ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

『宮澤賢治』のゴーストライター

2013年03月25日 | 随想・日記

   

           

     佐藤進著「賢治の花園」(地方公論社刊)に以下のように書かれています。

          父の冨山房版『宮沢賢治』

  私は幼少の頃、病弱でしたので、運動をさせるために書生さんを付けてくれました。飛田三郎さんという方でした。父はその方に口述して原稿を書かせておりました。それが昭和十七年九月に東京の冨山房から出版された『宮沢賢治』です。これは賢治さんの生涯を伝える最初の書籍となりました。90頁(以下略) 

 飛田は「宮沢賢治の読んだ本ー所蔵図書目録ー」の筆写稿と、文哺堂版『宮澤賢治全集』(昭9・10~10・9)刊行時の原稿浄書写をされた方であるが、宮澤家及び花巻に何時から何時まで居られたかについて、最近「みちのくの山野草」で、以下のように記されている。以下コピーでご覧いただくことにしたい。

・ 
《飛田三郎の略年譜》 
・明治42年生まれ。
・明治屋(関登久也の店)に勤める前は兵役に服していた。
・除隊になってからは明治屋に勤めていた。
・賢治没後にその遺稿の浄書等をした。
・「宮沢賢治蔵書目録」を作成(S9.10頃~S10.9頃までか)。
・昭和11?年4月 外川目の旭ノ又(ひのまた)小学校勤務。
・昭和11年5月1日、飛田自身編輯の『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行。
・昭和14年 台湾へ。7年間行っていた。
・昭和21年 花巻に戻り、その後再び小学校の先生になった。
・昭和22?年 大槌小学校着任。
・昭和23年3月『宮澤賢治研究1』に「思ひ出1」掲載。
・昭和 ?年 九戸葛巻町立小屋瀬小学校へ移動。
・山口小学校勤務(S27.4~S32.3の5年間)。
・矢沢小学校勤務(S32.4~S39.3の7年間)。
・寶閑小学校教頭(S39.4~S40.3の1年間)、退職。
・昭和44年8月『宮澤賢治全集別巻』に「肥料設計と羅須地人協會」掲載。  3039飛田三郎について(補足
 
ご覧のように昭和11年ころから十四年ころには「旭ノ又」小学校に奉職されてたようであるが、この「旭ノ又」小学校に勤めていたとしたなら、花巻の佐藤家へどのような交通手段で通われたのか疑問である。小山田くらいまでなら通えるが、外川目ではとても無理である。何れにしろどちらかが訂正される事であろう。
 
 
つづく
 

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