モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

総大会より 1月26日

2025-01-26 06:48:34 | 総大会
「あの…メッセージは…悔い改め…生活を変え…主に立ち返るよう強く勧めていたのです」
(きよくなれ ゴーリー長老)

「どうすれば、そのような勧めを感じることができます?」
わたしには分かりません。
ただ、その勧めを感じられる気持ちが神様からの賜物であることは確かだと思います。

「どうすれば…」と感じているなら、そのこと自体が賜物かもしれません。
多くの場合、その気持ちは時とともに過ぎ去って行きます。
ですから望むのであれば、その賜物(祝福)がもたらされている今、祈ってみてはどうでしょうか。

祈るときにその気持ちは強められ、どのように悔い改め、どのように生活を変え、どのように主に立ち返ればよいのか、導いてもらえるかもしれません。

「すぐに…」とは言いません。
主の定めた“とき”があるようです。
それでも祈り求めるなら、“そのときが来るまで保てるだけの信仰”は期待できそうです。

わたしはそう思いますけど、どうでしょう。
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総大会より 1月25日

2025-01-25 06:20:38 | 総大会
「わたしたちはお互いを必要としているのです。…その必要性がわたしたちを一つにしてくれます」
(あなたがたはわたしの友である バックナー長老)

わたしたちは何を必要としているでしょうか。
誰もが自分が必要としているもののために生きていると思います。

お金のため、趣味のため、家族のため、信仰のため…
人それぞれにあると思います。

先日、信仰について語り合う機会がありました。
その人は言いました。
「わたしたちは信仰によって救われます。
何よりも信仰が必要です。」
このように応えました。
「その信仰の基は何ですか?
それが愛や思いやりでなければ、わたしにその信仰は無理そうです。
わたしはキリストを信じていますが、愛と思いやりのための信仰です。
信仰のための愛と思いやりではありません。」
話は通じなかったようです。

わたしたちは何を必要としているでしょうか。
もしかすると、日々の生活の中で、繰り返し確認する必要があるかもしれません。
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総大会より 1月24日

2025-01-24 06:11:21 | 総大会
「分裂する理由を探すのをやめ…ひとつとなる機会を求めなければなりません」
(あなたがたはわたしの友である バックナー長老)

分裂を求めるなら、不平不満を口にすればいいのです。
その材料はどこにでも転がっていると思います。
不平不満は怒りの表現であって、彼らは周りの人をも怒らせようと挑発します。
たぶん無意識の行動なのでしょうけど、サタンはそれを見てほくそ笑んでいますよ、きっと。

ひとつとなる機会を求めるなら、良心(御霊)に従ってみてはどうでしょうか。
おそらく、ひとつになるための道を示してくれると思います。

「自分は御霊に従おうとしているのに、相手が…」
よくあることですね。
難しい問題です。
ところで、今そこにある不平不満に気付いていますか?

いやいや…ほんとうに難しいですね。
他人事ではなく、わたしの問題です。
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総大会より 1月23日

2025-01-23 06:39:21 | 総大会
「分裂や…無関心を求める世界において…分裂させるものよりも、一致させるものの方がはるかに多い」
(あなたがたはわたしの友である バックナー長老)

分裂させるものは何でしょう。
その代表的なものは“怒り”であるような気がします。

一致させるものは何でしょう。
“愛”だと思います。

「多くの人の愛が冷えるであろう」マタイ24:12
どうしてでしょう。
「分裂や無関心を求める世界」の影響のようです。

「分裂させるもの(怒り)よりも、一致させるもの(愛)の方がはるかに多い」のでしょうか。

ひとつの質問があります。
「人は、心の中に、愛と怒りのどちらを求めているでしょうか?」

もしも、愛を求めているのに、怒りを抑えることができないでいるとしたら、不幸ですね。
愛を求めて、愛を示し合うことができるなら、幸せです。

そんなことを思いました。
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総大会より 1月22日

2025-01-22 06:37:36 | 総大会
「多様性豊かな…中で…友としてひとつの声、ひとつの目的、ひとつの祈りでともに働いたので、違いは薄れて行きました」
(あなたがたはわたしの友である バックナー長老)

現代はおそらく、“人類の歴史が始まって以来の自由な社会”ではないのでしょうか。
確かに「多様性豊か」に見えますね。
でも実のところは、多くの人は周りと同じであることで安心するようです。

クリスマスだから、お正月だから、成人式だから…
流行りだから、皆が持っているから、常識でしょ…
それらは周りと一緒であろうとする気持ちを表しているように思えます。
批判する意味ではありませんので、誤解のないようにお願いします。

わたしたちは人ではなく、主と同じであろうとします。
主の声に従い、永遠を目的として、神に祈ります。
そのために周りの人々と少々異なる存在に見えるようです。

「周りと異なる存在に見える」という理由で教会を敬遠する人が少なくないのも事実です。
その逆に、もしかするとわたしたち教会員にも偏見があるかもしれません。

もしもそんな偏見があったとしても、共に行動するとき、その違いは薄れて行くようです。
そう思いませんか?
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