おはようございます。
晴天の@札幌です。
今日からさっぽろ雪まつり。
朝のニュースでは新型コロナ対策として休憩所にアルコールスプレーを設置するなどの対応をするとのこと。
そんな一方で、中国での死者が400人を超えたとのニュースであったり、豪華客船の乗客に2度目の検疫を行うとのニュースであったり。
リスク回避のためには、なるべく罹患する可能性がある場所には行かない、
已む無く行くときはマスク着用、手洗いうがいを徹底、との声。
店頭からはマスクがこぞって売り切れる状況が発生。
一方で“マスク着用には防護効果がない”との話も。
そんななか、
「正しい情報、正しく恐れる」ことを呼びかける声が自治体等から発せられている(例えば
こちら)。
はて。
「正しさ」は何に依拠するものか?
テレビニュース、新聞の情報、ネットの情報、口コミ…等々、情報源は多々あれど、
「正しさ」よりも「斬新さ(センセーショナルさ)」を追い求める情報発信主体の情報に基づいて「正しく恐れる」ことができるものだろうか?
一般市民にとって挑発的ですらある言葉遊びに興じている政治家の発信などに「正しさ」を依拠してよいのか?
皆が専門的な知識を有しているわけではなく、専門家にあっても立場によって結論が揺れ動くなか、
「正しいかどうか」を判断する根拠は信頼性よりほかになく、
信頼性は、蓄積なくして成り立たないものではないか?
思えば、“公の情報”が信用できなくなってしまったのはいつからか?
自分がそれなりに老成したから見えてきた事実もあると思うが、それにしたって公なるものの経時劣化は著しいように思う。
不完全な情報の中、「正しく恐れる」ために「正しい情報」に少しでも近づくためには、
公の情報を鵜呑みにするのでもなく、
権威と言われる人々の発信を妄信するのでもなく、
発信された情報と、この立場の人が今この情報を発信することの意味との二軸を組み合わせて取り込み、
可能ならばソースを複数求め、
点から線、線から面、面から立体へとかたちが露わになるように
多面的に捉えることが何よりも重要ではないか。
ググればだいたい解決する、というのは、一面真理ではあるけれど、
思考停止のワナにハマらないようにしなければ。
事の大小に応じてリサーチの質や次元を変えていくことは、生きるための知恵だ。
便利な時代だからこそ、情報の取捨、どこで見切りをつけるかの判断能力が求められている。