暑いです。
と書き込んだところでどうにもならんわけではありますが、それはさておき、まったく読書がはかどりません。自称本好きですらこの暑い中に読書はキツイというのに、本を読むことがまだ習慣化してない小中学生にとって読書感想文とはますます本嫌いになってしまうのではないでしょうか。
若者の読書離れを社会や学校や大人たちのせいにしたところで。
柴田錬三郎さんです。忍者ものです。
時代は、関ケ原の合戦の後。石田三成が捕まって処刑されて、三成に仕えていた「影」と呼ばれる伝説の忍者も捕まります。片目は潰され、片足は切断され、いよいよ処刑されるという時、徳川家康に仕える服部半蔵は「影」と忍者どうしにしか聞き取れない会話をし、そして「影」を逃がす手助けをするのです。「影」は「いつの日か私を必要になったら木曽谷に来てくれ。どんな依頼でも受ける」と言い残して消えてから十五年・・・
半蔵は、ある「頼み」をしに、木曽谷へ。しかし、さすがに「影」も老けて、かつてのような服部半蔵をして「殺すのはもったいない」と思わしめるほどの活躍はできそうもありません。そこに若者が。「影」の子で、徹底的に英才教育を受けた子を「影」の代わりに供に仕えさせます。
半蔵の「頼み」とは、のちに「大坂の役」または「大坂冬の陣夏の陣」と呼ばれる、豊臣方の最後の抗戦、これが長期戦になることを恐れ、さらに相手方の真田幸村の子飼いである「風盗」という忍びの集団が非常に厄介な存在で、家康ならびに本多正純は半蔵に「風盗」を撲滅させてくれと命じたのです。
若い「影」、名前は無いのでかりに「子影」としますが、「子影」は半蔵と「風盗」の本拠地へ。そこで「子影」が取った手段とは、半蔵もビックリというか、忍者にあるまじき、いや人としてあるまじき作戦で、最終的に「風盗」をやっつけたのですが、これには半蔵も怒り、刀を抜いて「子影」につかみかかろうとするのですが、ここでまたさらに半蔵は驚きます。「そなたは・・・」
それから二十年後。
時代は寛永年間。将軍は三代の家光。寛永十一年の某月某日、江戸城吹上にて、御前試合が行われました。しかし、公式にはこの日の前後には家光は日光に行っていたことになっていて、この御前試合は「巷説」ということになっていまして、明治以降になって講釈師が多少の誇張を加えて知られるようになったそうな。
ここでは実際に行われ、しかも十四日かけて十試合も行われた、ということに。
観客は将軍家光のみ。審判は当代名人といわれた柳生宗矩と小野忠常の二名。
この御前試合は、本物の戦場を知らない家光が「どんなんだったか見てみたーい」と無邪気にお願いしたとかで、両者の武器は真剣でも木太刀でも槍でも鎌でもなんでもよく、いわば血闘。
第一試合は、神道流の妻片久太郎時直と一伝流の朝山内蔵助重行の対戦。
勝ったほうへの褒美として、徳川将軍家秘蔵の無名太刀。かつて大坂の役にて大坂城が陥落したとき、戦利品の中に、秀頼所蔵の無名の太刀が十振あったそうで、これは太閤秀吉が数百本持っていたという無名の太刀コレクションに「正宗」と銘を打たせて武勲の褒美にしていたことがあって、でもなぜかそのうち十振だけは無名のままにしていたそうな。
御前試合は十試合行われるので、その勝者に一振ずつ渡されることになります。
その夜のこと。勝者の方では宴があって、寝室に行くと、そこに何者かが。すると将軍より拝領された太刀の切先三寸が折られていたのです・・・
これと同じことが、第二試合、第三試合の勝者にも起きて、柳生宗矩は、もうすっかり老人になってしまった服部半蔵を呼びます。拝領の太刀の切先が折られるという奇怪な事件は「あやかし」の仕業とされていますが、じつは第一試合の勝者のもとから切先を奪い去るときに「影、とだけおぼえておけ」と言い残したのです。この「あやかし」を退治できるのはお主以外におらぬ、と柳生宗矩は半蔵に頼みます。
半蔵は、江戸の西方、武蔵野のある屋敷に向かいます。その屋敷の前に箒を持った小男がいたので「服部半蔵が来たとご主人に取り次いでくれ」と告げます。この小男こそ、かつて徳川家康の首級を狙い、徳川方の数十人の忍者を仕留めた、真田幸村配下の「赤猿」(佐助)と、半蔵は看破します。
屋敷に通された半蔵は、主である老人に、刀の鑑定をお願いします。すると半蔵はこの主に、御前試合の褒美である「いわくつき」の無名太刀十振についてたずねますが、主は知らないの一点張り。すると半蔵が「かくされるな、左衛門佐殿!」と・・・
「左衛門佐」とは、真田幸村の称のことで、しかし幸村といえば大坂の役で豊臣方につき、家康をさんざん苦しめた末に壮絶に討ち死にしたはず。
屋敷を辞去した半蔵を見、主は小男に「お前の腕であの男を討ち取れるか?」と訊ねると「なかなか・・・」と小男はかぶりをふり「佐助、お前も、老いたか」と・・・
はたして「影」とは二十年前に半蔵が見た「子影」なのか、はたまた、その「子」なのか。将軍拝領の刀の切先三寸を奪っていく目的とは。
もう、壮絶に面白いです。服部半蔵が武蔵野の屋敷に向かうくだり、江戸城の、自分の名前が付いた門から出発するのですが、こういう小ネタを入れるの、上手いですね。
これが連日の猛暑の中でなく、ヒンヤリとしてくる秋の夜長だったらあっという間に読み終えちゃってたでしょう。
と書き込んだところでどうにもならんわけではありますが、それはさておき、まったく読書がはかどりません。自称本好きですらこの暑い中に読書はキツイというのに、本を読むことがまだ習慣化してない小中学生にとって読書感想文とはますます本嫌いになってしまうのではないでしょうか。
若者の読書離れを社会や学校や大人たちのせいにしたところで。
柴田錬三郎さんです。忍者ものです。
時代は、関ケ原の合戦の後。石田三成が捕まって処刑されて、三成に仕えていた「影」と呼ばれる伝説の忍者も捕まります。片目は潰され、片足は切断され、いよいよ処刑されるという時、徳川家康に仕える服部半蔵は「影」と忍者どうしにしか聞き取れない会話をし、そして「影」を逃がす手助けをするのです。「影」は「いつの日か私を必要になったら木曽谷に来てくれ。どんな依頼でも受ける」と言い残して消えてから十五年・・・
半蔵は、ある「頼み」をしに、木曽谷へ。しかし、さすがに「影」も老けて、かつてのような服部半蔵をして「殺すのはもったいない」と思わしめるほどの活躍はできそうもありません。そこに若者が。「影」の子で、徹底的に英才教育を受けた子を「影」の代わりに供に仕えさせます。
半蔵の「頼み」とは、のちに「大坂の役」または「大坂冬の陣夏の陣」と呼ばれる、豊臣方の最後の抗戦、これが長期戦になることを恐れ、さらに相手方の真田幸村の子飼いである「風盗」という忍びの集団が非常に厄介な存在で、家康ならびに本多正純は半蔵に「風盗」を撲滅させてくれと命じたのです。
若い「影」、名前は無いのでかりに「子影」としますが、「子影」は半蔵と「風盗」の本拠地へ。そこで「子影」が取った手段とは、半蔵もビックリというか、忍者にあるまじき、いや人としてあるまじき作戦で、最終的に「風盗」をやっつけたのですが、これには半蔵も怒り、刀を抜いて「子影」につかみかかろうとするのですが、ここでまたさらに半蔵は驚きます。「そなたは・・・」
それから二十年後。
時代は寛永年間。将軍は三代の家光。寛永十一年の某月某日、江戸城吹上にて、御前試合が行われました。しかし、公式にはこの日の前後には家光は日光に行っていたことになっていて、この御前試合は「巷説」ということになっていまして、明治以降になって講釈師が多少の誇張を加えて知られるようになったそうな。
ここでは実際に行われ、しかも十四日かけて十試合も行われた、ということに。
観客は将軍家光のみ。審判は当代名人といわれた柳生宗矩と小野忠常の二名。
この御前試合は、本物の戦場を知らない家光が「どんなんだったか見てみたーい」と無邪気にお願いしたとかで、両者の武器は真剣でも木太刀でも槍でも鎌でもなんでもよく、いわば血闘。
第一試合は、神道流の妻片久太郎時直と一伝流の朝山内蔵助重行の対戦。
勝ったほうへの褒美として、徳川将軍家秘蔵の無名太刀。かつて大坂の役にて大坂城が陥落したとき、戦利品の中に、秀頼所蔵の無名の太刀が十振あったそうで、これは太閤秀吉が数百本持っていたという無名の太刀コレクションに「正宗」と銘を打たせて武勲の褒美にしていたことがあって、でもなぜかそのうち十振だけは無名のままにしていたそうな。
御前試合は十試合行われるので、その勝者に一振ずつ渡されることになります。
その夜のこと。勝者の方では宴があって、寝室に行くと、そこに何者かが。すると将軍より拝領された太刀の切先三寸が折られていたのです・・・
これと同じことが、第二試合、第三試合の勝者にも起きて、柳生宗矩は、もうすっかり老人になってしまった服部半蔵を呼びます。拝領の太刀の切先が折られるという奇怪な事件は「あやかし」の仕業とされていますが、じつは第一試合の勝者のもとから切先を奪い去るときに「影、とだけおぼえておけ」と言い残したのです。この「あやかし」を退治できるのはお主以外におらぬ、と柳生宗矩は半蔵に頼みます。
半蔵は、江戸の西方、武蔵野のある屋敷に向かいます。その屋敷の前に箒を持った小男がいたので「服部半蔵が来たとご主人に取り次いでくれ」と告げます。この小男こそ、かつて徳川家康の首級を狙い、徳川方の数十人の忍者を仕留めた、真田幸村配下の「赤猿」(佐助)と、半蔵は看破します。
屋敷に通された半蔵は、主である老人に、刀の鑑定をお願いします。すると半蔵はこの主に、御前試合の褒美である「いわくつき」の無名太刀十振についてたずねますが、主は知らないの一点張り。すると半蔵が「かくされるな、左衛門佐殿!」と・・・
「左衛門佐」とは、真田幸村の称のことで、しかし幸村といえば大坂の役で豊臣方につき、家康をさんざん苦しめた末に壮絶に討ち死にしたはず。
屋敷を辞去した半蔵を見、主は小男に「お前の腕であの男を討ち取れるか?」と訊ねると「なかなか・・・」と小男はかぶりをふり「佐助、お前も、老いたか」と・・・
はたして「影」とは二十年前に半蔵が見た「子影」なのか、はたまた、その「子」なのか。将軍拝領の刀の切先三寸を奪っていく目的とは。
もう、壮絶に面白いです。服部半蔵が武蔵野の屋敷に向かうくだり、江戸城の、自分の名前が付いた門から出発するのですが、こういう小ネタを入れるの、上手いですね。
これが連日の猛暑の中でなく、ヒンヤリとしてくる秋の夜長だったらあっという間に読み終えちゃってたでしょう。
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