湿った道がある。占星術はどちらかと言えば漸悟タイプの手法であるとは思う。

冥想手法全体を眺めれば、最終的に自分も家族も自分の人間関係も、財産も信用も名誉も、自分の宇宙も、すべてを棄てて、本来の自己である自分自身に向き合って飛び込むことが最終的な運命であると見れば、占星術はとても中間的な技法ではある。

そういう観点からすれば、本来、占星術と「衆善奉行諸悪莫作」(善い事をして悪いことをしない)という行動基準はペアであって、現代のように毎日小悪大悪を平気で、あるいは半ば無意識にやるような人間が占星術を参考に生きるというのは、本来のルートからはずれた行き方だと思う。
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ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)

2022-11-17 07:27:54 | Overview of the meditation 冥想の全体像

【第五章】冥想の種類

◎単体冥想の評価と方法

  1. 単体冥想のいろいろ

(5)ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)

 

15年以上前ならインターネットのコンテンツ規制も今ほど厳しくなかったので、わりと率直に書けた部分もあったが、今は当たり障りのないことしか書けない環境にある。

 

ソーマ・ヨーガとは、古代インドならソーマであり、中国なら外丹であり、ギリシア神話のネクタルであり、メキシコのドンファン・マトゥスやマリア・サビナの植物の世界である。

植物等の摂取により、意識変容、意識拡大を起こし、神仏になろうとすることがソーマ・ヨーガ。

 

古代インドではソーマ摂取により、人間が逆転し、神となった『ソーマ讃歌』が何食わぬ顔で古典文学全集に載っているのは面白い。

中国では、唐代を中心に多くの皇帝がほとんど毒物としか思えない鉱物を含む丹薬を継続的に摂取したようで、薬害で亡くなったとされている。が、実際には、政争による毒殺も相当にあったかもしれないとも思う。それ以前に中国には、外丹(ソーマ・ヨーガ)で昇仙するというのは、文化的伝統としてあって、魏伯陽が弟子に毒を飲ませた故事は典型であって、皇帝といえども外丹には抵抗がなかったのだろうと思う。

 

19世紀以降、未開民族の文化研究が文化人類学者によって進むにつれ、未開部族のシャーマンたちが時に植物摂取によりトランスに入るのは知られるようになった。だが、おそらく多くのケースでは、霊界止まりであり、窮極に届いて神仏にまで至れたケースは少ないのだろうと想像する。マリア・サビナのケースは例外なのだろうと思う。

 

30年ほど前なら大書店の精神世界コーナーには、アメリカの若者にすごく読まれているということで、カルロス・カスタネダのシリーズがずらりと並んでいるものだった。その実は、師匠ドンファン・マトゥスの指導によるソーマ・ヨーガ修行の話であった。

これは、ソーマ・ヨーガは、ほとんど事前の冥想修行なしでも窮極たるイーグルに届くという甘ちゃんな幻想を打砕くには十分な本であった。

 

また世の中には、アンリ・ミショーなど有名作家が変性意識状態で文章を書いた例はいくつもあって、大体が意味不明なものになるのだが、その点でカルロス・カスタネダのシリーズは奇跡的だったと思う。

 

ダンテス・ダイジは、脳は映画で言えばスクリーン。仮に脳が破壊されても映画を展開するフィルムは残るというようなことを言ったことがある。ソーマは、脳の規制を取り払うようなことがあるのだろう。その延長で、インドラ神が、自分の尿の形でウッタンカ仙人に不死の霊薬アムリタを上げようとしたら、ウッタンカ仙人は、おしっこはいやだと言って代わりに水をもらった故事があるように、私は悟り薬は実在するのではないかと考えている。

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カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

2022-11-16 07:28:45 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第五章】冥想の種類

◎単体冥想の評価と方法

  1. 単体冥想のいろいろ

(4)カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

 

カーマ・ヨーガは、男性の側の修行法であって、女性の側の修行法ではない。またカーマ・ヨーガには、きちんとした相手が必要であって、不倫の相手とか一夜限りの相手であっては成らない。

またカーマ・ヨーガは、気功・導引やハタ・ヨーガのように健康法的位置づけではあって、窮極に至る前段の修行法ではある。気功・導引やハタ・ヨーガを選ばずにことさらにカーマ・ヨーガに進むのは、女性への執着と反作用を恐れないということだろうか。

 

またカーマ・ヨーガについて真剣に述べているのは、ダンテス・ダイジとダライ・ラマ。チベット密教には、カーマ・ヨーガの伝統があり、彼はそれの何たるかを知っている凄味がある。ダライ・ラマは、チベット密教学者としても超一流だなどと言っても仕方がないが、一隻眼を有した現代の神人の一人だと思う。

 

OSHOバグワンは、うそは言っていないのだろうが、真剣なカーマ・ヨーガ探求者にとっては、はぐらかされるところが多い。

 

またカーマ・ヨーガで究極に達した女性求道者の話が時々あるが、カーマ・ヨーガの原則に照らしてどうなのかはよくよく吟味する必要があると思う。

人生をほとんど卒業した相思相愛の男女のみが参加資格があるのであって、それ以外の人は、無間の淫欲地獄に取り込まれるだけのことであると思う。

 

以下にダンテス・ダイジのカーマ・ヨーガ関連の記述を示すが、あくまで、窮極そのものでなくその前段の修行法であることは意識すべきだろう。

 

『ソーマ薬草は、

神経生理機能にカルマを残し、

カーマ・ヨーガ(房中術)は、

女性に対するカルマを残し、

坐禅は、禅味に味着するというカルマを残し、

解脱は、

あらゆる俗界にカルマを残す。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP159から引用)

 

『3.カーマ・ヨーガ

性愛にもとづく全面的な交合によって、肉体内分泌腺とエーテルエネルギーを、快楽を通じて活性化せしめる。』

(上掲書P27から引用)

 

『カーマ・ヨーガ(房中術)は、

冥想的観点から見ると、

男性側の修行法に属する。

 

一般的に、

女性のエゴは、

失神にまで至る無数の性的オルガズムと、

男性への愛着から愛情への成長か、

最愛の男性の子供を出産し養育することにより、ほとんど完結する。

 

一般的に、

女性の失神にまで至る、

全身心的オルガズムは、

相手である男性に対する、

全面的な愛情と信頼なしには 起こり得ない。

 

カーマ・ヨーガ行法要領。

1、相手となる女神は、処女か、あるいは純真な心の持ち主でなければならない。

2、少しのこだわりもない全面的な愛情関係でなければならない。

3、女神には、失神または熟睡に至るまで何回でもオルガズムを与えねばならない。

4、男神であるカーマ・ヨー ギ は 決して射精しては ならない。

5、性行為終了後、冥想修行に入る。』

(上掲書P160-161から引用)

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ハタ・ヨーガ

2022-11-15 06:53:41 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第五章】冥想の種類

◎単体冥想の評価と方法

  1. 単体冥想のいろいろ

(3)ハタ・ヨーガ

 

ダンテス・ダイジの定義から

『主に、無数のアサナ と プ ラーナヤーマとムドラーによって、デリケートな感受性と柔軟性を実現していく。その結果、各ボディのブロックも徐々に消えていくわけだが、現代の生存競争と現代物質文明に必須の粗雑な自己防衛機能も消滅するエゴの危険も覚悟しておいたほうがいい。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ27-28から引用)

※ムドラー:冥想姿勢または体位

 

なるほどハタ・ヨーガに打ち込んでいる人(インストラクターさんなども)には、ある種の繊細さが感じられるものであり、ある程度行き過ぎれば生活できなくなっていくということはあるものだと思う。だからダンテス・ダイジは、アーサナは十種類程度で十分と絞っている。

またパタンジャリのヨーガ・スートラは、最後は完全にクンダリーニ・ヨーガになっており、ハタ・ヨーガで実現した肉体の健康でもって富貴長寿を実現しましょうなどという方向にはなっていない。

 

またよく今生で完全な肉体を作り上げ、来世で本格的にクリヤ・ヨーガに打ち込むのだという構想がある。

その延長線上に90歳の老いたブーレ・ババが亡くなると、すぐさま死んだばかりの若者の肉体に乗り換えるという、道徳観やら個人の尊厳やらもぶっ飛ばした世界観での行動が現れる。

 

そうしたことを前提に、肉体の浄化を主目的としてハタ・ヨーガに取り組むことは、冥想修行において、肉体の柔軟性の確保と体内ガスによる意識下の妄想の発生を減少させるなどの狙いにおいて必要なものだと思う。

 

【関連記事リンク】

ハタ・ヨーガからクリヤ・ヨーガへ(カイバリヤから世界平和へ)
90歳のブーレ・ババの肉体乗り換え(長時間サマディーにとどまる道具)
自分だけのためのハタ・ヨーガやボディ・セラピー(流行の癒しの構造)
背骨をまっすぐにする技術(日課への組み込みと継続)

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気功、導引

2022-11-14 06:59:44 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第五章】冥想の種類

◎単体冥想のいろいろ

(2)気功、導引

 

道教冥想は、李遠国の分類では、静功(心の冥想、性功、坐忘、守一など)、動功(導引(体操)、行気(呼吸法)など)、気功(気を巡らす、静功と動功の混合)、房中(カーマ・ヨーガ)、外丹(ソーマ・ヨーガ)、内丹(錬丹)に分かれるが、ここでは、動功と気功を気功、導引とする。

 

気功、導引は、ダンテス・ダイジの定義では、以下。

『気功導引法

 

気力・プラーナ・エーテルエネルギーによって、肉体の血行とホルモンバランスを整え、エーテル体をよりよく健康にする。したがって身心は、生命力に満ちた健康体となる。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP27から引用)

 

エーテル体とは半物質であり、全体の形状はいわば経絡だけを引き抜いた傘の骨状のもの。エーテル体ベースである気(プラーナ)を、呼吸あるいは体操や思念でもって動かすことが気功導引法ということになろう。実際には、太極拳、八段錦、導引ということになる。目的はあくまで、身心の健康。今風に言えば免疫力の強化。合気道は道教系ではないが、気功の一種と考えられる。

 

毛沢東時代以前の中国で盛んに太極拳が行われていたが、これは栄養状態の不足を気で補うというキャンペーンであったと考えられる。日本でも貝原益軒の養生訓に導引が挙がっており、それなりに知られていた。

 

気功、導引の位置づけとしては、ハタ・ヨーガがクンダリーニ・ヨーガの準備として行われるように、周天など内丹の準備として気功、導引が位置づけられるのだろうと思う。要するに、例えば内丹の柳華陽の慧命経では、きちんと「一片の光輝が法界を周り、日も月も忘れて寂浄にして霊虚」と究極であるニルヴァーナに届いているが、そうした本格的修行法に至る前段が気功、導引ということになる。

 

もちろんハタ・ヨーガに一生を費やす人がいるように気功、導引に一生を充てる人もいるのだろう。日本では国民の貧困化が進み、まず食を削っている人も多いのだろうと思う。その環境を考えれば、太極拳、八段錦などが必要なのは当代なのかもしれない。

 

私は八段錦を40年やり続けたが、八段錦をやらなかった場合と比較してどうかということは言えないが、40年間病気で入院するようなことはなかった。ただし老化による筋力低下に悩み、最近きくち体操を始めることになった。

 

20世紀前半以前は、ほとんどの国で平均寿命が40歳以前だったのだろうから、老化について本格的な対策があまりなかったのは理解できる。

そして人生に本気で取り組む純粋冥想を目指す場合は、まずすべてを棄てるのが前提条件であって、わが身の健康は二の次となることになろうから、その意味で歴史的に老人の健康対策などに本腰を入れてこなかったという理由はわかる。

 

なお、気、プラーナと同義ではないかと思われるものにライヒの言うオルゴンと出口王仁三郎の言う神霊原子がある。

 

【気功、導引関連記事】

第二身体(エーテル体)は、濃縮した煙(エーテルの更に先-1◎神霊原子)
ライヒのオルゴンの定義(気を見る)
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合気道の神髄-3(合気道の力のポイント)
導引の変遷(体操、呼吸法、食事はセットメニュー)

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