恩田逸夫氏が「四次元」114号に宮澤賢治の「八月二十七日 出生説への質問」なる論考を提出された。その翌月の115号「四次元」に、「誤謬の諸相(1)高村光太郎の『間違のこと』」と題して以下のような書き出しで掲載されている。
宮沢賢治の出生日について、戸籍上と家の人の考えとで違うといわれていることに関心を持って、『八月二十七日説への質問』を書いてみた。ところがその直後、高村光太郎にもやはり出生日の正誤に触れている文章があるのを知って、たいへん興味深く感じた。勿論これは賢治のことについてではなく、自分の出生日をはじめとして、語謬の種類を挙げ実例を示したもので『間違のこと』と題する随想である。(以下は写真図でご覧ください)ー四次元よりー
恩田氏の東京書籍から出版されている「宮澤賢治論」には「出生説」は1巻に収められているが、「誤謬の諸相」は3巻に収められている関連からか読者に読みおとされがちであった。
誕生日に付いて石川啄木にもいろいろあった。
角川文庫新訂版「石川啄木」(上左側の写真)の 金田一京助氏の誕生日の論は採りあげられず、「石川啄木全集第八巻」年譜(岩城之徳)ように、戸籍上に届けられた日が採用されて現在は上の写真の内容のようになっている。
余談であるが「賢治研究80号」に、奥田弘氏が「佐藤隆房『宮沢賢治』によれば」とある「70・10五版」は、すでに26年三月一日(合資会社冨山房発行)〈おそら4版〉に出版がなされていた。この〈4版〉本の発行日は、昭和26年3月1日で、年譜清六編で、出生日が8月27日と記されている。小倉さんが8月27日説を公表したのは、「昭和文学全集第十四巻宮沢賢治集が最初である」(洋々社宮沢賢治6)と記述しているが、27日誕生日を既に清六さんが決められて書かれていたのであった。
奥田氏の諸種の論も、確たる証拠の提出とは言い難い今日、賢治の誕生日も確実な証拠が無いのであるから、八月一日の戸籍上に正されたならばよかろうと思う。現在ならばたれの迷惑にも損失にもならないのであるならば、不確実にしておくよりもそろそろ啄木の年譜のように戸籍上の誕生に決められた方が良いのではと考えられる。
浜垣氏の「宮沢賢治詩の世界」は誕生日に付いて明快に記されている。コメント欄も必見である。
高村光太郎全集からではなく、随想より