ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

菊と賢治

2011年11月20日 | 随想・日記

     

         最新菊の作り方 石井勇義著 誠文堂 昭和四年十一月五日 発行

 

  わが国のほまれと云へるこの花はとつくにまでもわたり行くらん

 上記は賢治作の「東北菊花品評会」の一句です。

 小沢俊郎氏の「新集 宮沢賢治全集」語註によると、『東北菊花品評会 昭和六年十一月、花城小学校(一部略)で開催。花巻の菊花同好会「秋香会」主催』と解説されております。

 同じ「新集」本の解説によると「句作品中心をなしているのは、昭和七年十月に花巻で開かれた菊花品評会 に寄せるために作られたといわれる(入賞花に吊るす短冊の句をたのまれたのである由)一連の作品」との事(378頁)なそうです。まあ六年でも七年でも良いのですが、こちらは直接賢治とは関係が無い本ですが、気になる本があります。

     実験花卉園芸 発行所 裳華房 (写真は下巻724~725頁)

 この本の「来歴」に、「日本に菊がはいってきたのは、三八五年(仁徳天皇七三)は、百済が菊種を貢納してからのことである」とされていますが、これは疑わしいのです。八世紀の万葉集には、多くの花がうたわれているが、キクについては一首もないそうです。四世紀に宮廷にキクが入ったのなら、万葉にうたわれていないはずはない。キクは奈良時代以後、平安期であろうということです。源氏物語になりますとキクはナデシコについで、多いとの事です。実験花卉園芸の書はおそらく賢治も使用されたであろうかと思われる本ですが、園芸実用書としては良書ですが、来歴については、いささか疑問な点がみられます。(この書は最近賢治研究者の論考にも引用されていました)

 ところで、キクは天皇家のシンボルとなったのは、近代以後の事で、維新当時、菊は栄える葵は枯るとうたわれていた。天皇家の紋章になったのは後鳥羽上皇の1185年の事だそうですが、近代では明治二年(1869)の太政官布告でさだめられてからである。

 このクリサンセマム(黄金色の花)も、昔から町民や農民に愛されてきた花ですが、わたくしは大輪の菊や菊人形のような人工的な菊ではなく、野におけるキクの花が好きです。また、農家の庭先には、どこの家にも植えられていたキクは、秋の日差しに映えて眩しいほどであった。

 

 追記 

  昭和五年十月二十四日 花巻温泉主催「県下菊花品評会」審査員依頼状がきたが、病中を理由に断り、出品者として応じる。  堀尾青史 年譜 宮沢賢治伝より

 ※ 「校本 全集13巻」596~597頁の校異の解説参照されたい。

  

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。