アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダンテス・ダイジの8チャクラ説-3

2024-12-10 03:28:27 | チャクラと七つの身体neo

◎八番目のチャクラならざるチャクラ

(2019-04-12)

 

「八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイント」とダンテス・ダイジは、云う。

 

人間の絶対性とは、人間を外的な部分・社会と内的な部分・個人とに自分というものを区分して認識し、個々人が分かれていながら、同時に神・絶対者から個々人が流れ出ているものであって、今ここしかない今しかないが、過去現在があるものとして時間の流れを想定してしまう認識形態とでも言おうか。

 

個と全体の並立・共存と七つの次元に亘りながら、今ここという一つながりのものの不断の変容を現実と認識する一方で、それが夢幻でもあることをよく承知することもできる。

 

その意味で、芭蕉がその庵を幻住庵と名付けたのは至高のネーミングだと思う。

 

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。

 『だが、アメンティーの教えでは、無限絶対それ自身を、生きているあいだに体験できるとされている。

 

そして、無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私は、当然、アメンティー・タントリストとなった。

 

 私は、八番目のチャクラならざるチャクラを地球人として生き味わわずに、ニルヴァーナそのもの、つまり、いかなる顕現をともなわぬ非存在そのものとして、神の仮現としてではなく、神そのもの無限に帰郷することとして選んだ。

 

 したがって、今、私は神自身である。』

 

『無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私』、これについては、ダンテス・ダイジがどこかで言及しているが、前世を遡って幻視していったら、個なる人間が彼の転生の始まりではないことを、確認したみたいなことを書いていることを思い出す。

 

要するに、我ら俗物連と同じではないやんごとなき人なのだ。

 

この文の前段で、『クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』とするのに対し、私は、死ぬことなく、生きながら究極のニルヴァーナ、大涅槃を生きていると宣言している。

 

死とニルヴァーナ突入そして再生という定番ルートの他にルートがあるかのように語っているわけだ。

 

ここは、二律背反なことを述べている可能性があるので、ここに書いていることは嘘かもしれないなどと別のどこかで書いていることを思い出させる。

 

だが8チャクラ説というのは、チャクラというも愚かな世界そのものの転変と人間の採る世界の見方についてのごくストレートな見方でもある。だが、誤解や偏見を最も排することのできる厳格な世界観でもある。

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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-2

2024-12-09 03:22:38 | チャクラと七つの身体neo

◎大涅槃とクンダリニー

(2019-04-11)

 

サハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ、泥丸)をチャクラに数えるかどうかの議論は、頻出であって珍しいものではない。

だが、チャクラを解説した本を開くと、なにげなく会陰のムラダーラとクンダリニーが接して描かれているものだが、決してそうではないことを、ダンテス・ダイジは、8チャクラで暗示する。

 

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。

『クリヤ・ヨーガつまり、クンダリニー・ヨーガの場合は、クンダリニーをチャクラの一つに加えるかどうかで、七チャクラズの流派と六チャクラズの流派とに別れる。同様に、サハスラーラ(ブラフマ・ランドラ)を、チャクラの一つに入れるかどうかについても言える。

 

一方、アメンティー・タントリズムにおいては、八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイントとされる。

 

アメンティー・タントリズムでは、尾骶骨に位置するクンダリニー又は、サハスラーラをチャクラの一つに数えて七チャクラズとなり、サハスラーラ・チャクラの上にと言うか、七チャクラズを絶対無・絶対精神が包含したチャクラではないチャクラ、あるいは大涅槃そのもの(釈迦が死んでから入った無限絶対自身)のことをしめし、クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』

 

まずクンダリニーを独立したチャクラと見ているのは、ムラダーラとクンダリニーが分離し得ることを示しており、同じ説を寡聞にして知らない。

 

さらに窮極のニルヴァーナ、大涅槃そのものを第八チャクラと見ているのだろう。個ではないものをチャクラとわざわざ置くのだろうか。悟った者限定の世界観を以って定番としている。

 

第八天球を意識しているのはヘルメス文書(七つの遊星天と恒星天(8番目)。だがその外側に神があるので、8チャクラ説ズバリではない)なのだが、アトランティスの残党が大挙して渡ったに相違ないエジプトに8チャクラ説みたいなものが残っているのは偶然ではあるまい。

 

今のエジプトは、観光客がテロの標的になることがあるほどの治安の悪い地域。この地でもこれから一つのスペクタクルがあるのだろう。

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ダンテス・ダイジの8チャクラ説-1

2024-12-08 21:18:50 | チャクラと七つの身体neo

◎私が始めて地球へやって来たのは

(2019-04-10)

 

街も老い、国も老い、世界も老いる。するとその中の数少ない若者の中から新しい大地の到来を予感する者が出て来始める。

 

 

ダンテス・ダイジの8チャクラ説は、それまでの5チャクラ説や7チャクラ説とは一線を画す説である。まずどのボディにおけるチャクラかという前提すら、彼らにとってはあまりにも自明なのことなのか、説明を省く。

 

ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用。

『私が始めて地球へやって来たのは、今からおよそ七万年ぐらい前だったと思う。今の私は、地球ロゴスの流れに乗って、ニルヴァーナに充足した存在である。

 

 通常、地球ロゴス内のアラハンのレヴェルにある覚醒、すなわち悟りを開きつつ人間としての生存を続ける生命は、七回又は八回の転生を選ぶ者が多い。

そして八回目の転生で、地球ロゴスから、別の高次元ロゴスへ移行する者と、ブッダとして人間最後の生涯を送る者とに別れる。

 

もちろん、八転生目に、人間としてブッダの生涯を選んだ場合でも、ブッダが子供の頃からブッダの自覚を持って生まれることは難しい。現在の地球ロゴスは、まだ人間に固定観念と抑圧とを必要とする階梯にあるからである。

 

レムリア末期・プレアトランテスの時代が私の地球人としての最初の誕生であった。

 

 七回又は八回のアラハンあるいはボーディサットヴァの輪廻転生は、インドのクリヤ・ヨーガ、アトランティスのアメンティー・タントリズムなどのチャクラに対応している。』

 

7転生、8転生で転生を終了するのは、各転生において毎回大悟覚醒を持ちつつ生きるタイプの人(アラハンあるいはボーディサットヴァ)であって、万人が7、8回ではない。

 

出口王仁三郎は、艮の金神の転生は役行者であり、空海だなどと言っている(新月の光)彼らもそういうタイプの人なのだろう。俗人から見れば、超人過ぎる。

 

なぜだか知らないが、7転生、8転生は彼らのチャクラの数に対応している。

そして彼らがその転生での最初の悟りを開いた時に、7万年前に銀色の光輝く円盤で自分が始めて地球へやって来たことを思い出したりする。

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チベット医学のチャクラ

2024-04-08 20:51:26 | チャクラと七つの身体neo

◎チャクラと健康管理

(2007-02-23)

 

チベット医学では、気の通り道を脈管と呼ぶ。これはウパニシャッドの考え方と同じ。

ルン(風)は、日本や中国でいうところの気で、チベット医学では、この霊的なエネルギーであるルン(風)が我々の日常生活のすべてを成立させているとする。また身体や心の中だけでなく、大気中にもルン(風)があるが、このルンが流れる通路のことを脈管(ツァ)と呼ぶ。脈管(ツァ)は、気の通り道に加え、血管、神経も包含した呼び名となっている。

脈管(ツァ)の中心となっているのが中央脈管。これは、頭頂から性器の先端まで一直線に走り(スシュムナー管と同じ)、その中央脈管にからみつくように右方脈管(ピンガラー管)、左方脈管(イダー管)が通り、それぞれから無数の脈管が派生し蜘蛛の巣のように全身に張りめぐらされている。

中央脈管上に左右の脈管の交差する場所があり、ここにコルロと呼ばれるチャクラがある。この場所は神経叢でもあり、医学上重要なポイントとされる。交差点上のチャクラは、上からアジナー・チャクラ(眉間)、ヴィシュダ・チャクラ(喉)、アナハタ・チャクラ(ハート)、マニピュラ・チャクラ(へそ)、ムラダーラ・チャクラ(会陰)の五個所。

チベット医学では、このチャクラ(コルロ)を瞑想や観想により浄化することで、心と身体に健康をもたらすことができるとする。

(参考:ダライラマ14世の主治医が語る心と身体の書/ロプサン・ワンギェル/法研)

 

これには、チャクラとは認めがたい頭頂のサハスラーラ・チャクラと、大安心のセンターであるスワジスターナ・チャクラが含まれていない。この2つは、肉体の健康とはあまり関係がないということになるのだろう。

チベット医学は、クンダリーニ・ヨーガの技法で、(肉体ではなく)心の方を統御することで肉体の健康を維持、回復させる方向の医学であるとみてとれた。

ロプサン・ワンギェルの前任のダライ・ラマの侍医イェシェー・トゥンデンは、「健康とは、小宇宙(人)と大宇宙が正しい関係にあること。病気とはその中断である」喝破した。

これを地球について言えば、異常気象は地球の病気。それは人と大宇宙との関係が正しくないということになるだろう。

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エーテル体と雷

2023-12-02 20:55:38 | チャクラと七つの身体neo

◎雷電で世界を滅ぼさんとする

(2017-08-24)

 

朝から熱風の吹く晩夏の一日の始まりである。

人間は、電気の肉体であり、電気とは神経や筋肉である。神経系とほぼ似た位置に経絡であるエーテル体がある。

エーテル体は半物質であって、物質の性質が半分であって、経絡であるが故に電気的な性質も有している。

最近の名古屋地区や東京の一時に何千発もの落雷があって、巨大積乱雲スーパーセル直下では何千発もの雷が発生することが知られるようになった。

 

ギリシア神話に、神はこの世を滅ぼそうとして、いきなり洪水にしようと思ったのではなく、最初に雷でやろうとしたというのがある。

時代は、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と進み、既に敬虔と正義は人の心から失われた。そこで大神ユピテルは、日々罪という罪を犯しまくり、大地の広がる限り荒々しい狂乱の支配している人類すべては罰を受けねばならないとし、いつも愛用の武器である雷電でもって人類を滅ぼそうと考えていた。

ユピテルは、既に無数の雷電を地上の至るところにばらまこうとしていた。

ところがユピテルは、雷火では、地上の火が天上に延焼し、天の軸が端から端まで燃え、海も地も天上の宮殿も燃え上がり、宇宙全体が滅亡するかもしれないと懸念し、急遽無数の雷電による人類滅亡から、洪水による滅亡に切り替えることにした。

つまり無数の雷電とは核ミサイルのことであり、世界中に配備完了し、いつでも世界滅亡できるのだが、なぜだか、大洪水に切り替えるということ。

スーパーセル下の多数の落雷も核ミサイルも広義の雷電。大洪水前に雷電を見せるのは、スーパーセルだけでなく、核戦争も派手な雷電の打ち合いではある。

対エーテル体ということでいえば、スマホ、携帯電話の電磁波でエーテル体に影響を与えながら生活するのもプチ落雷のようなものである。

ギリシア神話もなかなかに意味深長である。

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七つの身体-ケン・ウィルバーの俯瞰

2023-09-23 06:43:37 | チャクラと七つの身体neo

◎悟りと迷いの混在

(2021-10-19)

 

ケン・ウィルバーは、著書アートマンプロジェクトで、自分の「近似的な自己感覚10段階」を、ヴェーダンタや、カバラの十球や、スイスの心理学者ジャン・ピアジェの発達段階説、フロムやリースマンの自我のタイプ説、仏教唯識説などと並行に比較した表を作っている。スタニスラフ・グロフは、LSDを用いたセラピーで知られる。これは後に非合法化され貴重な実験となった。図はその一部に七つの身体軸を加えてみたもの。

これをみると、ピアジェなどの説には、アートマンとブラフマンの窮極の段階がない。窮極の段階がない体系は、それが心理体系だろうが存在体系だろうが不完全なものだが、それを排斥せず、堂々と載せているところにケン・ウィルバーの懐の深さを感じさせる。

ケン・ウィルバーは懐が深かったゆえに、その説のインパクトは薄れ、今逆にあまり評価する人が少ないのだろう。また窮極の段階を持たない学説は、宗教的には不完全なものだが、心理学者は、別に問題だとも思っていないのだろう。

覚者の側からすれば、窮極を悟った人も、それに至らず迷いにある人も差はない。だが、世の人々の大半である迷いにいる人が、道元の言う修証一如(修行も悟りも同じ)と嘯くのは、間違いである。

ケン・ウィルバーは、覚者として、迷いの学説と悟りに至っている説を並置したのだ。迷いの学説をも評価したのだ。だが、学会や世間にそのような「悟りや迷い」という視点は乏しい。

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自己愛と感情とマニピュラの連動

2022-11-12 21:44:52 | チャクラと七つの身体neo
 

◎相手の話をよく聞く

 

我流でチャクラをいじることは危険この上ないが、本山博がマニピュラについて、こんなことを言っている。

 

曰く、マニピュラは、感情と想念に関係するが、マニピュラは、感情にもいろいろあるが受容する側。マニピュラが開けてくると感情の細かい彩がわかってきて、人の話がよく聞けるようになり、話者の心理や気持ちに共感できるようになる。

 

そして腹が立っている自分を他人の目で見られるようになると、だんだん感情のコントロールができてきてマニピュラが動くようになっているといえる。

 

小さい人間ほど、自分を守るために用心するから、建前で話すのだが、そんな奴は下らないのが多い。そういう相手でも相手のいうことをよく聞いて、本音をわかっているなと共感すれば相手も本音を言うようになる。そうなったら既にマニピュラは動いている。

 

こういう状態は、好悪の感情は発生するがそれに落ちない状態。感情と自分を同一のものと見ない状況。

 

マニピュラは、気を吸い込む方で、アナハタは気を出す方。だから人込みなどで消化器に異常が起きやすい人、感情が不安定な人はマニピュラが不安定な人。この延長線上にそううつがある。

 

さらに本山博は、自己愛と感情とマニピュラの連動について、以下のような巧妙な見立てをしている。

 

自己愛が強い人間は、自己に執着が強いので感情が非常に激しく動く。それは恋愛の場合だったり、モノやカネや名誉が欲しいという場合に起こりがち。

 

それらは、表面的には恋人やモノ金への執着だが、実態は本当に相手や他のもののことを慈しむ気持ではなく、自分を守りたい気持ち、自己の執着や自己愛の裏返しである。自己への執着や自己愛が強い場合に、感情が激しく動くので、感情のコントロールができない。

(以上出典:「チャクラの覚醒と解脱」/本山博)

 

マニピュラと言えば自己実現だが、人間関係の不調の原因の一半がマニピュラにからみ、それも感情が大きく影響していることがわかる。

 

マニピュラ・チャクラを活性化させる方法について、本山博は、この相手の話をよく聞くことの他に、呼吸法、観想法を挙げる。

 

それにしても若いうちから相手の話をよく聞ける人は貴重だし、相手の話を親身に聞いているふりの上手な人が幅をきかせていたり、どうしても人間の幅がないと相手の話をよく聞けるものではないということもある。

 

確かにマニピュラに特化した行法やり方はあるものの、只管打坐や何も期待しないタイプの日々の冥想が基本だなと思う。

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チャクラと七つの身体-1

2022-10-11 06:40:38 | チャクラと七つの身体neo

1.七つの身体についての誤解

七つの身体と言っているのは、主に神智学系の人とバグワンとスワミ・スリ・ユクテスワだ。といってもスワミ・ユリ・ユクテスワはローカ(次元)と呼んでいる。仏教なら地獄界から仏界にいたる十界と呼んでいる。3者の内訳の区分はやや異なっているが、実質的な相違はない。

 

そもそも7つの身体などと言うから、チャクラやメンタル体以上の世界が個別身体の延長であるという誤解の大きな原因となっていることは否めない。

肉体はバラバラでも実はおなじ一人なのだという認識を先に強調していくべきだったのに、より霊がかった興味を引きやすい話題として人間には同時に七つのレベルで身体が存在しているという話が先に広がってしまったようだ。

 

まるで7枚の衣服を着るように7つの身体があるわけではない。ポイントとなるのは、衣服のように各人が別々の身体を有するのは第五身体のコーザル体(原因体、スピリチュアル体)までであるということだ。第六身体であるアートマン(コスモス体(神霊体))からは、個人というものはなくなるので、誤解をおそれずに(説明してはいけないが)言えば、皆が共通の身体となるようなもの。

 

人間の進化にとっては、第一身体の肉体からスタートして第七身体の神(涅槃、ニルヴァーナ)に至るステップというのが観念的には理解しやすいとはいうものの、第六身体から、すべての他人と一緒であるというのは、社会通念からしても生活実感からしてもありえない話である。

ところが、そちらのほうが真実である人がいるのである。七つの身体説では、第六身体から一緒というのが、観念ではなく、現実そのものであるというところが要である。

 

※仏教の十界:地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界。

 

霊がかかった話というのは、先祖の因縁がどうだからあなたはこうなのだとか、水子霊がどうだから、今こうなのだとか、あなたは前世でこういうことをしたからこうなのだという話のことである。通俗の霊の話とは、エーテル体、アストラル体の話のことだからであるが、そのような通俗心霊話そのものは冥想の深化にはあまり役に立たない雑談のようなものだ。摩訶止観(天台智、6世紀)の昔から、魔境にかかわるものとしてあまりお勧めではない。

 

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