アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

幻身の正体

2023-01-24 18:58:45 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

◎メンタル体の特徴

(2014-08-17)

 

チベット密教では、幻身と虹の身体が微細ボディとして頻出する。幻身は、夢の操作あるいは夢中修行の舞台であり、ドン・ファン・マトゥスのソーマ・ヨーガにおける夢見技術にも通じるところがある。まずは、幻身について明らかにする。

 

チベット死者の書によれば、死の直後の最初の原初の光明において覚醒できなければ、第二の中有に入る。

 

第二の中有において、その人のボディは、『清浄な幻身』(原典訳チベット死者の書/川崎信定訳/筑摩書房P23では、意成身の一種である『清浄な幻化身』と訳されている)となる。

 

第二の中有でも解脱できない場合。第三の中有に進む。第三の中有においても意成身があり、これはカルマからできている。これも幻身の一種と考えられるが、カルマにより成るから、ナーローの六法で言うところのマーヤの身体(幻身)(出所:夢の修行/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P161)というのがこれではないかと思われる。マーヤとは無明(迷い)だから、幻身には清浄と不浄と二種あることになる。

 

チベット死者の書では、第二の中有のレベルがより高く、第三の中有のレベルがより低い。よって、第二の中有における『清浄な幻身』がメンタル体、不浄な幻身がアストラル体と考える。

 

これを前提にして、幻身は、以下の説明のように体外離脱し、空間を瞬時に自由移動するという説明を見てみる。

 

シリーズ密教2の『チベット密教(春秋社)第4章幻身(平岡宏一)』によれば、幻身には12のたとえがあるという(「」内のキーワードがたとえにあたる)。智金剛集タントラに曰く、

 

1.微細な風(ルン)と心(意識のことだろう)だけでできた智慧の身体なので「幻」のようだ。

2.「水月」のように、どこで助けを求めてもすぐに現れる。

3.火や武器で焼いたり壊したりできないから「影」のようだ。

 

4.瞬時に揺れるので「陽炎」のようだ。

5.「夢の身体」(アストラル体か)のように体外離脱する。

6.幻身は肉体とは別で、「こだま」のようだ。

 

7.幻身が成就すると「乾闥婆(妖精)の城」が瞬時にできあがるように、マンダラが瞬時にできあがる。

8.幻身を成就すると一度に32尊を成就し、また32尊は一瞬にして1尊となることができるので「魔術」のようだ。

9.幻身は5色であり、「虹」のようだ。

 

10.幻身は、肉体内で成就するのと体外離脱するのが同時である様子は、「稲妻」が雲の中でできるのと同時に外に発光する様と似る。

11.水中から「水泡」が現れるように、空なる本性から幻身は忽然と現れる。

12.「鏡の鏡像」のように身体を映すと一瞬にして全体が映るように、一瞬にして幻身全体が成就する。

 

これらの比喩をみると、この説明が、アストラル体とメンタル体共通の説明であるとしても、齟齬はないように思う。また幻身の説明がコーザル体のものとすれば、コーザル体がうつろいゆく現象世界の空間をあちこち活動して回るとも思えないので、窮極の7つの属性を備えながら、娑婆世界に出現するものとして、幻身とはメンタル体またはアストラル体と見るのが適当であるように思う。

                                        

ところで大日経の十縁生句段には、これとよく似た十縁生句というのがあって(12でなくて10)、幻、陽炎、夢、影、乾闥婆城(蜃気楼)、響、水月、浮泡、虚空華、旋火輪の十を言い、一般的には、実態のない仮のものを現すたとえとして用いられている(旋火輪は闇の中で火をぐるぐる回すと残像で円に見えることを謂うそうだ)そうなので、由来はともかく、とりあえず別の意味で用いられているのだろう。

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死のプロセスから

2023-01-24 18:52:04 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

◎頭頂からの脱出

(2014-08-21)

 

チベット密教では、死に際しての頭頂からの脱出を最優先とする。これぞメンタル体の重視である。

 

チベット死者の書では、中有に入った後も、いろいろとチャンスがあるという書きぶりで再誕生までの出来事を記述してくれているが、悟りを得るという観点からは、一旦中有に入ってしまえば、一から人生をやり直すしかないということになり、再誕生までの途中に悟りのチャンスはほとんどないのだろうと思う。要するに死んで中有に入ったら今生の求道トライアルとしては失敗なのである。

 

よって、ハイ・レベル修行者として、メンタル体でサハスラーラ・チャクラから肉体を離脱できるかどうかが最大の関門であると、チベット密教は見ていることがわかる。

 

というのは、チベット死者の書の冒頭に、頭頂であるサハスラーラ・チャクラからの離脱サポートテクニックが置かれているからである。

 

将来予想される同時大量アセンションにおいても、この点は、間違いなく大きな焦点の一つになるのだろうと思う。

 

○メンタル体での肉体離脱のサポート

 

『喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよ。またもし死に赴く者が眠りにおちいろうとするならば、それは妨げられねばならない。そして動脈がしっかりと圧迫されるべきである。そうすることによって、生命力は、中枢神経から還って来ることができず、ブラフマの開き口を通って逝去することは確実である。』(チベット死者の書/講談社P27-28から引用)

※眠りの回避←意識を清明に保つための工夫。

※ブラフマの開き口:頭頂。

 

〈参考〉

○アストラル体での肉体離脱

 

残念ながら死に赴く者(クンダリーニか)が、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく。(チベット死者の書)

 

これはアストラル体での肉体離脱だろうと思う。そして、これが大多数の人の死後のルートであると考えられる。この後、輪廻転生の通常ルートに流れていく。チベット密教ではこれを『無知の状態で死ぬ』と呼ぶ。

 

フツーの人においては、「(8)光明」は指を鳴らす時間しか続かないともいう。「(5)顕明 (6)増輝 (7)近得」は、指を3回鳴らす時間しか続かないとされ、光明(原初の光)が消えてから3日半は無意識の状態に投げ込まれる。

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虹の身体-2

2023-01-24 17:05:38 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

◎まず死から

(2014-08-20)

 

更にナムカイ・ノルブのチベット密教の虹の身体の作り方の説明だが、ダイジェストするとこのようになる。

 

1.まずその修行者は死ぬ。

 

2.肉体が五つの原質(地・水・火・風・空)の真の本性の中に溶け入っていく

 

3.この結果数日~一週間たつと、肉体は、その最も不浄な部分である髪の毛や爪を残し消える。髪の毛と爪だけになるまでの途中では、肉体は縮んでしまうことが知られている。

 

4.しかし肉体は消えても、その形や特徴は五色の光(五つの原質)の中で保たれる。これを虹と見る。

(叡智の鏡・ナムカイ・ノルプP147による。)

 

これは、我が意志のままに肉体を虚空に溶け込ませる技術を持ったという証明なのだろうが、その人がどんな悟りにあるのかはさっぱりわからない。技術的にすぐれていることはわかるが、それが単なる達観だったのか、本当の至福にあったのかわからないのだ。

 

その点で、髪の毛も残さなかった禅僧普化は、ひたすらすごいのひとこと。

 

『顕教にも、身体が消える悟りはある。ゾクチェンにおいても、テクチューの修行をつうじて、こういう成就が生じることはある。ただし、この場合には、特に、原質のエッセンスの再融合が起こるというわけではない。また、空性を行じ、それをつうじて、不二の境地にとどまる修行をおこなった場合や、密教の修行においても、身体が消える悟りは存在する。

 

このような悟りは、チベット語では、ルー・ドゥルテンというふうに呼ばれる。

「ルー」というのは肉体、「ドゥル」というのは原子、微塵という意味である。「テン」というのは、この原子、ないし微塵の状態に入っていくという意味だ。徐々に、ゆっくりと、空性のなかに消え去っていくのである。けれどもこれは、虹の身体とは別ものである。

 

  • 虹の身体

 

虹の身体というのは、肉体が五つの原質の真の本性のなかに入り、そのことによって消える、ということだ。五つの原質というのは、五色の光だ。したがって、肉体は消えても、その形や特徴は、五色の光のなかで保たれたままなのである。

 

グル・パドマサンバヴァを虹の色で描いたタンカがある。それが虹の身体だと言う人もいるけれども、これは正確ではない。虹の身体の場合、鼻や目の形は、全部もとのままだ。ただ、ふつうの人は、それを見ることができないのである。なぜなら、すべて、原質のエッセンスのなかに消え去ってしまっており、わたしたちには、それを見る能力がないからだ。すこし進歩し、いささかなりとも光明が増せば、虹の身体を見ることは可能だ。光明があれば、虹の身体は見えるのである。

 

虹の身体であることを示すしるしの一つは、爪と髪の毛が、あとにのこることだ。爪と髪は、肉体の不浄な部分だ。肉体は、純粋な次元に入る。ただ、その不浄な部分は、あとにのこされるわけだ。

 

ポワ・チェンポ、すなわち大いなる転移という悟りもある。これは、ふつうの虹の身体とは異なっている。伝承によるとガラップ・ドルジェは、この大いなる転移の悟りを得たのだという。しかし、ふつうの虹の身体の悟りを示したという伝承もああ。いずれにせよ、伝記によれば、ヴィマラミトラとグル・パドマサンパヴァは、この大いなる転移の悟りを示したとされる。この場合、死という現象も、ないことになる。

 

ふつうの虹の身体の場合、まず最初に、死ぬ。その後、肉体がしだいに融解していくのである。たとえば、ひとかけらの氷を太陽の光のなかに置いておくと、 ゆっくりゆっくり、小さくなり、溶けていく。それと同じように、肉体、物質の身体が、原質のエッセンスのなかに溶け入っていく。このエッセンスは、そのまま維持されており、形はのこるのである。したがって、まず最初に死があり、それから一週間、ないしそれ以下の時間がたつと、虹の身体があらわれることになる。』

(叡智の鏡/ナムカイ・ノルブ/大法輪閣P147-150から引用

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虹の身体-1

2023-01-24 16:33:51 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

☆虹の身体-1

◎ナムカイ・ノルブの説明

(2014-08-19)

 

虹の身体とは、七つの身体のどこに位置づけられるのだろうか。虹の身体とは、通俗的な説明をすれば、チベット密教行者が、この世を去るにあたって、7日間密室にこもり、その肉体を虚空に霧消させ、爪と髪の毛だけを残すこと。これだけの説明では、世界の転換もなく、精神性のかけらもない。

 

以下はナムカイ・ノルブの説明。

 

『しかしゾクチェンの場合、ただ一回の生で悟ることができるだけでなく、〈虹の身体の大いなる転移〉という特別な悟りが可能になるとされている。この特別な悟りは、パドマサンバヴァやヴィマラミトラ(Vima-lamitra)、あるいはボン教の伝統においては、タピフリスタが成就したものである。

 

肉体的な死を経過することなしに、身体がふつうの生きものの目から見えなくなり、さまざまな元素の光り輝くエッセンスに変容し、あるいは再吸収される。

 

たとえ生きているうちに、この虹の身体を悟ることがなくても、死後においてその悟りを成就することができる。現代でも、チベットにおいてこの悟りを成就したゾクチェンの行者は、たくさんいる。この悟りにいたるには、ゾクチェンの特別の修行法が不可欠なだけではなく、師からの伝授が根本的な重要性を持っている。』

(ゾクチェンの教え/ナムカイ・ノルブ/地湧社P67-68から引用)

 

更に

『虹の身体を成就することはゾクチェンの究極の悟りだ。虹の身体は、報身の本尊とは違っている。虹の身体を成就した存在は、他の生きものと直接に接触し、積極的に助けることができるからだ。虹の身体はまるで肉体のようなものだ。物質的な構成要素はその本質である光に吸収されているが、その微細な側面における元素の集合体として生き続けているのである。

 

それに対して、報身の神々は受動的だといえる。光のたわむれに満ちた本尊の姿を見るだけのヴィジョナリーな力を持っている者でなければ、接触は不可能だからだ。

 

悟りは何か人為的に作りあげるものではない。行為や努力から生まれるものでもない。』

(ゾクチェンの教え/ナムカイ・ノルブ/地湧社P82-83から引用)

 

これだけ読むと、報身の神々よりも虹の身体は微細ではないことはわかる。虹の身体は物質ではないので、肉体でもなく、半物質のエーテル体でもない。他の肉体と意識的にコンタクトできるということなので、アストラル体なのか、メンタル体なのかということになる。

 

もうひとつ。肉体死を経過しないというのであれば、プロセスとしてどうして一つの悟りと言えるのかという疑問は残る。

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虹の身体と幻身の違いについて

2023-01-24 15:58:10 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

☆虹の身体と幻身の違いについて

(2014-08-18)

 

これについては、ナムカイ・ノルブが明快な見解を出している。要するに、幻身は、アストラル体かメンタル体のことであるのに対し、『虹の身体』とは、七つの身体の呼称ではなく、肉体を捨て窮極とコンタクトしつつ別の微細ボディに生きるアートのことなのだと思う。

 

『ゾクチェンの修行によってもたらされるジャリュ(ja-lus)すなわち虹の身体の悟りは、無上ヨーガ・タントラの密教の修行による「ギュリュ」(sgyu-lus) すなわち「マーヤの身体」ないし「幻の身体」の悟りとは別のものだ。幻の身体は個人の微細なプラーナをもとにしているが、ゾクチェンにおいて、プラーナはつねに相対的な次元だとみなされている。そのため、幻の身体の悟りは、完全な悟りとは見なされないのである。

 

これに対して、ジャリュ、つまり虹の身体の悟りは、ロンデとメンガギデの成就者たちがもっとも好んで示した悟りの形である。非常に短期間、相承がとだえたことはあったけれども、現在に至るまでずっと、この悟りをあらわす成就者たちは存在している。たとえば、わたしのラマだったチャンチュプ・ドルジェのラマも、このレベルの悟りを成就した。チャンチュプ・ドルジェは、その時現場に居あわせた。だから、それが作り話ではないことを、わたしは知っているのである。

 

チャンチュプ・ドルジェは、自分のラマだったニャラ・ペマ・ドゥンドゥルが、それまで全部は与えていなかった教えをすべて伝授したいと言って、弟子たちを全員、近くに住むものも、遠くに住むものもすべて呼び寄せた時のことを話してくれたことがある。ニャラ・ぺマ・ドゥンドゥルは教えを伝授し、それから全員で一週間以上も、供養のガナ・プジャをおこなった。ガナ・プジャはラマと弟子、あるいは弟子同士のあいだの障害をなくす、すぐれた方法である。

 

そうやって一週間が過ぎると、ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、弟子たちに、死の時が来た、近くの山頂をその場所に選ぶつもりだと告げた。弟子たちは死なないでくれと泣いて頼んだ。だが、時は来た、それを変えることはできない、というのがラマの答えだった。そこで、弟子たちは彼について山の頂上まで登っていったのである。

 

ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、そこに小さなテントを立てた。それから、弟子たちにテントを完全に縫い合わさせ、完璧に自分を封印させた。そして、それから、七日間のあいだ静かにほうっておいてくれるように言ったのである。

 

弟子たちは山を降り、ふもとで野営しなから、七日間待った。その間じゅうものすごい量の雨が降り、たくさんの虹が立った。七日後、弟子たちは山頂に一戻り、テントを開けた。テントは弟子たちがそこに置いて山を降りたときと同じで、縫われたままになっていた。そして、その中に弟子たちが見いだしたのは、ラマの服と髪の毛、そして爪だけだったのである。彼の服は俗人のものだった。それが、彼の坐っていたところに、真ん中にベルトをつけたまま重ね合わされ、残されていた。ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、ちょうど蛇が皮を脱ぎ捨てるように、その服を残していったのである。

わたしのラマはその現場にいて、わたしにこの話をしてくれた。だから、わたしはそれが事実であり、またそういう悟りは可能だということを知っているのである。』

(虹と水晶/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P175-177から引用)

 

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