あなたにとって心を満たすものは、その瞬間はなにですか?と訊ねた。
若くして某大手副社長になっていた知人に向けた、すこし意地悪な質問だ。
考えてみましたが答えはひとつではないでしょう。
敢えて言うのであれば、人生は一回なので、好きなことを好きなようにやりたいと思うだけです、と言う。
なぜ私が「あなたにとって心を満たすものは、その瞬間はなにですか?」と問うたのは、
13年、あなたを想ってきたからです、という内容のメールが届き困惑したためだった。
彼は私が思っていた以上に紳士だった。
メールの内容も、食事への誘い方も、段取りも、立ち振る舞いも、すべてが紳士的で魅力的だった。
でも、人生は一回なので、好きなことを好きなようにやりたいと思うだけです、との返信が届いたとき、
違和感があったというか、心にたくさんの隙間があることに気付いてしまったとでも言えばいいのだろうか。
必死でなにかを埋めようとする。
でも、それは心を満たすものではないために、心が削られたり削がれたりはしても、
満たすために功を奏しない。
彼は心の満たし方を酒や女性で一時的に、継続的に今でも「満たしてくれるもの」だと信じてやまないが、
彼の手の振るえをみたとき、誰か彼を止める人やなにかがなかったのかと悔まれた。
目前にいるのは世間的にみれば成功者かもしれないが、
傷だらけのただのひとりの男にしか私には見えない。
誰か彼を本気で愛したり、抱きしめたりしなかったのだろう、と喉まで出しかけた言葉を一気に飲み込んだ。
私をマイペースで、自分の時間軸で生きている人、という表現をしたので、
それは障害を持っているために、そうした生き方しかできないためです、とその話題を持ち出した。
その話題とは私の障害のことで、なにも自分で好き勝手に選択したものでもなければ
自分の時間軸ではなく、この時間軸でしか生きられないのが私なのです、とすこし声を荒げた。
みえない障害のために、普通であるかのように振舞う自分がいる。
そのために、本当に私に障害があるのかと、それは嘘や悪い冗談じゃないかと言う人たちもいる。
でも、すべてが事実だし、無理をするのは、私の悪い癖であるのと、やさしさだと彼らは知らない。
仮にそれをやさしさだと表現した場合、なんのためのやさしさだ?と詰め寄られるのが落ちだろう。
人生は一回しかないからと、自分の好きなように生きるのは勝手だ。
私はそれについて、とやかく言う権利など持ち合わせてはいない。
ただ、私はそうした考えを持っていないし、
一回きりだからなんでも思うように、好きなように生きたいとも思ってはいない。
それはもしかしたら障害というものを抱えた現在において、
多くの人が歩む人生の軌道を生きていないからだとの説明は理解してもらいやすいだろうか。
酒を飲む慣習もなければ、酒を付き合う席からも遠のき、夜も出歩くことはなくなった。
ただ静かな、静か過ぎる1日を、自分なりに精一杯生きている繰り返しの最中にいて、
自分の心を満たすものと向き合い、自分の時間軸に慣れようとしているのが私なのではないだろうか。
なにをあなたの心を満たすものなのでしょうか?と質問を続けた。
すこし考えてみます、こうして質問をされると整理しやすくなるので、
遠慮なく、なんでも聞いてください、と返信には書かれていた。
私が質問をしたのは、私が彼の心を満たすためになにかを知りたいというものではなく、
人間として、ひとりの男として、どのような人生を歩み、考えや価値を持ち、
今を生きているのかという興味があるからに過ぎない。