rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

I 君のこと

2008-05-27 19:20:34 | その他
 患者さんのことをブログに書くというのは個人が特定されたり、誹謗する内容だったり、またその人の今後に不利な状況が起こる可能性があるようなことは絶対あってはならないと自覚している。しかしもう大分時間も経過したこともあり、しかも昨今の若い人達が自らの命を絶つ、或いは自分を大事にしていないと思われるような軽率な行動から犯罪の犠牲者になる報道に接すると、自らは生きたいと必死に癌と戦ったのに亡くなっていったこの患者さんのことをどうしても記して置きたいと思うようになった。

 医者をやっている上で忘れられない患者さん、心に残る患者さんというのがいる。I君もそんな一人だ。I君は16歳、高校一年である。初めの出会いはまだ真冬の1月下旬、病院の忙しい外来のさ中、看護師から「処置室のベッドで患者さんが痛くて苦しんでます。」という一言からだった。

 「また結石の発作が運ばれてきたか。」と思いながら、近所の病院からの紹介状を読んで驚いてしまった。精巣癌、肝転移、肺転移、後腹膜リンパ節転移、脊椎、脊髄転移、乳酸脱水素酵素(LDH)4千台、αフェトプロテイン700、人絨毛性ゴナドトロピン(HCG)6万6千、しかも無治療とある。「ひええ、これは初診で末期の睾丸腫瘍でもう助からない。」2年前位から睾丸に異常を訴えていたようだが放置、数カ月前から腰痛が出てきたが整形外科では単なる腰痛と言われて放置され前病院を受診した時にはこの状態でCTだけとってこちらに回されてきたのだった。しかし同じ総合病院の泌尿器科医として、せめて連絡をしてこちらの受け入れを確認して送るのが礼儀ではないか、まるで「この子を宜しく」と手紙をつけて赤子を乳児院の玄関に放り込むような送り方である。

 後腹膜の転移が脊椎の何倍もの塊になり、激しい痛みを起こしていて脊髄転移が脊髄本体を圧迫して下半身麻痺が既に起きかかっていた。「これは100%助からない、えらいのが来てしまった。」新患は外来をしている3名の医師が順にみてゆくことになっていた。これから起こるであろういろいろな面倒や不幸な結末を思うと隣で診療している同僚医師のカルテの山の下にそっとこの患者のカルテを入れたい誘惑にかられるが看護師に「どうしましょう」とせっつかれていまさら人に押し付ける訳にも行かず。私の若いときの恩師は「俺が診なくて誰が診る」という気質の尊敬すべき医師でどんな面倒な患者も嫌がらず診ていたことに薫陶を受けていた私は「俺が診ないで誰が診るのだ」と覚悟を決めた。

 精巣癌でも精上皮腫というタイプならば進行していても助かる可能性があるがHCGを出す絨毛癌を多く含むタイプは極めて予後が悪い。精巣腫瘍の経験はいままでも年に数人はあったがここまで進行し、しかもHCGの高い例は初めてだった。同伴してきた母親に「まず10中9助かりません。このまま痛み止めだけで様子を見るか、化学療法死を覚悟で一度退院することを目標に治療してみますか。」と厳しい話しから始めなければいけなかった。

 泌尿器科医をしていて感ずるのは睾丸腫瘍になる男性は決まって「ナイスガイ」である、ことだ。見た目だけではなく気立てが良く、所謂男気のある付き合っていて気持ちの良い「漢」が多いという印象を持っている。女々しい卑怯な奴は見た事がないのである。睾丸腫瘍の患者さんと結婚した看護師もいる。このような性格やホルモンの値と腫瘍とが関係があるのかどうかは定かではないが、この印象を持っている泌尿器科医はどうも私だけではないようだ。このI君も16歳にして例外ではなかった。背が高く、鼻筋の通った色男で性格も極めて良い。本人に「もう駄目です」とはさすがに言えなかったが、癌があること、転移があること、厳しい化学療法をして、少なくとも半年は入院生活になることなどを話し、彼は冷静に受け止めた。この先彼とは長い付き合いになるのだが辛い時にも彼は主治医の私についぞ愚痴めいたこをを言った事が無かった。

 翌日から治療が始まった。片側尿管がリンパ節転移で閉塞していたから皮膚から鉛筆の芯ほどの太さの腎瘻を入れた。化学療法には腎機能が保たれていることが必須である。痛みのために横を向くのがやっとでうつ伏せにはなれなかった。全身麻酔で腫大した精巣を摘除した。転移の割に正常の1.5倍程度にしか大きくない。小児頭大になることもあるのにこの大きさでしかなかったのは発見が遅れた原因の一つでもある。原発巣を取るのは病理組織を確認するためである。下半身麻痺が進行してきている、完全麻痺になる前に、傷が癒えるのを待たずに緊急で病理組織を確認してもらい早々に化学療法を開始した。

 予想通り初回の化学療法は命がけであった。投与量はレジュメ通りPVBである。全身状態が悪かったが手加減せず全量投与で行った。モルヒネが注射で一日量200mgを超えており、毎日40度の発熱が続く。食事は取れないので中心静脈栄養で全て治療する。抗生物質もγグロブリンも使った。できることは何でもした。顆粒球刺激因子を大量に使っても白血球が200-300のまま上がってこない。血圧が50を切り夜中に呼び出される事もあった。しかし若い体力と本人の気力が勝った。倍以上の時間がかかったが熱が引き、白血球が上がり出した。

 休薬期間をおいて2コース目に、2コース目は初回に比べると楽であった。化学療法が劇的に効いたのである。麻痺した下肢の感覚がもどり歩けるようになった。痛みが少しずつ引いてきて痛み止めが不要になり、食事も取れるようになって尿管閉塞もなくなり腎瘻も抜去できた。4コース目が終わる頃にはCT上の肺、肝の転移が消失し、後腹膜で大きく一塊になったリンパ節も二分の一位の大きさに縮小した。LDH、αフェトプロテインもほぼ正常になった。しかしHCGだけが10位を維持して正常の0.2以下まで下らない。癌はまだあるのだ。

 ここまで来ると「もしかしたら」という欲が出る。もしかしたら治るかも知れない。家族や本人が思うのは当然だが、我々も何とかなるかも知れないと希望を持ち始める。しかし既に化学療法は4コースしており、使える抗がん剤も一個体に使える量の限界に近くなっているものもある。もう一押し決定的な化学療法ができないか。そこで「別の化学療法レジュメを用いた末梢血幹細胞輸血」を行うことにした。この末梢血幹細胞輸血は血液の癌治療の分野では骨髄輸血に次いで広く行われており、本人の末梢血から白血球の元になる幹細胞を採取しておいて増やし、大量の化学療法後白血球がゼロになった際に戻してやることで抗がん剤使用後の回復を早める治療である。

 既に半年近く学校を休み淡々と抗がん剤治療を繰り返してきた彼も体調が良くなってどこも痛くないのだからもう退院して学校に行きたいだろう。高校1年の3学期に入院してから2年になって一度も登校していない。体調が良くなった夏休み頃には時々友達は面会に来てくれるが、頭髪も眉も全て抜け落ちた姿は痛々しく、やはり長居はしにくいらしい。末梢血幹細胞輸血を行うにはもう一回化学療法を行って白血球が上昇する時に白血球をフィルターで採取しないといけない。都合あと2回化学療法をやる。しかも2回目は今までで一番辛いかも知れない。彼はこちらの申し出を納得してくれた。

 新しいレジュメを用いて化学療法を行った。血液内科の協力を得て末梢血幹細胞の採取も行った。そして本番の強力な化学療法を行った。白血球が500を切り、100、殆どゼロに近くなり本人の末梢血幹細胞を戻す。幸い危機的状況は短時日で戻り始めた。大事なのは効果である。癌マーカーのLDH、αフェトプロテインは既に正常化していたが、問題のHCGが1の辺りまで下るが完全には陰性化しないのである。これでは治ったと言えない。画像診断では腹部のリンパ節だけが少し大きい塊として残っていたが、これは線維化した塊かも知れず、他の転移巣が肝臓も含めて全く消えていたので全体としては悪くない状況であった。いろいろ文献を調べるが、ここまで酷いとやはり完全に治癒した例は殆どなかった。しかし6回の化学療法に黙って耐えて我々の治療に付いてきてくれた彼に、自覚症状が何もない状態であるのにこれ以上のことを要求する事は無理であった。精神的にも限界だと思った。「帰るのは今しかないかも知れない。できるだけ長くこの状態が持って欲しい。」そう願って一度退院とした。1月に入院してから既に10月を回って冬が近づきつつあった。


 I君が激しい腰痛を訴えて救急外来を受診したのは退院してから2週間が過ぎた頃であった。8ヶ月以上の苦しい入院生活の後である。いろいろ遊んだり、運動も少しずつ始めたこともあるだろう。急に動きすぎたから腰を痛めたのだろうか。それでも尋常でない痛がり方であった。取り合えず再入院として血液検査、骨のレントゲン検査を行う。何れも特に大きな異常は認めない。ガンマーカーのHCGは退院した時よりもやや高値になって3くらいである。2週間で既に3倍は早い。しかしこの腰痛に関係するほどの値ではない。

 数日入院してもどうしても痛みが取れない。整形外科に相談して腰椎のMRI検査を行う。そこで原因がはっきりした。骨転移である。骨の形は崩れていないが、腰椎のいくつかに脊椎の形に正常と異なる濃度の陰が広がっていた。何とか痛みを取るために放射線治療ができないか。実は高校2年の冬にI君の高校では沖縄に修学旅行がある。高校2年になってから通学は殆どしていないから留年はやむを得ないけれど、1年の時からの仲間で修学旅行には行きたいというのがかねてからの彼の願いであった。そうこうするうちに、他の癌マーカーもじわじわと上がり始めていた。このままでは旅行がある1月中旬には再び動けなくなる程癌が悪化してしまうことが予想された。

 ご両親に骨の転移の状態、癌マーカーが再び上がり始めていることを率直に報告した。「何とか修学旅行だけはいけないだろうか。ずっとそのことを楽しみにして話しながら、入院中も頑張ってきたんです。」それは主治医である私も知っていたし、何とか修学旅行には行かせてあげたいというのは親ならずとも同じ思いであった。しかもこの調子では来年の春頃には再発のために酷い状態になっていて、夏頃には恐らく不幸な転帰を遂げていることは間違いない状態であった。それはご両親にもその通り話さざるを得なかった。何という残酷なことを平気で話すのだろうと私は思った。自分も3人の子供の親なのに。

 「修学旅行に行くために、今までに一番効果のあった化学療法をもう一度やろう。正月は帰れなくなるけど修学旅行には間に合うように体力回復ができる。」放射線治療で痛みが少しずつ改善していたI君に私は話した。それ以上詳しい話しは本人にはしていない。本人も詳しい事を私に質問してこない。いろいろ聞きたいことがあるだろう。こんなに頑張っているのに何故痛みが起こったり、また化学療法をやろうなどと言うのか。私ならば相手が困るほど質問していただろう。しかし彼は私の説明に黙って頷いた。両親を困らせるような言動もない。大した男であると感心する。

 医者をやっていると神は存在すると思わせる場面に多々遭遇する。離れた所にいる孫が無事生まれた直後に亡くなって行く老人、海外に行っている息子が帰ってきてから息を引き取る意識不明の癌末期の患者、その他よくこのような巡り合わせがと思うことは多い。「何とか修学旅行にだけは行かせてあげたい」という願いを神は聞いてくれた。途中体調が悪くなったら現地の病院に行って診てもらえるように手紙なども持たせ、入院中外泊という形で、何かあったらいつでも病院にもどれる体制をとって修学旅行に送り出した。学校側もかなり気を使ってくれただろう。そして友人達も彼が参加するについては大変協力してくれたようだ。荷物は友達同士で持ち合って、頭髪も眉もまつげもない痩せた病み上がりの彼を快く受け入れて旅行に参加させてくれた。

 旅行は無事終了した。本当に楽しい旅行だったと言う。皆でカチャーシーを踊ったらしい。家に戻った翌日、彼は両親に連れられて病院に戻ってきた。また腰痛が出始めていた。

 それからは坂道を転がり落ちるという表現の通りであった。癌マーカーの増加速度が一週間ごとに倍々に増えてゆく。前回の化学療法で骨髄も体力も限界でとてもこれ以上積極的な治療は行えない状態であった。痛みが強くなり、モルヒネが開始され、使用量も倍々に増えていった。

 3月には既に目を開けているのがやっとという状態で、血液検査の値も今まで見た事もないような異常値を示していた。神は一瞬やさしいと思わせるけれどとても厳しい。死相が現れていることが分ってしまうのが医師としての辛さである。ある朝、私は彼のベッドを訪れて黙って右手を握った。「よく頑張ったな」と心でつぶやいた。彼は僅かに握り返してきて、私の目を見つめて少し唇を動かした。「ありがとうございました」と言ってくれているように思った。まるで何かのドラマのような話しだが、真実であるから忘れられないのである。

 翌日の未明に、I君は17歳の短い生涯を閉じた。私は遠方の他の病院に出張の日で、病床に駆けつけることはできなかった。前日の別れが彼との最後であった。出張先の病院の医局で一人になった時、私ははらはらと涙が出た。受け持ちの患者さんが亡くなっても涙を流すことはないのであるが、やはり彼は特別であった。自分の子供の年齢に近いし、この1年以上殆ど毎日顔を見てきた。16-7の少年が大人でも感心するような対応をずっと示してくれたのである。人間として私よりも彼の方が上だ、だから早く神に召されたに違いない、そう考えざるを得ない。

 数ヶ月してI君のご両親と会う機会があった。辛い思いをされて、特に病気が酷くなってからは精神的にもかなり参っておられた。しかしお二人とも我々医療者に対しては頭を下げてくださった。頭を下げたいのはこちらも同じである。こちらの治療によく付いてきて下さり、またI君を精神的に支えてくださったのは家族の力であると思う。

 1年以上に渡り、殆ど入院し通しで、できる限りの医療を行ったので医療費は毎月かなりの額であった。勿論高額医療であり、若年者への医療保護の対象でもあり、患者さんの負担は多くないのであるが、毎月高額医療で査定されないよう、病状経過を詳しく保険機構に症状詳記として提出した。修学旅行に参加し、亡くなるまでの経過も毎月報告した。医療費の査定を行った医師も状況を把握し、よく理解してくれたものと思う。亡くなるまでの彼の医療費は一円たりとも減額されることはなかったのである。
コメント (6)
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