「工学博士天沼俊一氏の設計した『塔の青写真』を、小倉豊文氏が送ってきた、その設計図通りに白ミカゲで造った」と森氏が記述している。さて、すでに他界している「天沼俊一博士」に頼」んだことは、どうも小倉さんの何かの勘違いであろうかと思われる。塔ができたのは事実であるが、誰でもが抱かれるであろう疑問は、見解の相違ではなく解明されないのである。それで私は以下のように思う。
「当時の石造美術の学問的権威者」であるなら、天沼博士を師としてつかえ教えを受けた川勝政太郎博士ではなかろうか。 天沼俊一氏には「石磴篭」の研究はあるが、日本建築・日本古建築史家のエキスパートで知られた人物であるが、「石造美術の学問的権威者」であるならば、川勝政太郎博士であろう。「石造美術」の名を余に初めて公表されたのも川勝博士である。図面コピー(青焼き図面であろう)の策制は、おそらく当時の史迹美術同攻会の何方か(たとえば中西亨氏)であろうかと推測される。
川勝政太郎著「石造美術」昭和十四年二月十一日発行 スズカケ出版部 (会誌「史迹と美術」も最初は同所から出ている)新版「石造美術」は(株)誠文堂新光社 昭和五十六年十一月十五日発行
小倉さんの著書に「広島県古美術巡礼」や「山陽文化財散歩」がある。会誌「史迹と美術」は先月で八百五十号をこえているが、とくに関西方面での購読者会員が多く、このことは小倉さんもご存じであった。昭和三十年頃「瀬戸内海地域における地域社会と神社祭祀」のテーマ研究で、文部省科学研究費申請等々で多忙であったようである。だから間違えたのでもないであろうが森荘已池氏の論考が気になるところである。諸氏の見解・ご教授を乞う。 こんなことは宮沢家が青図面等を発表すればすべてが解決するのであるが。