アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

2024年の終わり

2024-12-31 03:45:28 | アヴァターラ神のまにまに

◎準備の一年の終わり

 

例年末には、『〇〇年末の終わり』という記事を上げるが、2023年分は上げていないのに気がついた。ジェイド・タブレット執筆中だったので、それどころではなかったのだろう。

ジェイド・タブレットは、瞑想とか宗教にほとんど知識がない青少年や大人を念頭に、日々の冥想が世界平和と真の幸福をもたらすものだという流れを、簡単に書いてみたもの。構成は、ライフ・ステージ別の窮極に至る道と天国希求以降のポイント。

本編の方は、2024年6月17日に完了。外典の方は、本編に書ききれない分を入れ、同年6月6日に完了。

ジェイド・タブレットのストラクチャー

ジェイド・タブレット外典のストラクチャー

 

 この先入観と抑圧を必要とする時代は、間もなく終わる。

2024年は、最高気温30度以上が6月中旬から4か月続き、いかに健康で正気で暮らすかがテーマになった一年だった。

 

以下は今年の記事で気になったもの達。

 

苦しみですらまんざらでもないのさ

と言わなければいけない時代も過ぎ去ろうとしている。

 

エクソシスト稲生平太郎

彼のように日本各地に悪神を封じ込めた覚者は多数いるはずだが、名も知れず歴史の陰に隠れている。

 

ダンテス・ダイジ、悪魔からの超越を語る

では、とかく善対悪が最終決戦ととらえがちな現代人を戒めている。

 

天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ないとどうなるか

これは、光偏重の現代文明批判。

 

釈迦-5-最初のニルヴァーナと臨終時のそれの違い-1-見ることと飛び込むこと

マハパリニルヴァーナのことは意外に知られていないが、知っているべきポイントである。

 

OSHOバグワンの父親-2

これは、出口王仁三郎の祖父と並んで考えさえられるところがある。

 

釈迦-1-クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も

クンダリーニ・ヨーガも只管打坐も極めたのは釈迦とダンテス・ダイジ。

 

古事記の屋根を突き破るという布石

これは、ただのドラマチックな布石回収ではない。

 

二重の現実感、それは確実に世界を変容させる

それは真正の覚者の特徴である。

 

亡くなった教祖を見たり、光を見たり、クンダリーニが上がったり

その体験はみな、意識に漂う心象にほかならない。

 

どこから歩いても同じ一つの終着点に至るような人間共通の宗教モデル

これだけが現代に求められるもの。

 

見ている自分と見られるもの-2

見られるものは見ている自分を解放するために経験を提供する。

 

自分と神仏が大逆転

皆、キーポイントがそこだとは言わない。

 

何のためにニルヴァーナに向かおうとするのか

人間には結局苦悩と絶望からの救いはないから・・・。

 

ニルヴァーナ、語るべからざるを語る

神とは絶対の未知自身だ!

 

15 悪魔

オープン・マインドは最終ステップでの必要条件だが、対応次第で、人は神にも悪魔にもなる。

 

万人の召命

現代人は、ほとんどすべての人が召命されて生きている。召命とは、自分が神とコンタクトするべく、神の側から召されること。

 

隙間理論とヴィパッサナー-1

呼吸の隙間にそれがある。

 

如何に時代的な奇跡を起こすか

まれに一人二人が覚醒するのはいわば当たり前だが、万人が覚醒するのは奇跡である。

 

人間の進化とアトランティス-1

エジプトのピラミッドからアトランティスの叡智を集めた真エメラルド・タブレットが発見される。

 

ジェイド・タブレットの3つのハードル-1

現代人が神に成るには、誰もが薄々感じているが言葉にしにくいことがある。

 

人間とは、連続的に気づいている意識だ

無意識とのせめぎ合いの中でも気づいている意識。

 

人間は玉の緒(クンダリーニ)が神様と結ばれている

善いことは容易にできない世の中だが、善いことをし続ける

 

睡眠の間に神に出会う-2

人は眠りを通して神に入っていくがそれだけでは決して神を知るには至らない。

 

人間の洗脳は何年で解けるか

3年で解けるということ。

 

願望実現時にちらりと兆す虚無感、倦怠感こそクリティカル

人が冥想に真剣に取り組むモチベーションあるいは分水嶺。

 

日本のカルマ

世界の運命は大筋は神様が決めているが、人間の行動状況を見て、節目節目で大きな転換点すなわち天変地異や戦争などが神様の決定で起こる。

 

ネット詐欺横行と強欲な人-1

詐欺にあった被害者が、逆恨みし、神も仏もあったものかと神仏を離れ、地獄への道を進む者がいると、出口王仁三郎は注意している。

 

脳内麻薬-ソーマ・パイロットの言葉-5

情熱があってこそ宇宙が宇宙としてある。

 

隙間理論の断片

見守ることを通して奇跡が起こる。

 

恋人たちは互いのなかに死ぬ

愛は死だ。

 

現代社会は巨大なカルトのようなもの

社会では、政府、マスコミ、コマーシャル提供企業などからの情報や、SNSでの“らしい”言説を、無意識に受動的に信じ込み、あたかもそれが自分の考えであるように思ったりしゃべったりするに至る。

 

今ここを生きれば生と死は同時にある

クリシュナムルティは、時間すべては今であると唱えた。過去も現在も未来も、今であるということ。

 

ダンテス・ダイジが語る「冥想とは何か」

本当の当たり前さを出す、ただそれだけ。

 

【Overview of the meditation 冥想の全体像】

 

一年間ご来訪ありがとうございました。

よいお年を。

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今ここを生きれば生と死は同時にある

2024-11-30 03:25:21 | アヴァターラ神のまにまに

◎私は今死につつあり、私は今、生きている

クリシュナムルティは、時間すべては今であると唱えた。それにまつわる説明。過去も現在も未来も、今であるということ。

 

クリシュナムルティの説明。

『ですから、知識はありません。冥想はありません。修練はありません。あらゆるものごとは止まります。

問いを異なったように言ってもよいでしょうか。たとえば仮に、私は、自分が死のうとしていることを知るとします。今と死との間に時間の間隔があります。すなわち、私は一月一日に死ぬでしょう。(私は現実には一月一日に死ぬことにはならないでしょう!)医師たちは私に話したのです―私には末期の癌があり、そして一月一日までしか生存できない、と。ですから、私は死ぬまで二箇月程あります。時間すべては今であるなら、私は〔今〕死につつあるのです。

 

ですから、私は時間をもちません。私は時間がほしくありません。ですから、死は今です。人間の頭脳はいつのときも死とともに生きることができるでしょうか。理解していますか。

 

私は死のうとしていますそれは確かです。そして、私は言うのです―後生だからちょっと待ってください、と。しかし、私は、時間すべては今であるという事実を悟るならそれは、死と生きることはともにある〔という意味〕、それらはけっして分離していないという意味です。

 

ですから、知識は私を分割しているのです――私は一月の終わりに死ぬことになるという知識が、です。そして私は怯えるのです。「どうか、どうか、待ってください、待ってください。私は遺言を残さなければいけない。私はこれをしなければいけない。あれをしなければいけない」、と私は言うのです。

 

しかし、私は死とともに生きるなら、いつのときもそうしているのです。すなわち、私は遺言を書き上げるのです。私は今死につつあるのです。それは、私は〔今〕生きているという意味です。私は生きているし、死は隣にあるのです。生きることと死ぬことの間には、離別も分離もないのです。

 

あなたはこれができるでしょうか。それとも不可能でしょうか。それは、死が「あなたは何も持っていけない」と言う、という意味です。あなたの知識、あなたの書物、あなたの妻と子ども、あなたのお金、あなたの性格、あなたの虚栄、あなた自身で築き上げてきたすべて――あらゆるものごとは、終わりに死とともに去るのです。

 

あなたは、輪廻転生する可能性があると言うかもしれません。しかし、私はあなたに尋ねているのです――あなたは、何にも最小の執着もなく、今生きることができるでしょうか。なぜこれを―すなわち執着を-病床まで先送りするのでしょうか。今執着から自由でありなさい。』

(明日が変わるときクリシュナムルティ最後の講話 J.クリシュナムルティ/著 UNIO P68-69から引用)

 質問者たちからクリシュナムルティに、どういう冥想をすればそうなるかという質問は出なかったようだ。「ただこんな風になる」とだけクリシュナムルティは説くが、後継者が育たなかったのは、教え方の問題か、縁の問題か。

今ここに関する講演を聞いたり、今ここの話を読んだりする人もいるかもしれない。生活実感として“今ここ“を生きるということは、『私は今死につつあり、私は今、生きている』という、日常感覚からは全く理解できない現実を、平常心で生きることだとわかる。

これが、平常心是道

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みろく三会とは神人合一した人間の姿

2024-11-27 03:13:10 | アヴァターラ神のまにまに

◎万代の常夜の闇も明けはなれ みろく三会のあかつき清し

 

出口王仁三郎が、第二次大本事件後、裁判長にみろく三会の説明をする。

『一審での庄司裁判長と王仁三郎との息づまる対決は?その行方は?――

「昭和三年三月三日のみろく大祭の祝詞奏上の後でお前は

『万代の常夜の闇も明けはなれ

みろく三会(さんえ)のあかつき清し』

という歌を詠んだそうではないか」

「ハア、詠みました」

「みろく三会とは、天のみろく・地のみろく・人のみろく、この三つが1つになるということだそうだネ」

「さようです」

「この歌によると、地球上でお前が一番偉いという意味になるのではないか」

 

「それは、私の宗教上の悟りです。宗教上の悟りを法律上で解釈されては叶いません。釈迦でも天上天下、唯我独尊と言うているが、宗教を開く者はそれ位の悟りの自覚がなくては、宗教が開けるはずのものでないと思うとります。私は別に悪いと思うていません」』

(出口なお・王仁三郎の予言・確言/出口 和明/みいづ舎P302-303から引用)

 

上述のとおり、出口王仁三郎は、みろく三会を宗教上の悟りと断じている。

彼はさらに、みろく三会とは、天地人、又法身、報身、応身のミロク一度に現はれるという意味で、これが真の三位一体であるとしている。

 

神人合一して第七身体ニルヴァーナにあるとき、天のみろく・地のみろく・人のみろく、この三つが1つになるということがあるのだろう。

 

また出口王仁三郎は、人はすべらからく神人合一を目指すべきだと言っている。

『元来宗教なるものは、仏教にもあれ、基督教にもあれ、人と神(仏と人、大我と小我)との融合一致に重きを置くものなり。即ち四諦観といひ、三位一体説といふも、其の意義に於て異ることあるなし。所謂天人合一を主とするに在るのみ。』

(出口王仁三郎全集 第2巻 第2章 宗教の害毒から引用)

 

古事記でも、天の安の川原で天照大神の霊と素盞嗚尊の霊とが一緒になって、伊都能売神になったことで、これで三位一体の成立を示している。

 

要するに究極の悟りを得て、ひとりの人間として世界を振り返れば、天のみろく・地のみろく・人のみろくという何の問題もない状態が広がっているのだろうということ。仏教でも三身というが、仏教でも究極の悟り涅槃に入れば、同じように三位一体を確認することになって、それが三身なのだろう。

 

ともすれば、みろく三会の時代とはみろくの代のことだと言われるから、いつその時代が到来するかばかり気になりがちだが、実は自分自身がみろく三会となることを確認することだったのだ。

 

【以下、霊界物語 第48巻 余白歌から/出口王仁三郎作】

甲子のの空を待ち佗びし
    胸にみろくの鼓うつなり

三千年の岩戸の七五三(しめ)も解けにけり
 みろく三会の神音の響に
     
内外の国のことごとマツソン
    毒牙にかかりて苦しみ艱める

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真人の道-出口王仁三郎-2

2024-11-16 03:25:32 | アヴァターラ神のまにまに

◎娑婆即寂光土の真諦

 

真人の道の続き。

『至善、至美、至真の行動を励み、善者または老者を友とし、これを尊み敬い、悪人、愚者、劣者を憐み、精神上にはたまた物質上に恵み救い、富貴を羨(うらや)まず、貧賤を厭わず侮らず、天分に安んじ、社会のために焦慮して最善をつくし、富貴に処しては、神国のために心魂を傾け、貧に処しては、簡易なる生活に感謝し、我欲貪欲心を戒め、他を害せず傷つけず、失敗(つまづ)きたるも自暴自棄せず、天命を楽しみ、人たるの天職をつくし、自己の生業を励み、

天下修斎の大神業に参加する時といえども、頭脳を冷静に治めて周章(あわてず)ず騒がず、心魂洋々として大海のごとく、天の空(むな)しうして百鳥の飛翔するにまかせ、海の広大にして魚族の遊踊するにまかすがごとく、不動にして、寛仁大度の精神を養い、神政成就の神業を補佐し、たとえ善事とみるも、神界の律法に照合して悪しければ、断じてこれをなさず、天意にしたがって一々最善の行動をとり、昆虫といえどもみだりに傷害せず、至仁至愛の真情(まごころ)をもって万有を守る。また乱世に乗じて野望をおこさず、至公至平の精神を持するの人格具(そな)わりたる時は、すなはち神人にして、その心魂はすなわち真心であり神心である。

 

利害得失のために精神を左右にし、暗黒の淵に沈み良心を傷め、些少の事変に際して狼狽し、たちまち顔色を変え、体主霊従、利己主義をもっぱらとするものは、小人の魔心よりきたるのである。内心頑空妄慮にして、小事に心身を傷(やぶ)りながら表面を飾り、人の前に剛胆らしく、殊勝らしく見せむとするは、小人の好んで行なうところである。

霊界を無視し、万世生きとおし、生死往来の神理を知らず、現世のほかに神界幽界の厳存せることをわきまえず、ゆえに神明を畏(おそ)れず、祖先を拝せず、たんに物質上の欲望に駆られて、天下国家のために身命をささぐる真人を罵り嘲(あざけ)り、

死を恐れ肉体欲に耽り、肝腎の天より使命をうけたる神の生宮たることを忘却する小人あまた現われきたる時は、世界は日に月に災害と悪事続発し、天下ますます混乱し、薄志弱行の徒のみとなり、天命を畏れず、誠を忘れ利欲に走り、義をわきまえず富貴を羨み嫉(ねた)み、貧賤を侮り、おのれよりすぐれたる人を見れば、したがって学びかつ教えらるることをなさず、かえってこれを誹(そし)り嘲り、おのれのたらざる点を補うことをなさず、善にもあれ悪にもあれ、おのれを賞めおのれに随従するものを親友となし、ついに一身上の災禍をまねき、たちまち怨恨の炎を燃やすもの、これ魔の心の結実である。

 

執着心強くして解脱しあたわず、みずから地獄道をつくりいだし、邪気を生み、みずから苦しむもの天下に充満し、阿鼻叫喚の惨状を露出する社会の惨状を見たまいて、至仁至愛の大神は坐視するにたえず、 娑婆即寂光土の真諦を説き、人生をして意義あらしめむとの大慈悲心より、胎蔵せし苦集滅道を説き道法礼節を開示したまいたるは、この物語であります。』

(『霊界物語』二十二巻総説より引用)

 

上掲『たとえ善事とみるも、神界の律法に照合して悪しければ、断じてこれをなさず、天意にしたがって一々最善の行動をとり』

袁了凡の功過格にあるような外形が善事であっても、天意にしたがって一々最善の行動をとるためには、神界の律法を心得なければならない。神界の律法を心得るとは、大神に等しい視点を持つということで、神人合一するということ。

 

上掲『また乱世に乗じて野望をおこさず、至公至平の精神を持するの人格具(そな)わりたる時は、すなはち神人にして、その心魂はすなわち真心であり神心である。』

これは、人格のことを言っているように見えるが、さにあらず。大神と同じレベルの心でいるということ。

 

上掲『執着心強くして解脱しあたわず、みずから地獄道をつくりいだし、邪気を生み、みずから苦しむもの天下に充満し、阿鼻叫喚の惨状を露出する社会の惨状』

これは追加の説明も必要なく、当時も現代も、このメカニズムでほとんど地獄な現世が作り出されている。

 

上掲『娑婆即寂光土の真諦』

これは、不安と恐怖と苦悩に満ちた現世(娑婆)は、すなわち苦悩のない仏の世界(寂光土)であるということだが、それはニルヴァーナにある人間にして初めて言える。つまり覚者の二重性のことである。

 

これは一遍

「すてはてて身はなきものとをもひしに

寒さきぬれば風ぞ身にしむ」

という歌の心であって、覚者は、仏と自分個人という二重の世界観を生きている。

また禅僧白隠の〈清浄行者涅槃に入らず、破戒の比丘地獄に堕せず〉であって、悪行三昧の破戒の比丘でも、世界全体宇宙全体である有の一部である『破戒の比丘』を演じている自分と仏である自分という二重の世界に生きていれば、それは地獄に落ちず悟りを生きていると言えるということ。

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真人の道-出口王仁三郎-1

2024-11-15 06:20:55 | アヴァターラ神のまにまに

◎真心とは大神と神人合一した心

 

真人の心が真心だが、出口王仁三郎は、当時の時代の趨勢を受けて、次のように控えめに述べる。

『真心とは、天地の先祖の大神の大精神に合致したる清浄心である。』

 

大神と神人合一することを説くのではなく、「大神の大精神に合致したる清浄心」と心理、心に矮小化せねば、国家神道の最盛期で天皇の人間宣言以前の時代には世を渡っていけなかったのだろう。

本当は、真心とは大神と神人合一した心なのだろうと思う。

 

また悟った人の特徴としては、正直であること、フランクであること、悪いことをしない、善いことだけをするなどわずかな特徴だけが知られているだけだが、以下は参考になるだろう。基本線は、悟りは人格的成熟とは関係ないということ。また以下には、大神すなわち見神あるいは神人合一者の特徴がいくつか散りばめられている。

 

以下、霊界物語から真人の道。

『真人の道 

 

天の下に生きとし生ける万物のなかにありて、もっとも身魂(みたま)のすぐれたる人間には天より上中下三段 の御霊(みたま)を授けて、各自の御霊相応に世界経綸の神業をおわしめたまい、天国の状態を地上に移して、それぞれ身魂の階級を立て別けられてあるけれども、

 

今の世は身魂の位置顚倒して霊肉一致の大道破れ、八頭八尾の邪霊や、金毛九尾の悪狐の霊や邪鬼の霊魂なぞ人類の精神を誑惑(きょうわく)し、ついには地上の世界を体主霊従、弱肉強食の暗黒界と化せしめたるため、今の世界の惨状である。これだけ混乱した社会(よ)をなんとも思わぬようになったのも、地上の人類がみな邪神の霊魂に感染しきっておるからである。

 

天下経綸の神業に奉仕すべき人類の御魂がさっぱり脱退(ぬけ)てしまい、九分九厘まで獣畜(けもの)の心に堕落して、世界は上げも下ろしもならぬようになり、かなたの大空よりこなたの空へ、電火のひらめくがごとき急変事の突発せずとも断定しがたい。世界の人類は一日もはやく眼を覚まし、誠一つの麻柱(あなない)の道によりて霊魂を研(みが)き、神心にたちかえらねばならぬ。

 

真心とは、天地の先祖の大神の大精神に合致したる清浄心である。至仁至愛にして万事に心をくばり意をそそぎ、善事に遭うも凶事に遇うも、大山の泰然として動かざるがごとく、びくつかず、焦慮(あせ)らず、物質欲に淡白(あわ)く、心神を安静に保ち、なにごとも天意をもって本となし、人と争わずよく耐えしのび、宇宙万有いっさいをわが身魂の所有となし、春夏秋冬、昼夜、風雨、雷電、霜雪、いずれも言霊(ことたま)の御稜威(みいづ)に服従するまでにいたらば、はじめて神心を発揚しえたのである。

 

また小三災の饑病戦、大三災の風水火に攻められ、いかなる艱苦の淵に沈む時ありとも介意せず、幸運にむかうも油断せず、生死一如(しょうしいちによ)とこころえ、生死にたいしては昼夜の往来をみるがごとく、世事いっさいを神明の御心にまかせ、好みなく憎みなく、義をみては進み、利をみて心を悩まさず、心魂つねに安静にして、人事をみること流水のごとく、天地の自然を楽しみ、

小我を棄て大我に合し、才智に頼らず、天の時に応じ、神意にしたがい、天下公共のために舎身の活動をなし、万難に撓(たわ)まず屈せず、善を思い、善を言い、善を行ない、奇魂(くしみたま)の真智を照らして大人の行ないを備え、物をもって物をみきわめ、他人の自己(おのれ)に等しからむことを欲せず、心中つねに蒼空のごとく海洋のごとく、二六時中意思内にのみむかい、自己の独り知るところを慎み、その力量才覚を人に知られむことを望まず、天地の大道にした がって世に処し、善言美辞を用い、光風霽月(せいげつ)少しの遅滞なく、神明の代表者たる品位を保ち、自然にして世界を輝かし、心神虚しくして一点の私心なきときは、その胸中に永遠無窮の神国あり。』

(続く)

(『霊界物語』二十二巻総説から引用)

 

上掲『宇宙万有いっさいをわが身魂の所有となし、春夏秋冬、昼夜、風雨、雷電、霜雪、いずれも言霊(ことたま)の御稜威(みいづ)に服従するまでにいたらば』とは、宇宙全体が自分である神人合一した状態(第六身体)であって、六神通の超能力がすべて使える状態を言っている。

 

上掲『いかなる艱苦の淵に沈む時ありとも介意せず、幸運にむかうも油断せず、生死一如とこころえ、生死にたいしては昼夜の往来をみるがごとく、世事いっさいを神明の御心にまかせ』

これも、生死一如という生も死もわきまえた状態であって、意識の極限状態を超えた神人合一の状態が前提となっている。

 

上掲『天の時に応じ、神意にしたがい』これは、恣意なく私なく、天意神意のみに拠って生きること。

 

上掲『自己の独り知るところを慎み、その力量才覚を人に知られむことを望まず』これは、言っていることが真実であっても、聞いてわかる人がいなければ、それは行われないこと。そして名声を望まないこと。

 

上掲『神明の代表者たる品位を保ち、自然にして世界を輝かし、心神虚しくして一点の私心なきときは、その胸中に永遠無窮の神国あり。』この神明の代表者とは真人、神人、完全人のこと。神人合一して肉体に帰還できれば、アダムカドモンやアダムのような完全人として、自分らしく生きることができる。自分らしく生きるとは、大死一番から帰還して初めて言えるのだと思う。

 

※体主霊従:われよし。

 弱肉強食:つよいものがち。

※麻柱(あなない)の道:高い所へ登る足がかりが麻柱。転じて霊線、クンダリーニ、すなわち大神につながっているエネルギーコード。

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無と空-メモ-3

2024-11-14 03:58:37 | アヴァターラ神のまにまに

◎般若心経のネタバレ

 

空(空性)は、一般的に諸々のものは実在性を欠いており、中身は風船のように空であるということ。

龍樹は、空において言葉は止滅しているという。つまり空を体験するためには、言葉のない場所に居なければならない。

空は、サンスクリット語では、シューニャであって、中味がないということ。そこは、肉体も自分も宇宙も言葉も無いところ。

そこに何が残っているかを龍樹も彼の後継者たちもはっきりとは言ってない。

 

般若心経では、『色即是空空即是色』とある。これは、あらゆる現象には実体はなく、実体がないのがまたあらゆる現象であるということ。つまりあらゆるものが実体がないというポイントから先には出ていないが、それが智慧の完成だと般若心経は主張している。

 

実体が無いという無は空だが、空という体験とは言えない体験において、一歩進んで、

『その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを

しみじみと眺めあたたかく包む

何ものかが

限りなくあふれ出す』

ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

という秘儀が起こる。

 

この一文の事象は般若心経では隠されているが、般若心経はシューニャの境地に至れば否応なく自ずとわかるという立場なのだろう。

 

この何千年間、隠されてきたネタバレをオープンにしても構わないとOSHOバグワンもダンテス・ダイジも思ったのだろう。OSHOバグワンは、これを無のポジティブ面すなわち窮極を経た先にある現実と見た。

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無と空-メモ-2

2024-11-12 06:46:58 | アヴァターラ神のまにまに

◎心理・意識から現実への転換

 

心理・意識から現実への転換法とは、西洋錬金術なら土くれを黄金に変成する方法であって、只管打坐なら身心脱落、真言密教なら即身成仏、臨済禅なら大死一番、ソーマ・ヨーガならあらゆるものと死ぬということ。

そこでは、個たる人間である自分が死んで、宇宙全体に転換するという逆転、変換、逆立ちが起こる。世界がまったく変わってしまうのである。

 

これを神秘家は、古代において10の次元と語ったが、人類の進化により、七つの次元と言い習わし、個から全体に変わるのは、第五次元エーテル体から第六次元アートマンに至る部分であることは知られている。

ただし、初手から第七次元ニルヴァーナを望見できるわけではなく、第七次元ニルヴァーナに到達した者のみが、第六次元から第一次元肉体を俯瞰できる。

 

この点で未悟の者すなわち第七次元ニルヴァーナ未到達の者が、次元全体を語っても群盲象を撫でるが如きもので、何もならないことになる。

 

次元相互の連関は、行法によって入る次元出る次元が異なることをダンテス・ダイジが指摘しているが、これは複数の行法・冥想法を極めた者のみが追体験できる。

 

それにしても心理・意識から現実への転換とは、あらゆる実感を経た、ほとんど人生、転生を卒業しかけた、いわば魂年齢が高い者のみに与えられた恩寵のようなものだが、それが、およそ俗人の想像する類のようなものではないことは、古今の様々な書物、文献が伝えている。

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無と空-メモ-1

2024-11-11 06:47:13 | アヴァターラ神のまにまに

◎心理・意識から現実へ

無と空は同義だと言っておきながら、無には、ポジティブ面とネガティブ面があると述べた。ところが冥想修行者にとっては、重要なポイントが語られていない。どこまでが心理あるいは意識状態で、どこからが現実かということ。これは、ズバリ個人が宇宙全体に逆転するのはどのポイントかということにからんでいる。

タロットでも易でも西洋占星術でもよいが、どんな占いでも、心を何も映っていない鏡にするのは基本。何も映っていない鏡に占う対象を映じさせるのが占いだが、心を何も映っていない鏡にした後に何かが起こる。

何も映っていない鏡は、無であって、ダンテス・ダイジなら石ころの心だが、そこから豊かに満ち満ちてあふれ出すとは、そこに心理・意識から現実への転換が起きているということ。

この点について、覚者たちは逆転や変身と言うことはあるが、気がつくだけという言い方もする。ところがこのポイントは、意識の絶対的な極限状況であって、釈迦やクリシュナムルティや空海が見た明星の直前ポイントなのだろうと思う。

OSHOバグワンにしてもダンテス・ダイジにしても、何も予備知識もいささかの体験もない人にこれを説明しても有害無益なので、ここは多くは説明していない。ジャンプアウトがあるからである。

平たくいえば、OSHOバグワンのいう無のネガティブ面は心理・意識であって、ポジティブ面は、窮極を経た先にある現実なのだ。

また無心を「なにもかもなし」と同じと単純に見ることもできない。

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無の二側面と空

2024-11-10 07:18:50 | アヴァターラ神のまにまに

◎鏡あるいは石ころがとても素晴らしいものであると誰が思うだろうか

 

墓に行くと五輪塔があり、一番上のスライム様の石を見かけることもあるだろう。これが空のシンボル。

OSHOバグワンは、空は、ウパニシャッドでは、至福と呼ばれ、仏教・釈迦はこれを空と呼んだと説明する。OSHOバグワンは、空とは心全体が去ったゆえに、不安、苦悩、恐怖がないから至福であるとする。

 一方でOSHOバグワンは、無には、ネガティブな見方とポジティブな見方があるとする。曰く、無とは、からっぽのものである死のような闇のような地獄のような、喜びなく歌がなく胸の高鳴りのないもの、これがネガティブなものであるという見方。これが西洋で神が無と呼ばれない理由で、西洋では無は恐怖であった。うつろな心は悪魔の仕業などと言って。例外は、ディオニシウス、エックハルト、ベーメ。

 

逆に無についてポジティブな見方をとるのは、東洋。OSHOバグワンは、釈迦は、空の中でのみ、無の中でのみ神のような質が起こり得るとする。空と無は同義。

OSHOバグワンは、釈迦、マハーヴィーラ、禅者、道士においては、無とはすべてのものが消え失せた後には、ただ純粋な意識だけが残る。曰く鏡には何も映っていないが鏡だけが残る。鏡に映っているものがマインド(頭)、何も映っていない鏡がノーマインド(無心)。

 何も映っていない鏡は、無であって、ダンテス・ダイジなら石ころの心だが、そこから豊かに満ち満ちてあふれ出す。『仏陀はこの無を「満ち溢れる慈しみ」と定義した。』(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP526から引用)

慈しみとは愛である。

※ディオニシウス:紀元1世紀のアテナイ人。キリスト教神学と新プラトン主義を結び付け独自の神秘主義を立てた。 

この一見無機質で、とりつくしまもない鏡あるいは石ころがとても素晴らしいものであると誰が思うだろうか。この功利的で殺伐とした地獄のような気分の人が多数生きる時代に。

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薔薇十字団とフリーメーソンと米ロ

2024-09-14 03:40:57 | アヴァターラ神のまにまに

◎薔薇十字団の流れは、現代でも継承されている

 

17世紀に勃興した薔薇十字団は、17世紀末までには消え、入れ代わるようにフリーメーソンが登場した。

フリーメーソンは、欧州全域で最初からフリーメーソンとして活動していたわけでなく(発祥は1717年イギリスとされる)、ドイツでは、イルミナティ啓明結社が中心となり、ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』でフリーメーソンの理想郷について触れ、モーツァルトは、『フリーメーソンのための音楽』や『魔笛』を書いた。

18世紀末ドイツのイルミナティ壊滅後は、残党はフランスに流れ込み、ロベスピエールのジャコバンクラブ結成の基盤となった。ロベスピエールの父は熱心なフリーメーソンだった。

19世紀後半に薔薇十字団はパリ中心に復活し、イギリスでは、黄金の曙と改称し、詩人のイエイツ、作曲家のエリック・サティも参加。20世紀初頭のブラヴァツキー夫人、ルドルフ・シュタイナー、アレイスター・クロウリーなどの流れにつながっていく。

 

種村季弘によれば、現代におけるフリーメーソンの最大の遺産は、アメリカとロシアである。曰く、『野田茂著 世界的秘密結社の検討(昭和17年栄養の日本社刊)』では、アメリカの歴代大統領34名中20名がフリーメーソンで、ロシア革命委員会のメンバーの大半がユダヤ人即フリーメーソンだったことを検討している由。

(参照:黒い錬金術/種村季弘P257-267)

 

わたしの見るところ、第二次世界大戦は、フリーメーソンの世界構想の最初のテストだった。

 

戦後約80年、世界の戦争は何だか米国民主党政権の時に起き、いつのまにか日本は政治家も官僚もマスコミも親方日の丸ならぬ親方米国民主党みたいになっていて、かつまたアメリカの支援で作られた支那のご機嫌をうかがっているのも、大きなフリーメーソンの流れなのだろうか。

以前と違って、コロナ・パンデミック以降は、実質的に人間を生きづらくさせる政策や人口削減策の形で人類絶滅政策というのがあることが半ば公然と語られるのは恐ろしい変化といえる。

 

ダンテス・ダイジは、こうした巨大な悪だくみについて、時代が進むにつれてどんどん露見していくと予言している。それを聞いて、私はあまりそちら方面には力を注がず求道方面メインに書いているわけである。

日々冥想を。

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笹目秀和がシベリア抑留列車から一旦脱走したが、自ら列車に戻る

2024-09-11 03:11:59 | アヴァターラ神のまにまに

◎人間としてのどうしようもなさは、個人の天命と裏腹

 

笹目秀和は、シベリア抑留列車がハイラル駅(現在の中国内モンゴル自治区)の停車中にソ連兵の警備をかいくぐって一旦脱走に成功したが、自分一人だけが楽な思いをすることをあきらめて、なんと自分で列車に戻っていった。

 

さて1945年日本に帰還する列車だとソ連に騙されて、笹目秀和は興安駅からシベリア抑留列車に乗車。列車がハイラル駅に入ったことで、日本に向かっていないことに気がついた。そこでハイラル在の20年来の友人の中国人を頼って、ハイラル駅で脱走しようと笹目秀和はチャンスをうかがっていた。

列車はハイラル駅に停車した。

 

『やがて扉の外鍵を外し”オボルニー"と、警備兵が叫んで、次々に各貨車を同じようにして過ぎてゆく。あッ! これは警備兵の多くは寝ていて、一人が各貨車を回って鍵を外しているんだな、と察したのである。

 

チャンス!

一刻というよりも一瞬を争うかもしれない。あの警備兵が、五十車輛の鍵を外して帰って来るまでに、われは駅構内を脱出してしまわなければと、異常な決意と緊張を以て立ち上がった。そして、扉を自ら排して地上に降りたのは吾輩が第一号だった。見渡せばまごうかたなくハイラルだった。警備兵の影もほとんど見当たらず幸いなことには駅構内に幾人かの人員が動いていた。

 

好機!逸すべからず!と胸に問い腹に応えて、貨車の先頭の方に歩いてゆき、一旦車輛下をくぐって、左方のプラットホームに出て様子を見る。警備兵らしき者はいないのを見定め、素早くホームから柵外に出た。走ってはいけないと、われ自ら戒めながら、いかにも自然らしく悠然と大股に歩を進めて、二十年来往復をして、勝手知ったハイラル街の城内への路を歩いた。

 

だれ一人歩いている者もなく、時折ロシア人街の犬に吠えられたが、犬など眼中になく一路目的の玄君の家にたどり着いた。

かつての経験から、この間の時間は約十五分かかったと思う。

 

遂に天は脱出を許され、保護し賜わったことを感謝し、さて玄君が果たしておってくれるだろうか。拳を上げて戸を叩こうとしたとき、その一瞬である・・・・・"ハッハッハアー・・・"と、高らかな笑声が耳に入った。いや耳じゃない、腹に聞こえたのだ。今のは人間の笑いではなかった。聞き覚えのある声だった"神仙だ、疏勒神仙のお声だ"

さあて神仙!と問い返すとまた、"ハッハッハアー・・・・"と、一段と高らかな声が聞こえてきたのであった。

と同時に、私の腹には、万言を以て説明された真理が、一遍に解明されたのであった。

 

こうした場面を、文字を以て説明を求められても、一般の読者には何を語っているのか、さっぱりわからないであろう。しかし、幼児がおいたをしないまでも、何かを自己意志に任せて手をつけようとしたとき、母親が"コラッ"と鋭い声で叱ったとする。フト幼児は母親の目を見ただけで、母は何を言っているかがわかるように神仙の教えを受けた小生にとって"ハッハッハアー・・・"と、お笑いになっただけで、神仙は何をいわれたかが一瞬にして悟得できたのであった。それを言葉のうえに現わしてみれば、次のようなことであった。

 

"大道がこの世の中に行なわれるようになれば、天が下に存在するところのもの一切は、天上界にまします主宰神に帰し、一般人にとっては公有物となり、これはだれのものであり、あれは彼のものだというような私有観は無くなる。むろんここは東の国であり、かしこは西国人の居住地で、勝手気儘な出入はできませんよ、といったことはなくなり、大きくは全大宇宙が存在し、小さくは虫魚の別があるように思われるが、本来の性は、三千大千世界をしろしめす主神の性に帰してしまうもので同じなんだ。共産主義は、その天理を人為的に行なったもので幾多の矛盾が生じてくる。その実情と観察と体験がなければ、次代の経綸に携わることはできない。汝!新たな使命の第一歩だ、艱難を避けるべきではないぞ! " ハッハッハアー・・・・・"ということである。

 

ハッと気がついた私は、拳を下ろして急ぎハイラル駅への路を引返したのであった。このときほど、息せき切って速度を速めたことはないが、決して走りはしなかった。駅に近づいて行くと、輸送貨車は、水の補給に機関車がタンク塔の前に止まっていて、首の無い貨車は眠れるごとくに静かだった。』

神仙の寵児 8 煉獄篇/笹目秀和/国書刊行会P142-143から引用』

 

友人である玄君宅のドアを叩こうとする刹那、笹目秀和は、自らの天命を生きる覚悟を疏勒神仙のテレパシーにより気づかされた。

その逆転には一瞬の躊躇もなかった。

もっともこれは大悟でも小悟でもないが、どんな人でも、一生を左右する分かれ道を、不本意ながらあるいは内心納得して、見かけはネガティブな選択をせざるを得ないケースにぶちあたることがあると思う。人生では、本来の生き方を進めるためにそういうめぐり合わせや選択の機会はあるものだ。人間である以上、天命の一つの重要な分岐ポイントである。

笹目秀和の場合、それが求道と連動しており、北東アジアのカルマ、日本のカルマを消化するためにそれは公的にも必要なものだったのだろう。

老子は、個人の持つ天命を“名”とよび、大道を履みながらも“名”という個人的天命を生きるのが人間の姿であると見たが、その後11年におよぶシベリア抑留生活が待っていることも知らぬ笹目秀和は、恐れずその道に進むことができた。

 

この逸話で思い出されるのは、呂洞賓の一件である。

呂洞賓の10のテストのテスト6:

呂洞賓が外出して家に帰った時、家の財産はすべて盗賊に盗まれ、食糧さえも無くなっていた。だが、呂洞賓は怒りの色も見せず、いつものように耕作をはじめた。ある日、畑を耕していると、鍬の下から数十枚の金塊を掘り出した。しかし、呂洞賓は一枚も取らずに、そのまま金塊を埋めた。

 

ハイラルでの笹目秀和も、黄金を埋め戻した呂洞賓も、無私、無欲では説明できない。人間である以上、誰もがどうしようもなさを抱えている。どうしようもなさとは、天国的なものでは納得できないし、かといって地獄に落ちるのもいやだが、自分では手のつけようがない。だが、その人間としてのどうしようもなさは、個人の天命と裏腹であって、ニルヴァーナにつながっている。

 

その徹見がないとそういう行動はとれない。

ところが、すべての現代人は、その徹見を持ち、冥想により神仏を知って生きることを求められている。

 

『私たちが人間の眼でこの宇宙のすべてを見る時、

夢幻虚仮でないものは一つもなく、

あらゆる生々転変する夢幻虚仮が.

無数の人間ドラマを織りなす。』

(性愛漂流/ダンテス・ダイジから引用)

 

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世の終末と立替

2024-08-20 07:00:11 | アヴァターラ神のまにまに

◎正しい教えが伝わらなくなった時と伝わり切った時

 

出口王仁三郎の説明では、立替には、破壊シーンと復興シーンがあって、破壊シーンが立替であってノア、復興シーンは立直しであってナオ

立替とは、自分の心のことであって、「立替を 世人のことと な思ひそ 立替するは 己が身魂(みたま)ぞ(出口王仁三郎)」のことで、神人合一を言う。この結果の人間を、水晶身魂、クリスタル・ピープルと呼ぶ。

 

出口王仁三郎の随筆集水鏡から。

 『世の終末と立替

 

キリストの本当の教が伝はらぬやうになつた時。仏法に於ては釈迦の誠の教が伝はらないやうになつた時、それが世の終りである。即ちキリスト精神の滅亡、仏法精神の滅亡を意味する。此時にあたつて、本当の耶蘇教、誠の仏法を起すのが世の立替である。』

(水鏡_世の終末と立替/出口王仁三郎から引用)

 

このようにキリスト教も仏教も本当の教えが伝わらなくなった時、それが世の終りであるとしているが、逆に一方で正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こるとしているのがイエスやノストラダムス

 

大悟覚醒、人間が逆転して神になる場合、自分も家族も人間関係も財産も名誉も社会的地位もすべてを捨てる段階が必ず起きる。これは自我の死だが、これが世の終わりにしてノア。自我は死んで、不思議なことに神知る自分として再生するのだが、これが復活、復興であってナオ。

未成熟の者は復興はないのだろうが、人間には、堪えられないことは起こらないの法則もある。その辺を踏まえて、キリスト教では、「正しい教えが世界中に伝わり切った時に世の終りが起こる」と、成熟が万人に起きるまで世の終わりがないかのような言い回しをしているが、これは出来上がりの至福千年からみれば結果的にすべての人は成熟を経て神を知っているので、「成熟が万人に起きたから」世の終わりと至福千年が発生したと言えることは言えるのではないか。

こうした人にやさしいキリスト教の教えには見るべきものはある。一方で砕霊という無慈悲なものがあることを唱える道教は、人に厳しい支那の風土を反映していると見るのか、神仏は必ずしも人間に都合よく動くばかりではないと見るのか微妙なところがある。

2024パリ五輪閉会式で、イエスの最後の晩餐のパロディが披露され、現代フランスは涜神の巷であったことを改めて証明した。現代フランスには、正しい教えが伝わらなくなった時が来たのか、はたまた伝わり切った時が来たのか。

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Amenty Meditation Way

2023-08-22 06:58:49 | アヴァターラ神のまにまに

◎神知る人の心の中にある

 

“Amenty Meditation Way”。何十年か前の夏の東京都内のどこかの木立で、この看板を目にしたことのある人もいるかもしれない。

アメンティとは古代エジプトの書にアメンチーとして出てくるのを読んだ人もいるかもしれない。

アメンティは古代アトランティスの中央官庁兼最高神殿のことで、そこからトオスの系流とダンテスの系流が発する。ダンテス・ダイジはこの講話で、アメンティの復興を目指すことを宣言しているが、これは、この世代に限らず、向こう1万2千年の千年王国、みろくの世において、ダンテスの系流たちが生き続けることを期待する。

“Amenty Meditation Way”とは、その道場の名だ。

 

要点は、

1.トオスの系流

固定した形式を重んじる組織宗教。個々のメンバーは、必ずしも自身が神人合一することを最終目標としているわけでもない。

2.ダンテスの系流

組織に依らず、自分らしい生き方をしながら、自分自身が神になることを目指す。

 

ダンテス・ダイジの講話から。

『ダイジ「道場っていうのはね、君たちはすでに知ってるはずだ。それはアトランティスの時代にあったアメンティっていうのが、基本的な形式なんだ。そして道場には二つのタイプがある。

一つは仏教の流れって言ってもいい。トオスの系統なんだ。その系統っていうのはどういうのかっていうとね、形式を中心に置く。だからもうガチガチだ。とにかくすべての形式を守るってことだけが要点。

それはどういう意味かって言ったらね、個々の人間の事情なんかどうでもいいんだ。とにかく宇宙という花を開かせるためのさ、基本的な流れっていうのを守ろうとするためにある。だから、形式だけ残ってりゃあ、伝統だけ残ってりゃあ、誰かそれに一致する奴がさ、百年に一人でも千年に一人でも出てくる。とてもとても長い展望を持ってるんだ。

だからこそ君たち、君たちはまともに鏡見てごらん。自分でさえ本当は知っちゃいないことがわかるだろう。知ってるつもりになってるだけだ。よく見てみろ、鏡を。初めて見るようなもんさ。本当にまじに見たら。あれ、この人誰だ?そのくらい神秘なんだよ、君たち一人一人が。

そして、宇宙っていうのは、君たちの神秘さと同じだけ神秘だ。それはまさに、一つの、一本の花だ。一本の野の百合だ。そしてそれは花開こうとひとりでに動いている。それで何だっけ?」

 

弟子「もう一つの流れは?」

ダイジ「それは形式の方の立場ね。どっちにしても、永遠の展望の上に立ってるっていうこと。宗教といってもいいし、成熟と言ってもいいし、あるいは君たちが最終的に安心する場所って言ってもいいし。そういうものは、無限の時間の中で成立している。無限の時間だ、本当の無限の時間だ。

宇宙ができ、宇宙が死に、宇宙が生まれ、宇宙が育ち、宇宙がセックスし、宇宙が死ぬ。また宇宙が生まれる。そして、幾たびも幾たびも幾たびも幾たびも宇宙は繰り返す。

そしてその中でもってさ、宇宙は宇宙自身を喜んでほしいと思っている。そのために君たちみたいな、神経症みたいなろくでもないのを生むんだ。そして、花開かせる。

それが形式の方から行くとトオスの系統、すなわち仏教とかキリスト教とか、ああいうがっちりした伝統とやり方を決めて、と

にかく形式っていうのが大切だ。禅宗がその一番純粋な形だ。座禅の作法。朝起きる時間。何もかもガチガチだ。で、みんな狂っちまう。まあ、ろくに見性なんかしてる奴、一人もいやしない。もう日本の禅宗も終わりだろう。だが、そんなことは本当はどうでもいい、禅宗の立場からは。とにかく形式だけ守りゃあさ。そのうち、1億年後にでもそれにあてはまる人間が出てくる。

それを待ち続けてるんだ。それが道場の形式だ。

 

そして、俺の道場の形式。すなわち君たちの道場の形式。それはそうじゃない。それはダンテスの系統だ。それはアメンティのやり方だ。それはどういうものかっていうとね、君たちの一つ一つ、君たちの今の立場の一つ一つ、それをよりよく味わっていくんだ。君たちの恋愛、君たちの楽しみ、君たちのあこがれ、その一つ一つをね、楽しむんだ。で、禅門っていうのは、ある意味では完全に純粋なものをそこにポンと置いておく。そして、アメンティっていうのはそうじゃない。全般的な雰囲気っていうのを作るため。

たとえば、ある人がある社会形態の中で生きている。ところがどうしても適応できなくなる。そしてもしアメンティというものの努力が、種がそこに蒔かれていなければ、そいつはもうまったく無駄な人間だ。が、その雰囲気が少しでも残っていれば、奴がひとりぼっちで自分の部屋に籠っているのを、『奴はノイローゼだ』って言ってる反面、心のどこかでは、『何か奴の中に真実への何かがあるんじゃないか、何か奴を守ってやらなくちゃいけないんじゃないか』、そういう思いが起こる。それがアメンティだ。

 

そして、1万2千年前に花が一度開いた。君たちがだよ。そして、その花は散って、その種が延々と続いて、今また新しい花を開こうとしている。ここ30年のうちに。そしてその花が見事に開けば、そこから種ができる。そして次の1万2千年の間、その種が続くだろう。これは人間の努力にかかっている。決して、放っておけば成立するようなものじゃない。

もし放っておいてそういう種というものを守らなかったら、人間というのは、もうどうしようもない苦悩の中でのた打ち回ってね、破局しちゃうだろう。そこが不思議な所さ。

 

つまりね、君たちがいなきゃ神は成立しないんだ。一方、神がいなきゃ君たちは成立しない。

だから、今君たちに守れって言ってる道場っていうのはね、その1万2千年間の種をまくためだ。だって幾度も幾度もその道場に接することになるんだぜ、君たちは生まれ変わり立ち代わり。

自覚はしないかもしれないけど。が、いずれにせよ、一番この世の中で大きい出来事っていうのはね、たった一人の人間の中で、花が開くっていうことだ。だからとにかく、この30年のうちに君たちの花を開かせねばならない。で、花が開くっていうのはね、すべての存在っていうのが、存在自身を、祝福するっていうか、賛美するっていうか、そのときすべてが(不明)、すべてが。そういうわけで、1万2千年間の人間の努力っていうのは、いまやその限界点まで達してるんだ。決して、いわゆる西洋文明がでっち上げたさ、価値観とか何とかに惑わされる必要はない。

君たちがね、道場を守り、そして自分の修行、何も全部を切り離して何かになる修行じゃない。人と触れ合ったり、さまざまなことをしながら修行するんだ。ただ必要なことは、心の底からの誠意でもってそれをやっていくっていうこと。それが存在の唯一の意味なんだ。どんなに

馬鹿げて見えるにしてもね。」』

 

ダンテス・ダイジの時代観では、次の一万二千年は、至福千年。それは、すべての人が神知る時代。

現代は神知る人はとても少ない。ところが老若男女を問わず、人生航路上の様々な出来事の中で、不適応になったり、うつになったり、ひとりぼっちで自分の部屋にひき籠もっているような場合もある。周囲の人がそんな人を見て、人間失格だとか社会人失格だとかクズだとかダメ出しをしないで、認めたり守ったりして行く雰囲気づくりが狙いなのだ。

『アメンティっていうのはそうじゃない。全般的な雰囲気っていうのを作る』

その雰囲気の中で、神を知る、悟りが花開く。開花した花は実をつけ、時代の花の種となって、千年王国が続いて行くのだ。

その雰囲気造りには、『君たちがいなきゃ神は成立しない。一方、神がいなきゃ君たちは成立しない。』という原理があり、人が努力しなければ、その種は蒔かれない。

なぜ雰囲気か。花は、かそけく失われやすいものだから、それが生え花咲ける雰囲気の場所にひっそり咲くだけのものだからである。

それなくして人類滅亡回避もないというのも現実。

 

また、その雰囲気を作るには、組織宗教に依らず個人として実際に悟りを持って神と共に生きる人物が何人か出てくることが必要だし、悟りとは何か、神とは何かを説明するテキストも必要だと思う。

このダンテス・ダイジの談話は、初耳な用語と世界観が多く、さらに悟りとは何かが大体見当がついている弟子と、将来の転生において悟りとは何かが見当がつくであろう弟子向けに語られているせいか、短い文章の中に内容が恐ろしくぎっしり詰め込まれている。だから前提知識のない人が読めば、とても晦渋な文章である。

 

そして、“Amenty Meditation Way”という道場は、どこかの街や山の中や浜辺に建物としてあるわけではない。始まりは、確かに建物としてあったにせよ。神知る人の心の中にあるのだ。

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悟りと生きる情熱の多寡-4

2023-08-20 03:07:19 | アヴァターラ神のまにまに

◎悟りに足る情熱の多寡

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

逆転とは、悟りのこと。日本では肉体死した人のことを「仏になる」と言い慣わすが、肉体死した人のほとんどが悟りを開くわけではないことをまず述べている。

そこで情熱を持つ人だけが、死に際して悟りを開くと述べる。その死は肉体死であるとは限らず、情熱がある人の精神の死であることがある。

 

『S「そういうふうに、逆転がない人も沢山いるんですね。」

ダン「うん、逆転がない人っていうのは折り合っちゃう。妥協しちゃうんだ。つまり、例えば、死っていうものを、死の経験をするとするでしょ。そうすると『ああ、死ぬのか』くらいで考えてさ『死ぬんだ。もうこんなことは、もうこれ以上関わってもしようがない』ってふうにさ、どっかへしまい込んじゃうのさ。懐へ奥深く、そしてパチンと蓋をしてさ、鍵を掛けて、その鍵をポン投げて。」

S「それが大半の人間でしょう?」

ダン「うん。大半の人間だ。だから、何よりも情熱が人をね、その人自身に変えさせる。情熱なんだ。本当に愛しさを感じた人でなければ、無限の広がりを経験することはない。

でも、大丈夫。ここにいる人達はさ、それに出会うだけの情熱を持ってるから、こういう縁が出来た。』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P5-56から引用)

 

「無限の広がりを経験する」ということも悟りを開くということ。

悟りには生きる情熱が必要だ。前段で迷いの大きな人だけが悟ると語っているが、生きる情熱が大きい人だけが、迷いが大きい。禅で言えば疑団。禅でも、坐れば坐るほど必ず疑団が大きくなるというものでもなかろう。禅僧洞山は、死んだばかりの僧(悟りきらないまま死んだ若い僧)の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するシーンがあるが、それはそのことを示した場面の一つ。その若い僧には情熱が足りなかったのだ。

 

ダンテス・ダイジは、弟子たちに対し、彼と知り合ったからには、そのための情熱は既に足りていると勇気づけている。

 

じゃあどのようにすれば情熱を増やせるのかという質問が来るのだが、どうもその情熱は生まれついてのものであるような感触である。坐り詰めに坐る、あるいは為すべきことを一つ一つこなしていく、そうしたことの先にあるのが、悟りに足る情熱量のその人生での若干の増加なのではないかと思う。

 

洞山には、この話の他に最上位弟子(首座)を問詰したあげく死に追い込んだ故事もあるが、それもその辺の理屈を反映している事象なのではないかと思う。

 

今生において「生きる情熱」をさして増やせないとした場合、万人一斉に悟るシーンが予定されているシーンが幻視されていることが新たな疑問点として浮かび上がってくる。

それは、キリスト教の空中携挙であり、出口王仁三郎の「凡夫の耳も菊の年」である。

これは、歴史的社会的な事件なのかどうかはわからない。ただし、チベット死者の書で、死のプロセスの最初の段階において、万人は必ず「原初の光」という神を目撃することができるシーンがあることを意味している可能性もあるように思う。

 

それは、ファンタジー好き、幻視好きの人には面白くない解釈かもしれないが、承知しておくようなことかもしれないと思う。充分な情熱なくしても、「原初の光」の目撃はあり得るのではないかということ。

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悟りと生きる情熱の多寡-3

2023-08-19 03:38:55 | アヴァターラ神のまにまに

◎この世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面すること

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

『渡辺「さっき言ったね、普通の宗教のメソッドの悟り方っていうのは、機が熟してないと起こらない?」

ダン「うん。全く偶発的に起こる。」

渡辺「偶発的?」

ダン「うん。」

 

渡辺「起こるだけの素地というか、経験ていうものがあるってことでしょ。」

ダン「もちろんある。それは、それに機が熟するというよりはね、その人が本当にこの世の仮の姿というのを認めてしまう。認めざるを得ないような事態に直面したっていうことだ。

 

そういう時は、本当にものすごくそれはきつい。最初は。きついけど、必ずその人の情熱が、本当にこの世のどうしようもなさっていうのをさ、簡単に認めるような人でなければないほど、つまり迷いが大きければ大きいほど、 必ず素敵な世界であったっていうことを気付く。」』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P55から引用)

 

ここでは、悟りがどのように起こるかを、微妙な言い方で語っている。

つまりその人が迷いが大きい人であって、本当にこの世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面する場合に悟りが起こるとする。それは、そのような事態が起こっても、誰もが悟るわけでもない。

それを承けて考えてみると、

 

迷いが小さい人の場合、行く先は次のとおりになる。

①元の社会的常識世界に退行していく

 

一方迷いが大きい人の場合、行く先は次の三種のどれかになる。

①元の社会的常識世界に退行していく

②発狂する、自殺する

③悟りを開く

 

翻って、例えば長年神の来臨を待望した人が、いざ神が不意に来臨した時に寝過ごしてしまうなどというのは、「起こることは起こったが、何が起こったかは分からないままだった。」という風に説明されてしまう事例の一つなのだろう。

 

なぜそのようなことが起こるのか。

 

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