前回のブログに、 宮澤賢治と「アザリアの友たち」アザリア記念会事務局長・向山三樹氏よりコメントをいただいた。その全文は以下のようなものである。序でであるからわたくしのも載せておく。
河本緑石研究会を拝見して
保阪嘉内住所 (向山三樹) 2014-11-03 20:41:12
保阪嘉内とアザリアの友たちの交友に関心をもっていただきありがとうございます。ご指摘の件ですが嘉内の住所は当時の手紙では他は全て東長崎と記載してあり、次男の保阪庸夫氏にも確認しました。従って河本義行さんが単純に間違えたものと思います。砂鉄精錬と鉄工所も無関係に思われます。今後ともよろしくお願いします。保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会事務局長向山三樹
河本さんが単純に間違えた? (ヤジュル) 2014-11-04 17:12:08
向山様
コメント大変有難う御座いました。お礼申し上げます。
豊島区には、西武線の東長崎駅は在りますが、地名に東長崎は確か無かったと思いますが。当時は長崎仲町・長崎南町は在りましたが。東長崎がお解りでしたならご教示お願いいたします。
わたくしも以前調べたこともあるのですが、宇津木令氏の「東京長崎物語」をご覧ください。http://www.geocities.jp/netreal_bookbox/bird_eyes/start/w_n.htm
河本緑石氏が単純に間違えたのではないのです。河本氏の名誉のためにも保阪家に有るのでしたなら、向山さん是非お教え願いたいのです。それから
本緑石研究会 【長崎東or東長崎?】
この住所について
ロゴス古書さんのブログに http://blog.goo.ne.jp/rogosu123 「河本緑石の書いた保阪嘉内の住所が長崎東とあったので年譜の修正を」という指摘がありましたが、「アザリア記念会」の向山三樹さんから「他の手紙の住所は全て東長崎とあり保阪庸夫氏にも確認しましたが、河本緑石が単純に長崎東と書き誤ったものと思われる」とのコメントがありました。お伝えしておきます
わたくしは「年譜の修正を」などとは書かなかった。ここでは仏教のように空を論じるのではなく、科学にそくした実証的で、かつ合理的な思考法の形成過程を望みたいものと思っただけである。
(地図 東京都豊島区町名の由来抄 より)