アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

西洋には一生を夢で見て求道に入る寓話がない

2025-01-14 07:16:06 | 人と神の「実際のところ」

◎キリスト教では「自分は罪人だ」から始まる

 

西洋には高粱一炊の夢のような一生を夢で見て虚無を感じ求道に入るというタイプの寓話がない。これは、キリスト教の神へのアプローチの第一歩が「自分は罪人だ」という自分に対するネガティブ方向への自覚から始まっているせいなのだろうと思う。「自分は罪人だ」「自分は罪人だ」と繰り返すことで、自意識に対する圧力をかけ続け、その圧力が極点に達したところで破裂させ、神人合一に至らせる。キリストの求道プロセスの根幹はそういうところではないだろうか。だからゾイゼみたいに肉体を苛める苦行まである。

 

現代人のように一生をライフ・プランでシミュレーションして、最後に死ですべてを失うという、一生全体の虚無性を人生の最初に見せてしまえば、もっと自然に冥想修行に入って行ける。一方「自分は罪人だ」から始まるアプローチはとても苦しくつらいので、もっと自然な入り方を知ればそちらの方に流れがちなので、キリスト教は、槿花一朝の夢のような観じ方を封じたのだろう。

 

よって西洋では人生の虚無性の表現は、単発で出てくる。

1.シェイクスピアの「マクベス」では、主人公マクベスが、夫人の死去の知らせを受け、

「人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。 あわれな役者だ。

明日、また明日、また明日と、時は

小きざみな足どりで一日一日を歩み、

ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、

昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す

死への道を照らしてきた。

消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!

人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、

舞台の上でおおげさにみえをきっても

出場が終われば消えてしまう。

白痴のしゃべる 物語だ、

わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、

意味はなに一つありはしない。」

 

2.シェイクスピアの「テンペスト」ではプロスペローが

「この地上に在るー切のものは、結局は溶け去って、

いま消え失せた幻影と同様に、

あとには一片の浮雲も残りはしない。

我々人間は、夢と同じもので織りなされている。

はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。」

 

3.ギリシャ神話の「シーシュポスの神話」では、シーシュポスは、永遠に岩を山の頂上まで運び続ける罰を受けるが、岩は毎回頂上から転げ落ちてしまう。

 

キリスト教に限らないが、人は一生の間積善陰徳を重ねて天国極楽的に生きるのはよいが、そうやって積み上げてきたものを一生の最後に死によって失う。これも虚無、不条理、理不尽である。死の直前までそういう目に遭わなかった人でも、必ず遭う。人によっては人生早期に虚無、不条理、理不尽に遭う。何のための日々の努力の積み上げだったのだろうか。

そして死の直前に求道、冥想修行に入っても、大方は間に合わないのだろうと思う。

よって早期からの冥想修行が好ましい。

神に至る道は、大別すると三種。神に憑依してもらう、神を見る、神人合一。

成熟バロメータ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

積善陰徳したその後

2025-01-13 07:16:21 | 人と神の「実際のところ」

◎社会的成功と巨額寄付、だが死はすべてを奪うこと

 

嘘を言わない、善い事をする、悪いことをしない。そういう禁欲的な日々の積み重ねの結果、過去の悪業、悪因縁は徐々に払拭され、お金はたまり、結婚相手にも恵まれ、子孫も繁栄し、畳の上で大往生し、死後は、天国極楽に行く。大学生の初期は、そいう人生観、世界観を当然のものとして信じていた。

ところが先日笹目秀和の『ストップ・ザ・富士大爆発 相楽予言に挑戦!人類の業障と因縁を解く/笹目秀和』を読んでいたら、貧困卑賎の一男性が、北京で屋台から始めて一流レストランを成功させた話がでてきて、彼がたまった財産の半分を紅卍会に寄付したことが大変な善行を積んだみたいに書いてあった。

これは、勤勉な世間的成功者に宗教教団が巨額寄付を募る話であって、本人の大悟覚醒とは、ほとんど何も関係ない。

そこで、槿花一朝の夢、黄梁一炊の夢、邯鄲の夢など、中国では高級官僚になって栄華を極めるが、最後没落して亡くなるいう似たモチーフの話がいくつかあることに気づく。この夢をきっかけに、彼らは道教修行に入って行くのだが、道教修行の目的は、恭喜発財などの財産形成や出世や安楽でリッチな生活や魂の伴侶との結婚ではない。

この世の苦悩と絶望、不条理、理不尽を超越しようとしているのであって、死後天国に再生しようとして、冥想修行しているわけではない。

 

宗教修行、冥想修行、瞑想修行、ヨーガ修行している人は、ほとんどの人は最初はこうした現世利益から入っていくが、それは本筋ではない。また本筋に入って行くには本人の成熟が必要ではある。成熟の兆しは、倦怠(アンニュイ)と憂鬱。

 

スピリチュアル周辺には、山医命卜相と言って、西洋占星術、四柱推命、紫微斗数、0学占い、手相、人相、タロット、ルノルマン、易、姓名判断、風水、九星気学、おみくじ、霊感占い、神下ろし(チャネリング)など多数の占いがあるが、それらは本来現世利益目的ではなかったはず。冥想修行で大悟覚醒・神人合一した結果、神通力・霊能力が発現し、それを利用して無辜の人を善導しようとしてこうした占いを用いるのが本来の姿だと思う。

つまり、悟っていない人による占いアドバイスは危険であり、悟っている人による占いアドバイスだけが厳密な意味で有効なのだと思う。

 

つまりは、世俗的価値観を捨てて無用の用を生きるということだが、それはまま周辺の人には理解されがたい。それでも無用の用に生きるのだ。それだけが、地上天国、至福千年、みろくの世を実現する道であり、人類生存率を上昇させる道だから。

 

よって日々、悪いことをしない、善いことをする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

痛みや苦しみを忘れようとする人、打ち破ろうとする人

2025-01-12 05:59:10 | 人と神の「実際のところ」

◎無意識から意識へ、冥想の道

 

人間の覚醒のためには、未だに先入観と抑圧が必要な時代。不条理・理不尽で人を追い込むと、意識と無意識のせめぎ合いが起こる。苦しいけれどそこで飽くまで意識を持ち続けると意識が全体に広がる瞬間がある。それが大悟覚醒。

 

痛みや苦しみを忘れようとすることは、一種の無意識だ。人は一日二十四時間、痛みや苦しみを忘れる方法を探している。内側に多くの痛みや苦しみを抱えていることを忘れるために、人と話したり、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、トランプをしたり、かけ事をしたり、モバゲーをしたり、自分を忘れられるような何らかの悪さに熱中したりしている。

 

人は一日二十四時間、自分を忘れる方法を探している。見れば怖いから、あなたは痛みも苦しみも見たがらない。だから、ありとあらゆることをして痛みを忘れ、苦しみを隠す。だがこの痛みも苦しみも、忘れたら消え去っていくものではない。傷を隠すことで傷が癒えることはないのと同様に、痛みも苦しみも忘れることで消え去りはしない。美しいファッションや外聞で覆っても、何も変わらない。それどころか美しいファッションや外聞で取り繕うと、それらは毒となり致命的になる。

 

だから、傷を隠してはいけない。カバーを払い、痛みや苦しみに直面するのだ。忘れようとしてはせず―――カバーを取り払い、それを知り打ち破る方法を、冥想(瞑想)により見つけなさい。積極的に痛みを打ち破ろう、超越しようとチャレンジし、それを忘れない人だけが、生の神秘を知ることができる。

 

痛みや苦しみに直面し、それを打ち破る方法を探している人は、宗教的な人。痛みや苦しみを忘れる方法を探している人は、非宗教的な人。

 

いつも自分のしていることを見つめてみよう。すると、自分が痛みや苦しみを忘れる方法を探している人かどうかわかる。そして、いつかそんな気を紛らす方法がすべて奪われたら、自分はいっそう惨めになるだけだ。

 

痛みや苦しみを忘れようとすることは、無意識方向に退行すること。一方痛みや苦しみに直面し、打ち破ろうとすることは、意識方向に進むことであり、意識的であろうとすること。その方向性は、大悟覚醒、神人合一、身心脱落神のなかへの消滅(ファナー・フィーアッラー)までの道程においても変わらない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NAOKIMANと日月神示の仲矢伸一の対談

2024-11-28 07:08:56 | 人と神の「実際のところ」

◎古史古伝、生成AI、日月神示、みろくの代

 

Youtubeを何本か見たのだが、非常に考えさせられるものがあった。

一本は、NAOKIMANと日月神示の仲矢伸一の対談(秘密結社Naokiman Show

日本最強予言書『日月神示』を解読した男とは?!

https://www.youtube.com/watch?v=7ovGVsk7ZSg)。これは、なんと144万回視聴。大体知っている話が多かったのだが、竹内文書などの神代文字の古文書のことに言及があり、一度は文書を見ているのだなと思った。確かに古史古伝系は重要で、神代文字は多くの種類があるものの、所詮古い時代の予言であり、その将来像は多くは古いがゆえにズレが大きいのだろうと思う。というのは出口王仁三郎は古史古伝への重視はあまり唱えなかったからである。

 現代は、わが身このままで未来予知もできる肉体に進化したからには、特にそうしたものに興味のある人以外は、あまり研究してもしょうがないのではないかと思った。

 

次に生成AI。これは、多くの人の話を聞いてみると、詮ずる所、核ミサイルのボタンを生成AIが握って人類絶滅までに至る可能性を懸念していることがわかる。仲矢伸一は生成AIの将来についてははぐらかしていた。私からみれば、生成AIは飛び魚であって、水平にしか移動、拡大しない。生成AIは、垂直ジャンプできないのである。生成AIは次元を超えるという真似ができないから、古代ギリシアでも低評価だった水平移動しかできない飛び魚に似たテクノロジーなのだろうと思う。ただし生成AIはSNSと相俟(ま)って、何が正しくて何が誤りなのかわからない混乱をますます深めることになると思う。

なお日月神示は出口王仁三郎の審神を経ていないから、私はあまり評価していない。

youtube動画界では、2025年危機説が盛んだが、これは1999年危機説と同様で、世界滅亡に至るカタストロフィーが2025年に起きるかどうかが問題なのではなく、2025年に各人に意識の絶対的な危機状況がやってきて、そこで覚醒できるかどうかが問題なのだと思う。肉体死が起きるからといって、その際誰もがニルヴァーナに入ったことを自覚するわけではない。

 

この対談では、令和時代が来たようにみろく時代が来て、各人は漫然と何もせずともみろく時代が来るような共通理解があるようなのだが、たとえ驚天動地のポールシフトが起きても、その時自分が悟るかどうかは別の話。

またこの対談では、みろくの代では、全人類が霊感覚を持つことにも言及されていたが、その霊感覚は悟りの結果随伴するもので、悟りが主で霊能力があることが従。霊能力があって悟っていない人は、昔も今も一杯いる。

 

Naokimanのしゃべりは絶妙で、関心の方向は現代的であり、まさに危機の時代だからこそ百万再生を稼ぐのだと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスが海の怪物リヴァイアサンを吊り上げる

2024-10-27 06:50:35 | 人と神の「実際のところ」

◎無意識である魚を神化する

この絵は、旧約ヨブ記41章1節の海の怪物リヴァイアサンが、餌としての十字架に喰らいついている図(フォン・ランツベルク「快楽の園」(1180年頃))。

リヴァイアサンの口は上を向き、十字架を飲み込もうとしているが、十字架の先には七つのチャクラにして七つの次元七つの身体である七つのイエスの顔がついてる。

そして神としてのイエス・キリストが、餌にかかったリヴァイアサンを引き上げようとしている。リヴァイアサンは、地獄であって欲望の表象だが、地獄の底も天国の天辺も根こそぎ引き上げるのだ。一本の釣り糸なる霊線

七つの次元、七つの身体を用いるキリスト教は、クンダリーニ・ヨーガ系だが、冥想法があまり明かされていないのはなぜだろうか。

 

イエスのシンボルは魚である。魚は無意識の表象で、無意識を意識化するのが悟り、ニルヴァーナ、神化。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恋人たちは互いのなかに死ぬ

2024-10-24 03:47:14 | 人と神の「実際のところ」

◎愛は死だ

 

愛は死だ。自分が落ちる。これは、真剣な恋愛経験者なら誰でも知っている。

近松門左衛門の情死物に心が揺すぶられるのは、現代人も同じ。

 

OSHOバグワンの説明。

『そしてこれらだけが死の形ではない。さらにもっと微妙な死の形もある。恋に落ちるとき、あなたは死ぬ。愛は死だ。それは最も純粋な死だ。死をもいとわない者だけが愛することができる。死ぬことを恐れる人は、愛することもまた恐れる。世界に愛が欠けているのはそのためだ。人々はいつも愛について考える―それについて幻想を抱くが、そのなかに入っていこうとはしない。なぜなら、愛は死だからだ。死があなたをおびえさせる。

 

恋人たちは互いのなかに死ぬ。互いのなかに死ぬことができる者たちだけが恋人どうしになる。ほかの者たちはゲームを演じているにすぎない。愛のゲームはほんとうの愛ではない。それはまがいものだ。数知れぬ人々がまがいものにとどまっている――彼らは死を恐れ、それゆえに愛をも恐れているからだ。愛はつねに死をもたらす。愛は死への扉であり、死は愛への扉だ。

 

あるいは瞑想をするとき、そのときにもあなたは死ぬ。人々が瞑想に深く入ってゆくことを恐れるのはそのためだ。毎日、誰かが私のところにやって来て言う――「和尚、それが起こりはじめました。私は怖くなってしまいました。心の底から恐ろしくなりました。瞑想が起こっているので す。まるで自分が消えてしまうような気がします。どうか私を守ってください」彼は瞑想に意欲的だった――それが起こっていないとき、彼はそのことをひどく心配していた。今やそれが起こりはじめ、それがまた不安の種になる。私は理由を知っている――瞑想について読んだり聞いたりしているうちに、彼は強欲になってしまったのだ。瞑想が人を深い死に導くことに気づかないまま。

 

あるいは、あなたは師に自らを明け渡す。それは最も深遠な死のひとつだ――自我が死んで、消えうせる。これらはみな死であり、死はつねにやって来つつある。』

(英知の辞典/OSHO/めるくまーるP256-257から引用)

 

『恋人たちは互いのなかに死ぬ。』というが、そんな相手に簡単にマッチングアプリで出会えるものだろうか。

 

後に大悟覚醒した冥想修行者たちは中国や日本中を回って真正の悟ったマスターを探したが、そう何人もいるものではなかったことを知った。会員多数のマッチングアプリの向こうに、互いのなかに死ねる恋人候補が何十人もいるわけではないと思う。

まず自分が死ぬ覚悟があって本物のマスターに出会えるのと同様に、自分が死ぬ覚悟があれば本当の恋人にも出会えるだろうと思う。

 

愛は悲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万有と道

2024-10-23 03:16:39 | 人と神の「実際のところ」

◎祖先が一番初めに通った道

 

出口王仁三郎の随筆から

『万有と道

 

鳥獣類にも皆彼等が通行する道というものが定まっているのである。そして、その道以外、決して他の道を通らぬものである。だから猪でも鴨でもその通る道に待伏せしていると、きっとそこを通るから捕獲することが容易に出来るのである。その道というのは彼等の祖先が一番初めに通った道であって、子々、孫々その道を通るのである。決して勝手次第に歩くもので無い、総てのものは道によって立っている。神も道によって立ち、人も道によって立ち、万有も道によって立つ。』

(水鏡/出口王仁三郎から引用)

 

人間にも道があって、それは祖先が一番初めに通った道。その道は、完全人、あるいは真の人を念頭に置いている。イブを分離する以前のアダムが完全人アダムカドモン

 

アダムカドモンとは、原人、原始の人などと訳されるが、人間の祖型にして完成した人間の謂いである。完成したというニュアンスには、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗などの二元の両方すなわち両性具有が含まれる。荘子の真人もアダムカドモンと同義。禅の信心銘のえり好みをしないというのも同じ流れ。

タロットなら魔術師

 

古事記ならウガヤフキアエズが完全人。

古事記のウガヤフキアエズのところでは、卑しい竜女がウガヤフキアエズという人間を産むのだが、これが人間の進化すなわちジャンプアウト(垂直上昇)を象徴している。これは逆転の示唆でもある。      

古事記上つ巻は、ウガヤフキアエズの段で終わっている。出口王仁三郎は、終わりの時代に、上つ巻の内容はすべて現実化すると予言している。

 

さて道と言えば、出口王仁三郎著作集に真人の道という文章がある。真人の心が真心。

『真心とは、天地の先祖の大神の大精神に合致したる清浄心である。』

大神の大精神に合致したる清浄心とは、真似ぶことでは、なかなか到達することはできず、大神と神人合一することを言っているように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魂の入れ替え

2024-10-22 03:35:03 | 人と神の「実際のところ」

◎意につくす能はざるところに神の権威があり、また真理がある

 

出口王仁三郎の随筆から

『神様と味はひ

 

書は言を竭(つく)す能はず、言は意を竭す能はず、意は真を竭す能はずと云ふことがある。

意に竭す能はざるところに神の権威があり、又真理がある。神は説明することは出来ぬ。恰(あたか)もボタ餅がうまいと云つても、どんなに甘いといふことは、味はぬ人に説明することが出来ないやうなものである。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

神様は味わってみなくては、わからない。

見るだけでは、足らないのだ。

 

さらに

『魂の入れ替え

 

人間は誰でも毎日魂を入れ替へてもらつてゐる。そのために善悪の言心行となつて現はれる。改心慢心は魂の入れ替つてゐる證拠である。』

(玉鏡/出口王仁三郎から引用)

 

これは、隙間理論によれば、刹那毎に人間の魂は入れ替わっている。

あるいは、夢を見ない熟眠時に毎晩人間の魂は入れ替わっている。

出口王仁三郎は、一体どういうつもりでこれを書いたのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知恵の真の始まりは教えを切に求めること

2024-10-03 06:18:20 | 人と神の「実際のところ」

◎ソロモンの智恵

 

西洋錬金術師たちもソロモンの智恵からヒントを得ていたというので、久しぶりに見返してみた。ソロモンの智恵は、ベン・シラの智恵に比べて当時のユダヤ教信者向けの戒めのようなのが多く、純度に欠ける点がある。以下に示すのは、わりと純度の高い部分。

未悟者を友人として扱っているところはなく、あくまで師と弟子が基調であって、一部時間のない世界から書かれたものもある。

 

智恵は、般若心経の般若であって、ヴィシュダ・チャクラの窮極の智恵。

 

早起きはすべての基本。

七 

すべての者の主にいます方は人の顔を恐れず、人の大きさを心にかけない。

何故なら小も大も彼自らが造ったのだし、すべての者を彼は同様に心にとめられるから。

力ある者には厳しい検(しら)べが臨む。

だからわが言葉は、暴君たちよ、君たちにこそ向けられる。

君たちが知恵を学び、離脱せぬために。

 

一〇

 聖なるものを聖く守る者は聖とせられ、それらを教えられた者は弁護されよう。

一一

だからわが言葉を乞い求め、慕い求めて、教えを受けよ。

一二知恵は輝いて朽ちはてることはなく、それを愛する者たちは容易にこれを見、

それを求める者たちに知恵は見出され

一三

祈求する者たちに先んじて自分を知らせる。

一四

早く起きて求める者は労せずして、おのが門辺に坐する知恵を見出し得よう。

一五

知恵を深く想うことは全き悟りであり、知恵のために目を覚している者は、速かに乱れた心をすてる。

一六

 知恵はおのれに値いする者を探しに行き、道で彼らにやさしく出会い、思いをつくして彼らを迎える。

一七

知恵の真の始まりは教えを切に求めること。

一八

教えに想いをこらすことは愛である。

愛は知恵の法(のり)を守ることであり、法に固く着くことは不滅を確保すること。

一九

不滅は神に近づくことを得させる。

二〇

ゆえに知恵を切に求めることは王国へと導く。

二一

もし君たちが王座と王笏を悦ぶのなら、 おお、諸国民の支配者よ、知恵を敬え、

いつまでも王たることが出来るためである。

二二

さて知恵とは何で、いかにして生まれたか、わたしは告げ、その神秘を君たちに隠さない。

むしろその造られた初めから説き明し、わたしは知恵の知識を明るみに出し

その真理の傍らを通り過ぎないようにしよう。

二三

人を滅ぼす妬みと同行すまい。なぜなら妬みは知恵とは合わないからだ。

二四

知者が多くなれば世界の救いとなる。思慮ある王は民の繁栄をもたらす。

二五

それ故君たちはわが言葉に教えられ、益せられるがよい。』

(聖書外典偽典2 教文館/P32-33から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟りまであと一歩の秘密

2024-09-29 03:20:41 | 人と神の「実際のところ」

◎賢者の石、第五元素など

 

悟りとは、個人が宇宙全体に逆転すること。

西洋錬金術の最終目的は、土くれたる肉体が黄金に変成すること。それは、実は悟りのこと。そのために必要な最後のトッピングは、賢者の石とも第五元素ともチンキとも言う。

最後のトッピングは、発見する手順はあるらしく、その形状・色などは伝えられているが、どちらもはっきりしていない。

 

禅では、いきなり法に飛び込むため、大悟の直前になにか共通するこつのようなものがあるだろうと修行者は誰もが考えるので、禅関策進のような悟りの直前直後の様子集のようなものが作られた。

実際は、鍵をがちゃりと置いた音で悟ったり、投げた石が竹に当たりカーンと音がしたので悟ったり、背中を壁にのっかかろうとしたら壁がなくて後ろに倒れて悟ったりなどなど様々であり、一定のパターンなどないと言ってよい。

 

またこの世界でよく言われるのは、最後の一歩は自分で登らなくてはならないということ。

頭頂の封印は、師匠筋が切ってくれるのだろうが、誰かが引っ張り上げてくれるわけではなく、自分が登らなければならない。

 

こうしたものを考え合わせると、必要な最後のトッピングは外から来るのかもしれないが、実はそこへ至る準備と最後の一段は、自分で登らなければならないのだろうということ。

 

ソーマ・パイロットの言葉でも、水先案内すなわちパイロットはソーマがやるが、明らかに最終ステップは自分で履むのだろう。

 

最後のトッピングさえあれば何とかなると信じて努力する錬金術師も古来無数にいたのだろうが、それまでの準備と最後の一歩の勇気は同様に問われるのだろう。

 

ダンテス・ダイジは、悟った人のことを、あらゆる実感を経た者と呼んでいたが、いきなり最後のトッピングがゲットできるものではないことを暗に言っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思ひて命の神を祈りつ

2024-09-26 03:54:01 | 人と神の「実際のところ」

◎出口王仁三郎が無常を歌う

 

昭和の大宗教家出口王仁三郎の歌集言華(下)から「無常」

 

『無常

 

春の日を咲きほこりたる山桜の一夜の嵐に散る世なりけり

 

友垣と語らふ間さへ死の神のかげはその身を襲ひ入るなり

 

青空の奥の奥まで澄みきりし日も夜の間に雨となるなり

 

死の神の手にゆだねたる人の身を生き通しなる神にすがれよ

 

生き生きて生きのはてなき命こそ天津御神の賜(たまもの)なりけり

 

肉体はよし死(まか)るとも魂は幾万劫の後まで生きん

 

栄枯盛衰常なき人の身にしあれば栄えの神を夢な忘れそ

 

親しげに語り合ひたる友垣の一夜(ひとよ)さのまに訃を聞く世なり

 

露の身のはかなき命を思ふかな若かりし友の訃を聞く夕べを

 

若返り若返りつつ幾千代も生き通すなり神にある身は

 

今日ありて明日なき命を持ちながら欲のかはきて人に憎まる

 

風なきに桐の葉ひとり落つるごとはかなきものは命なりけり

 

一度(ひとたび)は死ぬべき命と知り乍(なが)ら欲に底なきおろか者かな

 

老若の区別はあれど生命の命(いのち)はすべて同年なりけり

 

三歳で死するともよし百歳の命保ちて死するも亦(また)よし

 

一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思ひて命の神を祈りつ

 

限りなき命の神に頼るこそ人生唯一の幸福と知れ

 

うつそみの人の命は春の雪野べの陽炎に勝りてもろき

 

春の雪の忽ち消ゆるさま見れば人の命の果敢(かい)なさを思ふ

 

木枯に吹き叩かれてあともなく梢放るる落葉の命よ』

(言華(下)/出口王仁三郎/みいづ舎P137-139から引用)

 

無常とは、永遠不壊に変わらないものなどなく、世の中のすべてのものが移り変わり、生滅すること。

 

『若返り若返りつつ幾千代も生き通すなり神にある身は』の生き通しの神が自分であるとは、自分が世界のすべてであって過去現在未来を含む一枚板のような現実に生きているということで、神人合一の第六身体のこと。

 

それでも神ならぬ自分は、一度(ひとたび)は死なねばならぬ人の身と思って命の神を祈るのだ。

 

二重の現実感

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現実としての超能力と現実認識の実際

2024-09-18 03:14:27 | 人と神の「実際のところ」

◎エネルギーとしての意識

 

笹目秀和の出会った超能力みたいなものは、

  1. 白頭山で200歳のリョ神仙に出会ったこととテレパシー通信したこと。
  2. 崑崙山脈で500歳の疏勒神仙に出会ったことと肉体でトラック並みの大型鶴(鶴仙)に乗って崑崙山中を何十キロか高高度を飛行したこと。
  3. リョ神仙宅にも疏勒神仙宅にもラジオも新聞もないが、ヒトラー、スターリン、ムソリーニを悪玉の中心人物の一人として天眼通にて承知していたこと。
  4. また両神仙は、宿命通にて、笹目秀和の人生全体のディテールを、その死に至るまで承知していたこと。

 

このような超能力は、真正の覚者には普通にあることである。

ただし、両神仙など覚者の世界観人生観は次のようなものであるように思う。

 

1.人間の精神は物質的存在を超越する。したがってわれわれは多次元的存在である。

2.自我は精神の中核ではなく、より大きな実体の一部にすぎない。その実体は、自我が無意識の精神として感知するものから現れ、遂には世界全体宇宙全体へと逆転する。

3.時間空間物質は世界全体宇宙全体の一部であり、唯物論者の立場は幻想である。

4.意識とはエネルギーの一形態である。

5.物質と精神活動は、エネルギーとしては同列であり、物質パワー、肉体パワー、気・プラーナ、情動、想念などはその現われの違いと見ることができる。

したがって、ある次元では、思想とは「物質的」存在であるともいえる。

6.自我意識の働く次元(コーザル体以下)では、肉体の自我意識に気づかないような霊的存在を体験することがある。

7.これら隠れた力(霊的存在)は「自分のことで精一杯」なので、時空の因果関係を離れたところで働き、自我の主観的経験を象徴的に物質的領域に映し出すことがある。これが霊現象、オカルト現象だが、見え方は、人間の平素慣れ親しんだ見方で解釈するものだ

8.他者の精神的エネルギーは、意識的に焦点を当てるにしろ無意識にしろ、精神的にも肉体的にも直接人に影響を与えることができる。

※神はバチを当てないが人はバチを当てるから、気をつけろ。by出口王仁三郎。

9.時は意識そのものに関係があり、隙間と複雑に結びついている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見神と言いながら神人合一を説く

2024-08-14 03:09:06 | 人と神の「実際のところ」

◎ふたつのものを同時に見ることはできない

 

OSHOバグワンは、見神と言いながら神人合一を説いている。

 

『あなたのなかに神を見はじめるというのは間違っている。――――もはやあなたを見なくなるのだ。聖なるものだけを見るようになる。木のなかに神を見るのではない。もはや木を見るのではなく、聖なるものだけを見る。

あらゆる原子のひとつひとつのなかに神が存在するという人がいたら、その人は完全に間違っている。原子と神の両方を見ているのだから。

ふたつのものを同時に見ることはできない。この場合の真理は、「あらゆる原子のひとつひとつがまさに神だ」であって、「あらゆる原子のひとつひとつのなかに神がいる」ではない。原子のなかに閉じこめられて神が坐しているのではない。何であれ在るもの、それが神だ。

 

神とは〈在るもの〉への愛ゆえに与えられた名前。〈在るもの〉、それが真実だ。愛のうちにあって、われわれはそれを神と呼ぶ。だが、どんな名前で呼ぼうと違いはない。したがって、わたしはあらゆる人のなかに神を見はじめることを求めているのではない。内に目を向けはじめるようにといっているのだ。内側を見たとたん、あなたは消える。あなたの消滅とともに見るもの、それが神だ。』

(死・終わりなき生/オショー・ラジニーシ/講談社P124-125から引用)

 

『ふたつのものを同時に見ることはできない』(上掲書から引用)

これは、読み流す人も多いかもしれないが、同時に二者でいられないことを示し、それは、山本常朝の葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』で感じとれる。これは見ている自分を残しているわけではない。

 

『内側を見たとたん、あなたは消える。あなたの消滅とともに見るもの、それが神だ。』(上掲書から引用)

あなたが消えることこそ、大逆転であり、倒立であり、神人合一であって、見神ではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プレゼントに霊を込める

2024-08-13 06:51:46 | 人と神の「実際のところ」

◎お互いが好意を持っている場合に贈り合う

 

出口王仁三郎が、プレゼントについて

述べている。

贈り主がプレゼントを上げようと思っていないのにねだるのは、霊がこもっていないのでいけないとする。

また贈り物を辞退するのは、功徳(お蔭)がなくなるといいながら、一方で贈り物をむやみにもらうのは危険だとも言っている。それをもらったばかりに思わぬ災難にあう場合があるという。

新品のプレゼントもさることながら、中古、古○、アンティークも当然気をつけねばならない。

せんじ詰めると、お互いが好意を持っている場合にプレゼントを贈り合う場合だけがよいと言っている。

只ほど高いものはないとか、金を集めるとは因縁カルマを集めるということだとかの、一見全体的には功利的発想から来るように見えるものの、更に深遠な法則が仄見える。

だがここでは、もともと自分に与えられた物だけが受けるべき贈り物であって、またもともと最も自分が大切に思うものだけが、渡すべき贈り物であるという考え方がある。つまり授受すべき心のこもった贈り物は最初から自分の一生に組み込まれているものであって、余計なものに手を出すべきではないということなのだろうと思う。

 

心を篭めるというのは、丹精こめるのだろうが、霊を篭めるとは、自分の分身を籠めることのように思う。

 

『霊と記念物

 

霊と云ふものは、篭めれば篭める程深くなるものである。私は茶碗を一つ捻るにも一々性念を篭めてやるのであるから、深く霊が入つて居る。

それ故、この器で毎日湯でも茶でも呑んで居ると、相応の理によつて、お蔭を頂けるのである。私が遣らうとも思はぬのに、呉れ呉れと云ふて貰つても、お蔭は少い。又遣ろうと思ふものを辞退するのもお蔭がなくなる。滅多に人から記念物を貰ふのもよくない事である。霊が反対して居ると、品物を貰ふたが為めに、とんだ災難を受ける事がある。生前お互が好意を持ちあうて居たものの記念物で無くては貰ふものでは無い。又自分が一番愛して居たものに一番霊が篭もるものであるから、昔は其一番愛して居たものを御神体として祭つたものである。但、心を篭めると云ふのと、霊を篭めると云ふのとは意味が違ふ。』

(水鏡_霊と記念物/出口王仁三郎から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自己へ入って行くとすべてがある

2024-08-10 03:33:45 | 人と神の「実際のところ」

◎"わたし"も"あなた"も消え、〈すべて〉が残る

 

OSHOバグワンは、自己へ入って行くとすべてがあると説明するが、なぜどうしてそうなるかは説明しない。

自己へ入って行くとすべてがあることを逆転と云い、タロットでは、吊るされた男

すべてとは、既に天国も地獄も超えている。

 

『非常に興味深いことには、自己へと入っていった人間は、突如としてすべてに通ずる入口をみつけるのだ。自己への扉は万物への扉なのだ。自己に入ってゆくやいなや、人は自分がすべてへと入っていったことに気づく。というのも、われわれは外面的には異なっていても、内面的には異なってはいないからだ。

外見上すべての木の葉は互いに異なっている。だが、もし人間がわずか一枚の木の葉のなかに浸透してゆけたなら、すべての木の葉がひとつに融けあうその木の源にゆき着くことだろう。一枚一枚を見ると木の葉はそれぞれ異なっている。しかし、一枚の木の葉をその内面性において知ったとき、あなたは 源へ、そこからすべての木の葉が生じ、そこへとすべての木の葉が帰ってゆく源へ、たどり着いているのだ。自己へと入ってゆく者は、同時にすべてへと入ってゆく。"わたし"と"あなた"という区別は、われわれが自己の内側へ入ってゆかないかぎり、消えることはない。"わたし"のなかへ入っていった日に"わたし"は消え、"あなた"も消える。そのとき残っているのが〈すべて〉だ。』

(死・終わりなき生 /オショー・ラジニーシ/講談社P104-105から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする