4.世界観の二重性
世界観の二重性とは、悟っている人は、二重のリアリティ、二重の現実に生きているということ。
よくある間違った見方は、悟っている人は、世界のすべてや他の人間と一体なので、どんなひどいことをされても怒らないとか、衣食住が不足しても平気だとかいう見方。これでは、悟っている人は無制限な虐待にさらされることになる。悟っている人は、動物園のパンダでもパンチング・ボールでもない。
そうした甚だまずい仕儀となったのは、イエスだけでなく、イスラムのホセイン・マンスール・ハッラージなどがいる。
登山や荒れ地の旅行だとわかるが、人間は飲み水や食べ物が三日手に入らないと死んでしまうのが普通。肉体人間とは、はかないものだ。そうした物質面もさることながら、精神面ではほとんどがみじめで情けない自分を抱えながら生きている人が多いのではないだろうか。
人は一人で生まれ、一人で死んで行く。人間には現実として救済などない、と見切ったところから求道をスタートさせ、幸運にも神仏(ニルヴァーナ)という無上の至福を見たり一体化できたのが数少ない悟った人。
彼らは、みじめで情けなく無力な自分という一つの現実(リアリティ)に生きると同時に、何の問題もない至福という現実(リアリティ)も生きている。
彼ら覚者のまわりに集まって来る連中が、どうしても幸福や解脱に関心が高いので、ニルヴァーナこそ現実であるとことさらに強調されるのだが、冷静に公平に見てみれば、彼らは二重の現実(リアリティ)に生きていることに気がつくのではないだろうか。
釈迦は胃癌で死んだ、イエスは磔で死んだ、日蓮はお腹をこわして死んだ、禅の巌頭は盗賊に首を斬られて大声で悲鳴を上げて死んだ。こういうものは、すべて悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。
一休は70代になっても30代の妾と情欲に爛れた生活を送っていた。臨済は「今日の御馳走のメニューは昨日のと比べてどうだ」などとつまらないことに関心を持っていた。クリシュナムルティは禿を気にしていた。出口王仁三郎は子供が死んで大泣きした。こうしたものも、悟った人でも「みじめで情けなく無力な自分」である証明ではないのだろうか。
そうであっても、なにものにも傷つけられない自分があることを知っているのが悟った人。
そして、その二重の現実(リアリティ)相互には時差がある。同時には存在しないのだ。それは葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』でも見てとれる。
わたしの見るところ、自分と全体が一致する瞬間はあるが、それに居っぱなしでは、社会生活できないので、そこから出て社会生活する。その際、自分と全体が一致することこそ真実であり真理だと承知はする。だが、『時間は、自分と全体の間の刹那にある。』換言すると自分と全体の一致から出れば、『自分と全体は分離し、そこには時間差が生じる』。時間は心理上のものなのだ。
この辺が、迷い(マーヤ、無明)なくして真理は存在しないという消息だろうか。