アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

スカイ・ダイビングでのパノラマ現象

2024-07-08 15:29:07 | 【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo

◎数秒で急速な意識レベルの低下

(2013-11-21)

 

自衛隊の草創期に習志野第一空挺団に所属していた方の述懐。

 

この方は、人間の高所恐怖は33フィート(約10メートル)が上限で、それより高度が高くなると逆に恐怖感が薄らぐものだとする。これはおそらく自衛隊での定説であり、この理論に沿って訓練メニューが作られていたりするのだろう。そこで33フィートからの飛び出し訓練を終えて、飛行機からのスカイ・ダイビングに挑む。

 

飛行機からは眼下に習志野演習場が見えてきた。

『私は二番目に飛び出した。4秒以内に傘が自動的に開く開傘ショックがなければ、予備傘を開く紐を引かねばならない。

「一降下、二降下、三降下、四降下」と心で数える。その瞬間にズシンと開傘によるショックがあった。この4秒間の何と長いことか。

そして、不思議なことにこのわずか四秒の間に、これまでのことが走馬灯のように次々に頭に浮かんできたのだ。開傘、そして傘点検、異常なし。やっとホッとできる。

周囲の空に浮いている同僚の笑顔が見える。

(中略)

地面に降りた瞬間、私は大地を叩いて「私は落下傘で降りた」と小躍りしたい気持ちになった。あの初めての降下の時に感じた恐怖や快感は死ぬまで決して忘れることはないだろう。』

(自衛隊秘密諜報機関/阿尾博政/講談社P66-67から引用)

 

恐怖を入り口にして、数秒で急速な意識レベルの低下が発生して、個人のアカシック・レコードの高速再生であるパノラマ現象を見る。

 

「現代人は数秒で悟りに到達することができる」と語る人もいるが、この急速な意識レベルの低下、しかも見当識の低下を伴わないそれ、つまり失神しないこと、意識が清明のままであること。これこそが、その説の根拠であるのではないか。またここに人間の意識の秘密があるように思う。

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ひきこもり列島

2024-04-09 05:59:27 | 【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo

◎非社会的生活での思考力・集中力の低下

(2013-11-19)

 

第二次世界大戦が終わって間もない時期に、アメリカのプリンストン大学で、約100人の大学生を3日間位、防音装置の施された真っ暗な部屋に閉じ込めた。部屋は1.3m×3mで、中には大型ベッドとトイレがあって、食事はアイスボックスに入れてある。

部屋の中には、いわゆるパニック・ボタンが置いてあって、それを押すとこのSD(sensory depriviation)実験から解放してくれることになっていた。また部屋の外には1名の立会人がついていることになっていた。

この実験によって、いわゆる拘禁反応を見ようというものである。

被験者の心理的な特徴は、思考が混乱するだけではなく、ふつうはある特定の思考を維持することさえできなくなること。更に白昼夢がたえまなくひき続きおこるということである。

他人と接触しない時間が長くなると精神の集中力が低下し、まとまった思考ができなくなる。これは3日間の実験なので、被験者は思考過程に障害が生じたという自覚があるが、長期間にわたるとその自覚さえも怪しくなるかもしれない。

また白昼夢は絶え間なく起こるというのは、意識レベルが低下するということであり、個人の意識はここで無意識の中に沈潜する。既に世界の裂け目の中にはまり込んでいる。

捕虜収容所や刑務所、精神病院などでも、このような環境下におかれた人間は類似の心的反応を示すのだろうから、そのことは昔から経験的に知られていたのだろう。

さて暗室で無音という設定を除けば、社会性を失ってかつ自分の意志で室外に出れるという点で、この環境はひきこもりに近い。むしろ暗室と無音という設定により、ひきこもりで起こる心理の特徴を端的に浮かび上がらせている可能性が高い。

日本のひきこもりは今や100万人と言われる。彼らがこうした環境下にいることは、日本全体の心的ロゴスの状態を想像すると、100万人がまとまった思考を持てずに、白昼夢的な世界に過ごしていて、おそらくそのほとんどは小悪な、小地獄な混乱した世界観に暮らしているわけだから、日本の明るい未来など展望するどころではない状態であるように思う。

かつてソルジェニーツィンはソ連の物理的収容所をして『収容所群島』を描いたが、日本でもひきこもり百万人ともなれば、鉄格子なき収容所をかかえた列島とも見えるかもしれない。

『さて以上をまとめると、SDが思考作用におよぼす効果は多種多様である。少数のひとにとっては、思考はSDのあいだじゅうきわめて明断であり、ふつうの状況よりもいっそう良好でさえあった。

しかし大部分のひとにとっては、SDの状況は思考過程に障害を生じさせるように苛酷なまでに計算されたものであり、とくにSDを生産的な思考を行なえる期間であると期待し、考えるための問題をたくさんかかえて実験にやってきた被験者にとってはとくにそうだつた。

最初この種の被験者は非常によく考え、深く鋭い洞察力を発揮したが、この時期は長くは続かず、ふつうは二日目までに、はげしい変化が起るのに気づいている。すなわち、思考が混乱するだけではなく、ふつうはある特定の思考を維持することさえできなくなるので、この点で被験者は、恐慌ボタンを押してSDから解放されるか、あるいは白昼夢がたえまなくひき続きおこるのに身をまかせて実験を最後までやるかの、どちらかを選んだのである。

精神の集中力を失ったのは被験者の約三分の二であったが、ふつう彼らはこのことを認めたがらなかった。彼らは、自分たちの失敗にたいする非難を他に転嫁するような言いわけを述べ、自分たちは考えることはできたのだが、その考えについて一緒に議論する人がだれもいないのに考えるのは無意味に思われたのだとしばしば主張した。また他の人たちは、自分たちの思考過程に紙と鉛筆がいかに大切であるかがはじめでわかったと語った。ある被験者は、大声で話すことが許されなかったために考えることができなかったのだと主張した。

すべての被験者は、もし誰か他の人が一緒にいたなら自分たちの思考過程はさらに活発になっていただろうと報告した。彼らのほとんどは、聞き手がいることが、考えることを正当化してくれるのだと感じた。自分の思考過程について自信を持ち、他人の保証をいささかも必要としないという人に出あうことはごくまれであった。

それでは、ほとんどの被験者が「聞き手」の必要性に重きを置いているのであるから、それを利用して彼らをだますことができただろうか。もし、マイクロフォンの導線の他端にはいつも聞き手がいると被験者に教えれば、彼らのすべてに比較的良好な思考を維持させることができたであろうか。このような計画はきっと成功したにちがいない。SDの被験者は、聞いてくれる人がいると信じることができれば、きっと満足しただろうと思う。

以上の所見は、われわれすべてにとって社会的な相互作用が重要であることを強調しているように思われる。大部分の被験者にとって、SDはおそらく人生における最初の長い非社会的な体験であった。このことが、SDの他の諸条件と相俟って、被験者があらゆる種類の生産的活動――――精神的なものであろうと他のものであろうと――――にたいする欲求を疑うにいたるような状況をつくり出したのである。

たしかに人間は、感覚遮断によってつくりだされるような高度な知的真空状態のなかでは、考えることはできまい。』

(暗室のなかの世界/J.A.ヴァーノン/みすず書房P94-95から引用)

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天国もいいけれど

2024-02-26 06:17:46 | 【肉体】【ザ・ジャンプ・アウト-05】neo

○神のために神を捨て去る

神を知ること、神を一瞥することとは、いわば、天国を味わうこと、一見することなのだと思う。それは修道院や専門道場などの正しい修行環境にあって、きちんと一定期間(数か月とか)修行を積み重ねれば、そういうことは起こってくるものだろうと思う。

しかし、それは、自分と神が別である立場を捨てないままでの天国に居ることであり、神的な高み、真善美、安心というものは極められているが、自由が足りない。高さだけは極めたというものである。
禅の十牛図の第三図で牛は見たが、牛のことを自由に飼い馴らしてはいないのである。

そこで、エックハルトの言い回しで言うところの『神のために神を捨て去る』という、言うなれば天国を捨てることが求められる。これが自我の死で、ハイレベル・トランスの先にあるもの。

『人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。ところで聖パウロは神を神のために捨て去った。彼は、神から受けとることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである。

彼がこれを捨て去ったとき、その時に彼は神を神のために捨て去ったのであった。

そしてそのとき、彼に残されたのは神であった。しかしその神は、彼に受けいれられたり手に入れられたりされる仕方での神ではなく、神が神自身の内においてあるような、それ自体において、みずからの内において存在している神である。

彼は神にいかなるものも与えたことなく、神よりいままでいかなるものも受けとったこともない。それはひとつの一であってひとつの純粋な同一化である。

ここにいたって人はひとりの真なる人間となり、このような人には、神的有の内にはどんな苦しみも生じないように、いかなる苦しみもない。

すでに何度となく言ったように、魂の内には神ともともと一であり、合一して一になったのではないというほどに神と一にして似ているあるものがある。この一なるものはいかなるものとも共通性をもたず、神より創造されたあらゆるもののうちのどんなものとも共通性をもつことがない。

創造されたものはすべて無である。ところがこのものはすべての創造性より離れ無縁である。』
(エックハルト説教集/エックハルト/岩波文庫/P89-90から引用)

チャクラと七つの身体-55
◎肉体-38 ハイレベル・トランス-11
◎天国もいいけれど
【ザ・ジャンプ・アウト 111】

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