昨日は経過観察日だった。
私が抱える疾患は「低髄液圧症候群」というもので、
実際には、医療側にもよくわからないことが多い疾患らしい。
今まで原因不明で医療難民とされてきた人も多く、
本当にこの疾患であった人、そうでない人も、
この疾患だと診断を受けたり、思い込んだりしている患者もいる。
私の主治医とは、
ドクターショッピングを繰り返した15箇所目の病院で出会った。
当時、ドクターショッピングという呼称も知らない私は、
医療の闇や憤りを感じ、
交通事故受傷が原因なのにもかかわらず、
「あなたの性格が痛みを増長させています」とまで言われた。
事故後、わずか半月後のことだ。
痛さや不具合の発作でかけこんだ大学病院の医師は
その状況を真摯に受け止めないばかりか、
「だから、あなたのその性格が・・・」とだけ繰り返した。
殺してやりたい、と思った。
許されるのであれば、私はこの若造の医者を殺めてやりたかった。
そのような月日を1年半過ごした。
交通事故が儲かる商売だという事実、
その取り巻きも十分理解した。
彼を主治医に選んだ理由を聞かれたとき、私はこう答える。
「正直であるという人格」と。
いくら腕がよくても、評判でも、名医だともてはやされていても
この「人格」がそぐわない場合、私は主治医には選ばない。
私も自分の疾患について、多くの患者が治療法だと信じて止まないものを、
その治療経過観察や意見を聞くことで実情を把握してきた自負がある。
脳神経外科学会や医師会へも連絡をした。
代議士秘書の友人を通じ、厚生省の見解の詳細もお聞きした。
私は未婚の母であるため、娘を路頭に迷わすことはできない。
収入が途絶えた場合、
娘がお世話になっている私立高校では、
辞めずに済むように施策を検討してくれるとまで言ってくれた。
けれど、安心して療養などできる状況ではなかった。
加害者の対応、加害者側保険会社のみならず、
自分が加入している保険会社の対応、勤務先など、
自分が交渉人なのか?と自問を繰り返すばかりで、
自答にはたどり着けない。
医療とは? 患者とは?
快方する方と悪化する方の差は性格によるものが大きいこと、
性格いうよりも生き様が患者のあり方として深いかかわりを持つ。
いいや、持ってしまう。
悲しいけれど、それが岐路となる。
それに気付く人はごくわずかで、
できればお互いの傷を舐めあい、
快方できない理由を誰かを責めることで物事を裁いているようにさえみえた。
私は今年の6月上旬に山を越した。
山というのは、これ以上悪化しない、
今までの痛みや不具合から解放されることを意味している。
それは現主治医と一緒に勉強をして、経過観察の詳細を研究し、
自分の体質や癖を悪化や快方から学び、
手術や不可思議な治療や薬物依存にならないように、
自然治癒力を高めるだけに尽力を注いだ結果だ。
私たちは長期戦でこの疾患を捉えていた。
告白すれば、すぐに治りたい、というのが患者の本心だろう。
けれど、急がばまわれなのだ。
昨日、主治医へ宿題を出した。
私の体調がある程度の水準だと主治医が確信を持てたとき、
私自身が不安を感じずに毎日を過ごせるようになったとき、
医療について語りましょう、と。
それは医師と患者という枠を超えた友として、
医療の明日を論じましょう、と。
それが3年後でも5年後でも10年後でも私は待ちます。
それが医療従事者にとっても患者自身にも、
希望となり得るなら。
私があなたを選んだ理由は、正直さと人格にあります。
あなたの笑顔にどれだけ救われてきたか、
追記として伝え・・・・・
※体調にもよりますが、
今年9月以降2ヶ月以上3ヶ月未満をを予定して
ヨガおよびセルフメディケーションのライセンス取得をします。
その際、米国の医療現場を視察も予定しています。
医療側も同様に、患者側への課題も多いのでは、と
私が思う解答を得るために・・・
※医者坊とは「たいこ医者」を意味し、口が達者で軽薄がましい。
私は現主治医には絶対にそんな医者にはなって欲しくないという
希いや思いが込められている。
だから、主治医も論ずる相手も彼でなければならないのだ。