アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

親鸞は妻を観音菩薩の化身と見た

2024-11-13 06:53:16 | まはさてあらん、AEIOU

◎ダンテス・ダイジの性愛冥想から

 

芸能界や世間で、菩薩、マリア様と呼ばれる女性は、時に貞操がゆるい女性の代名詞だったりする。親鸞が妻を観音菩薩の化身と見たのは、別のこと。

 

親鸞の妻は二人。最初の妻は九条兼実の娘・玉日だが、亡くなって 二番目の妻恵信尼と再婚した。

 

以下ダンテス・ダイジの性愛冥想から。

『インドのサーキャ哲学の系統を引いた左道タントリズムには、すべて交合する相手の女性をプラクリティーと見なす立場がある。

プラクリティーとは簡単に言えば、現象世界一切を意味し、 サーキャ・ヨーギは、そのヨーガ行を通じて、現象一切を滅尽して

モクシャ(解脱)なるプルシャの独存に到達する。

 

プルシャとは、不変不滅の絶対観照者であり、プルシャに到って、人間のあらゆる苦悩は消滅する。

しかし、もともとのサーキャ・ヨーガの原義は、あくまでもヨーガ行者の実存的冥想の中で覚証開明されるものであって、プルシャ-プラクリティの教説は、あくまでもヨーガ冥想実践者の純形而上的論理として、実践の指標とするものに他ならない。

 

だから、プラクリティを女性と見なして、その女性との性交により、解脱を得んとする立場は、すでに純粋ヨーガの立場が、形式化、儀式化に堕落する危険を包んでいると言える。

 

このヨーガ・タントリズムの儀式化は、浄土真宗開祖親鸞上人が、その妻を観音菩薩の化身と見て、そこに霊的結婚生活を生きたのとはまったく違う次元のことなのである。

 

親鸞の言う「観音菩薩」としての女性とは、

彼が、女性を観音菩薩の化身と見立てるというような儀式的なことではなく、彼は絶対者の顕現としての、一切万物の中の一つのかけがえのないものとして、妻を観音菩薩であると直視している。

 

親鸞のその妻との具体的性生活の内容は、知るよしもないが、彼が妻即観音菩薩という覚知を得たことによって、性愛神秘主義の実践者であったことは、充分に納得することができる。』

(ダンテス・ダイジの性愛冥想から引用)

 

要するに親鸞が性愛冥想の修行者でなければ、妻即観音菩薩という境地は出てこないと言っている。

観音菩薩とは、あらゆる世界の現象の流出元であるが、それはクンダリーニ・ヨーギにとってはアートマンと呼ばれる上昇であったり、只管打坐では身心脱落と呼ばれる下降だが、それぞれの冥想法においてはそれまでの修行プロセスに応じた個と全体の逆転のネーミングがあるものだ。

妻即観音菩薩といえば、インドならサンヴァラ交合像を思い起こさせるが、その性的な具象は、あくまで世界全体のシンボルの一種であって、親鸞はそこに人間を超えた救済を見ているのだと思う。

 

※サーキャ哲学とは、サーンキャ哲学のことか。

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一遍の三段目

2024-10-31 03:29:46 | まはさてあらん、AEIOU

◎仏と個人の二重の世界を生きている

 

一遍は、「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」の歌を詠んで、由良の法燈国師心地覚心に印可(さとりを証明)されたと思っていたが、その先があったようだ。

 

一段目。

兵庫の宝満寺で一遍は、紀州由良の法燈国師に参禅していた。国師が、「念仏して覚醒」を公案として提示されたので、一遍は、次のように詠んだ。

となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

法燈国師は、この歌を聞いて「未だ徹していない。」とおっしゃった。

 

二段目。

そこで、一遍は、また「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠じ直したところ、

国師は、その歌を悟りと認めた、とかつて書いた。ところが三段目があるらしい。

なるほど、この歌では仏もわれもないのは、ニルヴァーナっぽいが、南無阿弥陀仏が残っている。ニルヴァーナではないのだ。

つまり一遍は、マントラ・シッディ特有のすべてが南無阿弥陀仏である世界に入ったのであって、大悟ではなかった。

 

三段目。

行状によると、一遍は翌年再び由良に来て、

「すてはてて身はなきものとをもひしに

寒さきぬれば風ぞ身にしむ」

と詠んだ。

 法燈国師は、この歌を覚醒と認めて、手巾・薬籠を与え印可された。

 

この歌は、わが身が残っているかのように思われるが、覚者は、仏と自分個人という二重の世界観を生きている。

 

京都鴨川の河原で何年も乞食をやった大徳寺の大燈国師の歌。

こもかぶり 乞食じゃないぞ 寒牡丹

 

冬支度でわらをかぶった牡丹。牡丹は、仏あるいは真理のシンボル。乞食が個人。仏と個人の二重の世界を生きている。

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妙好人與市-3

2023-08-31 06:58:19 | まはさてあらん、AEIOU

◎臨終の時

 

妙好人與市の臨終直前。誰でも死の半年前には死を予感するというが、獲信者(他力信心を得た人)の彼はどうだったのか。

 

『與市は、死ぬ二日ほど前に、次のような独り言を言っていた。「死んだらまず第一にご本山へ参り、親様や祖父様や、祖母様に会うて・・・・・」。』

(新妙好人伝近江・美濃篇/高木実衛/編 法蔵館P62から引用)

 

『與市の病気がだんだん重くなり、大変苦しそうにしているので、妻がそばからどんな様子かと尋ねると、與市は、「死にとうない」と答えた。

與市の臨終が近づいたころ、兄弟眷属が與市を見舞い、「お前は、若い時から大変よくお慈悲を喜んでいたから、こんど死んだらお浄土へ参らしていただくに相違なかろう。お浄土へ参らしていただいたら、またわしらを済度に出て来てくれ」と言うと、與市は次のように言った。「お浄土へ参って、親様に聞いてみればわからぬ」。』

(上掲書P62から引用)

※親様:阿弥陀仏

 

與市は見仏体験があるようだが、死んだら本山に参り云々と言ったり、死にたくないと言ったり、死を受け容れかねている。

浄土真宗では、まず浄土に生まれ変わって、次に弥陀の本願に抱き参らせるところを狙っているのだろうと思う。死後辺地浄土に往生するのは最終目的ではないわけだ。

浄土に往生した後、弥陀の本願に救われるというが、どのように救われるかは知らないので、「お浄土へ参って、親様に聞いてみればわからぬ」と與市は正直に答える。この生真面目さ、フランクさが、真正の求道者の印である。

また與市に見仏体験はあるようだが、そこから先へは行けなかったのだろう。

同じ妙好人の浅原才一は、すべてが南無阿弥陀仏でできている世界に入りさらにそこから先に進めた例はあるが、臨終直前まで與市はそこまで行けていなかった。とはいえ、彼の実際の臨終時には、先に進めていたかもしれない。

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妙好人與市-2

2023-08-30 03:10:28 | まはさてあらん、AEIOU

◎数珠、「煩悩のしばり縄」

 

『ある時、畑に作っていた南瓜を盗まれたことがあった。それを聞いて、友人や知人が見舞いに行くと、與市は「盗人を悪く言うことはできぬ。わしらは、仏様の物まで盗んで来ているじゃからのう」と言うのであった。』

(新妙好人伝近江・美濃篇/高木実衛/編 法蔵館P56から引用)

 

夏の蚊が多い時に、與市は蚊帳の外に片足を出して、「わしは貧乏で先祖の年忌が来ても供養できないので、今夜はこの足を思う存分食ってくれ。」と蚊に言った。

さらにその頃東海道を走り始めた汽車を見て、「浄土の汽車は、もっと早い。」と言った。

與市は、浄土を実地に見聞したことがある上に、蚊も仏様と見て供養しているからには、万物が仏様であるということを、どこかで実体験したのではないか。それで、「わしらは、仏様の物まで盗んで来ている」と言っているのだろうか。

 

『與市は数珠のことを、時折「煩悩のしばり縄」と言っていた。数珠が切れて、買うことができない時には、紙縄を輪にして数珠の代わりにかけていた。

與市が三十九歳の時、明 治十二年(一八七九)十月十八日付で、西本願寺から篤信を表彰され、数珠が下付された。

(中略)

手次の彦根明性寺の住職が、與市を呼び出し、その旨を告げると、與市は「それはまったく身に覚えなきこと、必ず人違いに相違ありませぬ。私など、とても法義相続のできる者でございませぬ」と、大変驚いた。

そこで住職が賞状を見せて、「この通り、椋田與市としてあるからには、けっして人違いではない。心配せずに喜んでお受けしなさい」と言うと、「それが本当ならば、喜びどころじゃございませぬ。私は、明日から飯食うこともできぬようになります」と、当惑した様子になった。

住職が不審に思い、その訳を尋ねると、次のように言うのであった。「私は毎日、大根を売っては米を買って日暮しをしています。一把の大根を束にするにも、大きな物を外に並べ、小さいのを中に入れて、全部大きな大 根のように見せかけて、人目を盗んで高く売る工夫をしているのです。それに今、本山から奇特な同行じゃ、感心な信者じゃなど、賞められてみると、もはや、そんなこともできなくなり、飯を食うのに困って来ます。どうぞそれはご本山へお返しください」。

このように、真剣になって断わる與市を、住職は種々説き勧めて、むりやり数珠を拝受させた。

やむなくそれを家へ持ち帰った興市は、仏壇の奥深くしまいこんで、誰にもそのことを語らなかった。』

(上掲書P61から引用)

 

これは、自分に厳しいというか、自らも仏と同等の目線に立って自分の所業を見ている。與市は既に見仏体験はあるのだろうから、このような不条理な局面にあって、不本意ながら、ぎりぎり折り合いをつけて生きて行かざるを得なかったことがわかる。

信心の深さを褒められて物をもらうというのは、微妙なことだからである。

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妙好人與市-1

2023-08-29 03:37:11 | まはさてあらん、AEIOU

◎virtual walkingで本山参り

 

妙好人椋田與市は、滋賀県磯村の人。妻と子供が四人いたが、貧乏であった與市は、耕すべき田畑も少なく、一月を三分して、十日は自分の田畑を耕作し、十日は他人に雇われ、後の十日は仏法の聴聞に費すことにしていた 。

『與市の家は、小さいむさくるしい家であったけれども、いつも家の隅に小さな竹筒が掛けてあり、毎日変わった草花がさされていた。隣人がそのことを不思議に思い、與市に尋 ねてみると、「わしは、貧乏でご本山へ参ることができぬ。ご本山の御真影様への、せめてもの志と思って、お花をあげています」と答えたという。

 

ある冬の寒い日、與市は友人に、「わしは明日からご本山へ参ろうと思うが、おまえもいっしょに来ぬか」と誘いをもちかけた。赤貧の與市に、よくも路銀ができたものと、友人は心中あやしみながらも、同伴することにした。「それでは明晩わが家へ来たれ」と言うので、翌晩になって訪ねて行くと、與市は、「それではこれからご本山へ参ろう」と、お仏壇を開いて点燈焼香し、しみじみと礼拝した後、家の中をゆるゆると歩き始めた。よほど歩いたころ、「はや草津まで来た」とひとり言を言い、しばらくすると「はや大津まで来た」と言った。そして最後に、「とうとう本山まで来た」と、そこで端座して、再びしみじみと礼拝するのであった。それから友人に向かって、「これで今晩のご本山参りがすんだ。ありがたいことであった。わしはこれから三十日間こうしてご本山参りをするから、おまえもおまえの家で毎晩参れ」と勧めた。友人は、寒さや来客のために、このご本山参りを続けられなかったが、與市は、その後一日も欠かさずに参り続けた。』

(新妙好人伝近江・美濃篇/高木実衛/編 法蔵館P52-53から引用)

 

室内virtual walkingで本山参りした後、しみじみと礼拝する様に、與市の観想の真剣味を感じる。

また毎日茅屋で、西本願寺におわします御真影(親鸞像)竹筒に花を献ずるとは、その敬虔さと無私がわかる。

しみじみとした礼拝と花だけで、信仰の深みがうかがい知れる。

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太田垣蓮月、方寸の胸に阿弥陀仏を見る

2023-04-29 06:23:52 | まはさてあらん、AEIOU

◎美人の老後

 

太田垣蓮月は、幕末の京都の念仏者にして、大層な美人であった。夫と四人の子をなしたがすべて先立たれ、40歳の頃父(京都知恩院の広間侍)も病没し天涯孤独となり、やもめとして85歳の人生を生きた。

 

彼女は中年になってもその容色は、衆人を惹きつけるものがあり、その上和歌の名人であって、さらに作陶を生業としていたが、陶器に彼女の和歌を添えたものが飛ぶように売れた。

 

さて彼女は、明け暮れ念仏を怠らなかったのだが、本尊は木像や画像でなく、子供のおもちゃのような伏見人形だった。その伏見人形も一定でなく、かわいい童形だったり天神様だったりお姫様だったり、こだわらなかった。ある人がその理由を蓮月に問うと、「本尊ばかり立派な如来様でも、こちらの信心が未熟では、何もならない。私は方寸の胸にちゃんと阿弥陀如来を安置しているから、いつでもどこでも念仏を唱えれば如来に通じる。が、念仏するには何か目安がないといけないので人形を置くのだ。」とのこと。

 

※方寸の胸とは、微細身でブラフマンの宿る場所として知られている(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの第23図)が、念仏者からもこういう体験が出るとは。

 

さて、好事魔多し。中年老境になっても彼女の令名と美貌を狙ってうまいことを言って言い寄る者がやまない。ストーカーも少なくなかったのだろう。

 

彼女は、歌人と作陶家として有名になり、歌や陶器を求めて地方から上京して訪問する者引きも切らずとなった。これを煩わしく思って、彼女は住居を頻々と変えた。

 

年を取っても美人は美人。真剣に求道する者にとっては、余分な名声と淫欲から来るナンパは邪魔なだけである。

遺言に、棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな、としたのは、やり過ぎかと思っていたが、実は当然だったのだろう。

 

知っている東証プライム上場企業の女性役員で結構美人の方がいるが、絶対に公式資料で写真を出さないのは、その辺の事情もあるのだろうと拝察する。慧春尼も美人であったが故に苦しんだ。

美人でないことを気に病む人が多いのだろうが、美人で苦しむことの方が大変なのではなかろうか。

 

※本記事は、美人禅/笛岡清泉を参照。

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