お盆を過ぎて、関東南部はさすがに猛暑日になることがなくなってきて、朝晩と過ごしやすくなってきました。夜になると庭からリンリンと虫の声が。これから徐々に寒くなっていき、夕日の沈む時間がだんだんと早くなってくるこの季節が一年のうちで一番好きです。食べ物も美味しいですよね。お菓子作りが趣味なのですが、真夏はオーブンを極力使いたくないのでお菓子作りはせいぜいスコーンを焼くくらい。涼しくなってくると秋の味覚を使った焼き菓子を作るのが楽しみです。
以上、女子力高男(じょしりょくたかお)です。
さて、帚木蓬生(ははきぎほうせい)さんの作品を読むのはだいぶ前に「閉鎖病棟」を読んで以来。医師で小説家という方は結構好きでして、我が家の書棚にあるのは森鴎外、加賀乙彦さん、海堂尊さん、川田弥一郎さん、あと海外だとマイクル・クライトンがそうですよね。ちなみに渡辺淳一さんの作品は読んだことがありません。
永禄十二(一五六九)年、豊後(現在の大分県)の戦国大名、大友宗麟は、豊後日田の一万田右馬助の屋敷を訪れます。大殿は「お前が養子にしたあの子は元気か」と訪ねます。すると右馬助は養子を呼んで大殿の前に連れてきます。今年で十歳になる米助。「アルメイダ様の名前からメイをいただいて米の字をつけました」と右馬助。すると大殿は米助に向かって「お前の進む道はイエズス教だ」と言います。米助は幼い頃から養父母といっしょに毎朝「天にましますデウス・イエズス様、日々の恵みに感謝します」と唱えていたのです。
大友宗麟とキリスト教の出会いは、天文二十(一五五一)年、宣教師フランシスコ・ザビエルとの面会に遡ります。のちに洗礼を受けますが、このときにキリスト教に心動かされたわけではなく、主目的は交易でした。その後、豊後にやって来たアルメイダ修道士が「孤児院を建てたい」と希望しているので、大殿は、戦で足を負傷した大友家の重臣の右馬助に協力してくれと頼みます。ある日のこと、アルメイダは右馬助に「うまのすけさまは、こどもがいないので、ひとり、もらいませんか」とお願いします。このときの子が米助。
大殿が右馬助のもとに来た目的は他にあって、筑後領の高橋という村の大庄屋になって欲しいというのです。そして「わしの望みは九州一円をイエズス教の国にすることだが、たとえその夢が消えても右馬助が統べる村々でわしの夢を継いでほしい」とお願いします。そして右馬助は大殿からザビエル師から授かったという絹布を譲ってもらいます。
そして、高橋村の大庄屋になった右馬助のもとに、アルメイダがやって来ます。アルメイダが説教を行うというので、庄屋や村人たちが来て、説教を聞き、次々とデウス・イエズスに帰依したいという者があらわれます。村人の大半が信者となり、大殿との「小さくともデウス・イエズスの王国を築いてくれ」という約束を守ります。米助は元服して久米蔵と名乗り、結婚して子が生まれます。
しかし、日本の各地ではキリスト教の弾圧があり、布教も順調にはいきません。キリスト教に寛容で、やがて天下を取るであろうと目されていた織田信長が家臣に殺され、後釜についた豊臣秀吉は、はじめは静観していたのですが、いきなり「伴天連追放令」を出します。といっても、海外から来た神父や修道士の国外追放で日本人のイエズス教の信仰については特に何もありません。しかしイエズス教の教徒を公言している高山右近(ジュスト右近)は秀吉の怒りを買ってしまい領地召し上げになってしまいます。
やがて「禁教令」も出されて、締め付けは厳しくなる一方。時代は秀吉から徳川家康へ。家康が熱心な仏教徒ということもあって、おもねるというか忖度というか、とりわけ外様大名がキリシタン弾圧に熱心になります。しかし、家康はどちらかというと「黙認」で、二代将軍の秀忠は是とも非とも言いません。そんな中、久米蔵が亡くなり、大庄屋は長男の音蔵が継ぎ、弟の道蔵は今村の庄屋に。
が、幕府は「切支丹禁教令」を発布します。これからさらに取り調べが厳しくなる中で、音蔵はロザリオや十字架は隠して棄教を装ってはどうかと提案しますが、兄以上に熱心な信者の道蔵は自粛せず逆に目立つぐらいに布教に励みます。
郡奉行が各庄屋にすべての住民にキリシタンではないという証文を出せと命令してきます。道蔵のところではどうするかと心配していた音蔵のところに、道蔵の息子の鹿蔵が訪ねてきて、家督を継ぐと告げます。ああ良かったと思った音蔵でしたが、数日後に道蔵が訪ねてきて、息子の鹿蔵と兄の音蔵に、自分を訴えてくれというのです。それによって高橋村は信用されるようになるから、と・・・
これによって、道蔵は捕まり、磔刑に処され・・・
それから、島原と天草で信徒の一揆が起きたときも、音蔵と鹿蔵は藩からの人馬拠出の要求に応えます。音蔵が病に倒れ、高橋村の大庄屋は息子の留蔵に。庄屋をはじめ村人たちは隠れて信仰は続けていたのですが、藩からの取り調べも緩かったのは、ひとつには高橋村産の米が藩内はもとより江戸屋敷でも評判が良くて、藩から信頼されていたのです。というのも、よその村ではそれぞれ勝手に植えて田に水を引くときに争ったりして、そうなるとどうしても収穫時に玉石混交となって米の質が悪くなるのですが、高橋村と今村は村人が「デウス様の筆先」として勤勉に働き、村人総出で暦通りに田植えをし、水で争ったりもせず、六日ごとの休日(ドミンゴ、安息日)はきちんと休んで英気を養ってまたしっかり働くので、米の出来が非常に良かったのです。
さらに、村内で行き倒れの人や捨て子がいたら助けます。飢饉が起きても備蓄していた稗や粟、蕎麦を惜しみなく供出します。これもデウス様の教え。高橋村では村人の逃散(夜逃げ、家出)がほぼありません。
時代は過ぎ、幕末から明治維新となり、明治十四(一八八一)年、磔刑に処された今村の庄屋、道蔵の墓の上に教会が建てられます。五代目の神父の本田保神父はドイツに寄付を募る手紙を送り、多額の献金が集まって、大正元(一九一二)年に今村カトリック教会の起工式が行われます。完成したロマネスク様式の赤レンガ建築の教会は、平成十八(二〇〇六)年に福岡県の有形文化財に、平成二十九(二〇十七)年には国の重要文化財になります。
全国各地に「隠れキリシタンの里」というのがありますが、二百年以上というあまりに長い潜伏期間だったため、中には、ほぼ仏教のお経に聴こえる、でもその内容は暗号化されたキリスト教のオラショ(祈り)になっている、といったのもあります。
歴史の教科書にも出てくる「踏み絵」ですが、高橋村の村民もやらされます。しかし事前に大庄屋から「あれは魂が込められてないただの板じゃ」といって村人ははじめは裸足で、そのうち草鞋を履いたままで踏む者まで出てきて郡奉行も「うーむこの村は立派じゃ」なんてことになるのですが、それにしても踏み絵っていかにも日本人らしいといいますか、ものすごーく陰湿ですよね。
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