◎第十入鄽垂手(にってんすいしゅ)
【大意】
『序
ひっそりと柴の戸を閉ざしていて、どんな聖者も、その庵の内を知ることはできぬ。自己の風光を隠すとともに、昔の祖師 (達磨大師など)の歩いた道をゆくことをも拒んでいる。徳利をぶらさげて町に行き、杖をついて家に還るだけだが、それだけでもって酒屋や魚屋たちを感化して成仏させる。
頌
彼は胸をはだけ、裸足で町にやって来る。砂土にまみれ、泥をかぶりながら、顔じゅうを口のようにして笑う。
神仙の超能力(真の秘訣)を用いず、ただ枯れ木に花を咲かせる。』
※ただ枯れ木に花を咲かせる:枯れ木に花を咲かせれば、成道する(達磨が西から中国にやって来る)。枯れ木に花を咲かせるのは超能力だが、枯れ木は枯れ木のままで何も問題などない。
牛飼いは、第八人牛倶忘で、即身成仏した。そのまま亡くなってもよかったが、敢えて復活して生きる道を選んだ。だが、彼は密教者のように超能力・霊能力は用いない。
ただ存在しているだけで、町をよくする聖者の姿がここにある。彼は、酒屋や魚屋たちが仏であることを知っているのだ。彼の聖なるバイブレーションが枯れ木に花を咲かせるように、かつて不可能であったことを可能にする不可思議な流れを作り出す。
人間は悟りを開いて、仏(空、神、絶対無)を知らなければ、真の意味で、生きている価値を見いだすことはない。また悟りを開いて、衆善奉行諸悪莫作(善いことをする悪いことをしない)を生きる人も、外形は単なる社会的不適応者が一人いるだけに見えるかもしれないが、その人がいるだけで周辺にも世界全体にも好影響を与えることができる。
そして冥想により、あらゆる因縁を見切って解脱した覚者にとっても、自分のことは二の次で、他の人々のためになることばかりする生き方しかできないことは、人間の感情としては、とても苦しいシーンがあるものだと思う。覚者は当然感受性がオープンになっているし、社会の矛盾からくるあらゆる問題とその痛みが良くわかるので、なおさらである。
ただ、人間は本当はその境遇のみじめさだけではないという実感、つまり神がその人を生きているという実感があるからこそ、その苦しさを堪えられるものだと思う。
そこに第十入鄽垂手の覚者から見たむずかしさがあるように思えてならない。その二重の世界観は、人間として正視すべきものだと思う。
それはまた、いつまでもそんな社会であっていいのかという疑問や、そんな社会がいつまでも続くのかという疑問になっていく。弥勒菩薩出現の前夜。
【訓読】
『第十 入鄽垂手
(鄽(まち)に入って手を垂る)
序の十
柴門独り掩(おお)って、千聖も知らず、
自己の風光を埋(うず)めて、前賢の途轍(とてつ)に負(そむ)く。
瓢(ひさご)を提げて市(まち)に入り、杖を策(ひ)いて家に還る、
酒肆(しゅし)魚行、化して成仏せしむ。
頌
胸を露(あら)わし足を跣(はだし)にして鄽(まち)に入り来たる、
土を抹(な)で灰を塗り、笑い腮(あぎと)に満つ。
神仙の真の秘訣を用いず、直(た)だ枯木をして花を放って開かしむ。』