ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

河本緑石研究会を拝見して

2014年10月30日 | 地図

 一週間ほどまえ「河本緑石研究会」がFacebook 写真覧に保坂宛のはがき写真等を発表されていた。

保坂嘉内宛河本緑石書簡⑤は、昭和8年1月5日 東京市豊島区長崎東町三ノ八0七であった。

  昭和八年ころの地図  現豊島区の地図の一部  

旧長崎東町の三は一部現高松一丁目である。年賀状の宛先住所は「岩囗鉄工場」内の住所と思われる。

保坂年譜によると この頃「アミノ酸醤油・砂鉄製錬など農村副業の研究を行う」とある。砂鉄製錬とこの住所内の鉄工場との関連はわたくしには解らないが、雑司ケ谷に転居する前の事のようである。

(現在の地図上では 高松一丁目「千川中学校」下側の{}とある一画)

 一部年譜には、「昭和七年三月豊島区東長崎に転居」とあるがこれは間違いであろう。東長崎と長崎東は場所が全く異なる。

        追記 拡大画像 11,2日  二字訂正 高松一町目の町を丁に。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
河本さんが単純に間違えた? (ヤジュル)
2014-11-04 17:12:08
向山様
コメント大変有難う御座いました。お礼申し上げます。
豊島区には、西武線の東長崎駅は在りますが、地名に東長崎は確か無かったと思いますが。当時は長崎仲町・長崎南町は在りましたが。東長崎がお解りでしたならご教示お願いいたします。(ブログ上の部分地図は昭和8年 印刷所東洋印刷株製です)

返信する
保阪嘉内住所 (向山三樹)
2014-11-03 20:41:12
保阪嘉内とアザリアの友たちの交友に関心をもっていただきありがとうございます。ご指摘の件ですが嘉内の住所は当時の手紙では他は全て東長崎と記載してあり、次男の保阪庸夫氏にも確認しました。従って河本義行さんが単純に間違えたものと思います。砂鉄精錬と鉄工所も無関係に思われます。今後ともよろしくお願いします。保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会事務局長向山三樹
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。